2017年12月31日日曜日

2017年 今年も一年ありがとうございました


 今年、2017年も、
 一年間、
 ありがとうございました。
 
 
 この一年も、
 津留さんを通して、
 
 たくさんの方々に、
 お会いすることができ、
 お話を伺うことがました。
 
 とても楽しく、
 そして、
 とても気づき・学びになりました。
 
 また、
 津留さんの商品をご購入くださった、
 ほんとうにたくさんの方々。
 
 みなさんとも、
 メールや商品を介してですが、
 繋がりを感じさせていただくことができ、
 
 また、
 津留さんのメッセージが、浄化という実践手段が、
 今の時代にこそ、また、
 意味を持って、求められているということ、
 
 それを、実感させていただきました。
 
 みなさん、
 ほんとうにありがとうございました。
 
 
 2017年、
 
 個人セッションや、
 交流会・ワークショップ・各地でのイベントを通じて、
 お会いできたみなさんは、
 のべ252名でした。
 
 また、
 個人セッションは、
 こちらに来ていただいた方、各地で受けてくださった方、
 合わせて、のべ125名でした。
 
 これで、
 これまでに、
 私たちの個人セッションを受けてくださった方々は、
 
 のべで、ちょうど、555名となりました。
 
 ほんとうに多くの方々のお手伝いができ、
 多くの方々に、津留さんの遺してくれたものをお伝えでき、
 そして、多くの方々から、お話を伺うことができ、
 
 なによりも、
 こちらが、
 学びとなり、気づきをいただけています。
 
 また、
 純粋に、
 嬉しいこと、楽しいことが、多いです。
 
 ほんとうに、ありがとうございます。
 
 
 個人的なことでいえば、
 
 2017年は、
 2月に、ハワイ島を訪れることができました。
 
 これは、
 感じるところ、想うところ、気づくことが、
 独特で、かつ、大きかったです。
 
 2016年になりますが、
 セドナおよびマウントシャスタを訪れた、
 その流れから、連なり、
 
 視野が広がったところがあったり、
 認識が変わったことがあったり、して、
 
 これからも、
 『生来の旅人』『生粋の旅人』として、
 いろいろな場所を訪問したいと思いました。
 
 
 また、
 2017年は、
 「浄化ワークショップ」を始めました。
 
 裕子さんが、
 「再誕生ワークショップ」を始めました。
 
 今後も、
 これらをブラッシュアップし、
 
 また、
 別の内容にも応用・発展させて、
 
 いままでと、(少し)違ったものも、
 お伝えできれば、と、考えています。
 
 
 そして、
 2018年。
 
 決まっているところでは、
 「うさと展」を始めます。
 
 年に数回の開催とはなりますが、
 これまでとは違った方々にも、お会いできることと、
 楽しみが募っています。
 
 その他にも、
 自然に湧いてくる範囲で、
 新たなことも、始めていくかもしれません。
 
 今年同様、
 また、これまで以上に、
 
 楽しい瞬間を重ねられることを、
 楽しみにしています。
 
 どうぞよろしくお願いします。
 
 
 それでは、
 改めまして、
 みなさん、
 
 2017年、この一年も、
 ありがとうございました。
 
 来る年も、
 どうぞ、よろしくお願いします。
 
 そして、
 どうぞ、よいお年をお迎えください。
 
 
  ひで









2017年12月29日金曜日

選択


 今年2月に、ハワイ島を訪れて、
 そしてはじめて、
 こころから納得できたことがあります。
 
 
 ハワイ島では、
 文字通り、
 大地が生まれていました。
 
 粘度の高い溶岩が噴き出し、
 海へ流れ出したものは、新たな陸地を生み出し、
 陸上に留まったものは、新たな表層を形成していました。

海に流れ込む溶岩

 それら、「新たに生まれた大地」は、
 漆黒の、固く、荒々しい、「岩」です。
 
 何年・何十年もの間、
 そのままの形状・形態のままに留まり、
 
 生物たちが近づき、居住することを、
 無慈悲なまでに、拒絶し続けます。
 
 
 しかし、やがて、
 そんな岩肌に、
 根を張り、生活を始めるものが現れます。
 
 細長い単葉の草たち、
 あるいは、シダ類、
 
 そして、今回、
 僕が目にして、心奪われ、感銘したのは、
 オヒア( Ohia )でした。
 
キラウエア火山火口(ハレマウマウ)で目にしたオヒアと、その花レフア

 
 ニュージーランドで、この初夏の時期に咲き誇り、
 地元の人々にとって、シンボルとも言える樹、
 ポフタカワ( Pohutukawa )と、親戚関係にあり、
 
 そんなことからも、
 はじめて目にした時から、
 とても親しみを感じた、オヒア。
 
 そんなオヒアが、
 レフア( Lehua )と名前の付けられた赤い花を携えて、
 
 漆黒の固い溶岩の上に、
 ひとり、ひっそりと、しかし健気に、
 たたずむ姿を、
 
 幾箇所かで、目にしました。
 
 
 さて、
 そんな、岩の上に根を張り、生を営み、
 
 やがて、その命を終え、サイクルを終え、
 その身体を横たえ、枯れ、朽ちていくと、
 
 続いて、
 その状態になって初めて、
 その場に、根を張り、生きることができる種類の植物たちが、
 そこで、生活を始めます。
 
 固い岩肌には、直接・いきなりは、住めないが、
 しかし、シダやオヒアなどの、第一世代が暮らした後ならば、
 
 彼らによって、岩肌を少し崩し・細かくされ、
 そして、彼らの根や幹・葉などの有機物が堆積された後ならば、
 
 その状態ならば、暮らせる植物たちが、
 次に、そこに生えます。
 
 そして、その彼らが、生涯を終えた後には、
 その状態になって初めて、暮らせる植物たちが、
 続いて、そこで生活を始めます。
 
 そんな変遷を、繰り返し、
 そんな連携を、紡ぎ、重ねることによって、
 岩が、土へと、変わって行きます。
 
 土壌が肥え、
 やがて、多種多様な植物が暮らせる土地になっていきます。
 
 実際、ハワイ島でも、
 降雨量の多い地域には、
 「ジャングル」とは行かないまでも、
 数種の樹木が密生しているような、
 緑豊かな、緑深い地域も、存在しています。
 
 そこでは、
 そのような、植物たちによる、
 「命の連携」が、
 脈々と、連綿と、繰り返され、
 
 その結果として、
 そのような環境が生み出されきたのです。
 
 
 さて、冒頭に申した、
 今回、はじめて、こころから納得し、理解したこと、
 というのは、
 
  その、「命の連携」によって、
  土壌が作られ、緑豊かになっていく
 という、
 「その部分」では、ありません。
 
 そのことも、含まれているのですが、
 それらを含めた上で、
 
  「その連携」が、
  『自然と』、営まれ、紡ぎ出されている
  
 という部分です。
 
 その連携が、
 誰かに命じられ、あるいは誰かに操作されて、
 なされているわけではなく、
 
 その植物、その植物、それぞれが、
 ただ、自分が生きることができる場所・環境で、
 ただ、生きると、
 
 それが、意図したわけではない結果として、
 自然と、続く種族のための環境を作り上げることになる、
 
 という部分です。
 
 その結果、
 地球表面が、進展し、豊かになり、
 数多くの種類の植物が、
 その結果、数多くの種類の生物・動物たちが、
 地表で、生きていけるようになる、
 
 という部分です。
 
 それが、
 『自然と』、
 行われているということ。
 
 その部分です。
 
 
 つまり、
 
  地球は、
  それぞれの生物が、ただ、生きていると、
  自然と、勝手に、豊かになっていくのだ
 ということ。
 
  生物たちは、その連なりとして、連携して、
  自然と、地球を豊かにしているのだ
 ということ。
 
 そのことです。
 
 
  「いやいや!
   この世は、『弱肉強食』だろ。
   生物たちは、捕食・被捕食関係にあって、
   それぞれ、利害が対立した関係だろ」
 
 先の話をお読みになられて、
 そう、お思いになられた方も、
 多数、いらっしゃることと思います。
 
  虫は、植物を食べ、
  鳥は、虫を食べ、
  草食動物も、植物を食べ、
  そして、肉食動物は、草食動物を食べる ...
 
  この世は、地球上は、
  強いもの・賢いものが、より弱いもの・愚かなものを、
  食べる・搾取する世界だ。
 
 たしかに、
 そう、見ることもできます。
 
 そして、
 その見方からすると、
 
 地上は、この世は、
  「殺し合い」「奪い合い」「競争」「努力」「生き残り」
 の世界です。
 
 
 一方、
 今回、僕が納得した見方では、
 
 では、
  それらの行為については、どのように見るのか
 というと、
 
 たとえば、
 「虫が、植物を食べる」のは、
 
 たとえば、
 植物の身体の部分の、「腐敗」してしまった部分を、
 虫が、食べてあげることによって、
 
 むしろ、
 植物の活動状態(健康状態)を維持・回復させてあげている、
 
 あるいは、
 草食動物が、腐敗した植物を食べないで済むようにしている、
 
 と、捉えます。
 
 
 あるいは、
 「草食動物が、植物を食べる」行為は、
 
 草食動物が、植物を食べ、消化し、
 糞・尿に変換することで、
 
 植物の推移によるだけの進展よりも、
 より早く、より効率的に、
 土壌の進化を進めることができる、
 
 と、捉え、
 
 また、
 「肉食動物が、草食動物を食べる」行為については、
 
 草食動物が、植物を食べ過ぎてしまい、植物が減り過ぎてしまい、
 かえって、土壌の進展が遅くなってしまうことを、防ぐとともに、
 
 草食動物の肉体を、食べ、消化し、
 より早く、より効率的に、
 土壌へと戻し、土壌を進展させるため、
 
 と、捉えます
 (肉食動物には、生きている動物を食べるものと、死体を食べるものと、居ます)。
 
 
 また、
 実際のところ、
 「弱肉強食」的な見方においても、
 
 たとえば、蝶や蜂といった虫たちが、
 植物の花の蜜を吸うという行為は、
 
 その行為の結果、
 植物たちの受粉が行われ、促され、
 その結果、結実し、
 その結果、当該植物の子孫が生まれ、世代が繋がる、
 
 と、
 捉えられていると思います。
 
 それぞれが、ただ、そのまま、生きることが、
 (ケースによっては、「長い目で見たときに、はじめて」ではありますが)
 それぞれが、それぞれを、助け合うことになり、
 
 それによって、すべての存在が、連携して、
 地上・地球という全体を、より豊かにする方向に進めている、
 
 と、
 認識されているものと思います。
 
 
 ですが、 
 いずれにせよ、
 
 このような見方においては、
 
 地上は、この世は、
  「共存」「共栄」「連携」「輝き合い」「そのまま」「循環・進展(における部分)」
 の世界です。
 
 
 さて。
 
 前振りが長くなりました、いつもながら ^^; ...
 
 この記事で、お伝えしたいことは、
 このあとの部分です。
 
  「それなら、
   『弱肉強食』と、『進展促進連携』と、
   どっちが正しい?」
 
 そう、思われませんでしたか?
 
  「正しい方を、知りたい」
 
 と、思われましたか?
 
 あるいは、
 
  「いや、そう言われたところで、
   『弱肉強食』としか、『生き残り』としか、
   思えないんだけど、
   じゃぁ、どうしたらいいんだ?
   それでいいの?」
 
 そう、思われませんでしたか?
  
 
 私たちは、「正しさ」を求めます。
 
 しかも、それを、『外側』に、求めます。
 
 しかし、
 今、この世には、
 
  「この世は、『弱肉強食』『生き残り』の世界だ」
 と思って生きている人もいれば、
 
  「この世は、自然に『連携』して『より豊かにしている』世界だ」
 と、思っている人もいるわけです。
 
 どちらの人も、
 この地球で、同じときに、生きているわけです。
 
  「どちらかの考え方をとらなければ、
   死んでしまい、生きていられない」
 というわけではありません。
 
 だからこそ、両者が居るわけです。
 
 
 500年ほど前まで、
 私たちは、
 「地球の周りを、太陽が動いている」
 と認識して、
 
 生きていました。
 
 それで、
 生きていてることができました。
 
 それで、
 何も、問題はありませんでした。
 
 今、そのように認識している人は、
 おそらく、ほとんど、居ないと思いますが、
 
 しかし、
 当時(それ以前)の人々は、
 
 そう、認識していることで、
 何も問題なく、生きていました。
 
 
 あるいは、
 「地球は平面だ」と、
 そう、認識して、
 
 そのうえで、
 何も問題なく、生きていました。

 
  「地球のほうこそが、動いているのだ」と、
  「地球は、球体・球面だ」と、
 そう、認識しないと、
 生きていられないわけでは、ありません。
 
 
 また、
 今の、この、
  「地球のほうこそが、動いているのだ」
  「地球は、球体・球面だ」
 という認識にしたところで、
 
 それが『正しい』のかどうか、分かりませんよね。
 
 たとえば、
  「すべては、映像だ、ホログラフィだ」
 という認識が、
 正しいとされ、一般化されたときには、
 
 今の認識は、
 前近代の、旧い、誤った認識であると、
 みなが、鼻で笑うことでしょう。
 
 
 ただ、
  「太陽が廻っている」
 と認識するのと、
 
  「地球が廻っている」
 と認識するのとでは、
 
 体験する事柄が、違います。
 
 同様に、
 
  「弱肉強食の地球」
 という認識を持って生きるのと、
 
  「進展促進連携の地球」
 という認識を持って生きるのとでは、
 
 体験する事柄は、違います。
 
 体験し、感じる、感情・感覚は、違います。
 
 ただ、
 それは、
  「どちらが、正しいか?」
 の問題ではありません。
 
  「どちらを、自分は、選択するのか?」
 の、問題です。
 
 
 ぜひ、ここで、
 改めて、
 津留さんのメッセージ集の「 選択 」を読んでみてください。
 
 
  「想っているとおりを、体験する」
 のだとしたら、
 
 私たちは、
 
  外の世界にある、客観的事実としての「正しいこと」
 を、
 体験するのではなく、
 
  自分の内側で、「正しい」としたこと
 を、
 体験するのです。
 
  自分が、自分の内側で、「正しい」とラベルを貼ったこと
 を、
 体験するのです。
 
 であれば、
 津留さんが言っているとおりに、
 
 どうぞ、
  「あなたにとって都合のいい考え方を選び取ってみて」
 ください。 
 
 
 あと数日で、
 2017年が終わります。
 
 来る年からは、
 もう、「正しさ」「正解」を探すことは、
 ご一緒に、終わりにしませんか?
 
 私たちは、
 もう、充分に、十二分に、
 『正しさゲーム』を、体験したのではないでしょうか?
 
 
 『正しさゲーム』は、
 奥の深い、ゴールの無い、
 極めて『面白い』『複雑な』ゲームです。
 
 それによってしか味わえない体験・感覚に満ちた、
 極めて『魅力的』なゲームです。
 
 しかも、
 それを(基本的に)参加者全員で体験する、
 ということを、行ってきました。
 
 それでこそ、はじめて、体験できること、味わえることを、
 味わうことが、できてきました。
 
 それは、
 私たち全員(集合意識としての人間)にとっては、
 極めて『魅力的』で、
 
 恋い焦がれて、渇望した果てに、
 望んで、体験して来たことです。
 
 そのことは、認めます。
 
 
 ですが、それらは、
 もう、散々に、味わってきました。
 
 よね?
 
 
 もし、そう思われる方は、
 そう思われた方から、
 ご一緒に、
 
 今度は、
 『選択ゲーム』を、プレーしませんか?
 
 攻略法や、コツ・ポイントなどは、
 ぜひ、シェアし合いましょう!
 
 
 そんな2018年にしていこうと、
 僕は、思っています。












2017年12月22日金曜日

季節外れの、宿敵来訪


 夜中。
 
 突然の違和感に、目を覚ましました。
 場所としては、右頬に、それは在りました。
 
 夢うつつの中で、その違和感を、感じてみます。
 
 その感覚は、
 非常にゆっくりと、少しずつ、明確な感覚に変わっていきましたが、
 それでも、それが「何」の感覚かのか、なかなか、探り当たりません。
 
 というのも、
 とにかく分かるのが、
 「最近感じていない」感覚であり、
 かつ、「睡眠中に感じることの無い」感覚である、
 ということ。
 
 そのまま、意識を向け続けると、
 ようやく、
 「もしや?」という案が、一つ、出てきました。
 
 自分で出しておきながら、
 しかし、あまりにも唐突な、その案に、
 訝(いぶか)しげに、指を、違和感の在る場所に運びます。
 
  「え? やっぱり ... 」
 
 脹(ふく)れたその箇所を触りながら、
 自ら出した案を受け入れるべきなのだなと、思っているとき、
 
 右耳に、その思いを確信させる、
 聞き慣れた音が、届きました。
 
  「ブ〜〜ン」
 
 蚊でした。
 
 
 明かりをつけます。
 
 時計は、1時50分を指しています。
 
  「あ、ほぼ冬至だ」
 
 まだ、虚(うつ)ろな頭ながら、
 記憶が一つ、あがりました。
 
 東京の冬至時刻は、1時28分だと、
 昼間に、見ていました。
 
  「冬至に、蚊に刺された」
 
 だんだんと、はっきりとしてきた痒(かゆ)みに、
 頬を指で摩(さす)りながら、
 
 その、奇妙な出来事を、
 人生で初めての体験を、
 その感覚を、
 
 半ば呆(あき)れ、
 半ば笑いながら、
 味わい、受け入れていました。
 
 
 その後、
 蚊は、
 
 布団の、ピッタリ目の前の場所に止まり、
 僕に、姿を確認させてくれました。
 
 蚊に刺されたことは、
 間違いありませんでした。
 
 
 このブログをお読みくださっている方は、
 ご存知だと思いますが、
 
 僕にとって、
 蚊は、
 
 とてつもなく、強大・強烈な、存在感を有していて、
 そして、極めて重要な、「浄化対象」です
 
 (よろしければ、過去記事「 」「 蚊、再び 」をお読みください)
 (また、津留さんが、蚊について言っていたことについては、
  過去記事「 蚊とか蜂とか 」をお読みください)。
 
 その、蚊が、
 「冬」という季節の、最重要な節目である、
 「冬至」に現れ、
 
 そして、
 刺してきた。
 
 
  「僕にとって、『蚊』とは、何なのか?」
  「なぜ、そこまで、『蚊』が嫌なのか? 嫌いなのか?」
 
 徐々に明確になって来た、
 意識の中で、
 
 改めて、その設問を、
 自分の中に、深〜く、落としました。
 
 
 得られた答えは、
 気づいてみれば、
 僕にとって、明白なものでした。
 
  「『迷惑』な存在だから」
 
 
  迷惑なこと。
  迷惑・負担をかけること。
  自分勝手なこと。
  わがままなこと。
 
 
 やはり、
 僕が、大嫌いな事柄です。
 
 それをする、外側の存在を、
 好みませんし、
 
 自分が、それをすることは、
 なおさら、認めていません。
 許していません。
 
 
  「その想いを、今後も、持ち続けていくのか?」
 
 自分で、自分に、問わざるを得ませんでした。
 
 
  「いいや、もういいんじゃない?」
 
 答えは、
 当然のように、すんなりと、出てきました。
 
 
 新年は、
 ここに、向き合うことになりそうです。











2017年12月21日木曜日

「自信がない」とは 2


 先日、
 「自信がない」ということについて、書きました
 (過去記事「 「自信がない」とは 」)。
 
 そこでは、
 
  「自信がない」とは、
  
  「自分の感情(感情体・内側)」が、
  「自分(の行動判断主体)」に対して有している、
   不信感。
 
 と、書きました。
 
 今回は、
 その補足、と言うか、
 少し、書き加えさせていただきます。
 
 
 私たちには、誰しも、
 内側に湧き上がる「想い」とか、「感情」が、
 ありますよね。
 
  「あぁ、これ、やってみたいなぁ」
  「今は、これ、やりたくないなぁ」
  「あぁ、怖いよぉ」
  「ダメだよ、できないよ!」
 
 自然と湧いてくる「本音」など、
 自分の中の、
 「とても素直な反応」の部分です。
 
 その、「素直な反応」に対して、
 
  「それを監視する」
  「それに意見する」
  「それを律する」
  「そして、行動を決める」
 
 主体であるような、
 そんな存在も、居ますよね。
 
  「そんなことを『やってみたい』なんて、夢みたいなことを言うな」
  「それを『やりたくない』なんて、甘えたこと言うな」
  「『怖い』なんて、それでも大人か!」
  「『できない』なんて、言ってられないんだ。 さあ、やれ!」
 
 そう、自分を監視し、自分を律し、
 そして、判断・決定を下し、
 そして、自分自身を行動させる、
 
 そんな主体である存在も、居ますよね。
 
 
 以下では、
 前者の、想い、感情、本音、素直な反応の部分を、
 『感情』と、
 
 それに対する、後者の、
 監視し、律し、判断・決定し、行動する部分を、
 『意思』と、
 
 そう、呼んでみましょう。
 
 
 さて、
  「自信がない ... 」
 そんな感覚を感じるシチュエーションというのは、
 
  「何かをしよう!」「しなきゃ」「するべき」「できるといいな」
 そう、思うんだけれど、
 
 でも、
  「うまくできるかなぁ ... 」「不安 ... 」「心配 ... 」
 と感じる、
 
 その結果、行動できない、
 あるいは、行動できたとしても、ビクビクしながら、
 
 そんな状況ですよね。
 
 それは、
 先の言葉を使えば、
 
  「自分の『意思』」が、
  「しよう!」「するべき」と、思うんだけど、
 
  「自分の『感情』」が、
  「不安 ... 」「心配 ... 」と、感じている
 
 その結果、
  行動できない。
 あるいは、
  行動できたとしても、不安・心配なまま。
 という状況、
 
 と、言えると思います。
 
 
 『意思』が、
 「しよう!」と思ったとき、
 
 『感情』が、
 「やってみたい」と感じていたら、
 
 そのときには、
 「自信がある」と、感じていると思います。
 
 いえ、
 この状況だと、
 
 まず先に、
 『感情』が、
 「やってみたい」と感じて、
 
 それに対して、
 『意思』も、
 「OK! よし、やってみよう」と、思っている、判断している、
 
 基本的には、
 そんな状況だと、思いますが、
 
 いずれにせよ、
 そんなときには、
 『総体としての自分』は、
 「自信がある」と、感じていると思います。
 
 この状況は、
 ほとんどの人にとって、
 「自信がある」と、感じられているシチュエーションでしょうから、
 問題ありませんよね。
 
 
 問題なのは、
 というか、
 ここで話題としているのは、
 
 『意思』が、
 「しよう!」と思ったとき、
 
 『感情』が、
 「いやだ」「できない」「不安 ... 」「心配 ... 」と感じているけれども、
 
 でも、
 それでも、行動できるかどうか。
 
 あるいは、
 そんなときにでも、
  「いや、でも、大丈夫」
  「どうにかなるはず」
  「とにかく、やってみよう」
 と、
 思えるかどうか、
 感じられるかどうか、
 
 だと、思います。
 
 そこが、
 ポイントですよね。
 
 そして、
 そう、思えることを、
  「自信がある」
 と、言っていて、
 
 そう、思えないことを、
  「自信がない」
 と、呼んでいるのだと思います。
 
 
 では、
 そのような状況で、
 そう、思えるのか、思えないのか、
 
 その二つを、
 分けているものは、何なのでしょうか?
 
 違いは、何なのでしょうか?
 
 
 それには、
 二つ、あると思います。
 
 
 まず一つは、
  「いやだ」「できない」「不安 ... 」「心配 ... 」
 と感じる、
 
 その、『感情』の、
 大きさ、重さ、強さ、多さ、量。
 
 それが、多ければ、大きければ、強ければ、
 やはり、なかなか、
  「でも、大丈夫」
  「やってみよう」
 とは、
 ならない、なりにくい、と思います。
 
 これは、
 分かりやすいですよね。
 
 これは、
 すでに、認識、ご自覚なさっていると思います。
 
 そして、
  「だから、どうにもできない」
 と、
 お思いかもしれません。
 
 ですが、
 この場合には、
 どうぞ、その『感情』の感覚を、
 浄化なさってください。
 
 そうすれば、
 少しずつ、ゆっくり、だとは、思いますが、
 その、大きさ・重さ・強さ・量は、
 減ってくると思います。
 
 今回は、
 ここがポイントではないですし、
 
 このことは、
 浄化をご存知であれば、
 お分かりいただけやすいことだと思うので、
 
 ここでは、以上で終わりとし、
 以下は割愛させていただきます。
 
 
 問題は、
 もう一つのほうです。
 
 『感情』の感じている、不安や心配の、
 その強さや量のことは、置いておいて、
 
 『感情』で、心配や不安を感じていながら、
 でも、それにもかかわらず、
 「やろう」と、思えているとき。
 
 つまり、
 「自信がある」と感じられているとき。
 
 そうなっているとき、
 あるいは、
 そうなっている「人」の場合、
 
 そこでは、
 何が起こっているのでしょうか?
 
 
 結論を先に言えば、
 そのとき、起きているのは、
 
  「やろう」という『意思』に対して、
  
  「やりたくない」「不安」という『感情』が、
 
  歩み寄っている、
  妥協している、
  あるいは、協力してくれている
 
 ということです。
 
 「やろう」という『意思』に対して、
 
 『感情』は、
 
  「やりたくない」「不安」
 と、
 感じたものの、
 
  「でも、大丈夫かも」「やってみようか」
 と、
 
 『意思』側に、
 歩み寄ってくれている、協力してくれている、
 そんな状態です。
 
 
 「自信がない」ときには、
 
 『感情』が、歩み寄ってくれません。
 『感情』が、協力してくれません。
 
 だから、
 『意思』の、「やろう」という想いが、
 孤立してしまっています。
 
 それこそが、
 「自信がない」の感覚です。
 
 
 それに対して、
 「自信がある」ときには、
 
 『感情』は、
 最初、自然な、本音としての反応としては、
 「怖い」「嫌だ」と感じていますが、
 
 しかし、その後、
 自分の想いは、置いておいて、
 『意思』の想いを尊重し、
 
 『意思』の方側に、歩み寄り、
 『意思』の想い実現のために、協力をしようとしてくれているのです。
 
 それが、
  「でも、大丈夫かも」「やってみようか」
 という、
 『感情』の、想いです。
 
 その結果、
 『意思』の、「やろう」という想いが、
 孤立していません。
 
 『感情』が、サポートに付いてくれているからです。
 『感情』が、バックアップしてくれているからです。
 
 それが、
 「自信がある」という感覚です。
 
 
 では、
 
 『感情』が、歩み寄り、協力してくれる、
 「自信がある」場合と、
 
 『感情』が、歩み寄ってくれず、協力してくれず、
 「自信がない」場合と、
 
 では、
 何が違うのでしょうか?
 
 どうして、
 『感情』が、歩み寄り、協力してくれる場合、というか、「人」と、
 歩み寄ってくれない、協力してくれない、「自信がない」人とが、
 居るのでしょうか?
 
 その違いは、何なのでしょうか?
 
 
 それは、
 先の記事で書いたとおり、
 
  普段、日ごろ、
  『意思』が、『感情』を、
  無視せずに、否定せずに、ちゃんと、扱っているか
  
  あるいは、
  否定し、無視し、無かったことにしているのか
  
 の、違いです。
 
 この、
  「普段における、『意思』の、『感情』に対する、扱い・接し方」
 が、
 違いです。
 
 
 普段、『感情』は、
 さまざまなことを、感じています。
 
 その中には、
 もちろん、ポジティヴな感情・感覚を感じることもあれば、
 
 あるいは、
 ネガティヴな感情を感じることもあります。
 
 例えば、
 そんな 、ネガティヴな感情を感じたとき、
 
 最初に書いた例であれば、
  「今は、これ、やりたくないなぁ」
  「あぁ、怖いよぉ」
  「ダメだよ、できないよ!」
 などの、
 感情・感覚を感じたとき、
 
 そんなとき、
 『意思』が、
 
  「それを『やりたくない』なんて、甘えたこと言うな」
  「『怖い』なんて、それでも大人か!」
  「『できない』なんて、言ってられないんだ。 さあ、やれ!」
 と、
 強烈に、否定していたり、ダメ出ししていたり、
 
 そのうえに、
 その『感情』を無視して、行動を強要していたり、
 
 普段、日ごろ、これまで、
 そのように、扱っていると、
 
 『感情』は、
 『意思』に対して、
 信頼感を持っていません。
 
  「自分のことを、尊重してくれない」
  「自分のことを、否定している」
  「自分のことを、無視する」
 と、
 
 『感情』は、
 『意思』に対して、
 不信感を持っています。
 
  「そのうえに、『自分の想い』に反した行動を、強要される」
  「無理やりに、支配してくる、管理してくる、コントロールしてくる」
 と、
 
 『感情』は、
 『意思』に対して、
 反発心を持っています。
 
 「敵意」すら、持っているかもしれません。
 
 
 そんな状況で、
 『感情』が、
 『意思』に、
 
 「歩み寄ろう、協力しよう」とは、
 思わないですよね。 
 
 
 ネガティヴな感情だけでなく、
 ポジティヴな感情であっても、
 
 最初の例であれば、
  「あぁ、これ、やってみたいなぁ」
 というような、
 想いであっても、
 
  「そんなことを『やってみたい』なんて、夢みたいなことを言うな」
 と、
 
 『意思』は、
 『感情』の想いを、否定し、拒否し、無視します。
 
 
 そんなことを、積み重ねられて来た、
 『感情』たちが、
 
 『意思』に協力せず、
 ときに、反発したとしても、
 不思議ではない、ですよね。
 
 
 また、
 先ほど、「『自信がない』理由の一つ目」として、区別した、
 「『感情』が大きすぎる、強すぎる」ケースも、
 
 『意思』が、
 
  「そんな感情を、感じてはいけない。 感じていては、いけない」
  「そんな『自分』では、いけない」
 と、
 
 『感情』のことを、
 否定し、無かったことにして来たからこそ、
 
 それだけ、大きく、強く、重く、
 溜まっているわけですね。
 
 
 つまり、
 「自信がない」理由は、
 
  『意思』が、
  『感情』を、
 
  否定し、無視し、無かったことにしている。
  (そのうえで、強要・支配・コントロールしている。)
 
 だから、
 ということになります。
 
 
 なので、
 
 「自信がない」から脱却するためには、
 「自信がある」に近づくためには、
 
 その反対をすること。
 
 つまり、
 
  『感情』を、
   否定しない
   無視しない
   無かったことにしない
   強要しない
   支配しない
 
 ということになります。
 
  『感情』に、
   寄り添う
   認める
   受け入れる
   理解する
 
 ということになります。
 
 『意思』が、何かをする、という場合であれば、
 
  「支配・コントロールし、命令し、強要する」
 のではなく、
 
  「理解・納得してもらい、協力してもらう」
 のです。
 
 
 日ごろから、
 『感情』が、何かを想い、感じたら、
 
 それを、
 頭ごなしに否定したり、
 無視し、無かったことにする、のではなく、
 
 ちゃんと、
 その「存在」に気づき、認め、認識し、
 
 その想うところ、感じるところを、
 理解してあげ、寄り添い、分かってあげること。
 
 そのうえで、
 それに対して、
 『意思』側の想いを、感じるところを、
 きちんと、伝えてあげること。
 
 「認める」「受け入れる」といっても、
 盲目的に従う、というわけではありません。
 
 しかし、かといって、
 頭ごなしに否定したり、無視する、というわけでもありません。 
 
 また、
 「伝える」といっても、
 従わせるため、命令するために、伝えるわけではなく、
 
 尊重し、敬意を払い、
 対等な関係として、認め合う、
 
 その関係を構築するために、
 『意思』側も、その想いを、ただ、伝えるのです。
 
 
 こうしていることによって、
 両者の信頼関係が構築されていれば、
 
 『感情』は、
 『意思』の想いに、
 歩み寄り、協力するケースが、出てきます。
 増えていきます。
 
 もちろん、
 「すべてのケースでそうする」ということは、無いでしょうが、
 
 歩み寄り、協力するケースが、
 増えていきます。
 
 「自信がない」感覚が減り、
 「自信がある」感覚が、増えていきます。
 
 
 そのとき、
 『意思』と『感情』が、
 分離していません。
 
 それらが、
 「共同体」として、融合しています。
 
 
 「自信がない」とき、
 「『意思』が孤立している」と、言いました。
 
 『意思』が分離し、孤立しているのです。
 
 いわば、
 『自分』が分裂し、
 『自分』が、小さくなっているのです。
 
 「『総体としての自分』が小さい」から、
 「自信がない」と感じられるのです。
 
 つまり、
 「自信がない」とは、
 
  「『総体としての自分』が小さい」こと
  「『総体としての自分』が小さい」ときに感じる感覚
 
 とも、
 表現できます。
 
 
 逆に、
 「自信がある」とは、
 
 『自分』の分裂が、少ないこと、小さいこと、
 その結果、
 「『総体としての自分』が大きい」こと(「『自分』が小さくない」こと)、
 「『総体としての自分』が大きい」(「『自分』が小さくない」)ときに感じる感覚
 
 と、
 言うことができます。
 
 
  どんなに弱い自分が居ても、
  どんなにネガティヴな自分が居ても、
 
  それを無視せず、
  その存在を、きちんと認め、
  その想いを、声を、聞いてあげ、分かってあげ、
 
  そのうえで、
  できうる行動を、日々、とること。
 
 
 「自信がある人」というのは、
 
 弱い自分を無視し、振り払い、
 強引に、行動している人、
 ではなく、
 
 おそらく、
 そんな行動を、自然と、できている人、
 なのだと、思います。











2017年12月8日金曜日

「ゲーム」を選択する


  「あぁ、その『ゲーム』、してないなぁ」
 
 あるとき、
 内側で、そう、つぶやいていたことがあります。
 
 
 その日は、
 昼どきに、街中に居ました。
 
 人ごみの中を、ゆっくりと、歩いていると、
 背後に、かなり大きめな声でやり取りをしている、
 女性グループが、近づいてきました。
 
 会話の内容を把握できるくらいに、近づいてきたとき、
 最初に認識できたのは、
 こんなやり取りでした。
 
  「いやぁ、でも、それは、カロリー高すぎない?」
  「そうねぇ。 じゃぁ、何にするぅ?」
 
 おそらく、
 これからする、ランチを、
 何にするか、話し合っていたのでしょう。
 
 聞こえませんでしたが、
 何らかの案が提示され、
 
  それだと、「カロリーが高すぎる」から、
  それにすると、「太ってしまう」から、
  なので、別のものにしよう
 
 そのようなやり取りを、していたもの、
 と、理解しました。
 
 
 僕は、
 学生時代に、かなり太っていた時期があり、
 
 それゆえに、
 青春時代から、青年時代を 通じて、
 そのことには、人一倍、敏感で、過敏で、
 
 「体型」「カロリー」という項目は、
 そのころの僕にとっては、
 最重要項目の一つ、でした。
 
 なので、
 彼女たちが、食事にあたって、
  「カロリーが、高いか、低いか」
  「太りやすいか、どうか」
 を基準とする気持ちは、
 よ〜く分かります。
 
 
 ですが、
 押しも押されぬ「おじさん期」に入り、
 
  食べても、さほど、太らない
  いえ、そもそも、もう、さほど食べられない
  いえいえ、そもそも、もう、太ったところで、気にならない
 
 という状況になり ^^; 、
 
  「太るかどうか」「体型」
  「カロリーが、高いか低いか」「カロリー」
 
 という観念・項目、そのものが、
 気になる事項としては、
 自分の中に、反応を起こす事項としては、
 もう、存在していません。
 
 
 もちろん、
 僕と同年代や、僕より高齢の方でも、
 「体型」や「カロリー」のことを、
 気にされている方は、いらっしゃると思います。
 
 ですので、
 僕の場合には、
 
  「それらのことを気にする」という体験を、
  さんざん、やり尽くした
 ということ、
 
 そして、
  その、やり尽くしたことを通じて、
  それらのことが、ニュートラルになった、フラットになった
 
 ということのだと、思います。
 
 つまり、
 
  実体験を通じて、
  それらを、体験し尽くした
 ということ。
 
  そして、そのような体験を通じて、
  それらのことが、浄化できた
 ということ。
 
 なのだと思います。
 
 
 津留さんは、
  「地球人間ゲーム」
 という表現を、とりました
 (覚醒進化プログラム「 人生はゲームである 」)。
 
 私たちは、人間として生きている間、
 「人間を体験する」ゲームをしている、
 という見方です。
 
 遊びとして、ゲームとして、楽しみとして、
 人間をしている、という考え方です。
 
 その見解においては、
 私たちは、
  「地球という場において、人間をしている」
 という部分においては、
 共通のゲームをしています。
 
 『スーパーマリオ』ゲームにおいて、
 みなが、「スーパーマリオとして、ピーチ姫を助ける」
 という部分と、同じように。
 
 
 ですが、
 同じ、『スーパーマリオ』ゲームをしていても、
 
 ある人は、
  「どれだけ早く、クリアーできるか」
 を、目標にしていたり、
 
 あるいは、ある人は、
  「どれだけ高得点をあげて、ゴールするか」
 を、競っていたり、
 
 また、ある人は、
  「一度も死なずに、ゴールすること」
 を、目指していたり、
 
 同じゲームをプレイしていても、
 人、それぞれに、
 「副次目的」と言いましょうか、
 「付加的目的」と言いましょうか、
 
 共通項である「主目的」とは違う、
 別の目標を持っている場合があります。
 
 
 そうすると、
 その、付加的な目的次第で、
 プレーの仕方が、気にする項目・内容が、違い、
 
 同じゲームながら、
 違うゲームをしているように、
 楽しむことができます。
 
 さらに、
 人によっては、そもそも、
 「ピーチ姫を助ける」という共通項・主目的を、
 端(はな)から、念頭に置いていなかったりも、すると、
 
 「同じゲーム」とは、言えないくらいに、
 それぞれに、独自の、
 楽しみ方をすることができます。
 
 
 先の、
 津留さんのメッセージでは、
 「将棋」を事例にして、
 
  「制限・制約を、自ら、わざわざ、持つことによって、
   ゲームを、面白くし、楽しんでいる」
 
 と、書かれていますが、
 
 同じように、
 『スーパーマリオ』ゲームの例では、
 
  「目的を、自ら、わざわざ、付加することで、
   ゲームを、さらに面白くし、楽しんでいる」
 
 と、言えると思います。
 
 制限や、制約事項、付加目的を、持つことで、
  「できないこと」「してはいけないこと」
  「すべきこと」「しなければいけないこと」
 が、生まれ、
 
 それらが、増えれば増えるほど、
 ゲームは、複雑さを増し、
 同時に、面白さも増えます。
 
 
 ところが、
 その『面白さ』は、
 その、『複雑さ』から、生み出されており、
 その、『難しさ』から、生み出されています。
 
 『複雑さ』が、増せば増すほど、
 『難しさ』が、増し、
 
 それを、「望んでプレーしている」という意識からは、
 『面白さ』も、増し、
 
 加えて、
 「それをクリアーできたとき」の『面白さ』、喜びも、
 激増します。
 
 
 ところが、
 この、『地球人間ゲーム』においては、
 
 このゲームを、
 「自ら、望んでプレーしている」んだ、という認識は、
 そもそも、ありません。
 
 これが、『ゲーム』なんだ、という認識も、
 ありません。
 
 そうなると、
 そこにあるのは、
 単に、『難しさ』であり、
 単に、『複雑さ』です。
 
 「クリアーできたときの『面白さ』」を、
 純粋に、そして、積極的に、
 味わっている人達も、確かに、居ますが、
 
 『面白さ』も、喜びも、感じることができず、
 ただただ、『難しさ』に、『複雑さ』に、
 埋没してしまっている方々も、
 多数、存在します。
 
 
 そんなとき、
 まず、役に立つのが、
 
  「そういう『ゲーム』をしているんだ」
 という観念を、見地を、
 一度、試しに、持ってみることです。
 
 もし、それに続いて、
  「しかも、それは、『自ら望んで』、しているんだ」
 と、思えてしまったなら、
 さらに、話は早いのですが、
 
 そこは、置いておいたとしても、
 
  「だったら、自分は、『どんなゲーム』をしているんだ?」
 と、
 自分がプレーしているゲームを、
 明確化・特定化していくことです。
 
  『目的』としていること
  『制限・制約』としていること
  「できないこと」「してはいけないこと」
  「すべきこと」「しなければいけないこと」
 
 自分の中には、それらに関して、どのようなものがあるか、を、
 一つずつ、チェックし、
 一つずつ、気づいてあげることです。
 
 
 無自覚に、無意識に、
 プレーしているゲームを、
 参加しているゲームを、
 
 一つずつ、特定していくことです。
 
 それによって、
 すこしずつ、混乱が減り、
 すこしずつ、複雑さが減り、
 すこしずつ、はっきりしてくること、スッキリしてくることがあります。
 
 そして、そのうえで、
 
  「自分は、それをプレーする必要があるのか?」
  「自分は、そこに参加したいのか?」
  「自分は、このゲームを続けたいのか?」
 と、
 
 一つひとつの、ゲームについて、
 その参加を、継続を、中止を、
 検討・検証することです。
 
 これまでは、
 無自覚に、無意識のうちに、
 参加し、プレーしていたゲームだけれど、
 
 でも、明確に認識してみれば、
 「それをプレーする必要は無い」とか、
 「かつては、そうしたかったけど、今はもう、止めよう」とか、
 そのような決断が、できてくるはずです。
 
 それを、
 ご自分の意思で、はっきりと、なさってみてください。
 
 そうすれば、
 この、混沌として、複雑で、困難極まりない、
 「自分の周りの環境」が、
 「自分の置かれた状況」が、
 
 すこしずつ、シンプルになり、
 すこしずつ、分かりやすくなり、
 すこしずつ、解きやすくなる ...
 
 そんなサイクルが、
 始まってくるものと思います。
 
 
 
 まとめてみます。
 
 私たちは、
 「地球人間ゲーム」をプレーしていると、認識してみた場合でも、
 
 いくつもの、ミニゲームが、組み合わされた、
 「総体としての『地球人間ゲーム』」をプレーしている、
 と、
 言うことができます。
 
 その場合、それぞれの組み合わせは、
 一人ひとり、それぞれに、異なっていて、
 
 実は、それぞれが、それぞれに、
 独自のゲームを、プレーしています。
 
 それが、
  「一人ひとり、違う『宇宙』に住んでいる」
 という、
 津留さんの言葉の、
 一つの意味になりますが、
 
 そのとき、
 それら、ミニゲームの組み合わせは、 
 自ら、選択することができます。
 
 それによって、
 『総体としてのゲーム』の、難しさや、面白さを、
 自ら、調節することができます。
 
 そうするためには、
 まず、一つひとつの(ミニ)ゲームに、気づいてあげること、
 そして、それらを、自ら、取捨選択すること。
 
 捨てる(止める)ためには、
 その項目に関して、
 フラットになること、ニュートラルになること、
 「どっちでもいい」「どうでもいい」となること。
 
 そのためには、それに近づくためには、
 (当初の目的どおりに)
 プレーし尽くすこと、体験し尽くすこと。
 
 ですが、
 もし、それが辛ければ、たいへんであれば、
 
 津留さんが遺してくれた『浄化』を、ご活用していただけても、
 そこに、近づいていくとこができると思います。










2017年12月7日木曜日

酸素マスク


 ここのところ、
 年に数度、飛行機に乗っています。
 
 僕がよく利用する、航空会社では、
 離陸前に、「緊急時の対応」の説明がありますが、
 
 そこでは、
 酸素マスクに関して、
 次のような説明がされます。
 
  「まず、ご自分の酸素マスクを付けてから、
   お子さまや、周りの方の、マスクを付けてあげて下さい。」
 
 
 はじめて、それを耳にしたとき、
 ちょっと、びっくりしました。
 
 自分の「知識」「基準」「考え方」「価値観」とは、
 逆だったからです。
 
  自分よりも、
  子どもや、身体の不自由な人など、
  補助が必要な方への対処が、まず、先だ
 と、
 認識していました。
 
 
 でも、その、初めて聞いたとき、
 驚きはしましたが、
 反発は感じず、
 
 むしろ、
 すぐに、納得し、
 さらに、感心しました。
 
 確かに、
 まず、自分の身体の保全が図られたほうが、
 より多く、他の人々を助けることが、できるはずです。
 
 とても合理的だと、納得しました。
 
 むしろ、
 自分の、それまでの考え方のほうが、
 
 ある種、「道徳的」なものであり、
 比較すれば、非合理的なものであると、思いました。
 
 
 
 津留さんのメッセージも、(ある意味では)例外ではなく、
 多くのスピリチュアルな教えや、アドバイスでは、
 
 『エゴ』を、
 
 悪者であったり、厄介者であったり、
 不要なもの、無くすべきもの、消し去るもの、
 そのように、捉えているものと、認識しています。
 
 もちろん、
 確かに、そのように捉えることも、
 当然であり、とても自然なことかもしれません。
 
 
 ですが、
 僕は、
 
 『エゴ』というのは、
 ただ、立脚点や、方向性が、違うだけの、
 
 ただ、特殊な存在なだけのものと、
 認識しています。
 
 
 先の、機内アナウンスの例で言えば、
 『エゴ』は、
 とても、合理的なのだと思います。
 
 『エゴ』は、
 何も「自分だけ」と、思っているわけではないと、思います。
 
 「自分が先」「自分を優先」なだけ、で、
 「自分だけ」「自分さえ」なわけではない、と、思います。
 
 
 『エゴ』だって、
 最終的に、目指す場所は、目指すことは、
 同じで、
 
  「みんなが、幸せに」
 
 なのだと、思います。
 
 ただ、そのときの、
 方向性が、志向性が、立脚点が、
 ちょっと、特殊で、
 
  「そのために、まず、自分が」
  「そのためにこそ、まず、自分が」
 
 という、
 
 スピリチュアルな、「博愛」的価値観からは、
 最終地点の、「みんなが ... 」からは、
 
 一件、「逆」な、アプローチなので、
 
 そのために、
 違和感を持たれたり、
 反感を持たれたり、
 誤解を受けているだけで、
 
 『エゴ』にしても、
 最終的に目指しているものは、
 同じなのだと、思います。
 
 
 球面を、どの方向に進んで行こうが、
 最終的には、同じ地点に、たどり着くように、
 
 『エゴ』だって、
 目指しているところは、たどり着くところは、
 同じで、
 
 ただ、
 方向が逆で、
 経路が独自、
 なだけなのだと、思います。
 
 
 だとすれば、
 だからこそ、
 それを、
 「北風方式」で、
 
 良くないものと、邪魔なものと、あるべきでないものと、
 吹き飛ばそうとするよりは、
 
 「そうだよね」「ありがとうね」「おつかれさま」と、
 労い、感謝し、共感し、理解してあげるべきものだと、
 感じています。
 
 いえ、
 そもそも、
 「無くそうとする」べきものなのではない、と、
 思います。
 
 
 『エゴ』とて、
 
 理解されず、
 あげく、排除されように扱われるからこそ、
 
 ときに、暴走してしまい、
 ときに、極論に走ってしまうのであって、
 
  「生まれつきの、ワル」
 という札付けこそが、
 その、接し方こそが、
 むしろ極端なのでは、と、思います。










2017年12月6日水曜日

見つめる


 いま、お子さんをお持ちの方は、ご存知だと思いますが、
 
 今どきの子どもたちは、
 友達と一緒に、
 「家の中」で、遊ぶんですよね。
 
 「一緒に遊ぶ内容が、ゲーム(機)だから」
 だ、とか、
 「外で遊ぶのか危ないから」「外で安全に遊べる場所が無いから」
 だとか、
 
 僕の時代とは、背景が違うし、
 
 あるいは、当時でも、
 女の子たちは、よく、
 「家の中」で、遊んでいたのかもしれませんが、
 
 いまは、
 男の子でも、女の子でも、
 
 お菓子を持って、友達の家に行き、
 そこで、一緒に、遊ぶことが、スタンダードなようです。
 
 
 上の男の子の場合、
 小学校入学以来、ほぼ毎日のように、
 友達が、わが家に遊びに来ていました。
 
 彼が、(ようやく)外遊びをするようになり、
 家が、静かになったと思ったころ、
 
 今度は、
 下の娘が、友達を連れてくるようになりました。
 
 子どもたちの友達が、わが家に遊びに来たところで、
 僕は、
 その子たちとは少し離れた場所で、仕事をしているだけなので、
 
 多少騒がし過ぎたりして、
 嫌な想いをすることはあっても、
 高がしれていて、
 
 「決して望ましくはないが、積極的に拒否するほどでもない」
 感じで、これまでいました。
 
 
 ところが。
 
 娘の友達に、
 一人、
 どうにも、苦手な子がいます。
 
 具体的な、苦手な理由は、よく把握できず、
 陳腐な表現ですが、「雰囲気が、好きでない」のに加えて、
 
 臭い、見た目、声 ...
 そんな、物理的な部分も、
 どうにも、苦手なのです。
 
 加えて。
 
 その子が連れてくる、
 その子の弟が、
 その子に増して、苦手です。
 
 その、苦手な理由も、まったく同じです。
 
 
 その子たちに関してだけは、
 使う表現としては、間接的にしていますが、
 積極的に、家に来ないように、仕向けます。
 
 ところが。
 
 こちらの、
  「来ないで!」
 の想いの強さと、同じだけの強さで、
 
  「行くよ!」「来たよ!」
 が、現れます ^^; 。
 
 僕としては、
 もちろん、
 積極的に、浄化をしますが、
 
 どうにも、
 その「苦手感」「嫌さ」は、
 無くなりません。
 あまり減りません。
 
 なので、
 より積極的に、僕の
  「来ないで!」
 が表出し、
 
 その結果、
 より顕著に、頻繁に、
  「来たよ!」
 が、やって来ます。
 
 それが、繰り返されます。
 
 
 そんな、ある日。
 
 その子たちが、やはり、やって来ました。
 
 その日は、僕に出かける用事があり、
 その子たちが占拠している、わが家のダイニングを、
 通る必要がありました。
 
 
  「こんにちは」
 
 僕としては、その時の感情に則して、
 かなり、フラットな感じで、挨拶をしたつもりですが、
 
 それに対して、
 弟くんの、こんな言葉が、耳に飛び込んで来ました。
 
  「怒ったおじさんが、来たよ」
 
 その言葉に、
 ちょっと、唖然としました。
 
 
 僕は、そのときの自分自身を、
 「怒っている」状態だとは、認識していませんでしたし、
 そんな口調でも、内容でも、表情でもないと、
 認識していたからです。
 
 そのような言われ様をされる理由があるか、
 それが、不当ではないのか、
 瞬時に、そこを、検証しようとしました。
 
 そのとき、 
 一つのことに、気づきました。
 
 
 自分の正当性を、検証しようとして、
 相手の真意は何か、相手に落ち度は無いか、
 調べようとしたのですが、
 
 そのとき、
 その、弟くんの表情を、思い出すことができませんでした。
 
 彼のことを、見ていなかったのです。
 
 彼だけでなく、
 その部屋を、その場を、ちゃんと見ていなかったのです。
 
 目を、そむけていたのです。
 
 
 その後、
 その部屋での必要なことを終え、退室し、
 そして、玄関から、外に出ました。
 
 その、出たところに置いてある、
 自転車に乗ろうとしたところ、
 
 ちょうど、窓の前に立つ形になり、
 その窓越しに、ちょうど、ダイニングを眺めることができました。
 
 子どもたちが、騒ぎ、暴れています。
 約束を破って、隣の部屋にまで、なだれ込んでいます。
 そして、冷蔵庫を勝手に開け、中のものを貪(むさぼ)っています。
 
 そんな様子が、目に入ってきました。
 
 
 まず、その段階で、
 自分が感じていた「雰囲気が、好きでない」の理由が、分かった気がし、
 そして、その気持ちに対する、自分の正当性が証明された気がしました。
 
 娘の友達に対して、
 正当な理由・根拠も無く、いわば「不当」に、
 「好きではない」と感じていた自分に対する罪悪感が、払拭されました。
 
 そこで、気持ちがイーブンになりました。
 負い目が無くなり、
 正々堂々としていられる状態になりました。
 
 
 そこで、
 その光景を、見つめることにしました。
 
 僕は、顔だけ、窓からのぞいている形なので、
 僕が見ていることに、子どもたちは、気づいていません。
 
 そこで、その光景を、見つめました。
 文字通り、見つめ続けました。
 
 その、子どもたちの振る舞いを「悪し」とするエゴが、
 かなり強めの苦痛を、僕の胸に感じさせてきます。
 
 肉眼の目で、子どもたちの振る舞いを見つめ続けながら、
 内なる目で、その感情を見つめ続けました。
 
 浄化できているのか、感情が減っているのか、
 よく、分からなくなっていましたが、
 一段落とし、その場を離れました。
 
 胸の痛みは、
 その場を離れても、しばらく続きました。
 
 
 面白いことに、
 そして、よくあるように、
 
 それ以来、これまでのところ、
 僕は、その子たちに、遭遇していません。
 
 その後、わが家に遊びに来たこともあるようですが、
 僕は、出会いませんでした。
 
 おそらく、
 ある程度以上の浄化が、できたのだと思います。
 
 そして、
 僕にとっては、珍しいことに、
 浄化によって、現象の変化を促す結果になりました。
 
 
 普段、浄化の場面では、
 よく、「感情を『見つめてください』」と、申し上げます。
 
  感情を、感じる。感じ尽くす。
  意識を向ける。
  見つめる。
 
 これらは、浄化の、もっとも基本的な方法です。
 
  感情を、
  エネルギーブロックがもたらす感覚を、
  
  感じる、
  内なる意識を向ける、
  内なる目で見つめる。
 
 これらは、浄化の基本的で、
 常々、お伝えもしているし、
 自分でも、行っていることです。
 
 
 ですが、
 同じように、
 
  物理的に見つめること。
  肉眼で、物質・現象・出来事を、見つめること。
 
 これも、同じように、大切なのだと、
 痛感させられました。
 
 
 おもえば、僕は、
 今回の、苦手な子どもたちに対して、行ったように、
 
 嫌なこと、都合の悪いこと、好ましくないこと、
 に対しては、
 
  見ない振りをする
  無かったことにする
  目をそらす
 
 という対応を、採ってきました。
 
 そうすることを、常套手段としてきました。
 
 
 場合によっては、
  「委ねているのだ」
 と、
 自分に弁明し、
 
 そして、
 目をそむけてきたこと、
 放置してきたこと、
 そんなことが、日常的に、多々あったことを、
 思い出させられました。
 
 自分には、そういう、明白な傾向があることに、
 これまでに、もうすでに、気がついていたはずです。
 
 でも、そのことにも、
 目をそらせてきていました ...
 
 その事実に、
 いま、ここで、向き合わざるを得ませんでした。
 
 
 でも、おかげで、
 「何をすればいいのか」が、
 これ以上無いくらいに、明確になりました。
 
 これまでは、「何をしてこなかったのか」を、
 それゆえに、「何が体験不足なのか」を、
 そして、今後は、「何をすればいいのか」を、
 
 これ以上、明確にはできないくらい、はっきりと、
 知ることができました。
 
 
 そして、今後は、
 「内側」だけでなく、外側も、
 「感情」だけでなく、現象も、
 「内なる眼」だけでなく、肉眼でも、
 
 しっかりと、じっくりと、眼(まなこ)を開いて、くっきりと、
 見つめる覚悟が、決まりました。
 
 覚悟が決まり、
 それを、習慣化することも、できてきました。
 
 それ以来、
 それまで、明け方に、定期的に見ていた、
 ある、似た種類の夢たちのことも、
 見ることが無くなりました。
 
 
 僕にとっては、
 「見つめる」ということは、
 最重要ともいうべき、気づきでした。
 
  「人間をする」ということは、
  「体験をする」ということは、
 
  「感情を感じること」であると同時に、
  現象・出来事そのものを、肉眼の眼で、はっきりと、
  「見ること」「見つめること」「観察すること」である。
 
 少なくとも、僕にとっては、そうでした。
 
 そして、今回の件は、
 その気づきを得るための、出来事だったのだと、
 僕のために起きてきてくれた出来事だったのだと、
 あの子たちは、僕のために、存在し、振る舞ってくれていたのだと、
 知ることもできました。










2017年12月5日火曜日

「なにもしないでいる」ことが、できない


   健康だけど、3日間 ただ 寝ていた、っていう人。
   
   これができる人というのは、実は 哲人ですね。
   もう学びの終わった人で、
   普通の人たちは、大体、何かしています。
   
   「何をしているか?」というと、
   基本的には、不安から 逃れようとしています。
   
   皆さんは100%例外なしに、
   幸せじゃない状態から、幸せになろうとする方向へ、努力しているんです。
 
     津留晃一 小冊子「 Q&A 」 より引用
 
 
 今日は、個人セッションの募集をしていましたが、
 予約が入りませんでした。
 
 こんな日は、
 いただいた「商品のご注文」を処理し終えれば、
 
 しなければいけないことは、
 何もありません。
 
 
 こんなとき、
 「なにもしないでいる」ことが、できません。
 
  何もせず、ボーっとしている
  ただ、寛(くつろ)いでいる
  ただ、寝ている
 
 ということが、できません。
 
 「何か」を、しようとします。
 「すべき何か」を、探そうとします。
 「今できる何か」を、探します。
 
 そして、何か見つかれば、それをします、
 例えば、この記事を書くように ... ^^;
 
 
 そんなとき、
 この、津留さんが遺してくれたメッセージを、思い出します、
 
 感心と、感歎と、ともに ...
 
 本当に、
  「なにもしないでいる」
 ということが、できませんよねぇ。
 
 
 確かに、
 「健康だけど、3日間、寝ている」という人は、
 いると思います。
 
 僕も、覚えがあります。
 
 でも、そのような人の場合には、
 「『ただ』寝ている」のではなく、
 
 「寝ていることしかできない」のだと思います。
 
 そのような人の場合には、
 「何かしなきゃ」という想いを持っていて、
 
 でも、その想いとは裏腹に、
  「でも、何をしていいか分からない」
  「何ができるのか、分からない」
  「何もできない」
  「寝ていることしかできない」
 のだと思います。
 
 「何かしなきゃ」力士と、
 「でも、何もできない」力士とが、
 がっぷり四つに組み合っていて、
 どうにも膠着してしまっているのですよね。
 
 「何かしなきゃ」アクセルと、
 「でも、何もできない」ブレーキとを、
 同じ力で、踏み込んでいて、
 その場で、ブレーキパッドが、ただ、摩耗してしまっているんですよね
 
 (過去記事「 アクセルとブレーキ 」)。
 
 
 日によっては、
 「すべきこと」を探していることに気づき、
 それを、止めることができます。
 
 でも、そんなときには ...
 
  「じゃぁ、『したいこと』をしよう!」
 
 そう言って、
 『したいこと』を、探し始めたりします。
 
 「『したいこと』を探す」ことを、します。
 
 本当に『したいこと』なら、
 探すまでもなく、「したい」と思っているでしょうに ...
 
 それに、
 『したい』と感じたときに、すればいいでしょうに ...
 
 
  「なにもしないでいる」ことが、できない。
  「何かをしてしまう」。
 
 その理由は、
 津留さんがいっているとおり、
 「不安」「恐れ」からです。
 
  「『今、このまま』を、良しとできない。 良しとは思えない。」
  「良しとできたとしても、でも『この先も良しのまま』とは思えない」
 
 そんな、
 今に対する不足感から、
 将来に対する不安感から、
 自分に対する不足感・不信感から、
 
 常に、
 「何かをしよう」としてしまいます。
 
 
 あるいは、僕の場合には、
 
 何もしないでいると、
 激しくはないけれども、でも、なかなかに強力な、
 ネガティヴな感覚を、感じてしまいます。
 
  「あぁ、暇だ」
  「あぁ、何もすることが無い」
  
 という、
 実に重苦しく、実に落ち着かない、感覚です。
 
 この、「暇だ」という感覚は、
 実は、とても根源的な感覚なのだと、僕は認識していますが、
 
 いずれにせよ、
 その、「暇で仕方ない」という感覚を感じないようにするために、
 どうしても、何かをしてしまうところもあると、自覚しています。
 
 
 「不安感」「不足感」であれ、
 それ以外の感覚(「暇で苦しい感」)であれ、
 
 私たちは、ネガティヴな感覚を感じないようにするために、
 常々、何かをしていますね。
 
 
 津留さんは、
  「呼吸に意識を合わせる」こと
   を継続することは、世界で一番難しいこと
 と、
 言っていましたが
 (過去記事「 神に還るというのは 」)、
 
 これも、「しようとしている」ことですね。
 
 だとすると、
  「なにもしないでいる」
  「ただ、寝ている」
  「ただ、ボーっとしている」
 ことこそ、
 もっとも困難なこと なのかもしれませんね ^^ 。
 
 
 まずは、
 「何かをしよう」としていることに、
 そうしている自分に、気づくこと。
 
 そして、可能ならば、
 その動機、「なぜ、そうしてしまうのか」を、認識すること。
 
 それらができたなら、
 あとは、次なる展開が、見えてくると思います、
 「しようとしなくても」 ^^ 。
 
 
 ところで、
 はじめに引用した、津留さんのメッセージ。
 
 僕にとっては、
 意外な方向に続いていきます。
 
  「さすがだなぁ〜」
  「すごいなぁ〜」
 
 そう、感心せざるを得ない、
 その後の展開。
 
 下記いたします。
 
 そして、
 それこそが、
 そこで言われていることこそが、
 
 『浄化』ということです。
 『浄化』でしようとしていることです。
 
 とてもご理解いただきやすいのではないかと思います。

 
 
   皆さんは100%例外なしに、
   幸せじゃない状態から、幸せになろうとする方向へ、努力しているんです。
   
   ですから、本当に幸せという人は、何もしていません。
   
   皆さん、普段からすでに体験していると思うんですが、
   「ああ嬉しい、幸せ!」っていう時は何もしないですよね。
   皆さんドタバタしないんです。
   じっとしています。
   
   ただ、それはすぐに通り過ぎて行くんですね。
   「幸せだなー」という状態はスーッと退いていくんですね。
   「そうじゃない」っていう人、いないでしょ。
   
   ずっと幸せ状態が続いたって人いないですよね。
   これは皆さん体験しています。
   
   実は不幸せも、これと同じなんですね。
   幸せと同じように「ああ、辛いなあ」ってじっと浸っていると、
   その感じはスーッと退いてどこかへ行ってしまうんです。
   あまりやらないでしょ?
   
   辛いときは、「何とかしよう」とするんです。
   自我は、自分の力で何とかぬけだそうとします。
   だから自分の今の不幸せな状態に意識が留まるんですね。
   それでまた不幸せなエネルギーをさらに作り出すのです。
   じっとしていればいいものを、
   「これじゃいけない、何とかしよう」という意識を持つと、
   またポッと不幸せになる。
   
   ちょうど鐘をつくような状態ですね。
   鐘をポーンと突くと音がスーッと消えていきますね。
   あらゆる感情というものは、退いていくんです。
   
   寄せてきた波が引いていくように、
   来た感情は引いて行くんです。
   
   それなのに、不幸が来たときはじっとしていられなくて、
   なんとかしようとそのことに意識が向きます。
   
   不幸には、皆さん対処するんですね。
   それが、再び鐘を突く状態です。
   
   意識が向くから、また顕在化する訳です。
   対処しようとすると、その不幸な状態に
   エネルギーを注いで行くことになるんです。
   だから、ちっとも減衰していかないんです。
   
   これが、その苦しみが続いていく理由なんです。
   どちらかというと対処すれば、するほど、苦しみというのは大きくなります。
   
   嫌いな人がいて、嫌いな人を非難する。
   そうすることは、嫌いな人をさらに顕在化させて、
   その人にエネルギーを与える状態になるんです。
   
     津留晃一 小冊子「 Q&A 」 より引用










 
 

2017年12月4日月曜日

二つの「シンクロ」に


 先月、11月13日に、
 「 幸せな幼少期 」という、
 僕が子育てに関して感じていることを、掲載しました。
 
 それまでの流れとは、全く関係なく、
 その日、突然、
 
  「あぁ、いま、これを書いておこう。
   いまなら、書けそうだな」
 
 と、
 ふと、思い、
 
 そして、
 パソコンに向かってみると、
 素直に、書けたからです。
 
 そして、
 その記事のアップをもって、
 大阪イベントに向かいました。
 
 
 そして、迎えた、
 大阪での、「『お金』浄化ワークショップ」。
 
 『お金』がテーマの、浄化ワークショップでしたが、
 お金以外のことにも、話題が広がり、
 
 そこで、既述のとおり(「 子育て こんなケースも 」)、
 このようなご質問も、いただきました。
 
  「子育てについて、不安に感じてしまうのですが ... 」
 
 
 その「偶然」を、
 「シンクロだ」と、認識しながら、
 
  「そのことでしたら、
   ちょうど、こちらに来る直前に、
   僕が考えていることを、ブログにアップしてきました。
   よろしければ、お読みください」
 
 と、申し上げました。
 
 ですが、
 感情的には、
 とくに反応することもなく、
 
 頭では、
  「現象は、ただの現象。
   そこに、意味は無い」
 と、
 判断していました。
 
 
 そして、一昨日、
 12月2日。
 
 どんなきっかけだったか、
 それすらも、覚えていないのですが、
 
 急に、
  「あぁ、『エゴ』にエサを与える件 を、
   ブログに書こう。
   いまなら、書けそうだな」
 と思い、
 
 書き始めると、素直に書けたので、
 それを、ひととおり書き終えるまでタイプし、
 その日は、寝ました。
 
 翌、12月3日、
 昨日の、朝。
 
 前日に書いた記事に、改めて目を通してみると、
 あらかた、すんなりと読めましたので、
 多少、校正をして、
 ブログにアップをしました。
 
 そして迎えた、
 その日の昼の、個人セッション。
 
 いらしてくださった、クライアントさんに、
 まず最初に、
 本日いらしてくださった動機・目的を、お聞きすると、
 
 その方が、開口一番、
 こう、おっしゃいました。
 
  「摂食障害というわけではないんですが、
   どうしても、過食してしまうんです。
   それを、止められないんです ... 」
 
 
 もう一度、
 似た現象が、
 より顕著な現象が、繰り返されました。
 
 そこで、今回は、
 改めて、はっきりと、
  「シンクロだ」
 と、認識し、
 
 加えて、
 それを、
  「ただの現象」
 とは、判定せずに、
 
  「意味あること」
  「必然として、起きてきたこと」
 と、
 受け止めることにしました。
 
 そう認識し、受け入れ、受け止めることが、
 いまの僕には、必要なんだと、
 解釈しました。
 
 
 僕は、ふだん、
 
  「意味づけ」
 を、
 極力、排するように、しています。
 
 スピリチュアルなことに、親しみはじめて以来、
 しばらくは、
 出来事の意味合いを考えていました。
 
 そして、
 出来事に対して、
 
  「すごい!」
 とか、
  「シンクロだ」
 とか、
  「それは、こういうことを表している」
 とか、
 
 そんなことを、
 盛んに、考え、評価していました。
 
 
 ですが、
 そのようなことを指向していると、
 
 まず、
 思考が、絶えず、動いてしまいます。
 
 思考で、
 「意味」を探してしまいます。
 
 
 そして、
 見いだされた「意味」に付随して、
 
 「良い」「悪い」の判断が、
 働いてしまい、
 その判断行為が、止まらなくなり、
 
 その結果、
 「気分」が動かされてしまいます。
 
 「悪い」との判断になれば、
 必然、気分は確実に下がります。
 
 
 しばらくは、
 そんなことを含めて、楽しく感じ、
 
 ある意味、積極的に、
 そんな行為を行っていたのですが、
 
 そのうちに、
 そのデメリット面が、
 「楽しさ」というメリット面を上回るようになり、
 
 自然と、
 物事・現象への判断を、抑えるように、
 
 場合によっては、
 否定し、毛嫌いするように、
 なっていました。
 
 
 ところが、
 そんな状況で迎えた、
 今回の、一連の出来事。
 
 自分の中に、
 「意味づけ」を、
 
 ある意味、「否定」し、
 「毛嫌い」すらしていることを、
 見つめ直さざるを、得ませんでした。
 
 
 スピリチュアルなことを知る前の、
  「(物事の裏側に、意味があるという可能性すら知らずに)
   物事・出来事には、意味は無い」
 という認識の段階から、
 
 スピリチュアルなことを知って、
  「物事・出来事には、すべて、意味がある」
 という認識の段階に移行し、
 
 そこを経て、
 現在の僕は、
  「現象は、ただの現象」
 という段階に至っているものと、認識していました。
 
 
 ですが、
 僕の場合には、
 
 「第2段階への否定」があった上での、第3段階、
 という状況なのであって、
 
 なので、
 厳密には、第3段階に至ってはおらず、
 
 第2段階の体験不足であると、
 理解しました。
 
 もっと、
 「現象を生み出している側」の意識・存在を肯定し、
 「現象を生み出している側」に、積極的に、同調してみる
 
 そんなことが必要なのだと、思いました。
 
 
 ちょっと、
 先を急ぎ過ぎたようです。
 
 頭だけで、
 先に進もうと、し過ぎたみたいです。
 
 まだ、アンバランスでした。
 
 
  「物事の裏側には、意味・意図が存在している」
 という認識は、
 
 僕が接する人々にとっては、
 とても大切な認識であるにもかかわらず、
 
 僕にとっても、
 重要な事柄であるにもかかわらず、
 
 僕の勝手な思い込みで、
 それを軽視し、排除すらしようとしていました。

 
 別の表現で表すと、
 
  「スピリチュアルであること」
 を、
  「スピリチュアルな表現・説明」
 を、
  「スピリチュアルなことを前提・当然とした上での説明」
 を、
 
 僕の勝手な思い込みで、
 極力、廃しようとしていました。
 
 
 でも、僕も、
 もうすこし、
 スピリチュアルであっていいみたいです。
 
 もうすこし、ゆっくりと、
 スピリチュアルな道程を、楽しんでもいいみたいです。











2017年12月3日日曜日

「エゴ」にエサを与える


 前々回の、大阪イベントの際に、
 個人セッションを受けてくださった方がいて、
 
 その方とのやり取りの中で、
 教えたいただいたこと、気づいたことを、
 このブロッグで書くことを、すっかり、忘れていました ^^; 。
 
 もう、半年以上も時間が経ってしまって、
 その方とのやり取りについては、記憶違いがあるかもしれませんが、
 覚えていることを、ここに、シェアさせていただきます。
 
 ヒントになること、ご参考になることがあれば、
 ぜひ、ご活用ください。
 

 その方は、
 いわゆる「摂食障害」を、患われていて、
 
 過食と嘔吐を、
 繰り返してしまうのだそうです。
 
 仕事が終わり、一人暮らしの家に帰る途中、
 その日の夕食を、調達します、
 
 大量に。
 
 そして、
 帰宅後、夕食を食べます、
 
 大量に、黙々と。
 
 そして、その後、
 自ら、嘔吐します、
 
 罪悪感、自己嫌悪とともに ...
 
 
  「なぜ、大量に、召し上がるのですか?」
 
 僕の質問に、
 こう、お答えになられました。
 
  「食事をしている最中だけ、
   落ち着いていられるのです。
   
   内側が、静かなのです。
   
   自分を咎(とが)める声が、
   自分を否定する声が、
   自分の無価値さを嘆き叫ぶ声が、
   
   無心に食べている間だけ、
   止むんです。」
 
 そう、おっしゃいました。
 
 
 それをお聞きして、
  「あぁ、なるほど」
 と、思いました。
 
 僕にも、
 こころあたりが、あるからです。
 
 
 僕も、いまも、そこそこ、暴食気味なことがありますし、
 若い頃には、かなり、暴飲暴食をしていました。
 
 若い頃に、一番暴食をし、
 そして、それゆえに、一番太っていたのは、
 
 自分として、もっとも、学業成績が悪い時期で、
 それは、もっとも、自己嫌悪の強い時期(の一つ)でした。
 
 また、それは、
 「どうしたらいいんだろう?」と、
 もっとも、不安が強く、悩み深き時期であり、
 
 「でも、どうにもできない!」と、
 もっとも、途方に暮れた時期(の一つ)でした。
 
 
 また、僕は、
 お酒を飲むと、とても気分が良くなります。
 
 体質的には、それほどお酒は飲めないのですが、
 飲むと気分が良くなるので、頻繁に、飲酒をします。
 
 では、
  「どう、気分が良くなるか?」
 というと、
 
 太っ腹になるというか、
 気が大きくなるというか、
 心配が、無くなります。
 不安を、感じなくなります。
 
 
 僕の場合、
 暴食しているときには、
 
 無心になれるというか、
 現実を忘れられるというか、
 現実から逃避できる感じがしています。
 
 それは、
 一つには、
 食事を採っていることによって発せられる
 ドーパミンによって、
 
 何かポジティヴな感覚を感じられている、
 と、認識することもできます。
 
 
 ですが、
 より、適切な感覚としては、
 
 食事を採っている際には、
 その体感覚が、しっかりと、強く、
 
 その感覚に、
 (無意識のうちに)意識を集中させることによって、
 
 自分の中の、
  「自分を責める声」
  「不安を叫ぶ声」
  「途方に暮れて嘆く声」
 が、
 聞こえなくなる、
 
 そんな感じだと、認識しています。
 
 
 また、
 お酒を飲んだ際には、
 
 自分の中の、
  「自分を不安視する『自分』」
  「自分の行動を監視し、見張る『自分』」
 が、
 
 アルコールの作用によって、
 寝てしまうというか、
 寛(くつろ)ぐというか、
 仕事を放棄するというか、
 
 そんなことが起きて、
 
 それゆえに、
 それらの声が、内側で、鳴り響かなくなり、
 
 それゆえに、
 飲んでいる間だけ、それらの声を聞かずに済み、
 
 それゆえに、
 自分の思ったままに行動できるし、
 将来のことまで考えずに、その場を楽しむことができる、
 だから、楽しく、リラックスできている。
 
 そんな感じだと、感じています。
 
 
 そんな、
 自分自身における体験から、
 
 その方のおっしゃっていることの意味が、
 その一部分だけに過ぎませんが、
 僕なりに、分かった気がしました。
 
 そして、
 僕なりの理解の仕方からすれば、
 
 その方の場合には、
 こんなことが起きていると、例えてみることができるのでは、
 と、思いました。
 
 
 その方の場合には、
 その他の方々に比べて、圧倒的に強力な、
 「自分を否定するエゴ」が、存在しています。
 
 それは、
 あまりに強力で、
 いえ、「凶暴」とすら言えるほどで、
 
 なので、
 その存在は、
 まるで「狂犬」と、みなせる感じです。
 
 その、『内なる狂犬』が、常に、
  「それじゃぁ、ダメだ!」
  「お前は、ダメだ!」
 と、
 
 自分に向かって、
 吠え、叫んでいるのです。
 
 
 そんな、内なる狂犬を飼っている場合には、
 「自分が食事を採る」ということが、
 
 すなわち、イコール、
 「その狂犬に、エサを与える」ということになります。
 
 自分が、食べたものが、
 その狂犬の、エサになるのです。
 
 だから、
 自分が食べている間、
 その狂犬も、食べています。
 
 その狂犬は、
 食事中だけ、叫ぶことができません。
 
 また、
 その狂犬も、
 一日中、叫び続けているので、
 夕方には、猛烈に、空腹になっています。
 
 なので、
 無心に、猛烈に、大量に、
 食べます。
 食べ続けます。
 
 
 ところが、
 そんな狂犬も、
 やがて、お腹が満ちて来ます。
 
 すると、
 また即座に、叫びはじめます。
 
  「なんで、そんなに食べるんだ!
   やっぱり、ダメなやつだな!!」
 
 再開したその声に、怯(おび)えながら、
 嘔吐を繰り返します、
 
 そんなことを繰り返してしまう、
 自分の行為を、
 さらに、自分でも、強烈に嫌悪しながら ...
 
 
 ご自分が、
 自らの意思や望みから、かけ離れて、
 
 何らかの行為を、
 (無意識のうちに)繰り返してしまう場合、
 
 どんな「内なる声」が存在しているのか、
 
 たとえば、このような、
 強力な自己否定、自己嫌悪、自己監視のエゴが存在していないか、
 
 ぜひ、
 チェックなさってください。
 
 まず、
 内側で繰り広げられている「やり取り」に、
 どうぞ、気づいてあげてください。
 
 それが、
 第一歩です。
 
 
 そして、それに気づけたなら、
 その段階で、
 何らかの対応・対策・対処を施せるケースがあると思います。
 
 その場合には、
 どうぞ、あせらずに、かつ、可能な範囲で迅速に、
 できることを、なさってください。
 
 
 でも、
 すぐには、対応できない場合もありますよね。
 
 その場合には、
 
 その、これまでの、(無意識の)行動を、
 またふたたび、採ってしまうことを、
 ご自分に、許してあげてください。
 
 もし、すぐには、対応できず、
 そして、それが、
 身体的に、経済的に、人間関係的に、
 もう少し続けても大丈夫なようなら、
 
 それを続けてしまうことを、
 ご自分に、許してあげてください。
 
 続けてしまう自分を、しまった自分を、
 責めるのを、お止めになってください。
 
 
 自分の内側に、
 自分を責める、強力なエネルギーが存在していて、
 
 その存在に、
 強烈に、否定され、責められているのに、
 
 それに加えて、
 その状態を、そんな自分を、
 ご自分自身が、さらに、責め、否定してしまったら、
 
 どんなに強い人でも、
 挫(くじ)けてしまいます。
 
 
 その、
 「さらに、自分自身が、責めてしまう」
 という部分を、終わらせること。
 
 それが、大切です。
 
 そして、そのためにも、
 まず、いったん、
 
 どんな自分でも、
 どんな小さなことでも、結構です、
 
 自分を、許してあげてください。
 
 
 そこが、スタートです。
 
 そこが、
 「自己否定の、無限ループ」の、
 終わりの始まり、です。
 
 
 「否定の、無限ループ」を終わらせるには、
 「否定」を、許してあげてください。
 
 否定的行為を、否定せずに、採らせてあげてください。
 
 それができれば、
 
 そこからは、
 「肯定の、無限ループ」が始まります。
 
 
 否定される、責められる、
 そんな自分を、そんな状況を、
 『北風』で、吹き飛ばそうと、振り払おうと、するのを止めて、
 
 そんな自分を、そんな状況を、
 『太陽』で、温めようと、労(ねぎら)おうと、したとき、
 
 「肯定の、無限ループ」が始まります。









2017年12月1日金曜日

「自信がない」とは

 
 「自信がある」とか、
 「自信がない」とか、
 とても一般的に、使っていますね。
 
 ですが、
 それって、具体的には、どういう意味なのでしょうか?
 
 あるいは、
 「自信を持つ」ためには、
 具体的には、どうしたらいいのでしょうか?
 
 以下は、
 僕における認識、
 僕における一部ケースの場合の実例ですが、
 
 ご参考になることがあるかもしれませんので、
 シェアさせていただきます。
 

 「自信がない」とは、
 
 「自分の感情体」や、
 「自分の本当の想い」など、
 
 「自分の内側」が、
 
  「蔑(ないがし)ろにされている」
  「無視されている」
  「大切にされていない」
  「重視されていない」
  「尊重されていない」
  「信じてもらえていない」
 
 と、感じていること。
 
 
 その結果、
 
 「自分の内側」
 「自分の感情」が、
 
 「自分(の行動主体)」
 「自分(の判断主体)」を、
 
 信じていないこと。
 
 です。
 
 
 この場合、
 「自信がない」とは、
 
 「自信」という感覚が無い、少ない、
 というよりは、
 
 「『自信がない』という感覚」が有る、強い、
 のです。
 
 
 「自分の感情」が、
 「自分」に対して有している、不信感。
 
 それが、
 「『自信がない』という感覚」です。
 
 
 自分の感情を、
 その存在を、
 それを感じていることを、
 
 認める。
 
 目を背けず、
 無視せず、
 無かったことにせず、
 気づかぬ振りをせず、
 
 認める。
 
 そして、可能ならば、寄り添う。
 同調する。
 共感する。
 
 さらにもし可能ならば、
 その感情に基づいて、行動する。
 判断する。
 
 
 それをできていないと、
 「自信がない」状態になります。
 
 逆に、
 それをしてあげられると、
 
 だんだんと、
 「自信がない」感覚が少なくなり、
 
 その結果として、
 「自信がある」感覚が増えていく。
 
 ということなのだと、
 理解・認識しています。









2017年11月28日火曜日

子育て こんなケースも

 
 先日の記事、「 幸せな幼少期 」と、
 その元となった記事「 子育てに当たって、「このごろ思うこと」 」とで、
 
 僕が、子育てについて思っている、
 
  価値観を与えてしまうことを、
  ブロックを与えてしまうことを、
  あまり、恐れないでください。
 
 ということを、
 お伝えしました。
 
 
 そこでは、
 前提として、
 
  ブロックを与える親
   → ブロックを受け取る子ども
 
  ブロックを与えない親
   → ブロックの無い(少ない)子ども
  (→ でも、それゆえに、大人になってから苦労)
 
 といったケースを、
 想定し、ご紹介し、
 そして、話を進めました。
 
 
 ところが。
 
 僕が、それらでは、想定していなかったケースを、
 実例として、今回、教えていただく機会がありました。
 
  「こんなケースも、実際にあるのだ、あり得るのだ」
 と、お知りになると、
 
 さらに、子育てに際しての、
 不安感が、過剰な責任感が、少なくなるのではないか、
 と思い、
 
 ご本人の許可をいただいて、
 以下に、ご紹介させていただきます。
 
 
 きっかけは、
 大阪での、「『お金』浄化ワークショップ」でのことです。
 
 ご参加くださった方のお一人が、
 ワークショップの中で、
  「子育てについて、不安に感じてしまう」
 という趣旨のことを、おっしゃったので、
 
 僕は、そのときに、
 先のブログ記事の内容を、お伝えしました。
 
 その方が、ワークショップの後、
 そこでの会話のご感想や、ブログ記事を読まれたご感想を、
 メールしてくださったのですが
 (ありがとうございました)、
 
 そこに、その方の、
 以下のような実例が、書かれていました。
 
 
 ----------
 
  私は、
   「理想的な子育てをしてきたと周りからも思われる、
    そして自分自身もきっとそう自負している母」
  に育ててもらいました。
 
  怒られた記憶は一切ないですし、
  愛情たっぷりに育ててもらいましたし、
  いつも褒められていました。
 
  けれど、私の受け取り方がひねくれていて(笑)、
  褒められたら素直に喜んで自信に繋げず、
 
   「それ以外のことをしたらダメなんだ」
 
  と、どんどん自分のいられる範囲を狭めてきたんだと思います。

  それを「母親のせいだ」と思う怒っている自分と、
  愛情深く、母が思う最善の方法で育ててくれた母に対してそんなことを思う自分を、
  責める自分もいました。
 
  そこらへんはだいぶクリアしてきたつもりですが、
  まだたまに出てくるので、その都度、ちゃんとM2で浄化していこうと思います。
 
  ----------
 
 
 先の書き方で表すと、
 
  ブロックを与えない親
   → ブロックを受け取る(作り出す)子ども
 
 という、
 頭で想定すると、ちょっと、ありえなさそうなケースも、
 実は、ちゃんと、存在しているんですね!
 
 
 この実例をお聞きして、
 (その方には、ちょっと、失礼かもしれませんが)
 僕は、ものすごく、ホッとしました。
 
  親が、どういう状態で、
  どう、子育てをするか、子どもに接するか
 
 と、
 
  それを受けて、
  子どもが、どう、育つか
 
 とは、
 
 (そこに、「傾向」「可能性の高低」こそ、あるとしても)
 やはり、「一対一の関係」ではなく、
 
  それぞれに、ケースバイケースである
 
 ということを、
 「実例」として、証明できた感じがしたからです。
 
 この実例をお聞きして、
 こころから、納得ができました。
 こころから、自信が持てました。
 こころから、安心できました。
 
 
  「自分が、子どもに対して、どう接し、どう振る舞うか」
 と、
 
 それを受けて、
  「子どもが、どういうブロックを持つか」
 とは、
 
 (そこに、「傾向」「可能性の高低」こそ、あるとしても)
 確定的ではない。
 
 改めて、
 そう、思ってみてください。
 
 
 僕は、今回、
 そう、改めて、しっかりと思えたとき、
 まず、
 
  「自分は、子どもとの接触・やり取り・関係を通じて、
   『自分自身の体験』をしているんだ」
  「『自分の体験』として、子どもと接しているんだ」
  「『自分の体験』のために、子どもが存在してくれているんだ」
 
 と、
 深く、納得できました。
 
 「子ども」という他人が、
 外側に、確定的に、現実的に、存在していると認識していて、
 
  「(その)子どもに、どういう影響を与えてしまうか?」
 を、
 常に、気にしながら、ときに、ビクビクとしながら、
 子どもに接している、
 そういう「自分の中の『自分』」の部分が、
 
 今回、ずいぶんと、昇天していったように思います。
 
 
 と同時に、
 今回、
 その作用を経て、強く想ったのは、
 
  「では、自分が、子ども時代に、
   親との関係から握ったブロックは、
   それは、『自分が握りたかったから』握ったブロックなんだ」
  
  「親から与えられたものではなく、
   親から押し付けられたものではなく、
   『自分が握った』『そして、自分が握り続けた』ブロックなんだ」
 
 と、素直に、思えました。
 
 このことが、
 今回の僕にとっては、
 いまの僕にとっては、
 
 とても大きな気づきであり、
 とても大きな安堵・安らぎとなりました。
 
 
  「自分しか居ない」
 んですね。
 
 
 そして、もう一つ。
 
 先の想定式では、
 
  ブロックを与えない親
   → ブロックを受け取る(作り出す)子ども
 
 として、
 今回実例を教えてくださった方のお母さまを、
 「ブロックを与えない親」と、分類・表現しましたが、
 
  「怒らない」
  「愛情たっぷり」
  「いつも褒める」
 
 というのも、
 一つの『偏り』であり、
 
 それはそれで、
 『ブロック』なんですね。
 
 いわば、
  「『ポジティヴ』な偏り」
  「『ポジティヴ』なブロック」
 とでも言う。
 
 それも、たいへん勉強になりました。
 
 僕の中の、
 そちらを希求する想いも、それを良しとする想いも、
 明らかに、「ブロック」ですね。
 
 それを、改めて、認識できました。











2017年11月26日日曜日

「どちらも」は、ありえない って、決めつけてませんか?

 
 今回の、大阪イベントの往復には、
 飛行機を利用しました。
 
 往路は、
 久しぶりに、窓側の席に当たり、
 天候も、晴れ。
 しかも、昼間の時間帯だったため、
 
 いくつか、
 記憶に残る光景を目にすることができました。
 
 
 まず、富士山。
 
 雪を抱き、
 雲も纏(まと)い、
 ある意味、とても富士山らしいお姿を、
 
 ほぼ真上から、
 拝ませていただけました。



 座席が、窓側とはいえ、
 右側だと分かったとき、
 
  「あぁ、せっかくの窓席だけど、
   富士山は、ダメだな」
 
 と、残念に思いました。
 
 よく利用する、その航空会社の航路では、
 富士山は、いつも、飛行機の左側に、見えるからです。
 
 離陸後、
 千葉上空、
 続いて、東京上空を滑空し、


 順調に、
 神奈川、そして静岡に、入って行きます。
 
 眼下に、山中湖が見えたときには、
 
  「あぁ、やっぱり、ダメだな。
   いつもよりは、北側を通ってくれているけど、
   でも、この感じだと、こちら側の窓からは、見えないな ... 」
 
 そう、思っていると、
 
 機体が、突然、
 わずかに、左に旋回しました。
 
  「えっ ... 」
 
 そのタイミング、その方向に、
 ビックリしました。
 
 案の定、
 そのおかげで、
 見えていた富士山麓の範囲が、増大していきます。
 
 徐々に、
 白い山肌が、左方向から、流れてきました。
 
 結果。
 
 富士山を、
 そのお釜が覗けるくらい、真上から、
 拝ませていただけました。
 
 写真を撮りつつも、
 その光景を凝視し、
 脳裏に焼き付けました。
 
 
 その後、
 飛行機は、順調に、航路を消化していきます。
 
 ついに、
 和歌山上空にまで達し、
 紀の川、さらには和歌山城も、目視できました。
 
  「このあたりで、右旋回して、北に向かい、
   もうすぐ、着陸だな」
 
 遠方ながら、関空も見えており、
 これまでの体験から、
 そう、思っていると、
 
 飛行機は、
 いつまでたっても、直進を止めません。
 
 紀伊水道に入っても、
 淡路島が見えてきても、
 西行を止めません。
 
 ついには、
 淡路島の中程にまで、入り込んで行きます。
 
  「いやいや、そこまで行って、大丈夫なの?
   いや、この飛行機って、九州行きだったっけ?」
 
 そんな愚かしいことを、
 一部で、本気に、心配する気持ちが湧きはじめたころ、
 
 ようやく、
 機体が、右旋回をはじめました。
 
 その時です。
 
 この映像が、肉眼に、飛び込んで来ました。
 
 2015年、沖縄からの帰路 以来の、
 機体ブロッケンです。


 
 高度を下げつつ、淡路島上空に入って、
 そこではじめて、機体が雲が近づき、
 
 そのうえに、
 機体を旋回して、角度が変わり、
 
 そこではじめて、
 僕の席から、窓から、
 見ることができた、現象でした。
 
 
 その後、
 若干東よりに北上した飛行機は、
 神戸上空にまで進み、
 僕の席からも、大阪市街を、眺めることができました。
 
 そして、
 最後にもう一度、右旋回したときには、
 このように、黄金に光輝く大阪湾を、見せてくれました。


 
 
 事後、振り返って見れば、
 すべては、『僕のために』に、
 整えられ、与えられたことでした。
 
  窓席があてがわれたこと。
  
  それが、右側であったこと。
 
  富士山手前での、航路の微調整。
 
  淡路島への、直進。
 
  神戸・大阪までの、北上・大回り。
 
 でも、結果を知らない僕は、
 事前には、
 それらの出来事・展開を、
 不満に思い、あるいは、心配すらしていました。
 
 もたらされる結果が、
 予想すらしていない、最高のものであるにもかかわらず ...
 
 
 これまで、自分が体験してきたこと、
 これまで、自分が認識してきたこと、判断・評価してきたこと、
 
 そこにおける、事の成り立ちのカラクリを、
 見せつけられた気がしました。
 
 
 さて、
 大阪でのイベントを、
 おかげさまで、すべて、無事に、終えた後。
 
 来年から、もう一つの、新たな仕事となる、
 「うさと服」の販売
 
 その、本拠地である、京都を、訪れ、
 うさとのお店を覗いて、うさと服についての勉強をしてきました。
  
 営業時間以外には、
 「美的感覚」そのものを養おうと、補おうと、
 
 京都の町を散策したり、美術館を訪れたりできて、
 充実した時間を過ごすことができました。
 
 
 11月中旬の、秋の京都は、
 紅葉真っ盛りでした。
 
 樹々の様子、山々の色づき、
 庭園の佇まいなど、
 
 感じることが多く、
 学びとるべきことに溢れていました。


 
 そんな中。
 
 訪れた二カ所で、
 このような光景を目にしました。




 
 これまでにも、
 「桜の狂い咲き」は、何度か、
 いえ、何度も、目にしてきましたが、
 
 このときのように、
 楓などの紅葉と併置された様子を見たのは、
 はじめてでした。
 
 それらを目にして、
 地球から、このように言われているように、
 思うことがありました。
 
  「どちらか」しかない って、思っていませんか?
  「どちらも」は、ありえない って、決めつけてませんか?
 
 
 また、その後には、
 このような光景にも、出会いました。



 アオサギに、野生の大型の鳥に(カラスを除く)、
 このようにまで、近づくことができたのは、はじめてでしたし、
 
 そのアオサギの視線の先には、
 「鳥の天敵」とも言うべき猫が、しかも数匹、
 くつろいで、存在している光景も、はじめてでしたし、
 
 両者が、
 (多少の警戒感を持ちつつも)敵対的・対立的でなく、
 共存している光景も、はじめてでした。
 
 何か、
 「自分が知っているプログラム」とは、異なるプログラムに基づいた映像が、
 上映され、見せられている気がしました。
 
 「自分が慣れ親しんで来た地球・日本」とは、かなり違う場所に、
 ワープし、存在させられている気がしました。 
 
 
  これまでは、どうであったとしても、
  これまでの、ありようは、どうであったにせよ、
 
  これからは、「どちらも」を、選択できますよ。
 「どちらも」を、選択してもいいんですよ。
 
  いままでを、引きずらなくていいんですよ。
  
  そして、すべては、あなたの選択次第ですよ。
 
 そう、
 地球から言われているように、
 感じました。










2017年11月25日土曜日

『第7回大阪イベント』を終えて


 2017年11月17日(金)、18日(土)、19日(日)の3日間、
 大阪で7回目のイベントを、開催することができました。


 冬の寒さに満ち、街中では黄色く色づいたイチョウが目立つ、
 11月の、大阪で、
 
 津留さん交流会に10名、
 個人セッションに6名、
 
 そして、今回が、大阪では はじめてだった、
 『お金』浄化ワークショップに10名、
 
 計26名の方々が、ご参加くださいました。
 
 おそらく、今回がはじめて、
 募集した定員すべてが埋まるという、
 「満員御礼」のイベントで、
 
 いつもに加えて、一つ多く、嬉しさを感じましたし、
 また一つ、新たな体験をさせていただけました。
 
 ご参加くださったみなさん、ありがとうございました。

 
 『お金』浄化ワークショップでは、
 みなさんが、たくさん、質問してくださり、
 そして、気づいたことを、シェアしてくださり、
 
 活発な雰囲気の中で、進めることができて、やり易かったですし、
 こちらも、気づけたこと、知ることができたことが多く、楽しかったです。
 
 
 個人セッションでは、
 これまで同様に、浄化をしっかりとしてくださる方や、
 今回は、お話しすることがメインの方や、
 僕に、いろいろ、気づき・情報を教えてくださることがメインの方など、
 バリエーションも豊富で、楽しく、気づきも多く、
 そんな中で、個人セッションをさせていただくことができました。
 
 
 交流会は、顔なじみの方々が多数お越しくださり、
 はじめての方も、ご参加くださり、
 そんな中、とても深い理解をシェアしてくださる方が多く、
 会話も活発に行き交い、素晴らしいお話をたくさん伺え、
 とても楽しく、気づきもたくさん得られました。
 
 
 今回も、たくさんの方にお会いでき、
 たくさんの、学び多い、素晴らしいお話をお聞きでき、
 とても楽しく、とても嬉しかったです。
 
 ここのところ、大阪には、定期的(半年ごと)に伺えて、
 とても嬉しく思っています。
 
 また、伺うことになると思いますが、どうぞよろしくお願いします。
 また、みなさまにお会いできることを、楽しみにしています。
 
     集合人編集局 ひで


  イベントの様子につきましては、
  こちらの「 『第7回大阪イベント』のご報告 」のページをご覧ください。









2017年11月13日月曜日

幸せな幼少期


私たちの個人セッションに来てくださる方の、多くは、

幼い頃、
たとえば、感情表現の激しいお母さんや、とても厳しいお父さん、
などに育てられ、

その結果、
未解決の感情や、揺るぎない価値観、強烈な思い込み、
などを、抱え込み、身に付け、

それゆえに、
辛い、過酷な人生を、歩んでこられています。


ところが、
ほんとうに、稀(まれ)に、ですが、

その反対に、

幼い頃は、
とても優しくて、穏やかな、ご両親に、
しかも、経済的にも恵まれた環境で、育てられ、

その結果、
ほとんど、ブロックらしいブロックも、身につけることなく、

何一つ、苦労も不満も無く、
平和で、順風満帆で、幸せな人生を、
送られて来られた方が、いらっしゃいます。


ところが。

では、何で、そのような方が、
私どもの個人セッションに、いらしてくださるのか、
というと、

そのような方の場合、
今度は、たとえば、結婚後に、

 「夫が ... 」
 「義母が ... 」
 「相手方の親戚が ... 」

これまでの、実父母とは、正反対に、
ブロックだらけの人で、

それらの人々との関わりで、
非常に辛い、強烈な体験をし、

それゆえに、
過酷なストレスを、味わわれておいで、
だったりするのです。


実は、
津留さんの姉であり、
私にとっての義母、故・山口潤子の体験も、
その口で、

裕福な家庭で、優しい両親のもと、
優秀な娘・学生として、

とても幸せな、『理想的』な、
前半生を送ったにも関わらず、

婚後、
夫と義母と、
反りが合わず、認められず、大切にされず、

苦痛と屈辱に満ちた、
結婚生活を送ったのでした。


義母のケースも含めて、
このようなタイプの方の場合には、

たとえば、
前半の、
幸せな、恵まれた、理想的な環境、

それゆえに、かえって、そのギャップから、

後半の環境が、より一層、
辛く、厳しいものと、感じられがちです。

前半の環境、それゆえに、
「不幸」や「辛さ」に対する『免疫』『抵抗力』が弱い分、

かえって、より一層、

後半の環境が、辛く、感じられがちです。

一度、望ましい状態を、体験してしまっているからこそ、
そしてそれを、『基準点』『標準点』『当然』としてしまっているからこそ、
かえって、

後半の境遇が、受け入れられず、信じられず、
「どうして! どうして ... 」
と、
嘆き、苦しみがちです。


あるいは。

「自分の人生」そのものは、相変わらず、幸せだけれど、
ないしは、
「自分の家庭」は、相変わらず、平和で幸福だけれど、

仕事で、職場で、社会で、
関わっている人々の多くが、
自分とは反対に、不幸な家庭で育ち、
ブロックを多く身に付けた人々だと
(そのようなケースは、多いと思います)、

そのような人々の心情が分からず、理解できず、
それゆえに、
それらの人々に、
どのように接したらいいか、
どのように恊働したらよいか、
どのように導いたらよいのか、
分からず、

それゆえに、苦しんだり、苦悩したりするケースも、
見受けられます。


このようなタイプの人生を歩まれた方々の存在や、
このようなタイプの人生のありようを、
お聞きになられて、

 お感じになること
 お思いになること
 気づかれること
は、
みなさん、さまざまであろうと、思います。

僕が、ここで、特にお伝えしたいと思うのは、
次のような、二つの点です。


一つ目は、

この記事の最初に書いたように、
人生に苦しんでらっしゃる、多くの方は、

幼少期、恵まれない環境に生まれ、育たれ、
それゆえに、
当時の環境・境遇を、憎んだり、恨んだりされ、

そして、
 「もし、母親が、もっと、こうだったら ... 」
 「もし、父親が、もっと、ああじゃなかったら ... 」

などと、
お思いになられることが、多いと思います。

もちろん、
そうお思いになられること、
それは、至極当然なこと、自然なことです。

そして、もちろん、
もし、過去の体験が、
そのような、望むような過去だったとしたら、

当時も、そして今も、
もっと、幸せだったかもしれません。


ですが、
仮に、もし、望みどおりの過去だったとしても、

いえ、
「望みどおりの過去だった」からこそ、
トータルとしては、よけいに、なおさら、

辛い体験をするかもしれない、

という、可能性があることについて、
一度、しっかりと、検討・熟考なさってみてください。

今、お読みになられた事例を踏まえ、
一度、ちょっと、検証・熟慮なさってみてください。

これまでの固着した考えや、
いま感じていらっしゃる、動かしがたい辛さが、
すこし変わられる可能性が、おありなのではないかと思います。


そして、二つ目は、
僕としては、これが、もっともお伝えしたいことですが、

僕は、過去に、このブログで、
お子さんをお育て中の方(あるいは、過去に、育てられた方)に向けて、

 価値観を与えてしまうことを、
 ブロックを与えてしまうことを、
 あまり、恐れないでください。

と、書きました
(過去記事「 子育てに当たって、「このごろ思うこと」 」)。

もう、4年近く前に書いた記事ですが、
今も、僕は、ほぼまったく同じことを、思っています。


そして、それに加えて、
今日、ご紹介したような事例があることを、
ぜひ、ご勘案さなってみてください。

一般的に言うような、
スピリチュアルな世界で、言われているような、
あるいは、自分が考えているような、
理想的な状況を、

『ご自分は』、
お子さんに与えられたとしても、

それが、必ず、ご自分の子さんにとって、
『最善』であるのか?

あるいは、
『ご自分は』、それを与えられないと、
お子さんにとっては、ダメなのか?

改めて、すこし、
考えてみてください。


ご自分が、そもそも、お子さんに、
理想的な状況をもたらしたかった、
その動機となった想いは、

果たして、
「ブロックを与えない」ということを、ご自分が、ちゃんともたらせたところで、
ちゃんと、果たされるのでしょうか?

改めて、すこし、
考えてみてください。


また、

このことは、
先に紹介した、過去記事 にも、書きましたが、

場合によっては
(というか、『体験』と言う観点からは、
 基本的に、そうなのですが)、

 「ブロックを与えることこそが、親の役割」
だったりします。


妻の裕子さんが、よく言っているのですが、

自分の子どもとして、
同じように接して、同じように育てても、

子どもによって、
受け取り、握る、ブロックは、
それぞれ、まちまちです。

場合によっては、
こちらからブロックを与えようとしても(たとえば、特定の道徳観念など)、
子どもの方で、断固、受け取りを拒否する場合があります。

上の子は、受け取ったのに、
下の子は、受け取らなかったりします。

あるいは、場合によっては、
自分(親)が持っていないブロック(たとえば、自分と正反対の道徳観念)を、
自分の言動を通して、
子どもの方で、勝手に(誤解して)、身につける場合もあります。

そのようなやり取りを思い返してみると、
子どもというのは、
親との関係を通じて、
自分に必要なブロックを、自分の都合で、自分で選択して、身につけるんだなぁ、
と、思わざるを、認識せざるを、得ません。


自分(妻)の身体から、生まれい出てきて、
それを、厳然たる『事実』として、体感し、目にし、認識していて、

しかも、
自分が世話をしなければ、何もできない、生命そのものが危うい、

そんな状態・関係を、たゆまず経過して来た、体験して来た、
その対象である、自分の子どもに対しては、

まず、そもそも、
無条件に可愛く、
だからこそ、できる限り、最善の状態になってもらいたい、
という願望があって、当然ですし、

加えて、
 「自分が、育てている」
 「しかも、子どもは、無力だ・非力だ・よく理解できていない」
 「だから、自分に、責任がある」
 「自分が、最善をもたらさねば」

という発想が、湧いてきて、
そんな想いを握っていて、
当然です。


ですが、
『結果』、どのようなことになるのか、は、
基本的に、「親」の想いや、行動、責任の範疇を超えたものである、
と、認識せざるを得ない。

そんなふうに、思っています。


ですから、
決して、望んだような、ベストな、子どもに対する対応ができなかったとしても、
ときに、自らの想いとは反対の行為を行ってしまうことがあったとしても、

そのことを、過剰に恐れたり、
そのことで、ご自分を、過剰に責めたり、
そんなことをされる必要は、ありません。

「親」である私たちも、『人間』であり、
『人間体験』の最中である存在です。

どうぞ、そのことにこそ、堂々となさってください。

また、そう思えると、
過去、ご自分が「子ども側」だった時の、
「親側」だった人々への想いも、
すこし、スッキリとされてくるのではないかと思います。

そして、
過去記事 の繰り返しになりますが、

大切なのは、
ブロックがあったとしても、それは、手放せること、浄化できること、
それを、親である 私たちが、自信を持って、知っていること、
だと思います。


同じ、子育て中の身として、仲間として、
子育てに関して、迷ったり、苦しんだりされている方のご参考になればと、
そう思い、それらの方々に向けて、書かせていただきました。

ご参考になることがあれば、
お役に立てることがあれば、
嬉しいです。












2017年11月12日日曜日

はじめての「再誕生ワークショップ」


昨日、
2017年11月11日、土曜日、
はじめての「再誕生ワークショップ」を、無事、行えました。


「無事、行えました」といっても、
企画、会場の手配から、当日の進行まで、
すべて、裕子さんが行いましたので、

僕がしたのは、
当日の、荷物運び、会場設営・片づけの手伝いくらい。

始まるまで、内容も、一切知らないままでしたので、
他の参加者の方々と、まったく同じように、
ワークショップに参加させてもらった感じです。

なので、
一参加者として、たっぷりと、楽しませてもらいました。


さて、今回は、3名の方々に、ご参加いただきました。
お一人は、長野県松本から、ご参加くださいました
(遠方からお越しくださり、ありがとうございました)。

ですので、
私たちを含めても、5名での、ワークショップで、

少人数での、
落ち着いた、和やかな雰囲気の中で、

お話・ご感想などをお聞きしながら、
ゆったりと進めることができました。

先の、名古屋での「『お金』ワークショップ」でも、そうでしたが、
 少人数でのワークショップは、
 それはそれで、特有の楽しさがあるなぁ
と、
認識を深めました。


また、内容も、
普段、僕が主体的に行っているワークショップに比べて、

身体を動かしたり、「スピリチュアル」な内容だったり、で、
 「あぁ、こういうワークショップも、ありだなぁ」
と、
個人的には、とても参考になると同時に、新鮮に楽しめました。

具体的には、

前半では、とくに身体を意識して、
体操などで身体を動かしたり、
サウンドツールを活用したりして、
チャクラを整えたり、活性化させるワークなどを行いました。

昼食の休憩をはさんだ、
後半には、

M2や、イメージングを活用して、
「過去の未消化の感情」や「思い込み」「価値観」などを浄化すること、
また、アファーメーションを活用して、
過去の自分を手放して、積極的に新たな自分に再誕生するワーク、
などを行いました。


さて、
今回の会場は、36畳の和室を借りることができました。

その半分で、ワークショップを行い、
残りの半分で、食事をしたり、休憩したり、荷物を置いたり、しましたので、
終日、ゆったりと、ここちよく、過ごすことができました。



また、会場の部屋の窓からは、
とても見晴らしよく、眺望きく景色が見られました。



あいにくの、小雨降る予報でしたが、
結局、幸いにも、雨には降られず、

逆に、その、分厚い雲のおかげで、
ときおり、光り降り降りる様子を、眺めることもできました。




さて、朝、会場での準備を終え、
その、見晴らしきく眺望を、裕子さんと二人で、眺めていたとき。

窓の外、下方から、
真っ白な、羽根が、一枚、浮かび上がってきました。

おそらく、鳩の胸羽でしょう、
小さめの、ほわほわとした、羽根です。

このブログのにも、書いたことがあると思いますが、
僕は、常々、個人的に、
「虹」とともに、「羽根」を目にすることを、
「OK」「それで良し」のサインと、決めているので、

まず、
それを目にしたことで、
こころが、和らぎました。


そのまま、その羽根の動きを眺めていると、
それは、私たちの目線の高さで、浮上を止め、
そのまま、その高さ近辺で、フワフワと漂い続けた後、
しばらくすると、横に流れるように、視界から消えていきました。

その動きが、
僕には、映画「フォレストガンプ」を、思い出させました。

その想念が、
その映画のことを、津留さんが好きだった、という情報を、引き出しました。

 「あぁ、津留さんが、挨拶に来てくれたのかなぁ。
  応援してくれてるのかなぁ」

そんなことを思うと、こころがさらに和みました。


そうして、無事に、ワークショップも進み、
終盤を迎えた、夕刻。

開けていた窓から、夕日が、差し込みます。

窓に寄り、外を見ると、
夕日が、富士山の横から、姿を見せてくれています。

その日は、終始、太陽そのものを見ることはできませんでしたが、
最後に、その姿を、現してくれた感じです。

 「再誕生 ... 」

そんなことを、感じ、
その日の内容に相応わしい幕引きを、見させていただいた気になりました。






とっても素敵なご感想をいただきました。
こちらの「 過去の 再誕生ワークショップ 」のページに、掲載させていただきました。










2017年11月10日金曜日

「ブロック」の装着


朝方、
まったきの静けさの中に、目覚めることがあります。


しーんと静まり返った、
「何も気配がない」という、気配。

動かぬ空気。

身体を有しているという、淡い感覚は感じられるものの、
感情は、そこには、存在していません。


そんなとき、
自分が誰なのか、分かりません。


思考は、動かさなければ、動かない状態。

そんな中で、
まず、
 「自分が誰なのか?」
を、探し始めます。

そのことに、思考を使います。


すると、
ひとつ、またひとつ、と、
ゆっくり、

記憶が、やって来ます。


そして、それと同時に、
感情が、胸に、到来します。

感情が、
ひとつ、またひとつ、と、やって来て、

それらを、
ひとつずつ、感じるようになってきます。


記憶に、感情が結びついていることが、実感できます。


またひとつ、
またひとつ、
と、
記憶が、やって来ます。

それは、まるで、
マジンガーZ系のロボットの身体に、
装備が、
ひとつ、またひとつ、と、
装着されていくように、

外から飛んで来ては、
身体に、
パシッ、パシッ、と、
くっ付いていきます。


それにともなって、
『自分』が誰であるのか、
思い出していきます。

『自分』が、
構築されていきます。


その結果、
まず、「昨日の自分」が出来上がり、

続いて、それが、
「それまでの自分」という、
「過去の自分の記憶のライン」の上に、乗っかり、はまり込みます。

そうして、
『自分』が、「連続した記憶」に結びつき、

「過去からの連続した『自分』」に、成ります。

そして、
そのときには、
「昨日までの感情」が、「いつもの感情」が、
完全に、復活しています。


『自分』が、

「記憶」と、
そして、「記憶」に付着した「感情」によって、
できあがっている、

そのことを、体感をともなって認識させられます。


そんな過程を、感じることがあります。



先日、
過去記事「 津留さんお墓参り2017 」を読んでくださった方から、
こんなメールを頂戴しました
(許可をいただきましたので、以下に、掲載させていただきます)。


  実は、当方も、最近(特に夜明け)
  「体感できる『反応』が、無い」 「認識できる『反応』が、無い」
  という感覚に浸ることが増えてきております。
  何を思っているかさえ、何を感じているかさえ、意識に上ってこないのです。
  
  想いや想念が湧きあがってこずに、ただそこに浸っている感じです。
  しいて言えば、そこに浸っている自分を観ていることだけの感覚です。
  
  津留さんが何度も仰っていた「ただ想念を観る。それだけです」
  折にふれて、それを意識続けておりましたが、
  その真意が分かりかけてきたような気がいたします。


そのメールを拝読し、
自分も、「朝方」に、その状態になることを、思い出し、
今日、記事にしました。


ところで、その方は、
「想念観察」を、ひたすら続けることで、
その状態になられ、
その感覚を感じられるようになられたそうです。

「自分に湧き上がる、想念の観察」
ご興味がお有りの方は、
ぜひ、なさってみてください。












2017年11月9日木曜日

「委ねられない」なんて、すごい!


先週でしたか、
いつものように、
何かを、懸命にしていました。

『現実』問題として、
僕が、それをしないと、
「それ」は、形になりません。

僕が、「しない」と、
それは、「現れません」。
「存在しません」。

だから、僕は、
何の違和感も無く、当然のこととして、
それを、していました。


しかも、そのときには、
それが、上手くできていないと、
望んだ結果が得られないと、思っていました。

だから、少しでも、上手くできるように、
懸命になって、作業をしていました。

上手く出来上がれば、
望んだ結果に、近づくと、

上手く出来上がらなければ、
望んだ結果とは、離れてしまうと、

心から、思っていたからです。


そこで、突然、
ふと、
このように、思いました。


  あれ、僕は、
 「自分がしないと、上手く行かない」って、心から、思い込んでいるんだな。
  そんな風に、思い込めているなんて、
  それって、逆に、すごいな!
 
 「自分がしている」って、思い込めているなんて、僕、すごい!
 
 「委ねられていない」なんて、僕、すごい!


これまでは、
「『委ねられていない』自分」が、当然で、
「『委ねられていない』自分」が、基点で、

そこから、
「委ねる」方向へ、進んでいく、進んでいこう、
と、

無意識のうちに、
その方向にだけ、意識が向いていたわけですが、

そのときは、
人生ではじめて、

「『委ねている』自分」の視点から、
「『委ねられていない』自分」を見て、

そんな自分に成れていることに、
そんな自分に成り切れていることに、

感心する感覚を、感じました。


私たちは、
「委ねている」人を、見て、
「委ねられている」人のことを、聞いて、

その人たちのことを、「すごい!」と、
無条件に、感心しますが、

考えてみたら(改めて認識してみると)、
「委ねられていない」って、
それもまた、同様に、すごいことですよね。

だって、
「自分は、人間だ」と、
「自分がしないと、どうにもならない」って、
100%、思い込めているわけですから ...


何きっかけで、そのように思ったのか、感じたのか、
よく、覚えていないし、認識できていないのですが、

そんなことを、
僕の人生では、はじめて、感じました。


僕は、
めでたく、
望みどおりに、
「『人間』に成り切れている」のだと、
そう、分かりました。










2017年11月1日水曜日

うさと展 はじめます


2018年1月から、
レムリアの記憶 " という屋号で、

うさとの服 展示販売会(通称「うさと展」)の、
主催をします。


個人セッションや、津留さん交流会など、
これまで、みなさまと接する機会には、
いつも、「うさとの服」を着ていました。


タイとラオスの、農村に暮らす女性たちが、
天然素材を、手紡ぎ・草木染め・手織りで織り上げ、作られる、
手間と愛情のこもった、ナチュラルな服。

携わる人、すべてが「アーティスト」であり、
出来上がった服は、まさに芸術作品。

でありながら、
そのナチュラルな素材とデザインゆえの、リラックスできる着心地。
日用品・普段着として着られる、デザイン・ラインナップと、価格帯。

そんなうさと服が、大好きで、
これまで、いつも、身に付け、楽しんできました。


その、「うさとの服」を、
ご覧いただけ、ご購入いただける、
「うさと展」を、

今後、
私たちが主催し、開催するできることになりました。


第1回目の会場は、
いつも、個人セッションや、津留さん交流会などを行っている、
「スペースあむりた」です。

ご興味がおありの方は、
どうぞお越しください。







 うさとの服展 @ 本八幡スペースあむりた(千葉県市川市)
 
  期 間: 2018年1月12日 〜 1月14日(3日間)
  時 間: 10:00 〜 18:00
  会場名: スペースあむりた
  最寄駅: 本八幡駅(JR総武線・都営地下鉄新宿線)/ 京成八幡駅(京成本線)徒歩10分

  詳細は、こちら のページをご覧ください。










2017年10月23日月曜日

イメージをしながらの、記憶の浄化


先週の個人セッションには、
以前、職場で、人間関係に関して、辛い思いをした、
という方が、いらしてくださいました。

その、個人セッションでは、
裕子さんが誘導をして、
その方の、そのことに関する浄化を、お手伝いさせていただきました。

裕子さんが誘導してくれている間、

僕は、
ちょっと、僕の個人的な浄化を、させてもらいました。

僕も、職場で、
特に人間関係に関して、辛い思いをした経験があり、
そのことが、そのとき、思い出されたからです。

なので、その方の浄化と並行して、
僕は、僕の体験に関するブロックの、浄化をさせてもらいました。


目をつぶり、
頭の中で、かつての その職場の様子を、イメージしてみます。

すると、すこし、カビ臭くすらあるような、薄暗い、職場が、
イメージされました。

実際は、窓が多く、もちろん、カビなど生えていませんでしたが、
しかし、そんなイメージが、出てきました。


すると、今度は、イメージの中での視線が、
ある特定の方位に、自然と、向けられます。
もっとも苦手だった、上司の席のある方向です。

そして、その先(奥)には、
次に苦手だった、その上司の上司の席があります。

その方向は、とても、苦手でした。

イメージ中で、その方位に視線を持って行っただけで、
胸に、締め付けられるような、重さ・苦しさ・やるせなさ・絶望感 ...
そんな感覚が、蘇(よみが)り、湧き上がって来ます。

頭の中では、そのイメージを見つめながら、
意識では、その、湧き上がって来た感覚を、しっかりと感じます。

胸にある、その感覚に、意識の矢印を、向けます。
向け続けます。


頭の中では、そのイメージを見つめ続けることで、
感覚が、湧き続けてくれます。

感覚が、湧き続けてくれるように、
イメージを見つめ続けながら、
感覚に、意識を向け続けます。

感覚に変化があるまで、
感覚の強さが弱まるまで、
感覚の大きさが小さくなるまで、
感覚の鋭さが和らぐまで、
その感覚に、意識を向け続けます。
感じ続けます。

しばらくすると、
それらの感覚が、弱まって来ました。
弱まって来たものに、意識を向けるのは、少し、難しくなりますが、
それでも、集中を切らさず、むしろ、集中をより高め、
さらに、その感覚を、感じ続けます。
その感覚に、入り込むかのように、矢印を鋭くさせます。

今回は、その辺りで、
ほぼ感じられなくなるまで、感覚が小さくなっていきました。


そのとき、
頭の中のイメージに、変化が起こりました。

イメージ全体が、
徐々に、白く、明るくなっていったのです。

視線を向けていた方向、
もっとも苦手だった方向、
イメージの中では、もっとも暗く、歪んでいるかのような不快な方位が、
とくに、明るく、輝いてすら いるくらい、白く明るくなってきます。


続けて、視線を、ぐるりと、動かしてみると、
部屋全体が、さらに明るくなって来ています。

そのとき、
ある方向に、人の気配を感じました。

浄化をする前に、最初にイメージした瞬間には、
職場の中には、人の気配が、まったく、感じられなかったのに、
ある方向に、「気配」があります。

職場内で、比較的気の合った、部署の人達が座っていた方向です。

その人達そのものは、イメージに現れませんが、
でも、その人達の「気配」が感じられます。

それは、その人達が、
明るく、笑っている気配です。

「笑顔」「笑い声」の気配が、感じられました。


すると、
それにつられるかのように、

その他の方位・場所でも、
明るい気配が、現れてきました。

他に、同僚たちが座っていた場所から、
明るい気配が、感じられるようになってきました。

その場で関わった、すべての人達から、
明るい気配を、感じられているかのようでした。


そして、ついには、
苦手な上司がいた場所からも、
明るい気配が感じられました。

まるで、嫌いだった上司すらも、笑っているかのような、
そんな気配を、感じました。

その場所は、
さらに、白く明るく、輝いていきました。

「眩しい」とか、「目が開けてられないくらい」とまでは、行きませんでしたが、
しかし、最終的には、
はじめの「暗い」「カビ臭い」イメージからは、かけ離れた、
明るく、柔らかい、雰囲気のイメージ映像に、なりました。

そこで、その浄化を、終えました。

目を開けると、
気分が、軽くなっていました。


イメージをすると、ネガティヴな感覚を感じられる記憶がお有りならば、
このように、浄化をしてみてください。

もちろん、これは、
数ある浄化方法のうちの、一つのやり方で、
他の方法でやっていただいても、もちろん、結構ですが、

一例として、具体的に、お分かりいただきやすいのではないかと思い、
記させていただきました。


また、このように、
過去の出来事・状況に関する記憶(に結びついている感情)を浄化すると、
自分の、その過去に関する印象が変わります。

いえ、
「自分の中」の、記憶そのものが、変わります。

今回の件に関していえば、
僕の中の記憶そのものは、以前のままで、

まだ、「嫌な上司が居た」「辛い職場だった」という記憶は、
消えていないし、別の認識に変わってもいません。

今回の浄化のおかげで、
それらに対する印象(思い出したときに感じる感覚)は、
かなり、軽やかで明るいものに、変わりましたが、

記憶・認識そのものは、変わっていません。


しかし、過去記事「 最驚のパラドックス 」でも、書いたとおり、
ケースによっては、人に、事例によっては、
『過去』そのものが、変わります。

自分自身でも、そのような体験を、幾度も、していますし、
個人セッションの場でも、そのようなケースを、幾多、目にしてきました。


とくに、今回の、僕のケースのように、
「その過去」に関わる人々と、一切、関係が無くなっている場合などは、

仮に、
 『あるがままの事実』としての『過去』
  関係者全員に共通した、「客観的事実」としての過去
というものが、存在しているのだとしても、

それがどのようなものであったのかを、
確かめる術(すべ)は、ありません。

であれば、
『過去』というものは、完全に、
「自分の頭の中」、『記憶』にしか、ありません。

そうなれば、
その、『記憶』が、自分の中で、変わってしまえば、

『過去』そのものが、(実質的に)変わってしまっています。


これを、ある種の、スピリチュアルな人々は、
 「別の(泡)宇宙になった」
 「別の並行宇宙に行った」
 「別のタイムラインに入った」
などと、認識・表現しているのだと、理解していますが、

いずれにせよ、
『過去』は、変わってしまっていますので、

『今』が、
変わった後の『新たな過去』^^ に基づいた『今』になっており、
そして、『未来』は、
その『今』を起点とした『新たな未来』に、進んでいきます。


すなわち、
浄化をするたびに、
『過去』が、『今』が、『未来』が変わります。

浄化とは、
そういう行為、なんですね。


また、となれば、

『今』において、浄化という行為をすることに、
自然、意識が向いていきます。

『過去』も、『未来』も、
『今』(の浄化)次第だからです。

それが、
 「『今・ここ』しかない」
という話が示しているところの、別の意味、
なのだと、認識しています。













2017年10月19日木曜日

津留さんお墓参り2017

 
 今年の「秋の長雨」は、かなり本格的ですね!
 
 急に冷え込んで来てもいますし、
 どうぞ、体調にはお気をつけください。
 
 
 さて、一昨日、10月17日は、
 津留さんの命日でした。
 
 当日は、個人セッションがありましたし、
 天候も、雨でしたので、
 行かなかったのですが、
 
 昨日、18日は、
 朝から、久しぶりの、見事な、快晴!
 
 そこで、
 この日に、津留さんのお墓参りに、行ってきました。
 
 
 周辺の建物に、大きな変化があって、
 墓地の雰囲気には、変わった感じを受けたものの、
 
 初めて訪れてから、12年超、
 お墓そのものは、いつもの、見慣れた感じで、
 
  「今年も、この時期になったなぁ」
 
 といった感覚を持ちながら、
 お墓参りを済ませてきました。
 
 
 さて、
 前回、昨年の命日に、お墓参りをしたときには、
 
  「悟っちゃっても、いいんですよ」
 と、
 
 なにか、そんなことを、言われたような、
 なにか、そんな感覚を、受けたんですが
 (過去記事「津留さんお墓参り2016」)、
 
 今回、お墓を訪れたときには、
 そのような感覚を、まったく、感じませんでした。
 
 前回、そのような感覚を受けた背景には、
 僕の中に、
 「悟ること」「悟っていること」を、特別視している認識がありました。
 
 「悟っていること」と、「悟っていないこと」とが、
 並列では、ありませんでした。
 
 だから、
  「悟っても、いいんだよ」
 という表現で、ニュアンスで、
 「悟る」ということが、
 僕の中で、フォーカスされていました。
 
 
 ところが、今回、お墓を訪れてみて、
 前回は、そんなことがあったことを、思い出してみて、
 
 しかし、自分の中に、
 「悟る」とか、「悟っていない」とかに、反応する感覚が、
 自覚できる範囲では、ほとんど無いことに、気づきました。
 
 別の表現をすると、
 自分が、どのようなブロックを持っていようと、いなかろうと、
 どのようなブロックを手放していようと、いなかろうと、
 
 そのことを、
 自覚できる範囲では、ほとんど、気にしていないように、感じました。
 
 ようやく、
 このブログのタイトルである、
  「迷悟一如」
 を、
 体感できたような気がしました。
 
 2017年の、津留さんの命日になって、
 ようやく、それを体験できた気がしました。
 
 
 もちろん、
 僕の中で、「悟っていること」と、「悟っていないこと」とが、
 完全に、差のないことになったわけでは、ありません。
 
 「悟り」というものが、
 まったく、意識にのぼらないものになったわけでは、ありません。
 
 だからこそ、
 こうして、そのことをテーマにして、記事を書いているわけです。
 
 状況によっては、対象によっては、
 今後も、そのことを、強くすら、体感することでしょう。
 
 ですが、今回、
 津留さんのお墓の前で、そのことを、意識にあげてみて、
 
 しかし、はじめて、
 「体感できる『反応』が、無い」という状態になりました。
 
 「認識できる『反応』が、無い」という体験をしました。
 
 これは、
 僕の、『人間体験プロセス』においては、
 とても画期的なことです。
 
 とても存在感のある、
 一里塚、マイルストーンです。
 
 そんな状態を体験できたことに、
 とても感慨深いものがありました。
 
 
 これは、ひとえに、
 これまで、個人セッションを受けてくださったみなさま、
 浄化実践講習会・ワークショップを受けてくださったみなさま、
 交流会に来てくださったみなさま、
 みなさまのおかげです。
 
 みなさまに、機会あるごとに、
 
  「私たちは、『人間』を体験しに来ている存在です」
  「『人間』に成っている存在です」
  「『迷う』体験を、わざわざ、望んでしている、『悟りきった』存在です」
 
 ということを、
 津留さんが遺してくれた、この、認識を、アイデアを、
 
 機会あるごとに、お伝えさせて来ることができた、おかげです。
 
 みなさまに、繰り返し、お伝えさせていただくことで、
 なにより、自分自身が、それを、吸い込み、
 なにより、自分自身に、それが、染み入っていきました。
 
  「自分は、自分の意思で、主体的に、
   この、『迷っている』体験を、しているんだ」
 
 という思い込みが、
 まったく、違和感無く、染み込んでいるようです。
  
  「だから、『迷う』体験をしてもいいし、しょうがないし、
   でもだから、『迷う』ことを十分体験したなら、苦しいなら、
   それを終えても、終えようとしても、それもいい」
 
 そんなふうに、
 深くから、思っているようです。
 
 
 2017年の、津留さんの命日に、
 そんなことを、感じました。