2015年12月31日木曜日

今年も、ありがとうございました(2015年大晦日に)


2015年という、
これまた、節目の一年を、

わたしたち、集合人編集局は、
みなさまに、ご愛顧いただき、
充実した日々を送ることができ、

そして、今日ここに、
無事、年を越すことができそうです。

みなさま、
まことにありがとうございました。


この一年も、たいへん多くの方々に、
津留さんの商品をご購入いただきました。

そして、
私たちの催した、津留さん交流会・浄化実践講習会・個人セッションには、
名古屋、大阪、そして津留さんの出身県・福岡でのイベントへのご参加を含めると、
のべ350名もの方々に、お越しいただきました。

改めまして、
こころより、感謝申し上げます。


非力ながら、
津留さんのメッセージをお伝えすること、
そして、それに基づいて、実践していただくこと、
そのお手伝いができたとしたら、望外の喜びです。

そして、来年もまた、これまで通りに、
自分たちの役割を果たせていけたらと、思っています。

どうぞよろしくお願いいたします。

改めまして、今年一年、ありがとうございました。
そして、どうぞ良いお年をお迎えください。

  集合人編集局 裕子・ひで






2015年12月25日金曜日

2015年冬至


メリークリスマス。

満月の、クリスマスは、
聞くところによると、19年に一度らしいですね
(情報によっては、その倍の、38年に一度、ともありますが ... )。

いずれにせよ、
今日、いま、このタイミングは、
宇宙における地球として、節目であることは、間違いないと思います。


ところで、
クリスチャンではない、僕にとっては、
「クリスマス」は、
なにか、お祭りイベントのような感じです。

一方、
「冬至」は、
地球に住まわせていただいている身として、
大切な節目であると、普段から、認識しています。

日が短くなる一方であった流れから、
反転、日が長くなっていく、その、底日。
「陰」から「陽」への、転換日。
いわば、『元日』。

昨年は、その大切な日に、
出雲大社さまに、お詣りをさせていただきました。

そして、
2012年の冬至に続いて、重要なポイントであった、
この、2015年12月22日、
つづく、23日、24日、

僕は、
妻と、子どもたちと、一緒に、
大好きな『聖地』、八ヶ岳で、
その節目を迎えさせていただきました。


23日午後の曇り空、夜の雨、を除き、
素晴らしい好天に恵まれた、3日間でした。

22日は、昼、千葉を出発し、
夕方、八ヶ岳に着きました。

そして、
冬至当日の、この日に、
『僕にとって』は、『日本一の聖地』(世界一、でもあります)に、
お詣りをさせていただきました。

到着したときには、
すでに、日が傾きはじめていましたが、
甲斐駒ケ岳の横から注ぐ、陽光は、
まだまだ、眩(まばゆ)く、力強いものでした。



地球を貫く、光の軸。
裏側の、ボリビアにある、『陽』軸に対し、
『陰』軸である、このポイント。

そこに、
無事、この日、このときを、
しかも、この地で、迎えられたことに、
感謝を申し上げるとともに、
今後の、進みゆく道のりが、光り満ちたものであることを、
お祈りいたしました。

そのときには、
丸さを増した、お月さまが、
正面に、上がっていました。



翌日、23日は、
午前中、諏訪大社、上社二社にお詣りしました。

今年、四度目のお詣りですが、
いつも新鮮で、いつも、気が引き締まります。

いつものとおり、
今後のさらなる精進を誓い、
今後の平安をお祈りいたしました。

そして、午後は、
あるイベントに参加しました。

縁ある人々と、一同に会し、
この日を迎えられた慶びと、
今後の明るい展開を祈り、誓い合いました。



翌24日、クリスマスイブ。

 「早く帰らないと、サンタさんが、来ないかも ... 」
と、心配をする、末娘をなだめながら ^^ 、

午前中、
神社へのお詣りと、知人宅を訪問し、
帰路につきました。

神社では、
参道に入るなり、『木製のバラの花』に、遭遇。

調べると、
「ヒマラヤ杉」の実(松ぼっくり)で、
「シダーローズ」だとのこと。



神さまから、
そして、『アナスタシア』から、

これまでの道のりを、
いま居る場所を、
そして、いま向かいゆく方向を、

 「それで良し」
と、
おっしゃっていただけたように、受け取りました。

八ヶ岳を離れるとき、
前方には、
雲海に浮かぶ、富士山を、望むことができました。













2015年12月22日火曜日

考えてください (思考が止まらない方へ)


 「どうしても、すぐ、考えちゃうんです」
 「どうしても、頭で解決しようとしています」
 「どうしても、思考が止まりません」

個人セッションや、交流会などで、
いろいろな方から、お話を伺っていると、
このようなことを、とってもよく、お聞きします。

スピリチュアルな世界で、言われているとおり、
また、津留さんも、言っているとおり、

思考には、思考による解決には、限界があり、
また、思考・想念に、捕われているから、苦しい・辛いのであり、
そこから離れられれば、そこには、ただ、平安が広がっています。

ですから、
 「考えるのを、やめてください」
 「思考を、止めてください」
 「思考から、離れてください」
ということが、
いわゆる、スピリチュアルにおける一般的な『教え』、
に、なっています。

 とはいえ、
 なかなか、そうはできない ...

とても多くの方にとっての、正直な感想ではないでしょうか。
ほとんどの方にとっての、現状ではないでしょうか。

以前、このブログに書きましたとおり、
僕自身が、そうなので、
その状況や、そのお気持ちは、よ〜く、分かります ^^ 。

瞑想なんて、1分もできない、僕なので
(すぐに、思考が動き出してしまいます ^^; )、
おそらく、誰よりも、よ〜く、分かります。

スピリチュアルな知識を得た方にとって、
スピリチュアルなことを実践していくうえで、
もっとも一般的な『悩み』の一つであり、
また、スピリチュアルな道を進むうえで、
もっとも普遍的な『壁』、かもしれませんね

(『悩み』を無くす・少なくするために、
 スピリチュアルなことに、興味を持ったのに、
 それがゆえに、新たな悩みを持つなんて、
 なんとまあ、皮肉なことなのでしょうね。
 これもまた、『パラドックス』ですね ^^ )。


ところで、
なぜ、わたしたちは、思考を止められないのでしょうか?
なぜ、わたしたちは、ずっと、考えてしまうのでしょうか?

以下は、個人的な見解ですが、

それは、「考える」ということが、
うまく・よく生きるための、「唯一・最善の方法」である、と、
認識されているからであり、

そして、それ(考えること)が、
「習慣となっている」「習慣づけられているから」でしょう。

何か失敗したとき、うまく行かなかったとき、
わたしたちは、
親から、教師から、上司から、社会から、
 「ちゃんと、考えなさい!」
 「しっかりと、考えないから、そんなことになるのよ」
と、言われてきました。

つまり、人間一般にとって、人類の集合意識にとって、
『考える』ということは、
人生に対処するための、手段・方法なわけですね。

おそらく、
 唯一かつ最強の、手段・方法である
と、認識されていますよね。

また、そのような認識のもと、
社会では、
考える能力が高い人が、凄いとされ、重視され、重用され、

そのために、
学校教育においては、
考える能力を高めること、その素材である知識を増やすことを、重視し、
その能力に優れていることを、評価します。

そのような環境で、生まれ、育ち、生きている、わたしたちは、
自然、「考える」ことをします。
それが、習慣となっています。

場合によっては、何世代にも渡って、
そう、習慣づけられてきました。

なので、
ちょっとやそっと、「考えるのが、いけない」と、聞いたところで、
簡単には、それをやめることは、できないわけですよね。

また、実際のところ、
『エゴ』にとっては、
「考える」ということは、
得た「知識」(過去の情報)」を用いて、「考える」ということは、
自ら保持している、唯一の、『武器』なのだと思います。

「恐れ」に基づいて行動する『エゴ』にとっては、
唯一の『武器』を放棄することは、
即、自らの「死」を意味します。

そんな「恐ろしい」ことは、
『エゴ』には、できません、

特に、「恐れ」に敏感な、『エゴ』にとっては、
なおさら ...

そんなわけで、
「考えてしまう」ことは、
「考えるのを、やめられない」ことは、
わたしたちにとっては、極めて自然なことであり、
ある種、当然のこと、
そして、ある種、『必然』なことだと思います。


ところで、
いま、
 「思考」は、エゴにとっての『武器だ』
と、言いました。

ところが、
この武器、なんか、あまり、効きませんよね?

これまで、この武器を手に、
一生懸命、この『おそろしい、不完全な世界』を、
『戦い』、進んできましたが、
なにか、どうも、うまくいきませんでしたよね?

効かないからこそ、うまくいかないからこそ、
 「思考が、問題だ」
 「思考を、手放しましょう」
と聞いて、
 「もしかしたら、そうかも。そうしたほうが、いいかも」
と、思ったわけですよね?

では、
なぜ、この『武器』は、あまり効果がないのでしょうか?


それは、
実は、それが、「『おもちゃ』の武器」だからです。

「思考」というのは、
『おもちゃの刀』『おもちゃのピストル』なのです。

だから、
ほとんどの人にとって、
これを手に、『戦』ったところで、
勝ち進み、想い通りにしていくことが、できないのです。

そして、
そのことを知っている、そのことを見抜いた、
マスターたちが、
 「離れなさい」「手放しなさい」「捨て去りなさい」
と、おっしゃっているわけです。

『ところが』、です。

ところが、
この『おもちゃ』、
エゴにとっては、唯一かつ最高の、おもちゃなのです。

このおもちゃで、遊ぶことが、
エゴにとっては、楽しくて、楽しくて、仕方がないのです。

そんな、唯一最高のものを、
エゴは、手放せますでしょうか?

いえ、手放せませんよね。
捨てられませんよね。

それで、当然なんです。
それが、自然なんです。

ところが、それを、
 「おもちゃなんかで、遊んでないで、勉強なさい」
と言って、取り上げたり、
あるいは、
 「『戦い』というのは、悪いことです。
  おもちゃとはいえ、『武器』で遊ぶのは、良くありません」
と言って、取り上げたら、
どうなるでしょうか?
エゴは、どう反応するでしょうか?

おもちゃを、無理矢理、取り上げられた、こどもは、
おとなの視点で、おとなの理屈で、おとなの都合で、
おもちゃを、無理矢理、取り上げられた、こどもは、
どうなるでしょうか?

不満を募らせ、泣きじゃくり、
そして、
 「おもちゃを、返せ!」
と、叫び、わめくことでしょう。

そして、
これまで以上に、そのおもちゃに、こだわることでしょう。
執着することでしょう。

そして、
これまで以上に、握りしめ、
これまで以上に、手放せなくなることでしょう。


小学生のとき、
僕は、親の意思で、塾に行かされることになりました。

放課後、友人たちと、楽しく遊んでいると、
いつも、途中で、その、楽しい最中に、
塾に行く時間になったからと、不本意ながら、遊びを終え、
塾に行っていました。

そのときの光景は、いまも、鮮明に、脳裏に残り、
そして、
 「僕は、十分に、遊んでいない」
 「遊び足りない。もっと、遊びたい」
という、満たされなかった想いが、
大人になっても、まったく、消え去りませんでした。
いつまでも、その不満を、引きづり続け、
いつまでも、その想いが、こころの中を、漂いつづけました。

ところが、です。
一方、思う存分、遊んだ子どもは、どうなるでしょうか?

だれにも邪魔されず、だれにも止められず、
自分のやりたいように、やりたいだけ、
そのおもちゃで、遊んだこどもは、
そのあと、どうなるでしょうか?

そのおもちゃで遊ぶことに、飽きますよね?
そのおもちゃに、飽きますよね?

そうなったら、
もう、そのおもちゃのことなど、見向きもしなくなりますよね?

そうなると、
今度は、逆に、親のほうが、
 「そのおもちゃ、高かったんだから、もっと遊んでよ」
なんて、言いはじめて ^^ 、
でも、こどもは、
もう、そのおもちゃになんか、興味が無くなって、
そのおもちゃで遊ぶことを、やめてしまうことでしょう。


 「思考を止められる人」「思考が止まる人」
というのは、
スピリチュアルな世界における、いわば『大学院生』なのです。

そして、
その『大学院生』というのは、ほとんどの場合、
 「子どものころから、遊ばずに、勉強ばかりしていた人」
なのではなく、
むしろ、
 「子どものころに、思う存分に、おもちゃで、遊び尽くした人」
なのです。

 「おもちゃも、遊ぶことも、もう、十分だから、そこに想いが無くて、
  そして、だから、今度は、『学ぶこと』が、楽しくなって、
  学ぶことの、楽しさが、素晴らしさが、自然と、分かって、
  自らの自然な思いで、自らの自然な意思で、学んでいる人」
なのです。 

 「おもちゃが、遊ぶことが、良くないことだから、悪いことだから、
  そして、勉強することが、良いことだから、正しいことだから、
  だから、意思の力で、無理やり、勉強している人」
では、ないのです。


この、パラドックスな世界では、
『北風方式』よりも、『太陽方式』のほうが、
結果、効果があります。

あるいは、
こう、表現できるかもしれません、

 『人間と成っていく』サイクルにおいては、
 『北風方式』が、効果がある
と。

 不完全な、われわれ人間は、
 意思の力によって、我慢をして、努力して、
 思考することを、やめなければならない。
 思考は、努力によって、止めていくのだ ...

これによって、
わたしたちは、ますます、思考から離れられず、
ますます、思考によって、解決を図ろうとし、
結果、ますます、失敗し、分離を深め、
そして、ますます、人間と成ってきました。

それに対して、

 『神に還ってく』サイクルにおいては、
 『太陽方式』が、効果がある
と、言えるかもしれません。

 そもそも、その本質において、完全な、わたしたち人間は、
 想いのまま、存分に、思考してあげれば、
 自然と、そのおもちゃを、手放していける ...


津留さんは、
講演会CD/DVD『幸せテクニック講座6』の中で、
浄化を思いついたときの様子を、詳しく、話していますが、

その内容は、
 「考えて、考えて、考え尽くしても、答えが分からず、
  それでも、考えようとしたら、
  脳がオーバーヒートを起こし、
  そして、安全弁が抜けて、『思考が止まり』、
  そのとき、パッと、ひらめいた・理解できた」
というものです。

津留さんの、思考が止まった、瞬間です。

また、
津留さんの話に続いて、お伝えするのは、僭越ですが、

振り返ってみると、
僕が、本格的に、浄化をするようになったのは、
 考えても、考えても、どうしたらいいのか、分からず、
 「あぁ、もう、だめだ。
  思考では、どうやっても、解決できない」
 と、こころから、思ったとき
です。

津留さんの場合は、
例えるなら、

 『思考』という、グルグル回る、エンジンを、
 限界まで回して、回して、回し続けて、それでも、まだ回して、
 そして、その結果、あるとき、エンジンが壊れた

というような、感じでしょうか。

あるいは、
僕のケースでは、

 『思考』というエンジンを、回し回し続けた結果、
 エゴが、疲れて(そして、ある意味、納得をして)、
 そして、エンジンへの、燃料の供給をやめた

という感じ、かもしれません。

いずれの場合も、
回り続けるエンジンを、
ブレーキによって、無理やり、止めようとしたのでは、ありません。

強力な力で、回り続ける、エンジンを、
それ以上の力で、それ以上の意思の力で、ブレーキを踏んだところで、
エゴのほうは、
 「なにおぉ〜? そっちがその気なら、こっちだって!」
と、
ますます盛んに、燃料を補給して、
ますます、回転を高めてくることでしょう。

ところが、エゴに、
 「いいよ、いいよ! もっとやりな、もっとやりな ^^ 」
と、言ってあげれば、
 「え、そうなの?」
 「でも、そう言われてみると、もういいよ、十分だよ。疲れたよ」
と、
やがて、燃料の補給をやめ、回転も収まってくる、止まってくることでしょう。


この世界は、
 『体験の世界』
です。

 「神さまが、神さまそのもので居たら、体験できないことを、
  体験するために、作り上げ、そして、人間をしてる」
世界です。

 「体験すること」
が、
 「十分に、体験すること」
 「存分に、味わうこと」
が、
その目的です。

『思考』も、十分に体験してあげれば、
終わっていきます。
他の体験を、したくなります。

あるいは、
『思考』も、
十分に、体験してあげる必要があります。

全知で、全能な、神さまだったときの、わたしたちは、
『考える』ことなんて、できませんでした、
何でも知っているし、何でもできるのですから ...

こうして、『人間』に成って、はじめて、
制約された条件の中で、
限られた情報を使って、機能的に限られた頭脳で、
『考える』ことが、できるようになったのです。

ですから、
その、『人間』に成れた、その一人として、
ぜひ、存分に、『考える』ことを、体験なさってください。

多くの存在(「自分のハイヤーセルフ」「ソウルグルーブ」)を代表して、
いま、『人間』を体験している存在として、
責任を持って、『思考』を、存分に、味わってください。


考えは、
『止めるもの』ではなく、『止まるもの』です。

考えが、止まらない方は、
どうぞ、
 「『考えること』は、良くない。正しくない。」
という視点から、一度、離れて、

 「わたしたちは、『考える』という体験をするために、
  いま、人間をしているのだ」
という可能性について、検討なさって、

そして、ぜひ、
思いっきり、考えてください。

考えて、考えて、考え尽くして、あげてください。

エゴに、『考える』というおもちゃを与えて、
思う存分、遊ばせてあげてください。

エゴが、飽きるまで、
エゴが、音を上げるまで、
どうぞ、考えてあげてください。


考えが、止まらない方は、
実は、
 「『考える』という体験が、足りていない」
のです。

 「どうしても、考えて、考えてしまう」
という方は、
 「いつもいつも、考えている自分は、考え過ぎだ」
と、認識なさっておられるかもしれませんが、

少し長いスパンで見てみると、
実は、
 「『考える』という体験が、足りていない」
 「『考える』ということに、まだ、飽きていない」
のです。

これからは、
どうぞ、思う存分、考えてください。

そして、
その体験を、十分になさって、
 「『人間』としての体験」
を、存分に、味わわれて、感じられて、

そして、
未練なく、心置きなく、
 「『人間』に成っていく」
 「『人間体験』を極める」
というプロセスを、サイクルを、
終えられて、

そして、
 「『神』に還っていく」
というプロセス・サイクルを、

肩に力を入れること無く、
ナチュラルに、自然に、
歩まれて行ってください。














2015年12月3日木曜日

第2回福岡イベント 開催のお知らせ


 2016年1月21日(木)、22日(金)、23日(土)、
 福岡市で、
 『浄化実践講習会』『個人セッション』を行います。


 今年6月の開催につづき、
 福岡で、2回目の、イベントを開催させていただきます。

 津留さんが、生まれ育ち、そして旅立った地、福岡県で、
 また、イベントをさせていただけることを、とても嬉しく思っています。
 
 前回は、数多くのみなさまに、お越しいただきました。
 福岡県内だけでなく、大分・熊本・宮崎、そして山口からも、
 ご参加いただきました。
 ほんとうに、ありがとうございました。
 
 ですが、個人的には、
 『浄化実践講習会』でのご説明が、
 少々、うまく出来なかったと、反省しています ^^; 。
 
 それ以降、改めて、しっかりと準備をして、臨んでいますので、
 今回は、しっかりとお伝えできることと、思っています。

 もちろん、個人セッションも、
 誠心誠意、させていただきます。

 ご興味がおありの方は、どうぞ、ご参加ください。


 福岡県のみなさま、九州地区・中国地区のみなさまに、
 またお会いできますことを、楽しみにしています。

 どうぞよろしくお願いします。


 詳細・お申し込みは、『 第2回 福岡イベント 』 のページをご覧ください。

 2015年12月3日 集合人編集局 裕子・ひで