2014年8月27日水曜日

『第1回 鹿児島イベント』の知らせ


2014年9月26日(金)、27日(土)、28日(日)、
鹿児島市で、
『浄化実践講習会』・『津留さん交流会』・『個人セッション』を行います。

2014年6月の、大阪でのイベントに続き、
今度は、鹿児島でイベントを行います。

今回も、ひで 一人で伺います
(井瀧裕子は、参加いたしません)。

鹿児島のみなさん、九州地区のみなさんに、
お会いできることを楽しみにしています。

詳細は、
サイト『 津留晃一の世界 』の『 イベント 』 のページをご覧ください。

よろしくお願いいたします。


  集合人編集局 ひで






2014年8月22日金曜日

『細胞』と『人間』


先日、
『小我』と『大我』について、
書かせていただきました
(過去記事「常に、二つの見方 (30℃の考察)」)。

そこでお伝えしたかったことは、
 「『小我』の視点と、『大我』の視点の、両方から見ること」
の重要性、有用性について、です。


ところで。

 「わたしたちは、
  『小我』であり、
  同時に、
  『大我』である」

 「わたしたちは、
  『人間』であり、
  かつ、同時に、
  『神そのもの』である」

って、どんな感じなのか、
なかなか、イメージがつかない方、
いらっしゃいませんか?

僕の場合、
ずいぶんと長い間、
よく分かりませんでした。

で、
その感じを、
ある程度『体感的』に理解するには、
ある程度『体感を持って』理解するには、
やはり、
どうしても、『浄化』が必要になると思います、
僕の体験からすると。

『浄化』を、ある程度すると、
かかっていた靄(もや)が、すこし、晴れてくる感じで、
 「あぁ、そうか。そういうことか」
と、
『体感的』に、理解できる部分が、出てくるのではないかと思います。

僕の場合は、
まだ、あくまでも、「ほんの少し」ですが、
そうでした。

ですが、
頭だけで、左脳だけで、
 「だいたい、こんな感じ」
 「こんなイメージ」
というのを、理解することも、
もちろん、可能だと思いますし、

そして、
そのようなときには、
僕の場合は、
次のような比喩によって、
認識する・とらえるように、しています。


さきほどの、
 「わたしたちは、
  『人間』であり、
  かつ、同時に、
  『神そのもの』である」
というのを、
ここでは、
一段下げるというか、
一段小さくして、

 「わたしたちは、
  『細胞』であり、
  かつ、同時に、
  『人間そのもの』である」
というふうに、
考えてみます。

 もし、
 わたしたち一人一人が、
 それぞれ、
 ある、一人の『人間』の中の、
 一つの『細胞』だとしたら ...


いま、
わたしたちは、『細胞』です。

知覚できるのは、
『自分自身』である、
一つの『細胞』のことだけです。

そして、
自分のことを、
 「わたしは、『細胞』だ」
と、
思っています、認識しています。

周りには、
他の『細胞』たちが、います。

もし、あなたが、
「心臓の『細胞』」だとしたら、
あなたは、
他の、多くの『細胞』たちとともに、
「心臓」を形成し、
そして、
「心臓」を機能させていることでしょう。

ちなみにですが、
この、
「心臓」というグループは、
「家族」であるとか、
あるいは「会社」「職場」などと、
とらえてみることができるかもしれません。

そして、
日ごろ、こう、思っているかもしれません。

 「自分は、すごいんだぞ。
  一番忙しい、一番重要なことを、やってるんだぞ」

 「あの、『膵臓』の細胞は、なんで、あんな怠けてるんだ?
  わたしは、休みなく、こんなに、働いてるのに」

 「あの、『目』の細胞は、いいなぁ。
  いろいろなこと見えて、外の世界が見えて、いいなぁ」

 「あの、『右心室』の細胞は、どうして、僕を批判するんだ?
  僕だって、精一杯、やってるよ!」

そんなことを思いながら、
一(いち)『細胞』として、
『自分』に誇りを持ち、あるいは自慢し、
『他者』を批判し、とがめ、
『他者』に憧(あこが)れ、羨(うらや)み、
『他者』から批判さて、悩み、苦しみ、恨(うら)み ...

そして、
ストレスを感じています。


ところで、
一『細胞』としては、
まったく、認識していませんし、感知できていませんが、

でも、
『本人』の認識・自覚にかかわらず、
その『細胞』は、
いつでも、どんなときでも、
『人間』の、一部です。
『人間』そのものです。

ですよね?

そして、
その『細胞』が、
そこに存在し、
かつ、
その役割を果たすことによって、
はじめて、
全体としての『人間』は、
生きていくことができます。

その『細胞』が、
「『その』細胞」として機能して、
はじめて、
その『人間』は、生きていくことができます。

また、
その『細胞』が消滅したら、
その瞬間、
その『人間』は、死んでしまいます。

『人間』の身体は、
空間があると、死んでしまうのだそうです。
ですから、
その『細胞』の消滅は、
即、
その『人間』の死を意味します。

まるで、
津留さんのメッセージ、
 「あなた一人がもし欠けたとしたら、この宇宙はその瞬間消滅すると伝えられました。」
  (津留晃一メッセージ集 新人類の覚醒進化プログラム 『 在る 』)
そのものですね ^^ 。

(ちなみにですが、
 知花敏彦先生のお弟子さんの、飯島秀行さんによると、
 このように、体内に空間を作らないようにするために、
 『ガン細胞』が異常増殖して、
 きちんと更新できなかった細胞を、バックアップしているのだそうです。
 さらに、ちなみにですが、
 知花先生ご本人が、そう、おっしゃっていたのかどうかは、存じ上げません)


ただ、
『細胞』としては、
まったく、分からないことがあります。

なぜ、
ときおり、
『自分』が、
あるいは、
周りの『細胞』たちも含めて、みんなが、
 「周期的に、上下運動をしながら、
  時速5kmで、動く」
のか、
ということが。

 「どうして、そんなことになるのか」
ということが、分からないことに、
ストレスを感じ、苦しんでいます。

そして、
 「時速5kmで、動いている」
その間は、
自分が、いつもより、さらに懸命に動かなければならないことに、
とても、悩み、苦しんでいます。

なので、
『細胞』として、
必死になってに、
 「時速5kmで、動く」
ことがないように、努力しています。

 「時速5kmで、動く」
ことがないように、
『念じて』います。
『意識を向けて』います。
『創造』しようとしています。


ところで。

この、
 「時速5kmで、動く」
ということ。

『人間』からみれば、
じつは、それ、
ただ単に、
 『歩いている』
というだけことです。

ただ、
それだけのことです。

そして、
『歩く』のは、ときどきです。
24時間、常に、歩いているわけではありません。

なので、
『歩く』をやめれば、
『心臓』は、『細胞』は、
また、ゆっくりと動けばよくなります。

そのことの理由を知ったり、
また、
そうならないようにコントロールしようとしたりする必要は、
一『細胞』としては、
ありませんよね。

そうなったなら、
そうなったときに、
ただ、『細胞』として、自分のすべきことを、
ただ、すればいいだけのことですもんね。


あるいは、
そうコントロールしようとすることは、
『細胞』としては、極めて難しいことだと思います。

だから、
全体のことは、
ただ、
『人間』に、まかせておけば、いいのです。

『人間』は、『人間』として、
目で見て、
音を聞いて、
空気を肌で感じて、
あるいは、情報を収集して、
そして、
その上で、
最善だと判断したことを、しているのです。

一『細胞』には、
まったく、知覚・認識できないことを、
全部、分かった上で、
その上で、
最善だと判断したことを、しているのです。

もしかしたら、
『人間』は、
「歩く」ことによって、
場所を移動して、
そして
『人間』としての生命の危機を回避している、
という場合だって、あるわけですよね。

『細胞』としての『願望』が『実現』していたら、
『人間』として、死んでしまっていたかも、しれませんよね。


 「わたしたちは、
  『小我』であり、
  同時に、
  『大我』である」
という感覚は、

ここでは、
 「わたしたちは、
  『細胞』であり、
  かつ、同時に、
  『人間』である」
という感覚ですが、

それを理解するためには、

まず、
『細胞』が『人間』の一部であることを確信し、

かつ、
以上のようなことを、
情報として、頭で理解した上で、

 「『細胞』としては、知覚認知できないことがある」
ということを、
しっかりと認識し、

そして、
 「でも、『人間』としては、それは、知覚認知できている」
ということを知り、

なおかつ、
 「『人間』は、『人間』として、最善を尽くしている」
ということに関して、信頼をする、
 「『人間』を信頼する」
ということだと思います。


そして。

さきほどが、
一段下げた、
一段小さくした、
その『仮定』を、

今度は、
一段上げてみます。
一段大きくしてみます。

 わたしは、『人間』であり、
 かつ、
 わたしは、『地球』の一部であり、『地球』そのものだ
と。

遠くから見てみれば、
遥か高いところから見てみれば、
『人間』は、
まさに、
『地球』の『細胞』のようなものですよね。

そして、
その、
「上げる」「大きくする」動きを、
さらに、さらに、
続けていきます ...

 わたしは、『地球』そのものであり、
 かつ、
 わたしは、『太陽系』の一部であり、『太陽系』そのものだ

 わたしは、『太陽系』そのものであり、
 かつ、
 わたしは、『天の川銀河』の一部であり、『天の川銀河』そのものだ

 わたしは、『天の川銀河』そのものであり、
 かつ、
 わたしは、『宇宙』の一部であり、『宇宙』そのものだ

 そして、
 わたしは、 ...









2014年8月21日木曜日

暑さを『感じ』、痛みを『感じる』


普段、
まったく、テレビのニュースに接することがなく、
ネットでも、
ニュースを目にしないのですが、

今日は、
たまたま、テレビのニュースが目に入り、
広島で、多くの犠牲者が出たことを、知りました。

謹んで、
お見舞い申し上げますとともに、
ご冥福をお祈りいたします。



さて、
今日は、
本当に、暑かったですねぇ〜!

その、陽射しの強さたるや、
凄まじかったですね。

この写真では、
はっきりとは写っていないかもしれませんが、
太陽の周りにある雲は、
その、陽射しの強さで、
かなりはっきりとした『彩雲』になっていました。





さて、
今日、
直射日光を浴びながら、歩いているときには、
もう、相当に、暑くて、
もう、相当に、不快でした。

今日は、
日中に、
買い物に出かけたのですが、
外を歩いているときには、
強烈な陽射しを、全身で、受けました。

そんなとき、
自分の内側で聞こえる『声』を、
しっかりと、聞いてみます。

すると、
 「うわぁ〜、暑い!」
 「ジリジリ焦げるよ」
 「頭も、すこし、クラクラする」
 「気分も、悪いなぁ」
 「不快だな」
そんな『声』が、
間断なく、
内側で、鳴り響いていました。

その声を、その内容を、
ちゃんと聞いてみたときに、
『自分自身で』、
 「不快だ」
と、言っていることに、気づきました。

 「不快だ」
と言っているのが、『自分』だ、
ということに、気づきました。


そこで、
そんな『自分』から、
一歩下がり、距離を置き、
その上で、
離れたところから、
改めて、
『暑さ』を、『感じ』てみることにしました。

すると、
予想通り、
『暑さ』は、
ただ、『暑さそのもの』でした。

『暑さ』は、
強烈に暑く、
そこに、『重さ』すら感じるほど、
強い『暑さ』でしたが、

でも、
そこには、
『不快さ』は、入っていませんでした。

 「不快さ」
 「辛さ」
 「嫌さ」
は、
そこには、その『暑さ』には、
感じられませんでした。

そのようにして『感じる』『暑さ』は、
たしかに、
つよく、重く、強烈でしたが、
でも、
『不快』では、ありませんでした。


ただ、
ちょっと、気を抜くと、
ちょっと、集中を切らすと、
ちょっと、油断すると ^^ 、

すぐに、
 「不快だなぁ〜」
という『声』が聞こえてきて、
それともに、
『不快さ』が、
『不快な感覚』が、
感じられるようになります。

そんなときは、
落ち着いて、
また、
そこから、一歩下がって、離れて、
そして、
『暑さ』そのものを、感じていました。

そうやって、
時間にして、おそらく、2〜3分の間、
『感じる』『暑さ』というものを、
『感じ』ていました。

その間、
『不快』では、ありませんでした。
『辛く』は、ありませんでした。

そして、
冷房の効いた建物の中に、入っていきました。


さて、
買い物も終わり、
再び、外に出たとき。

そこには、
やはり、まだ、
強烈な暑さが、強烈な陽射しとともに、
残っていました。

今回は、
はじめから、しっかりと、覚悟を決め、
そして、
はじめから、『暑さ』を『感じ』ていました。

陽射しを浴びた、その瞬間から、
『集中』して、『暑さ』を『感じ』ていました、

重い荷物を載せた、カートを、押しながら ...


すると、
あるところで、
カートが、突然、止まりました。

週末に開催される、盆踊り用に設営された、
特別通路のマットが、地面に、敷かれていました。

普段は、何も無いところに、
段差が、誕生していました。

カートは、
その段差を越えられず、
それで、
止まったのです。

ところが、
『暑さ』を『感じ』ることに『集中』していた僕は、
その、突然の動きに、まったく、対応できず、
足を、カートに、ぶつけてしまいました。

いつものように、
素足に、雪駄(せった)を履いていたので、
保護するものもなく、
左足の小指が、直接、カートに当たりました。


一瞬の、空白の後、
強烈な痛みが、
指を襲います。

その強烈さに、
まず、
 「わぁ、怖い!」
 「わぁ、嫌だ」
と、声を上げる、自分がいました。

そこでの、
 「怖さ」「嫌さ」
というのは、
 「その指が、どうなってしまっているのか」
を見るのが、知るのが、「怖い」「嫌だ」、
というものです。

小指を、
見ることができませんでした。

男って、
本当に、痛みに、弱いですよね ^^
(これも、『価値観』『記憶』ですが ... )。

それほど強力ではないんですが、
でも、
 「怖さ」「嫌さ」
が、しっかりあったので、
そこでは、とりあえず、
『痛み』のほうに、集中することにしました。

『痛み』は、けっこう、強く思いましたが、
でも、
圧倒されてしまうほどでは、なかったので、
とりあえず、
その『痛み』を『感じる』ことに、意識を集中しました。

しっかりと、
ただ、『感じ』ていました。

今回は、
ちゃんと、立ち止まり ^^; 、
だた、『感じる』ことに、集中していました。

おそらく、
その間、およそ、2分程度だと思います。

『痛さ』は、
はじめのうちは、
むしろ、強さを増していく感じでした。

「ズキン、ズキン」とした『痛さ』が、
左足小指の中央を、駆け上がっていきます。

でも、
やがて、その『強さ』は、減っていき、
『痛み』は、
徐々に、本当に、徐々に、ですが、
治まってきました。

それとともに、
気持ちも、
というか、
「怖さ」も、
落ち着いてきました。

ここにきて、
ようやく、
指を見ることができました。

爪が、
一部、皮膚から、浮き上がっていました。
剥がれていました。
その、離れている部分に、
血が、すこしだけ、あふれ出ていました。

その様子を、しっかりと見ることができたときには、
もう、ずいぶんと、
『痛み』も、弱まってきていました。

でも、
まだ、しっかりとした『痛み』は、残っていたので、
患部に絆創膏を貼り、
その後も、すこしの間、
その『痛み』とともに、居ました。

そして、
その間、
 「この、一連の出来事を、
  この、学びの、気づきの多かった出来事を、
  ブログに書いて、お伝えしなければ」
と、思っていました ^^; 。







わたしたちは、みな、達人


わたしたちは、
みな、
達人です。

わたしたちは、
みな、
『人間』として、
さまざまなことの、達人です。

中には、
 「『思考』の達人」
も、いらっしゃることでしょう。

 「心配事の達人」
も、いらっしゃるでしょう。

 「怒りの達人」
も、
 「自己責任回避の達人」
も、
 「責任転嫁の達人」
も、
そして、
 「批判・非難の名人」
も、
いらっしゃることと、思います。

何を隠そう、
これ、
すべて、
僕のことです ^^; 。

だから、
失礼ながら、
 みなさんのなかにも、そのような方が、大勢いらっしゃる
ということは、
推測がつきます。


さて、
そんな僕が、
中でも、
 「僕は、本当に、これの達人だなぁ」
と、思うこと、

そして、
個人セッションをさせていただいていて、
クライアントさまのお話を伺っているときに、
 「僕だけでなく、みなさんも、そうなんだなぁ」
と、思うこと。

それは、
わたしたちは、
 「『意識をそらす』ことの達人」だ
ということです。


何か、ストレスを感じたとき。
身体に、ハートに、不快感がやって来たとき。

そんなときに、
 「それらから、スッ 、スッ と、意識をそらすこと」
 「そして、それらを、感じないようにすること」
そのようなことを、
無意識のうちに、
極めて巧みに、行うこと。

わたしたちは、みな、
 「そんなことの、達人である」
と、いうことです。


 「自分が、いま、何を感じているか?」
 「自分に、いま、どんなストレスがやって来ているか?」
 「自分のハートは、いま、どんな状態か?」

そういうことに、
意識を向けられるように、なればなるほど、
気づけるように、なればなるほど、

一つには、
 「自分に、ひっきりなしに、ストレスがやって来ていること」
に、気づきます。
 「細かく細かく、不快感が上がってきていること」
に、気づきます。

そして、
そのことに気づいてみると、
そのストレスを、不快感を、できるだけ感じないようにするために、
 「そこから、スッ 、スッ と、意識をそらそうとする自分」
に、気づきます。
 「そこから、サッ 、サッ と、離れようとする自分」
に、気づかれることと、思います。

そして、
ということは、
普段、そのストレス・不快感がやって来ていることを、
ちゃんと認識できていないときには、

『無意識』のうちに、『自動反射』的に、
 「それらから、意識をそむけているのだ」
 「それらを、感じないようにしているのだ」
ということに、
気づくことと思います。
そんな自分に、
気づくことと思います。

わたしたちは、
みな、
そんなことの、達人なのですね。


 「自分は、果たして、そんな達人なんだろうか?」
 「いや、私の人生は、ストレスだらけだし、そんなことはないだろう。
  私は、避けること、逃げることができていないはずだ。
  だから、しっかりと、ストレスを感じちゃってるのだろう」

そんなことを思われる方は、
ぜひ、
意識を、自分の内側に向け続けてみてください。
自分の内側を、しっかりと見張っていてみてください。

おそらく、
やはり、ご自分も『達人』であったことに、
気づかれると思います。

 「『達人』な自分」
を、発見されることと、思います。

そして、
その、ご自分の『達人ぶり』に、
驚かれることと、思います。

ご自分の、その、
 「意識をそらすことの、素早さ」
に、
 「感じないようにすることの、巧みさ」
に、
きっと、きっと、
とても驚かれることと、思います。


 「意識をそらし、ストレスを感じることを避ける」
こと自体は、
特に、いいも、悪いも、ない、と思います。

 「ストレス」
は、
『エゴ』にとっては、
あるいは、
『肉体』にとっては、
 「避けるべきもの」
です。

ある意味、
そうやって、生き長らえて来たわけです、
一(いち)生物として。

そうやって、
この肉体を、維持・継承して来られたわけです。

これまでは、
『人間』として生きてくるに当たっては、
それは、
とても大切な、重要な、技能でした。


それに、
感じなくて済むなら、避けられるなら、
感じなければ、いいのです。
避ければ、いいのです。

わざわざ、
不快な思いを味わう必要は、ないのです。

津留さんが言っているように、
 「『する』こと自体は、どちらでもいい」
のです。


ただ、
もし、
ストレスに対して、『根本治療』をしたいなら、
不快さを、もう二度と、感じないようにしたいなら、

あるいは、
もし、
もう、『神に還る道』を進んでいらっしゃるなら、

そのときには、
もう、避け、よけ、逃げるのではなく、

ぜひ、
『浄化』をしていただけたら、
と、思います。


そして、
その『浄化』をする場合には、

 「スッ 、スッ と、意識をそらそす自分」
に、気づくことが、
まず、
大切になってきます。

そして、
 「意識をそらしてしまおうとする自分」
を、おさえてあげて、

その、
 「ストレスの感覚」
そのものを、逃がさず、とらえ、つかみ、

そして、
それを、『浄化』なさってください。

そんなことが、
ポイントとなってきます。







2014年8月20日水曜日

常に、二つの見方 (30℃の考察)


「30℃」って、あついですか?




先日の旅行中に、
子どもたちと、室内温水プールに入ったのですが、
そのプールの水が、
絶妙に、冷たいんですね ^^ 。

最初、入水するときに、
少々の気合いがいります。
で、
一度、入ってしまうと、
後は、楽しく泳げます。

ただ、
そこは、流れるプールなんですが、
浮き輪の子どもたちといっしょに、流されていて、
ちゃんと泳がないと、身体を動かさないと、
すぐ、身体が冷えてくる、
というくらいの、温度です、
おじさんにとっては ^^; 。

で、
その、水温が、
 「31.2℃」
でした。

つまり、
 「水温『30℃』」
は、冷たかったです。


ところが、

冷たいプールの水で、すっかり身体を冷やされた、
 「『おじさん』ひで」 ^^
が、
プールの隣にある、温泉に行って、
しっかりと、身体を温めてから、
改めて、プールに入ると、
今度は、
プールの水は、冷たくありませんでした。

熱めのお湯につかり、
サウナにも入り、
しっかりと、身体を温め、
そして、
プールに入ってみると、

ぜんぜん、抵抗なく入れるし、
入ってからも、冷たさを感じません。

つまり、
 「水温『30℃』」
は、冷たくありませんでした。


ところで、

その日、
そのプールに入る前、
正確には分からないですが、
外気の気温は、
 約「30℃」
でした。

プールのある屋内に入ったときに、
 「すこし、涼しいなぁ」
と感じた記憶があるのですが、
そこの室内気温が、
 「27.6℃」
でしたので、
それより、すこし、高い程度だったと思います。

で、
そのとき、外は暑かったです。

なので、
 「気温『30℃』」
は、暑かったです。


普段、
千葉県で、生活していても、
基本的には、
空気は、ジメジメと、湿気を帯びているし、
しかも、
アスファルト、コンクリートに囲まれているので、
陽射しがあったりした場合には、

 「気温『30℃』」
は、暑いです。

というか、
千葉での『30℃』は、
もう、かなり暑いです ^^; 。


ところが、

旅行中は、天候にも恵まれ、
気温30℃を超える日が、多かったのですが、
訪れた場所は、高原だったため、
木陰に入ると、
とっても涼しかったです。

乾燥した空気の中、
木陰に入ると、
 「気温『30℃』」
は、涼しく、とても快適でした。


以上、まとめてみると、
 『30℃』
は、

僕にとっては、
 冷たくもあり、
 冷たくなくもあり、
 暑くもあり、
 かなり暑くもあり、
 涼しくもあり、
だといえます。

旅行中に、
こんなことを、
改めて、認識しました。


そして、
そんなことを認識して、
そこから、
津留さんの、次のような話を、思い出しました。


津留さんのDVDの中に、
 「この世界は、『どちらか』ではなく、『どちらも』です」
という話が、出てきます。

たとえば、
わたしたちは、
 「自分の大切な身体だから、大切にしなきゃ」
と思うこともあれば、
 「自分の身体なんだから、多少は無理をしてもいいや」
と思うこともある。

 「借りてきた車だから、大切に乗らなきゃ」
と思うこともあれば、
 「借りてきた車なんだし、ちょっとくらい、粗末に扱ったって ... 」
と思うこともある。

 「そうでしょ? どっちも、あるでしょ?」
って、津留さんは、言ってました ^^ 。

このように、
 この世界は、
  『どちらか』
 ではなく、
  『どちらも』
 なんです、
という話です。

そして、
津留さんは、続けます。

 「このように、
  この世界は、『どちらか』ではなく、『どちらも』です。」

 「そして、同じように、
  わたしたちは、『人間』であり、
  同時に、
  わたしたちは、『神』なんです。」


この世界は、
 「もともと『神』であったものが、
  『人間』であることができるように、
  創った世界」
なんですね。

だから、
津留さんが言っているとおり、
わたしたちは、
いま、この瞬間も、
いえ、たとえどの瞬間であっても、
 『人間』であり、
 かつ、同時に、
 『神そのもの』である
んですね。

言葉を換えれば、

わたしたちは、
いま、この瞬間も、
 『小我』であり
 かつ、
 『大我』である
ということです。

『わたし』とは、
 『小我』の自分と
 『大我』の自分との、
 総体だ、
ということです。

あるいは、
『わたし』の中には、
 『小我』と
 『大我』とが、
 常に、同時に、入っている
とも、言えます。


わたしたちの『五感』は、
この肉体に関するものしか、
感知できませんよね。

だから、
普段、
どうしても、
 「この肉体だけが、自分」
と、
認識してしまいがちです。

あるいは、
以前にも、
このブログで、触れたことがありますが(過去記事「バランス」)、

これまで、わたしたちは、社会から、
 「正解は、一つ」
 「答えは、一つ」
という前提のもとに、教育を受け、
また、
そのような前提のもとに、
社会システムが構築されてきました。

ですから、
無意識のうちに、
 『どちらか』
と、発想してしまうんですね。

そして、
 「わたしとは、この『自分』」
 「この『肉体』」
 「この『エゴ』」
 「この『記憶』」だ
と、認識してしまうんですね。

それは、
仕方のないことです。

そのように発想・認識してしまうこと自体は、
 「仕方がない」
と、諦め、
そして、
そのような自分を、否定することは、
どうぞ、なさらないでください。


ただ、
ぜひ、折にふれ、

 「わたしは、
  『この肉体の自分』であり、
  かつ、同時に、
  『大我』でもあるんだ」

ということを、
認識していただきたいのです。

そこに、
その『事実』に、
意識を向けていただきたいのです。

気がつくたびに、
思い出すたびに、
ぜひ、
そのことに、
想いを馳せてみてください。
ハートを開いてみてください。

きっと、きっと、
その『事実』を、
思い出していくことでしょう。

すこしずつ、
その『真実』が、
しみ込んでいくことでしょう。


たとえ、
思い出せなくったって、
大丈夫です。

『浄化』をすれば、
必ず、
思い出せるようになるはずです、
僕の経験上。

そして、
その場合でも、
思い出していくのは、
 「ゆっくり」「すこしずつ」
のはずです、
僕の経験上 ^^ 。

だから、
焦らなくて、慌てなくて、急がなくて、
大丈夫です。

いずれ、
誰でも、
自然と、
思い出していくことですから。

 「約束された道」
ですから。


そして、
この、
 「自分は、『大我』で『も』ある」
という認識は、

個人的には、
 「とってもポイントとなる観念である」
と、思っています。

 頭での理解にとって、
 とってもポイントとなる、
 とてもキーとなる、認識だ、
と、思っています。


さきほども、触れましたとおり、
わたしたちは、
普段、
 『どちらか』
の癖がついてしまっています。

ですが、
 「『どちらか』一方」
から見ただけでは、
うまく理解できないことが、
多いんですね。

それは、
とりもなおさず、
 「ここが、『どちらも』の世界」
だから、であり、
 「わたしたちが、『どちらも』の存在」
だから、なのだ、
と、思います。

なので、
 「『どちらも』、両方」
から見てみると、
見てあげると、
 「なるほど」
と、理解できることが、
多いんですね。


たとえば。

純粋に相手のことを想って、親切心から、
相手のために、やってあげたことを、
その相手が、とても嫌がり、迷惑がり、
挙げ句には、
 「なんで、わざわざ、嫌がることをするの?」
と、怒り出したりすることって、
まれにですが、ありますよね?

しかも、
そのしてあげたことを、
その相手が、過去に、
 「そうしてもらうのが、好き」
だなんて言っていた、
なんていうことも、ありますよね?

そんな場合には、
『小我』からだけ、見ていたのでは、
どうしても、
理由が分からなかったりします。
意味が分からなかったりします。
納得できなかったりします。


ところが、
これを、『大我』の視点から、見てみることができると、

たとえば、
 「自分は、『人を喜ばせることは、いいことだ』
  という『価値観』を持っている」
 「だから、あの人を喜ばせようとして、あんなことをしたんだ」
 「そして、喜んでくれていないことに、引っかかりを持っているんだ」
という、気づきになり、
そして、それが、
 「じゃぁ、その価値観を、浄化しよう」
という、流れになったり、とか、

あるいは、
 「自分は、相手の反応を気にしていて、
  相手の反応によって、自分の感情が、影響されてしまう」
という、しっかりとした気づきになったり、とか、

あるいは、
 「自分は、人はみな、自分と同じような考え方をするものだと思い込んでいる。
  だから、あの人の反応に、当惑し、憤慨したんだ」
 「でも、人はみな、本当に、本当に、違うんだ。
  そもそも、本当に、住んでる『宇宙』が、違うんだ」
という、気づきになったり、学びになったり、とか、
ということが、出てきます。

そして、
 「そのために、それらのことに『わたし』が気づけるようにするために、
  相手が、わざわざ、そう、演じてくれたんだ」
という認識が、持てるようになったります。

 「『自分』のことだけ」
という視点ではなく、
あるいは、
 「『自分』と『他人』とは、別個の、対立的な存在だ」
という視点でもなく、

 「『自分』と『他人』とは、同じ、大きな『一つ』だ」
 「『自分』も『相手』も、同じ、一つの『全体』だ」
という視点から『も』、
見ることができると、
納得できたり、理解できたり、したりします。


 「何か、よく、分からない」
 「理解できない」
 「腑に落ちない」
ということは、よくあると思いますが、

そういった場合は、
たいてい、
 「『どちらか』一方からのみ」見ている
から、
特に、
 「『小我』としての自分からしか」見ていない
から、
だから、
 「分からない」「理解できない」「腑に落ちない」
というケースが、
ほとんどだと思います、
僕の経験上 ^^ 。

そして、
だから、悩まれているんだと、思います、
『頭』で ...


この、
 「自分は、『大我』で『も』ある」
という視点を、
ぜひ、しっかりと、
取り込んでいただけると、
身体にしみ込ませていただけると、

 「頭での『理解』」
 「『腑に落ちる』という感覚」
が、
進んでいくのではないか、
増えていくのではないか、
と、思います。

 「『よく分からない』という、不安さ、落ち着きのなさ」
 「『意味が分からない』という、不快さ
 「『訳が分からない』という、怒り」
などが、
減っていくのではないか、
と、思います、
多少なりとも。

そして、
そうなると、
自然と、ただ、
 「では、不要なものについては、手放しましょうか」
と、
浄化に入っていく流れが、
よりスムーズに、訪れてくるものと思います。


 「よく分からなかったら、『大我』の視点から、見てみる」
 
どうぞ、ご参考になさってみてください。










2014年8月14日木曜日

浄化をためらわれている方に(浄化の『個人』的側面を超えた部分について)


これは、まだ、
僕自身が、2回しか、経験していないことなので、
ここでお伝えしてよい情報なのか、分かりかねるんですが、

3回目が、いつ、訪れるか分かりませんし、
そもそも、
3回目が訪れるのかどうかも分からないので ^^; 、
ここで、お伝えしておきたいと思います。


たとえば、部屋の中に入ったりして、
ある状況に身を置いてみると、
そこが、
 「感情的な『カオス』」
になっている場合が、ありますよね。

 そこにいるみんなが、感情を高ぶらせている。
 ブロックが刺激されて、感情的になっている。
 もうすでに、均衡が崩れて、感情の表現し合い、ぶつけ合いがはじまっている。

そんな場所に、身を置く、
というケースが、ありますよね。

そんなときに、もし、
 「完全に、100%、まったく、いっさい、
  感情を動かされず、刺激されず、
  ただ、その場に存在する。
  ただ、その場を、眺めている。」
ということが、できたとすると、

3分も、そのままで居られると、
状況は、激変します。

5分も、そのまま居られれば、
状況は、治まっていると思います。

そこにいる全員の、感情が静まり、
そこにいる全員が、笑顔になり、
そして、
もっとも、感情を高ぶらせ、
もっとも、激高していた人が、
ニコニコと、笑顔を取り戻し、冗談を言っている、
などということに、
なっていたりすることと、思います。

たった2回ほどの体験ですが、
でも、
そんな体験を、2度、しました。


このことについては、
多くの視点から、
多くの見方、説明の仕方が、
できるとは思いますが、

ここでは、
以下のように、
いくつかの見方から、お話をしていきたいと思います。


津留さんのメッセージ集の中に、
こんな言葉ありますよね。

 「今、あなたの成すべき、人類への、そして地球への最大の貢献が、
  覚醒することであると伝えられました。」
(津留晃一メッセージ集「新人類のための覚醒進化プログラム」『覚醒』)

この、
 「覚醒することが、一番の貢献」
 「自分が覚醒している以上に、周りに対する、世界に対する、貢献はない」
ということについては、
知花敏彦先生も、そう、おっしゃっていました。
エックハルト・トールさんも、そう、おっしゃってます。

これらの言葉を、読み、聞いたときには、
 「そうなんだろうなぁ」
というような感じで、
なんとなく、意味するところは理解できるけれど、

 具体的に、どう、作用する・影響することになるのか
 具体的に、どう、貢献することになるのか
ということが、
しっかりと、理解することができませんでしたので、
確信を持って、納得を持って、
その言葉を受け取ることができていませんでした。

ですが、
先のような体験を、2度、経たいま、
はっきりと、しっかりと、
その意味が、分かります。


内側に、何の動きも見せない人が、一人、居るだけで、
数人の集団に対して、
それだけの影響を及ぼすことができるのです。

ましてや、
『覚醒した人』が、居た場合、
周りの人々に対して、
いったい、どれほどの影響を与えることができるのでしょう。

その人が、
高い波動を、光を、放ち続けることが、
周りの人々に対して、世界に対して、地球に対して、
いったい、どれほどの影響を与えることになるのでしょう。

その人の存在が、
その人が存在していることが、
そんな人が存在していることが、
周囲に対して、どれほどの影響を与えることになるのでしょう。

津留さんにしても、
知花先生や、エックハルトさんも、
普段、ご自身がその場に存在しているだけで、
人々が、人々の感情が、波動が、
どのように変化するのか、ということを、
日々、常々、
感じておられたことでしょう。

そして、
それ以上に、影響力のある、尊いことはないと、
体感なさっておられたのでしょう。

そんなことを、
しっかりと、理解することができました。


また、
別の観点から、話しを続けたいと思います。

ここ、2回ほど、
 「『エネルギーブロック』とは、わたしたちが溜め込んで来たエネルギーだ」
ということを、お伝えしてきました。

 「『封印してきた』エネルギー」
というような表現も、使いました。

わたしたちは、
個人個人で、
エネルギーを留め、溜めてきましたが、

一人一人が溜めてきたエネルギーは、
すなわち、
総体として、
集合意識としての『人類』に、『地球』に、
溜め込んできたエネルギーでもあります。

わたしたちが溜め込んだエネルギーは、
すなわち、
『人類』に、あるいは『地球』に、
『封印されてきた』エネルギーでもあるわけです。

それらのエネルギーは、
概して、
「荒い波動」、「重い波動」、
という性質を持っています。

いま、わたしたち『人類』が、
あるいは、
いまの、この『地球』が、
このような状態にあるのは、
それらのエネルギーが溜まったままの状態だからです。

これらの、
重く、荒いエネルギーが留まったままの状態だからです。

いま、盛んに言われているような、
 「新たな地球になっていく」
 「新しい文明に移行していく」
というようなことや、
あるいは、
言葉としては、すこし、古くなってしまった
 「アセンション」
といわれるようなことも、

その、意味しているところは、
地球として、人類として、
 「より、波動を高めていく」
 「周波数を、より細やかに、精妙にしていく」
ということであり、

それは、とりもなおさず、
 「これまで溜め込んできた『荒いエネルギー』を手放していく」
 「これまで『封印してきた』『重いエネルギー』を解放していく」
ということです。

わたしたち一人一人が溜め込んできたエネルギーは、
すなわち、
総体として、
集合意識に、人類全体に、地球に、
溜めてきたエネルギーですが、

わたしたち一人一人が、エネルギーを解放していことは、
すなわち、
総体としての集合意識から、人類全体から、地球から、
エネルギーを解放していくことに、他なりません。

すなわち、
わたしたち一人一人の『浄化』は、
すなわち、
人類から、地球から、
エネルギーを解放していくことです。

わたしたち一人一人の『浄化』は、
すなわち、
人類全体から、地球から、
『封印されてきた』エネルギーを解放していくことです。

わたしたち一人一人の『浄化』は、
人類に対して、地球に対して、
直接的に、
責任を果たすことであり、

かつ、
わたしたち一人一人の『浄化』は、
人類の進化に対して、地球の未来に対して、
直接的に、
『貢献』をすることなのです。

このことは、完全な推測でしかないのですが、
おそらく、
「肉体を持った『人間』」が溜め込んできたエネルギーのうち、
ある種のものについては、
「肉体を持った『人間』」が、
『人間』としての責任において、
自らの身体を通して、
自らの意思によって、
手放していくことによってしか、
解放することができないのではないか、
と思っています。

すなわち、
いま、人間として生まれてきて、肉体を持って存在している、
わたしたちにしか、それはできないことであり、
そして、
だからこそ、
わたしたちは、いま、
そのために、それをするために、
ここに、存在しているのだと思います。
存在させていただいているのだと思います。

いずれにせよ、
わたしたちが、『浄化』をしていくということが、
『エネルギー』を解放していくということが、
とても意味のある、とても重要なことである、
ということが、ご理解いただけたのではないかと思います。


さて、
以上、とても長々と、
 『覚醒』『浄化』『エネルギーの解放』
について、
話しをしてきました。

じつは、
本題は、ここからです。
すみません、
この先も、長いです ^^; 。

日ごろ、個人セッションをさせていただいていて、
クライアントさまの『浄化』のお手伝いをさせていただいていますが、

ときおり、
 「自分だけ、楽になってしまうなんて、できない」
 「自分のほうが、あの人(たち)より先に幸せになるなんて、できない」
とおっしゃって、
浄化することをためらわれる方が、いらっしゃいます。

こうおっしゃる方は、たいてい、
ご自身が、過去、ある人たち、
具体的には、それは、お子さんだったり、パートナーだったりするわけですが、
そういった人たちを、苦しめてしまったことに、ご自身が苦しまれていて、
かつ、その苦しめてしまった当人たちが、
まだ、その苦しみから、抜け出せていないことに、さらに、苦しまれています。

そのような場合に、
 「自分だけが、先に、楽になってしまうなんて ... 」
とおっしゃる気持ちは、分かります。

こころ優しい方だからこそ、
過去の自分の行為を、猛烈に後悔されて、苦しまれているのですし、
そんな方だからこそ、
 「加害者である自分が、被害者である人が、まだ苦しんでいるのに ... 」
と、自らの救済を、幸福を、戸惑い、逡巡(しゅんじゅん)されていわけですね。

ですが、
個人セッションの場面でも、直接、お伝えするのですが、
そんなケースだからこそ、
まず、ご自身が、先んじて、ご自身を救済なさっていただきたいのです。
まず、ご自身が、楽になっていただきたいのです。

加害者が、いつまでも、そのことを引きずっていれば、
被害者は、そのことを忘れ、立ち直ろうとしても、
どうしても、そのことが思い出され、吹っ切ることが、できません。
どうしても、その過去に、引きずられてしまいます。

また、
加害者が、一足先に、楽になり、こころ解放されていれば、
そんな加害者を見た被害者は、
 「なんだ、どうしたんだ?」
 「どうすれば、あんなふうになれるんだ?」
と、
自らを救い、解放する方向に、意識を向けることができるかもしれません。

そして、その際に、
 「具体的に、こうすればいいのよ」
と、アドバイスすることができるかもしれません。

そのようなためにも、
ぜひ、まず、自分のことを、助けてほしいのです。


それに、
人は誰も、『他人』を救うことはできません。

『自分』が救えるのは、『自分』だけです。

同時に、
『自分』のことを救えるのも、『自分』だけです。

『自分』の『エネルギーブロック』は、
『自分』でしか、浄化できないのです。

『他人』に、代わりにやってもらうことはできないのです。

これが、津留さんが言っていた、
 「自分が、自分の、『救世主』」
ということの、意味です。

『他人』が救われるかどうかは、救済されるかどうかは、
その方の意思次第であり、決意次第です。

もちろん、
他人が、周りの人が、
手助けをすることが、援助をすることができるということは、
支えることが、励ますことができるということは、
それは、そのとおりであり、
そして、それは、それで、とても大切なことです。
そのことを、否定はしませんし、
むしろ、とても大事なことだと思っています。

ただ、
究極的には、
 「救うか、救わないか」
 「楽になるか、ならないか」
は、
本人の意思次第であり、
本人の決意・決断次第です。

ですから、
 「相手が楽なるかどうか」
は、
自分とは、まったく関係のないことなのです。
自分の『宇宙』とは関係のない、
相手の方の『宇宙』の問題なのです。

ですから、
どうか、そのことは、置いておいてください。

相手の方の苦しみを、幸せを、
気遣って差し上げる「優しさ」を、
 「その方を信じる」ということに、
 「その方のことはその方に全面的に任せる」ということに、
使ってください。
向けてください。


それに、
そもそも、
この、
 「筋書きの『ある』ドラマ」
 「シナリオの『ある』ドラマ」
においては、
どちらか一方が、一方的に、加害者になるということは有り得ません。
どちらか一方が、一方的に、被害者になるということは有り得ません。

了解もなく、唐突に、勝手に、
加害者になり、害を加える、などということも、ありません。
相手の了解もなく、事前の承諾もなく、
相手に害を加える、などということも、起こりません。

ですから、
そのような、過去の『ドラマ』での出来事に、
一方的に、責任を感じ続け、
自らを責め続けることは、
無用なことです。

このことは、
おそらく、
この文章をお読みの方には、
これ以上の説明を要しないことでしょう。


そして、
最後に、
この記事の前半でお伝えしたことを、
ぜひ、思い出していただきたいのです、

あなたが、あなたの『エネルギーブロック』を手放し、解放することが、
全体としての人類に、あるいは、地球に、
どのような貢献をすることになるのか、
ということを。

 ご自身のことだけを思うと、考えると、
 どうしても、浄化を思い止まってしまう
という方は、
ぜひ、このことにも、思いを馳(は)せてみていただきたいのです。

もちろん、ここでは、
 「『浄化』は、全体のためになるから、あなたも浄化をしてください」
などと言っているわけではありません。

もちろん、浄化は、
ご自身のためだけを考え、
ご自身を楽にするために、ご自身を救済するために、
なさってください。

それ以外のことを考え、意図する必要は、ありません。

ただ、
 「自分を楽にする、自分を救済する」
ということだけを考えると、浄化ができない、
という方については、

ぜひ、
 ご自身の『浄化』が、
 『結果として』、『波及的結果として』、『副産物として』、
 全体のため、地球のためにもなるんだ
ということも意識に入れていただき、
そんなことも考慮して、
そんなことも動機として、
浄化に入っていっていただけたら、
と、思うのです。


ご自分が、
 『全体としての自分』の一部であり、
かつ、
 『全体としての自分』そのものである、
ということに、意識を向けていただけたら、
と、思うのです。










2014年8月13日水曜日

『エネルギーブロック』との対話


過去記事「『感じること』と、『考えること』」の中で、

 『エネルギーブロック』とは、
  過去、自らが、
  留めてきた、溜めてきたエネルギーだ

ということを、お伝えしました。

そこで書きましたとおり、
『エネルギーブロック』とは、
過去、自らが、
 『感じ尽くさなかった』エネルギー
 『意識をそむけてしまった』エネルギー
 『押さえ込み、蓋をしてしまった』エネルギー
です。

あるいは、
自らが、
 『封印してきた』エネルギー
 『無かったことにしてきた』エネルギー
というふうにも、言えるかもしれません。

ここでいう『自ら』という場合の『自分』が、
 「この人生における『自分』」
であるのか、
あるいは、いわゆる
 「『他生』『過去生』とよばれる『自分』」
であるのか、
はたまた、いわゆる
 「『集合意識』『全体としての自分』と呼ばれる『自分』」
であるのか、
ということは置いておき、

いずれにせよ、
それは、
自ら、自らの意思で、自らの中に、
溜め込み、留めてきた、エネルギーです。

それがゆえに、
ここに留まってきたエネルギーです。


そこで、
自ら、自らの意思において、
それらのエネルギーに、
しっかりと、正面から、向き合ってあげます。

そして、
それらを、感じてあげます。
それらに、意識を向けてあげます。

まず、
それらを押さえ込み、蓋をし、
封印してきたことを、
無かったことにしてきたことを、
しっかりと、自ら認め、
そして、
それらに対して、『謝罪』します。

意識をそむけ、
その存在をしっかりと認めてあげることができなかったことを、
それらに、『謝罪』します。

 「しっかりと感じてあげなくて、ごめんね」
 「ちゃんと認めてあげなくて、ごめんね」
 「意識をそむけてしまって、ごめんね」
 「気づかないふりをして、ごめんね」
 「無かったことにして、ごめんね」

あるいは、
話を聞いてあげます。

 「そうだね、そうだね。」
 「つらかったよね。」
 「悲しかったよね。」
 「怖かったよね。」
と。
まさに、『インナーチャイルド』と、対話をするかのように。

また、
『感謝』を伝えてあげます。

 「ありがとう。おかげで、人間として、貴重な体験ができました」
 「おかげで、人間というものを、実体験できたよ。ありがとう」
 「おかげで、みんなの辛さが、よく分かりました。ありがとう」
と。

そして、
『愛』を伝えてあげます。

 「愛してるよ」


そうすると、
これまで、
 意識を向けられず、
 認識してもらえず、
 認めてもらえず、
 構ってもらえず、

それがゆえに、
ここに留まってきたエネルギーが、
流れていきます。

解き放たれていきます。
解放されていきます。

納得し、満足し、満たされ、歓び、
そして、
光に還っていきます。

このことは、
このブログでも、
過去記事「『エネルギーブロック』の生存本能」で、すでに触れましたし、
あるいは、
妻も、ブログで述べていますが(過去記事「自我(エゴ)との対話」)、

このように、
 『エネルギーブロック』に声をかけてあげること
 話を聞いてあげること
 会話・対話すること
は、
とても有効な、浄化方法になります。


おそらく、
浄化の初期の段階では、
浄化とは、
 「取り除くこと」
 「取り去ること」
 「捨て去ること」
だと思います。

いま、現に、
大きな、強い、重い、圧倒的な「ストレス」に襲われているとき、
それらは、まさに、『排除すべきもの』です。

まずは、
その状況から、自らを救い出すべく、
どうぞ、それら浄化対象を、
『取り除き』、『捨て去って』ください。

 『憎きもの』として、
 『敵』として、
 『倒すべきもの』として、
 『排除すべきもの』として、
それらを取り除き、捨て去ってください。

ただ、
やって来る、襲ってくる、大きな『ストレス』が一段落してくると、
状況が一段落してくると、

それらは、
なにも、自分を困らせるために、苦しませるために、やって来たものではなく、

むしろ、
自分に気づきをもたらし、自分に真理を気づかせるために、やって来たのであり、

また、
「やって来た」のではなく、「もともとそこに居た」ということが、

さらには、
「ことのはじめからそこに居た」わけではなく、
「自分がそこに留めたからこそ、そこに居た」ということが、

分かってくると思います。
自然と、感じられるようになってくると思います。

そして、
そのように思えたときには、
そのように感じられたときには、

どうぞ、
『エネルギーブロック』を、
恐れ、憎み、恨(うら)むのではなく、

むしろ、
慈(いつく)しみ、愛(いと)おしみ、同情し、
謝罪し、感謝し、愛してあげてください。

そうすることが、
とても有効な、浄化方法となります。
とても有効な、エネルギーの流し方となります。


ただ、
その場合にも、
(過去の)自分を、
エネルギーを感じず、流さず、留め、溜めてきた自分を、
責めたり、とがめたり、批判したりすることは、
どうぞ、なさらないでください。

そのときは、そのときで、
精一杯、やったのです。
精一杯やった結果が、そうだったのです。

そのときには、そうせざるを得なかったのです。
エネルギーを感じ、流す余裕など、無かったのです。
意識をそむけ、封印するしか、無かったことにするしか、いられなかったのです。
そうしなければ、乗り越えられなかったのです。
そうしなければ、場合によっては、生きていることが、できなかったのです。

ですから、
そんな過去の自分を許し、
また、
過去のエネルギーを許し、認め、謝罪し、感謝し、愛してあげてください。

そうすると、
きっと、
これまでとは違った、浄化の実感が得られると思います。
あるいは、
これまでとは違った、浄化の進展が見られると思います。


それから、
 「とても、そうは思えない!」
 「とても、そうは感じられない!」
という方は、無理をなさらないでください。

 「自分をこんなにも苦しめるものを、認めるなんて、できない!」
 「そんなものと、対話するなんて、無理!」
と思われる方は、無理をなさらないでください。

「そう思えない」こと、「そう感じられない」ことは、
それはそれで自然なことであり、当然なことです。

もし、そのように思えたらなら、このような方法も試していただきたく、
お伝えしているだけです。

 「そう思えなきゃいけない」
 「そう感じられるのが、正しい」
 「浄化対象を、憎んだり、嫌ったりしてはいけない」
などとは、お伝えいたしていません。

ですから、
決して、
 「そう思えない自分」を
 「そう感じられない自分」を
否定したり、とがめたり、なさらないでくださいね。

そのようにとらえてしまうのは、
『浄化』という面においては、
むしろ、逆効果だと、思います。


また、
もうお気づきになられたと思いますが、
『ホ・オポノポノ』では、
4つの言葉を使って『クリーニング』を行いますが、
あれって、
まさに、こういうことをしているんですね。

いまは、
そのことが、よく分かります。

はじめて、『ホ・オポノポノ』のことを知ったときには、
 「あれって、いったい、何をやってるのだろう?」
 「あんなことで、いったい、効果があるのだろうか?」
と、正直、思いましたが ... ^^; 。

『ホ・オポノポノ』も、
とても有効な浄化の方法です。

興味がおありの方は、
効果があると自覚のある方は、
ぜひ、なさってくださいね。








2014年8月12日火曜日

『ハレ』と『ケ』


夏休み旅行、
おかげさまで、
妻と子供たちと、
たっぷりと、楽しんで来ることができました ^^ 。

最近、よく行く、おなじみの場所に行き、
そして、
おなじみのことをして、
楽しんで来ました。





ただ、
「おなじみの場所」
とはいっても、
まだ行ったことのない所があったり、
あるいは、
新たにできた所があったりして、
そんな場所にも、足を運び、楽しみました。

また、
いつもお会いする方々にお会いして、
近況をお聞きしたりする一方、
はじめての方々にもお会いして、
興味深いお話をお聞きできたりもしました。



さて、
「休暇」や「旅行」は、
基本的には、
『ハレ(非日常)』ですよね。

毎日、ルーティーンのように繰り返される
『ケ(日常)』の中に浸かっている、
人生、日常生活。

そんな中で、
ときおりやってくる『ハレ』の持つ、
 新鮮さ、驚き、ワクワク感 ...

そんなものが、
特に、農耕社会における、
のったりとした、ゆっくりした、大きな循環の中においては、

ある人にとっては「スパイス」のように、
ある人にとっては「潤滑油」のように、
またある人にとっては「生きる原動力そのもの」のように、

『ケ』を、
彩り、回し、そして、動かしてきました。

昔の社会における『お祭り』って、
まさに、そんな感じですよね。

いまの私たちには、
『旅行』が、
まさに、そんな感じではないでしょうか。


さて、
『ケ』の要素が、
基本的には『安心』であるのに対し、

『ハレ』の要素が、
基本的には、『刺激』ですね。

私たちは、
日ごろ、
基本的には、『安心』を求めています。
自分自身が『安全』であることを、求めています。

ところが、
私たちは、
『安心』だけでは、足りないんですね。

やっぱり、
『退屈』しちゃうんですねぇ〜 ^^ 。

だから、
『刺激』が必要なんですね。

世の中には、
わざわざ、お金を払ってまでして、
わざわざ、
「バンジージャンプ」や「スカイダイビング」をする人がいるように ^^; 、

私たちの中には、
『退屈』を嫌がり、
そして、
『刺激』を求める要素が、あるんですね。

その『刺激』の、
「大小」や「強弱」は、それぞれであったとしても、
『刺激』そのものを求める気持ちは、
みなさんの中にも、ありますよね?

先ほど触れた、
『お祭り』の中に、
例えば、
岸和田の「だんじり祭り」や、
あるいは、
諏訪大社の「御柱祭」のように、
『危険』であることをこそ楽しむようなお祭りがあるということなんて、
まさに、その典型ではないでしょうか。


今回の旅行は、
基本的には、何度か行ったことがあるところを巡りました。

そうすると、
 「どの道を通ったらいいか」とか、
 「そうすると、何時間ぐらいかかるか」とか、
 「どこが眺望がいいか」とか、
 「どこが危ないか」とか、
そういうことが、
事前に、『分かっている』んですね。

そうすると、
『安心』であり、『安全』である一方、

同じことをしていながら、
はじめてのとき、2回目のときに比べて、
やっぱり、どうしても、
 『新鮮さ』『驚き』『刺激』
というものが、
少なくなります。薄まります。

たとえば、
はじめて訪れたときには、
狂喜乱舞(きょうきらんぶ)して、
子供と一緒に、寒さも忘れて、
何時間も入って、泳いで遊んだ、
透き通る美しさの川にも、

今回は、
足をつけて水に触れるだけで、
充分に満足する自分を発見しました。





わたしたちが『神』であったとき ...

わたしたちは、
 全知であり、
 全能であり、
 すべて、
でした。

そんなとき、
 「わたしたちは、退屈してしまった」
ということは、
いまの私たちにも、
想像可能なことですよね。

 「一刻も早く、『神』に還りたい!」
という、
エゴちゃんの叫びが、
自我ちゃんの渇望が、
聞こえたとき、感じられたとき ...

そんなときには、
どうぞ、一呼吸して、
こんなことを、思い出してみてください。

そして、
その叫びを、渇望を、生み出している
『恐れ』を、
どうぞ、見つめてみてください。

そして、
『恐れ』からでなく、
『本質からの望み』として、
ともに、
『神』に還っていきましょう。

その道のりを、
一歩ずつ、
ともに、
歩んでいきましょう。






2014年8月4日月曜日

嫌な人


 「嫌な人」
って、いますよね。

おそらく、どなたでも、
 「あの人、嫌だなぁ」
 「あの人、きらいだなぁ」
と思う人が、いらっしゃると思います。

では、
 あなたが、嫌だと思う人って、どんな人ですか?
 あなたが、きらいな人って、どんな人ですか?

ぜひ、
すこし、時間を取って、
すこし、考えてみてください。

そんな人のことを、
すこし、思い出してみてください。

そして、
 「嫌だ」
と思う人の、
 「嫌だ」
と自分に思わせる要素を、
ぜひ、
ピックアップしてみてください。


そうすると、
 「嫌だ」
と、その人が、自分に、思わせる要素こそが、
じつは、
 「自分が持っている『ブロック』だ」
ということに、気づかれると思います。

 「あの人は、ずる賢いから、嫌い」
と思っている人は、
 「『ずる賢い』ことは、良くない」
という『ブロック』(価値観)を、持っていますね。

 「あの人は、いつも人の悪口を言うから、いやだ」
と思っている人は、
 「『人の悪口を言う』のは、良くない」
という『ブロック』を、持っていますね。

 「あの人は、ちょっと不潔っぽいから、好きじゃない」
と思っている人は、
 「『不潔』なのは、良くない」
という『ブロック』を、持っているんですね。

津留さんが、CDの中で言っていますが、
 「清潔なのが、いいこと」
 「不潔なのは、良くない」
というのも、一つの価値観に過ぎません。
絶対的な真理では、ありません。


こうして見てみると、
つまり、
 「嫌だ」「きらいだ」
と思う相手の人は、
 「自分の持っている『ブロック』を刺激してくる人」
なんですね。

 「その人が、自分の持っている『ブロック』を刺激してくるから」
つまり、
 「その人に会うと、自分の持っている『ブロック』が刺激されて、
  刺激された『ブロック』が反応し、
  その結果、それが身体に作用し、不快な感覚が身体にもたらされる」
から、
その人が、嫌いなんですね。

ここでも、やはり、
外の世界に、絶対的に、
 『嫌な人』『きらいな人』『良くない人』
が存在しているわけではなく、

あくまでも、
 「自分の内側の『ブロック』次第」
で、
 「嫌に感じる人」
 「きらいに感じる人」
 「良くないと思える人」
が、居るんですね。


そして。

そんな『嫌な人』『きらいな人』は、
じつは、
 「自分が持っている『ブロック』に、気づかせてくれる人」
 「自分の『ブロック』に気づくチャンスを与えてくれる人」
である、と言えます。

見方を変えてみれば、
じつは、
そんな人は、
 「自分が持っている『ブロック』に、気づかせてくれる人」
 「自分の『ブロック』に気づくチャンスを与えてくれる人」
である、
ということに、気づかれると思います。

ここで、
 「わざわざ、嫌いな人に近づきましょう。まとわりつきましょう」
なんていう、『 浄化ドM道 』をお勧めするするつもりは、
まったくありません ^^ 。

僕自身、そんな『強者(つわもの)』ではないし、
そんな厳しい道を、あえてお勧めするつもりも、ありません。

ただ、
そんなふうに思えると、
 「『嫌いな人』って、じつは、ありがたいのかも ... 」
そんなふうに思えると、

 「嫌な人だから、すぐに、遠ざかりたい」
 「きらいな人だから、避けたい」
そんな自動反応に、
一度、ストップがかかるかもしれません。

そして、
 「わっ、嫌だ!」
という反応が、不快さが、
すこし、和(やわ)らぐかもしれません。

そして、
すこし、気が楽になり、
そして、
すこし、浄化を進められるかもしれませんね。

そんなふうに、思います。







一番大きいのは、自分の声

小学生の息子と、
幼稚園生の娘が、いるのですが、

この二人は、
 「元気だけが取り柄」
的な、
非常に、元気で、活発な、子供たちです。

そして、
そんな「元気な子」らしく、
家の中でも駆け回り、
出す声も、とても大きいです。

つまり、
 「とっても、騒々しい」
子供たちです ^^; 。

そういうお子さんをお持ちの方は、
よくお分かりだと思いますが、

この夏休み期間、
二人とも、
学校に行かずに、家にいますので、
家の中は、ズ〜ッと、騒がしいです。

そして、
二人でいるので、
そうなると、けんかも絶えず、
結果、ますます、うるさいです。


そんな状態のときに、
自分の内側を観察してみると、

自分が感じている『うるささ』が、
いつも一定なわけではない、ということに気づきます。

しかも、それは、
その、子供たちが発している「音の大きさ」に依存しているわけではなく、
むしろ、
その、子供たちが発している「音の内容」によることが分かります。

たとえば、
二人が、純粋に仲良く、楽しそうに遊んでいるときには、
その声や音が、興奮具合にともなって、多少大きくなっても、
こちらが感じるうるささは、たいしたことがなかったりします。

ところが、
たとえば、
上の子が、下の子に、すこし意地悪をしたようなときの声だったり、
下の子が、上の子に、わがままな要求をしているようなときの声だったりすると、
とたんに、とてもうるさく感じたりします。

あるいは、
自分が感じている『うるささ』が、
子供たちが発している「音」には一切関係なく、
自分の「こころの状態」「余裕具合」によっているときなどがあります。

たとえば、
ただ、何も考えず、何もこころに湧き上がって来ていないようなときには、
相当に大きな音が鳴り響いていても、
自分としては、まったく、うるささを感じなかったりします。
ただ、その状況・様子を、ただ、眺めているだけで、
『うるささ』というものは、感じていなかったりします。

ところが、逆に、
自分が、やり終えてしまいたい仕事をしているときや、
特に、文章を考えているようなとき、内容を推敲(すいこう)しているようなときには、
ちょっとした話し声であっても、
とてもやかましく、とてもさわがしく、とてもうっとうしく感じたりします。
すっごく、イライラさせられたりします。


そのようなときに、
もう一歩、さらに内側に入って、
もう少し、しっかりと、細かく、
聞こえてくる、その『うるささ』を聞き入ってみると、

じつは、その、聞こえている「音」の中に、
『自分自身の声』が入っていることに、気がつきます。

そして、
じつは、その『自分自身の声』の『量』や『内容』こそが、
自分が感じているうるささを、決定している、ということに、気がつきます。

 「そんな意地の悪いことをして ... 」
 「いくらなんでも、それはわがまま過ぎるだろ ... 」
 「あぁもう、騒がしくて、進まないよ ... 」
 「うるさくて、ぜんぜん、書きたい言葉が浮かんで来ないよ!!」

そんな、『自分自身の声』こそが、
一番大きな音量で、自分に降り掛かってきている、ということに、気がつきます。

一番大きいのは、自分自身の声なのです。


そして。

そんなことに気づいてから、
ひとつ、納得できたことがあります。

 「怖い」と思っているとき。
 「できない」と感じているとき。
 「嫌だなぁ」と気が進まないとき。

そんなとき、
いくら他人に説得されても、勧められても、
どうしても、できないことが、多々あります。

 「大丈夫」
 「たいしたことないよ」
 「やってみれば、そんなに嫌じゃないよ」
 
いくら、そういわれてみても、
どうしても、できないことが、よくあります。

また、
他人を、言葉で、
説得したり、勇気づけたり、納得させようとしても、
それって、なかなか、できないことですよね。

それは、
その人の内側では、その人自身が発した声が、
一番大きく、鳴り響いているからなんですね。

 「いやぁ、そうは言われても、怖いよ ... 」
 「でも、できそうにないよ ... 」
 「でも、なんか、嫌なんだよなぁ ... 」

そんな声が、
その人の内側では、
その人の『宇宙』では、
一番の大音量で、鳴り響いているんですね。

そして、
そんな声を発している『元』こそが、そんな『声の主』こそが、
『エネルギーブロック』なのです。





『感じること』と、『考えること』


『浄化』って、
いったい、
何をしているのでしょうか?

具体的に、
何をしているのでしょうか?


浄化によって、
私たちは、
 エネルギーを、
 「取り除い」ています。
 「捨て去っ」ています。

あるいは、
 エネルギーを、
 「手放し」ています。
 「解放し」ています。

あるいは、
 エネルギーを、
 『流し』ています。


その、
 「取り除き、解放し、流している『エネルギー』」
は、
いわゆる『エネルギーブロック』と呼ばれる「エネルギー」ですが、

それ(『エネルギーブロック』)は、
過去において、
 「ただ『流す』」
ということができずに、
自らの中に、
 「『溜(た)めて』しまったエネルギー」
です。

過去、
その「エネルギー」がやって来たときに、湧き上がって来たときに、

 「ただ、あるがままに『認め』、あるがままに『流す』」
ということができずに、

 「いやだから」
と、『感じ尽くさなかった』エネルギーです。

 「辛(つら)いから」
と、『意識をそむけてしまった』エネルギーです。

 「よくないものだから」
と、『押さえ込み、蓋をしてしまった』エネルギーです。

そうやって、
自ら、自らの中に、
溜めてしまった、留(とど)めてしまった、エネルギーです。

 「『封印してきた』エネルギー」
 「『無かったことにしてきた』エネルギー」
なんていう表現も、できるかもしれません。


そして、
『浄化』とは、

その、
溜めてしまった・留めてしまったエネルギーを、

取り除いてあげる作業です。
解放してあげる作業です。
『流して』あげる作業です。


具体的には、
 「『感じ尽くさなかった』ために、溜まってしまったエネルギー」
なので、
『感じてあげます』。

 「『意識をそむけてしまった』ために、溜まってしまったエネルギー」
なので、
『意識を向けてあげます』。

このように、
 「『感じる』こと」
 「『意識を向ける』こと」
によって、
 「エネルギーを『取り除く』こと」
 「エネルギーを『解放する』こと」
ができます。

 「エネルギーを『流してあげる』こと」
ができます。

『浄化』とは、
そのように、
エネルギーを、流してあげる作業です。

また、
つまり、
 「『感じる』『意識を向ける』」
というのは、

具体的には、
 「エネルギーを『流す』」
ということになります。


ところで。

津留さんの言葉に、
 「『考える』人生から、『感じる』人生へ」
という言葉があるように、

 「『考える』こと」
と、
 「『感じる』こと」
とは、
いわば、「両極」にある、
とても対照的な意味・内容の言葉です。

そして、
それらは、
さきほどの、「エネルギーに対する『作用』」においても、
対照的な働きをします。

 「『感じる』こと」
が、
 「エネルギーを『流していく』作用」
をするのに対して、

 「『考える』こと」
は、
 「エネルギーを『溜めていく』作用」
をします。

『感じている』とき、
エネルギーは、「流れ」、「解放され」、「出て行く」のに対して、

『考えてる』とき、
エネルギーは、「留まり」、「蓄積され」、「溜まって」いきます。

『感じる』と、
内側にあるエネルギーは、「収縮し」、「減少していく」のに対して、

『考える』と、
内側にあるエネルギーは「膨張し」、「増大して」いきます。

『感じている』とき、
私たちの『意識の中心』『意識の核』は、
『エネルギーブロック』の外にあり、
そして、
外側から、『エネルギーブロック』に対して、エネルギーを注ぎます。
外側から、『エネルギーブロック』を覆(おお)い込み、それを収縮させていきます。

それに対し、
『考えてる』とき、
私たちの『意識の中心』『意識の核』は、
『エネルギーブロック』の内にあり、
そして、
内側から、『エネルギーブロック』に対して、エネルギーを注ぎます。
内側から、『エネルギーブロック』にエネルギーを注ぎ込み、それを膨張させていきます。

『考えてる』とき、
私たちは、
『エネルギーブロック』と「一体化」してしまっています。
『エネルギーブロック』の内側に、入り込んでしまっています。

そこで放たれたエネルギーは、
すなわち、
『エネルギーブロック』の内側で放たれ、
『エネルギーブロック』という袋の中で放たれ、
結果、
『エネルギーブロック』そのものが膨張していきます。


『思考』に居るとき、
私たちは、浄化ができません。

それは、
『思考』に居るとき、
私たちは、
 「エネルギーを流し、
  『エネルギーブロック』を解消・消滅させていく」
ということが、できないからです。

それをできるのは、
 「『感じている』とき」
です。

それをできるのは、
 「『思考』から離れ、かつ、『感じている』とき・『意識を向けている』とき」
です。


『思考』に居るとき、
私たちは、
 「エネルギーを溜め込み、
  『エネルギーブロック』を形成・膨張させていく」
ということが、できます、
逆にいうと ...

『思考』に居るとき、
私たちは、
 「心配を増大させ」
 「恐れを拡大させ」
 「怒りを増強させ」
 「悲しみを深化させ」
ることができます。

そうやって、
私たちは、
『エネルギーブロック』を増やし、増大させ、強化して来ました。

そして、
それによって、
私たちは、
 「『人間』らしく」なってきました。
 『人間体験』を増やしてきました。
 『人間』を極めてきました。

それによって、
『神』が、
『神ならざる者』に、成ることができました。

 「『考えること』『思考』」
には、
そんな役割も、ありました。

もちろん、
いまでも、そのような作用は、有効ですので、
ぜひ、ご活用いただきたいと思います、
もし、まだ、「『人間』であること」を、深めていきたいなら ...


 「『浄化』とは、
  いったい、何をしているのか?」

そして、
 「『感じる』とは、『考える』とは、
  いったい、どういうことなのか?」
 「それらは、『浄化』に際して、
  どのような意味を持つのか?
  どのような作用をもたらすのか?」

ということについて、
ある一側面から、
お伝えいたしました。

この部分を理解されると、
 浄化そのものに対する理解が深まり、
 そして、
 浄化がよりスムーズに進むのではないか
と、思っています。

この部分を理解されると、
 「浄化をするときに、どうして、思考から離れる必要があるのか?」
ということについて、
より、ご理解いただきやすいのではないかと思います。

また、
浄化をするときに、
『感じる』『意識を向ける』ことができていると、
よりうまく、よりしっかりと(あるいは、「より効率的に」)、
浄化をすることができるか、ということについて、
より、ご理解いただけるのではないかと思います。

ただし、
たとえば、M2を使った浄化などは、
たとえ、うまく『感じる』『意識を向ける』ことができなかったとしても、
浄化はできますので、ご心配は無用です。

ただ、そのとき、
『考えている』と、『思考』にいると、
やはり、浄化はできません。

 「『思考』から離れる」
という訓練は、ぜひ、なさってくださいね。






2014年8月3日日曜日

夏期休暇のおしらせ

このブログの、前回のエントリーから、
2週間が経ってしまいました。

その間、
子供たちが、夏休みに入ったのを機に、
意識して、
子供たちを過ごす時間を、出かける機会を、
増やしてきました。


おかげさまで、
ほんとうに、おかげさまで、
普段、とても忙しくさせていただいています。

先週には、
『津留さん交流会』が、1周年を迎えることができました。

『浄化実践講習会』も、
「入門編」を新設しました。

津留さんの商品も、
みなさまに、変わらず、お求めいただいています。

そして、なにより、
個人セッションへのご要望を、たくさん、いただいています。

それらのおかげで、
普段は、土日を、『仕事』に当てることが多くなっています。
土日は、仕事を優先させることが多くなっています。

そこで、
小さな子供たちには、
普段、我慢をさせていることが多くなっています。

ということで、
夏休みに入ってから、
子供たちと、いろいろと出かけて、いろいろと遊んでいます。

もちろん、
親である、僕(たち)の休暇でもあるわけですが ^^ 。


最初の週には、
横浜の中華街に出かけ、
ランチバイキングを楽しんできました
(「食べ過ぎて、お腹が痛くなったかどうか」は、聞かないでください ^^; )。

また、
「ポケモン好き」の子供たちの要望で、
JRの『ポケモン・スタンプラリー』にも、行きました。


そして、
先週は、
北海道に、旅行に行ってきました。

小さい子供2人と、僕の両親と、僕の、5人で、
行ってきました。

 「飛行機に乗りたい!」
という、子供たちの願いを叶えるため ^^ 。

両親に、
大好きな孫たちとの、楽しい思い出を作ってもらうため。

そして、なにより、
妻に、小さな子供たちから解放されて、
ゆっくりと、休養を取ってもらうため ^^ 。

妻には、
上の娘と、二人で、じっくりと過ごしてもらうことも、
意図していました。


また、
僕自身としても、
 「旅行を通じて、
  両親と、緊密な時間を過ごしておきたい」
という想いがありました。

ご存知のとおり、
この3月に、義母を見送りました。

僕の両親より、10歳も若い義母の旅立ちに接し、
僕自身の、両親との関係も、最終局面に入っていることを、
いやおうなく、痛感させられました。

 「いつ、そういう時が来たとしても、
  後悔のないように、後悔の少ないように、
  楽しい思い出を、作っておきたい」
というように、純粋に、思えるようになりました
(それには、妻の直接的な助言もありました)。

それは、また、
 僕自身の、両親との関係において構築された『ブロック』が、
 ある意味、『順調に』、解消されてきた
ということでも、あります。

妻や、あるいは、個人セッションに来られる方々に比べれば、
僕の場合、
両親との関係から受け取ったブロックは、さほど深刻ではありません。

おかげさまで、
とても幸せな幼少期を過ごしてきたと、認識しています。

ですが、とはいえ、
いや、だからこそ、そのようなケース特有のものを、
それなりに、いろいろと、もらい込んでいることは、
顕在意識においても、しっかりと自覚しています。

ですので、それらのうち、
特に、相対的に『重いもの』については、
日ごろ、ときどきですが、
浄化してきました。

ただ、
フロイトやユングの心理学において、
 『エディプス・コンプレックス』『父親殺し』『母親殺し』
といわれるものがあるように、
私たち人類は、
集合意識(『集団的無意識』)の中に、人類全体として、
親との関係における様々な問題・想いを、溜め込んできています。

ですから、
親との関係を、完全に、すっきりさせるのは、
やはり、なかなかに難しいものなのではないか、
と、思っています。

少なくとも、僕には、
まだまだ、難しいテーマです。

だから、
 「両親と、一緒に旅行に出かけて、密度の濃い時間を過ごすことは、
  できるならば、避けたい」
という想いが、これまでは、ありました。

ただ、
「完全に」は、まだまだですが、
「ずいぶんと」、すっきりは、してきたんだと思います。

そんなことで、
先週は、子供たちと、両親と、旅行に行くことができました。

そして、
純粋に、たっぷりと、
楽しんでくることができました。


そして。

今週は、
今度は、妻といっしょに、
子供たちと、家族で、
旅行に行ってきます ^^ 。

家族で、しっかりと緊密な時間を過ごし、
新たな、楽しい思い出を、作ってきたいと思います。

というわけで、
今回の記事は、
なんと、「『夏休み』のおしらせ」という内容でした ^^ 。


8月5日(火)から、10日(日)まで、
集合人編集局は、夏期休暇に入らせていただきます。

その間、
商品のご注文につきましては、
ホームページから、通常通りに、お受けいたします。

ただ、
ご確認メールの送信、および、商品の発送は、
11日(月)以降になります。

ご不便・ご迷惑をお掛けいたしますが、
以上、ご理解を賜りたく、
よろしくお願い申し上げます。


では、
楽しんで来ま〜す ^^ 。

みなさまも、
すてきな夏をお過ごしください。