2017年11月28日火曜日

子育て こんなケースも

 
 先日の記事、「 幸せな幼少期 」と、
 その元となった記事「 子育てに当たって、「このごろ思うこと」 」とで、
 
 僕が、子育てについて思っている、
 
  価値観を与えてしまうことを、
  ブロックを与えてしまうことを、
  あまり、恐れないでください。
 
 ということを、
 お伝えしました。
 
 
 そこでは、
 前提として、
 
  ブロックを与える親
   → ブロックを受け取る子ども
 
  ブロックを与えない親
   → ブロックの無い(少ない)子ども
  (→ でも、それゆえに、大人になってから苦労)
 
 といったケースを、
 想定し、ご紹介し、
 そして、話を進めました。
 
 
 ところが。
 
 僕が、それらでは、想定していなかったケースを、
 実例として、今回、教えていただく機会がありました。
 
  「こんなケースも、実際にあるのだ、あり得るのだ」
 と、お知りになると、
 
 さらに、子育てに際しての、
 不安感が、過剰な責任感が、少なくなるのではないか、
 と思い、
 
 ご本人の許可をいただいて、
 以下に、ご紹介させていただきます。
 
 
 きっかけは、
 大阪での、「『お金』浄化ワークショップ」でのことです。
 
 ご参加くださった方のお一人が、
 ワークショップの中で、
  「子育てについて、不安に感じてしまう」
 という趣旨のことを、おっしゃったので、
 
 僕は、そのときに、
 先のブログ記事の内容を、お伝えしました。
 
 その方が、ワークショップの後、
 そこでの会話のご感想や、ブログ記事を読まれたご感想を、
 メールしてくださったのですが
 (ありがとうございました)、
 
 そこに、その方の、
 以下のような実例が、書かれていました。
 
 
 ----------
 
  私は、
   「理想的な子育てをしてきたと周りからも思われる、
    そして自分自身もきっとそう自負している母」
  に育ててもらいました。
 
  怒られた記憶は一切ないですし、
  愛情たっぷりに育ててもらいましたし、
  いつも褒められていました。
 
  けれど、私の受け取り方がひねくれていて(笑)、
  褒められたら素直に喜んで自信に繋げず、
 
   「それ以外のことをしたらダメなんだ」
 
  と、どんどん自分のいられる範囲を狭めてきたんだと思います。

  それを「母親のせいだ」と思う怒っている自分と、
  愛情深く、母が思う最善の方法で育ててくれた母に対してそんなことを思う自分を、
  責める自分もいました。
 
  そこらへんはだいぶクリアしてきたつもりですが、
  まだたまに出てくるので、その都度、ちゃんとM2で浄化していこうと思います。
 
  ----------
 
 
 先の書き方で表すと、
 
  ブロックを与えない親
   → ブロックを受け取る(作り出す)子ども
 
 という、
 頭で想定すると、ちょっと、ありえなさそうなケースも、
 実は、ちゃんと、存在しているんですね!
 
 
 この実例をお聞きして、
 (その方には、ちょっと、失礼かもしれませんが)
 僕は、ものすごく、ホッとしました。
 
  親が、どういう状態で、
  どう、子育てをするか、子どもに接するか
 
 と、
 
  それを受けて、
  子どもが、どう、育つか
 
 とは、
 
 (そこに、「傾向」「可能性の高低」こそ、あるとしても)
 やはり、「一対一の関係」ではなく、
 
  それぞれに、ケースバイケースである
 
 ということを、
 「実例」として、証明できた感じがしたからです。
 
 この実例をお聞きして、
 こころから、納得ができました。
 こころから、自信が持てました。
 こころから、安心できました。
 
 
  「自分が、子どもに対して、どう接し、どう振る舞うか」
 と、
 
 それを受けて、
  「子どもが、どういうブロックを持つか」
 とは、
 
 (そこに、「傾向」「可能性の高低」こそ、あるとしても)
 確定的ではない。
 
 改めて、
 そう、思ってみてください。
 
 
 僕は、今回、
 そう、改めて、しっかりと思えたとき、
 まず、
 
  「自分は、子どもとの接触・やり取り・関係を通じて、
   『自分自身の体験』をしているんだ」
  「『自分の体験』として、子どもと接しているんだ」
  「『自分の体験』のために、子どもが存在してくれているんだ」
 
 と、
 深く、納得できました。
 
 「子ども」という他人が、
 外側に、確定的に、現実的に、存在していると認識していて、
 
  「(その)子どもに、どういう影響を与えてしまうか?」
 を、
 常に、気にしながら、ときに、ビクビクとしながら、
 子どもに接している、
 そういう「自分の中の『自分』」の部分が、
 
 今回、ずいぶんと、昇天していったように思います。
 
 
 と同時に、
 今回、
 その作用を経て、強く想ったのは、
 
  「では、自分が、子ども時代に、
   親との関係から握ったブロックは、
   それは、『自分が握りたかったから』握ったブロックなんだ」
  
  「親から与えられたものではなく、
   親から押し付けられたものではなく、
   『自分が握った』『そして、自分が握り続けた』ブロックなんだ」
 
 と、素直に、思えました。
 
 このことが、
 今回の僕にとっては、
 いまの僕にとっては、
 
 とても大きな気づきであり、
 とても大きな安堵・安らぎとなりました。
 
 
  「自分しか居ない」
 んですね。
 
 
 そして、もう一つ。
 
 先の想定式では、
 
  ブロックを与えない親
   → ブロックを受け取る(作り出す)子ども
 
 として、
 今回実例を教えてくださった方のお母さまを、
 「ブロックを与えない親」と、分類・表現しましたが、
 
  「怒らない」
  「愛情たっぷり」
  「いつも褒める」
 
 というのも、
 一つの『偏り』であり、
 
 それはそれで、
 『ブロック』なんですね。
 
 いわば、
  「『ポジティヴ』な偏り」
  「『ポジティヴ』なブロック」
 とでも言う。
 
 それも、たいへん勉強になりました。
 
 僕の中の、
 そちらを希求する想いも、それを良しとする想いも、
 明らかに、「ブロック」ですね。
 
 それを、改めて、認識できました。











2017年11月26日日曜日

「どちらも」は、ありえない って、決めつけてませんか?

 
 今回の、大阪イベントの往復には、
 飛行機を利用しました。
 
 往路は、
 久しぶりに、窓側の席に当たり、
 天候も、晴れ。
 しかも、昼間の時間帯だったため、
 
 いくつか、
 記憶に残る光景を目にすることができました。
 
 
 まず、富士山。
 
 雪を抱き、
 雲も纏(まと)い、
 ある意味、とても富士山らしいお姿を、
 
 ほぼ真上から、
 拝ませていただけました。



 座席が、窓側とはいえ、
 右側だと分かったとき、
 
  「あぁ、せっかくの窓席だけど、
   富士山は、ダメだな」
 
 と、残念に思いました。
 
 よく利用する、その航空会社の航路では、
 富士山は、いつも、飛行機の左側に、見えるからです。
 
 離陸後、
 千葉上空、
 続いて、東京上空を滑空し、


 順調に、
 神奈川、そして静岡に、入って行きます。
 
 眼下に、山中湖が見えたときには、
 
  「あぁ、やっぱり、ダメだな。
   いつもよりは、北側を通ってくれているけど、
   でも、この感じだと、こちら側の窓からは、見えないな ... 」
 
 そう、思っていると、
 
 機体が、突然、
 わずかに、左に旋回しました。
 
  「えっ ... 」
 
 そのタイミング、その方向に、
 ビックリしました。
 
 案の定、
 そのおかげで、
 見えていた富士山麓の範囲が、増大していきます。
 
 徐々に、
 白い山肌が、左方向から、流れてきました。
 
 結果。
 
 富士山を、
 そのお釜が覗けるくらい、真上から、
 拝ませていただけました。
 
 写真を撮りつつも、
 その光景を凝視し、
 脳裏に焼き付けました。
 
 
 その後、
 飛行機は、順調に、航路を消化していきます。
 
 ついに、
 和歌山上空にまで達し、
 紀の川、さらには和歌山城も、目視できました。
 
  「このあたりで、右旋回して、北に向かい、
   もうすぐ、着陸だな」
 
 遠方ながら、関空も見えており、
 これまでの体験から、
 そう、思っていると、
 
 飛行機は、
 いつまでたっても、直進を止めません。
 
 紀伊水道に入っても、
 淡路島が見えてきても、
 西行を止めません。
 
 ついには、
 淡路島の中程にまで、入り込んで行きます。
 
  「いやいや、そこまで行って、大丈夫なの?
   いや、この飛行機って、九州行きだったっけ?」
 
 そんな愚かしいことを、
 一部で、本気に、心配する気持ちが湧きはじめたころ、
 
 ようやく、
 機体が、右旋回をはじめました。
 
 その時です。
 
 この映像が、肉眼に、飛び込んで来ました。
 
 2015年、沖縄からの帰路 以来の、
 機体ブロッケンです。


 
 高度を下げつつ、淡路島上空に入って、
 そこではじめて、機体が雲が近づき、
 
 そのうえに、
 機体を旋回して、角度が変わり、
 
 そこではじめて、
 僕の席から、窓から、
 見ることができた、現象でした。
 
 
 その後、
 若干東よりに北上した飛行機は、
 神戸上空にまで進み、
 僕の席からも、大阪市街を、眺めることができました。
 
 そして、
 最後にもう一度、右旋回したときには、
 このように、黄金に光輝く大阪湾を、見せてくれました。


 
 
 事後、振り返って見れば、
 すべては、『僕のために』に、
 整えられ、与えられたことでした。
 
  窓席があてがわれたこと。
  
  それが、右側であったこと。
 
  富士山手前での、航路の微調整。
 
  淡路島への、直進。
 
  神戸・大阪までの、北上・大回り。
 
 でも、結果を知らない僕は、
 事前には、
 それらの出来事・展開を、
 不満に思い、あるいは、心配すらしていました。
 
 もたらされる結果が、
 予想すらしていない、最高のものであるにもかかわらず ...
 
 
 これまで、自分が体験してきたこと、
 これまで、自分が認識してきたこと、判断・評価してきたこと、
 
 そこにおける、事の成り立ちのカラクリを、
 見せつけられた気がしました。
 
 
 さて、
 大阪でのイベントを、
 おかげさまで、すべて、無事に、終えた後。
 
 来年から、もう一つの、新たな仕事となる、
 「うさと服」の販売
 
 その、本拠地である、京都を、訪れ、
 うさとのお店を覗いて、うさと服についての勉強をしてきました。
  
 営業時間以外には、
 「美的感覚」そのものを養おうと、補おうと、
 
 京都の町を散策したり、美術館を訪れたりできて、
 充実した時間を過ごすことができました。
 
 
 11月中旬の、秋の京都は、
 紅葉真っ盛りでした。
 
 樹々の様子、山々の色づき、
 庭園の佇まいなど、
 
 感じることが多く、
 学びとるべきことに溢れていました。


 
 そんな中。
 
 訪れた二カ所で、
 このような光景を目にしました。




 
 これまでにも、
 「桜の狂い咲き」は、何度か、
 いえ、何度も、目にしてきましたが、
 
 このときのように、
 楓などの紅葉と併置された様子を見たのは、
 はじめてでした。
 
 それらを目にして、
 地球から、このように言われているように、
 思うことがありました。
 
  「どちらか」しかない って、思っていませんか?
  「どちらも」は、ありえない って、決めつけてませんか?
 
 
 また、その後には、
 このような光景にも、出会いました。



 アオサギに、野生の大型の鳥に(カラスを除く)、
 このようにまで、近づくことができたのは、はじめてでしたし、
 
 そのアオサギの視線の先には、
 「鳥の天敵」とも言うべき猫が、しかも数匹、
 くつろいで、存在している光景も、はじめてでしたし、
 
 両者が、
 (多少の警戒感を持ちつつも)敵対的・対立的でなく、
 共存している光景も、はじめてでした。
 
 何か、
 「自分が知っているプログラム」とは、異なるプログラムに基づいた映像が、
 上映され、見せられている気がしました。
 
 「自分が慣れ親しんで来た地球・日本」とは、かなり違う場所に、
 ワープし、存在させられている気がしました。 
 
 
  これまでは、どうであったとしても、
  これまでの、ありようは、どうであったにせよ、
 
  これからは、「どちらも」を、選択できますよ。
 「どちらも」を、選択してもいいんですよ。
 
  いままでを、引きずらなくていいんですよ。
  
  そして、すべては、あなたの選択次第ですよ。
 
 そう、
 地球から言われているように、
 感じました。










2017年11月25日土曜日

『第7回大阪イベント』を終えて


 2017年11月17日(金)、18日(土)、19日(日)の3日間、
 大阪で7回目のイベントを、開催することができました。


 冬の寒さに満ち、街中では黄色く色づいたイチョウが目立つ、
 11月の、大阪で、
 
 津留さん交流会に10名、
 個人セッションに6名、
 
 そして、今回が、大阪では はじめてだった、
 『お金』浄化ワークショップに10名、
 
 計26名の方々が、ご参加くださいました。
 
 おそらく、今回がはじめて、
 募集した定員すべてが埋まるという、
 「満員御礼」のイベントで、
 
 いつもに加えて、一つ多く、嬉しさを感じましたし、
 また一つ、新たな体験をさせていただけました。
 
 ご参加くださったみなさん、ありがとうございました。

 
 『お金』浄化ワークショップでは、
 みなさんが、たくさん、質問してくださり、
 そして、気づいたことを、シェアしてくださり、
 
 活発な雰囲気の中で、進めることができて、やり易かったですし、
 こちらも、気づけたこと、知ることができたことが多く、楽しかったです。
 
 
 個人セッションでは、
 これまで同様に、浄化をしっかりとしてくださる方や、
 今回は、お話しすることがメインの方や、
 僕に、いろいろ、気づき・情報を教えてくださることがメインの方など、
 バリエーションも豊富で、楽しく、気づきも多く、
 そんな中で、個人セッションをさせていただくことができました。
 
 
 交流会は、顔なじみの方々が多数お越しくださり、
 はじめての方も、ご参加くださり、
 そんな中、とても深い理解をシェアしてくださる方が多く、
 会話も活発に行き交い、素晴らしいお話をたくさん伺え、
 とても楽しく、気づきもたくさん得られました。
 
 
 今回も、たくさんの方にお会いでき、
 たくさんの、学び多い、素晴らしいお話をお聞きでき、
 とても楽しく、とても嬉しかったです。
 
 ここのところ、大阪には、定期的(半年ごと)に伺えて、
 とても嬉しく思っています。
 
 また、伺うことになると思いますが、どうぞよろしくお願いします。
 また、みなさまにお会いできることを、楽しみにしています。
 
     集合人編集局 ひで


  イベントの様子につきましては、
  こちらの「 『第7回大阪イベント』のご報告 」のページをご覧ください。









2017年11月13日月曜日

幸せな幼少期


私たちの個人セッションに来てくださる方の、多くは、

幼い頃、
たとえば、感情表現の激しいお母さんや、とても厳しいお父さん、
などに育てられ、

その結果、
未解決の感情や、揺るぎない価値観、強烈な思い込み、
などを、抱え込み、身に付け、

それゆえに、
辛い、過酷な人生を、歩んでこられています。


ところが、
ほんとうに、稀(まれ)に、ですが、

その反対に、

幼い頃は、
とても優しくて、穏やかな、ご両親に、
しかも、経済的にも恵まれた環境で、育てられ、

その結果、
ほとんど、ブロックらしいブロックも、身につけることなく、

何一つ、苦労も不満も無く、
平和で、順風満帆で、幸せな人生を、
送られて来られた方が、いらっしゃいます。


ところが。

では、何で、そのような方が、
私どもの個人セッションに、いらしてくださるのか、
というと、

そのような方の場合、
今度は、たとえば、結婚後に、

 「夫が ... 」
 「義母が ... 」
 「相手方の親戚が ... 」

これまでの、実父母とは、正反対に、
ブロックだらけの人で、

それらの人々との関わりで、
非常に辛い、強烈な体験をし、

それゆえに、
過酷なストレスを、味わわれておいで、
だったりするのです。


実は、
津留さんの姉であり、
私にとっての義母、故・山口潤子の体験も、
その口で、

裕福な家庭で、優しい両親のもと、
優秀な娘・学生として、

とても幸せな、『理想的』な、
前半生を送ったにも関わらず、

婚後、
夫と義母と、
反りが合わず、認められず、大切にされず、

苦痛と屈辱に満ちた、
結婚生活を送ったのでした。


義母のケースも含めて、
このようなタイプの方の場合には、

たとえば、
前半の、
幸せな、恵まれた、理想的な環境、

それゆえに、かえって、そのギャップから、

後半の環境が、より一層、
辛く、厳しいものと、感じられがちです。

前半の環境、それゆえに、
「不幸」や「辛さ」に対する『免疫』『抵抗力』が弱い分、

かえって、より一層、

後半の環境が、辛く、感じられがちです。

一度、望ましい状態を、体験してしまっているからこそ、
そしてそれを、『基準点』『標準点』『当然』としてしまっているからこそ、
かえって、

後半の境遇が、受け入れられず、信じられず、
「どうして! どうして ... 」
と、
嘆き、苦しみがちです。


あるいは。

「自分の人生」そのものは、相変わらず、幸せだけれど、
ないしは、
「自分の家庭」は、相変わらず、平和で幸福だけれど、

仕事で、職場で、社会で、
関わっている人々の多くが、
自分とは反対に、不幸な家庭で育ち、
ブロックを多く身に付けた人々だと
(そのようなケースは、多いと思います)、

そのような人々の心情が分からず、理解できず、
それゆえに、
それらの人々に、
どのように接したらいいか、
どのように恊働したらよいか、
どのように導いたらよいのか、
分からず、

それゆえに、苦しんだり、苦悩したりするケースも、
見受けられます。


このようなタイプの人生を歩まれた方々の存在や、
このようなタイプの人生のありようを、
お聞きになられて、

 お感じになること
 お思いになること
 気づかれること
は、
みなさん、さまざまであろうと、思います。

僕が、ここで、特にお伝えしたいと思うのは、
次のような、二つの点です。


一つ目は、

この記事の最初に書いたように、
人生に苦しんでらっしゃる、多くの方は、

幼少期、恵まれない環境に生まれ、育たれ、
それゆえに、
当時の環境・境遇を、憎んだり、恨んだりされ、

そして、
 「もし、母親が、もっと、こうだったら ... 」
 「もし、父親が、もっと、ああじゃなかったら ... 」

などと、
お思いになられることが、多いと思います。

もちろん、
そうお思いになられること、
それは、至極当然なこと、自然なことです。

そして、もちろん、
もし、過去の体験が、
そのような、望むような過去だったとしたら、

当時も、そして今も、
もっと、幸せだったかもしれません。


ですが、
仮に、もし、望みどおりの過去だったとしても、

いえ、
「望みどおりの過去だった」からこそ、
トータルとしては、よけいに、なおさら、

辛い体験をするかもしれない、

という、可能性があることについて、
一度、しっかりと、検討・熟考なさってみてください。

今、お読みになられた事例を踏まえ、
一度、ちょっと、検証・熟慮なさってみてください。

これまでの固着した考えや、
いま感じていらっしゃる、動かしがたい辛さが、
すこし変わられる可能性が、おありなのではないかと思います。


そして、二つ目は、
僕としては、これが、もっともお伝えしたいことですが、

僕は、過去に、このブログで、
お子さんをお育て中の方(あるいは、過去に、育てられた方)に向けて、

 価値観を与えてしまうことを、
 ブロックを与えてしまうことを、
 あまり、恐れないでください。

と、書きました
(過去記事「 子育てに当たって、「このごろ思うこと」 」)。

もう、4年近く前に書いた記事ですが、
今も、僕は、ほぼまったく同じことを、思っています。


そして、それに加えて、
今日、ご紹介したような事例があることを、
ぜひ、ご勘案さなってみてください。

一般的に言うような、
スピリチュアルな世界で、言われているような、
あるいは、自分が考えているような、
理想的な状況を、

『ご自分は』、
お子さんに与えられたとしても、

それが、必ず、ご自分の子さんにとって、
『最善』であるのか?

あるいは、
『ご自分は』、それを与えられないと、
お子さんにとっては、ダメなのか?

改めて、すこし、
考えてみてください。


ご自分が、そもそも、お子さんに、
理想的な状況をもたらしたかった、
その動機となった想いは、

果たして、
「ブロックを与えない」ということを、ご自分が、ちゃんともたらせたところで、
ちゃんと、果たされるのでしょうか?

改めて、すこし、
考えてみてください。


また、

このことは、
先に紹介した、過去記事 にも、書きましたが、

場合によっては
(というか、『体験』と言う観点からは、
 基本的に、そうなのですが)、

 「ブロックを与えることこそが、親の役割」
だったりします。


妻の裕子さんが、よく言っているのですが、

自分の子どもとして、
同じように接して、同じように育てても、

子どもによって、
受け取り、握る、ブロックは、
それぞれ、まちまちです。

場合によっては、
こちらからブロックを与えようとしても(たとえば、特定の道徳観念など)、
子どもの方で、断固、受け取りを拒否する場合があります。

上の子は、受け取ったのに、
下の子は、受け取らなかったりします。

あるいは、場合によっては、
自分(親)が持っていないブロック(たとえば、自分と正反対の道徳観念)を、
自分の言動を通して、
子どもの方で、勝手に(誤解して)、身につける場合もあります。

そのようなやり取りを思い返してみると、
子どもというのは、
親との関係を通じて、
自分に必要なブロックを、自分の都合で、自分で選択して、身につけるんだなぁ、
と、思わざるを、認識せざるを、得ません。


自分(妻)の身体から、生まれい出てきて、
それを、厳然たる『事実』として、体感し、目にし、認識していて、

しかも、
自分が世話をしなければ、何もできない、生命そのものが危うい、

そんな状態・関係を、たゆまず経過して来た、体験して来た、
その対象である、自分の子どもに対しては、

まず、そもそも、
無条件に可愛く、
だからこそ、できる限り、最善の状態になってもらいたい、
という願望があって、当然ですし、

加えて、
 「自分が、育てている」
 「しかも、子どもは、無力だ・非力だ・よく理解できていない」
 「だから、自分に、責任がある」
 「自分が、最善をもたらさねば」

という発想が、湧いてきて、
そんな想いを握っていて、
当然です。


ですが、
『結果』、どのようなことになるのか、は、
基本的に、「親」の想いや、行動、責任の範疇を超えたものである、
と、認識せざるを得ない。

そんなふうに、思っています。


ですから、
決して、望んだような、ベストな、子どもに対する対応ができなかったとしても、
ときに、自らの想いとは反対の行為を行ってしまうことがあったとしても、

そのことを、過剰に恐れたり、
そのことで、ご自分を、過剰に責めたり、
そんなことをされる必要は、ありません。

「親」である私たちも、『人間』であり、
『人間体験』の最中である存在です。

どうぞ、そのことにこそ、堂々となさってください。

また、そう思えると、
過去、ご自分が「子ども側」だった時の、
「親側」だった人々への想いも、
すこし、スッキリとされてくるのではないかと思います。

そして、
過去記事 の繰り返しになりますが、

大切なのは、
ブロックがあったとしても、それは、手放せること、浄化できること、
それを、親である 私たちが、自信を持って、知っていること、
だと思います。


同じ、子育て中の身として、仲間として、
子育てに関して、迷ったり、苦しんだりされている方のご参考になればと、
そう思い、それらの方々に向けて、書かせていただきました。

ご参考になることがあれば、
お役に立てることがあれば、
嬉しいです。












2017年11月12日日曜日

はじめての「再誕生ワークショップ」


昨日、
2017年11月11日、土曜日、
はじめての「再誕生ワークショップ」を、無事、行えました。


「無事、行えました」といっても、
企画、会場の手配から、当日の進行まで、
すべて、裕子さんが行いましたので、

僕がしたのは、
当日の、荷物運び、会場設営・片づけの手伝いくらい。

始まるまで、内容も、一切知らないままでしたので、
他の参加者の方々と、まったく同じように、
ワークショップに参加させてもらった感じです。

なので、
一参加者として、たっぷりと、楽しませてもらいました。


さて、今回は、3名の方々に、ご参加いただきました。
お一人は、長野県松本から、ご参加くださいました
(遠方からお越しくださり、ありがとうございました)。

ですので、
私たちを含めても、5名での、ワークショップで、

少人数での、
落ち着いた、和やかな雰囲気の中で、

お話・ご感想などをお聞きしながら、
ゆったりと進めることができました。

先の、名古屋での「『お金』ワークショップ」でも、そうでしたが、
 少人数でのワークショップは、
 それはそれで、特有の楽しさがあるなぁ
と、
認識を深めました。


また、内容も、
普段、僕が主体的に行っているワークショップに比べて、

身体を動かしたり、「スピリチュアル」な内容だったり、で、
 「あぁ、こういうワークショップも、ありだなぁ」
と、
個人的には、とても参考になると同時に、新鮮に楽しめました。

具体的には、

前半では、とくに身体を意識して、
体操などで身体を動かしたり、
サウンドツールを活用したりして、
チャクラを整えたり、活性化させるワークなどを行いました。

昼食の休憩をはさんだ、
後半には、

M2や、イメージングを活用して、
「過去の未消化の感情」や「思い込み」「価値観」などを浄化すること、
また、アファーメーションを活用して、
過去の自分を手放して、積極的に新たな自分に再誕生するワーク、
などを行いました。


さて、
今回の会場は、36畳の和室を借りることができました。

その半分で、ワークショップを行い、
残りの半分で、食事をしたり、休憩したり、荷物を置いたり、しましたので、
終日、ゆったりと、ここちよく、過ごすことができました。



また、会場の部屋の窓からは、
とても見晴らしよく、眺望きく景色が見られました。



あいにくの、小雨降る予報でしたが、
結局、幸いにも、雨には降られず、

逆に、その、分厚い雲のおかげで、
ときおり、光り降り降りる様子を、眺めることもできました。




さて、朝、会場での準備を終え、
その、見晴らしきく眺望を、裕子さんと二人で、眺めていたとき。

窓の外、下方から、
真っ白な、羽根が、一枚、浮かび上がってきました。

おそらく、鳩の胸羽でしょう、
小さめの、ほわほわとした、羽根です。

このブログのにも、書いたことがあると思いますが、
僕は、常々、個人的に、
「虹」とともに、「羽根」を目にすることを、
「OK」「それで良し」のサインと、決めているので、

まず、
それを目にしたことで、
こころが、和らぎました。


そのまま、その羽根の動きを眺めていると、
それは、私たちの目線の高さで、浮上を止め、
そのまま、その高さ近辺で、フワフワと漂い続けた後、
しばらくすると、横に流れるように、視界から消えていきました。

その動きが、
僕には、映画「フォレストガンプ」を、思い出させました。

その想念が、
その映画のことを、津留さんが好きだった、という情報を、引き出しました。

 「あぁ、津留さんが、挨拶に来てくれたのかなぁ。
  応援してくれてるのかなぁ」

そんなことを思うと、こころがさらに和みました。


そうして、無事に、ワークショップも進み、
終盤を迎えた、夕刻。

開けていた窓から、夕日が、差し込みます。

窓に寄り、外を見ると、
夕日が、富士山の横から、姿を見せてくれています。

その日は、終始、太陽そのものを見ることはできませんでしたが、
最後に、その姿を、現してくれた感じです。

 「再誕生 ... 」

そんなことを、感じ、
その日の内容に相応わしい幕引きを、見させていただいた気になりました。






とっても素敵なご感想をいただきました。
こちらの「 過去の 再誕生ワークショップ 」のページに、掲載させていただきました。










2017年11月10日金曜日

「ブロック」の装着


朝方、
まったきの静けさの中に、目覚めることがあります。


しーんと静まり返った、
「何も気配がない」という、気配。

動かぬ空気。

身体を有しているという、淡い感覚は感じられるものの、
感情は、そこには、存在していません。


そんなとき、
自分が誰なのか、分かりません。


思考は、動かさなければ、動かない状態。

そんな中で、
まず、
 「自分が誰なのか?」
を、探し始めます。

そのことに、思考を使います。


すると、
ひとつ、またひとつ、と、
ゆっくり、

記憶が、やって来ます。


そして、それと同時に、
感情が、胸に、到来します。

感情が、
ひとつ、またひとつ、と、やって来て、

それらを、
ひとつずつ、感じるようになってきます。


記憶に、感情が結びついていることが、実感できます。


またひとつ、
またひとつ、
と、
記憶が、やって来ます。

それは、まるで、
マジンガーZ系のロボットの身体に、
装備が、
ひとつ、またひとつ、と、
装着されていくように、

外から飛んで来ては、
身体に、
パシッ、パシッ、と、
くっ付いていきます。


それにともなって、
『自分』が誰であるのか、
思い出していきます。

『自分』が、
構築されていきます。


その結果、
まず、「昨日の自分」が出来上がり、

続いて、それが、
「それまでの自分」という、
「過去の自分の記憶のライン」の上に、乗っかり、はまり込みます。

そうして、
『自分』が、「連続した記憶」に結びつき、

「過去からの連続した『自分』」に、成ります。

そして、
そのときには、
「昨日までの感情」が、「いつもの感情」が、
完全に、復活しています。


『自分』が、

「記憶」と、
そして、「記憶」に付着した「感情」によって、
できあがっている、

そのことを、体感をともなって認識させられます。


そんな過程を、感じることがあります。



先日、
過去記事「 津留さんお墓参り2017 」を読んでくださった方から、
こんなメールを頂戴しました
(許可をいただきましたので、以下に、掲載させていただきます)。


  実は、当方も、最近(特に夜明け)
  「体感できる『反応』が、無い」 「認識できる『反応』が、無い」
  という感覚に浸ることが増えてきております。
  何を思っているかさえ、何を感じているかさえ、意識に上ってこないのです。
  
  想いや想念が湧きあがってこずに、ただそこに浸っている感じです。
  しいて言えば、そこに浸っている自分を観ていることだけの感覚です。
  
  津留さんが何度も仰っていた「ただ想念を観る。それだけです」
  折にふれて、それを意識続けておりましたが、
  その真意が分かりかけてきたような気がいたします。


そのメールを拝読し、
自分も、「朝方」に、その状態になることを、思い出し、
今日、記事にしました。


ところで、その方は、
「想念観察」を、ひたすら続けることで、
その状態になられ、
その感覚を感じられるようになられたそうです。

「自分に湧き上がる、想念の観察」
ご興味がお有りの方は、
ぜひ、なさってみてください。












2017年11月9日木曜日

「委ねられない」なんて、すごい!


先週でしたか、
いつものように、
何かを、懸命にしていました。

『現実』問題として、
僕が、それをしないと、
「それ」は、形になりません。

僕が、「しない」と、
それは、「現れません」。
「存在しません」。

だから、僕は、
何の違和感も無く、当然のこととして、
それを、していました。


しかも、そのときには、
それが、上手くできていないと、
望んだ結果が得られないと、思っていました。

だから、少しでも、上手くできるように、
懸命になって、作業をしていました。

上手く出来上がれば、
望んだ結果に、近づくと、

上手く出来上がらなければ、
望んだ結果とは、離れてしまうと、

心から、思っていたからです。


そこで、突然、
ふと、
このように、思いました。


  あれ、僕は、
 「自分がしないと、上手く行かない」って、心から、思い込んでいるんだな。
  そんな風に、思い込めているなんて、
  それって、逆に、すごいな!
 
 「自分がしている」って、思い込めているなんて、僕、すごい!
 
 「委ねられていない」なんて、僕、すごい!


これまでは、
「『委ねられていない』自分」が、当然で、
「『委ねられていない』自分」が、基点で、

そこから、
「委ねる」方向へ、進んでいく、進んでいこう、
と、

無意識のうちに、
その方向にだけ、意識が向いていたわけですが、

そのときは、
人生ではじめて、

「『委ねている』自分」の視点から、
「『委ねられていない』自分」を見て、

そんな自分に成れていることに、
そんな自分に成り切れていることに、

感心する感覚を、感じました。


私たちは、
「委ねている」人を、見て、
「委ねられている」人のことを、聞いて、

その人たちのことを、「すごい!」と、
無条件に、感心しますが、

考えてみたら(改めて認識してみると)、
「委ねられていない」って、
それもまた、同様に、すごいことですよね。

だって、
「自分は、人間だ」と、
「自分がしないと、どうにもならない」って、
100%、思い込めているわけですから ...


何きっかけで、そのように思ったのか、感じたのか、
よく、覚えていないし、認識できていないのですが、

そんなことを、
僕の人生では、はじめて、感じました。


僕は、
めでたく、
望みどおりに、
「『人間』に成り切れている」のだと、
そう、分かりました。










2017年11月1日水曜日

うさと展 はじめます


2018年1月から、
レムリアの記憶 " という屋号で、

うさとの服 展示販売会(通称「うさと展」)の、
主催をします。


個人セッションや、津留さん交流会など、
これまで、みなさまと接する機会には、
いつも、「うさとの服」を着ていました。


タイとラオスの、農村に暮らす女性たちが、
天然素材を、手紡ぎ・草木染め・手織りで織り上げ、作られる、
手間と愛情のこもった、ナチュラルな服。

携わる人、すべてが「アーティスト」であり、
出来上がった服は、まさに芸術作品。

でありながら、
そのナチュラルな素材とデザインゆえの、リラックスできる着心地。
日用品・普段着として着られる、デザイン・ラインナップと、価格帯。

そんなうさと服が、大好きで、
これまで、いつも、身に付け、楽しんできました。


その、「うさとの服」を、
ご覧いただけ、ご購入いただける、
「うさと展」を、

今後、
私たちが主催し、開催するできることになりました。


第1回目の会場は、
いつも、個人セッションや、津留さん交流会などを行っている、
「スペースあむりた」です。

ご興味がおありの方は、
どうぞお越しください。







 うさとの服展 @ 本八幡スペースあむりた(千葉県市川市)
 
  期 間: 2018年1月12日 〜 1月14日(3日間)
  時 間: 10:00 〜 18:00
  会場名: スペースあむりた
  最寄駅: 本八幡駅(JR総武線・都営地下鉄新宿線)/ 京成八幡駅(京成本線)徒歩10分

  詳細は、こちら のページをご覧ください。