2017年2月16日木曜日

2017ハワイ旅行 サウスポイント・「ダメな『自分』」を認める


 今回の、ハワイ旅行で、
 僕が、一番の気づきを得、
 それゆえに、
 一番書きたいと思ったことが、
 一番お伝えしたいと思ったことが、
 最初に、書けました。
 
 後々、旅行記内での順序を、変えると思いますが、
 せっかく書けたので、
 さっそく、掲載したいと思います。
 
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 「未舗装」「ダート」
 「4WDが必要」と聞いていた、
 そのアプローチ道は、

 結局、最後まで、
 見事に、綺麗に、舗装されていて、

 あっけないほど、簡単に、
 僕たちは、
 ハワイ島の最南端(かつ、アメリカ合衆国最南端)、
 サウスポイント( South Point )に、たどり着けました。


 風は、
 たしかに、絶え間なく、吹き付けてはいますが、
 「身体を揺さぶられるほどの強風」ということもなく、

 波も、
 確かに、岩壁に打ち寄せてはいますが、
 海面は、穏やかで、
 泳ぐ魚も、海底も、すっきりと、見えています。

 雲も、
 背後にこそ、どんよりと、立ちこめてはいますが、
 わたしたちの上空と、目線の先である、南側には、
 ほとんどなく、
 厳しいまでの陽ざしが、燦々と、降り注いでいます。
 
 その、アプローチ道の滑らかさも含め、
 事前に想像していたのとは、かなり違って、
 なかなかに穏やかな場所が、そこにはありました。






 やって来ました、
 サウスポイント に。

 「南端」であることから、
 東(左側)と西(右側)が、くっきりと見渡せ、
 正面から押し寄せる潮も、
 左右に、すっきりと、分かれていきます。

  「人生の岐路に立っているとき、
   進路に迷っているとき、
   何かを決めかねているとき、
   停滞しているとき、
  
   そんなときに、
   『どう進んだらいいのか』を、
   気づかせてくれる場所」

 そんなふうに、言われているようです。

 僕自身、この場所を訪れたら、
 「何を感じる」のか、
 「何を気づく」のか、
 「何を得られる」のか、
 
 実は、密かに、
 しかし、しっかりと、
 期待していた場所です。
 
 そこに、
 たどり着くことができました。

 
 何を「感じ」「気づき」「得られる」か、については、
 実は、密かに、
 しかし、明確に、
 期待していた「こと」があります。
 
 シャスタで出会い、
 僕たちに、ハワイ島行きを勧めてくれた、
 「ハワイ島通」の方が、います。
 
 今回、その方には、連絡を取り、
 「おススメの場所」を、いくつか、
 教えていただいていたのですが、
 
 その方が、
 一番に、薦めてくれた場所が、
 サウスポイントでした。
 
 後々、その方のブログを読み、
 その理由を調べていると、
 
 どうやら、その方は、
 サウスポイントから、海に飛び込み、
 
 それを実行できたことから、
 
 10m強の高さから、海に飛び込む際に直面する、
 「恐怖」に向き合い、
 それを克服して、飛び込めたことから、
 
 自らの「恐れ」を乗り越えて、
 精神面で、「自由」になり、
 それゆえに、行動面でも「自由」になり、
 それ以降、跳躍するような人生を、歩まれているようです。
 
 そのきっかけに、
 なっている場所のようでした。
 
 
 それを知った僕も、
 実は、密かに、
  「そういうことなら、飛び込んでみようか」
 と、思っていました。
 
 サウスポイントで、
 「何かを『得る』」というよりは、
 
 むしろ逆に、
 「恐怖心を『捨てる』」ということを、
 期待していました。
 
 そして、それによって、
 「『自由な自分』を『得よう』」と、
 期待していました。
 
 
 そんな心持ちで、見下ろす、
 サウスポイントの崖の上からの、海面は、
 
 高さ10数m、
 岩壁に打ち付ける波、
 潮のうねり、にもかかわらず、
 
 不思議なほどに、
 それほどまでには、怖くはありませんでした。
 
 着いてしばらくすると、
 準備万端だった、一人の男性が、
 飛び込み、
 
 その後も、
 青年が一人、
 僕らの目の前で、飛び込み、
 
 そんな様子を見ていると、
 不思議なほどに、
 それほどまでには、怖く感じてはいませんでした。
 
 ですが、
 でも、なぜか、
  「じゃあ、飛び込むぞ!」
 という気持ちには、なりませんでした。
 
 そういう意味では、
 実感できていた以上に、
 怖さがあったのかもしれません。
 
 また、
 直前に、二人もの人が飛び込んでいたので、
 
 それが逆に、
  「自分が飛び込まなきゃ」
 という気持ちに、ならなかったのかもしれませんし、
 
 場の雰囲気も、
  「誰か飛び込みなよ」
 という感じに、ならなかったのかもしれません。
 
 とにかく、
 僕の体感としては、
 
 「流れ」が、
 僕に、飛び込むことを期待する、
 というようには、
 まったく、なりませんでした。
 
 
 実は、
 この、二人目が飛び込んだときには、
 実は、
 特別な「流れ」が、ありました。
 
 実は、
 その直前に、
 娘の被っていた帽子が、風で吹き飛ばされ、
 海に、落ちてしまっていたのです。
 
 そんな状況ならば、
  「よし、じゃぁ、僕が取ってくる」
 そんな気持ちになってもいいようなものですが、
 
 しかし、不思議なのですが、
 「飛び込もうか」と思っていたはずの僕なのに、
 そのとき、
 そんな発想が、まったく、浮かんできませんでした。
 
 また、
  「海に入って、取ってきて」
 と、
 僕が、頼まれるようなことも、
 流れとして、生まれてきませんでした。
 
 それどころか、
 それ以前から、飛び込もうとしていた青年が、
 その、娘の防止の落下をきっかけに、
 サッと、飛び込んでくれて、
 帽子を、取ってきてくれました
 
 (ちなに、完全に蛇足ですが、
  この青年、
  映画や絵画でよく出てくる。
  「これぞ、ジーザス」って感じ、そのものでした ^^ )。


 
 
 そんな、
 
  「絶対に、飛び込むぞ!」
 と、
 意気揚々と、勇んで、来たわけではなく、
 
  「それなら、飛び込んでみようかな」
  「飛び込んだほうが、いいかな」
 程度で、来ていたことと、
 
 その、
  「飛び込みなよ」
  「飛び込んで」
 とは、ならなかった「流れ」から、
 
 結局、あっさりと、
 僕は、飛び込むこと無く、
 サウスポイントを後にすることにしました。
 
 
 とはいえ、
 
 車に乗り込むまでの、歩き道、
 車に乗り込んでからの、運転中も、
 
  「あぁ、結局、飛び込まなかったなぁ」
 と、
 残念だったり、すこし情けなかったり、
 
 そんな感覚は、上がってきていましたし、
 そんな思考が、巡ってきていましたので、
 それらを、しばらく、
 感じ、眺めていました。
 
 
 そのとき。
 
  「強い意気込み」「強い決意」にもかかわらず、
   飛び込めなかった
 というわけではなかったおかげで、
 
 「飛び込めなかった『自分』」を、
 強く否定する想いは、湧いてきませんでした。
 
  「飛び込んで」「飛び込みなよ」という期待にもかかわらず、
   飛び込めなかった
 というわけではなかったおかげで、
 
 「飛び込めなかった『自分』」を、
 強く非難する想いは、湧いてきませんでした。
 
 「飛び込めなかった『自分』」では、ありましたが、
 しかし同時に、
 「飛び込『ま』なかった『自分』」でもあるように、
 感じていました。
 
 「できなかった『自分』」に、
 「ダメな『自分』」に、
 
 人生で初めて、
 無批判で、無否定で、
 そのままで、柔らかく、
 接することができていました。
 
 そんな気が、しました。
 
 
 すると、
 
 無批判で、「ダメな『自分』」に、接してたことで、
 「ダメな『自分』」の、深いところに、
 入っていくことができました。
 
 無批判な僕に、
 防御する必要も無く、
 胸襟を開いてくれたのでしょうか、
 
 「ダメな『自分』」の、
 これまで、存在すら、感じることのできなかった、
 領域に、層に、
 降りていくことができました。
 
 そこを、眺めることができました。
 
 そこに、触れることができました。
 
 そこを、感じることができました。
 

 幼く、細かく、柔らかく、
 繊細で、うぶながら、しかし、固い意思を持った、
 そんな領域でした。
 
 そのとき、
 人生ではじめて目にする、
 「残念そうな、母親の表情」が、見えました。
 
 それが、
 客観的な事実として、目にしたことのある、
 母親の表情なのかは、分かりませんが、
 
 もしかしたら、
 僕の中で、想像で作り上げた表情なのかもしれませんが、
 
 いずれにせよ、
 「母親の、残念そうな表情」が、見えました。
 
 おそらく、
 僕が、
 この人生において、最初の、そして、強い、
 「こころの痛み」を、感じたのは、
 
  「母親の、残念そうな表情」
  「母親の、残念そうな気持ち」
 なのでしょう。
 
 そして、
 それ以降、
 
 母親に、「残念さ」を感じさせた、
 「ダメな『自分』」を、
 
 僕は、自ら、
 強烈に、猛烈に、不必要なまでに、
 否定し、批判していたのでしょう。
 
 そんなことを、感じました。
 
 
 これまでにも、
 「ダメな『自分』」を否定していることは、
 明確に、自覚していました。
 
 ただそれは、
 小さい頃、学生時代に、
 勉強も、運動も、よくできた、という、
 そんな事実から、育ち上がった、
 「強固なエゴ」が、
 
 「できる『自分』」こそが、
 アイデンティティーであると、
 稚拙ながら勘違いした、エゴが、
 
 ある種、3次元的な意味で、レベルで、
 「ダメな『自分』」を否定しているのだと、
 認識していました。
 
 
 でも、
 いま、気づいたのは、触れているのは、
 
 もっと、原初的で、
 もっと、深い階層での、
 もっともっと柔らかく、
 もっともっと生暖かい、
 細やかで、うぶな、「ダメな『自分』」です。
 
 その子が、
 いま、初めて、
 僕に、存在を明かしてくれました。
 
 対面することを、許してくれました。
 
 その子に触れて、
 「ハートの領域」は、
 溶けるように、揺らめき動いていました。
 
 僕は、
 「ダメな『自分』」を、受け入れていました。
 「ダメな『自分』」を、認めていました。
 
 「ダメな『自分』」も、
 僕を、受け入れててくれていました。
 
 
 ちょっとした『和解』が、成立しました。
 
 まだまだ、「挨拶程度」であることは、自覚がありましたが、
 でも、今後の、さらなる密なおつきあいは、
 お互いに、約束することができたと、感じました。
 
 初めてのレベルで、
 僕は、
 「ダメな『自分』」を、許せました。
 
 初めての深さで、
 「ダメな『自分』」を、認められました。
 
 そして、今後、
 「ダメな『自分』」を、さらに、認めていくことが、
 「ダメな『自分』」を、さらに、赦し、受け入れていくことが、
 
 僕にとっては、最重要であると、
 理解できました。
 
 今後は、
 彼に、頻繁に、会いに行き、
 
 彼の声を聞き、
 彼の表情を見つめ、
 お互いに、認め、赦し、受け入れ、
 彼と抱き合い、融和することこそが、
 
 僕にとっての、
 一番の仕事であると、認識できました。
 
 
 僕にとっては、
 「飛び込めること」が、必要なのでは、ありませんでした。
 
 「飛び込む」ことによって、
 「恐れ」を手放すことが、克服することが、
 必要なのでは、ありませんでした。
 
 あるいは、
 「飛び込めた」という、外なる成功が、
 「飛び込めた」という、『良い』『強い』自分が、
 必要なのでは、ありませんでした。
 
 
 僕にとっては、
 「飛び込めなかったこと」が、必要なのでした。
 
 「飛び込めなかったこと」によって、
 「ダメな『自分』」に、気づき、向き合い、
 
 そして、
 その、「ダメな『自分』」を、受け入れることこそが、
 「恐れ」を認め、抱きしめ、溶かすことこそが、
 必要なのでした。
 
 これまでとは、
 ある意味で逆の、別のアプローチこそが必要なのだと、
 気づかせてもらいました。
 
 その段階に、そのステージに来ているのだと、
 教えてもらいました。
 
 この、「ダメな『自分』」に触れられて以来、
 これまでとは、すこし次元の違った、
 穏やかさ、落ち着きを、体感できています。
 
 
 サウスポイントは、
 僕にとっても、
 やはり、
 最高に素晴らしいものを、必要なものを、
 導き、与えてくださいました。
 
 そこにたどり着けたことを、
 その場に立てたことを、
 それに関わってくださったすべてにも、
 こころから、感謝しました。
 
 
 そう、
 認識できたとき、
 そう、
 思えたとき、
 
 先ほど目にした、
 あがった波しぶきが、映し出してくれた、
 虹模様が、
 
 一層、
 こころに沁みてきました。