2014年11月7日金曜日

第1回 名古屋イベント開催のお知らせ

 
 2015年1月9日(金)、10日(土)、11日(日)、12日(月・祝)、
 名古屋市で、
 『津留さん交流会』・『浄化実践講習会』・『個人セッション』を行います。

 2014年の大阪・鹿児島・札幌でのイベントに続き、
 2015年はじめのイベントを、尾張・名古屋で行います。

 今回も、ひで 一人で伺います(井瀧裕子は参加いたしません)。

 名古屋のみなさん、東海地区のみなさんに、お会いできることを楽しみにしています。
 よろしくお願いいたします。
 
 詳細・お申し込みは、『 第1回 名古屋イベント 』 のページをご覧ください。
 

 2014年11月7日 集合人編集局 裕子・ひで









2014年11月3日月曜日

『赦す』ということ


 「あいつのことだけは、赦(ゆる)せない」
 「それは、いいけど、でも、あれだけは、赦せない」

どなたでも、
そんな人が、そんなことが、
あるのではないでしょうか?

私たちは、
「意識的に」、であれ、
「無意識的に」、であれ、

それぞれが、
それぞれに、

 『赦せない』
ことを、
握り、抱えて、
生きていますよね。


ところで、
 『赦せない』
というものには、

通常、
2種類のものが、あると思います。


1つは、
 『赦そう』『赦したい』
そう、思っているけれど、

でも、
そんな想いとは裏腹に、
どうしても、
 『赦せない』。

そのようなものです。

そして、
そのようなものは、
先の言葉を使えば、
 「『無意識』的に、『赦せない』」もの
と、言えるかもしれません。

あくまでも、
 『赦そう』
と、思っています、
自分の『意識』『意思』としては。

でも、
 『赦せない』
のです。

自分の中の、『何か』が、
そう、させないのです。

自分の『意識』の想いとは、裏腹に、
どうしても、そう、できないのです。

それは、
哀しいほどに、
そう、できないのです。

そして、それは、
その、
 「自分の中の、『何か』」

すなわち、
 『エネルギーブロック』
が、
自分に、そうできないように、させているのであり、

ですから、その
 『エネルギーブロック』
を、
『浄化』すれば、
『浄化』できれば、

そう、できるようになります。

つまり、
 『赦せる』
ように、なります。

場合によっては、
それは、
簡単なことではない、かも、しれません。
平坦な道のりではない、かも、知れません。
短い道のりではない、かも、知れません。

しかし、
『浄化』さえ、できれば、
その『エネルギーブロック』を、手放すことさえ、できれば、

そのときには、
 『赦す』
ことが、できます。


一方、
もう1つ、
 『赦せない』
ケースが、あります。

それは、
先の言葉で言えば、
 「『意識』的に、『赦せない』」もの
と、言えると思います。

つまり、
 『赦さない』
と、決めているから、
 『赦せない』
と、いうものです。

つまり、
単純に、純粋に、
 「自分で、『赦さない』と決めている、決意している」
から、
 『赦せない』
と、いうものです。

なので、
この場合は、
 『赦せない』ではなく、『赦さない』
と、言い換えることができると思います。
 
 「あいつのことだけは、赦(ゆる)『さ』ない」
 「それは、いいけど、でも、あれだけは、赦『さ』ない」

そう、言い換えることができると思います。


 『赦さない』
理由は、
それぞれでしょう。

ですが、
それらは、
ほとんどのケースにおいて、
 「その理由は、『正当』である」
と、本人が思っている点で、
共通していることと、思います。

 「間違っているのは、あいつ」
 「おかしいのは、そっち」

 「だから、『赦さない』」

そんなケースが、
ほとんどだと、思います。

そして、

 「赦してほしければ、謝りなさい」
 「あっちが謝れば、赦してあげる」

そんな風に、お思いのことと、思います。


さて、
そのような場合に、
もし、その「『赦さない』こと」に関して、
『ストレス』が無いならば、いいのですが、

万が一、そのことに関して、
『ストレス』があった場合、

その場合、
その『ストレス』は、
どうやったら、解消されるでしょうか?

 「あぁ〜、頭に来る!
  でも、悪いのは、あっちだから、
  あっちが謝るまで、赦さない。
  あっちが謝ったら、赦してやる」

そんなとき、
どうやったら、この、
 「頭に来る」という『ストレス』
は、解消されるでしょうか?

それは、
おそらく、
 「相手が、謝ったとき」
でしょう。

 「相手が、謝れば、解消される」
でしょう。

ということは、
そのとき、もし、
 「相手が、謝らなければ、それは、解消されない」
と、いうことになります。

つまり、
 「自分の『ストレス』が、解消されるか、されないかは、
  相手が、謝るか、謝らないか、次第」
と、いうことになります。

つまり、
 「自分の『ストレス』は、相手次第」
と、いうことです。

 「あなたの、幸・不幸は、相手次第」
と、いうことです。

つまり、
そのとき、
あなたの幸せに関する『決定権』は、
『相手』にあります。

すなわち、
あなたは、
自分の、幸せに関する決定権を、
自分の意志で、
相手に、与えているのです。

 『赦さない』
ということによって、

あなたは、
相手に、
自分の、幸せに関する決定権を、
与えている、ということを意味します。

つまり、
あなたは、
自ら、
相手を、
 「自分の『神』にしている」
のです。

 『赦さない』
ということによって、

あなたは、
 「『自分が、自分の創造主である』ということを、放棄」
し、

そして、
自らの意思によって、
 「相手を、自分の『神』にしている」
のです。


他方、
 『赦す』
ということは、

それとは逆に、
 「自分の、幸・不幸は、自分次第」
という認識であり、
 「自分の、幸・不幸は、自分が決める」
という態度です。

 「自分が幸せであるかどうかに、相手は、関係ない」
のです。
 「自分が、自分が幸せであるかどうかを、決める」
のです。

そして、
実際、
『浄化』をすれば、
『エネルギーブロック』を手放せれば、

 「相手がどうであれ、
  自分は、『ストレス』を感じない」
という状態に、なります。

自分で、
自分の『不幸』を、
取り除くことができるのです。

そのとき、
あなたは、

あなたの人生における、パワーを、
自ら、手にしています。
自らの手に、取り戻しています。

そのとき、
あなたは、

 「自分が、自分の、『創造主』であり
  自分が、自分の、『救世主』である」
  
のです。


 『赦す』
というと、
なにか、
 「相手のために、してあげる行為」
のように、とらえがち、ですよね。

 「赦してあげなさい」
なんて、
親や教師や、社会から、
そう、言われ続けて来ましたもんね。

でも、
本当は、
それは、
 「自らが、自らのために、行う
  自分にとっての、『最高のギフト』」
なのです。










2014年11月2日日曜日

『片付け』の魔法


10月17日、
奥さんの、裕子さんから、
 「ブログを、アップしたよ」
という連絡を受けました。

その日は、
僕は、朝から、
札幌に向かっていて、

その日の、裕子さんの様子を、
知りませんでしたので、
連絡を、わざわざ、くれたのですが、

その連絡を聞いて、
ちょっと、ビックリしました。

というのは、
その前日に、奥さんは、
前の記事を、アップしたばかりだったので、
いつものペースからすると、
とっても、早いからです ^^ 。

そして、読んでみて、
さらに、ビックリしました。

というのは、
その内容が、
 「掃除」
について、だったからです。

 ( ご参照:ブログ「あむりたのしずく」『 家(内)のお掃除 』)

その連絡をもらう、数時間前に、
僕は、
 「次は、『片づけ』をモチーフに、記事を書こう」
と、思い、

その骨子を、
携帯に打ち込んだばかり、だったのです。

なんか、
つながってるというか、
結び付いてますねぇ ^o^

というわけで、
今回は、『片づけ』の話です。


先々月のことですが、
近藤麻理恵さん(以下、こんまりさん)の著書、
「人生がときめく 片づけの魔法」の、2冊目を、
遅ればせながら、読みました。

1冊目は、100万部を超えるベストセラーになったので、
ご存知の方も多いと思いますが、

こんまりさんの提唱する「片づけの方法」は、
 『片づけ』
という、
苦手な人が、とても多い、分野に、
ある種、革命的なコンセプトを持ち込んで、

しかも、
その、明快さと、
それと同時に、高い実践性と、で、
多くの方々に受け入れられ、
用いられている方法です。

その特徴は、
いくつかあると思うのですが、

特に、斬新で、特徴的なのは、
 「まずは、『捨てる』を、キッチリと、終わらせること」
と、
もう一つ、
 「その際の、取捨選択の基準が、『ときめく』かどうか」
という点である、と、思います。

 『ときめき』
という、
ある種、とても曖昧で、極めて主観的な『気持ち』を軸に、
片づけを行っていくという、

極めて斬新で、
しかし、ちゃんと理解してみれば、
実は、極めて合理的な基準を用いる、
その方法は、

僕の場合、
最初に目を通したときには、
正直、よく分かりませんでした。

魅きつけられるものはあるけれど
(なので、本を購入までしたのですが (*^_^*) )、
でも、
はじめは、よく、分かりませんでした。

ところが、
先月、2冊目を、読んでみたら、
その内容が、
驚くほど、よく分かりました。

こんまりさんが、言っていることは、
実は、極めて合理的で、優れたものであることが、
ようやく、はっきりと、理解できました。

しかも、それを、しっかりと、
みなさんが実践できるようにまで、落とし込んでいる、
彼女の凄さに、
正直、脱帽いたしました。


彼女の提唱する方法では、
 『ときめき』
という、『体感』が、ポイントで、

その体感よって、分別し、整理していけば、
まず、
手元には、自分が
 「『ときめく』モノ」
だけが、残ります。

まず、
  「自分の気持ちが『ときめく』モノ、だけに囲まれた状態」
に、なります。

で、その上で、
それらを、整頓していくのですが、

その段階では、
たいていの場合、
「モノ」の数は、相当に、減っているので、
あとは、
いくつかのテクニックも駆使しながら、
スッキリと、整われた状態を作り上げます。

で、
その段階になると、
もう、新たに購入したり、新たに手元に所持するモノは、
すべて、「『ときめく』モノ」だけに、
自然と、厳選するようになります。

その結果、
自分の周り(自分の家・部屋)は、
 「『ときめく』モノだけが存在」
し、
しかも、それらは、
 「スッキリと片付いている」
という状態になります。

その、
 「『ときめく』モノだけに、しかも、整然と、囲まれている生活」
状態を作り上げること、それをキープすることが、
彼女の提唱する『片付け』の、ゴールです。


ところで、
この、
 「『ときめく』という、『体感』を規準にした、『片付け』」
というコンセプトが、

実は、
 「『ストレス』という、『体感』に基づいた、『浄化』」
と、
とても似ている、と、感じてます。

その辺りが、
今回、彼女の本を、改めて読んでみて、
今回は、とてもよく理解できた理由であり、
それが、とても素晴らしい方法であると、納得できた理由である、
と、思っています。

『浄化』は、
自らの内側に、湧き上がってくる、
 「辛さ」「苦しさ」「悲しさ」「寂しさ」
 「怖さ」「恐れ」「不安」「怒り」「悔しさ」
といった感情、

それら感情によってもたらされる、
『ストレス』という、
ネガティブな『体感覚』を手がかりに、

それらの原因となっている
 『エネルギーブロック』『ミニ自我』『価値観』『想念』『観念』『記憶』
と呼ばれるものを、
手放し、解放していく、プロセスです。

『潜在意識』の中に、
漫然と、放置されて来た、され続けて来た、
それらの原因を、

一つずつ、見つけ出し、
そして、それらを、
一つずつ、捨て去っていく、プロセスです。

つまり、
『浄化』とは、
 「『ストレス』を感じさせる『エネルギーブロック』を、
  『片付ける』『掃除する』こと」
です。

そして、それによって、
 「『ストレス』を感じることの無い、スッキリとした生活・人生」
を実現することが、
『浄化』の、(『当面の』『第1段階の』)ゴールです。

このように見ていただけると、
両者が似通っていることが、
とても良くお分かりいただけるのではないかと思います。


さて、
こんまりさんの提唱する、片付けは、
 「『ときめく』モノだけに、しかも、整然と、囲まれている生活」
を作り上げ、キープするための、ノウハウですが、

その、もっとも根本的な「目標」とは、
何でしょうか?

何のために、
そのような『片付け』をするのでしょうか?

それは、
 「自分が『ときめく』、好きなものに、スッキリと囲まれた、住環境で、
  『幸せに暮らすこと』、『幸せな生活を送ること』」
では、ないでしょうか?

 「好きなものだけに、囲まれていること」
 「スッキリと、整理整頓されていること」
によって、
 「『幸せ』に暮らすこと」
が、目的では、ないでしょうか?

こんまりさんは、
 「『好きでない』モノ」
 「『使わない』モノ」
そういったモノが、家の中に存在していることにより、

エネルギー状態が低下することを、
あるいは、
自分の意識レベルが低下してしまう危険性を、
割に、はっきりと、認識・指摘し、

そして、
それらを避けることの重要性も、指摘しています。

その辺りは、
さすが、「『元』神職」の方ですし、

また、この辺りが、
ますます、
『浄化』との類似性を感じさせるのですが、

そのような点を、置いておいたとしても、
ともかく、
その目的は、
 「『幸せ』な生活」
に、あるはずです。

これは、つまり、
例えば、
「『片付け』の魔法」により、
理想的な住環境を手に入れたものの、

 「ゆったりとする時間」「のんびりとする時間」
 「『幸せ』を、しっかりと『実感』する時間」
などを、犠牲にして、

 「四六時中、手元にあるモノが、『ときめくかどうか』」
 「モノの量が、充分に少ないかどうか」「増えていないかどうか」
 「整頓が、きちんとできているか」
を、チェックしたり、
 「きちんと片付けをしない家族を、協力させよう!」
として、イライラ・ヤキモキしたり、

そんなことをしていたら、
 「本末転倒」
だ、
ということです。

それでは、
 「『手段』の『目的化』」が、起こってしまっている
と、いうことです。


そして、
このことは、『浄化』に関しても、
まったく同様に、当てはまります。

『浄化』の目的も、
 「『ストレス』を減らし、無くし、『幸せ』に暮らすこと」
に、あるはずです。

その目的は、
『片付け』とまったく同様に、あくまでも、
 「『幸せ』な生活」
に、あるはずです。

ところが、
『浄化』というものが、分かって来た結果、
上手くできるようになって来た結果、

 「『浄化』をすること」
 「『エネルギーブロック』を減らし・無くすこと」
に、主眼が置かれてしまって、

始終、
 「『エネルギーブロック』を探し出すこと」
 「それを、片付けること、『浄化』すること」
に、意識が行ってしまっていて、

その結果、
 「『ストレス』が減り、
  ゆったりと、のんびりと、人生を実感する」
ということが、できていなければ、
それは、本末転倒です。


これは、
逆にいえば、
『エネルギーブロック』が、
どれだけ、あろうが、
どれだけ、残っていようが、

 いま、ここで、『幸せ』を、『喜び』を、感じられる
のであれば、
 いま、ここで、『安らぎ』を、『くつろぎ』を、感じられる
のであれば、

あるいは、
 いま、ここに、『ストレス』が、存在していない
のであれば、
いえ、
 『ストレス』があったとしても、
 それが、さして気にならない程度に、充分に小さい
のであれば、

 それは、それで、十分だ
と、いうことです。

 それらの状態を『感じる』こと、『味わう』こと
それが、目的であり、

あくまでも、
 『浄化』は、手段に過ぎない
ということです。


『浄化』の効果を体感され、
『浄化』によって、楽になられた、軽くなられた方の中には、

その効果を、しっかりと認識されたがゆえに、
 「だからこそ、もっと『浄化』をして、もっと『楽』になりたい」
 「いや、自分は、まだまだだ。
  まだまだ、『ストレス』は感じる。『感情』は動く」
 「もっともっと『浄化』をして、
  そして、津留さんのようになるんだ。
  『覚醒』するんだ」
と、
現状を、許さず、肯定せず、
そして、
さらなる高みを、目指す方々がいらっしゃいます。

もちろん、
それはそれで、一つの在り方です。

それを「良くない」などと、申しているわけでは、
決して、ありません。

ただ、
その、
 「いまは、まだ」「自分は、まだ」
という想いや、
 「もっと、もっと」
という想いが、

この、『パラドックスな世界』においては、
法則通りに、
 「まだ」「まだ」な
 「もっと」「もっと」な
自分を、現状を、
創り出し、呼び寄せ、映し出し、

そして、
「まだまだ」なご自分を、現状を、認識されて、

 「なぜだ?」「どうしてだ?」
 「どうしたら、いいのだ?」
と、
悩まれ、苦しまれてらっしゃる、
そんな方々を、お見受けすることがあります。

ブロックだらけな、ストレスだらけな、
僕みたいな者から、拝見すると、

そのような方々は、
もう、十二分に、
 少ない『エネルギーブロック』
 少ない『ストレス』
の状態に、いらっしゃりながら、
悩まれ、苦しまれて、いらっしゃるように、
お見受けすることがあります。

それは、さながら、
 見渡す限りの、一面のお花畑に居ながら、
 その、花々の美しさには、目もくれず、
 懸命に、雑草を、ゴミを、探し歩いている
そのように、お見受けできて、しまいます ...


『浄化』をすれば、
確実に、楽になります。

それは、まさに、
 「『片付け』の魔法」
とも呼べるものなのです。

それは、
津留さんの時代から、
数多くの方々が、これまでに、実体験されて来た、
素晴らしき『魔法』なのです。

ただ、
それは、あくまでも『手段』です。

『手段』への執着が、固執が、
いえ、
『目的』への執着も、ですが、

そんなものが、
最後に、
最後の最後で、

『目的』『ゴール』と、自分とを、
隔ててしまっている、
 「一枚の薄皮」
であったり、
 「一段の段差」
だったり、
するようです、

「悟りたい」という気持ちが、
そんな気持ちこそが、

自らを、『悟り』から、遠ざけてしまっているように ...


ぜひ、
 いま、ここにある、『幸せ』『喜び』『安らぎ』『不安の少なさ』
といったものを、

それらをこそ、
感じ、味わっていただければ、
と、想います。