2018年9月30日日曜日

向き合っているのは、『自分』


先日、
個人セッションに来てくださった方から、
お聞きした話です。
 
 
その方は、
「株」をされているのだそうです。

そして、
その売買の指標は、

 「その会社の業績・企業価値などを勘案する」
というタイプではなく、

完全に
 「相場だけ、相場の動きだけを見る」
というタイプだそうです。

株式市場における、
ある会社の株式に注目したら、

その株価の動き・変遷に注目し、
その「流れ」を追い、注視し、

その変化の動きを予測して、
売買をし、
そこから利益を得る、

という、手法を採られているそうです。


で、
その日、話題になったのは、

先ごろ、
その方が体験された出来事です。

所有していた株式が、値を上げ、
利益が上がって来たのだそうです。

そのときに、
その方の採用されている方式によれば、

 そのまま持ち続けて、
 さらなる値上がりを待つ

というのが、
定石なシチュエーションで、

でも、
とても怖くなってきて
(「怖くなった」その理由は、
 おそらく、反転して、損失が出てしまうこと、だと思います)、

売却してしまい、
少額の利益を確定させたのだそうです。

しかし、
案の定、

その後の、その株価の動きは、
その後に、急上昇を見せ、

そのまま保持していれば、
大きな利益を得られたはずだった、
そうなのです。


そのとき、
 「怖くなって、売却してしまったこと」
に関連して、

その方は、
こう、おっしゃってました。

 「株をやっていても、
  対峙しているのは、
  株式市場ではないんです。
  
  向き合っているのは、いつも、
  『自分』なんです。」

と。


事例として、
とても分かりやすいと、感じたので、
ここで、シェアさせていただきましたが、

みなさんも、
事例は違えど、
似たようなこと、思い当たること、
ありますよね?
 
 
例えば、この方の事例である、
株式売買をしていても、

問題なのは、
「株式市場」では、ないんです。

「自分の内側の『恐れ』」なんです。
 
 
いえ、
きっちりと、正確に表現したいので、
言い直しますが、

「株式市場」も、
もちろん、大切だし、問題です。

そこと、向き合っています。

なのですが、
しかし、

それ以上に、
それ以前に、
その手前で、
それよりも圧倒的に大きく、重く、

「自分の内側の『感情』」が、
問題なのです。

そこが、
『相手』なのです。
 
 
そして、
誤解を恐れずに、さらに言えば、

『そここそが』、
問題なのです。

それ以外は、
大した問題ではないのです。
 
 
加えて、
私たちは、すでに、

『外側』の問題に対処する方法については、

経験も積み、
方法論も多数身につけ、
参照できる情報もあふれていて、

ある程度以上の対応を、
取れるようになってきています。

そして、
『だからこそ』、

それらの方法では、有効に対応できない、
未だに問題となっている事象に対しては、

そうでない方法を、
かつ、より根本的な対処を、

ぜひ、採っていただきたいのです。

それが、
『内側』に対する対処であり、

その一つが、
『浄化』になります。
 
 
この点に関しては、
今回は、この簡潔なまま、
終わりにさせていただきます。
 
 
そして、
もう一点。

何か『問題』と認識する状況になったとき、

結局、そのとき、
『外側』の状況が問題なのではないのです。
 
 
いえ、
ここも、
より正確な表現をとりましょう。

『外側』も、
問題といえば、問題なのですが、

しかし、
それを『問題』と判別している基準は、

あくまでも、
自分の『内側』にあります。

より重大で、
より根本的なのは、

『内側』なのです。

『自分』なのです。
 
 
『自分』が、

 「あぁ、問題だ。
  どうしよう。
  大変だ。
  どうにかしなきゃ ... 」

と、
騒いでいるのです。

人によっては、

 「よし、やった。
  このまま、定石どおりなら、
  大金が儲かるぞ」
と、

「好ましい状況」と判断する、
そんなシチュエーションで、

 「どうしよう。
  怖い ...
  逃げたい ...
  売っちゃおぅ 」
と、

恐怖を、ストレスを、
感じているのです。

向き合っているのは、
「状況」ではないのです。

その、
「『内側』の反応」なのです。

自分の中の『自分の反応』なのです。
 
 
問題なのは、

すぐに怒る夫でも、
怒ると恐ろしい上司でも、
陰湿な先輩女性でも、
ないのです。

問題なのは、
それらを怖がっている、
それらを嫌がっている、
『自分の中の自分』なのです。

向き合っているのは、
対峙しているのは、

常に、
『自分の中の自分』なのです。

『自分』なのです。
 
 
そして、これが、

 「宇宙には、自分一人しか居ない」

の、
一つの意味、なのです。
 
 
結局のところ、
問題なのは、

騒いでいるのは、
泣き叫んでいるのは、

『自分の中の自分』なのです。
『内側の、その子』なのです。

震えているのは、
怯えているのは、

その子なのです。

『外側』には、
現象が、あるだけなのです。

出来事が、
映し出されているだけなのです。

それを見て、
『その子』が、怖がっていること。

そのことが、
問題なのです。
 
 
同じように、

笑っているのも、
喜んでいるのも、

その子です。

そこも、
大切ですね。


いずれにせよ、

なので、

その子を認め、理解し、寄り添い、
そして、仲直りすること。

その子と、和解すること。

あるいは、
場合によっては、

その子に、成仏してもらうこと。
その子に、昇天してもらうこと。
安らかになってもらうこと。

それが、全てなのです。

私たち一人一人が、
向き合っているのは、

その子たちだけ、なのですから。

宇宙には、
その子たちしか、居ないのですから ...
 
 
そう思えるようになる、
 「認識の、コペルニクス的転回」
が、

おそらく、
誰にでも、訪れるのだと思います。

そのときが、
 「暗闇に、光が射すとき」
なのだと思います。

そここそが、
 「下って行った、谷の底」
なのだと思います。


そうすると、

 「自分が向き合っているのは、『自分』だけだ」
と、

 「宇宙には、自分一人しか居ない」
と、

自然、
『感じられる』のだと思います。
 
 
そして、
そのとき、

 「すべてが、自分だった」
と、
体感することになり、

それを
深く、体感できればできるほど、

今度は、
 「すべてが、愛おしい」
と、
感じてこられるのだと思います。
 
 
津留さんは、

本を手にしては、
感涙し、

割り箸を手にしては、
感涙していたそうですが、

おそらく、
そのときの心境は、

すべてが愛おしくて仕方なかった、
のだと、思います。
 
 
その始まりは、

「すべての『自分』」を、
きちんと認め、
きちんと向き合うこと。

そこなんだと、思います。
 
 
 
 
 
 
 
 

2018年9月8日土曜日

お見舞い申し上げます(北海道地震・大阪台風)

 
先日の、北海道での地震により、被害に遭われた方。

および、台風による強風で、被害に遭われた、大阪・関西方面の方。

ならびに、今年に入り頻発している、自然災害に遭われた方。

みなみなさまに、心より、お見舞い申し上げます。
 
 
このところ、
特に今年に入ってから、

自然災害が頻発していて、

また、その規模・強度が増し、
被害が甚大に、深刻になっている印象を、
個人的には、持っています。

被害に遭われた方やご関係の方、影響を受けられた方、
みなさまに、お見舞い申し上げます。
 
 
被害に遭われている最中などは、
特に、

恐怖や不安が大きく、とても強く、
動揺が収まらず、混乱し、

落ち着くこと、冷静になること、
そんなことが、まずもって、難しい状態になることもあります。

そんなときにこそ、
スピリチュアルな考えや、津留さんのメッセージなどが、
役に立つ、助けになる、

そんな方も、いらっしゃるかもしれませんし、
そんなケースも、あるかもしれません。

ですが、
しかし、

多くの、緊迫した、切羽詰まった状況では、

ほとんどの方の場合、
それどころではない、
という状態になられることと思います。
 
 
そんなときには、

まず、
今目の前の状況に対して、

3次元的な、実際的な行動を、
躊躇なく、そして集中して、行ってください。

また、
そんな状況で、
津留さんの言っていたことで、役立つとすれば、

呼吸に意識を向けて、
しっかりと、冷静なる方向に、意識を持って行くこと、

それを、どうぞ、
全力でなさってみてください。
 
 
 「呼吸に意識を向ける」
 「集中して、呼吸をする」
と、

巨大な感情の波に飲み込まれてしまうことから離れることが、
思考の渦に翻弄されてしまうことから距離を置くことが、

可能になる確率が、格段に高まります。

そんな状況では、
まず、そのことを、最優先になさってください。
 
 
もう、
5年以上も前のことになりますが、

娘が、
意識を失い、痙攣を起こし、
救急車で救急搬送されたことがあります。

病院に着くなり、
救急救命室に運ばれ、

閉まりゆく扉越しに、
 「気道を確保して!」
と叫ぶ声が聞こえるような、
そんな事態でした。
 
 
搬送されている間、
あるいは、病院に着いてからも、

猛烈な、強烈な、
なんとも形容のし難い、圧倒的な恐怖感に、

押しつぶされそうになりながら、
気が狂いそうになりながら、

でも、
ただ、ひたすら、
呼吸に意識を向けていました。

津留さんの、
 「そんなときには、浄化なんてできませんから、
  とにかく、呼吸に意識を向けてください」
という言葉を左手に握りながら、

ただ、ひたすらに、とにかく、
全力で、全身全霊で、
息を吸い、そして、息を吐いていました。
 
 
僕の場合には、
「そのおかげで」、と認識していますが、

どうにかこうにか、ギリギリ、
意識の一部分を、自分の冷静な部分に繋ぎ止め、

津波のように激動して起きている、目の前の現象に、
どうにかこうにか、かろうじて、ギリギリ、
自分の意識を、時差なく、並列走行させることができました。
 
 
スピリチュアルなことは、
特に、「浄化的」なことは、

状況が落ち着いてから、
心が落ち着いてから、

いくらでも、できます。
 
 
まず、可能な範囲内で、
気持ちを、心を、冷静に保つこと。

そして、取れる現実的な対応を、
逡巡なく、行うこと。
そのことに、集中すること。

そのためにも、
そのためにこそ、
可能な限り、気持ちを鎮めること。

まず、
そのことに、注力なさってください。
 
 
そのためには、
ひとまず、

平時に役立つものたちは置いておいて、

その状況に全力で当たられてください。









2018年9月7日金曜日

かりそめ、だけど本番

 
前回、
人生は旅行のようなもの
と、書きました。

そこで、お伝えしたかったことは、

 「津留さん的な見方をする場合には、
  『人生』あるいは『人間をする』というのは、
  旅行みたいなものだ、
  と、とらえていただくと、
  とても当てはまっていて、お分かりいただけやすいと思います」

ということです。

また、
そこでは、

津留さん的な見方・考え方・認識の、
その他のスピリチュアル的なメッセージとの違いや、
あるいは特徴のようなものも、
少し、まとめてみました。

以上の中で、
何かご参考にしていただけることがあると、嬉しいです。
 
 
さて、今回は、
その補足のようなものを、

一つ、
させてください。
 
 
 「人生は旅行のようなもの」

そう、認識したとき、

『人生』『人間をしている今』は、
「旅行中」です。

今の私たちは、
「旅先にいる旅人」です。

「旅」は、
やがて、いずれ、
終わりを迎え、

そのときには、
『家』に帰ります。

つまり、
「旅」とは、
一時的なものです。

『かりそめ』です。

今の状態も、
「永続」「永遠のもの」ではないし、

また、
今のこの存在(している『人間』という存在・状態)は、
「本質」では、ありません。
 
 
「そもそも」の、「元々」の、
場所だと、ものだと、

味わえないから、体験できないから、

今は、かりそめに、
この場所にいて、このものに成っている。

『人間をしている』『人間に成っている』存在としての、
今現在の私たちは、

「本質」からはかけ離れた、
仮の、かりそめの、状態になっている、

そんな存在です。
 
 
『人間』として生きていることに、
絶望を感じたり、
圧倒されてしまったり、
虚しさを感じたり、
あるいは、嫌悪を感じたり ...

そんなこと、
どなたでも、おありだと思います。

特に、
津留さんのメッセージがお好きな方は、
心優しい方が多く、
そして、自分を責めがちですから、

そんな、辛い思いをされてらっしゃる方、
多くいらっしゃることと思います。

そんなときには、

どうぞ、
 「これは『かりそめ』である」
ということを、
想ってみてください。

そんな考えを、見方を、
採用してみてください。
取り入れてみてください。

役立つことが、
少しでも、安らげることが、
あるのではないかと思います。
 
 
また、
しかし。

しかし同時に、

ここは、今の状態は、
かりそめではあるけれども、

しかし、同時に、
ここは、今は、「本番」です。
 
 
旅先は、
旅人という状態は、

かりそめの場所であり、
かりそめの状態だけれども、

しかし、それは、

想いを果たすために、
望んで、求めて、訪れている場所であり、

その場所でないと、その状態でないと、
できないことをするために、

そのために、わざわざ、
訪れている場所であり、状態です。

今が、
望んだ結果が得られている状態、

今が、
『本番』です。
 
 
ですから、

楽しいことは、
嬉しいことは、

遠慮なく、
楽しんで、満喫してください。

また、もし、
辛いことや、大変なことであっても、

どこかに客観的に見られる余裕があり、
どこかに冷静になれる部分があるようなら、

しっかりと、体験なさってくだい。

旅先の旅人として、
この本番を、
遠慮なく、存分に、味わってください。
 
 
 かりそめであり、
 でも、そうではあるけれども、しかし同時に、本番

そんな、
一見、相反するような、

そんな、
「どちらも」な状態が、

津留さん的な見方をしたときには、
矛盾なく、成立しています。

だからこそ、
「全てOK」です。
 
 
そして、ですから、

 「好ましくないことは、
  『かりそめ』と、重く受け止めず、気にかけず、
 
  でも、好ましいことは、
  『これぞ本番』として、存分に満喫する・味わう」

そんな都合の良さを、
ぜひ、取り入れてみてください。

遠慮なく、
活用してみてください。

それを、
ご自分に、許してください。


今、ここは、
かりそめであり、だけど、本番。









2018年9月6日木曜日

人生は旅行のようなもの


 「人生は旅である」

 「人生というのは、旅のようなものであり、
  また、旅というのは、人生のようなものである。」

このような言葉・格言・慣用句・表現を、
耳にされたことがおありなのではないかと思います。
 
 
誰が言った言葉なのか、
ググってみましたが、

明確なもの、確定的なもの、
広く一般に合意・認識されているもの、には、
行き当たりませんでした。

ただ、古くは、
お釈迦さまも、
人生を旅に、私たちを旅人に、例えていらしたようです。
 
 
また、
 「人生は旅である」
と言ったとき、

では、
 それがどういう意味なのか
 何を意図したものなのか、どんな教訓めいたものなのか
など、

その言わんとするところは、
また、それぞれに、いろいろ、あるようです。

 「とどまることのないもの」(無常・変化)
 「種々雑多なもの・ことがあるもの」
 「自ら進んでいくもの」
 「何があるかわからないもの」
など、

そこで言わんとするは、
言い手・使い手により、
状況・シチュエーションにより、
様々なようです。
 
 
ところで、みなさん。

みなさんは、
実生活において、
旅をするとき、旅行をするとき、

どのようなきっかけで、
どのような動機で、
旅行をされますか?

もちろん、
「旅」「旅行」といっても、
いろいろありますが、

基本的には、
旅行というのは、

 「見たいもの」
 「したいこと」
などがあり、

それをするために、
行くものではないでしょうか?
 
 
例えば、
 テレビで、ある風景を見て、
 それに感激して、
 自分も、ぜひ、それを生で、この目で、見てみたい
とか、

 雑誌に載っていた、あるお店の、ある料理が、
 とっても美味しそうで、
 どうしても、それを食べてみたい
とか、

あるいは、
 友人から聞かされた、ダイビングの話が、
 とっても素敵で、羨ましくて、
 ぜひ、自分も、そこに潜ってみたい
とか、

そんなきっかけ・動機・目的があって、

で、
それをするために、実現するために、
その場所を訪れる。

旅行というのは、
おそらく、
そのような動機・目的で、なさるものだと思います。

 どんな場所・景色か、料理か、アクティビティか、
 知っているし、
 知っているからこそ、知れば知るほど、
 実際に、見てみたい、味わってみたい、体験してみたい、
 その気持ちが高まり、
 そして、その願望を叶えに行く

そんな感じなのでは、と思います。 
 
 
そのことを、
僕がここで言いたいことを伝えやすいように、表現すると、

私たちは、

 事前に知っていたこと、
 事前に情報を得ていたこと、を、
 実際に自分で体験するために、
 旅行をする

となります。

つまり、

 旅・旅行とは、
 事前に知っていたことを、
 現地に行って実体験すること

と、なります。


さて、
で、ここで。

僕も、
先と同じようなことを、言ってみたいと思います。

 「人生とは、人間として生きるとは、人間をするとは、
  旅行のようなもの」
と。
 
 
毎度おなじみ、
津留さん的な見方・認識では、

私たちは、
元々は、神さまでした。

この見方・認識、仮定・仮説においては、

私たちは、元々は、
「全て」でした。

 「すべてである、一なる意識であり、
  全知であり全能である」存在
でした。

 「全てが自分であり、
  だから、全てを知っていて、なんでもできる」
そんな存在でした。
 
 
しかし、
「全てを知っている」存在であり、
「なんでもできる」存在である、
そんな存在『だからこそ』、

逆に、
パラドックス的に、
「できないこと」が、ありました。

それは、
 「知らない」「わからない」
 「できない」
ということ。

全てを知っているので、
 「知らない」「わからない」
ということが、
ありません(できません)でした。

なんでもできてしまうので、
 「できない」
ということが、
できませんでした。
 
 
ただ、
もちろん、
「全てを知っている」存在ですから、

「知らない」「わからない」ということが、
どういうことなのか、

「できない」ということが、
どういうことなのか、

そのことは、
完全に、知っていました。

その意味を、概念を、
知識としては、完璧に、完全に、
「知っていました」。
 
 
ただ、
知っていはいましたが、

しかし、
「できません」でした。

表現を変えれば、
「体験できません」でした。

それが、どういう感じなのか、
「感じられません」でした。
「味わえません」でした。

そして、
知っているからこそ、
感じてみたくて、味わってみたくて、
たまりませんでした。
 
 
で、では、
「できる」ためには、
「体験する」ためには、
どうしたらいいのでしょうか?

それには、
 「全知ではない」「知らないことがある」「わからないことがある」存在
 「できないことがある」存在
に成ること。

 「全知全能」ではない
 「完全」「完璧」ではない
そんな存在に成ること。

そう成れば、
 「わからない」「できない」
ができます。
 
 
では、
そう、成れるでしょうか?

成れます。
だって、「全能」ですから。
「なんでもできる」のですから。
できないことは、ありませんから ...
 
 
こうして、
私たちは、

 「知らないことがある」
 「わからないことがある」
 「できないことがある」

そんな存在に成りました、

自らの、「全能性」を、
遺憾なく発揮して。
 
 
そして、さらに、
「わからない」「できない」内容を深めるために、

 「わからないことだらけの」
 「できないことだらけの」
 「不完全な」
 「ちっぽけな」

そんな存在にまで、成りました。

それが、
今、私たち一人一人がやっている、
『人間』という存在です。
 
 
完璧に、完全に、
知っているにもかかわらず、

でも、
「知っている」だけでは、
不十分で、不満足で、物足りなくて、

「わからない」「できない」を、
「体験」したくて、
「感じ」たくて、
「味わい」たくて、

私たちは、
人間という存在を創り出し、

そして、
それに、成っています。

それが、
今、私たち一人一人がやっている、
『人間』という存在です。
 
 
そんな見方、
そんな仮定に立ったとき、

「人生」を「旅行」に例えるという比喩は、
とてもしっくりとくる、適切で、当てはまったもの、
であると、感じます。
 
 
まず、
一番ポイントとなる部分は、

 「体験すること」
 「感じること」
 「味わうこと」
 それが、一番の目的である

ということです。

 「人間をしている」「人間として生きている」というのは、
 「地球人間体験『ゲーム』」をしている
という、
津留さんの、別の表現とも、一致しているとおりに、

このような見方からすれば、
「体験すること」「感じること」「味わうこと」こそが、
一番の目的です。

「知ること」が、目的ではありません。
もう、はじめから、完璧に、知っているのですから。

旅行の前に、その情報は、完璧に、手に入れているのですから。
 
 
しかも、
その、「体験したいこと」「感じたいこと」「味わいたいこと」は、

元々の『神さま』の状態では体験できない、
『人間』に成らないと体験できない、

「わからない」「できない」という内容であること、
です。

このマゾ的な、一見信じがたいような目的こそが、
実は、渇望し、憧れ、恋い焦がれたもの、なのです。
 
 
また、それは、「探検」とは、
少し、違います。

「探検」は、
未知のものを探しに行くもの、ですが、

『人生』とは、
むしろ、すでに知っていることを、
見に、体験しに、行くものです。

 そこに行かないとできないから、
 そのために、そこに行き、
 そして、それを実体験すること
それが目的のものです。
 
 
そして、それは、
「したいから、している」行為です。

ただ、「したいから、している」ことです。

むしろ「しなくてもいい」、のだけれど、

でも、
「したいから、している」ことです。

つまり、
広く言えば、それは『遊び』であり、

決して、『仕事』でも、
ましてや『修行』では、ありません

(『遊び』『ゲーム』『仕事』『修行』については、
 過去記事「 人生は、『修行』か、『ゲーム』か? 」や、
 その関連記事をご一読いただけると幸いです)。
 
 
また、それは、
「したいから、している」のです。

 自分がしたいから、している、
 そして、それができている、
 というのが、
 今の、人間として生きている、自分の状況だ

つまり、

 自分の望みが叶っているのが、今の状況であり、
 それは、自分がそれを創り出したからであり、
 つまり、自分が『創造主』だ

という観点です。

決して、

 自分は望んでもいないのに、させられている存在、
 自分は『被創造物』であり、
 自分は『被害者』だ

という認識では、ありません。

 『自分』というものを、そのように認識している
あるいは、
 「元々の自分」「本来の自分」というものを常に認識している部分がある
そんな認識・感覚を有しています。
 
 
また、
『旅行』ですから、

「見ていないもの」
「行ったことがない場所」
「していないこと」
に、基本的な興味があって、

そして、
それを、興味があるから、行くだけ・しているだけ、
で、

また、
その順序も、順不同、
したい順にし、行きたい順番に行きます。

決して、
 「してしまったから、今度は、されてしまう」
 「する側をしたから、次は、される側になる」
というような、

カルマ的な、因果応報的な、
そんな理由や順序は、ありません。
 
 
そして、
そこに行かないとできないことをしたいから、
そこに行くのであって、

そこに行くこと、そこで体験すること、
そのプロセスそのもの・全体が、目的であり、

そして、
それらが終われば、
家に帰ります。

元の場所に、
元の存在に、還ります。

どこかの目的地に到達すること、
そのことだけが目的ではないし、

また、そこに留まることが、
目的でもありません。

また、なので、
そこに、目的地に、ゴールに、
いかに早く着くかが、大切なわけでもありません。

自分が望み、計画した、せっかくの楽しい旅行を、
いかに早く終わらせるかが、目的・目標、なんて、
哀しいですよね。
 
 
津留さん的な見方をしたとき、

 「人生とは、人間として生きるとは、人間をするとは、
  旅行のようなもの」

という例えは、
とても当てはまったものとなります。

その見方からすると、

 「私たちは、
  『(地球)人間』旅をしている最中(さいちゅう)」

と、例えることができます。

そして、
このように見てもらえると、

津留さんの言っていたことを、
津留さんが見ていた見方を、
よりお分かりいただけやすいのではないか、
と、思いますし、

また、
このような見方を採用していただけると、

人生を送ることが、人間として生きることが、
それまでよりは(ほんの少しかもしれないけれど)、
楽になられる、楽しくなられるのではないか、
と、思い、

このような形で、シェアさせていただきました。