2017年12月21日木曜日

「自信がない」とは 2


 先日、
 「自信がない」ということについて、書きました
 (過去記事「 「自信がない」とは 」)。
 
 そこでは、
 
  「自信がない」とは、
  
  「自分の感情(感情体・内側)」が、
  「自分(の行動判断主体)」に対して有している、
   不信感。
 
 と、書きました。
 
 今回は、
 その補足、と言うか、
 少し、書き加えさせていただきます。
 
 
 私たちには、誰しも、
 内側に湧き上がる「想い」とか、「感情」が、
 ありますよね。
 
  「あぁ、これ、やってみたいなぁ」
  「今は、これ、やりたくないなぁ」
  「あぁ、怖いよぉ」
  「ダメだよ、できないよ!」
 
 自然と湧いてくる「本音」など、
 自分の中の、
 「とても素直な反応」の部分です。
 
 その、「素直な反応」に対して、
 
  「それを監視する」
  「それに意見する」
  「それを律する」
  「そして、行動を決める」
 
 主体であるような、
 そんな存在も、居ますよね。
 
  「そんなことを『やってみたい』なんて、夢みたいなことを言うな」
  「それを『やりたくない』なんて、甘えたこと言うな」
  「『怖い』なんて、それでも大人か!」
  「『できない』なんて、言ってられないんだ。 さあ、やれ!」
 
 そう、自分を監視し、自分を律し、
 そして、判断・決定を下し、
 そして、自分自身を行動させる、
 
 そんな主体である存在も、居ますよね。
 
 
 以下では、
 前者の、想い、感情、本音、素直な反応の部分を、
 『感情』と、
 
 それに対する、後者の、
 監視し、律し、判断・決定し、行動する部分を、
 『意思』と、
 
 そう、呼んでみましょう。
 
 
 さて、
  「自信がない ... 」
 そんな感覚を感じるシチュエーションというのは、
 
  「何かをしよう!」「しなきゃ」「するべき」「できるといいな」
 そう、思うんだけれど、
 
 でも、
  「うまくできるかなぁ ... 」「不安 ... 」「心配 ... 」
 と感じる、
 
 その結果、行動できない、
 あるいは、行動できたとしても、ビクビクしながら、
 
 そんな状況ですよね。
 
 それは、
 先の言葉を使えば、
 
  「自分の『意思』」が、
  「しよう!」「するべき」と、思うんだけど、
 
  「自分の『感情』」が、
  「不安 ... 」「心配 ... 」と、感じている
 
 その結果、
  行動できない。
 あるいは、
  行動できたとしても、不安・心配なまま。
 という状況、
 
 と、言えると思います。
 
 
 『意思』が、
 「しよう!」と思ったとき、
 
 『感情』が、
 「やってみたい」と感じていたら、
 
 そのときには、
 「自信がある」と、感じていると思います。
 
 いえ、
 この状況だと、
 
 まず先に、
 『感情』が、
 「やってみたい」と感じて、
 
 それに対して、
 『意思』も、
 「OK! よし、やってみよう」と、思っている、判断している、
 
 基本的には、
 そんな状況だと、思いますが、
 
 いずれにせよ、
 そんなときには、
 『総体としての自分』は、
 「自信がある」と、感じていると思います。
 
 この状況は、
 ほとんどの人にとって、
 「自信がある」と、感じられているシチュエーションでしょうから、
 問題ありませんよね。
 
 
 問題なのは、
 というか、
 ここで話題としているのは、
 
 『意思』が、
 「しよう!」と思ったとき、
 
 『感情』が、
 「いやだ」「できない」「不安 ... 」「心配 ... 」と感じているけれども、
 
 でも、
 それでも、行動できるかどうか。
 
 あるいは、
 そんなときにでも、
  「いや、でも、大丈夫」
  「どうにかなるはず」
  「とにかく、やってみよう」
 と、
 思えるかどうか、
 感じられるかどうか、
 
 だと、思います。
 
 そこが、
 ポイントですよね。
 
 そして、
 そう、思えることを、
  「自信がある」
 と、言っていて、
 
 そう、思えないことを、
  「自信がない」
 と、呼んでいるのだと思います。
 
 
 では、
 そのような状況で、
 そう、思えるのか、思えないのか、
 
 その二つを、
 分けているものは、何なのでしょうか?
 
 違いは、何なのでしょうか?
 
 
 それには、
 二つ、あると思います。
 
 
 まず一つは、
  「いやだ」「できない」「不安 ... 」「心配 ... 」
 と感じる、
 
 その、『感情』の、
 大きさ、重さ、強さ、多さ、量。
 
 それが、多ければ、大きければ、強ければ、
 やはり、なかなか、
  「でも、大丈夫」
  「やってみよう」
 とは、
 ならない、なりにくい、と思います。
 
 これは、
 分かりやすいですよね。
 
 これは、
 すでに、認識、ご自覚なさっていると思います。
 
 そして、
  「だから、どうにもできない」
 と、
 お思いかもしれません。
 
 ですが、
 この場合には、
 どうぞ、その『感情』の感覚を、
 浄化なさってください。
 
 そうすれば、
 少しずつ、ゆっくり、だとは、思いますが、
 その、大きさ・重さ・強さ・量は、
 減ってくると思います。
 
 今回は、
 ここがポイントではないですし、
 
 このことは、
 浄化をご存知であれば、
 お分かりいただけやすいことだと思うので、
 
 ここでは、以上で終わりとし、
 以下は割愛させていただきます。
 
 
 問題は、
 もう一つのほうです。
 
 『感情』の感じている、不安や心配の、
 その強さや量のことは、置いておいて、
 
 『感情』で、心配や不安を感じていながら、
 でも、それにもかかわらず、
 「やろう」と、思えているとき。
 
 つまり、
 「自信がある」と感じられているとき。
 
 そうなっているとき、
 あるいは、
 そうなっている「人」の場合、
 
 そこでは、
 何が起こっているのでしょうか?
 
 
 結論を先に言えば、
 そのとき、起きているのは、
 
  「やろう」という『意思』に対して、
  
  「やりたくない」「不安」という『感情』が、
 
  歩み寄っている、
  妥協している、
  あるいは、協力してくれている
 
 ということです。
 
 「やろう」という『意思』に対して、
 
 『感情』は、
 
  「やりたくない」「不安」
 と、
 感じたものの、
 
  「でも、大丈夫かも」「やってみようか」
 と、
 
 『意思』側に、
 歩み寄ってくれている、協力してくれている、
 そんな状態です。
 
 
 「自信がない」ときには、
 
 『感情』が、歩み寄ってくれません。
 『感情』が、協力してくれません。
 
 だから、
 『意思』の、「やろう」という想いが、
 孤立してしまっています。
 
 それこそが、
 「自信がない」の感覚です。
 
 
 それに対して、
 「自信がある」ときには、
 
 『感情』は、
 最初、自然な、本音としての反応としては、
 「怖い」「嫌だ」と感じていますが、
 
 しかし、その後、
 自分の想いは、置いておいて、
 『意思』の想いを尊重し、
 
 『意思』の方側に、歩み寄り、
 『意思』の想い実現のために、協力をしようとしてくれているのです。
 
 それが、
  「でも、大丈夫かも」「やってみようか」
 という、
 『感情』の、想いです。
 
 その結果、
 『意思』の、「やろう」という想いが、
 孤立していません。
 
 『感情』が、サポートに付いてくれているからです。
 『感情』が、バックアップしてくれているからです。
 
 それが、
 「自信がある」という感覚です。
 
 
 では、
 
 『感情』が、歩み寄り、協力してくれる、
 「自信がある」場合と、
 
 『感情』が、歩み寄ってくれず、協力してくれず、
 「自信がない」場合と、
 
 では、
 何が違うのでしょうか?
 
 どうして、
 『感情』が、歩み寄り、協力してくれる場合、というか、「人」と、
 歩み寄ってくれない、協力してくれない、「自信がない」人とが、
 居るのでしょうか?
 
 その違いは、何なのでしょうか?
 
 
 それは、
 先の記事で書いたとおり、
 
  普段、日ごろ、
  『意思』が、『感情』を、
  無視せずに、否定せずに、ちゃんと、扱っているか
  
  あるいは、
  否定し、無視し、無かったことにしているのか
  
 の、違いです。
 
 この、
  「普段における、『意思』の、『感情』に対する、扱い・接し方」
 が、
 違いです。
 
 
 普段、『感情』は、
 さまざまなことを、感じています。
 
 その中には、
 もちろん、ポジティヴな感情・感覚を感じることもあれば、
 
 あるいは、
 ネガティヴな感情を感じることもあります。
 
 例えば、
 そんな 、ネガティヴな感情を感じたとき、
 
 最初に書いた例であれば、
  「今は、これ、やりたくないなぁ」
  「あぁ、怖いよぉ」
  「ダメだよ、できないよ!」
 などの、
 感情・感覚を感じたとき、
 
 そんなとき、
 『意思』が、
 
  「それを『やりたくない』なんて、甘えたこと言うな」
  「『怖い』なんて、それでも大人か!」
  「『できない』なんて、言ってられないんだ。 さあ、やれ!」
 と、
 強烈に、否定していたり、ダメ出ししていたり、
 
 そのうえに、
 その『感情』を無視して、行動を強要していたり、
 
 普段、日ごろ、これまで、
 そのように、扱っていると、
 
 『感情』は、
 『意思』に対して、
 信頼感を持っていません。
 
  「自分のことを、尊重してくれない」
  「自分のことを、否定している」
  「自分のことを、無視する」
 と、
 
 『感情』は、
 『意思』に対して、
 不信感を持っています。
 
  「そのうえに、『自分の想い』に反した行動を、強要される」
  「無理やりに、支配してくる、管理してくる、コントロールしてくる」
 と、
 
 『感情』は、
 『意思』に対して、
 反発心を持っています。
 
 「敵意」すら、持っているかもしれません。
 
 
 そんな状況で、
 『感情』が、
 『意思』に、
 
 「歩み寄ろう、協力しよう」とは、
 思わないですよね。 
 
 
 ネガティヴな感情だけでなく、
 ポジティヴな感情であっても、
 
 最初の例であれば、
  「あぁ、これ、やってみたいなぁ」
 というような、
 想いであっても、
 
  「そんなことを『やってみたい』なんて、夢みたいなことを言うな」
 と、
 
 『意思』は、
 『感情』の想いを、否定し、拒否し、無視します。
 
 
 そんなことを、積み重ねられて来た、
 『感情』たちが、
 
 『意思』に協力せず、
 ときに、反発したとしても、
 不思議ではない、ですよね。
 
 
 また、
 先ほど、「『自信がない』理由の一つ目」として、区別した、
 「『感情』が大きすぎる、強すぎる」ケースも、
 
 『意思』が、
 
  「そんな感情を、感じてはいけない。 感じていては、いけない」
  「そんな『自分』では、いけない」
 と、
 
 『感情』のことを、
 否定し、無かったことにして来たからこそ、
 
 それだけ、大きく、強く、重く、
 溜まっているわけですね。
 
 
 つまり、
 「自信がない」理由は、
 
  『意思』が、
  『感情』を、
 
  否定し、無視し、無かったことにしている。
  (そのうえで、強要・支配・コントロールしている。)
 
 だから、
 ということになります。
 
 
 なので、
 
 「自信がない」から脱却するためには、
 「自信がある」に近づくためには、
 
 その反対をすること。
 
 つまり、
 
  『感情』を、
   否定しない
   無視しない
   無かったことにしない
   強要しない
   支配しない
 
 ということになります。
 
  『感情』に、
   寄り添う
   認める
   受け入れる
   理解する
 
 ということになります。
 
 『意思』が、何かをする、という場合であれば、
 
  「支配・コントロールし、命令し、強要する」
 のではなく、
 
  「理解・納得してもらい、協力してもらう」
 のです。
 
 
 日ごろから、
 『感情』が、何かを想い、感じたら、
 
 それを、
 頭ごなしに否定したり、
 無視し、無かったことにする、のではなく、
 
 ちゃんと、
 その「存在」に気づき、認め、認識し、
 
 その想うところ、感じるところを、
 理解してあげ、寄り添い、分かってあげること。
 
 そのうえで、
 それに対して、
 『意思』側の想いを、感じるところを、
 きちんと、伝えてあげること。
 
 「認める」「受け入れる」といっても、
 盲目的に従う、というわけではありません。
 
 しかし、かといって、
 頭ごなしに否定したり、無視する、というわけでもありません。 
 
 また、
 「伝える」といっても、
 従わせるため、命令するために、伝えるわけではなく、
 
 尊重し、敬意を払い、
 対等な関係として、認め合う、
 
 その関係を構築するために、
 『意思』側も、その想いを、ただ、伝えるのです。
 
 
 こうしていることによって、
 両者の信頼関係が構築されていれば、
 
 『感情』は、
 『意思』の想いに、
 歩み寄り、協力するケースが、出てきます。
 増えていきます。
 
 もちろん、
 「すべてのケースでそうする」ということは、無いでしょうが、
 
 歩み寄り、協力するケースが、
 増えていきます。
 
 「自信がない」感覚が減り、
 「自信がある」感覚が、増えていきます。
 
 
 そのとき、
 『意思』と『感情』が、
 分離していません。
 
 それらが、
 「共同体」として、融合しています。
 
 
 「自信がない」とき、
 「『意思』が孤立している」と、言いました。
 
 『意思』が分離し、孤立しているのです。
 
 いわば、
 『自分』が分裂し、
 『自分』が、小さくなっているのです。
 
 「『総体としての自分』が小さい」から、
 「自信がない」と感じられるのです。
 
 つまり、
 「自信がない」とは、
 
  「『総体としての自分』が小さい」こと
  「『総体としての自分』が小さい」ときに感じる感覚
 
 とも、
 表現できます。
 
 
 逆に、
 「自信がある」とは、
 
 『自分』の分裂が、少ないこと、小さいこと、
 その結果、
 「『総体としての自分』が大きい」こと(「『自分』が小さくない」こと)、
 「『総体としての自分』が大きい」(「『自分』が小さくない」)ときに感じる感覚
 
 と、
 言うことができます。
 
 
  どんなに弱い自分が居ても、
  どんなにネガティヴな自分が居ても、
 
  それを無視せず、
  その存在を、きちんと認め、
  その想いを、声を、聞いてあげ、分かってあげ、
 
  そのうえで、
  できうる行動を、日々、とること。
 
 
 「自信がある人」というのは、
 
 弱い自分を無視し、振り払い、
 強引に、行動している人、
 ではなく、
 
 おそらく、
 そんな行動を、自然と、できている人、
 なのだと、思います。