2019年1月17日木曜日

正論


『アメトーーク!』というテレビのバラエティ番組が大好きで、
いつも録画して、保存して、そして何度も観ているのですが ^^; 、

その中に、
 「ついつい(〜)芸人」シリーズ
 「(食べ物)大好き芸人」シリーズ
という、

内容と出演者が似た、
一連の回があります。
 
 
具体的には、
 「ついつい食べ過ぎちゃう芸人」
 「ついついダラしなくなっちゃう芸人」
 「ついつい甘いモノ食べちゃう芸人」
 「アイスがなきゃ生きてイケない芸人」
 「揚げ物大好き芸人」
 「ハンバーグ大好き芸人」
  ・・・
など。
 
 
それらに、
特に共通している、コアな内容としては、

 「ついつい、節度なく食べてしまう ... 」
という芸人さんたちが、

その対象である食べ物の種類や具体的商品を、
その食べてしまう状況・様子・心理などを、
面白おかしく紹介します。

 「ついつい、ポテトチップスを口にしてしまう ... 」
 「大福は、まずあんこを吸ってから ... 」
 「唐揚げを、大皿で ... 」
など、

自分が特に大好きな食べ物と、
その美味しさと、美味しい食べ方と、

そして、
それをたくさん食べてしまう様を、止められない様子を、

各自、熱弁していきます。
 
 
一方、
それらの話を聞き、そして番組を進行して行く、司会者の、
その横には、

それとは対象的に、
しっかりとした節度と自制心を持った、
ついつい食べ過ぎてしまうことなどない芸人が、
一人、座っています。

具体的には、
アンジャッシュ・渡部氏なのですが、

彼は、司会者からは、
「ミスター・自己管理」と呼ばれるほど、
強い意志と自制心を持っているため、

「ついつい」芸人たちとは、相容れず、
彼らが語る、食べ過ぎる様を、
呆れながら聞いています。
 
 
食べ過ぎてしまう芸人たちは、
自らの、それらの行動を、

様々に、面白おかしく、
「正当化」しようとします。
 
 
例えば、
サンドウィッチマン・伊達氏は、

独自の『サイズ理論』を展開します。

 「柿の種は、一つひとつが、こんなに小さい。
  それをいくつ食べたところで、太るわけがない」
とか、

 「カステラは、押しつぶしたら、こんなペッタンコになる。
  それが、太るわけがない」
とか。

その後は、さらに飛躍して、

 「ドーナツは、真ん中が無いから、カロリーゼロ」
とか、

 「揚げ物は、油で揚げてあるから、カロリーが飛んでしまっている」
とか、

そんな、オリジナルの『カロリーゼロ』説を、
様々な食べ物に、当てはめていきます。
 
 
また、
ブラックマヨネーズ・小杉氏は、

 「弁当(食事)を食べてないから」
と、
スナックや甘味などのお菓子を、大食いしたり、

 「空手をやってたから」
と、
食べ物を残すことができず、無駄にすることができず、
ついつい食べてしまうのだと、語ります。
 
 
そのような、
「ついつい」芸人たちの、

自分たちが食べ過ぎてしまうことに対しての、
それらを正当化することに対しての、
数々の、詭弁(きべん)・屁理屈(へりくつ)に対し、

渡部氏は、
当然の「正論」で、
それを諌(いさ)めます。

 「そんなことでは、カロリーは無くならない」
とか、
 「ご飯(食事)を食べないで、お菓子を食べるのが、一番太る」
とか。

渡部氏としては、
体型のみならず、健康状態などを含めて、
相手のことを心配して、そのように諌め、

 「食べる順番も、気にしたほうがいい」
など、
アドバイスまで、するのですが、

そのような展開になると、決まって、
諌められる側の小杉氏が、拗(す)ねてしまいます。
 
 
こんなとき、
拗ねてしまっている小杉氏を見て、
司会者を含めた出演者全員が、
渡部氏のほうを悪者にし、そして謝らせます。

 「ついつい言い過ぎて、ごめんなさい」

と、
渡部氏が謝罪することで、
小杉氏の機嫌が直り、
その場が一段落となります。
 
 
もちろん、
全体としては、バラエティ番組であり、
「面白い」ということが、最優先されますから、

これらの悶着も、
各位想定のもとに、ワザと、やり合うわけですが、

そして、だからこそ、
やる側も、観る側も、

正論を言っている側の渡部氏が謝らせられる展開となることが、
面白く感じられる訳ですが、

一件落着し、みなで笑顔になった後に、
「ついつい」側の出演者の一人である、
アンタッチャブル・山崎氏が、

締めに、面白さを最後に増幅させる言葉を、
渡部氏に、言い渡します。

 「渡部さん、『正論』を言うときは、言い方に気をつけてもらわないと」
 
 
昨日、
この言葉が、

唐突に、
頭の中に、リフレインしました。

そして、そのとき、

この言葉は、

番組中で、語られた、あの言葉は、

僕に向けて吐かれた、
僕のための言葉であると、分かりました。
 
 
もちろん、
 「この宇宙には、自分一人しか居ない」
のですから、

僕にとっては、全ての言葉が、
(僕によって)僕のために、語られているわけですが、

しかし、そうであっても、
特にあの言葉は、特別に、
僕に向かって、僕のために、吐き出され、届けられた言葉であると、

昨日、分かりました。
 
 
前回、新年のご挨拶で
(過去記事「 あけましておめでとうございます(2019年) 」)、

年末年始に、体調を崩し、
特に、ひどく咳き込んでいたこと、

そして、その「咳き込む」という行為は、
何らかのブロックを吹き払うために、
身体が行なっていた自浄行為だろうと思う旨を、書きました。

ようやく、その咳が止まり、
鼻水・痰も、収まってきたところで、
自らの体調や色々な感覚を見るに、

確かに、
何らかのものたちは、吹き払われたのだろうと、
やはり、思うのですが、

しかし、
昨日、その言葉が、自分に向けられた言葉であると認識したとき、

主に吹き払っていたのは、『蓋』だったのだろうと、

言うことが・吐き出すことができなかった、
無数の、大量の、『正論』を、
僕の中に、封じ込めるために必要とされていた『蓋』だったのだろうと、

昨日、分かりました。
 
 
咳が止むなり、

僕の中からは、
止め処なく、止まることなく、大量の、無数の、『正論』たちが、
湧き上がり、たぎって来ていました。

それらを、半ば驚き・呆れ、半ば当然と同意しつつ、
見つめ、それらに向き合っている最中に、

あの言葉が、僕に向けられた言葉だったことが、分かったからです。
 
 
 「『正論』を言うときは、言い方に気をつけないと」
 
 
正論は、正論であるが故に、
言う側は、ついつい、はっきりと、あるいは強めに、
言ってしまいがちです。
 
 
ところが、
言われている側は、

言われていることが、『正論』であるが故に、
言われたときの反応・対応が、強く・強固になります。
 
 
言われている側が、
それを『正論』であると思っていない場合には、

言われている、その理屈は、
その人にとっては、邪論です。

邪論を、強めに言われたのであれば、
自らにとっての正論を、言い返したくなります、
より強く。
 
 
あるいは、
言われている側が、

それを『正論』であると、分かっているときには、
同意しているときには、

しかし、
正論だと分かっていながら、それをしていない自分を、正当化します、
強固に。

あるいは、
正論だと分かっていながら、それをできない自分を、弁護します、
堅強に。
 
 
いずれにしても、
『正論』は、

出した以上の強さで、自らに返ってきます。

だから、気をつけなければいけないのです、
 「『正論』を言うときには」。

あるいは、
言えないのです、言ってはいけないのです、
 「『正論』こそ」。
 
 
ところが、
『正論』であればあるほど、

特に、倫理的に、道徳的に、
あるいは、『愛』の観点から、『反エゴ』の観点から、

『正論』であればあるほど、
言わずにはいられないエネルギーが、
強靭なのです。

そんなときには、
相手は、屁理屈屋で、詭弁家で、

こちらが、黙ることが、
こちらが、そのまま受け入れることが、
理不尽で、不条理で、横暴で、

膨大なエネルギーを要す、
苦痛に満ちた作業となります。
 
 
そうやって、
耐えに耐え、耐え忍んで来た、
僕の中の人格が、

押さえ込んできた正論たちが、

年末年始の咳き込みで、蓋が取れて、
抑えが効かず、無くなり、

暴れ出し、
湧き溢れ出て来てしまったのです。
 
 
もう、その子(その人格・その感情)と、
向き合わない訳には行きません。

その子を、蔑(ないがし)ろには、
これ以上、もはやできません。
 
 
この10年余、
僕が、潜在意識の領域で、
一番、向き合ってきたのが、
実は、この子でした。

この10年余、
僕の頭の中で、一番、鳴り響き、繰り返し叫ばれていたのは、
この『正論』でした。


これまで、この子を蔑ろにして来たのは、
それはそれで、仕方のないことでした。

それは、これまでは、
最善で、必要な対処でした。

また、それによって、
このような体験ができました
(この体験をするためには、そうすることが必要でした)。
 
 
しかし、今、これからは、
もう、これ以上は、
蔑ろには、できません。

一秒たりとも、1mmたりとも、
見ぬふり、居ないふり、無かったことには、できません。

今、ここに、
この子以上に、大切な存在は居ません。

この子以外、宇宙には、誰も居ません。


ハワイに行って、
ハワイ島サウスポイントで出会えた子 の、下には、

こんな子が、

幾多の理不尽を、
数多(あまた)の不条理を、

一人、抱え込んでくれながら、
傷つき、血を流し、満身創痍で、
憤り、泣き叫び、絶望していました。
 
 
この子が、
特に虚しく、特に絶望していたのは、

僕が、この子に向き合わず、
正論を言わなかったから、
だけではありません。

僕は、むしろ、
自らの正論を、それがむしろ間違っているのだと、

正論を否定し、
この子を否定して来たからです。
 
 
スピリチュアルなことを学び、
『愛』『反エゴ』へ過傾倒することで、

生来の誠実さとも相まって、
相手の立場・事情を、過剰に慮(おもんぱか)ることを行い、

生来の公正さとも相まって、
「自分にだって、こういう後ろめたい点があるじゃないか」と、
自分の立場を、必要以上に蔑(さげす)み貶(おとし)め、

相手の立場・事情を、
自らよりも重視することを行なってきたからです。
 
 
津留さんを学び、浄化を知り、
むしろ、自分の想い・価値観を消し去ることを良しとして来た結果、

自分の正論(の存在)の方を否定し、
この子(の存在)を否定して来たからです。
 
 
加えて、
ときおり、正論がこぼれ出してしまう折には、

かえって、むしろ、何倍もに、
痛い思いをして来たからです。
 
 
 「『正論』を言うときは、気をつけてくださいよ」
 「『正論』こそ、言ってはいけませんよ」
 
 
「『正論』を言うほうが正しい」のは、
「人間に成る」サイクルでの話です。

「『正論』を言う方が良い思いをする」ことで、
みなで、『正論』を確たるものとし、
『正論』を握りしめることができたからです。

今の、この、
「神に還る」サイクルにおいては、

「『正論』を言うほうが誤っている」のです。

「『正論』は、言えば言うほど、傷つく」のです。
 
 
しかし、とはいえ、
これらのことで深く傷ついた、
『正論』を抱え込んだ子を、
無視してはいけません。

傷つき、痛み、苦しんでいるのは、
事実だからです。

傷つき、傷んだ、
その子は、
現に存在しているのです。
 
 
『正論』(それを生み出す「基準」「価値観」)は
手放しつつ、

しかし、かつ、
その子を無視せず、
その子と、どう、向き合うのか。
どう、付き合うのか。

それこそが、
「『神』に還る」道、なのですね。