2018年11月8日木曜日

『第6回 名古屋イベント』を終えて


 2018年11月2日(金)、3日(土)、4日(日)の3日間、
 名古屋で6回目のイベントを、開催することができました。
 
 
 前回、名古屋に伺ったのが、
 昨年の8月。
 
 1年以上ぶりの、開催でした。
 
 
 また今回は、
 先月の大阪でのイベント同様、
 
 「浄化ワークショップ」を行わず、
 「個人セッション」と「津留さん交流会」を行いました。
 
 結果、
  個人セッションに2名、
  交流会に7名、
 計9名の方々に、お越しいただきました。
 
 
 個人セッションには、
 
  「子供がいて、千葉には行けないから、
   開催されるのを、心待ちにしていました」
 
 という方がご参加くださり、
 とても嬉しく、そして伺った意義を実感できました。
 
 
 また、交流会では、
 
 みなさん、初対面の方々を相手に、
 ご自身の体験や境遇を、
 とても赤裸々に語ってくださり、
 
 それゆえに、
 とても活発に会話が進み、
 とても深い内容になり、
 
 その場に居た一人として、
 まず、
 純粋に楽しかったとともに、
 
 とても感銘することができ、
 気づき・学びも、多く得られました。
 
 
 今回も、たくさんの方にお会いでき、
 そして、たくさんのお話を伺えて、
 とても嬉しかったです。
 みなさん、ありがとうございました。
 
 またお会いできる機会があると嬉しいです。
 
 
    集合人編集局 ひで










2018年10月20日土曜日

「サイト非表示」の件で

 
 10月10日夜、
 一通の問い合わせがありました。
 
  「津留晃一さんのメッセージ集のサイトが、
   突然、見られなくなってしまったのですが、
   改善されるのでしょうか?」
 
 
 その、お問い合せ内容に、ビックリして、
 サイトを確認すると、

  "  Forbidden "
  "  You don't have permission to access ... "
 
 と表示されるだけで、
 
 トップページも、
 メッセージ集も、
 表示されません。
 
 
 実は、その時は、
 翌朝早くから大阪に向けて経つ、
 その準備を終えたところ、
 といった状況で、
 
 準備を終えた、とはいえ、
 翌朝も早いので、
 
 きちんとした対処を取る時間が、
 あまりありませんでした。
 
 
 取り急ぎ、
 最低限の対処をし
 
 (お問い合せへの返答と、
  サーバ管理会社への問い合わせ、
  ならびに、新サイト及びこのブログでの状況告知)、
 
 後は、裕子さんにお任せすることにして、
 就寝。
 
 翌朝は、
 早朝に、大阪へ出発する予定でした。
 
 
 翌朝。
 
 予定より、早めに目が覚めたため、
 
 改めて、サイトを確認すると、
 やはり、まだ、"  Forbidden " 表示のまま。
 
 それを確認できても、
 まだ、時間があったので、
 
 そこで、
 いつもよく見ている、
 スポーツ関係のサイトやブログに、
 
 いつものように、
 一通り、さっと目を通すと、
 
 そのうちの、一つのブログに、
 なんと、
 
  「 "  Forbidden " 表示となり、ご迷惑をおかけしました」
 
 なる記事が!
 
 
 その、あまりのシンクロぶりに、
 思わず声を漏らして、笑ってしまいながら、
 その記事を読み進めると、
 
 そのブログの場合には、
 レンタルサーバへの料金不払いが、原因だったとのこと。
 
 
 そこで、
  「ということは、 もしや、やはり?」
 という気になりました。
 
 
 というのも、
 
 今回、非表示となってしまった、
 メッセージ集を掲載している、
 元々の「津留晃一の世界」サイトについて、
 
 先月、
  「利用料が支払われていません」
 という、料金未納の請求書を、
 受け取っていたからです。
 
 なので、
  「もしかしたら、その件と関係があるかな?」
 とは、
 薄っすら、思っていたのですが、
 
 しかし、
 その請求に関しては、
 即座に、支払いを済ませていたため、
 
  「でも、まさか ... 」
 という感じで、思っていたのでした。
 
 
 ところで。
 
 そもそも、
 その、「料金未納」の件ですが、
 
 料金は、
 毎月、クレジットカードからの、自動引き落としになっていて、
 
 本来なら、そもそも、
 料金未納が起こるはずがありません。
 
 なので、
 請求が来たときには、
 理由が分からず、
 
 頭の中いっぱいに、クエスチョンマークを浮かべ、
 二人して、途方に暮れていたのですが、
 
 あるとき、
 裕子さんに、閃きがやって来ました。
 
 
 その、クレジットカード、
 数ヶ月前に、
 新たなカードが送られて来ていたのです。
 
 そう!
 
 分かってしまえば、
 なんてことない話なのですが、
 
 登録していたカード情報の、有効期限が切れてしまって、
 それで、引き落としができなかったのでした。
 
 
 でも、あれ、
 カードの更新に伴って、
 
 登録カード(情報)も、
 自動的に更新される、のでは、ないんですね!
 
 こっちで、
 書き換えないと、いけないんですね。
 
 それを、
 全く知りませんでした。
 
 それが理由で、
 「料金未納」に、なっていたのでした。
 
 それに気づき、
 カード情報の更新と、
 未払い分の振り込みとを、済ませたのが、
 
 今から、数週間前。
 
 ということで、
 その一件は、
 落着しているはずです。
 
 
 そんな中、
 今回起こった、出来事。
 
 そのような事情から、

 先の、「カード有効期限切れ」マターとは、
 今回の件の原因が、結びつかなかったし、
 
 また、
 もし、それが原因だったとしても、
 
 もうすでに、
 カード情報も更新しているし、
 未納分の振り込みもすませているので、
 
 やはり、
 それが原因とは、思えませんでした。
 
 
  「であれば、
   振り込み済みなことが、
   あちらで、確認できてないのかな?」
 
 そう思い、
 改めて、その旨(振り込み済みである胸)を先方に伝え、
 
 そこで、
 大阪に経ちました。
 
 
 タイミング的には、
 大阪に入って、宿に向かっている最中でした。
 
 サーバ会社から、
 連絡のメールが来ました。
 
  「振り込み済みの件、確認しました。
   しかし、その前月の支払いが、まだ、確認できていません」
 
 なんと、
 その前の月も、
 未納のままでした。
 
 そして、
 それこそが、原因でした。
 
 その未納ゆえ、
 サーバの利用を止められてしまっていたのでした!
 
 
 その、さらに前月の未納分についても、
 請求書を郵送している旨が、
 
 しかも、
 2度も、送付している旨が、

 その返信メールには、書かれていました。
 
  「えっ!」
 
 慌てて、
 裕子さんに連絡します。
 
  「そんなハガキ、受け取ってた?」
 
 1通だけなら、
 もしかしたら、ありうるかもしれません。
 
 ここのところ、
 特に、雨が多く、
 
 郵便受けも、びしょ濡れになって、
 郵便物が濡れたり、郵便受けに張り付いてしまっていたり、
 
 ということが、
 あったからです。
 
 でも、2度も??
 
 
 調べてみても、
 やはり、そのようなハガキ、
 手元には、ありません。
 
 しかも、この件、

 ハガキ(郵送)での請求書が、
 送られているそうですが、
 
 メール(eメール)では、
 そもそも、送られて来ていないんですよね ...
 
 
 というようなことで、
 
 改めて申し上げますが、
 このたびは、
 ご迷惑をおかけしました。
 
 また、現在は、
 きちんと表示されていると思います。
 
 引き続き、
 ご愛顧ください。
 
 
 とは、申しはしましたが、
 
 というような事情ということで、
 
 私たちとしては、
 なんというか、
 
 避けようがなかった、というか、
 
 もっとはっきり言っちゃうと、
 こちらには、落ち度はなかった、というか ...
 
 そんな心持ちです。
 
 なんというか、
 
  「(宇宙に)非表示に『させられた』」
 
 といった、
 
 なんというか、
 そんな感じで、捉えています。
 
 
 今回の件に関しては、
 個人的には、
 
  「自動引き落としにしているものでも、
   ちゃんと、気をつけていないといけない」
 
 という、
 教訓を授かりました ^^ 。
 
 
 そして、
 もう一つ。
 
 お金のことを、
 何か、
 委ねちゃっている、というか、
 任せちゃっている、というか。
 
 いえ、もう少し正確には、
 委ね過ぎちゃっている、というか。
 
 いえ、さらに正確には、
 気に留めないようにしちゃっている、というか、
 見ないようにしちゃっている、というか ...
 
 何か、
 そういった、自分の面を、直視せざるを得ない、
 そういった、自分の側面に、向き合わざるを得ない、
 
 そんなタイミングであることを、
 指摘されているように感じました。
 
 そう、捉えました。
 
 
 今回の、大阪での津留さん交流会の中でも、
 そう、感じ、
 その場でも、お話しした内容なのですが、
 
 どうも、僕は、
 
  「想いを消滅させる」
 という方面に関しては
 (表現を変えると、「浄化」)、

 これまで、
 ある程度、きっちりして来たつもりですが、
 
  「想いを遂げる・満たす」
 ということに関しては
 (表現を変えると、「願望実現」「引き寄せ」)、
 
 何にか、
 軽視しているというか、
 蔑視しているところがあるというか、
 
 そんな感じを、
 印象として、持っていて、
 
 どうも、そんなことから、
 そこに、きちんと向き合ってこなかった、
 対応してこなかった、
 
 さらにいえば、
 挑戦してこなかった、というか、
 つまり、
  「体験が不足していた」。
 
 そんな印象を、
 ここのところ、頓(とみ)に、感じていました。
 
 
 過去記事「 見つめる 」でも書きましたが、
 
 やはり、
  都合の悪いこと、苦手なこと、好きじゃないこと
 は、
 
 見ないようにしてしまいます。
 
 お金のことに関しても、
 やはり、見ないように、気に留めないように、
 無意識のうちに、してしまうところがあります。

 特に、
  「たくさん稼ぐ」
 ということや、
  「『いっぱい欲しい』という願望を認め、
   それを叶える方向で対処してみる」
 ということに関しては、
 
 先に述べた、
  「想い(欲)そのものを消して行く」
 という方向性と、
 正に、反するものである、ということがあり、
 
 どうも、
 軽視し、蔑(ないがし)ろにし、
 
 それを加勢に、
  向き合わない、対処しない、挑戦しない
 というところが、あります。
 
 
 もちろん、
 それは、何も問題はありません。
 
 中期的には、
 誰しも、
 「想いを消滅させる」方向に進むし、
 
 自分の場合も、
 その方向に、着実に、進んでいるところがある、
 
 と、思っています。
 
 そして、
 それによって(その方向に進んで来たことによって)、
 
 僕は、確実に、楽になって来ているからです。
 
 基本的には、
 僕は、今後も、
 その方向に進んで行くことでしょう。
 
 
 ですが、
 であればこそ、余計、
 
 その前段階において、
 やり残していること、
 体験し残して来ていること、
 
 それゆえに、
 納得し尽くせていないこと、
 理解し損ねていること、
 
 そんなことがあって、
 
 それ故に、かえって、
 今、進んでいる道のりが、
 少し、停滞してしまっている ...
 
 
 何か、
 そんな印象を持っています。
 
 
 今回の「事件」は、
 そんな気づきに、
 
 一つ、
 物質的確証を与えてくれた、
 
 というか、
 
 そう進んでみることに、
 きっかけを与えてくれた、
 後押ししてくれた、
 
 というか、
 
 そんなことだったのかなぁ、と、
 捉えているところです。











2018年10月16日火曜日

『第9回 大阪イベント』を終えて

 
 2018年10月12日(金)、13日(土)、14日(日)の3日間、
 大阪で9回目のイベントを、開催することができました。
 
 
 前回が、5月でしたので、
 その半年後の、11月を、当初、検討していましたが、
 
 会場の都合から、
 10月の、この時期での開催となりました。
 
 ですが、結果的には、
 最も気候的に快適で、心地よい、
 この時期に開催できて、良かったです。
 

 今回は、
 「浄化ワークショップ」を行わず、
 「個人セッション」と「津留さん交流会」を行いました。
 
 結果、
  個人セッションに4名、
  交流会に10名、
 計14名の方々に、お越しいただきました。
 
 
 「個人セッション」は、
 「4名」と書きましたが、
 
 実際には、
 「4組、6名」の方々にお越しいただきました。
 
 というのも、
 今回、初めて、
 「グループセッション」を行い、
 
 そのうちの「1組3名」は、
 「グループセッション」だったからです。
 
 僕としては、初めての試みでしたが、
 この3名と僕は、
 何度も顔を合わせている既知のメンバーでしたので、
 
 とても楽しい、
 また、深い気づきの得られる、
 そんな、セッションとなりました。

 また、その他3名方々には、
 いつものように、個人セッションをさせていただき、
 その中で、浄化のお手伝いをさせていただきました。
 
 
 「津留さん交流会」には、
 定員の10名の方々にお越しいただき、
 とても楽しく活発な交流をすることができました。
 
 
 今回も、たくさんの方にお会いでき、
 そして、たくさんのお話を伺えて、
 とても嬉しかったです。
 みなさん、ありがとうございました。

 またお会いできる機会があると嬉しいです。

   集合人編集局 ひで








2018年10月10日水曜日

旧サイト「津留晃一の世界」が表示されていないことについて

 
 現在、旧サイト「 津留晃一の世界 」が表示されなくなっています。
 
 それに伴い、津留さんのメッセージ集『 覚醒進化プログラム 』も、
 お読みいただけなくなっています。
 
 みなさまには、ご迷惑をお掛けして、まことに申し訳ございません。
 
 現在、サーバ管理会社に問い合わせを行い、
 漸次対応をしているところです。
 
 ご迷惑をおかけして、まことに申し訳ございませんが、
 今しばらくお待ちいただけますようお願い申し上げます。


     集合人編集局 裕子・ひで








2018年10月4日木曜日

台風24号(別個の宇宙)


台風24号の影響で被害にあわれたみなさまに、
こころより、お見舞い申し上げます。


2018年9月30日(日)。

その日は、ちょうど、
津留さん交流会の日でした。
 
 
2ヶ月近く前に、開催日を決定しましたので、
まさか、当日に、非常に強い台風が到来するとは、
夢にも思っていませんでした。

開催の数日前から、
「非常に強い」勢力のまま、
しかも、ちょうど開催当日にやって来るらしい、
ということが、分かっていたため、

前日には、
予約してくださっていたみなさまに、
 「ご遠慮なく、キャンセルなさってください」
という旨のメールをお送りしました。

結果、4名の方々は、キャンセルなさいました
(あの時点での判断としては、
 極めて当然で、とても賢明だったと思います)。

ですが、
蓋を開けてみると、

 「本当に、近づいているの?」
とすら思えるほど、
台風の影響が見られないままに、
交流会も終えることができ、

主催者としては、胸をなでおろすことができた、
その夜。
 
 
予報どおりに、ようやく、
台風は、やって来ました。

ですが、
風こそ、それなりに強く吹きつけていましたが、
しかし、
雨もそれほど強くなく、

その影響もほとんどないものと、
高を括っていた、午前1時半過ぎ。

突然、
玄関チャイムが鳴りました。

同時に、
電話機も、音を立てて、なんらかの作動を始めました。

はじめは、
なんのことか分からず、

玄関をのぞいてみると、
強風で、門の扉が開いてしまっている様子が見え、

 「なんだ、これを閉めろっていうことか」
と、
見えない存在からの、間接的な指示なのだろうと、
スピチュアル的解釈をして、門を閉め、

また布団に入るやいなや、
もう一度、
玄関チャイムと電話機が音を立てました。
 
 
そのとき、
事態がつかめました。

というのも、
起きあがった際につけた照明が、
一瞬消え、そして、ついたからです。

それら全てが、
同じタイミングで起きたからです。

 「あっ。 停電か!」

玄関チャイムと電話機は、
一度停電し、その後通電したことによって、
それゆえに、初期作動を起こしていたようです。

停電と通電が繰り返されている、
ということが分かりました。

その後、さらに数度、
同じ現象が起こった後、

機器たちは、
完全なる沈黙に入りました。

本格的に、停電になりました。

ただ、
家族たちは、深く寝ているようでしたし、
水道は止まってなくて、トイレも使えましたし、
枕元には、懐中電灯も準備できましたので、

とりあえず、寝ることにしました。
 
 
翌朝。

やはり、停電で、
まだ、回復していませんでした。

普段とは、少し違った方法・手段で、
家族みなが、早めに、身支度を整えて、
一息つけたところで、

外の様子を見に行くことにしました。

手元の携帯で、ネットを調べたところ、
停電しているのは、
近隣の一部であり、

しかも、
近隣の中でも、
限られた一帯だけ、のようです。

興味から、その状況を調べてみよう、
というのとともに、

駅の様子や、学校の様子、
そして、コンビニが営業しているのかどうか
(何か緊急に必要なものが生じた場合、手に入れられるのかどうか)、

という、実用的な点からも、
周りの様子を見てみることにしました。

好奇心旺盛な、小学生の娘が、
一緒に来ることになりました。
 
 
幸い、
というのか、

いえ、不幸なことに、
なのか、

停電していたのは、
本当に、わが家の周りの一角だけでした。

隣の隣のブロックは、
信号も正常、自販機も正常。
行き交う人々の様子も正常。
聞こえて来る生活音も、正常。
電動の雨戸を開けている様子も、目に入りました。

駅・学校方面は、大丈夫なことが分かり、
反対方向のコンビニがどうなっているか、見に行きました。

こちらこそ、
どうやら、数ブロック、停電しているように思えましたが
(確認は取れませんでしたが)、

しかし、
調査目的のコンビニは、
全く通常どおりに、営業していました。

お客さまが殺到しているようなこともなく、
やはり、停電しているのは、ほんの一部のようです。

僕は、少し安心して、
家に向かいました。
 
 
その道中。

娘が、口を開きました。

 「電気ムカつく。
  止まるなんて、ムカつく。
  うちの周りだけつかないなんて、すごい頭に来る」

その言葉に、
ビクッとしました。
 
 
確かに、
その感想そのものは、理解できます。

ましてや、
うちの娘の想いだとすれば、
なおさら、納得もできます ^^; 。

ですが、
そのときの僕は、

停電地域も、影響も、
極めて限られていることを知って、
安堵したのと同時に

(ということは、
 わが家付近の復旧も、そう、遠くないでしょうから)、

普段当たり前に使っているものたちのありがたみを、
「電気」のありがたさを、恩恵を、

身に染みて感じ入り、
感謝していたタイミングだったからです。

その自分と、
まさに正反対ともいえる感情を娘が感じていることに、

わずかですが、反射的な驚きのような反応を、
感じました。
 
 
結局、
そのわずか数十分後には、
電気は復活しました。

停電時間は、
通算で、6時間強。

しかも、
そのうちの大半の時間が、睡眠中だったことを加味すれば、

実質的に影響を受けたのは、
2時間弱。

おかげさまで、
その程度の影響で済みました。
 
 
静岡県内では、
今日、10月4日現在でも、
まだ、停電している地域があるようですね。

そのご不便、
そして、ご不安、ご心配、
いかばかりかと、心よりお見舞い申し上げます。

今回の、
たった(実質)2時間ほどの停電でさえ、
不便と、不安を、それなりに感じました。

ましてや、
何日も、それが続けば、

不便も、指数級数的に累積されることでしょうし、
不安や心配も、飛躍的に増幅していかれることでしょう。
 
 
そして、
このような、停電の影響は、

今年の日本列島では、
各所で、みられましたよね。

のみならず、
北海道ので地震や、
大阪での地震・台風、
岡山・広島などの西日本での豪雨災害 ...

そこでは、
「利便性が損なわれる」状況をはるかに超えた、
「生命の確保・存続が危ぶまれる」ほどの状況すら、
ありましたよね。

各地で、
様々なご不便、恐怖、不安を、
深く、強く、強烈に、お感じになられた方々が、
多数、おいでのことと存じます。

今回、
僕自身が、軽度の影響を体験することによって、
これまで以上に、
それらの方々に対するお見舞いの念を、
しっかりと感じることができました。
 
 
同時に、
繰り返しになりますが、

「電気」「文明」というもののありがたさを、
改めて、素直に、
感じることになりました。

ともすると、
僕の場合、
それらを否定してしまいがちな傾向があるのですが

(「エコロジー」的な観念・観点が強固なので)、

今回、改めて、
それらを、それらの存在を、
肯定し、感謝することができました。

これら、
僕にとっては、
とても大きな意義のある体験ができました。
 
 
 
さて、
前置きがとても長くなりましたが、

このブログ的な内容についても、
最後、一言、
触れたいと思います。
 
 
今回の停電を体験した件では、

娘と僕とは、
いわば、正反対の感情体験をしました。

そして、
それこそが、
まさに、

 「私たちは、一人ひとり、
  別々の、独自の宇宙に居る」

ということの、
一つの意味です。
 
 
いわゆる「客観的」と呼ばれるような視点から見れば、

娘と僕は、
全く同じ事実を、共通した同じ現象を、
体験しているはずです。

しかし、
そこから感じること、
「感情的な体験」は、
全く別個であり、

しかも、
内容的には、正反対ですらあります。
 
 
このとき、

 「いや、共通の同じ事実・現象を体験しているのでは、ないのだ。
  そもそも違う現象を体験をしているのだ。
  だから、異なる感想を、感情を、持つのだ」

と、
ある種、『便宜的に』考えてしまうこと。
『都合がよいように』認識してしまうこと。

それが、
 「それぞれに、それぞれの宇宙」
 「宇宙が違う」
というときの、

『一つの意味』『一つの捉え方』です。
 
 
もし、
そのように「都合よく」解釈してしまうことに抵抗がおありでしたら

(もし抵抗がなければ、そのように解釈し、認識してしまってください。
 とても楽に生きる、大きな秘訣になります)、

たとえば、以下のように考えてみてください。
 
 
娘と僕は、
仮に、その「停電時」という時点においてには、
同じ共通の現象を(宇宙を)体験していたとしても、

しかし、それ以外の部分では、
違う現象を体験しています。

例えば、

娘が小学校に行き、
そこで、学校生活を体験している最中、

僕は、例えば、
個人セッションをしている、

などのケースがあるわけですが、

そのように、
たとえ、どこかでは、
共通の宇宙を体験していたとしても、

その場合であっても、
それ以外の、それ以前の場面では、
それぞれに違う宇宙を体験していれば、

今現在体験している宇宙は、
それらの宇宙を体験してきた後の宇宙であり、
それらの宇宙を経由した後の宇宙であり、

つまり、
それらが積み重なり、積算された結果の、
今現在の、その時点での宇宙は、

あるいは、
それらを経由した結果の、
現時点での宇宙は、

各人が、それぞれに、違う、
と、いうことができますよね。
 
 
その結果、
仮に、
「現時点」という一点での宇宙は、共通していたとしても、

結局のところ、
個人個人の、「総体としての『宇宙』」は、
それぞれに、違う、ということであり、

その結果、
そこから体験すること、感じる感情は、
それらの相違によって、異なってくる、
ということになります。
 
 
その、
「積算された部分」や、
「経由してきた部分」というものを、

私たちの「外的な宇宙」ではなく、
私たちの「内的な宇宙部分」として認識した場合には、

それらが、それぞれ、
独自の、「エネルギーブロック」として把握されます。

そして、
上記表現は、

 「私たちは、それぞれ、独自の体験を経た結果、
  私たちは、それぞれ、独自のエネルギーブロックを有しており、
  それらから受ける影響が、それぞれ、独自なために、
  私たちは、それぞれ、独自の宇宙に住んでいる」

という表現になります。

まさに、
津留さんが表現しているとおりの、
認識です

(「それぞれに、独自のサングラスをかけて、
  世界を見ている」なんて言い方も、されますね)。
 
 
以上のように、

 「私たちは、それぞれ、別の宇宙に住んでいるのだ」

と、思えてしまえば、

その場合には、

それぞれが、それぞれに、
別個の感想を持つに至ったり、
別個の意見や価値観を持つに至ったり、しても、

それは、至極当然のことと、
思うことができるわけですが、

しかし、私たちは、

 「体験している現象は、
  みなに共通する、同一の、一つの、『事実』である」

と、
社会通念的に、
それゆえ無意識のうちに、
そう、認識しています。

そして、
だからこそ、

そこから発生し、受け取り、体験する、
「感情(体験)」にしても、「価値観」「観念」にしても、
同じもので然るべきだ、と、

と、無意識のうちに、
認識しています。

 
特に、
今回の僕のケースのように、

片一方が「親」であり、
もう一方が「子」であるケースなどは、

 「なんで、そんな風に思うの?
  なんて子供なの?
  それは、不謹慎で、ダメよ!
  こう思いなさい!」
と、

自分とは違った感想を持ったり、
自分とは違った感情体験をしている他者を、
否定しがち・批判しがちです。
 
 
そして、
その認識こそが、

苦しみの原因であったり、
困惑の原因であったり、

あるいは、
対立の、闘争の、原因になったりします。
 
 
 「そもそも、同じで然るべき」

という認識は、

同じであって、「普通」であり、
違うと、「問題」です。

同じであって、「0」で、
違うと、「マイナス」です。

減点評価で、
不幸になりがちな捉え方です。
 
 
対して、

 「そもそも、違っていて、当然」

の認識は、

違っていて、「普通」「0」。

もし同じならば、
それは、「ラッキー」で、「プラス」。

そんな捉え方です。

加点評価的な、捉え方で、
こちらの方が、より幸福感を味わいやすいです。
 
 
なので、

 「こんな風に認識した方が、楽ですよぉ」
というのが、

津留さんが伝えたかった、一番ポイントなんだと、
僕は理解しています

(津留さんの場合には、
 『真理』として、
 別個の宇宙に存在している、と、認識していたとも、思いますが)。












2018年9月30日日曜日

向き合っているのは、『自分』


先日、
個人セッションに来てくださった方から、
お聞きした話です。
 
 
その方は、
「株」をされているのだそうです。

そして、
その売買の指標は、

 「その会社の業績・企業価値などを勘案する」
というタイプではなく、

完全に
 「相場だけ、相場の動きだけを見る」
というタイプだそうです。

株式市場における、
ある会社の株式に注目したら、

その株価の動き・変遷に注目し、
その「流れ」を追い、注視し、

その変化の動きを予測して、
売買をし、
そこから利益を得る、

という、手法を採られているそうです。


で、
その日、話題になったのは、

先ごろ、
その方が体験された出来事です。

所有していた株式が、値を上げ、
利益が上がって来たのだそうです。

そのときに、
その方の採用されている方式によれば、

 そのまま持ち続けて、
 さらなる値上がりを待つ

というのが、
定石なシチュエーションで、

でも、
とても怖くなってきて
(「怖くなった」その理由は、
 おそらく、反転して、損失が出てしまうこと、だと思います)、

売却してしまい、
少額の利益を確定させたのだそうです。

しかし、
案の定、

その後の、その株価の動きは、
その後に、急上昇を見せ、

そのまま保持していれば、
大きな利益を得られたはずだった、
そうなのです。


そのとき、
 「怖くなって、売却してしまったこと」
に関連して、

その方は、
こう、おっしゃってました。

 「株をやっていても、
  対峙しているのは、
  株式市場ではないんです。
  
  向き合っているのは、いつも、
  『自分』なんです。」

と。


事例として、
とても分かりやすいと、感じたので、
ここで、シェアさせていただきましたが、

みなさんも、
事例は違えど、
似たようなこと、思い当たること、
ありますよね?
 
 
例えば、この方の事例である、
株式売買をしていても、

問題なのは、
「株式市場」では、ないんです。

「自分の内側の『恐れ』」なんです。
 
 
いえ、
きっちりと、正確に表現したいので、
言い直しますが、

「株式市場」も、
もちろん、大切だし、問題です。

そこと、向き合っています。

なのですが、
しかし、

それ以上に、
それ以前に、
その手前で、
それよりも圧倒的に大きく、重く、

「自分の内側の『感情』」が、
問題なのです。

そこが、
『相手』なのです。
 
 
そして、
誤解を恐れずに、さらに言えば、

『そここそが』、
問題なのです。

それ以外は、
大した問題ではないのです。
 
 
加えて、
私たちは、すでに、

『外側』の問題に対処する方法については、

経験も積み、
方法論も多数身につけ、
参照できる情報もあふれていて、

ある程度以上の対応を、
取れるようになってきています。

そして、
『だからこそ』、

それらの方法では、有効に対応できない、
未だに問題となっている事象に対しては、

そうでない方法を、
かつ、より根本的な対処を、

ぜひ、採っていただきたいのです。

それが、
『内側』に対する対処であり、

その一つが、
『浄化』になります。
 
 
この点に関しては、
今回は、この簡潔なまま、
終わりにさせていただきます。
 
 
そして、
もう一点。

何か『問題』と認識する状況になったとき、

結局、そのとき、
『外側』の状況が問題なのではないのです。
 
 
いえ、
ここも、
より正確な表現をとりましょう。

『外側』も、
問題といえば、問題なのですが、

しかし、
それを『問題』と判別している基準は、

あくまでも、
自分の『内側』にあります。

より重大で、
より根本的なのは、

『内側』なのです。

『自分』なのです。
 
 
『自分』が、

 「あぁ、問題だ。
  どうしよう。
  大変だ。
  どうにかしなきゃ ... 」

と、
騒いでいるのです。

人によっては、

 「よし、やった。
  このまま、定石どおりなら、
  大金が儲かるぞ」
と、

「好ましい状況」と判断する、
そんなシチュエーションで、

 「どうしよう。
  怖い ...
  逃げたい ...
  売っちゃおぅ 」
と、

恐怖を、ストレスを、
感じているのです。

向き合っているのは、
「状況」ではないのです。

その、
「『内側』の反応」なのです。

自分の中の『自分の反応』なのです。
 
 
問題なのは、

すぐに怒る夫でも、
怒ると恐ろしい上司でも、
陰湿な先輩女性でも、
ないのです。

問題なのは、
それらを怖がっている、
それらを嫌がっている、
『自分の中の自分』なのです。

向き合っているのは、
対峙しているのは、

常に、
『自分の中の自分』なのです。

『自分』なのです。
 
 
そして、これが、

 「宇宙には、自分一人しか居ない」

の、
一つの意味、なのです。
 
 
結局のところ、
問題なのは、

騒いでいるのは、
泣き叫んでいるのは、

『自分の中の自分』なのです。
『内側の、その子』なのです。

震えているのは、
怯えているのは、

その子なのです。

『外側』には、
現象が、あるだけなのです。

出来事が、
映し出されているだけなのです。

それを見て、
『その子』が、怖がっていること。

そのことが、
問題なのです。
 
 
同じように、

笑っているのも、
喜んでいるのも、

その子です。

そこも、
大切ですね。


いずれにせよ、

なので、

その子を認め、理解し、寄り添い、
そして、仲直りすること。

その子と、和解すること。

あるいは、
場合によっては、

その子に、成仏してもらうこと。
その子に、昇天してもらうこと。
安らかになってもらうこと。

それが、全てなのです。

私たち一人一人が、
向き合っているのは、

その子たちだけ、なのですから。

宇宙には、
その子たちしか、居ないのですから ...
 
 
そう思えるようになる、
 「認識の、コペルニクス的転回」
が、

おそらく、
誰にでも、訪れるのだと思います。

そのときが、
 「暗闇に、光が射すとき」
なのだと思います。

そここそが、
 「下って行った、谷の底」
なのだと思います。


そうすると、

 「自分が向き合っているのは、『自分』だけだ」
と、

 「宇宙には、自分一人しか居ない」
と、

自然、
『感じられる』のだと思います。
 
 
そして、
そのとき、

 「すべてが、自分だった」
と、
体感することになり、

それを
深く、体感できればできるほど、

今度は、
 「すべてが、愛おしい」
と、
感じてこられるのだと思います。
 
 
津留さんは、

本を手にしては、
感涙し、

割り箸を手にしては、
感涙していたそうですが、

おそらく、
そのときの心境は、

すべてが愛おしくて仕方なかった、
のだと、思います。
 
 
その始まりは、

「すべての『自分』」を、
きちんと認め、
きちんと向き合うこと。

そこなんだと、思います。
 
 
 
 
 
 
 
 

2018年9月8日土曜日

お見舞い申し上げます(北海道地震・大阪台風)

 
先日の、北海道での地震により、被害に遭われた方。

および、台風による強風で、被害に遭われた、大阪・関西方面の方。

ならびに、今年に入り頻発している、自然災害に遭われた方。

みなみなさまに、心より、お見舞い申し上げます。
 
 
このところ、
特に今年に入ってから、

自然災害が頻発していて、

また、その規模・強度が増し、
被害が甚大に、深刻になっている印象を、
個人的には、持っています。

被害に遭われた方やご関係の方、影響を受けられた方、
みなさまに、お見舞い申し上げます。
 
 
被害に遭われている最中などは、
特に、

恐怖や不安が大きく、とても強く、
動揺が収まらず、混乱し、

落ち着くこと、冷静になること、
そんなことが、まずもって、難しい状態になることもあります。

そんなときにこそ、
スピリチュアルな考えや、津留さんのメッセージなどが、
役に立つ、助けになる、

そんな方も、いらっしゃるかもしれませんし、
そんなケースも、あるかもしれません。

ですが、
しかし、

多くの、緊迫した、切羽詰まった状況では、

ほとんどの方の場合、
それどころではない、
という状態になられることと思います。
 
 
そんなときには、

まず、
今目の前の状況に対して、

3次元的な、実際的な行動を、
躊躇なく、そして集中して、行ってください。

また、
そんな状況で、
津留さんの言っていたことで、役立つとすれば、

呼吸に意識を向けて、
しっかりと、冷静なる方向に、意識を持って行くこと、

それを、どうぞ、
全力でなさってみてください。
 
 
 「呼吸に意識を向ける」
 「集中して、呼吸をする」
と、

巨大な感情の波に飲み込まれてしまうことから離れることが、
思考の渦に翻弄されてしまうことから距離を置くことが、

可能になる確率が、格段に高まります。

そんな状況では、
まず、そのことを、最優先になさってください。
 
 
もう、
5年以上も前のことになりますが、

娘が、
意識を失い、痙攣を起こし、
救急車で救急搬送されたことがあります。

病院に着くなり、
救急救命室に運ばれ、

閉まりゆく扉越しに、
 「気道を確保して!」
と叫ぶ声が聞こえるような、
そんな事態でした。
 
 
搬送されている間、
あるいは、病院に着いてからも、

猛烈な、強烈な、
なんとも形容のし難い、圧倒的な恐怖感に、

押しつぶされそうになりながら、
気が狂いそうになりながら、

でも、
ただ、ひたすら、
呼吸に意識を向けていました。

津留さんの、
 「そんなときには、浄化なんてできませんから、
  とにかく、呼吸に意識を向けてください」
という言葉を左手に握りながら、

ただ、ひたすらに、とにかく、
全力で、全身全霊で、
息を吸い、そして、息を吐いていました。
 
 
僕の場合には、
「そのおかげで」、と認識していますが、

どうにかこうにか、ギリギリ、
意識の一部分を、自分の冷静な部分に繋ぎ止め、

津波のように激動して起きている、目の前の現象に、
どうにかこうにか、かろうじて、ギリギリ、
自分の意識を、時差なく、並列走行させることができました。
 
 
スピリチュアルなことは、
特に、「浄化的」なことは、

状況が落ち着いてから、
心が落ち着いてから、

いくらでも、できます。
 
 
まず、可能な範囲内で、
気持ちを、心を、冷静に保つこと。

そして、取れる現実的な対応を、
逡巡なく、行うこと。
そのことに、集中すること。

そのためにも、
そのためにこそ、
可能な限り、気持ちを鎮めること。

まず、
そのことに、注力なさってください。
 
 
そのためには、
ひとまず、

平時に役立つものたちは置いておいて、

その状況に全力で当たられてください。









2018年9月7日金曜日

かりそめ、だけど本番

 
前回、
人生は旅行のようなもの
と、書きました。

そこで、お伝えしたかったことは、

 「津留さん的な見方をする場合には、
  『人生』あるいは『人間をする』というのは、
  旅行みたいなものだ、
  と、とらえていただくと、
  とても当てはまっていて、お分かりいただけやすいと思います」

ということです。

また、
そこでは、

津留さん的な見方・考え方・認識の、
その他のスピリチュアル的なメッセージとの違いや、
あるいは特徴のようなものも、
少し、まとめてみました。

以上の中で、
何かご参考にしていただけることがあると、嬉しいです。
 
 
さて、今回は、
その補足のようなものを、

一つ、
させてください。
 
 
 「人生は旅行のようなもの」

そう、認識したとき、

『人生』『人間をしている今』は、
「旅行中」です。

今の私たちは、
「旅先にいる旅人」です。

「旅」は、
やがて、いずれ、
終わりを迎え、

そのときには、
『家』に帰ります。

つまり、
「旅」とは、
一時的なものです。

『かりそめ』です。

今の状態も、
「永続」「永遠のもの」ではないし、

また、
今のこの存在(している『人間』という存在・状態)は、
「本質」では、ありません。
 
 
「そもそも」の、「元々」の、
場所だと、ものだと、

味わえないから、体験できないから、

今は、かりそめに、
この場所にいて、このものに成っている。

『人間をしている』『人間に成っている』存在としての、
今現在の私たちは、

「本質」からはかけ離れた、
仮の、かりそめの、状態になっている、

そんな存在です。
 
 
『人間』として生きていることに、
絶望を感じたり、
圧倒されてしまったり、
虚しさを感じたり、
あるいは、嫌悪を感じたり ...

そんなこと、
どなたでも、おありだと思います。

特に、
津留さんのメッセージがお好きな方は、
心優しい方が多く、
そして、自分を責めがちですから、

そんな、辛い思いをされてらっしゃる方、
多くいらっしゃることと思います。

そんなときには、

どうぞ、
 「これは『かりそめ』である」
ということを、
想ってみてください。

そんな考えを、見方を、
採用してみてください。
取り入れてみてください。

役立つことが、
少しでも、安らげることが、
あるのではないかと思います。
 
 
また、
しかし。

しかし同時に、

ここは、今の状態は、
かりそめではあるけれども、

しかし、同時に、
ここは、今は、「本番」です。
 
 
旅先は、
旅人という状態は、

かりそめの場所であり、
かりそめの状態だけれども、

しかし、それは、

想いを果たすために、
望んで、求めて、訪れている場所であり、

その場所でないと、その状態でないと、
できないことをするために、

そのために、わざわざ、
訪れている場所であり、状態です。

今が、
望んだ結果が得られている状態、

今が、
『本番』です。
 
 
ですから、

楽しいことは、
嬉しいことは、

遠慮なく、
楽しんで、満喫してください。

また、もし、
辛いことや、大変なことであっても、

どこかに客観的に見られる余裕があり、
どこかに冷静になれる部分があるようなら、

しっかりと、体験なさってくだい。

旅先の旅人として、
この本番を、
遠慮なく、存分に、味わってください。
 
 
 かりそめであり、
 でも、そうではあるけれども、しかし同時に、本番

そんな、
一見、相反するような、

そんな、
「どちらも」な状態が、

津留さん的な見方をしたときには、
矛盾なく、成立しています。

だからこそ、
「全てOK」です。
 
 
そして、ですから、

 「好ましくないことは、
  『かりそめ』と、重く受け止めず、気にかけず、
 
  でも、好ましいことは、
  『これぞ本番』として、存分に満喫する・味わう」

そんな都合の良さを、
ぜひ、取り入れてみてください。

遠慮なく、
活用してみてください。

それを、
ご自分に、許してください。


今、ここは、
かりそめであり、だけど、本番。









2018年9月6日木曜日

人生は旅行のようなもの


 「人生は旅である」

 「人生というのは、旅のようなものであり、
  また、旅というのは、人生のようなものである。」

このような言葉・格言・慣用句・表現を、
耳にされたことがおありなのではないかと思います。
 
 
誰が言った言葉なのか、
ググってみましたが、

明確なもの、確定的なもの、
広く一般に合意・認識されているもの、には、
行き当たりませんでした。

ただ、古くは、
お釈迦さまも、
人生を旅に、私たちを旅人に、例えていらしたようです。
 
 
また、
 「人生は旅である」
と言ったとき、

では、
 それがどういう意味なのか
 何を意図したものなのか、どんな教訓めいたものなのか
など、

その言わんとするところは、
また、それぞれに、いろいろ、あるようです。

 「とどまることのないもの」(無常・変化)
 「種々雑多なもの・ことがあるもの」
 「自ら進んでいくもの」
 「何があるかわからないもの」
など、

そこで言わんとするは、
言い手・使い手により、
状況・シチュエーションにより、
様々なようです。
 
 
ところで、みなさん。

みなさんは、
実生活において、
旅をするとき、旅行をするとき、

どのようなきっかけで、
どのような動機で、
旅行をされますか?

もちろん、
「旅」「旅行」といっても、
いろいろありますが、

基本的には、
旅行というのは、

 「見たいもの」
 「したいこと」
などがあり、

それをするために、
行くものではないでしょうか?
 
 
例えば、
 テレビで、ある風景を見て、
 それに感激して、
 自分も、ぜひ、それを生で、この目で、見てみたい
とか、

 雑誌に載っていた、あるお店の、ある料理が、
 とっても美味しそうで、
 どうしても、それを食べてみたい
とか、

あるいは、
 友人から聞かされた、ダイビングの話が、
 とっても素敵で、羨ましくて、
 ぜひ、自分も、そこに潜ってみたい
とか、

そんなきっかけ・動機・目的があって、

で、
それをするために、実現するために、
その場所を訪れる。

旅行というのは、
おそらく、
そのような動機・目的で、なさるものだと思います。

 どんな場所・景色か、料理か、アクティビティか、
 知っているし、
 知っているからこそ、知れば知るほど、
 実際に、見てみたい、味わってみたい、体験してみたい、
 その気持ちが高まり、
 そして、その願望を叶えに行く

そんな感じなのでは、と思います。 
 
 
そのことを、
僕がここで言いたいことを伝えやすいように、表現すると、

私たちは、

 事前に知っていたこと、
 事前に情報を得ていたこと、を、
 実際に自分で体験するために、
 旅行をする

となります。

つまり、

 旅・旅行とは、
 事前に知っていたことを、
 現地に行って実体験すること

と、なります。


さて、
で、ここで。

僕も、
先と同じようなことを、言ってみたいと思います。

 「人生とは、人間として生きるとは、人間をするとは、
  旅行のようなもの」
と。
 
 
毎度おなじみ、
津留さん的な見方・認識では、

私たちは、
元々は、神さまでした。

この見方・認識、仮定・仮説においては、

私たちは、元々は、
「全て」でした。

 「すべてである、一なる意識であり、
  全知であり全能である」存在
でした。

 「全てが自分であり、
  だから、全てを知っていて、なんでもできる」
そんな存在でした。
 
 
しかし、
「全てを知っている」存在であり、
「なんでもできる」存在である、
そんな存在『だからこそ』、

逆に、
パラドックス的に、
「できないこと」が、ありました。

それは、
 「知らない」「わからない」
 「できない」
ということ。

全てを知っているので、
 「知らない」「わからない」
ということが、
ありません(できません)でした。

なんでもできてしまうので、
 「できない」
ということが、
できませんでした。
 
 
ただ、
もちろん、
「全てを知っている」存在ですから、

「知らない」「わからない」ということが、
どういうことなのか、

「できない」ということが、
どういうことなのか、

そのことは、
完全に、知っていました。

その意味を、概念を、
知識としては、完璧に、完全に、
「知っていました」。
 
 
ただ、
知っていはいましたが、

しかし、
「できません」でした。

表現を変えれば、
「体験できません」でした。

それが、どういう感じなのか、
「感じられません」でした。
「味わえません」でした。

そして、
知っているからこそ、
感じてみたくて、味わってみたくて、
たまりませんでした。
 
 
で、では、
「できる」ためには、
「体験する」ためには、
どうしたらいいのでしょうか?

それには、
 「全知ではない」「知らないことがある」「わからないことがある」存在
 「できないことがある」存在
に成ること。

 「全知全能」ではない
 「完全」「完璧」ではない
そんな存在に成ること。

そう成れば、
 「わからない」「できない」
ができます。
 
 
では、
そう、成れるでしょうか?

成れます。
だって、「全能」ですから。
「なんでもできる」のですから。
できないことは、ありませんから ...
 
 
こうして、
私たちは、

 「知らないことがある」
 「わからないことがある」
 「できないことがある」

そんな存在に成りました、

自らの、「全能性」を、
遺憾なく発揮して。
 
 
そして、さらに、
「わからない」「できない」内容を深めるために、

 「わからないことだらけの」
 「できないことだらけの」
 「不完全な」
 「ちっぽけな」

そんな存在にまで、成りました。

それが、
今、私たち一人一人がやっている、
『人間』という存在です。
 
 
完璧に、完全に、
知っているにもかかわらず、

でも、
「知っている」だけでは、
不十分で、不満足で、物足りなくて、

「わからない」「できない」を、
「体験」したくて、
「感じ」たくて、
「味わい」たくて、

私たちは、
人間という存在を創り出し、

そして、
それに、成っています。

それが、
今、私たち一人一人がやっている、
『人間』という存在です。
 
 
そんな見方、
そんな仮定に立ったとき、

「人生」を「旅行」に例えるという比喩は、
とてもしっくりとくる、適切で、当てはまったもの、
であると、感じます。
 
 
まず、
一番ポイントとなる部分は、

 「体験すること」
 「感じること」
 「味わうこと」
 それが、一番の目的である

ということです。

 「人間をしている」「人間として生きている」というのは、
 「地球人間体験『ゲーム』」をしている
という、
津留さんの、別の表現とも、一致しているとおりに、

このような見方からすれば、
「体験すること」「感じること」「味わうこと」こそが、
一番の目的です。

「知ること」が、目的ではありません。
もう、はじめから、完璧に、知っているのですから。

旅行の前に、その情報は、完璧に、手に入れているのですから。
 
 
しかも、
その、「体験したいこと」「感じたいこと」「味わいたいこと」は、

元々の『神さま』の状態では体験できない、
『人間』に成らないと体験できない、

「わからない」「できない」という内容であること、
です。

このマゾ的な、一見信じがたいような目的こそが、
実は、渇望し、憧れ、恋い焦がれたもの、なのです。
 
 
また、それは、「探検」とは、
少し、違います。

「探検」は、
未知のものを探しに行くもの、ですが、

『人生』とは、
むしろ、すでに知っていることを、
見に、体験しに、行くものです。

 そこに行かないとできないから、
 そのために、そこに行き、
 そして、それを実体験すること
それが目的のものです。
 
 
そして、それは、
「したいから、している」行為です。

ただ、「したいから、している」ことです。

むしろ「しなくてもいい」、のだけれど、

でも、
「したいから、している」ことです。

つまり、
広く言えば、それは『遊び』であり、

決して、『仕事』でも、
ましてや『修行』では、ありません

(『遊び』『ゲーム』『仕事』『修行』については、
 過去記事「 人生は、『修行』か、『ゲーム』か? 」や、
 その関連記事をご一読いただけると幸いです)。
 
 
また、それは、
「したいから、している」のです。

 自分がしたいから、している、
 そして、それができている、
 というのが、
 今の、人間として生きている、自分の状況だ

つまり、

 自分の望みが叶っているのが、今の状況であり、
 それは、自分がそれを創り出したからであり、
 つまり、自分が『創造主』だ

という観点です。

決して、

 自分は望んでもいないのに、させられている存在、
 自分は『被創造物』であり、
 自分は『被害者』だ

という認識では、ありません。

 『自分』というものを、そのように認識している
あるいは、
 「元々の自分」「本来の自分」というものを常に認識している部分がある
そんな認識・感覚を有しています。
 
 
また、
『旅行』ですから、

「見ていないもの」
「行ったことがない場所」
「していないこと」
に、基本的な興味があって、

そして、
それを、興味があるから、行くだけ・しているだけ、
で、

また、
その順序も、順不同、
したい順にし、行きたい順番に行きます。

決して、
 「してしまったから、今度は、されてしまう」
 「する側をしたから、次は、される側になる」
というような、

カルマ的な、因果応報的な、
そんな理由や順序は、ありません。
 
 
そして、
そこに行かないとできないことをしたいから、
そこに行くのであって、

そこに行くこと、そこで体験すること、
そのプロセスそのもの・全体が、目的であり、

そして、
それらが終われば、
家に帰ります。

元の場所に、
元の存在に、還ります。

どこかの目的地に到達すること、
そのことだけが目的ではないし、

また、そこに留まることが、
目的でもありません。

また、なので、
そこに、目的地に、ゴールに、
いかに早く着くかが、大切なわけでもありません。

自分が望み、計画した、せっかくの楽しい旅行を、
いかに早く終わらせるかが、目的・目標、なんて、
哀しいですよね。
 
 
津留さん的な見方をしたとき、

 「人生とは、人間として生きるとは、人間をするとは、
  旅行のようなもの」

という例えは、
とても当てはまったものとなります。

その見方からすると、

 「私たちは、
  『(地球)人間』旅をしている最中(さいちゅう)」

と、例えることができます。

そして、
このように見てもらえると、

津留さんの言っていたことを、
津留さんが見ていた見方を、
よりお分かりいただけやすいのではないか、
と、思いますし、

また、
このような見方を採用していただけると、

人生を送ることが、人間として生きることが、
それまでよりは(ほんの少しかもしれないけれど)、
楽になられる、楽しくなられるのではないか、
と、思い、

このような形で、シェアさせていただきました。









2018年8月29日水曜日

人間ハワイ


それは、
今年4月の、ある日。

船橋での、うさと展が終わり、
会場の片付けを終え、
道具を運ぶために、車に乗っていたときのこと。
 
 
四月の、夕刻。
若干の雲が漂う、風の無い、穏やかな晴天。

薄茜色に染まりはじめた、
その空を、

よりはっきりと見たくて、
しっかり、直接、感じたくて、
窓を開けると、

流れ込んでくるのは、
その季節特有の、
爽やかで、涼やかな、空気。

騒がしさは、少し、あるものの、
しかしながら、それは、
休日ならではの、温かな「家族・家庭」の、
気配、音ども。

そして、
それらを包み越えて、
耳に届いて来ているのは、

昨年ハワイを訪れて以来、
車に乗るときには、いつも聴いている、
ハワイアンミュージック。

穏やかで、柔らかく、ゆったりとした、
その音の帯は、
細やかに、滑らかに、
僕の身体に、流れ入り、染み渡ります。
 
 
全てが弛緩し、
『自分』が、瓦解していきます。

『肉体』が崩れ、
周りに、全体に、溶け広がっていきます。

「力み」が感じられず、
完全に、「ただ、そのまま」の感覚になります。

「至福」の、
一形態に浸りました。
 
 
そのとき、
思考が認識したのは、

 「あぁ、
  『ハワイ』が存在してくれているってことは、
  なんて、ありがたく、すばらしいことなんだ」

ということでした。

『ハワイ』に繋がることで、
あるいは、
『ハワイ』を深く感じ、思い出すことで、

僕は、
「至福」とまでも言えるほどの、
感覚に浸り入ることができる ...

この地球上に、
『ハワイ』という、
「楽園」の一形態が、

具体的に、
実在してくれていることに、

心から、感謝しました。

自分にとって、
喜びであり、希望であり、
また、救いであると、
感じました。
 
 
もちろん、
私たち共通の、客観的事実としての
ハワイには、

いろいろな側面があり、
さまざまな事情があり、

決して、「『楽園』そのもの」などではないことは、
十分に、認識しています。

経済的なこと、
人種的なこと、
環境的なこと、
そして、歴史的なこと ...
 
 
また、特に、
この5月から、はじまった、
ハワイ島での、新たな溶岩流の噴出は、

8月に入り、
ようやく、終息を迎えてはいるようですが、

それまでの3ヶ月余で、
広範な地域を、
溶岩で、焼き払い、覆い尽くしてしまったこと。

しかも、その噴出が、
まさに、私たちが滞在した住宅地 " Leilani Estates " から起こり、

私たちが滞在した家から、500mも離れぬ一帯でも、
私たちが訪れた当時の様子を、一切、留めていないということ。

このブログでも紹介した、『楽園の海』( カポホ・タイドプール )も、
今は、厚い真っ黒な岩の層の下に、沈降してしまったということ。

この、個人的体験に関係のある、
極めて狭い範囲内においてさえも、

極めて極端で過酷な出来事が起こりうる、
『ハワイ』という場所が、

決して、「『楽園』そのもの」と言い得ないことは、
十二分に、認識しています。

それどころか、
今回の出来事に見舞われた地域では、
「『楽園』どころか『地獄』」のような体験をなさっておいでなことと、
認識しています

(心より、心よりお見舞い申し上げます)。
 
 
それでも、なお、
『ハワイ』の持つ、緩やかさ・のどかさ・暖かさ・美しさと、
『ハワイ』が放つ、煌めきは、

僕の心を、身体を、
緩め、和らげ、溶かし、
そして、整え、再構成してくれます。

『ハワイ』という『楽園』が、
夢が、憧れが、理想が、

僕を、
柔らかくし、

そして、
僕を、強くしてくれます。
 
 
 「『ハワイ』のような『場所』が存在することで、
  僕が、これほどまでに、
  救われ、癒され、慰められ、そして、励まされるのならば、
  
  同じように、
  『こんな人が存在することで、救われ、励まされる ... 』
  そんな『人物』が、居てもいいのではないか?

  いや、僕が、そんな人物になってもいいのではないか?
  率先して、僕が、そんな人物になってもいいのではないか?」
 
 
そのとき、突如、
そんな想いが、浮かび上がりました。

僕にとっては、
初めて到来してきたアイデアであり、

僕にとっては、
初めて得られた認識でした。

そんなこと、
思ってもみたことがありませんでした。

自分が、率先して、
『夢』を、『理想』を、生きることが、

むしろ、
他者の救いになり、励ましになるなんて、
思ってもみたことがありませんでした。

でも、
いったん、そう認識できてみると、

それは、
至極当然のアイデアであり、

それは、
採用しない理由の見つからないものでした。
 
 
考えてみれば、
「津留さん」も、そんな一人、ですかね?

みなさんの中には、
「津留さん」という人物が存在したことが、
救いであり、希望である、という方も、
いらっしゃいますかね?

そう、気づきました。
 
 
でも、
では、なぜ、

これまで、僕は、
そのような認識に至らなかったのでしょうか?

僕の場合、
それは、明白でした。

そこには、
二つの理由がありました。
 
 
一つは、
 「そんな『理想』に、自分が成れるわけない」
という、

自己評価の低さ、自己能力への懐疑、自信のなさ、自己否定 ...

そのようなものでした。

おそらく、
これは、分かりやすく、

また、
多くの方も、共感されるところなのでは、と思います。
 
 
もう一つ。

そして、
僕の場合には、

こちらこそが、
より大きく、より強い、要因に感じられます。

 「そんなことをしたら、ズルい。
  そんな状況になったら、他の人に悪い。 申し訳ない。」
 
 
この、
「ズルい。悪い。申し訳ない」には、

そうなった場合には、
他者から「ズルい」と責められることになり、
他者から妬まれることになり、
それが怖い、それのほうが余計に嫌だ、
という思いも、付随しているでしょうが、

でも、
それ抜きに、純粋に、

自分が優れた状態であることを、
自分が恵まれた状況になることを、
禁ずるような、諌めるような、
ブレーキをかけるような、

そんな想いが、
みなさんにも、ありはしませんか?
 
 
 困っている人がいるのに、
 苦しんでいる人がいるのに、

 自分が楽で、楽しくて、恵まれて、幸せで ...
 そんなこと、あり得ない!

そう、声高らかに叫ぶ子が、
あるいは、
静かに、揺るぎなく、そう決意している子が、

あなたの内側には、居ませんか?

心優しい人ほど、
当然のように、
そんな想いを、抱えていることでしょう。

道徳心にあふれた、心清き人ほど、
当たり前のように、
そんな想いと、同居していることでしょう。
 
 
 「心優しき人」ほど、辛い思いをする
 「心清き人」ほど、幸せになれない ...

これまでの歴史で、これまでの社会で、
私たちが、数多く遭遇し、数多く体験してきた、

一見、パラドックスと思えるような、
この、シニカルなジレンマは、

私たちに、深い、深い、
憤りと、哀しみと、絶望と、諦めと、虚無と ...
を、感じさせてきました。

ですが、しかし、
それも、もう、十二分に味わってきたものと、
もう、「完了印」を押すべき時に来ているものと、
個人的には、感じています。
 
 
 ライトワーカー

この言葉を聞いて、
心震える人が、多くいらっしゃることでしょう。

夜の闇に、光を照らす、灯台のように、
世の中に、光をもたらす、人。

そんな人物として生きていこうと、決めている方も、
そんな人物にこそなりたいと、望んでいる方も、
多数、いらっしゃることでしょう。

そのときに、ポイントとなるのが、
「自分に対する許可」だと、思っています。

飢えている人が、食べ物を恵むことができないように、
お金がない人が、お金を恵むことができないように、

自らが光り輝いていない人は、光を放射することができません。

 「私は、光り輝けるだろうか?」
そんな、
自分自身に対する、疑念や不信と同様に、

いえ、それ以上に、

 「この暗闇で、もがき苦しんでいる人々がいるのに、
  私は、光り輝いてしまって良いのだろうか?」
そんな、
自分自身を律し、諌め、禁ずるような想いを手放し、
自分自身に対して許可を与えることこそが、
もっとも重要なポイントなのだと、感じています。

むしろ、
そんな人こそが、
そして、周りのためにこそ、
自分が率先して、光を溢れさせること、

自分が率先して、先に進み、理想を歩み、
目印となり、道筋を示してあげること、

それこそが、大切なのだと、
そう、認識を換えてしまうことが、重要なのだと、感じます。
 
 
私たちが、これまで、
心優しさ、清さ、道徳・モラルを持って来たことは、
決して、間違いでも、過ちでも、ありません。

それゆえに、これまで、
ここまでの深さの、苦しみを、味わうことができたのですから。

それを味わうために、
私たちは、自ら、それらを、身の内に入れ込み、抱え込んで来たのですから。

ですから、
それらを恨む必要はなく、

ただ、「もう使い終わりました」と、
宣言し、伝え、手放してあげればよいのです。
 
 
自らの前進を、とどまらないでください。
自らの幸福を、躊躇しないでください。

堂々と、むしろ積極的に、
希求し、実現してください。

その許可を、ご自分に与えてください。

許可を与えていないのは、
許していないのは、認めていないのは、

ご自分だけです。
 
 
 「『人間ハワイ』に、成ってもいいんだよ。
  近づいて、いいんだよ」

僕の場合には、
そう、言ってあげることにします。










2018年8月24日金曜日

第6回名古屋イベント 開催のお知らせ


 2018年11月2日(金)、3日(土)、4日(日)、
 名古屋市で、
 『津留さん交流会』および『個人セッション』を行います。
 
 
 前回の、名古屋での、
 交流会と個人セッションは、
 
 8月の、真夏の、
 「名古屋らしい ^^」とても厳しい暑さの中でした。
 
 それから、1年以上が経ってしまいましたが、
 今回、11月に、名古屋に伺えることになり、
 とても嬉しく思っています。
 
 
 前回の、名古屋での交流会は、
 中身の濃い、内容の深い、
 とても素晴らしい交流会だったことを、
 よく記憶しています。
 
 今回もまた、
 みなさんと、楽しく、
 語り合えたら、交流できたら、
 と、楽しみにしています。
 
 
 また、
 個人セッションにつきましては、
 
 ここのところ、
 従来よりも頻繁に、

  「電話などの、遠隔での、
   個人セッションは、受けられませんか?」
 と、
 お問い合わせいただいています。
 
 とてもありがたいことであるとともに、
 
 そのようなご希望にお応えできておらず、
 心苦しいところではあるのですが、
 
 私たちの個人セッションの内容・手段や、
 私たちの能力的なこと、
 
 その他、様々な事情を勘案すると
 (また、いくつかのトライアルの経験からすると)、
 
 現状としては、
 対面のみの個人セッションに、限定させていただいています。
 
 そのようなこともあり、
 可能な範囲で、こちらから各地へ伺う機会を設けているつもりでいます。
 
 今回の名古屋での個人セッションの機会につきましても、
 ぜひ、ご活用いただけると嬉しいです。
 
 どうぞよろしくお願いします。
 
 
 それでは、
 名古屋のみなさま、中部東海地区のみなさま、
 お会いできることを楽しみにしています ^^
 
 
 2018年8月24日 集合人編集局 裕子・ひで

 
 詳細・お申し込みは、『 第6回 名古屋イベント 』 のページで。











第9回大阪イベント 開催のお知らせ


 2018年10月12日(金)、13日(土)、14日(日)、
 大阪市で、
 「個人セッション」および「津留さん交流会」を行います。
 
 
 ありがたいことに、
 ここのところ、「年2回」「半年に1回」のペースで、伺えている、
 大阪。

 今年も、
 前回の5月に続き、
 10月に、伺えることになり、
 
 今年も、2度、
 伺えることになりました。
 
 ご参加くださっている みなさん、
 ありがとうございます。
 
 
 今回は、
 浄化ワークショップを行わず、
 
 「個人セッション」と「津留さん交流会」を行います。
 
 
 交流会には、前回も、
 定員一杯の方々にご参加いただき、
 
 とても積極的な会話と交流を、たくさん、
 していただく機会を、ご提供でき、
 
 大阪に伺って、交流会を開催することの意義を、
 強く、感じることができています。
 
 今回も、
 たくさんのみなさまにご参加いただき、
 
 多くの交流を図っていただければ、
 と、思っています。
 
 ひでが、
 みなさんにお会いでき、みなさんのお話を伺えることも、
 もちろん、とても楽しみにしています。
 
 
 また、
 個人セッションにつきましては、
 
 ここのところ、
 従来よりも頻繁に、

  「電話などの、遠隔での、
   個人セッションは、受けられませんか?」
 と、
 お問い合わせいただいています。
 
 とてもありがたいことであるとともに、
 
 そのようなご希望にお応えできておらず、
 心苦しいところではあるのですが、
 
 私たちの個人セッションの内容・手段や、
 私たちの能力的なこと、
 
 その他、様々な事情を勘案すると
 (また、いくつかのトライアルの経験からすると)、
 
 現状としては、
 対面のみの個人セッションに、限定させていただいています。
 
 そのようなこともあり、
 可能な範囲で、こちらから各地へ伺う機会を設けているつもりでいます。
 
 今回の大阪での個人セッションにつきましても、
 ご活用いただけると嬉しいです。
 
 どうぞよろしくお願いします。
 
 
 それでは、
 大阪のみなさま、関西地区のみなさま、
 お会いできることを楽しみにしています ^^
 
 
 2018年8月24日 集合人編集局 裕子・ひで

 
 詳細・お申し込みは、『 第9回 大阪イベント 』 のページで。
 
 
 
 
 
 




2018年6月3日日曜日

50回目のファーストキス(時間、そして、他人)


ここ最近、
テレビや、ネット上、街中などで、
映画「50回目のファーストキス」の告知を、
よく目にします。

一昨日が、公開日だったんですね。

聞くところによると、
この、日本版の「50回目のファーストキス」は、

ロケ地もハワイと、そのままで、
元の、アメリカ版の、リメイクだとか。

しかも、主演が、長澤まさみさん(!)、ということですので、
ヒットとなることを、祈念いたしております ^^ 。


さて、元となっている、
アダム・サンドラーと、ドリュー・バリモアの、
ハリウッド版「50回目の ファースト・キス(50 First Dates)」のほうは、

根がロマンチストな、僕は ^^; 、
ストーリー的にも、好きですし、

ハワイの情景や、
コメディータッチなところも、相まって、
大好きで、
何度か、観ています。

なので、
ストーリーなども、比較的、記憶しているのですが、

(この後、ネタバレ注意!)

主役の女性(ドリュー・バリモア)は、
交通事故により、『短期記憶喪失障害』となり、

記憶が、1日間しか持たず、
夜間の睡眠が明けると、前日の記憶がなくなり、

記憶がリセットされ、
事故前の状況に、記憶が戻ってしまいます。

なので、
事故後に会った人のことを、記憶しておらず、

そこで、その後に出会った、
主演男性(アダム・サンドラー)とは、

毎回、毎回、出会いから始まり、
そして、毎回、ファーストキス(原題的には、ファーストデート)を、
繰り返すことになる ...

というストーリー内容から、
このタイトルに、なっています。


いわゆる、「ラブコメディー」で、
ハワイの美しい風景も満載ですので、

その辺りがお好きな方で、
かつ、
アダム・サンドラーとドリュー・バリモアが苦手でなければ、

個人的には、お薦めの映画です ^^ 。


さて。

既述のとおり、
主人公の女性は、

一晩経つと、記憶を無くしてしまいます。

なので、
彼女は、

いつも、いつも、
「一日」を、生きています。

その日の、「一日」を生き、

翌日には、「前日」が無く、
そして、その(翌日である)「一日」を、生きます。


彼女には、
「一日」しか、ありません。

それ以上の長い時間は、
彼女の認識の中には、ありません。

つまり、
彼女には、「一日」しか、ありません。


この点は、ご納得いただけるものと思います。


では。

その、彼女の状況を、
ぜひ、さらに、もっと極端なものに、してみましょう。

もし。

もし、彼女が、
1秒たりとも、記憶できなかったとしたら ...

そのとき、
彼女には、「何時間」「何分」、いえ、「何秒」が、
あるのでしょうか? ...


そうですよね。
彼女には、「1秒すらも無い」ですよね。

彼女には、『時間はありません』。

よね?

え、ということは? ...


私たちが体験している、この社会では、
私たちは、みな、記憶を有しています。

なので、『時間を有しています』。

でも、もし、
もし、みなが、全員が、記憶を有していなかったら、

そこには、果たして、
時間は存在しているのでしょうか? ...


とても良く、
 「『時間』は無い。
  『瞬間』が有るだけ。」
と、
言われます。

この感覚は、なかなか、理解・体得の難しいものですが、

しかし、
そのような、理解・体得が無くとも、
先のように、考えてみたら、

 「『時間』は、『記憶』があって初めて、存在する」

すなわち、

 「『時間』は『記憶』の中にしかない」

ということは、よろしいかと思います。

 「『記憶』という、頭の中の認識の中にのみ、『時間』は存在する」

ということで、よろしいかと思います。


私たちは、
プロセス・変化を、体験しています。

それによって、初めて、
 「良くなる」
 「悪くなる」
という、体験ができます。

そして、それによって、はじめて、
 「嬉しい」とか、
 「悲しい」とか、
 「不安だ」とか、
そのような種類の感情体験を、することができます。

そのような種類の、
感情体験をするためには、

私たちは、
「変化・プロセス」というものを、記憶していなければなりません。

そこで、
私たちは、「記憶力」を有しているのですが、

それに伴って、
そこで、はじめて、

その、それら「変化・プロセス」を、
脳が、『時間』と、認識します。

その「変化」を、
その「プロセス」を、
その、よどみない流れを、

脳が、『時間』と、認識します。


なので、変化が無いときには、
私たちは、時間の流れを、認識できなくなります。

テレビの実験企画などで、
外の様子が分からない、外の変化が一切感知できない部屋などに、
隔離・幽閉された人が、
果たして、時間の経過を、しっかりと当てられるか、

といった内容のものを、
ご覧になったことのある方も、いらっしゃると思います。

そんなとき、
大抵、その人は、
大幅に違う時間認識を、持っています。

これなどは、
私たちが、

変化・プロセスを、時間として認識している、
最たる例だと思いますが、

私たちも、日常生活の中で、
例えば、変な時間に昼寝をしてしまったときや、
長い時間、昼寝をしてしまったときなどに、
起きたとき、時計を見ないと、時刻がまったく分からない、
なんて体験を、したりしますよね。

以上のようなことからも、
『時間』が絶対的なものではない、ということは、
すでに、実感されたり、認識なさったりしていることと思います。


いずれにせよ、

 『時間』というのは、『記憶』を通じて、頭の認識に中にあるものだ

という点は、よろしいかと思います。

それが、

 「頭に中にしか、ない」のか、否か
 「頭の認識の中にのみ、あるもの」なのか、否か

については、置いておいて
(「時間は無い」と言う人々は、
 「なので、頭の中にしかないのだ」と、言っているのだと思いますが)、

でも、いずれにせよ、
 「『時間』は、頭の中にあるもの」
 「『時間』は、頭で認識されているもの」
 「頭の中の『記憶』が無ければ、『時間』は認識できない」
ということは、よろしいかと思います。


以上、『時間』というものについて、
ご参考にしていただければと思います。


そして、さらに。

この、『時間』についてと、同じことが、

 「嫌な人」
 「嫌みな人」
 「意地悪な人」
 「困った人」...

など、

自分のストレスの原因となっている『他人』についても、
言えるのです。

そして、それを、
津留さんは、

「『時間』は無い」と言うタイプの(その認識の)、
津留さんは、

 「『他人』は、居ない」
と、
言うのです。


これを、
僕が、今回、この記事で使った表現で言えば、

 「『他人』は、頭の中にしかいない」
 「『他人』は、『記憶』を通じて、頭の認識に中にあるものだ」

と、いうことになります。


『時間』についてと、同様、
『他人』も、

このように、
「『自分の頭の中』に居る」のです。

「『自分の中』に居る」のです。


だからこそ、
「『自分の外』に居る」他人を変えようとすることが、
ときに、無意味なのです。

だからこそ、
「『自分の中』に居る」他人にアプローチするしか、
ときに、方策が無いのです。

『自分の中』だけが、問題なのです。









2018年5月30日水曜日

「できる」ということ


もう、ずいぶんと昔のことになりますが、
『オーラの泉』というテレビ番組で
(もうずいぶんと、昔のことになりますね ^^ )、

ある俳優さんが、
数日で、英語を話せるようになった、
という逸話を、告白されていました。

その話に対して、
美輪さんも、江原さんも、
至極納得という感じに、受け入れられていました

(たしか、「前世がアメリカ人だから」、というようなことでした)。


また、
ある、人気ブロガーさんは、

その方は、世界の科学的内容の記事を、
日本語に翻訳して、ご紹介されているのですが、

その方は、
ある日、目を覚ましたら、突然、英語が読めるようになっていた、
のだそうです。


事の真偽は、
確かめようがありませんが、

ここで、この文章を目にしていらっしゃる方は、
それらを、一応、「あり」として、進めることに、
さほどの抵抗はないのではないか、と、推察し、

では、
 もし、そのようなことが起こりうるのだとしたら、
 では、どうして、そのようなことが可能なのか?
ということに関して、

以下、一つの見解を(「津留さん的見方」を)、
述べたいと思います。


それにあたって、
まず、
ある、僕自身の、個人的な実体験を、
一つの事例として、紹介させてください。


僕は、
高校時代、ラグビーを部活でやっていたのですが、

高校入学にあたってのストレスから、
中学卒業の近辺に、10Kg以上、体重を増やしてしまったため ^^; 、

ラグビー部入部当初は、
身体(の重さ)を持て余し、身体の扱いに慣れず、
それゆえ、足が遅かったです。

「足が遅い」というのは、
当然ながら、周りの部員たちとの比較での判断・認識で、

一般的には、どうだったのかは、置いておいて
(クラスの中では、確かに、遅くなかったですが)、

とにかく、ラグビー部においては、足が遅く、
そのため、走ることが含まれる練習は、僕にとっては辛く、

また、担当(ポジション)としては、
パワー系の役割を担っていました。


そんな状況が、10ヶ月近く続いた、ある日。

その日、何が、それまでの日々と、違っていたのか、
今や、もう、何一つ、全く、記憶してはいないのですが、

とにかく、その日の、練習の、ほぼ最後。

いつものように、
蹴られたボールを、みなで追いかけ、
まず一人がそれを拾い上げ、そしてそれをみなでパスで繋いで運んでいく、
という練習が始まりました。

はじめに拾う一人は、
蹴った人が、名前を呼んで、指名していました。

僕の名前が呼ばれました。

声を上げて返事をし、
そして、とにかく、一目散に、ボールに向かって走り、
そして、ボールを拾い上げました。

走るのが遅く、苦手に感じていた僕は、
いつものように、周りに迷惑をかけないように、
懸命に、ボールに向かって走りました。

そのときは、ボールを、すんなりと、拾うことができたため、
そこで、横で待っているであろう人に、すぐにパスして渡そうと、
横を見たときです。


いつもであれば、
足の遅い、僕が拾うケースでは、

仲間たちが、
僕のペースに合わせて、ゆっくりと走り、

僕が拾い上げるタイミングでは、
ずらっと、横に並んで、勢揃いして待っている感じでした。

ところが、その日は、
いつものように、すでに横にいるであろう仲間にパスをしようとすると、

横に、誰もいません。

不思議に思い、見回すと、
みな、まだ僕の後ろを、「懸命に」走っています。

そのようなシチュエーションでは、
選択肢の一つとして、
誰かが追いつくまで、ボールを拾い上げた人が、そのまま突き進む、
というのがありました。

そのとき、僕は、そうしました。
誰かが、すぐに追いつくだろうと思い、そうしました。

そして、拾い上げた後に、
そのまま、ボールを抱えて、全力で走り続けました。

ところが、予想に反し、
誰も、僕に追いついて来ません。

結局、そのときは、
僕がゴール地点に着くまで、誰も、追いつくことがありませんでした。


ゴール地点で、みなを待つと、
みな、怪訝(けげん)そうな面持ちで、やって来ました。

 「なんで、そんなに早く、走れたの?」

そう言われて、はじめて、
「自分が速く走ったのだ」ということを、認識しました。

みなが、わざと、ゆっくりと走ったのではなく、
僕が、速く走れたのだと、分かりました。

その日は、僕自身も、訳が分からず、
不思議な感じ、不思議な心地でしたが、

でも、ひとつ、はっきりとしていたのは、
 「僕は、速く走れた」
ということでした。


そして、
その日以降、

 「僕は、速く走ることができる」
という認識が、
僕の中に、生まれていました。

そして、
その日以降、

僕は、実際に、足が速くなりました。

その日を境に、
僕は、突如、足が速くなりました。

そして、その後ずっと、
僕は、足が速いままでした。

むしろ、ますます、
みなよりも、速くなって行きました ...


いま、ご紹介した、
僕の、「速く走れた」事例・出来事を、

今になって、
改めて、振り返り、見てみると、

当時、
少なくとも、その出来事が起きたとき(その日)には、

僕は、僕自身が、
 「(自分は)足が遅い」
と思い込んでいたから、
遅かったのであって、

それが取り払われたら、
あるいは、
それが、「(自分は)足が速い」に書き換えられたら、

そのときから、
その日から、
その瞬間から、

 「速く走れた(足が遅くなくなった)」
と、
見ることができると思います。


この見方は、

少なくとも、この事例において、
この見方をすることは、

さほど唐突で、不自然なものではなく、
それなりに、同意・納得される方も、多いのではないかと思います。


で、ここで、
はじめの、英語の事例です。

これについても、
さきほどの、「速く走れた」ときと同じ見方を、
当てはめてみましょう。


あるとき、突然に(あるいは、ある数日間で、急に)、
「英語が分かるようになった」。

この事例では、
先の見方をするならば、

 「(自分は)英語は分からない」
という認識があったから、
英語が分からなかった、のであって、

「英語は分からない」という認識が、
そのときに、突然に(、何らかの理由・事情で)、
消えた・無くなった・取り払われた、ら、

そのときには、
英語が分かるようになっていた、

と、捉えることになると思います。


つまり、
「英語が分かるようになった」のは、

 「英語が分かる」という「『能力』を『獲得した』から」
ではなく、

 「英語が分からない」という「『認識・決め込み・制約条件』が『無くなった』から」
だ、

と、捉えます。


でも、そうですよね?

「英語を学ぶ」という行為(単語を覚えるとか、例文を覚えるとか)は、
ほとんど、あるいは全く、していないのですから。

それなのに、英語が分かるようになったのですから。

であれば、
 「元々は、分かっている」のに、
 「分からない」と認識することによって、分からない状態になっていた
と、

そう捉えるのが、
むしろ、そちらのほうが、自然ですよね。


確かに、
僕の、「速く走れた」事例においては、

その日までの、10ヶ月近くの日々の練習において、
「速く走れる『能力(・筋力など)』を『身につけていた』」と、
捉えることもできます。

そして、
それが、私たちにとっての、一般的認識(『常識』)でしょう。

「だから、早く走れたのだ」、と。


でも、
その日、自身の体験として、実体験をした僕の感覚だと、

「『能力』を『獲得』していた」という部分・認識、
そのものを、否定しは しませんが、
そして、それはそれで、そのとおりだと思いますが、

しかし、それは、その点は、
その出来事にとって、重要なポイントではありません。


だって、
僕自身の感覚では、

その日までの間だって、
懸命に、一生懸命に、がんばって、
速く走ろうと、していたのですから。

でも、
一切変わらずに、遅かったのですから。

いえ、
その日の、その一日の、
その瞬間までの間の、練習中だって、ずっと、

速く走ろうと懸命だったのに、
速く走れなかったんですから。
遅かったんですから。

それなのに、
その瞬間、その1回、
突然に、唐突に、
速く走れたのですから。

そして、それ以来、
一度、速く走れた、それ以降、
ずっと、速く走れたのですから ...


このように、
このような『見方』で、見ると、

私たちは、

 「『できる』『能力』を持っていること」
 「『できる』『能力』を『獲得』したこと」
 については、できる・できるようになる

のではなく、

 「『できない』という認識・決めつけ・思い込みを有していること」
 が、できない

ということになります。


 私たちは、
 「そもそもは、『できない』存在」で、

 その、「『できない』存在」が、
 「『できる』『能力』を『獲得』したこと」についてのみ、できるようになる

のではなく、

 私たちは、
 「そもそもは、何でも『できる』存在」で、

 その、「『できる』存在」が、
 「『できない』と決めたこと」についてのみ、できないようになっていて、

 なので、
 「『できない』という決め込み」を無くしたことに関しては、
 そもそものとおり、『できる』

ということになります。


これが、
ここでご紹介している『見方』であり、

これが、
「津留さん的な見方」であり、

そして、これが、
「『私たちは、そもそもは、神さまだった』という見方」です。


以前、
はじめに言葉ありき ( 宇宙を分つもの )
という記事を書きました。

そこでは、
 「はじまりは、『すべてがある』という『無』という状態だ」
ということを、
書かせていただきました。

そして、
今回の話も、同じ話、同じ見方です。


 私たちは、
 無数の『できない』ことのうち、
 『できる』ようになったことだけ、できる。
 そんな存在だ

と、
そう、認識することも、できます。

津留さんが、
『人間スタート』と呼んでいた、
そんな、見方です。

そして、それは、

赤ちゃんとして生まれ、
そこからの(その後しばらくしてからの)記憶が存在していて、

赤ちゃんとして、小さな子どもとして、
(ほとんど)何もできない状態で育ち、

その後、
徐々に、能力を高め、獲得し、
徐々に、できることが増えていった、

という過程を経てきていて、
そして、その過程を記憶し、
それをこそ『自分だ』と認識している、

そんな、私たち『人間』にとっては、
極めて当然の、当たり前な、見方・認識です。


一方、
今回ご紹介したような、

 私たちは、
 あらゆる・すべての『できる』ことのうち、
 『できない』と決めたことについてだけ、できない。
 そんな存在だ

そう、
認識することもできます。

津留さんが、
『神さまスタート』と呼んでいた、

「私たちは、そもそもは、神さまだった」のだ、という見方です。


この見方によれば、

『できる』ほうが、基準・標準です。
『できる』のが、そもそもです。
『できる』状態が、スタートです。

そして、
『できない』と決めたことだけが、できません。

「『できない』こと」の方にこそ、
工夫がなされています。
『努力』が加えられています。

『努力』して、『できない』ことに、できています。

『努力』して、『できない』状態になっています。

『努力』して、『できない』状態を『獲得』しています。

『努力』しているのは、
『獲得』しているのは、
「『できない』状態」の方、なのです。


この見方によれば、

私たちは、『人間』として生きているとき、
無数のことを、あるいは ほとんどのことを、
『できない』と、規定しています。

それによって、
「ほとんどのことを『できない』」人間、という存在になっています。

これをさらに、
津留さん的な見方で表現すれば、

私たちは、
この、『地球人間(体験)ゲーム』において、

「ほとんどのことを『できない』」と規定することによって、
「ほとんどのことを『できない』」人間というものを、体験できています。

すなわち、
「ほとんどのことを『できない』」『人間』というものを体験するために、
『自ら』、「ほとんどのことを『できない』」と、規定しています。


その規定を、

(個人的な認識は関係なく)人類全体(『集合意識』)として、しているのか、
あるいは、先祖がして、それをDNAとして受け継ぐことで、受け取っているのか、
あるいは、先祖・祖父母・親がして、それを価値観として、受け継いでいるのか、
それとも、自分自身の体験から、記憶し、決め込み・思い込んだのか、

それは、項目により、事情により、人により、違うでしょうが、

そして、だからこそ、
『人』それぞれに、できることと、できないことが、違うのでしょうが
(あるいは、「『人間全員・全体』ができないこと」が、あるのでしょうが)、

いずれにせよ、
このような見方においては、

私たちは、
ベースとしては、『できる』のであり、

特別に、わざわざ、『できない』と規定した項目だけが、
『できない』能力状態になっている、

と、捉えます

(アテネオリンピック ハンマー投げの金メダリスト、室伏広治氏が、
 「生後4か月にして懸垂ができた」という、都市伝説も、
 そんな見方から捉えると、すんなり受け入れられそうですね ^^ )。


なので、
本稿のタイトルの件、

 「『できる』というのは、どういうことなのか?」
 「『できるようになる』『できるようになった』というのは、
  どういうことなのか?」
ということについてですが、

 『できるようになる』
 『できるようになった』
というのは、

 もともと、『できる』ことだけれども、
 それを、『できない』と規定することで、できない状態にしていたけれども、
 その「『できない』との規定」を、取り外して、
 元の、本来の、『できる』状態に戻した・戻った

ということ、に、なります。

それが、
 「津留さん的な見方」
 「私たちは、そもそもは、神さまだった」
 「その神さまが、『地球人間(体験)ゲーム』をしている」
という見方、
に、なります。


ちなみに触れておくと、
その、
 「『できない』との規定」を、取り外す
という行為が、

津留さん自身も行い、提唱し、推奨し、
また、今現在、私たちも個人セッションなどでお手伝いしている、
『浄化』ということ、そのものになります。

だからこそ、
津留さんは、
 「『浄化』をしてください」
と、奨めていました ...



私たちは、これまで、
人類全体としては、
『人間スタート』の見方を、採用してきました
(『人類全体の意識(集合意識)』の合意のもと)。

だから、
『できない』が、標準値・当たり前であり、

そして、だからこそ、
『できる』『できるようになった』ことに、喜びを感じ、
そして、そこに、価値を見出してきました。
そこに、意識を向けてきました。


ですが、
今、ここで、
今後、これ以降、

「『できる』が、当たり前だ」と、
ちょっと、見方を、認識を、変えてみてください。

『できる』のは、
当たり前で、当然で、
特別ではなく、平凡で、凡庸で、
むしろ、退屈なくらい、ありふれた、つまらないことなのだ、と、
そんな認識を、かりそめに、持ってみてください。

その状況では、
『できない』こそが、
珍しく、ありがたく、非凡で、
そして、憧れであり、クールで、

だからこそ、そんな『できない』に、
努力して、工夫して、頑張って、
自主的に、意図的に、作為的に、望んで、なっているのだ、

そんな風に、仮定してみてください。


もし、そうだとしたら、
今、『できない』ことがあるのは、
失敗ですか、成功ですか?

能力が足りないから、『できない』のですか?
それとも、
能力があり、それが発揮されたからこそ、『できない』のですか??


こう、見ることができると、
津留さんが言っていた、

 「すべては、それで、完璧です」
 「それで、ベストです」

という言葉の意味を、
より抵抗なく受け入れることが、
より深く理解し、受け入れることが、
できるのではないかと思います。


このような見方、『仮定』、
みなさんのご参考になれば、幸いです。










2018年5月16日水曜日

『第8回 大阪イベント』を終えて


2018年5月11日(金)、12日(土)、13日(日)、
大阪で8回目となるイベントを、開催いたしました。


あぁ、もう、8回目になるんですねぇ ...

特に最近は、毎回、ご参加くださる方々もいらしてくださって、
なんか、
 「会いに行く」
 「遊びに行く」
感が、強くなってきましたが ^^; 、

いつも、このように、
大阪に伺えることを、とても嬉しく思っています。


今回は、
個人セッションに4名、
浄化ワークショップに3名、
交流会に11名、
計18名の方々に、

お越しいただき、
お会いすることができました。


会場(大阪市立此花区民ホール)は、
初めて使わせていただいた場所でしたが、

最寄り駅からのアクセスが抜群で(徒歩2分ほど?)、
内装は、比較的最近に改装されたみたいで、なかなかに綺麗で、

とても有り難い会場でした。

今後も、機会があれば、使わせていただきたいと思いました。


また、今回も、いつもと同様に、
イベントの後には、
京都に行って、
京都の「うさと店」に、伺ったのですが、

今回は、京都に行ってみると、なんと、
15日が、ちょうど、「葵祭」当日!

期せずして、葵祭を見ることができました。

各地でのイベントは、ほとんどのケースで、
「会場が借りられるかどうか?」から、
日程を決めているのですが、

今回の、「葵祭」といい、
前回の沖縄の、「清明」といい、

少なくとも、僕の「顕在意識」からすると『偶然』に、
そのような日に、各地に伺うことができて、

各地でのイベントを行うことで、
「起きてくる」ということを、
実体験させてもらっています。


それでは、
今回ご参加くださったみなさま、
ありがとうございました。

またお会いできる機会があると嬉しいです。


   集合人編集局 ひで









2018年4月13日金曜日

『第1回沖縄イベント』を終えて


2018年4月6日(金)、7日(土)、
沖縄で初めてとなるイベントを、開催いたしました。
 
 
4月に入ると「海開き」となる、沖縄に、
「暑さ」を期待して、渡った僕を、待っていたのは、

いえいえ、
出発地・千葉よりも寒い、低気温 ...
 
特に、「『お金』浄化ワークショップ」を開催した、
7日(土)は、
 
最高気温が16℃で、
お天気サイト曰く「記録的な寒さ」!

しかも、
強風と、雨が降る、
あいにくのお天気で、

僕としては、
本当に、「凍える」ように、寒かったです。
 
 
 「こんな天気になるなんて、
  沖縄に『歓迎されてない』ですね」

そんな、本音の感想を申し上げたところ、

 「いえいえ、
  こんな涼しくなるなんて、歓迎されてますよ!」

と、
沖縄の夏の暑さの厳しさを知る、地元のみなさんからは、
それを『歓迎』と、とっていただきました ^^ 。

おもしろいものですね ^^ 。
 
 
さて、
そんな、
季節外れの、天候の中、

個人セッションに2名、
浄化ワークショップに3名、

合計5名の方々が、お越しくださいました。
 
 
また、
当初予定していた、
津留さん交流会は、

お申し込みが無く、
実施いたしませんでした。
 
 
もちろん、
より多くの方にお越しいただけたほうが、
僕の『エゴ』ちゃんは、喜ぶわけですが、

でも、
少人数であったら、あったで、
ゆっくりと、深く、お話しができるので、

僕としては、
今回も、

とても楽しく、
かつ、気づき・学び多く、

有意義なイベントを
行うことができたと感じています。
 
 
お越しくださったみなさま、
ありがとうございました。

またお会いできる機会があると、嬉しいです。


   集合人編集局 ひで










2018年2月22日木曜日

津留さん誕生日に 2018年


 今朝の千葉は、
 雪になり、
 
 そこそこの降雪も見られ、
 そこそこの積雪となりました。


 
 ここのところ、寒い日が続きますね。
 今日も、寒い一日となりそうです。
 
 みなさま、
 どうぞ、お身体にお気をつけて、お過ごしください。
 
 
 今日、2月22日は、
 津留さんの誕生日です。
 
 肉体があれば、
 72歳、
 とのことです。
 
 僕は、
 会ったことが無いので、
 
 その年齢を聞いても、
 何も、感情が動きはしないのですが、
 
 ですが、
 ご参考まで。
 
 
 さて、
 
 今朝、
 まだ軽い まどろみ の中で、
 
 しかし、
 頭は、
 
 今日が、津留さんの誕生日であることを、
 思い出し、認識します。
 
 今日を、この日を、
 何か、「特別なもの」「特別な日」と、
 しようとします。
 
 そう、捉えられるもの・根拠は無いか、
 探し始めます。
 
 
 ですが、
 
 今日が、
 「特別ではない」ことを、
 
 そして、
 今日が、
 「特に 特別には なりそうにない」ことを、
 
 認識します。
 
 
 その認識の以前に、
 「軽い、不完全感」
 「軽い、焦燥感」
 を、感じていました。
 
  「いまの状態では、いけない」
  「いまのままでは、いけない」
  「どうにかしないと、いけない」
  「もっと良くならないと、いけない」
 
 そんな、感覚です。
 
 これらの感覚は、
 そう認識することも、気づくことも、難しいほどに、
 
 瞬時に、
 自動的に、
 
 思考を動かします。
 
  「なら、どうしたらいい?」
  「なにをすればいい?」
  「なにが必要だ?」
 
 そうして、
 「今日、何をすべきか?」を、
 
 考え始めます。
 探し始めます。
 
 「今日が、特別かどうか?」
 を探し始めさせたのも、
 
 ほぼ、
 同じエネルギーです。
 
 
 そのとき、
 今日が、津留さんの誕生日であることを、
 もう一度、思い出しました。
 
 
 思考が、止まります。
 
 しばらくの間をおいて、
 そこに、
 一つの「想い・アイデア・認識」のようなものが、
 湧きます。
 
 
 それに従い、
 
 まず、状況・環境を、
 身体で、感じます。
 
 
 目覚めたとき、
 室温は、いつもよりも、ずいぶんと低めでした。
 
 布団の中に、
 全身を、横たえながら、
 
 しかし、布団の外は、
 なかなかに、寒いことを、感じます。
 
 
 しかし、同時に、
 
 身体は、
 暖かさに包まれていることを、感じます。
 
 布団のおかげで、
 身体は、
 
 柔らかく、暖かい『空気』に、
 包まれていることを感じます。
 
 
 静寂にも、気づきます。
 
 家族が、別の部屋で、
 朝の支度をしている、騒がしさ、慌ただしさ ...
 
 家の外、道を、時折通る、車の音 ...
 
 溶けた雪の、したたる音 ...
 
 聞こえる音も、気配も、
 ありは しますが、
 
 自分に届くのは、
 静寂。
 
 自分が包まれているのは、
 平穏。
 
 
 「欠けているもの」など、
 無いことに、気づきます。
 
 「不完全感」が、
 幻想であると、認識します。
 
 いえ、
 「欠けているもの」が あるとすれば、
 
 それは、
 ただひとつ。
 
 いま得た気づきを、認識を、
 普段は、常には、持ち合わせていないこと。
 
 だた、それだけだ、と、
 認識します。
 
 
 そこで、
 改めて、
 
 先の、
 湧いた「想い」を、実践します。
 
 
 ハートを、感じます。
 
 そこを、
 そこの感覚を、
 
 そこに来ている、
 エネルギーがもたらす『感覚』を、
 
 感じます。
 
 その感覚を感じていることを、
 
 その感覚を生み出している「エネルギー(ブロック)」が、
 現に、いま、
 自分のハートに来ていることを、存在していることを、
 
 判断無く、
 認め、認識し、
 
 そして、
 感覚を、感じます。
 
 
 すこし、
 感じ続けます。
 
 
 十分に、
 穏やかなレベルにあることを、確認し、
 
 つづいて、
 そこ・その場所を、緩めていきます。
 
 ハートを、
 開いていきます。
 
 
 無理の無い範囲で、
 心地好く、できる範囲で、
 
 ハートを、
 開いていきます。
 
 
 細か〜〜い 振動に、
 ハートが、あります。
 
 「問題は無い」ことを、
 感じます。
 
 むしろ、
 「豊か」であることを、
 
 むしろ、
 「恵まれている」ことを、
 
 感じます。
 
 
 十二分に、
 平穏で、
 
 十二分に、
 平和で、
 
 十二分に、
 豊かで、
 
 十二分に、
 幸せである ...
 
 それを、感じます。
 
 
 それに、
 浸(ひた)ります。
 
 浸り続けます。
 
 十二分に、感じるまで、
 
 意識が、向け続けられるまで、
 
 飽きるまで ...
 
 
  「完全ではない」
  「いまのままでは、ダメだ」
  「もっと、良くならなければ」
 
 そちらの想いに、意識を向け、
 
 そして、
 それらを、「無くしていく」「減らしていく」
 手放し、『浄化』していく、ことは、
 
 これまで、
 常々、
 して来てました。
 
 ただ、
 少なくとも、現時点の僕にとっては、
 
 そちらばかりに、なってしまっていて、
 そちらの比重が、どうしても、高過ぎて、
 
 どうにも、
 本来の目的である、
 
  「幸せを感じること」
 
 が、
 おろそかになっていて、
 比重が低くなっていて、
 
 ただ、それだけが理由で、
 現状の感覚を感じているのだと、
 
 再認識しました。
 
 
 『浄化』をすることも、
 「ネガティヴな認識」に意識を向け、それらを減らすことも、
 
 あるいは、
 「状況」「環境」を変えることも、
 行動することも、
 
 もちろん、
 素晴らしいことであり、
 有効なことであるのと、同じように、
 
 
 「幸せ」を感じようとすること、
 
 「ポジティヴな感覚」に意識を向けること、
 
 それらを、感じること、
 味わうこと、
 堪能すること、
 しっかりと、体験すること ...
 
 それらも、
 素晴らしいことであり、
 
 そして、
 続く段階としては、
 そちらこそが、意識されるべきことですね。 
 
 
 少なくとも、
 現時点の僕には、
 
 その認識を、改めて持つことが、
 その認識を、改めて強めることが、
 " プレゼント " となることを、
 
 津留さんからの『贈り物』として、
 受け取りました。












2018年2月1日木曜日

「スーパー・ブルー・ブラッドムーン」


  月が地球に接近した際に見える月は「スーパームーン」。
  1カ月に2回、満月になる現象は「ブルームーン」。
  さらに皆既月食で、月の表面が赤っぽく見えることから、
  現象が「ブラッドムーン」と呼ばれる。

  NASAによると、今回は3つが同時に起きるので
  「スーパー・ブルー・ブラッドムーン」になるということだ。

  ナショナルジオグラフィックによると、
  地球上でこの3つが重なるのを観測できるのは35年ぶり。
  アメリカでは、実に150年ぶりだという。

  ( 引用元ページ



 昨夜は、
 「スーパー・ブルー・ブラッドムーン」でしたね。
 
 みなさんの地域では、
 ご覧になれましたでしょうか?
 
 
 さて、
 
 まぁ、「ブルームーン」かどうかは、
 完全に、人間の使っている「暦」次第なので、
 まぁ、あれですが、
 
 でも、
 
  「皆既中、月は赤黒い赤銅色で光るが、
   その色は毎回同じではない」
   ( 引用元ページ
 
 そうなので、
 今回は、
 「スーパームーン」と「ブラッドムーン」が重なった、
 珍しい「皆既月食」だったようです
 
 (厳密に言うと、
  1月2日の満月の方が大きかったようでは、ありますが ... )。
 
 
 さて、
 で、
 「皆既月食」が起こること、そのものは、
 事前に、知っていたのですが、
 
 なにせ、
 天気予報が、このとおり。



 
 
 もう、完全に、見られないもの、と、
 「期待していない」どころか、
 「皆既月食を忘れ去って」いました。
 
 ところが、
 仕事で、パソコンを開き、作業をし、
 
 作業を終えて、パソコンを閉じようとすると、
 今日が「皆既月食」であることを示す表示が、
 目に入りました。
 
 
  「あぁ、残念だったなぁ」
 と、
 
 「ダメだったこと」を確認するために、
 窓の外を覗くと、
 
 あれ、
 小さく明るい光が、流れていきます。
 
 
  「あれ、飛行機、雲の下を飛んでる?
   それなのに、あんなに小さい??」
 
 そんな思考が湧き、
 改めて、空を見回すと、
 
 えっ!
 
 皆既月食、見えてました〜!
 
 空は、快晴でしたー! ^^

iPhoneでも, こんな感じに撮れました ^^

 
 気づいたときには、
 もう、「皆既」状態で、
 
  「ブラッドムーン」と呼んでいいんだろうなぁ?
 くらい、
 赤オレンジっぽい色に、なっていました。
 
 
 おかげさまで、
 これで、
 2014年10月8日、
 2015年4月4日につづき、
 
 このブログを始めて、
 3回目の、皆既月食を、
 バッチリと、見ることができました ^^
 
 (過去記事「 皆既月食に(2014年10月8日)
  過去記事「 春休み(2015年) 」)。
 
 
 しかも、
 前回、2015年4月4日の皆既月食は、
 沖縄の地で、見ることができました。
 
 そして、
 今年4月に、
 ふたたび、沖縄に伺います。
 
 はじめて、
 沖縄で、イベントをさせていただきます。
 
 少なくとも、
 「人間意識の僕」としては、
 
 前回に関しては、
 沖縄滞在中に、皆既月食が起こるということは、
 滞在計画を立てたときには、知りませんでしたし、
 
 今回、沖縄イベントを企画した段階でも、
 今年、皆既月食があることは、知りませんでした。
 
 「人間意識の僕」としては、
 やはり、何かの流れを、意識してしまいますね、
 
 「ただの偶然」なのですが。
 
 
 さて、
 「皆既状態」が終わると、
 
 徐々に徐々に、
 月の「東側(?)」から、
 徐々に徐々に、
 輝きを取り戻していく様子を、見ることもできました。



 面白かったのは、
 
 たしかに、
 「色」が、違いました。
 
 皆既が終わり、
 月面の一部が、輝くにつれて、
 
 どんどんと、
 「白っぽい」というか、
 「白金っぽい」というか、
 
 そんな色に、変わっていきました。
 
 赤さ、オレンジさが、消えていきました。
 
 
 そして、
 もう一つ、面白かったのが、
 
 皆既が終わるにしたがって、
 「暗く」感じたことです。
 
 
 皆既中は、
 たしかに「輝き」はなく、
 
 月全体が、
 赤オレンジに色づいている、
 
 そんな感じだったのに対して、
 
 皆既が終わるにしたがって、
 月の一部が「輝き」はじめ、
 
 確かに、その部分「は」、
 とても明るくなっていくのですが、
 
 でも、対照的に、
 その、「輝いている部分」以外の月面は、
 
 それゆえに、かえって、
 「暗くなっていく」ように見え、
 
 それゆえに、
 「月全体」としては、
 ある時期までは、
 かえって、どんどん、「暗くなっていく」、
 
 そんな風に、見えました。
 
 
 「二極」というか、
 「パラドックス」というか、
 
 そんなことを、
 感じました。











2018年1月23日火曜日

第1回 沖縄イベント 開催のお知らせ

 
 2018年4月6日(金)、7日(土)、8日(日)、
 沖縄県那覇市で、
 「個人セッション」「『お金』浄化ワークショップ」「津留さん交流会」を行います。


 沖縄で はじめてとなる イベントを、
 4月に、行います!

 神聖な、スピリチュアルな、琉球の地。

 津留さんの商品をお求めくださる方も、
 毎年、一定数以上、いらしてくださいます。

 そんな土地で、
 このたび、念願叶い、
 イベントを行わせていただくことになりました。


 ちょうど、10年前。
 同時期。

 母・山口潤子と、
 プライベートで、沖縄へ旅行に行った際には、

 2組、6名の方々と、面談して、
 津留さんが気づき、遺してくれた、
 メッセージ・浄化について、
 さまざまに、お話し、理解を共有しました。

 そのとき以来、
 沖縄の地で、ふたたび、
 津留さんについて、語り合ったり、
 津留さんの気づきに基づいた学びを、シェアしたり、
 そんなことをすることを、夢見ていました。

 それを、今回、実現できることになりました。


 内容としては、
 「個人セッション」「『お金』浄化ワークショップ」「津留さん交流会」を行います。

 みなさんと語らうこと、
 浄化のお手伝いをすることを、
 とても楽しみにしています。

 沖縄地区のみなさま、
 どうぞよろしくお願いします。


  詳細・お申し込みは、『 第1回 沖縄イベント 』 のページをご覧ください。

2018年1月23日 集合人編集局 裕子・ひで 











第8回大阪イベント 開催のお知らせ

 
 2018年5月11日(金)、12日(土)、13日(日)、
 大阪市で、
 「個人セッション」「『お金』浄化ワークショップ」「津留さん交流会」を行います。


 大阪で、7回目となるイベントを、
 5月に、行います。

 昨年の11月以来の、大阪での開催です。

 昨年は、4月と11月に、大阪に伺い、
 ここのところ、
 「年2回」「半年に1回」のペースで、伺えています。

 このように、頻繁に、大阪に伺えることを、
 とっても嬉しく、感じています。


 また、今回は、
 大阪で2回目の、「『お金』浄化ワークショップ」になります。

 丸一日かけて、
 『お金』に対して持っているブロックを探り、見つめ、
 それらを、浄化していきます。

 加えて、
 『お金』をとおして、
 『自分自身』『仕事』『親』『社会』などに対して持っている意識に、
 気づいていきます。

 その他に、
 「個人セッション」「津留さん交流会」も、
 これまで同様に、行います。

 浄化のお手伝い、
 みなさんとの語らい、
 とても楽しみにしています。

 大阪のみなさま、関西地区のみなさま、
 どうぞよろしくお願いします。


  詳細・お申し込みは、『 第8回 大阪イベント 』 のページをご覧ください。

 2018年1月23日 集合人編集局 裕子・ひで 











2回目の うさと展 開催のお知らせ

  
 この1月に、無事、開催できました、
 私たち主催の、はじめての、うさと展。

 とても楽しく、とても嬉しく、
 これまでとは、すこし違った 感覚を、
 たくさん、味わうことができました。

 また、
 いつも、津留さん交流会に来てくれたり、
 個人セッションにきてくださったり、と、

 津留さんのことで、繋がりのある方々も、
 来てくださいました。

 ありがとうございました。


 そして、
 次回の、私たち主催の うさと展の、
 開催内容が、決まりました。

 ここに、お知らせいたします。


 今回の会場は、
 「船橋市民ギャラリー」です。

 船橋駅から、ほんと、すぐで、
 とても便利な場所にあります。 

 また、今回お借りできた部屋、
 「第2ホール」は、

 約95m2、約57畳と、
 十分な広さで、
 窓もたくさんあります
 (当日は、直射日光が当たらないように、ブラインドを降ろしますが ... )。

 広く明るい部屋で、
 ゆったりと、うさと服に 触れていただけるものと思います。

 ご興味おありの方、
 ご都合のよい方、
 ぜひ、いらしてください。

 たくさんの うさと服たちと、
 お待ちしています。






 うさとの服展 @ 船橋市民ギャラリー(千葉県船橋市)

  期 間: 2018年4月20日(金) 〜 4月21日(土)(2日間)
  時 間: 10:00 〜 18:00
  会場名: 船橋市民ギャラリー 第2ホール
  住 所: 千葉県船橋市本町2-1-1 船橋スクエア21ビル3階
  最寄駅: 船橋駅(JR総武線)南口から、南へ徒歩7分
       京成船橋駅(京成本線)から、南へ徒歩5分
 
  アクセス詳細は、こちら のページをご覧ください。











3月17日 「『お金』浄化ワークショップ」開催のお知らせ


 『お金』に関するブロックを見つけ、浄化する、浄化ワークショップ を、
 2018年3月17日(土)に 開催いたします。
 
 
 今回で、4回目、
 名古屋と大阪での開催を入れると、
 6回目の、『お金』に関する、浄化ワークショップになります。
 
 
 まず、事前にメールで質問をお送りします。
 ご自宅で、ご自分で、
 まず、ご自分の『お金』に関するエネルギーブロックを、探ってみてください。
 
 当日、会場では、
 一般的に お持ちの可能性の高い エネルギーブロックを、
 具体的に、お伝えします。
 傾向も、お伝えします。
 
 それによって、
 まず、具体的に、ご自分が、『お金』に対してお持ちの、
 エネルギーブロックを 特定してください。
 
 また、それら作業を通して、
 その他の対象に対する、エネルギーブロックの見つけかたも、
 学んでいただけます。
 
 そのポイント・方法も、お伝えします。
 
 
 つづいて、そのあと、
 今度は、「浄化」のやり方・方法を、お伝えします。
 
 やり方・方法・テクニックについては、
 代表的なものを、お伝えします。
 
 そして、実際に、浄化をしていただきます。
 
 また、
 その、「浄化」の背景として、前提として、
 どのような考え方のもと、浄化をしていただけると良いかも、
 お伝えします。
 
 津留さんのメッセージ内容を、
 よりご理解いただくきっかけになるかもしれません。
 
 
 丸一日、
 休憩をはさんで、約6時間ほどの、ワークショップとなっています。
 
 内容的には、
 かなり、盛りだくさんだと思います。
 
 ご興味がおありの方は、
 どうぞ、ご参加ください。
 
 (これまでにご参加くださった方々からのご感想は、
  こちら に掲載させていただいています)
 
 お会いできることを、
 ご一緒に、『お金』に関する浄化をできることを、
 楽しみにしています。
 
 
  詳細・お申し込みは、『 3月17日 『お金』浄化ワークショップ 』 のページをご覧ください。

2018年1月23日 集合人編集局 裕子・ひで 












3月3日 『再誕生ワークショップ』開催のお知らせ


 2回目となる『再誕生ワークショップ』を、
 3月3日 に、開催します。
 
 会場は、前回と同じ場所。
 
 
 内容も、前回を受けて、
 いくつか、変更などもあるようですが、
 基本的には同じものと、
 裕子さんから、聞いています。

 
 具体的には、
 
 身体を動かしたり、身体に積極的にアプローチしたり、
 誘導瞑想を行ったり、
 そんなことをしながら、
 
 これまでの人生、これまでのご自分を、
 認め、受け入れ、
 
 そして、過去から握り続けているものを、手放し、
 新たな自分へと、自分の意思で、生まれ変わって行く ...
 
 そんなことをする、ワークショップです。
 
 
 普段の、個人セッションや、浄化ワークショップで行っている、
 「『津留さん的』な浄化」とは、一味違った、
 手放し・開放の、アプローチ・方法の、数々 ...
 
 前回、ご参加くださった方からは、
 とても好評でした。
 
 (前回の様子、いただいたご感想は、
  こちら に掲載させていただいています)
 
 ご興味がおありの方は、
 どうぞ、ご参加ください。
 
 
   詳細・お申し込みは、『3月3日 再誕生ワークショップ』 のページをご覧ください。

2018年1月23日 集合人編集局 裕子・ひで













2018年1月18日木曜日

はじめての「うさと展」、終わりました〜 ^^


僕たちにとっての、はじめての「うさと展」、
無事に、終えることができました。

来てくださった、お客さま各位、
ありがとうございました。


また、今回は、
「共催コーディネーター」として、
すなべともこさん が、
全面的にサポートをしてくださいました。
こころから、感謝お礼申し上げます。

最初2回のうさと展は、「原則2日間開催」のところ、
すなべさんのご了解をいただいて、
今回、3日間開催することができました。

そのおかげで、
初日、金曜日、平日にも、たくさんのお客さまにお越しいただけ、

そして、最終日、日曜日、
うさぶろうさんに来ていただいた上で、
また、たくさんのお客さまにお越しいただくことができました。

すなべさん、
ご理解とご協力、本当にありがとうございました。
そして、おつかれさまでした。
 
 
また、うさとジャパンスタッフ のみなさまにも、
お礼申し上げます。

日ごろから、いろいろと、サポートをしてくださるおかげで、
ほとんど、分からないこと無く、あまり不安なく、
開催の準備をすることができました。

また、今回のうさと展には、
とっても素敵な服を、たくさん、送っていただきました、

もちろん、うさとの服は、素敵なものばかりなので、当然なのですが … ^^;

でも、そのおかげで、
お客さまが、「お気に入りの一着」に出会われる瞬間に立ち会うことが、
その場所・機会をご提供することが、できました。

夢が叶いました。

本当にありがとうございました。
また、今後ともよろしくお願いします。


そして、
もう、先に触れましたが、

最終日に、なんと、
うさぶろうさんが、来てくださいました〜!





超ご多忙な中、お時間を割いてお越しくださり、
そして、たくさんのお客さまに、コーディネートしたり、商品選びを手伝われたり、
また、子どもをあやしたり、大人を笑わせたり ^^ 、
細やかな心配りを、随所に、してくださいました。

ありがとうございました。

お客さま、みなさま、
楽しそうに、嬉しそうに、喜んでくださいました。

そして、せっかくいらしてくださったにもかかわらず、
お客さまが途切れてしまう時間帯があり、
申し訳なく思っていると、

近所のケーキ屋さんに向かわれて、
みんなに、ケーキのごちそうまで、してくださいました
(ごちそうさまでした)。

本当に、すべての方に、心遣いをしてくださる、
心細やかな、大きな方なのだと、
改めて、実感いたしました。

ありがとうございました。


そして、このブログでは、
触れないわけにはいかないことが、
一つ。

うさぶろうさん、
津留さんのことを、ご存知でした!

僕は、又聞きなのですが、
うさぶろうさん、
 「あぁ、津留ちゃん、
  会ったことあるよ」
と、
おっしゃっていたそうです。

調べてみると、
うさぶろうさんが、1948年生まれ、
津留さんが、1946年生まれ。

近いですね。
会っていて、おかしくないですね。

そして、共通点があり、
それは、「22日」生まれ、ということ。

うさぶろうさんは、10月22日。
津留さんは、2月22日。

うさぶろうさんは、
「22日会」という、
22日生まれの人の会をしているそうで
(うちの末娘にも、入会を誘ってくださいました ^^ )、

「22日」生まれであることに、
ある種、意識を置いていらっしゃることからすると、

僕が考えていた以上に、
もしかしたら、ご縁があるのかも。

まぁ、
 「だから何?」
の話ですけどね ^^ 。

そんなことも、知ることができました。


さて、今回は「はじめて」ということで、
すべてにおいて、不馴れで、行き届かないことばかりでしたが、

お越しくださったみなさま、ご協力くださったみなさまが、
みなさん、受け止めてくださって、
どうにか、こなすことができました。

ただ、僕としては、
すべてが新鮮で、すべてが楽しく、

とにかく、楽しく嬉しい時間を過ごせました。

でも、
それゆえに、興奮していたのでしょう、

終わってみたら、とっても疲れている自分を発見しました ^^; 。


次回の開催も、
とっても楽しみです。

決まり次第、ご案内いたします。
どうぞよろしくお願いします。


改めまして、
みなさん、ありがとうございました。


 ひで











2018年1月11日木曜日

いよいよ明日から、はじめての「うさと展」


いよいよ明日から、
僕たちの、はじめての「うさと展」です!

今日は、すなべともこさんに、お手伝いいただき、
また、名古屋から、「うさと仲間」のせつこさんにお越しいただき、
設営・準備をしました。





はじめてのことで、分からないこと、戸惑うことばかり。
僕としては、とても貴重な「新たな体験」をさせてもらい、
とっても楽しい一日でした。

でも、まだ、「準備万端」とはいかず、
細かいことを、いろいろと整えることが、残っています。

今晩は、楽しみながら、じっくりと、
うさと服に触れていきたいと思います。
あぁ〜幸せ ^^
念願が、一つ、叶いました。


そういえば、
 「(お客という形とは)違う形で、うさとに関わりたい」
という想いは、
ずっと、持っていました。

僕の場合は、
まだまだ、いっぱいの『想い』を、持っていますねぇ〜


それでは、明日から3日間、
「うさとの服展@本八幡スペースあむりた」を開催します。

うさと服にご興味おありの方は、
ぜひ、いらしてください。

 ひで



  アクセス詳細などは、こちら のページ(外部サイト)をご覧ください。










2018年1月1日月曜日

はじめに言葉ありき ( 宇宙を分つもの )


    初めに言葉があった。
   
    すべてのものは、これ(注:言葉)によってできた。
    できたもののうち、一つとしてこれ(注:言葉)によらないものはなかった。
   
     ( 新約聖書:「ヨハネによる福音書」1章1節および3節)
       [ 参照: こちら ]
    
    
    初めに、神は天地を創造された。
   
    神は言われた。「光あれ。」
    こうして、光があった。
   
     ( 旧約聖書:「創世記」1章1節および3節)
       [ 参照: こちら ] 
 
 
 
 「すべてのもの」は、
 「言葉」によって、出来(でき)・創られました。
 
 言葉によらず、出来たもの・創られたものは、ありません。
 
 また、
 「光」は、
 「光」という「言葉」によって、創られました。
 
 
 ところで、
 「すべてのもの」は、
 『どこから』、生まれたのでしょうか?
 
 
 『無』からです。
 
 
 では、
 その、『無』とは、
 
 何なのでしょうか?
 どういう意味なのでしょうか?
 
 
 一つには、
 あえて言葉で表せば " nothing " 、
 
 文字通り、
  「何も無い」状態
 と、認識できると思います。
 
 僕も、
 かつては、そう理解していましたし、
 
 一般的には、
 そう、理解されているのではないか、と、思います。
 
  「はじめ」「原始」「原初」は、
  「何も無」く、
  そこに、「すべてのもの」が、創造された
 
 という、認識です。
 
 
 ところが、もう一つ、
 別の、違う認識も、できると思います。
 
 それは、
 『無』とは、
 『空』と呼ばれるもの(「色即是空」の『空』ですね)。
 
 津留さんは、これを、
 『神さま』と、呼び、
 
 また、別の表現としては、
 「ホワイトノイズ」と呼びました
 (過去記事「 『ホワイトノイズ』という『神』 」)。
 
 僕は、このブログでは、過去に、
 「無色透明」という事例で、表しました
 (過去記事「 最驚のパラドックス 」)。
 
 
 それは、
 先の、「何も無い」 " nothing " としての『無』とは、
 反対で、
 
 それは、
 『すべて』です。
 
 『すべて』であり、
 かつ、「『未分化』のもの」、です。
 
 そこから、
 「すべてのもの」が、生まれました。
 
 『すべて』から、
 「すべてのもの」が、生まれました。
 
 
 はじめに、神が、居ました。
  
 その『神』が、創造されたのです。
  
 『神』が、『言われた』のです。
 
 であれば、
 「はじめに、神が、居ました」。
 
 そう、捉えるのが、
 むしろ、自然なのではないか、
 と、思いますが、
 
 それは、
 僕の個人的な認識ですので、
 その、「どちらのほうが」は、置いておきましょう。
 
 
 さて、
 はじめに、神が、居ました。
 
 はじめに、
 『神』という『すべて』が、ありました。
 
 「すべてであり、一つであり、未分化」の、『すべて』が、ありました。
 
 そこから、「すべてのもの」が、生まれました、
 神の『言葉』によって ...
 
 
 「ホワイトノイズ」は、
 「チューニング(周波数の特定)」によって、
 特定の音が、聞こえるようになります。
 
 「無色透明」は、
 「プリズム」によって、
 七色の色が、見えるようになります。
 
 それと同じように、
 
 『すべて』から、
 「言葉」によって、
 「すべてのもの」が、できました。
 
 「光あれ。」の言葉によって、
 「光」が、できました。
 
 
 「言葉」とは、
 何でしょうか?
 
 岩波書店『広辞苑』によれば、
 「言葉」とは、
   「人の音声の意味を持っているもの」
 のこと、
 
 つまり、
 「言葉」とは、
 
 『意味』であり、
 『概念』であり、
 『定義』です。
 
 「光あれ。」の言葉によって、
 「光」が、意味付けられ、定義され、
 
 『すべて』のうち、
 「光」に該当するものが、「光」とされました。
 
 これが、
 「こうして、光があった。」の、意味するところです。
 
 こうして、
 「光」が、『できました』。
 「光」が、『生まれました』。
 
 
 と同時に、
 「光あれ。」の言葉によって、
 
 「『光』ならざるもの」が、意味付けられ、定義され、
 
 こうして、
 「『光』ならざるもの」が、『できました』。
 『闇』が、『生まれました』。
 
 
 「光」という『言葉』により、
 「光」と「光ならざるもの(闇)」とが、生まれました。
 
 
 『言葉』により、
 『意味』により、
 『概念』により、
 『定義』により、
 
 「それに該当するもの」が、できました。
 
 
 『すべて』が、
 
 「それに該当するもの」と、
 「それに該当しないもの」とに、
 
 分けられました。
 区切られました。
 隔てられました。
 
 
 それが、
 『できた』『生まれた』
 ということです。
 
 
 『言葉』『名前』
 『意味』『定義』
 『概念』『考え』『価値観』 ...
 
 それらにより、
 『すべて』が、
 
 「それに該当するもの」と、
 「それに該当しないもの」とに、
 分けられました。
 
 
 「善」という言葉によって、
 すべては、
 「善」と「悪」に、分けられ、
 
 そして、はじめて、
 「善」と「悪」が生み出されました。
  
 「正しさ」「正義」という概念によって、
 すべては、
 「正しい」ものと「誤った」ものに分けられ、
 
 そこで、はじめて、
 「正しい」ものと「誤った」ものとが、誕生しました。
 
 「良い」という言葉によって、
 すべては、
 「良い」ものと「悪い」ものに分けられ、
  
 「成功」という言葉によって、
 すべては、
 「成功」と「失敗」に分けられ、
 
 「地球」という言葉によって、
 宇宙は、
 「地球」と、それ以外の宇宙とに分けられ、
 
 「陸」という言葉が生まれ、
 それによって、「地球」は、
 「陸」と「海」とに分けられ、
 
 「人間」という言葉によって、
 「生き物」は、
 「人間」と「動物・植物など」に分けられ、
 
 さらに、
 「人間」は、
 
 「性別」という言葉によって、
 「女」と「男」に分けられ、
 
 「年齢」という言葉によって、
 「子ども」「大人」「高齢者」に分けられ、
 
 「国籍」「人種」という言葉によって、
 「日本人」「黄色人種」などに、分けられました ...
 
 
 このような見方、
 このような認識の仕方、
 このような捉え方、
 
 それが、
 津留さんのいう、
  「私たちは、はじめ、『神さま』だった」
 という、
 見方であり、
 
 そして、それが、
 その見方に沿った、
 『宇宙の誕生』です。
 
 
 この見方によれば、
 『私たち』は、
 
 そもそもは、
 『言葉』の前に存在していたものです。
 
 「はじめに言葉ありき」
 の、
 
 " はじめ " の前に、存在していた『もの』です。
 
 " はじめ " を、『はじめたもの』です。
 
 まず、それが、
  「私たちは、はじめ、『神さま』だった」
 ということの、意味です。
 
 
 そして、
 その、「 " はじめ " を『はじめたもの』」は、
 
 「『すべて』であると、体験できないこと」を、体験するために、
 『すべて』であることを、辞めました。
 
 『言葉』によって、
 自らを、分化すること、分割すること、分裂させることにより、
 
 『すべて』では、なくなりました。
 
 『部分』に、なりました。
 
 それが、
 『言葉』の、
 『意味』の、
 『概念』の、
 『定義』の、
 
 『名前』の、
 『知識』の、
 『情報』の、
 『価値観』の、
 『道徳感』の、
 
 意味であり、役割です。
 
 
 さあ、
 ここで。
 
 もし、
 
 分割を、
 分裂を、
 孤独を、
 対立を、
 止め、
 
 融合を、
 結合を、
 連帯を、
 友好を、
 はじめ、増やすには、
 
 どうしたら、いいのでしょうか?
 
 
 まず、
 「融合」「結合」は、
 
 『成れの果て』では、なく、
 『努力の結果』では、なく、
 
 『そもそもの、元の姿』である、
 ということ。
 
 「分裂」こそが、
 「孤独」こそが、
 「対立」こそが、
 
 『元』では、なく、
 『はじまり』では、なく、
 『そもそも』では、なく、
 
 それらこそが、
 『果て』であり、
 『努力の結果』である、
 ということ。
 
 それを、知ること。
 それを、思い出すこと。
 
 あるいは、
 それを、選択すること、です
 (過去記事「 選択 」)。
 
 
 そして、
 そのうえで、
 
 一つ、一つ、
 『言葉』を、
 『意味』を、
 『概念』を、
 『定義』を、
 無くしていくことです。
 
 『名前』を、『知識』を、『情報』を、
 『価値観』を、『道徳感』を、
 消していくことです。
 
 ただし、
 それは、何も、
 完全に消し去ること、消去すること、を、
 する必要は、なく、
 
 それに、
 囚われないこと、
 
 ただ、
 それだけ、です。
 
 そこから、
 切り離せるようになること、なっていること、
 
 ただ、
 それだけ、です。
 
 
 そのとき、
 「『自分』でないもの」が、無くなります。
 
  自分でないもの
  分からないもの
  ありえないもの
 が、無くなります。
 
 そのとき、
 『自分』が、
 
 元の、そもそもの、『すべて』に、
 戻り、還ります。