2018年6月3日日曜日

50回目のファーストキス(時間、そして、他人)


ここ最近、
テレビや、ネット上、街中などで、
映画「50回目のファーストキス」の告知を、
よく目にします。

一昨日が、公開日だったんですね。

聞くところによると、
この、日本版の「50回目のファーストキス」は、

ロケ地もハワイと、そのままで、
元の、アメリカ版の、リメイクだとか。

しかも、主演が、長澤まさみさん(!)、ということですので、
ヒットとなることを、祈念いたしております ^^ 。


さて、元となっている、
アダム・サンドラーと、ドリュー・バリモアの、
ハリウッド版「50回目の ファースト・キス(50 First Dates)」のほうは、

根がロマンチストな、僕は ^^; 、
ストーリー的にも、好きですし、

ハワイの情景や、
コメディータッチなところも、相まって、
大好きで、
何度か、観ています。

なので、
ストーリーなども、比較的、記憶しているのですが、

(この後、ネタバレ注意!)

主役の女性(ドリュー・バリモア)は、
交通事故により、『短期記憶喪失障害』となり、

記憶が、1日間しか持たず、
夜間の睡眠が明けると、前日の記憶がなくなり、

記憶がリセットされ、
事故前の状況に、記憶が戻ってしまいます。

なので、
事故後に会った人のことを、記憶しておらず、

そこで、その後に出会った、
主演男性(アダム・サンドラー)とは、

毎回、毎回、出会いから始まり、
そして、毎回、ファーストキス(原題的には、ファーストデート)を、
繰り返すことになる ...

というストーリー内容から、
このタイトルに、なっています。


いわゆる、「ラブコメディー」で、
ハワイの美しい風景も満載ですので、

その辺りがお好きな方で、
かつ、
アダム・サンドラーとドリュー・バリモアが苦手でなければ、

個人的には、お薦めの映画です ^^ 。


さて。

既述のとおり、
主人公の女性は、

一晩経つと、記憶を無くしてしまいます。

なので、
彼女は、

いつも、いつも、
「一日」を、生きています。

その日の、「一日」を生き、

翌日には、「前日」が無く、
そして、その(翌日である)「一日」を、生きます。


彼女には、
「一日」しか、ありません。

それ以上の長い時間は、
彼女の認識の中には、ありません。

つまり、
彼女には、「一日」しか、ありません。


この点は、ご納得いただけるものと思います。


では。

その、彼女の状況を、
ぜひ、さらに、もっと極端なものに、してみましょう。

もし。

もし、彼女が、
1秒たりとも、記憶できなかったとしたら ...

そのとき、
彼女には、「何時間」「何分」、いえ、「何秒」が、
あるのでしょうか? ...


そうですよね。
彼女には、「1秒すらも無い」ですよね。

彼女には、『時間はありません』。

よね?

え、ということは? ...


私たちが体験している、この社会では、
私たちは、みな、記憶を有しています。

なので、『時間を有しています』。

でも、もし、
もし、みなが、全員が、記憶を有していなかったら、

そこには、果たして、
時間は存在しているのでしょうか? ...


とても良く、
 「『時間』は無い。
  『瞬間』が有るだけ。」
と、
言われます。

この感覚は、なかなか、理解・体得の難しいものですが、

しかし、
そのような、理解・体得が無くとも、
先のように、考えてみたら、

 「『時間』は、『記憶』があって初めて、存在する」

すなわち、

 「『時間』は『記憶』の中にしかない」

ということは、よろしいかと思います。

 「『記憶』という、頭の中の認識の中にのみ、『時間』は存在する」

ということで、よろしいかと思います。


私たちは、
プロセス・変化を、体験しています。

それによって、初めて、
 「良くなる」
 「悪くなる」
という、体験ができます。

そして、それによって、はじめて、
 「嬉しい」とか、
 「悲しい」とか、
 「不安だ」とか、
そのような種類の感情体験を、することができます。

そのような種類の、
感情体験をするためには、

私たちは、
「変化・プロセス」というものを、記憶していなければなりません。

そこで、
私たちは、「記憶力」を有しているのですが、

それに伴って、
そこで、はじめて、

その、それら「変化・プロセス」を、
脳が、『時間』と、認識します。

その「変化」を、
その「プロセス」を、
その、よどみない流れを、

脳が、『時間』と、認識します。


なので、変化が無いときには、
私たちは、時間の流れを、認識できなくなります。

テレビの実験企画などで、
外の様子が分からない、外の変化が一切感知できない部屋などに、
隔離・幽閉された人が、
果たして、時間の経過を、しっかりと当てられるか、

といった内容のものを、
ご覧になったことのある方も、いらっしゃると思います。

そんなとき、
大抵、その人は、
大幅に違う時間認識を、持っています。

これなどは、
私たちが、

変化・プロセスを、時間として認識している、
最たる例だと思いますが、

私たちも、日常生活の中で、
例えば、変な時間に昼寝をしてしまったときや、
長い時間、昼寝をしてしまったときなどに、
起きたとき、時計を見ないと、時刻がまったく分からない、
なんて体験を、したりしますよね。

以上のようなことからも、
『時間』が絶対的なものではない、ということは、
すでに、実感されたり、認識なさったりしていることと思います。


いずれにせよ、

 『時間』というのは、『記憶』を通じて、頭の認識に中にあるものだ

という点は、よろしいかと思います。

それが、

 「頭に中にしか、ない」のか、否か
 「頭の認識の中にのみ、あるもの」なのか、否か

については、置いておいて
(「時間は無い」と言う人々は、
 「なので、頭の中にしかないのだ」と、言っているのだと思いますが)、

でも、いずれにせよ、
 「『時間』は、頭の中にあるもの」
 「『時間』は、頭で認識されているもの」
 「頭の中の『記憶』が無ければ、『時間』は認識できない」
ということは、よろしいかと思います。


以上、『時間』というものについて、
ご参考にしていただければと思います。


そして、さらに。

この、『時間』についてと、同じことが、

 「嫌な人」
 「嫌みな人」
 「意地悪な人」
 「困った人」...

など、

自分のストレスの原因となっている『他人』についても、
言えるのです。

そして、それを、
津留さんは、

「『時間』は無い」と言うタイプの(その認識の)、
津留さんは、

 「『他人』は、居ない」
と、
言うのです。


これを、
僕が、今回、この記事で使った表現で言えば、

 「『他人』は、頭の中にしかいない」
 「『他人』は、『記憶』を通じて、頭の認識に中にあるものだ」

と、いうことになります。


『時間』についてと、同様、
『他人』も、

このように、
「『自分の頭の中』に居る」のです。

「『自分の中』に居る」のです。


だからこそ、
「『自分の外』に居る」他人を変えようとすることが、
ときに、無意味なのです。

だからこそ、
「『自分の中』に居る」他人にアプローチするしか、
ときに、方策が無いのです。

『自分の中』だけが、問題なのです。









2018年5月30日水曜日

「できる」ということ


もう、ずいぶんと昔のことになりますが、
『オーラの泉』というテレビ番組で
(もうずいぶんと、昔のことになりますね ^^ )、

ある俳優さんが、
数日で、英語を話せるようになった、
という逸話を、告白されていました。

その話に対して、
美輪さんも、江原さんも、
至極納得という感じに、受け入れられていました

(たしか、「前世がアメリカ人だから」、というようなことでした)。


また、
ある、人気ブロガーさんは、

その方は、世界の科学的内容の記事を、
日本語に翻訳して、ご紹介されているのですが、

その方は、
ある日、目を覚ましたら、突然、英語が読めるようになっていた、
のだそうです。


事の真偽は、
確かめようがありませんが、

ここで、この文章を目にしていらっしゃる方は、
それらを、一応、「あり」として、進めることに、
さほどの抵抗はないのではないか、と、推察し、

では、
 もし、そのようなことが起こりうるのだとしたら、
 では、どうして、そのようなことが可能なのか?
ということに関して、

以下、一つの見解を(「津留さん的見方」を)、
述べたいと思います。


それにあたって、
まず、
ある、僕自身の、個人的な実体験を、
一つの事例として、紹介させてください。


僕は、
高校時代、ラグビーを部活でやっていたのですが、

高校入学にあたってのストレスから、
中学卒業の近辺に、10Kg以上、体重を増やしてしまったため ^^; 、

ラグビー部入部当初は、
身体(の重さ)を持て余し、身体の扱いに慣れず、
それゆえ、足が遅かったです。

「足が遅い」というのは、
当然ながら、周りの部員たちとの比較での判断・認識で、

一般的には、どうだったのかは、置いておいて
(クラスの中では、確かに、遅くなかったですが)、

とにかく、ラグビー部においては、足が遅く、
そのため、走ることが含まれる練習は、僕にとっては辛く、

また、担当(ポジション)としては、
パワー系の役割を担っていました。


そんな状況が、10ヶ月近く続いた、ある日。

その日、何が、それまでの日々と、違っていたのか、
今や、もう、何一つ、全く、記憶してはいないのですが、

とにかく、その日の、練習の、ほぼ最後。

いつものように、
蹴られたボールを、みなで追いかけ、
まず一人がそれを拾い上げ、そしてそれをみなでパスで繋いで運んでいく、
という練習が始まりました。

はじめに拾う一人は、
蹴った人が、名前を呼んで、指名していました。

僕の名前が呼ばれました。

声を上げて返事をし、
そして、とにかく、一目散に、ボールに向かって走り、
そして、ボールを拾い上げました。

走るのが遅く、苦手に感じていた僕は、
いつものように、周りに迷惑をかけないように、
懸命に、ボールに向かって走りました。

そのときは、ボールを、すんなりと、拾うことができたため、
そこで、横で待っているであろう人に、すぐにパスして渡そうと、
横を見たときです。


いつもであれば、
足の遅い、僕が拾うケースでは、

仲間たちが、
僕のペースに合わせて、ゆっくりと走り、

僕が拾い上げるタイミングでは、
ずらっと、横に並んで、勢揃いして待っている感じでした。

ところが、その日は、
いつものように、すでに横にいるであろう仲間にパスをしようとすると、

横に、誰もいません。

不思議に思い、見回すと、
みな、まだ僕の後ろを、「懸命に」走っています。

そのようなシチュエーションでは、
選択肢の一つとして、
誰かが追いつくまで、ボールを拾い上げた人が、そのまま突き進む、
というのがありました。

そのとき、僕は、そうしました。
誰かが、すぐに追いつくだろうと思い、そうしました。

そして、拾い上げた後に、
そのまま、ボールを抱えて、全力で走り続けました。

ところが、予想に反し、
誰も、僕に追いついて来ません。

結局、そのときは、
僕がゴール地点に着くまで、誰も、追いつくことがありませんでした。


ゴール地点で、みなを待つと、
みな、怪訝(けげん)そうな面持ちで、やって来ました。

 「なんで、そんなに早く、走れたの?」

そう言われて、はじめて、
「自分が速く走ったのだ」ということを、認識しました。

みなが、わざと、ゆっくりと走ったのではなく、
僕が、速く走れたのだと、分かりました。

その日は、僕自身も、訳が分からず、
不思議な感じ、不思議な心地でしたが、

でも、ひとつ、はっきりとしていたのは、
 「僕は、速く走れた」
ということでした。


そして、
その日以降、

 「僕は、速く走ることができる」
という認識が、
僕の中に、生まれていました。

そして、
その日以降、

僕は、実際に、足が速くなりました。

その日を境に、
僕は、突如、足が速くなりました。

そして、その後ずっと、
僕は、足が速いままでした。

むしろ、ますます、
みなよりも、速くなって行きました ...


いま、ご紹介した、
僕の、「速く走れた」事例・出来事を、

今になって、
改めて、振り返り、見てみると、

当時、
少なくとも、その出来事が起きたとき(その日)には、

僕は、僕自身が、
 「(自分は)足が遅い」
と思い込んでいたから、
遅かったのであって、

それが取り払われたら、
あるいは、
それが、「(自分は)足が速い」に書き換えられたら、

そのときから、
その日から、
その瞬間から、

 「速く走れた(足が遅くなくなった)」
と、
見ることができると思います。


この見方は、

少なくとも、この事例において、
この見方をすることは、

さほど唐突で、不自然なものではなく、
それなりに、同意・納得される方も、多いのではないかと思います。


で、ここで、
はじめの、英語の事例です。

これについても、
さきほどの、「速く走れた」ときと同じ見方を、
当てはめてみましょう。


あるとき、突然に(あるいは、ある数日間で、急に)、
「英語が分かるようになった」。

この事例では、
先の見方をするならば、

 「(自分は)英語は分からない」
という認識があったから、
英語が分からなかった、のであって、

「英語は分からない」という認識が、
そのときに、突然に(、何らかの理由・事情で)、
消えた・無くなった・取り払われた、ら、

そのときには、
英語が分かるようになっていた、

と、捉えることになると思います。


つまり、
「英語が分かるようになった」のは、

 「英語が分かる」という「『能力』を『獲得した』から」
ではなく、

 「英語が分からない」という「『認識・決め込み・制約条件』が『無くなった』から」
だ、

と、捉えます。


でも、そうですよね?

「英語を学ぶ」という行為(単語を覚えるとか、例文を覚えるとか)は、
ほとんど、あるいは全く、していないのですから。

それなのに、英語が分かるようになったのですから。

であれば、
 「元々は、分かっている」のに、
 「分からない」と認識することによって、分からない状態になっていた
と、

そう捉えるのが、
むしろ、そちらのほうが、自然ですよね。


確かに、
僕の、「速く走れた」事例においては、

その日までの、10ヶ月近くの日々の練習において、
「速く走れる『能力(・筋力など)』を『身につけていた』」と、
捉えることもできます。

そして、
それが、私たちにとっての、一般的認識(『常識』)でしょう。

「だから、早く走れたのだ」、と。


でも、
その日、自身の体験として、実体験をした僕の感覚だと、

「『能力』を『獲得』していた」という部分・認識、
そのものを、否定しは しませんが、
そして、それはそれで、そのとおりだと思いますが、

しかし、それは、その点は、
その出来事にとって、重要なポイントではありません。


だって、
僕自身の感覚では、

その日までの間だって、
懸命に、一生懸命に、がんばって、
速く走ろうと、していたのですから。

でも、
一切変わらずに、遅かったのですから。

いえ、
その日の、その一日の、
その瞬間までの間の、練習中だって、ずっと、

速く走ろうと懸命だったのに、
速く走れなかったんですから。
遅かったんですから。

それなのに、
その瞬間、その1回、
突然に、唐突に、
速く走れたのですから。

そして、それ以来、
一度、速く走れた、それ以降、
ずっと、速く走れたのですから ...


このように、
このような『見方』で、見ると、

私たちは、

 「『できる』『能力』を持っていること」
 「『できる』『能力』を『獲得』したこと」
 については、できる・できるようになる

のではなく、

 「『できない』という認識・決めつけ・思い込みを有していること」
 が、できない

ということになります。


 私たちは、
 「そもそもは、『できない』存在」で、

 その、「『できない』存在」が、
 「『できる』『能力』を『獲得』したこと」についてのみ、できるようになる

のではなく、

 私たちは、
 「そもそもは、何でも『できる』存在」で、

 その、「『できる』存在」が、
 「『できない』と決めたこと」についてのみ、できないようになっていて、

 なので、
 「『できない』という決め込み」を無くしたことに関しては、
 そもそものとおり、『できる』

ということになります。


これが、
ここでご紹介している『見方』であり、

これが、
「津留さん的な見方」であり、

そして、これが、
「『私たちは、そもそもは、神さまだった』という見方」です。


以前、
はじめに言葉ありき ( 宇宙を分つもの )
という記事を書きました。

そこでは、
 「はじまりは、『すべてがある』という『無』という状態だ」
ということを、
書かせていただきました。

そして、
今回の話も、同じ話、同じ見方です。


 私たちは、
 無数の『できない』ことのうち、
 『できる』ようになったことだけ、できる。
 そんな存在だ

と、
そう、認識することも、できます。

津留さんが、
『人間スタート』と呼んでいた、
そんな、見方です。

そして、それは、

赤ちゃんとして生まれ、
そこからの(その後しばらくしてからの)記憶が存在していて、

赤ちゃんとして、小さな子どもとして、
(ほとんど)何もできない状態で育ち、

その後、
徐々に、能力を高め、獲得し、
徐々に、できることが増えていった、

という過程を経てきていて、
そして、その過程を記憶し、
それをこそ『自分だ』と認識している、

そんな、私たち『人間』にとっては、
極めて当然の、当たり前な、見方・認識です。


一方、
今回ご紹介したような、

 私たちは、
 あらゆる・すべての『できる』ことのうち、
 『できない』と決めたことについてだけ、できない。
 そんな存在だ

そう、
認識することもできます。

津留さんが、
『神さまスタート』と呼んでいた、

「私たちは、そもそもは、神さまだった」のだ、という見方です。


この見方によれば、

『できる』ほうが、基準・標準です。
『できる』のが、そもそもです。
『できる』状態が、スタートです。

そして、
『できない』と決めたことだけが、できません。

「『できない』こと」の方にこそ、
工夫がなされています。
『努力』が加えられています。

『努力』して、『できない』ことに、できています。

『努力』して、『できない』状態になっています。

『努力』して、『できない』状態を『獲得』しています。

『努力』しているのは、
『獲得』しているのは、
「『できない』状態」の方、なのです。


この見方によれば、

私たちは、『人間』として生きているとき、
無数のことを、あるいは ほとんどのことを、
『できない』と、規定しています。

それによって、
「ほとんどのことを『できない』」人間、という存在になっています。

これをさらに、
津留さん的な見方で表現すれば、

私たちは、
この、『地球人間(体験)ゲーム』において、

「ほとんどのことを『できない』」と規定することによって、
「ほとんどのことを『できない』」人間というものを、体験できています。

すなわち、
「ほとんどのことを『できない』」『人間』というものを体験するために、
『自ら』、「ほとんどのことを『できない』」と、規定しています。


その規定を、

(個人的な認識は関係なく)人類全体(『集合意識』)として、しているのか、
あるいは、先祖がして、それをDNAとして受け継ぐことで、受け取っているのか、
あるいは、先祖・祖父母・親がして、それを価値観として、受け継いでいるのか、
それとも、自分自身の体験から、記憶し、決め込み・思い込んだのか、

それは、項目により、事情により、人により、違うでしょうが、

そして、だからこそ、
『人』それぞれに、できることと、できないことが、違うのでしょうが
(あるいは、「『人間全員・全体』ができないこと」が、あるのでしょうが)、

いずれにせよ、
このような見方においては、

私たちは、
ベースとしては、『できる』のであり、

特別に、わざわざ、『できない』と規定した項目だけが、
『できない』能力状態になっている、

と、捉えます

(アテネオリンピック ハンマー投げの金メダリスト、室伏広治氏が、
 「生後4か月にして懸垂ができた」という、都市伝説も、
 そんな見方から捉えると、すんなり受け入れられそうですね ^^ )。


なので、
本稿のタイトルの件、

 「『できる』というのは、どういうことなのか?」
 「『できるようになる』『できるようになった』というのは、
  どういうことなのか?」
ということについてですが、

 『できるようになる』
 『できるようになった』
というのは、

 もともと、『できる』ことだけれども、
 それを、『できない』と規定することで、できない状態にしていたけれども、
 その「『できない』との規定」を、取り外して、
 元の、本来の、『できる』状態に戻した・戻った

ということ、に、なります。

それが、
 「津留さん的な見方」
 「私たちは、そもそもは、神さまだった」
 「その神さまが、『地球人間(体験)ゲーム』をしている」
という見方、
に、なります。


ちなみに触れておくと、
その、
 「『できない』との規定」を、取り外す
という行為が、

津留さん自身も行い、提唱し、推奨し、
また、今現在、私たちも個人セッションなどでお手伝いしている、
『浄化』ということ、そのものになります。

だからこそ、
津留さんは、
 「『浄化』をしてください」
と、奨めていました ...



私たちは、これまで、
人類全体としては、
『人間スタート』の見方を、採用してきました
(『人類全体の意識(集合意識)』の合意のもと)。

だから、
『できない』が、標準値・当たり前であり、

そして、だからこそ、
『できる』『できるようになった』ことに、喜びを感じ、
そして、そこに、価値を見出してきました。
そこに、意識を向けてきました。


ですが、
今、ここで、
今後、これ以降、

「『できる』が、当たり前だ」と、
ちょっと、見方を、認識を、変えてみてください。

『できる』のは、
当たり前で、当然で、
特別ではなく、平凡で、凡庸で、
むしろ、退屈なくらい、ありふれた、つまらないことなのだ、と、
そんな認識を、かりそめに、持ってみてください。

その状況では、
『できない』こそが、
珍しく、ありがたく、非凡で、
そして、憧れであり、クールで、

だからこそ、そんな『できない』に、
努力して、工夫して、頑張って、
自主的に、意図的に、作為的に、望んで、なっているのだ、

そんな風に、仮定してみてください。


もし、そうだとしたら、
今、『できない』ことがあるのは、
失敗ですか、成功ですか?

能力が足りないから、『できない』のですか?
それとも、
能力があり、それが発揮されたからこそ、『できない』のですか??


こう、見ることができると、
津留さんが言っていた、

 「すべては、それで、完璧です」
 「それで、ベストです」

という言葉の意味を、
より抵抗なく受け入れることが、
より深く理解し、受け入れることが、
できるのではないかと思います。


このような見方、『仮定』、
みなさんのご参考になれば、幸いです。










2018年5月16日水曜日

『第8回 大阪イベント』を終えて


2018年5月11日(金)、12日(土)、13日(日)、
大阪で8回目となるイベントを、開催いたしました。


あぁ、もう、8回目になるんですねぇ ...

特に最近は、毎回、ご参加くださる方々もいらしてくださって、
なんか、
 「会いに行く」
 「遊びに行く」
感が、強くなってきましたが ^^; 、

いつも、このように、
大阪に伺えることを、とても嬉しく思っています。


今回は、
個人セッションに4名、
浄化ワークショップに3名、
交流会に11名、
計18名の方々に、

お越しいただき、
お会いすることができました。


会場(大阪市立此花区民ホール)は、
初めて使わせていただいた場所でしたが、

最寄り駅からのアクセスが抜群で(徒歩2分ほど?)、
内装は、比較的最近に改装されたみたいで、なかなかに綺麗で、

とても有り難い会場でした。

今後も、機会があれば、使わせていただきたいと思いました。


また、今回も、いつもと同様に、
イベントの後には、
京都に行って、
京都の「うさと店」に、伺ったのですが、

今回は、京都に行ってみると、なんと、
15日が、ちょうど、「葵祭」当日!

期せずして、葵祭を見ることができました。

各地でのイベントは、ほとんどのケースで、
「会場が借りられるかどうか?」から、
日程を決めているのですが、

今回の、「葵祭」といい、
前回の沖縄の、「清明」といい、

少なくとも、僕の「顕在意識」からすると『偶然』に、
そのような日に、各地に伺うことができて、

各地でのイベントを行うことで、
「起きてくる」ということを、
実体験させてもらっています。


それでは、
今回ご参加くださったみなさま、
ありがとうございました。

またお会いできる機会があると嬉しいです。


   集合人編集局 ひで









2018年4月13日金曜日

『第1回沖縄イベント』を終えて


2018年4月6日(金)、7日(土)、
沖縄で初めてとなるイベントを、開催いたしました。
 
 
4月に入ると「海開き」となる、沖縄に、
「暑さ」を期待して、渡った僕を、待っていたのは、

いえいえ、
出発地・千葉よりも寒い、低気温 ...
 
特に、「『お金』浄化ワークショップ」を開催した、
7日(土)は、
 
最高気温が16℃で、
お天気サイト曰く「記録的な寒さ」!

しかも、
強風と、雨が降る、
あいにくのお天気で、

僕としては、
本当に、「凍える」ように、寒かったです。
 
 
 「こんな天気になるなんて、
  沖縄に『歓迎されてない』ですね」

そんな、本音の感想を申し上げたところ、

 「いえいえ、
  こんな涼しくなるなんて、歓迎されてますよ!」

と、
沖縄の夏の暑さの厳しさを知る、地元のみなさんからは、
それを『歓迎』と、とっていただきました ^^ 。

おもしろいものですね ^^ 。
 
 
さて、
そんな、
季節外れの、天候の中、

個人セッションに2名、
浄化ワークショップに3名、

合計5名の方々が、お越しくださいました。
 
 
また、
当初予定していた、
津留さん交流会は、

お申し込みが無く、
実施いたしませんでした。
 
 
もちろん、
より多くの方にお越しいただけたほうが、
僕の『エゴ』ちゃんは、喜ぶわけですが、

でも、
少人数であったら、あったで、
ゆっくりと、深く、お話しができるので、

僕としては、
今回も、

とても楽しく、
かつ、気づき・学び多く、

有意義なイベントを
行うことができたと感じています。
 
 
お越しくださったみなさま、
ありがとうございました。

またお会いできる機会があると、嬉しいです。


   集合人編集局 ひで










2018年2月22日木曜日

津留さん誕生日に 2018年


 今朝の千葉は、
 雪になり、
 
 そこそこの降雪も見られ、
 そこそこの積雪となりました。


 
 ここのところ、寒い日が続きますね。
 今日も、寒い一日となりそうです。
 
 みなさま、
 どうぞ、お身体にお気をつけて、お過ごしください。
 
 
 今日、2月22日は、
 津留さんの誕生日です。
 
 肉体があれば、
 72歳、
 とのことです。
 
 僕は、
 会ったことが無いので、
 
 その年齢を聞いても、
 何も、感情が動きはしないのですが、
 
 ですが、
 ご参考まで。
 
 
 さて、
 
 今朝、
 まだ軽い まどろみ の中で、
 
 しかし、
 頭は、
 
 今日が、津留さんの誕生日であることを、
 思い出し、認識します。
 
 今日を、この日を、
 何か、「特別なもの」「特別な日」と、
 しようとします。
 
 そう、捉えられるもの・根拠は無いか、
 探し始めます。
 
 
 ですが、
 
 今日が、
 「特別ではない」ことを、
 
 そして、
 今日が、
 「特に 特別には なりそうにない」ことを、
 
 認識します。
 
 
 その認識の以前に、
 「軽い、不完全感」
 「軽い、焦燥感」
 を、感じていました。
 
  「いまの状態では、いけない」
  「いまのままでは、いけない」
  「どうにかしないと、いけない」
  「もっと良くならないと、いけない」
 
 そんな、感覚です。
 
 これらの感覚は、
 そう認識することも、気づくことも、難しいほどに、
 
 瞬時に、
 自動的に、
 
 思考を動かします。
 
  「なら、どうしたらいい?」
  「なにをすればいい?」
  「なにが必要だ?」
 
 そうして、
 「今日、何をすべきか?」を、
 
 考え始めます。
 探し始めます。
 
 「今日が、特別かどうか?」
 を探し始めさせたのも、
 
 ほぼ、
 同じエネルギーです。
 
 
 そのとき、
 今日が、津留さんの誕生日であることを、
 もう一度、思い出しました。
 
 
 思考が、止まります。
 
 しばらくの間をおいて、
 そこに、
 一つの「想い・アイデア・認識」のようなものが、
 湧きます。
 
 
 それに従い、
 
 まず、状況・環境を、
 身体で、感じます。
 
 
 目覚めたとき、
 室温は、いつもよりも、ずいぶんと低めでした。
 
 布団の中に、
 全身を、横たえながら、
 
 しかし、布団の外は、
 なかなかに、寒いことを、感じます。
 
 
 しかし、同時に、
 
 身体は、
 暖かさに包まれていることを、感じます。
 
 布団のおかげで、
 身体は、
 
 柔らかく、暖かい『空気』に、
 包まれていることを感じます。
 
 
 静寂にも、気づきます。
 
 家族が、別の部屋で、
 朝の支度をしている、騒がしさ、慌ただしさ ...
 
 家の外、道を、時折通る、車の音 ...
 
 溶けた雪の、したたる音 ...
 
 聞こえる音も、気配も、
 ありは しますが、
 
 自分に届くのは、
 静寂。
 
 自分が包まれているのは、
 平穏。
 
 
 「欠けているもの」など、
 無いことに、気づきます。
 
 「不完全感」が、
 幻想であると、認識します。
 
 いえ、
 「欠けているもの」が あるとすれば、
 
 それは、
 ただひとつ。
 
 いま得た気づきを、認識を、
 普段は、常には、持ち合わせていないこと。
 
 だた、それだけだ、と、
 認識します。
 
 
 そこで、
 改めて、
 
 先の、
 湧いた「想い」を、実践します。
 
 
 ハートを、感じます。
 
 そこを、
 そこの感覚を、
 
 そこに来ている、
 エネルギーがもたらす『感覚』を、
 
 感じます。
 
 その感覚を感じていることを、
 
 その感覚を生み出している「エネルギー(ブロック)」が、
 現に、いま、
 自分のハートに来ていることを、存在していることを、
 
 判断無く、
 認め、認識し、
 
 そして、
 感覚を、感じます。
 
 
 すこし、
 感じ続けます。
 
 
 十分に、
 穏やかなレベルにあることを、確認し、
 
 つづいて、
 そこ・その場所を、緩めていきます。
 
 ハートを、
 開いていきます。
 
 
 無理の無い範囲で、
 心地好く、できる範囲で、
 
 ハートを、
 開いていきます。
 
 
 細か〜〜い 振動に、
 ハートが、あります。
 
 「問題は無い」ことを、
 感じます。
 
 むしろ、
 「豊か」であることを、
 
 むしろ、
 「恵まれている」ことを、
 
 感じます。
 
 
 十二分に、
 平穏で、
 
 十二分に、
 平和で、
 
 十二分に、
 豊かで、
 
 十二分に、
 幸せである ...
 
 それを、感じます。
 
 
 それに、
 浸(ひた)ります。
 
 浸り続けます。
 
 十二分に、感じるまで、
 
 意識が、向け続けられるまで、
 
 飽きるまで ...
 
 
  「完全ではない」
  「いまのままでは、ダメだ」
  「もっと、良くならなければ」
 
 そちらの想いに、意識を向け、
 
 そして、
 それらを、「無くしていく」「減らしていく」
 手放し、『浄化』していく、ことは、
 
 これまで、
 常々、
 して来てました。
 
 ただ、
 少なくとも、現時点の僕にとっては、
 
 そちらばかりに、なってしまっていて、
 そちらの比重が、どうしても、高過ぎて、
 
 どうにも、
 本来の目的である、
 
  「幸せを感じること」
 
 が、
 おろそかになっていて、
 比重が低くなっていて、
 
 ただ、それだけが理由で、
 現状の感覚を感じているのだと、
 
 再認識しました。
 
 
 『浄化』をすることも、
 「ネガティヴな認識」に意識を向け、それらを減らすことも、
 
 あるいは、
 「状況」「環境」を変えることも、
 行動することも、
 
 もちろん、
 素晴らしいことであり、
 有効なことであるのと、同じように、
 
 
 「幸せ」を感じようとすること、
 
 「ポジティヴな感覚」に意識を向けること、
 
 それらを、感じること、
 味わうこと、
 堪能すること、
 しっかりと、体験すること ...
 
 それらも、
 素晴らしいことであり、
 
 そして、
 続く段階としては、
 そちらこそが、意識されるべきことですね。 
 
 
 少なくとも、
 現時点の僕には、
 
 その認識を、改めて持つことが、
 その認識を、改めて強めることが、
 " プレゼント " となることを、
 
 津留さんからの『贈り物』として、
 受け取りました。












2018年2月1日木曜日

「スーパー・ブルー・ブラッドムーン」


  月が地球に接近した際に見える月は「スーパームーン」。
  1カ月に2回、満月になる現象は「ブルームーン」。
  さらに皆既月食で、月の表面が赤っぽく見えることから、
  現象が「ブラッドムーン」と呼ばれる。

  NASAによると、今回は3つが同時に起きるので
  「スーパー・ブルー・ブラッドムーン」になるということだ。

  ナショナルジオグラフィックによると、
  地球上でこの3つが重なるのを観測できるのは35年ぶり。
  アメリカでは、実に150年ぶりだという。

  ( 引用元ページ



 昨夜は、
 「スーパー・ブルー・ブラッドムーン」でしたね。
 
 みなさんの地域では、
 ご覧になれましたでしょうか?
 
 
 さて、
 
 まぁ、「ブルームーン」かどうかは、
 完全に、人間の使っている「暦」次第なので、
 まぁ、あれですが、
 
 でも、
 
  「皆既中、月は赤黒い赤銅色で光るが、
   その色は毎回同じではない」
   ( 引用元ページ
 
 そうなので、
 今回は、
 「スーパームーン」と「ブラッドムーン」が重なった、
 珍しい「皆既月食」だったようです
 
 (厳密に言うと、
  1月2日の満月の方が大きかったようでは、ありますが ... )。
 
 
 さて、
 で、
 「皆既月食」が起こること、そのものは、
 事前に、知っていたのですが、
 
 なにせ、
 天気予報が、このとおり。



 
 
 もう、完全に、見られないもの、と、
 「期待していない」どころか、
 「皆既月食を忘れ去って」いました。
 
 ところが、
 仕事で、パソコンを開き、作業をし、
 
 作業を終えて、パソコンを閉じようとすると、
 今日が「皆既月食」であることを示す表示が、
 目に入りました。
 
 
  「あぁ、残念だったなぁ」
 と、
 
 「ダメだったこと」を確認するために、
 窓の外を覗くと、
 
 あれ、
 小さく明るい光が、流れていきます。
 
 
  「あれ、飛行機、雲の下を飛んでる?
   それなのに、あんなに小さい??」
 
 そんな思考が湧き、
 改めて、空を見回すと、
 
 えっ!
 
 皆既月食、見えてました〜!
 
 空は、快晴でしたー! ^^

iPhoneでも, こんな感じに撮れました ^^

 
 気づいたときには、
 もう、「皆既」状態で、
 
  「ブラッドムーン」と呼んでいいんだろうなぁ?
 くらい、
 赤オレンジっぽい色に、なっていました。
 
 
 おかげさまで、
 これで、
 2014年10月8日、
 2015年4月4日につづき、
 
 このブログを始めて、
 3回目の、皆既月食を、
 バッチリと、見ることができました ^^
 
 (過去記事「 皆既月食に(2014年10月8日)
  過去記事「 春休み(2015年) 」)。
 
 
 しかも、
 前回、2015年4月4日の皆既月食は、
 沖縄の地で、見ることができました。
 
 そして、
 今年4月に、
 ふたたび、沖縄に伺います。
 
 はじめて、
 沖縄で、イベントをさせていただきます。
 
 少なくとも、
 「人間意識の僕」としては、
 
 前回に関しては、
 沖縄滞在中に、皆既月食が起こるということは、
 滞在計画を立てたときには、知りませんでしたし、
 
 今回、沖縄イベントを企画した段階でも、
 今年、皆既月食があることは、知りませんでした。
 
 「人間意識の僕」としては、
 やはり、何かの流れを、意識してしまいますね、
 
 「ただの偶然」なのですが。
 
 
 さて、
 「皆既状態」が終わると、
 
 徐々に徐々に、
 月の「東側(?)」から、
 徐々に徐々に、
 輝きを取り戻していく様子を、見ることもできました。



 面白かったのは、
 
 たしかに、
 「色」が、違いました。
 
 皆既が終わり、
 月面の一部が、輝くにつれて、
 
 どんどんと、
 「白っぽい」というか、
 「白金っぽい」というか、
 
 そんな色に、変わっていきました。
 
 赤さ、オレンジさが、消えていきました。
 
 
 そして、
 もう一つ、面白かったのが、
 
 皆既が終わるにしたがって、
 「暗く」感じたことです。
 
 
 皆既中は、
 たしかに「輝き」はなく、
 
 月全体が、
 赤オレンジに色づいている、
 
 そんな感じだったのに対して、
 
 皆既が終わるにしたがって、
 月の一部が「輝き」はじめ、
 
 確かに、その部分「は」、
 とても明るくなっていくのですが、
 
 でも、対照的に、
 その、「輝いている部分」以外の月面は、
 
 それゆえに、かえって、
 「暗くなっていく」ように見え、
 
 それゆえに、
 「月全体」としては、
 ある時期までは、
 かえって、どんどん、「暗くなっていく」、
 
 そんな風に、見えました。
 
 
 「二極」というか、
 「パラドックス」というか、
 
 そんなことを、
 感じました。











2018年1月23日火曜日

第1回 沖縄イベント 開催のお知らせ

 
 2018年4月6日(金)、7日(土)、8日(日)、
 沖縄県那覇市で、
 「個人セッション」「『お金』浄化ワークショップ」「津留さん交流会」を行います。


 沖縄で はじめてとなる イベントを、
 4月に、行います!

 神聖な、スピリチュアルな、琉球の地。

 津留さんの商品をお求めくださる方も、
 毎年、一定数以上、いらしてくださいます。

 そんな土地で、
 このたび、念願叶い、
 イベントを行わせていただくことになりました。


 ちょうど、10年前。
 同時期。

 母・山口潤子と、
 プライベートで、沖縄へ旅行に行った際には、

 2組、6名の方々と、面談して、
 津留さんが気づき、遺してくれた、
 メッセージ・浄化について、
 さまざまに、お話し、理解を共有しました。

 そのとき以来、
 沖縄の地で、ふたたび、
 津留さんについて、語り合ったり、
 津留さんの気づきに基づいた学びを、シェアしたり、
 そんなことをすることを、夢見ていました。

 それを、今回、実現できることになりました。


 内容としては、
 「個人セッション」「『お金』浄化ワークショップ」「津留さん交流会」を行います。

 みなさんと語らうこと、
 浄化のお手伝いをすることを、
 とても楽しみにしています。

 沖縄地区のみなさま、
 どうぞよろしくお願いします。


  詳細・お申し込みは、『 第1回 沖縄イベント 』 のページをご覧ください。

2018年1月23日 集合人編集局 裕子・ひで 











第8回大阪イベント 開催のお知らせ

 
 2018年5月11日(金)、12日(土)、13日(日)、
 大阪市で、
 「個人セッション」「『お金』浄化ワークショップ」「津留さん交流会」を行います。


 大阪で、7回目となるイベントを、
 5月に、行います。

 昨年の11月以来の、大阪での開催です。

 昨年は、4月と11月に、大阪に伺い、
 ここのところ、
 「年2回」「半年に1回」のペースで、伺えています。

 このように、頻繁に、大阪に伺えることを、
 とっても嬉しく、感じています。


 また、今回は、
 大阪で2回目の、「『お金』浄化ワークショップ」になります。

 丸一日かけて、
 『お金』に対して持っているブロックを探り、見つめ、
 それらを、浄化していきます。

 加えて、
 『お金』をとおして、
 『自分自身』『仕事』『親』『社会』などに対して持っている意識に、
 気づいていきます。

 その他に、
 「個人セッション」「津留さん交流会」も、
 これまで同様に、行います。

 浄化のお手伝い、
 みなさんとの語らい、
 とても楽しみにしています。

 大阪のみなさま、関西地区のみなさま、
 どうぞよろしくお願いします。


  詳細・お申し込みは、『 第8回 大阪イベント 』 のページをご覧ください。

 2018年1月23日 集合人編集局 裕子・ひで 











2回目の うさと展 開催のお知らせ

  
 この1月に、無事、開催できました、
 私たち主催の、はじめての、うさと展。

 とても楽しく、とても嬉しく、
 これまでとは、すこし違った 感覚を、
 たくさん、味わうことができました。

 また、
 いつも、津留さん交流会に来てくれたり、
 個人セッションにきてくださったり、と、

 津留さんのことで、繋がりのある方々も、
 来てくださいました。

 ありがとうございました。


 そして、
 次回の、私たち主催の うさと展の、
 開催内容が、決まりました。

 ここに、お知らせいたします。


 今回の会場は、
 「船橋市民ギャラリー」です。

 船橋駅から、ほんと、すぐで、
 とても便利な場所にあります。 

 また、今回お借りできた部屋、
 「第2ホール」は、

 約95m2、約57畳と、
 十分な広さで、
 窓もたくさんあります
 (当日は、直射日光が当たらないように、ブラインドを降ろしますが ... )。

 広く明るい部屋で、
 ゆったりと、うさと服に 触れていただけるものと思います。

 ご興味おありの方、
 ご都合のよい方、
 ぜひ、いらしてください。

 たくさんの うさと服たちと、
 お待ちしています。






 うさとの服展 @ 船橋市民ギャラリー(千葉県船橋市)

  期 間: 2018年4月20日(金) 〜 4月21日(土)(2日間)
  時 間: 10:00 〜 18:00
  会場名: 船橋市民ギャラリー 第2ホール
  住 所: 千葉県船橋市本町2-1-1 船橋スクエア21ビル3階
  最寄駅: 船橋駅(JR総武線)南口から、南へ徒歩7分
       京成船橋駅(京成本線)から、南へ徒歩5分
 
  アクセス詳細は、こちら のページをご覧ください。











3月17日 「『お金』浄化ワークショップ」開催のお知らせ


 『お金』に関するブロックを見つけ、浄化する、浄化ワークショップ を、
 2018年3月17日(土)に 開催いたします。
 
 
 今回で、4回目、
 名古屋と大阪での開催を入れると、
 6回目の、『お金』に関する、浄化ワークショップになります。
 
 
 まず、事前にメールで質問をお送りします。
 ご自宅で、ご自分で、
 まず、ご自分の『お金』に関するエネルギーブロックを、探ってみてください。
 
 当日、会場では、
 一般的に お持ちの可能性の高い エネルギーブロックを、
 具体的に、お伝えします。
 傾向も、お伝えします。
 
 それによって、
 まず、具体的に、ご自分が、『お金』に対してお持ちの、
 エネルギーブロックを 特定してください。
 
 また、それら作業を通して、
 その他の対象に対する、エネルギーブロックの見つけかたも、
 学んでいただけます。
 
 そのポイント・方法も、お伝えします。
 
 
 つづいて、そのあと、
 今度は、「浄化」のやり方・方法を、お伝えします。
 
 やり方・方法・テクニックについては、
 代表的なものを、お伝えします。
 
 そして、実際に、浄化をしていただきます。
 
 また、
 その、「浄化」の背景として、前提として、
 どのような考え方のもと、浄化をしていただけると良いかも、
 お伝えします。
 
 津留さんのメッセージ内容を、
 よりご理解いただくきっかけになるかもしれません。
 
 
 丸一日、
 休憩をはさんで、約6時間ほどの、ワークショップとなっています。
 
 内容的には、
 かなり、盛りだくさんだと思います。
 
 ご興味がおありの方は、
 どうぞ、ご参加ください。
 
 (これまでにご参加くださった方々からのご感想は、
  こちら に掲載させていただいています)
 
 お会いできることを、
 ご一緒に、『お金』に関する浄化をできることを、
 楽しみにしています。
 
 
  詳細・お申し込みは、『 3月17日 『お金』浄化ワークショップ 』 のページをご覧ください。

2018年1月23日 集合人編集局 裕子・ひで 












3月3日 『再誕生ワークショップ』開催のお知らせ


 2回目となる『再誕生ワークショップ』を、
 3月3日 に、開催します。
 
 会場は、前回と同じ場所。
 
 
 内容も、前回を受けて、
 いくつか、変更などもあるようですが、
 基本的には同じものと、
 裕子さんから、聞いています。

 
 具体的には、
 
 身体を動かしたり、身体に積極的にアプローチしたり、
 誘導瞑想を行ったり、
 そんなことをしながら、
 
 これまでの人生、これまでのご自分を、
 認め、受け入れ、
 
 そして、過去から握り続けているものを、手放し、
 新たな自分へと、自分の意思で、生まれ変わって行く ...
 
 そんなことをする、ワークショップです。
 
 
 普段の、個人セッションや、浄化ワークショップで行っている、
 「『津留さん的』な浄化」とは、一味違った、
 手放し・開放の、アプローチ・方法の、数々 ...
 
 前回、ご参加くださった方からは、
 とても好評でした。
 
 (前回の様子、いただいたご感想は、
  こちら に掲載させていただいています)
 
 ご興味がおありの方は、
 どうぞ、ご参加ください。
 
 
   詳細・お申し込みは、『3月3日 再誕生ワークショップ』 のページをご覧ください。

2018年1月23日 集合人編集局 裕子・ひで













2018年1月18日木曜日

はじめての「うさと展」、終わりました〜 ^^


僕たちにとっての、はじめての「うさと展」、
無事に、終えることができました。

来てくださった、お客さま各位、
ありがとうございました。


また、今回は、
「共催コーディネーター」として、
すなべともこさん が、
全面的にサポートをしてくださいました。
こころから、感謝お礼申し上げます。

最初2回のうさと展は、「原則2日間開催」のところ、
すなべさんのご了解をいただいて、
今回、3日間開催することができました。

そのおかげで、
初日、金曜日、平日にも、たくさんのお客さまにお越しいただけ、

そして、最終日、日曜日、
うさぶろうさんに来ていただいた上で、
また、たくさんのお客さまにお越しいただくことができました。

すなべさん、
ご理解とご協力、本当にありがとうございました。
そして、おつかれさまでした。
 
 
また、うさとジャパンスタッフ のみなさまにも、
お礼申し上げます。

日ごろから、いろいろと、サポートをしてくださるおかげで、
ほとんど、分からないこと無く、あまり不安なく、
開催の準備をすることができました。

また、今回のうさと展には、
とっても素敵な服を、たくさん、送っていただきました、

もちろん、うさとの服は、素敵なものばかりなので、当然なのですが … ^^;

でも、そのおかげで、
お客さまが、「お気に入りの一着」に出会われる瞬間に立ち会うことが、
その場所・機会をご提供することが、できました。

夢が叶いました。

本当にありがとうございました。
また、今後ともよろしくお願いします。


そして、
もう、先に触れましたが、

最終日に、なんと、
うさぶろうさんが、来てくださいました〜!





超ご多忙な中、お時間を割いてお越しくださり、
そして、たくさんのお客さまに、コーディネートしたり、商品選びを手伝われたり、
また、子どもをあやしたり、大人を笑わせたり ^^ 、
細やかな心配りを、随所に、してくださいました。

ありがとうございました。

お客さま、みなさま、
楽しそうに、嬉しそうに、喜んでくださいました。

そして、せっかくいらしてくださったにもかかわらず、
お客さまが途切れてしまう時間帯があり、
申し訳なく思っていると、

近所のケーキ屋さんに向かわれて、
みんなに、ケーキのごちそうまで、してくださいました
(ごちそうさまでした)。

本当に、すべての方に、心遣いをしてくださる、
心細やかな、大きな方なのだと、
改めて、実感いたしました。

ありがとうございました。


そして、このブログでは、
触れないわけにはいかないことが、
一つ。

うさぶろうさん、
津留さんのことを、ご存知でした!

僕は、又聞きなのですが、
うさぶろうさん、
 「あぁ、津留ちゃん、
  会ったことあるよ」
と、
おっしゃっていたそうです。

調べてみると、
うさぶろうさんが、1948年生まれ、
津留さんが、1946年生まれ。

近いですね。
会っていて、おかしくないですね。

そして、共通点があり、
それは、「22日」生まれ、ということ。

うさぶろうさんは、10月22日。
津留さんは、2月22日。

うさぶろうさんは、
「22日会」という、
22日生まれの人の会をしているそうで
(うちの末娘にも、入会を誘ってくださいました ^^ )、

「22日」生まれであることに、
ある種、意識を置いていらっしゃることからすると、

僕が考えていた以上に、
もしかしたら、ご縁があるのかも。

まぁ、
 「だから何?」
の話ですけどね ^^ 。

そんなことも、知ることができました。


さて、今回は「はじめて」ということで、
すべてにおいて、不馴れで、行き届かないことばかりでしたが、

お越しくださったみなさま、ご協力くださったみなさまが、
みなさん、受け止めてくださって、
どうにか、こなすことができました。

ただ、僕としては、
すべてが新鮮で、すべてが楽しく、

とにかく、楽しく嬉しい時間を過ごせました。

でも、
それゆえに、興奮していたのでしょう、

終わってみたら、とっても疲れている自分を発見しました ^^; 。


次回の開催も、
とっても楽しみです。

決まり次第、ご案内いたします。
どうぞよろしくお願いします。


改めまして、
みなさん、ありがとうございました。


 ひで











2018年1月11日木曜日

いよいよ明日から、はじめての「うさと展」


いよいよ明日から、
僕たちの、はじめての「うさと展」です!

今日は、すなべともこさんに、お手伝いいただき、
また、名古屋から、「うさと仲間」のせつこさんにお越しいただき、
設営・準備をしました。





はじめてのことで、分からないこと、戸惑うことばかり。
僕としては、とても貴重な「新たな体験」をさせてもらい、
とっても楽しい一日でした。

でも、まだ、「準備万端」とはいかず、
細かいことを、いろいろと整えることが、残っています。

今晩は、楽しみながら、じっくりと、
うさと服に触れていきたいと思います。
あぁ〜幸せ ^^
念願が、一つ、叶いました。


そういえば、
 「(お客という形とは)違う形で、うさとに関わりたい」
という想いは、
ずっと、持っていました。

僕の場合は、
まだまだ、いっぱいの『想い』を、持っていますねぇ〜


それでは、明日から3日間、
「うさとの服展@本八幡スペースあむりた」を開催します。

うさと服にご興味おありの方は、
ぜひ、いらしてください。

 ひで



  アクセス詳細などは、こちら のページ(外部サイト)をご覧ください。










2018年1月1日月曜日

はじめに言葉ありき ( 宇宙を分つもの )


    初めに言葉があった。
   
    すべてのものは、これ(注:言葉)によってできた。
    できたもののうち、一つとしてこれ(注:言葉)によらないものはなかった。
   
     ( 新約聖書:「ヨハネによる福音書」1章1節および3節)
       [ 参照: こちら ]
    
    
    初めに、神は天地を創造された。
   
    神は言われた。「光あれ。」
    こうして、光があった。
   
     ( 旧約聖書:「創世記」1章1節および3節)
       [ 参照: こちら ] 
 
 
 
 「すべてのもの」は、
 「言葉」によって、出来(でき)・創られました。
 
 言葉によらず、出来たもの・創られたものは、ありません。
 
 また、
 「光」は、
 「光」という「言葉」によって、創られました。
 
 
 ところで、
 「すべてのもの」は、
 『どこから』、生まれたのでしょうか?
 
 
 『無』からです。
 
 
 では、
 その、『無』とは、
 
 何なのでしょうか?
 どういう意味なのでしょうか?
 
 
 一つには、
 あえて言葉で表せば " nothing " 、
 
 文字通り、
  「何も無い」状態
 と、認識できると思います。
 
 僕も、
 かつては、そう理解していましたし、
 
 一般的には、
 そう、理解されているのではないか、と、思います。
 
  「はじめ」「原始」「原初」は、
  「何も無」く、
  そこに、「すべてのもの」が、創造された
 
 という、認識です。
 
 
 ところが、もう一つ、
 別の、違う認識も、できると思います。
 
 それは、
 『無』とは、
 『空』と呼ばれるもの(「色即是空」の『空』ですね)。
 
 津留さんは、これを、
 『神さま』と、呼び、
 
 また、別の表現としては、
 「ホワイトノイズ」と呼びました
 (過去記事「 『ホワイトノイズ』という『神』 」)。
 
 僕は、このブログでは、過去に、
 「無色透明」という事例で、表しました
 (過去記事「 最驚のパラドックス 」)。
 
 
 それは、
 先の、「何も無い」 " nothing " としての『無』とは、
 反対で、
 
 それは、
 『すべて』です。
 
 『すべて』であり、
 かつ、「『未分化』のもの」、です。
 
 そこから、
 「すべてのもの」が、生まれました。
 
 『すべて』から、
 「すべてのもの」が、生まれました。
 
 
 はじめに、神が、居ました。
  
 その『神』が、創造されたのです。
  
 『神』が、『言われた』のです。
 
 であれば、
 「はじめに、神が、居ました」。
 
 そう、捉えるのが、
 むしろ、自然なのではないか、
 と、思いますが、
 
 それは、
 僕の個人的な認識ですので、
 その、「どちらのほうが」は、置いておきましょう。
 
 
 さて、
 はじめに、神が、居ました。
 
 はじめに、
 『神』という『すべて』が、ありました。
 
 「すべてであり、一つであり、未分化」の、『すべて』が、ありました。
 
 そこから、「すべてのもの」が、生まれました、
 神の『言葉』によって ...
 
 
 「ホワイトノイズ」は、
 「チューニング(周波数の特定)」によって、
 特定の音が、聞こえるようになります。
 
 「無色透明」は、
 「プリズム」によって、
 七色の色が、見えるようになります。
 
 それと同じように、
 
 『すべて』から、
 「言葉」によって、
 「すべてのもの」が、できました。
 
 「光あれ。」の言葉によって、
 「光」が、できました。
 
 
 「言葉」とは、
 何でしょうか?
 
 岩波書店『広辞苑』によれば、
 「言葉」とは、
   「人の音声の意味を持っているもの」
 のこと、
 
 つまり、
 「言葉」とは、
 
 『意味』であり、
 『概念』であり、
 『定義』です。
 
 「光あれ。」の言葉によって、
 「光」が、意味付けられ、定義され、
 
 『すべて』のうち、
 「光」に該当するものが、「光」とされました。
 
 これが、
 「こうして、光があった。」の、意味するところです。
 
 こうして、
 「光」が、『できました』。
 「光」が、『生まれました』。
 
 
 と同時に、
 「光あれ。」の言葉によって、
 
 「『光』ならざるもの」が、意味付けられ、定義され、
 
 こうして、
 「『光』ならざるもの」が、『できました』。
 『闇』が、『生まれました』。
 
 
 「光」という『言葉』により、
 「光」と「光ならざるもの(闇)」とが、生まれました。
 
 
 『言葉』により、
 『意味』により、
 『概念』により、
 『定義』により、
 
 「それに該当するもの」が、できました。
 
 
 『すべて』が、
 
 「それに該当するもの」と、
 「それに該当しないもの」とに、
 
 分けられました。
 区切られました。
 隔てられました。
 
 
 それが、
 『できた』『生まれた』
 ということです。
 
 
 『言葉』『名前』
 『意味』『定義』
 『概念』『考え』『価値観』 ...
 
 それらにより、
 『すべて』が、
 
 「それに該当するもの」と、
 「それに該当しないもの」とに、
 分けられました。
 
 
 「善」という言葉によって、
 すべては、
 「善」と「悪」に、分けられ、
 
 そして、はじめて、
 「善」と「悪」が生み出されました。
  
 「正しさ」「正義」という概念によって、
 すべては、
 「正しい」ものと「誤った」ものに分けられ、
 
 そこで、はじめて、
 「正しい」ものと「誤った」ものとが、誕生しました。
 
 「良い」という言葉によって、
 すべては、
 「良い」ものと「悪い」ものに分けられ、
  
 「成功」という言葉によって、
 すべては、
 「成功」と「失敗」に分けられ、
 
 「地球」という言葉によって、
 宇宙は、
 「地球」と、それ以外の宇宙とに分けられ、
 
 「陸」という言葉が生まれ、
 それによって、「地球」は、
 「陸」と「海」とに分けられ、
 
 「人間」という言葉によって、
 「生き物」は、
 「人間」と「動物・植物など」に分けられ、
 
 さらに、
 「人間」は、
 
 「性別」という言葉によって、
 「女」と「男」に分けられ、
 
 「年齢」という言葉によって、
 「子ども」「大人」「高齢者」に分けられ、
 
 「国籍」「人種」という言葉によって、
 「日本人」「黄色人種」などに、分けられました ...
 
 
 このような見方、
 このような認識の仕方、
 このような捉え方、
 
 それが、
 津留さんのいう、
  「私たちは、はじめ、『神さま』だった」
 という、
 見方であり、
 
 そして、それが、
 その見方に沿った、
 『宇宙の誕生』です。
 
 
 この見方によれば、
 『私たち』は、
 
 そもそもは、
 『言葉』の前に存在していたものです。
 
 「はじめに言葉ありき」
 の、
 
 " はじめ " の前に、存在していた『もの』です。
 
 " はじめ " を、『はじめたもの』です。
 
 まず、それが、
  「私たちは、はじめ、『神さま』だった」
 ということの、意味です。
 
 
 そして、
 その、「 " はじめ " を『はじめたもの』」は、
 
 「『すべて』であると、体験できないこと」を、体験するために、
 『すべて』であることを、辞めました。
 
 『言葉』によって、
 自らを、分化すること、分割すること、分裂させることにより、
 
 『すべて』では、なくなりました。
 
 『部分』に、なりました。
 
 それが、
 『言葉』の、
 『意味』の、
 『概念』の、
 『定義』の、
 
 『名前』の、
 『知識』の、
 『情報』の、
 『価値観』の、
 『道徳感』の、
 
 意味であり、役割です。
 
 
 さあ、
 ここで。
 
 もし、
 
 分割を、
 分裂を、
 孤独を、
 対立を、
 止め、
 
 融合を、
 結合を、
 連帯を、
 友好を、
 はじめ、増やすには、
 
 どうしたら、いいのでしょうか?
 
 
 まず、
 「融合」「結合」は、
 
 『成れの果て』では、なく、
 『努力の結果』では、なく、
 
 『そもそもの、元の姿』である、
 ということ。
 
 「分裂」こそが、
 「孤独」こそが、
 「対立」こそが、
 
 『元』では、なく、
 『はじまり』では、なく、
 『そもそも』では、なく、
 
 それらこそが、
 『果て』であり、
 『努力の結果』である、
 ということ。
 
 それを、知ること。
 それを、思い出すこと。
 
 あるいは、
 それを、選択すること、です
 (過去記事「 選択 」)。
 
 
 そして、
 そのうえで、
 
 一つ、一つ、
 『言葉』を、
 『意味』を、
 『概念』を、
 『定義』を、
 無くしていくことです。
 
 『名前』を、『知識』を、『情報』を、
 『価値観』を、『道徳感』を、
 消していくことです。
 
 ただし、
 それは、何も、
 完全に消し去ること、消去すること、を、
 する必要は、なく、
 
 それに、
 囚われないこと、
 
 ただ、
 それだけ、です。
 
 そこから、
 切り離せるようになること、なっていること、
 
 ただ、
 それだけ、です。
 
 
 そのとき、
 「『自分』でないもの」が、無くなります。
 
  自分でないもの
  分からないもの
  ありえないもの
 が、無くなります。
 
 そのとき、
 『自分』が、
 
 元の、そもそもの、『すべて』に、
 戻り、還ります。