2014年5月20日火曜日

ハートの光源


わたしたちは、ハートの中心に、光源を持っています。
心の中に、太陽のような、明るい光の源が、存在しています。


その『光』は、
明るく、温かく、柔らかく、優しく、そして穏やかな感覚のものです。

 『愛』『光』『(神の)エネルギー』
そんな表現でもいいかもしれません。

そんな光が、
ハートの中心から、燦々(さんさん)と照り出しています。
あふれ出ています。


ところが、
多くの人が、
その『光』を、
その『光源』の存在を、
感じられません。

僕自身、そうでした。


過去記事「内なる神の、外なる投影」とも重なりますが、
ハートの奥深くには、意識の中心には、
 『真我』『大我』『集合意識』『ハイヤーセルフ』『神』
ともいうべき、大いなる、真なる意識が存在しているのですが、

それを「感じよう」としても、
なかなか感じられない人が多いのではないかと思います。

そして、
体感しようとしても、体感できないがゆえに、
そのようなものが、自分の中に存在していることを、
なかなか信じることができないのではないかと思います。

僕自身がそうでしたので、よく分かります。


 「僕自身がそうで『した』」
と、過去形で書きましたが、

そう、
今は、その存在を確信できています。

一度、しっかりと、体感したからです。

今はまだ、感じようとしても、
 「少し感じられたり、あるいは、まったく感じられなかったり」
といった程度なのですが、
でも、しっかりと、確信しています。


それは、浄化に取り組んで、しばらくしてからのことでした。
少し、浄化が進んでからのことです。

いつものように、
浄化をした後、ハートの位置に意識をやり、
浄化がしっかりと行えたかどうか、エネルギーが残っていないかを、
確認していたときのことです。

ハートが、
いままでには感じたことがないような、
温かで、
穏やかで、
柔らかで、
そして、とても落ち着いていて、
ひっそりとしていながらも、確かな、幸福感に満ちていました。

その感覚を、はじめて、感じました。

そのとき、
はじめて、
ハートの温かさを感じられました。
真の平安とも呼べるような感覚を味わえました。
内なる神の存在を感じられました。

 内側に、すべてが存在していること
 内側で、すべてとつながっていること
そんなことを、確信できました。


私たちの『こころ』は、『気持ち』は、
この『光』によって、満たされたり、満たされなかったりします。
この『光』の量によって、左右されます。

だれでも、自らのハートの中に、
その『光』を放つ源があるのですから、
本来は、
その自らの内側からの『光』によって、十分に満たされることができます。

そもそも、
『生きている』ということは、
その『光』が届いて『生かされている』のですから、
だれでも、その『光』は、内側で放たれ、届いているはずです。

ところが、
その自らの内側から放たれる『光』を、十分に感じられないと、
その量を、十分と感じられないと、

その『光』の不足を感じて、
『こころ』が、『気持ち』が、
乱れ、不安定になり、
そして、欠乏感を感じます。

そして、
それを、解決するために、解消するために、
その『光』を、
自らの『外側』に求めます。

『外側』にいる『人』『他人』に、それを求めます。
『外側』にいる『人』『他人』から、それを得ようとします。


『得る』手段・方法は、
人それぞれ、さまざまです。

そして、
自分で一番多く得られる実感がある方法で、
得ようとします。
あるいは、
自分の内側に足らないと感じるものを満たすように、
得ようとします。

それは、
他人からの『承認』であったり、『理解』であったり、
『賞賛』であったり、『崇(あが)め』であったり、
『服従』であったり、『従属』であったり、
あるいは『同情』であったり、『憐憫(れんびん)』であったり ...

 分かって『くれ』
 認めて『くれ』
 理解して『くれ』
 誉めて『くれ』
 すごいと思って『くれ』
 かわいそうと思って『くれ』

いろいろなものを、
『くれ』『くれ』と求めます。


手段や方法、
求めるものの『質』、エネルギーの『質』『種類』『周波数』は、
それぞれ違いますが、

しかし、
求める理由、求める動機は、
みな、同じです。

 「自分に、『光』が足りない」
と感じているからです。

そして、
『光』が足りないと感じる理由は、
みな、同じです。

 「自分の内側から放たれている『光』を、十分に感じられない」
からです。

そしてさらに、
自分の中から放たれている『光』を、十分に感じられない理由も、
また、みな、同じです。

それは、
 「ハートの中の『光源』が、隠されている」
からです。
 「『光源』を、『膜』が覆(おお)ってしまっている」
からです。

何層にもわたる『膜』が、『光源』を覆い隠してしまっていて、
それゆえ、『光』が届かないのです。
『光』が見えないのです。
『光』を感じられないのです。


では、その『膜』とは、いったい、何なのでしょうか?

それこそ、
 『エネルギーブロック』
と呼ばれるものです。

 『エネルギーブロック』『ミニ自我』
と呼んでいるものです。

それらが、
心の中に、ハートの中に、(潜在)意識の中に、溜まっていて、
いく層にも重なって、溜まっていて、
そして、
ハートの『光源』を覆い隠しているのです。


だから、『浄化』によってそれらの『エネルギー』を取り去ると、
その『光』を感じられるようになるのです。

僕が、
 「浄化を進めて、はじめて、ハートの温かさを感じられた」
というのは、まさに、そういうことなのです。


『浄化』を進めると、
『光』を遮(さえぎ)っていたものが減っていき、
自らの内側で感じられる『光』の量が増えます。

そうすると、
それを外側に求めて行く必要がなくなります。

『光』を得るために、
外側を操作しようとしなくなります。
外側を支配しようとしなくなります。
外側をコントロールしようとしなくなります。

外側と距離を置いておくことができるようになります。
外側のことに、一喜一憂しなくなります。
外側に影響されなくなってきます。

エネルギー的に『自己充足』しているからです。

自分の浄化の体験を通して、
そんなことを理解できました。


それから、
 「『光』が足りていないと、外に得に行く」
という話をしましたが、

「足りない」とまではいかなくとも、
「十分に満ち足りている」という実感がないと、
あるいは、「溢(あふ)れ出る」ほどでないと、

その場合には、
外側の人に、他人に、
 共感して『あげる』ことが、
 同情して『あげる』ことが、
 理解して『あげる』ことが、
できません。

 譲って『あげる』ことが、
 認めて『あげる』ことが、
 許して『あげる』ことが、
できません。

 話を聞いて『あげる』ことが、
 黙って聞いて『あげる』ことが、
 言いたいことを言わせて『あげる』ことが、

 相手が傷つかないような言い方をして『あげる』ことが、
 配慮して『あげる』ことが、
 やさしくして『あげる』ことが、
できません。

 相手に合わせて『あげる』ことが、
 相手のしたいようにさせて『あげる』ことが、
 
 そのままの相手を認めて『あげる』ことが、
 あるがままの相手を受け入れて『あげる』ことが、
できません。

それは、
自分には、自分の内側には、
 「『あげる』ほどの『光』が、その余裕が、無い」
と感じているからです。


そして、その場合も、
浄化によって、自らの内側の『光』を増やして行けば、
そのような優しさを『あげる』ことができます。
『温かみ』を分けて差し上げることができるようになります。

自然と。
「しよう」と、意識しなくても。





2014年5月16日金曜日

問題とは

『問題』とは、なんでしょうか?

私たちは、問題があるから、ストレスを感じるわけですが、
では、その『問題』とは、いったい、何でしょうか?


ちなみに、厳密にいえば、
私たちに「ストレスを感じさせるもの・こと」のことを、『問題』と呼ぶわけですから、
 「問題があるから、ストレスを感じる」
というのは、
話としては、本来、逆であり、
また、文章の意味としては、当然のことを言っています。

また、ですので、先ほどの問いは、
 「私たちにストレスを引き起こすものは、『何』か?」
と、言い換えることもできます。

ですが、とりあえず、ここでは、
 「『問題』とは何か?」
という表現で、話を進めたいと思います。


さて、改めて。
『問題』とは、なんでしょうか?

それは、
私たちが、自分自身で、「これは問題だ!」と決めたもの、決めたこと、のことです。
私たちが、「これは問題だ」と認識したこと、認識していることのことです。
私たちが、「これは問題だ」と思っていることのことです。

それを決めているのは、私たち、それぞれ、一人一人であり、
それを決めたのは、私たち一人一人の意思であり、判断であり、
あるいは、そう決め続けているのは、私たち一人一人の意思です。


外なる世界に、絶対的な『問題』が存在しているわけではありません。

内なる世界において、
自分自身が、
それを「問題だ」と決定・判定・認識したもの。
それが、『問題』です。

それが、「問題に『成る』」のです。
いえ、それを、「問題と『している』」のです。

 「問題としている」
という表現を、
 「『それで、問題なし。』としていない」
と、読み替えてみると、よく分かると思います。

あるいは、
 「『それは、どちらでもいい』としていない」
 「『そんなこと、どうでもいい』としていない」
 「『そんなこと、気にならない』と言えない」
と読み替えてみると、よく分かると思います
(『どちらでもいい』『気にならない』については、
  過去記事「どっちでもいい」「気にならない」をご参照ください)。


改めて言います。
自分が、自分で、それを問題としているのです。

このことは、今、ここで、この文章を目にしておられるみなさんは、
もう十分に、ご理解なさっておられることと思いますが、
改めて、ここで、もう一度、
頭で、思考で、左脳で、
しっかりと考えてみてください。

このことは、十分に考えて、考えすぎることのないトピックだと思います。
どうか、たっぷりと、考えてみてください。
そして、しっかりと、頭で理解なさってください。


外なる世界に、問題が存在しているのではなく、
内なる世界に、それを「問題だ」としている『認識』が存在しているのです。

表現を変えます。

外なる世界に、問題が存在しているのではなく、

内なる世界に、
「外なる世界における、ある特定の事象や状況」を、「問題だ」と認識させる
 『考え方』『記憶』『価値観』『願望』『恐れ』『ミニ自我』『ブロック』
などと呼ばれる「エネルギー」が存在しているのです。

「外なる世界における、ある特定の事象や状況」を見たり、体験したり、想像したときに、
その、内なる世界に存在している「エネルギー」が、
刺激を受けて、エネルギー作用を起こし、
そして、その作用を、人が、ストレスに感じ、不快に感じ、
それゆえに、それを、『問題』として認識するのです。

そのような類(たぐ)いの「エネルギー」を、
各人、それぞれが、それぞれに、
意識してか、無意識のうちにかは、別として、
自ら、
内側に取り込み、
そして、それを、
自ら、
溜め込んでいるのです、
そして、持ち続けているのです、
意識してか、無意識にかは、別として。

どうぞ、この点を、改めて、
しっかりと、考えてみてください。
改めて、しっかりと、認識なさってください。

このことが、本当にしっかりと理解できると、
意識が、「外なる世界の『創造』」に、向かわなくなるようになるのではないか思います。
意識が、「内なる世界の『浄化』」に、向かうようになってくると思います。

このことについては、また、改めて書こうと思いますが、
今回、お伝えしたかったのは、そのようなことです。


さて、続きですが、
ですから、
人それぞれに、『問題』は違います。異なります。

それは、
人それぞれに、問題だと決めたことが違うからです。
人それぞれに、内側に溜まっている「エネルギー」が違うからです。


そして、
『問題』は、根本解決ができます。

それは、
問題だと認識することを、止めさえすればいいからです。
問題だと認識させる「エネルギー」を、取り去れば、手放せば、解放すればいいからです。

そして、それが、『浄化』です。


ここで、『根本解決』とは、
けっして、
 外なる世界における現象として、それが、消滅するなり、変化するなりして、
 問題が解決する
ということではありません。

 そのことを、『問題』であると認識しなくなる、感じなくなる
 そのことで、ストレスを感じなくなる、ストレスを受けなくなる
ということです。

また、『根本解決』とは、
 もう再び、そのことで、ストレスを感じることはなくなる
ということです。

外なる世界における現象を変化させたところで、消滅させたところで、
もし、それが再び現れれば、
そのことによって、また再び、ストレスを感じることは目に見えています。

津留さんの表現を用いれば、
ストレスを感じるたびに、外の世界を変え続けるという
 『永久循環運動』
に、入り込んでしまいます。
それでは、根本的な解決とは言えないでしょう。

 そんな現象が現れようが、現れまいが、
 そんなことには関係なく、
 自分は、もう、ストレスを感じない。
これが、根本解決でしょう。

津留さんの表現を使えば、
 「外の世界に影響を受けない」
ということ。
それこそが、根本解決でしょう。

そして、
それを可能にするのが、『浄化』であり、
そして、
『浄化』を進めて行く結果、たどり着くのが、
 「外の世界に影響を受けない状態」
です。

もちろん、
それは、「言うは易し」で、
そこへの道のりは、果てしなく遠く感じますが ... ^^




2014年5月15日木曜日

思考のつぶやき

 「夢を英語で見るようになったら、一人前」

英語を修得しようとしている人たちが、よく耳にする言葉です。
それは、
 「そこまで行ったら、もう十分に英語を体得している」
という、ひとつの目安であり、
英語修得者にとって、ひとつの目標地点です。

そして、
そこにたどり着くための工夫として、これまた、よく言われること。

それは、
 「頭の中での考えごとを、英語でしなさい」
ということです。


もう15年も前になりますが、
ニュージーランドで、英語を学んでいたとき、

当時、僕は、結構まじめに取り組んでいましたので ^^ 、
頭の中でも、
日本語を使わず、英語を使うように、
とても気をつけていました。

さて、
始めて1週間もしたときのことだったと思うのですが、

それまで、頭の中を観察するという習慣がまったくなかったため、
「英語」どうこう、「日本語」どうこう、という前に、
頭の中で、四六時中、自分がおしゃべりをしているということ、そのことに、
僕は、初めて、気がつき、そして、びっくりしてしまいました。

ずっとずっと、しゃべり続けていることに、
つぶやき続けていることに、
本当に、びっくりしてしまいました。


今、思い返してみれば、
このときが、
自分の思考のつぶやきに、はじめて気がついたときであり、

同時に、
そのつぶやきを『観察』するということを、
そして、
観察する『位置』というものが、普段の『自分』とは違うところにある、ということを、
わずかばかりですが、認識できたときです。


さて、話は戻りますが、
いったん気がついてみると、
自分のおしゃべりが、つぶやきが、
あまりにすごいことに、僕は驚きました。

その驚きたるや、僕にとっては、本当にすごかったのです。
なにせ、
 「自分は、異常なのではないか?」
 「あまりに、多過ぎなのではないか?」
と心配した僕は、
当時、語学学校で、まだ出会ったばかりだった、ある日本人友人に、
そのことを、相談したくらいだったのですから ^^;

それくらいに、衝撃でした。


どれほどの衝撃を受けるかは、さておき、
この「思考のつぶやき」に気がつくことが、
『内面世界』に入って行く、その第一歩だった、という人は、
結構多いのではないかと思います。

 「自分の中に、つぶやき続けている存在が居る」
その認識が、すべての始まりだった、という人は、
結構多いのではないかと思います。

僕の場合は、そうでした。

過去記事「『こんな自分』と生きていくなんて、まっぴらゴメンだ!
でご紹介した、エックハルト・トールさんの場合も、そうでしたね。

そして、僕の場合、
その認識が、ニュージーランドにおいてもたらされた、という事実は、
振り返って気がついてみれば、僕にとっては、とても興味深い事実であり、
また、それが、英語を学ぶことによってもたらされた、という点も、同様で、

そしてそれは、いま考えてみれば、
 「自ら仕組んだ」
としか考えられない事実です。

事の詳細は、理由の詳細は、
自分で話を出しておきながら、すみません、省きますが、
そういうことを、そういう類(たぐ)いのことを、
強く感じます。


さて。
完全に蛇足(だそく)ですが、先の話には、続きがあります。

僕が受けた衝撃は、それはそれで、十分に大きなものだったのですが、
相談した友人からの返答による衝撃は、さらに大きなものでした。

僕は、
 「四六時中、頭の中でおしゃべりをしているのって、異常?」
 「普通は、どうなの? どんなものなの?」
ということが知りたくて、彼に相談したわけですが、

彼から返ってきた言葉は、なんと、
 「そのことは、よく分かんないけど、
  そんなことより、僕は、未来が見えちゃうんだよ ... 」
というものだったのです! (*〇o〇*)

おじいさんの事故とか、親戚の不幸とかが、何度か、見えたことがあって、
親に話したら、信じてもらえず、気味悪がられた、とか、
確か、その程度のことだったと、記憶しているのですが、

それにしても、
当時は、まだ3次元世界にしがみついていて、
スピリチュアルの「ス」の字も知らなかった僕だったのに、
僕の質問そっちのけで、そんな答えが返ってきたということが、
なんか、将来の僕の環境を、今現在の僕の状況を、
その頃にして、すでに、なにか暗示していたかのような逸話で、
いま思い出してみても、
面白いというか、とても興味深い、貴重な体験だったと言えます ^^




2014年5月14日水曜日

気にならない

個人セッションにいらしてくださった方が、
過去記事「どっちでもいい」をお読みくださり、
そして、参考になったと、おっしゃってくださいました。

このブログをお読みくださり、ありがとうございます。
ご活用いただけて、とても嬉しいです。


さて、この『どっちでもいい』ということについて、
津留さんの言う『ニュートラル』について、
あの記事を書いた後に、ちょっと、想ったことがありますので、
付記したいと思います。


『ニュートラル』というのは、
 『どっちでもいい』
と思える状態です。

それを、
 「別の言葉で表すことができるなぁ」
 「これもまた、ピンと来る表現だなぁ」
と思いました。

それは、
 『気にならない』
という言葉・表現です。


『ニュートラル』であれば、
選択に際して『どっちでもいい』わけです。
結果は『どっちでもいい』わけです。

ですから、そのこと、その状況は、
 『どうでもいい』わけです。

そして、そのことは、
 『気にならない』し、
あるいは、
 『気にも留まらない』状態です。

それが、
あなたにとって『ニュートラル』なことです。

あなたが『気にならない』こと、
あるいは、
あなたにとって『気にも留まらない』ことが、
あなたにとって『ニュートラル』なことです。

そして、
すべてのことが『気にならない』人は、
何も『気になる』ことが無い人は、
 解脱した人
ですね ^^ 。

このような表現の方が
「分かりやすい」「ピンと来る」
という方もいらっしゃるかと思いましたので、
付記いたしました。


ところで。
逆にいうと、
もし、何かものさしを、価値観を、持っているときには、
そのことが『気になります』。

そして、そのことに関して、
ものさしを当ててみて、
価値観に照らし合わせてみて、
ポジティブであれば
 『気に入る』
し、
ネガティブであれば
 『気に入らない』
と感じます。

ということは、さらに言えば、
何かを『気に入ったり』『気に入らなかったり』するということは、
そこには、それを、あなたに、
『気に入ったり』『気に入らなかったり』感じさせる、判断させる、
ものさし・価値観がある、ということです。

何かが『気になる』ということは、
そこには、「自分を『気にならせる』」
 『何か』
があるということです。

『気に留めさせる』「ひっかからせる」「意識をとまらせる」
 『何か』
を握っているということです。


さて、ここで、
それが、自分が「いやだ」「嫌いだ」と思うことであれば、
『気に入らない』ことであれば、
そのことに関してストレスを感じますから、

そこに浄化対象である『価値観』があって、
そして、それを『浄化』しよう、と、
思えます。気づけます。

ところが、
自分が「好き」だと思うことであったり、
あるいは、自分が「良い」と思っていることである場合には、
『気に入っている』ことである場合には、
そのことに関してストレスを感じませんので、

そこに価値観が隠れていることには、
気がつきにくいものです。

ましてや、
そこから『浄化』には、発想が行きにくいものです。

でも、
2極の世界では、
プラスのあるところには、必ず、マイナスがあります。
プラスの裏には、必ず、マイナスがあります。

何かを『気に入っている』、「好き」「良い」と思っていれば、
必ず、
そうでない状態に、そうでない自分に、そうでない他人に、
ストレスを感じます。

そうでない自分を、そうでない他人を、
とがめます。

あるいは、
「そうならないかもしれない」ことに、状態に、
ストレスを感じます。

「そうならないかもしれない」ことを、
恐れます。

そして、そのことが、
隠れた、認識できていない「恐怖」として、
平素、あなたに、ストレスを与えている、与え続けている ...
そんなケースは、とても多いことと思います。

そのことが、
実は、最大のストレス要因だったりもします。


自分が好きなこと、良いと思っていること、『気に入っている』ことには、
浄化対象が、ひっそりと潜(ひそ)んでいます。
狡猾(こうかつ)に隠れています ^^ 。

浄化を進めて行かれる際には、
どうぞ、ご参考になさってください。




2014年5月12日月曜日

彼がしているのか、宇宙がしているのか

過去記事「全体性の回復」の最後の部分に書いたことですが、
改めて書いてみたいと思います。


ここに、怒りっぽい性格で、いつも機嫌が悪い彼氏がいるとします。
そして、今、いつものように、怒っているとします。
そしてあなたは、そのことにストレスを感じているとします。

もちろん、それは、
ご主人でも、奥さんでも、お父さんでも、お母さんでも、
あなたがイメージしやすい人で、結構です。


さて、ここで質問です。

今、怒っているのは
 『誰』
なんでしょうか?


質問を少し変えます。

今、怒っているのは
 彼でしょうか?

あるいは、
 宇宙でしょうか?
 
 
もう一度、質問を変えます。

今、あなたにストレスを感じさせているのは、
 彼でしょうか?
 宇宙でしょうか?

今、あなたにストレスを感じさせるような行動をとっているのは、
 彼でしょうか?
 宇宙でしょうか?

あなたにストレスを感じさせる行為は、
 彼がしているのでしょうか?
 宇宙がしているのでしょうか?


 「『彼』がしている」
と捉えると、思うと、
どうしても、
 『彼』
に意識が行ってしまいます。

『彼』という『人間』が、『他人』が、
『外の世界』に居て、
その『彼』が「している」んだと思うと、
どうしても、
その『彼』に『原因』があると思ってしまいがちです。
感じてしまいがちです。

そして、
 「どうして『彼』はいつも怒るんだろうか?」
とか、
 「なんで『あいつ』はいつもああなんだろう!」
とか、あるいは、
 「怒らなくさせるためには、どうしたらいいのだろうか?」
とか、

どうしても、意識が『外』へ『外』へ、
『外の世界』へ、『現象世界』へ、と、
向かって行ってしまいがちです。

そして、『外なる世界』を、『現象世界』を、
あるいは『鏡の世界』を、『結果の世界』を、
どうにか変えようと、意識が行ってしまいがちです。


一方、そのときに、
 「これは『宇宙』がしているのだ」
と捉えると、捉えられると、

 「では、『宇宙』は何でこんなことをしているのか?」
 「『神』は何をしたくてこんなことをしているのだろうか?」
 「『ハイヤーセルフ』は、私に何を気づかせたくて、このような現象を起こしているのだろうか?」
と、
意識を『外側』に向ける動きが、動き出さずにすみます。

そして、自然と、
 「私の中にどんな『想い』があるから、こんな現象が現れているのだろうか?」
と、
意識を『内』へ『内』へと、
『内側』へと、『心象世界』へと、『原因の世界』へと、
向けて行くことが出来るようになり、

さらに、
 「じゃぁ、自分の中の『何』を浄化したらいいのだろうか?」
 「どの『エネルギーブロック』を浄化したらいいのだろうか?」
 「どの『想い』を手放せばいいのだろうか?」
と、
自然、自然と、
自分の『内側』を変えることに、
『浄化』に、
意識が向かうようになります。


実際のところ、しているのが
 『彼』なのか、『宇宙』なのか
は、
同じことなんですね。

彼の指が動いているのを見て、
 『彼の指』が動いている
と思うか、
 「『彼が動かしている』指」が動いている
と思うかの違いでしかありませんから。

『全体性』が理解できてくるにつれて、
『全体性』が回復してくるにつれて、
自然と、そのことが分かるようになってきます。
感じられるようになってきます。

そして、そうすると、
自然と、『内側』に意識が向くようになり、
そして、『浄化』に意識が向くようになってきます。
『浄化』が進むようになってきます。

そうすると、
さらに『全体性』が回復してきて、
そして、自然と、また『浄化』をして ...

そんな循環が始まっていきます。
そんなサイクルに入っていきます。


僕はまだ、そのサイクルの端っこに、つま先を入れた程度ですが、
でも、それは、確かに、起こってきます。

これから浄化を進めて行こうと思ってらっしゃる方には、
ぜひ、知っておいていただきたいです。
浄化を進めていく際の、重要なポイントの一つだと思います。

可能であれば、ぜひ、このような見方を、認識を、
習慣づけてみてください。


なにか、自分にストレスが湧いてきた時 ...

それをしているのは、『誰』なんだろうか?
 『彼』なのだろうか?
 あるいは、『宇宙』なのだろうか?



2014年5月9日金曜日

山登り

おかげさまで、
津留さん交流会を始めさせていただいて、もう少しで、10ヶ月になります。
個人セッションを始めさせていただいて、もう5ヶ月になりました。
浄化実践講習会を始めさせていただいて、3ヶ月が過ぎました。

時期としては、とても中途半端ですが、
今、そのことに触れましたので、
ここで、改めて、お礼を申し上げさせていただきます。

日頃のご愛顧、まことにありがとうございます。


さて、交流会の席では、何度か口にしてきたことなのですが、
このように、みなさまと直接お会いして、
そして、みなさまとお話しをしたり、
何かをお伝えしたり、
あるいは、ご相談に乗ったりするということは、
もうずっと前から、「いつかは、やりたい」と思って来たことです。

では、なぜ、いままでできなかったのか?

それは、一言でいえば、
 「こころの準備ができていなかった」
から。
つまり、
 「自信が無かった」
から、なんですね。

では、
 どうして「自信が無かった」のか?
といえば、
それは、
 「自分は、まだ、津留さんのようには、いろいろなことが分かってない」
 「そのような活動をしていらっしゃる方々と比べて、まだそのレベルに達していない」
という認識を持っていたからです。

その認識そのものは、正しく、適切なものだと思います。
津留さんをはじめ、多くのスピリチュアルな指導者の方々と比べれば、
自分は、まだ、小学生のようなものです。

そして、だから、
 「小学生の自分には、人様に何かをお伝えすることなどできない」
そんな想いを持っていました。


それでは、
なぜ、今は、このような活動をできているのか?

それは、
 「小学生だからこそ、お伝えできることがある」
ということを、しっかりと理解できたから、確信できたからです。

このことは、さいとうひとりさんの著書の中に書いてあったことそのままなのですが、
小学生は、幼稚園生に、自分より下級生に、教えればいいんですね。

教えられる側にとって、少し上の学年の人は、
素晴らしい先生なんですね。
つい今しがた、その学習を終えたばかりの人だからです。
だから、どこが分かりづらいかとか、
どうしたら分かるようになるかとか、
どんな工夫をしたら良いかとか、
そんなことが、よく分かっているんですね。
今しがた、体験したばかりだから。

逆に、すべての学習を終えてしまっている人は、
その人が躓(つまず)いていることが、その理由が、
よく分からなくなってしまっていたりすることがあるんですね。
もう忘れてしまっているから、とか、
自分の現状とかけ離れてしまっていて、うまく共感できないから、とかで。


妻・裕子さんの整体の師である、
数霊の深田剛史さんの著書に出てくる例えを用いさせていただけば、
優れた人たちは、すでに、山の頂上にたどり着いている人たちです。

たしかに、その人たちからすれば、上からは、下の様子が見えます。分かります。
いろいろと、指導し、導くことが出来ます。
最終的にはどうなっているかが分かるからこその、指導・ガイドも可能でしょう。
逆に、まだ登山途中の人たちからは、
自分がいる位置よりも上がどうなっているのかは分かりません。

ただ、登山途中の人は、ガイドが出来ないのかというと、そんなことはなく、
今、2合目にいる人は、
今、1合目から2合目に向かって登っている人々を、
ガイドすることができます。

しかも、今、登ってきたばかりですから、
どこがすべりやすいとか、不安定だとか、
どこに足を置けば良いか、手を置けば良いかとか、何をつかめばいいとか、
そういう細かいところが、よく分かっています。覚えています。
逆に、山頂からは、遠くて良く見えないかもしれません。
崖や岩や木が邪魔で、よく見えないかもしれません。
もちろん、ほとんどの山頂にいらっしゃる方々は、
その千里眼で、すべて『お見通し』なんですが ... ^^


僕(たち)は、まだ、小学生です。
まだ、2合目です。

でも、だからこそ、お伝えできることがあると、知っています。
だからこそ、理解できること、共感できることがあると、知っています。

見栄を張らず、虚勢を張らず、
かつ、
謙虚に、素直に、正直に、

分からないこと、出来ないことは、
素直にそれを認め、お伝えしつつ、

その上で、
自分(たち)が分かっていること、理解していること、
経験してきたことを、
お伝えしていこう。

そう、思っています。




ロールシャッハ・テスト

先日、道を歩いていたら、
女性の方が、僕を追い抜いて行きました。

追い抜かれざま、なにげなく、その方の後ろ姿を見ると、
着ている服の背中に、カエルのプリントが見えました
(ピョン吉が、こちらを向いているような感じです ^^ )。

筆で描いたようなタッチであることと、
何より、その女性のいでたちからして、
それがカエルであるということに、とても違和感を感じたので、
その服を、思いっきり、凝視(ぎょうし)してしまいました。

すると、それはカエルではありませんでした ^^;

その服が、フード付きのパーカーで、
そして、そのフードが、一部を隠してしまっていたため、
いったい何が描かれていたのかは、
結局、分かりませんでしたが ...


そのとき、
 「まるで、ロールシャッハ・テストみたいだな」
と思いました。

ご存知のとおり、「ロールシャッハ・テスト」は、
紙の上に落としたインクのしみを見て、
それが『何に』見えるかによって、
その人の心理や思考を診断する、というテストですね。

 「一枚の絵(というか、シミ ^^ )が、
  人によって、人それぞれに、『何か』を表したものに見える。」
ということから成立しているテストですよね。

ある一つのものが、人によって、それぞれ違うものに見えるということ。
いえ、そもそも、何も表していないはずの『シミ』が、
何か特定のものに見えてしまうということ。

とても面白い『事実』ですよねぇ。


つまり、
 「私たちは、あるがままを、あるがままに見ているわけではない」
んですね。

 「私たちは、『あるがままの現実』だけを、「あるがままに」見ているわけではなく、
  『観念的現実』という「フィルター」・「色眼鏡」を通して、
  それぞれが、それぞれに、異なる『外なる世界』を見ている。」
  
そのことを、改めて、痛感しました
(『あるがままの現実』や『観念的現実』については、
 過去記事「 エネルギーブロックという汚れを通してのぞいている 」や
 「 波しぶきの 視覚的変化に 」をお読みください)。


そういえば、
 「夜、障子越しに見える、ゆらゆらと揺れ動く幽霊におびえ、
  翌朝、明るくなってから、よく見てみると、それはススキだった」
なんていう、有名な落語のお噺(はなし)もありますよね ^^ 。

エネルギーブロックをいっぱい抱えた私たちが生きているのは、
まさに、そんな世界、そんな宇宙なんですねぇ。

そして、そんな世界・宇宙の中で、
 『自分が』見ている『事実』の正しさを主張したり、
 『自分が』見ている『社会の誤り』に憤(いきどお)ったり、
 『自分が』見ている『他人の不真面目さ』に憤慨(ふんがい)したり、
 『自分が』見ている『他人』におびえたり、
 『他人が』見ている『自分』に思い悩んだり ...
そんなことをして、生きているんですねぇ。

そんなことを、再認識しました。




2014年5月8日木曜日

内なる神の、外なる投影

視覚的に、
 「これは美しいなぁ〜」
と思うものは、何ですか?

僕にとっては、すぐに思い当たるものが、3つあります。

ひとつは、夕焼け空。
雲の形や、雲の位置によって、
模様や色合いもさまざまで、
かつ、刻一刻と様子が変わっていくさまは、
思わず眺め込んでしまいます。

もうひとつは、虹。
空にアーチのようにかかる、いわゆる「虹」はもちろん、
太陽の周りに丸くかかるソーラーレインボーや、
環水平アークや幻日、そして彩雲など、
空に現れる七色の輝きに対しては、
なにか、特別なセンサーを僕は持っているらしくて、すぐに発見して、
そして、思わず見入ってしまいます。

そして、最後、もっとも素晴らしいと思うものが、銀河。
これは、肉眼で見るわけではありませんが、
銀河の画像・映像を見ると、
 「圧倒的に美しい」
とは、まさにこのことを言うんだろう、と、
思考を超えて、その美しさ、存在感に、
思わず感じ入ってしまいます。



Photograph courtesy NASA/JPL-Caltech/ESA/Harvard-Smithsonian CfA


さて、話は変わりますが、
みなさん、
 「この世が『鏡』だ」
ということについて、
 「見えている世界は、自分の内面世界が投影された『鏡(立体映像)』だ」
という津留さんのメッセージに関して、
ご理解はいかがですか?
実感されてらっしゃいますか?
腑に落ちていらっしゃいますか?

おそらく、もうすでに多くの方が、
この点に関しては、強い確信を持っていらっしゃることと思います。

津留さん交流会でお話を伺っていても、
個人セッションでお話を伺っていても、
多くの方から、この点に関しては理解・納得されている旨、
よくお聞きします。

近年、ますます宇宙のエネルギーが高まって来ていて、
自分の想いが、行いが、
すぐに自分の人生に現れ、返ってくるという傾向が強まっているので、

さほどスピリチュアルのことに興味・関心をお持ちでない方でも、
この点は、納得できるとお考えの方が多くいらっしゃるようですね。


ところで、
私たちの見ている外的世界が、物質世界が、三次元宇宙が、
私たちの内側の、こころの、内的世界の、
『鏡』であり、投影であり、立体映像であるならば、

さきほど挙げたような、
「夕焼け空」や「虹」の美しさは、
そして、あの「銀河」の圧倒的なまでの美しさは、
いったいどこから来たのでしょうか?

やはり、自分の内側から来たのでしょうか?

 「そんなわけない」
 「自分のこころは、そんな美しくない」
 「自分の中に、あんな美しさは無い」

そう思われますか?


ここで、もう一度、話が少し変わりますが、
自分の中に、自分のこころの中に、意識の中に、
 『真我』『大我』『集合意識』『神』
が存在しているという津留さんのメッセージ、
ご存知だと思いますが、
理解されていらっしゃいますか?
実感がおありですか?
信じられますか?

僕自身の話でいえば、
この点、
頭では、なんとなく理解できているけれども、
今ひとつ、しっかりとした実感が持てていません。

お話を伺っていても、
そのようにおっしゃる方が多いです。

そんな方に、ぜひ、じっくりと感じていただきたいのが、
あの、銀河の美しさです。


私たちからもっとも離れた、もっとも遠いところには、
あのように広大で、巨大で、
そして、圧倒的に美しい、『銀河』があります。

それは、まさに、
私たちの内側に存在する『神』なる意識の『投影』であり、

そして、私たちのこころの、もっとも奥深いところに、
『神』なる自分が存在しているという、
目に見える、なにより確かな証拠です。

普段知覚している、認識している『自分』の中には、
あのような美しさを映し出す『素』は無いように感じますが、
そのさらに深層には、
確かに、
圧倒的な美しさが存在しているということです。
『神』なる自分が存在しているということです。


津留さんは、CDの中で、
星の運行(例えば、海王星や冥王星の動き)が、
私たちの集合意識を反映したものである、
ということを言っていますね。

空を、夜空の星々を、
意識して、眺めてみてください。
そんな機会を、意識して、作ってみてください。
そして、その美しさを、感じ入ってみてください。
その存在を、感じてみてください。


最後に、もう一つ。
トートの著作だとされる『エメラルド・タブレット』の中に出てくる、
とても有名な言葉、
 「下なるものは上なるものの如く、上なるものは下なるものの如し」
というもの。

これ、ひとつには(ひとつの意味としては)、
『鏡』としての性質を説明している、と言えるかもしれませんね。

鏡面を境に、映したものと、映されたものとが存在している。
であれば、それらは、まったく同じものですものね。



2014年5月2日金曜日

どっちでもいい

津留さんが言っていることで、
少し、分かりにくいというか、
ピンと来るのに理解が必要な言葉だったり概念だったりが、
みなさんそれぞれに、おありだと思うのですが、

僕の場合は、
 『ニュートラル』
という言葉が、そうでした。

津留さんは、『ニュートラルな状態』を、
 「とりあえずの目標」というか、
 「とりあえずの目指すべき地点」だ、
と言っているのですが、

それが、いまひとつピンと来ないというか、
いまひとつイメージしづらく、把握しづらく、
ちょっと理解が滞(とどこお)った経験があります。

みなさんは、いかがですか?

僕と同じような方がいらしたら
少しヒントになるかもしれませんので、
すこし書いてみます。


では、その『ニュートラル』というのは、
どういう意味なのでしょうか?

津留さんのメッセージ集や書籍に出てくる説明によれば、
『ニュートラル』というのは、
2極のどちらでもなく、その真ん中で、
物差しを、判断する基準を、捨てた、手放した状態のことです。

この説明が、
僕にとっては、
頭では何となく分かるけれども、
どうもすっきりしないというか、
有り体(ありてい)の表現でいえば「腑に落ちない」というか、
よく分かりませんでした。

ところが、
津留さんのDVDの中で、
とても分かりやすい説明に出会いました。
それを観て以来、すっきりと理解できました。

その説明によれば、『ニュートラル』というのは、
 『どっちでもいい』
ということです。

わたしたちの、当面の目指すべき点は、この
 『どっちでもいい』
の場所です。
心境です。

 『どっちでもいい』
というのが、物差しを捨てられた状態です。
判断基準を、価値観を、手放せた状態です。


例えば、
『お金』について『ニュートラル』であるとは、
どんな状態でしょうか?

それは、
 「お金が有っても、お金が無くても、どっちでもいい」
という状態です。
お金持ちでも、貧乏でも、どちらでもいい、
という心境です。

ここで、ちょっと誤解しがちなのは、
『お金』に対して価値観を手放せると、
「お金が無くてもいい」と思えると同時に、
「お金が有るのはいけない」「お金持ちは良くない」
となると、思ってしまいがちなことです。

でも、この状態は、
 「お金が無いと困る」
 「お金が無いのは良くない」
という価値観を手放せただけの状態で、

逆に、
 「お金が有るのは良くない」
 「お金持ちは良くない」
 「お金は卑(いや)しいものだ」
という価値観を握ったままの状態です。

『お金』に関する価値観を手放し、
『お金』に関して『ニュートラル』な状態では、
 「お金が無くてもいい」し、
 「お金が有ってもいい」し、
さらに、
 「お金持ちじゃなくてもいい」し、
 「貧乏じゃなくてもいい」
という心境です。

ほんとうに、
 『どっちでもいい』し、
 『どうでもいい』
という状態です。


先に触れたDVDの説明の中で、
津留さんは、
 「ニュートラルであれば、相手に、選ばせることが出来る」
といっています。

目の前に、二つのものがあって、
それらを、自分と目の前の人とで分け合うとした場合、
それらのものに関して『ニュートラル』であれば、
相手に、好きなほうを、自由に選ばせることが出来ます。

自分のものは、『どちらでもいい』からです。

もし、そう出来ないとしたら、そう思えないとしたら、
それは、それらのものに関して、
 「こちらのほうがいい」とか、
あるいは、
 「あちらでは嫌だ」
と思っているということです。

この、
「こっちがいい」「あっちじゃ嫌」がなくなった状態が、
『ニュートラル』であり、
つまりそれは、『どっちでもいい』という状態です。

いかがでしょうか?
ずいぶんと分かりやすいのではないでしょうか。


そして、先のたとえでは、
「目の前の人」と、
「二つのもの」を分け合い、自分が一方を手にしましたが、

これを、
『宇宙(神、ハイヤーセルフ、集合意識)』と、
『あらゆるもの』『あらゆること』に関して分け合い、
宇宙が差し出したものを自分が手にする、
としたら...

つまり、
宇宙が決めたもの・こと・状況・環境・結果について、
自分が手にするもの・こと、自分が享受すること、すべてに関して、
自分は『どちらでもいい』『どうでもいい』
と思えたら...

それこそ、
すべてにおいて『ニュートラル』な状態であり、

つまり、それは、
『無執着』な状態であり、
『悟れている(差取れている)』状態だ、
ということです。

宇宙に、すべてを、委ねられている状態です。





2014年5月1日木曜日

宇宙基準

個人セッションで、
おいでくださったクライアントの方々のご相談をお聞きしていると、
多分に、共通していることが多く見受けられます。

すでに書いたように
(『モニター個人セッションのご報告』『個人セッションを 始めさせていただいて』)、
それは、私たちプラクティショナー役の二人の『鏡』として、
私たち二人に、私たち二人が握っているブロックに気づかせるために、
それらを示してくださっているという側面・項目も、多々あるのですが、

そういう類いのことではなくて、
クライアントさまが、これまでの人生において、苦しまれてきた理由として、
クライアントさま方に多く共通して見受けられる、別のことがあります。

そのうち、特に強く感じることがあるのですが、
それは、それらの方々が、
 「『宇宙の基準』『宇宙の真理』に沿って生きているがゆえに、苦しまれている」
ということです。


わたしたちが、いま、生活しているこの環境、
この地球の、この今の社会環境における
『基準』『規範』『常識』『ルール』が、

それらの方々にとっては、
あまりに重く、厳しく、
あまりに利己的で、

それらになじめず、受け入れられず、適応できず、

そして、それがゆえに、
 「自分はだめなのではないか?」
 「自分は弱いのではない?」
 「自分がいけないのではないか?」
と、

自らをとがめ、責め、
そして、苦しまれていらっしゃる...

そんな体験、経験、状況を、
これまでに、数多く、お聞きしてきました。


これまでの、『分離』の社会におけるスタンダードは、
たとえば、
「弱肉強食」であったり、「勝者総取り」であったり、
「だまされるほうが悪い」「勝てば官軍」などであり、

そのような基準は、
愛に満ち、愛に基づいた、
『宇宙』の基準に従っている人々には、
あまりに過酷で、あまりに重いものです。

そんな環境の中で、それらの人々は、
うまく行かずに、うまくなじめずに、苦しみ、
他人から責められて苦しみ、
そして、それゆえに自らを責めて苦しみ、
苦しみの中で生きてこられました。


もし、あなたが、
このいまの社会になじめず、苦しまれているとしたら、
自らを、うまくできない、なじめないご自分を責めることを、
どうぞお止めになってください。

そんな必要は、まったくありません。

間違っているのはどちらなのかを、
おかしいのはどちらなのかを、
ご自分のハートに、尋ねてみてください。

ご自分の正しさを、愛を、光を、温かさを、
どうぞ、改めて、信じてみてください。
ご自身に、自信を持ってください。
ご自身を、信頼なさってください。
そのことにこそ、ご自分の勇気を使われてください。


このような方々は、
これからの『新しい地球』のスタンダードを、
一足先に、地球に持って降りて来て、
それらを体現し、
そして、それらを根付かせるために、
来ていらっしゃるのだと思います。

まず、
危険をかえりみず、自らの犠牲をいとわず、
その役割を引き受け、
この地に、一人、降り立ってこられたことに、
そして、一人、その役割を遂行してこられたことに、
こころからの敬意と感謝を申し上げます。

どんなにか、お辛かったことでしょう。
どんなにか、心細かったことでしょう。
これまで、本当におつかれさまでした。
ありがとうございます。

そして、いま、
自らの苦しみに、正面を切って対峙し、
それを克服しようとなさっているその勇気に、
こころからの敬意を表します。


いま、その自らの苦しみを克服するということは、
同じ役割を持って生まれ、
そして同じように悩み、苦しまれている、
仲間のみなさまの、同胞のみなさまの、
先駆けとなり、見本となる、ということであり、

そしてそれは、
それらの方々が、それらの苦しみを克服する際の、
克服方法を伝えることが、アドバイスをすることが、
できるようになる、可能になる、
ということです。

どうぞ、いま、
その悩み・苦しみと、
しっかりと共にあり、
それらを否定せず、拒否せず、
ただ、見つめ、眺めてみてください。

そして、もし可能なら、
それらを受け入れ、認め、許してあげてください。
悩み、苦しんでしまったご自身のことも、
許し、認めてあげてください。


その先には、仲間の方々との再会があり、融合があり、連携があり、
そして、みなさまの生きる姿、そのものによって、
「『新しい地球』のスタンダード」が、
愛に基づいた、愛を貴重とした、
融和の、調和の文明が、
新生地球にもたらされていくことと想います。

どうぞ、そんな未来の姿を、希望を、こころに灯しながら、
いまは、まず、これまでの苦しみに立ち向かい、
そして、それらを手放し、解放なさってください。
昇華なさってください。

そのために、お役に立てることがあれば、
お手伝いできることがあれば、
よろこんで、ご協力させていただきます。


これまでに、個人セッションにみえた、
多くの天使のみなさまを拝見していて、
翼の折れた、傷ついたエンジェルの方々にお会いして、
そんなことを想いました。