2017年11月10日金曜日

「ブロック」の装着


朝方、
まったきの静けさの中に、目覚めることがあります。


しーんと静まり返った、
「何も気配がない」という、気配。

動かぬ空気。

身体を有しているという、淡い感覚は感じられるものの、
感情は、そこには、存在していません。


そんなとき、
自分が誰なのか、分かりません。


思考は、動かさなければ、動かない状態。

そんな中で、
まず、
 「自分が誰なのか?」
を、探し始めます。

そのことに、思考を使います。


すると、
ひとつ、またひとつ、と、
ゆっくり、

記憶が、やって来ます。


そして、それと同時に、
感情が、胸に、到来します。

感情が、
ひとつ、またひとつ、と、やって来て、

それらを、
ひとつずつ、感じるようになってきます。


記憶に、感情が結びついていることが、実感できます。


またひとつ、
またひとつ、
と、
記憶が、やって来ます。

それは、まるで、
マジンガーZ系のロボットの身体に、
装備が、
ひとつ、またひとつ、と、
装着されていくように、

外から飛んで来ては、
身体に、
パシッ、パシッ、と、
くっ付いていきます。


それにともなって、
『自分』が誰であるのか、
思い出していきます。

『自分』が、
構築されていきます。


その結果、
まず、「昨日の自分」が出来上がり、

続いて、それが、
「それまでの自分」という、
「過去の自分の記憶のライン」の上に、乗っかり、はまり込みます。

そうして、
『自分』が、「連続した記憶」に結びつき、

「過去からの連続した『自分』」に、成ります。

そして、
そのときには、
「昨日までの感情」が、「いつもの感情」が、
完全に、復活しています。


『自分』が、

「記憶」と、
そして、「記憶」に付着した「感情」によって、
できあがっている、

そのことを、体感をともなって認識させられます。


そんな過程を、感じることがあります。



先日、
過去記事「 津留さんお墓参り2017 」を読んでくださった方から、
こんなメールを頂戴しました
(許可をいただきましたので、以下に、掲載させていただきます)。


  実は、当方も、最近(特に夜明け)
  「体感できる『反応』が、無い」 「認識できる『反応』が、無い」
  という感覚に浸ることが増えてきております。
  何を思っているかさえ、何を感じているかさえ、意識に上ってこないのです。
  
  想いや想念が湧きあがってこずに、ただそこに浸っている感じです。
  しいて言えば、そこに浸っている自分を観ていることだけの感覚です。
  
  津留さんが何度も仰っていた「ただ想念を観る。それだけです」
  折にふれて、それを意識続けておりましたが、
  その真意が分かりかけてきたような気がいたします。


そのメールを拝読し、
自分も、「朝方」に、その状態になることを、思い出し、
今日、記事にしました。


ところで、その方は、
「想念観察」を、ひたすら続けることで、
その状態になられ、
その感覚を感じられるようになられたそうです。

「自分に湧き上がる、想念の観察」
ご興味がお有りの方は、
ぜひ、なさってみてください。