2017年10月19日木曜日

津留さんお墓参り2017

 
 今年の「秋の長雨」は、かなり本格的ですね!
 
 急に冷え込んで来てもいますし、
 どうぞ、体調にはお気をつけください。
 
 
 さて、一昨日、10月17日は、
 津留さんの命日でした。
 
 当日は、個人セッションがありましたし、
 天候も、雨でしたので、
 行かなかったのですが、
 
 昨日、18日は、
 朝から、久しぶりの、見事な、快晴!
 
 そこで、
 この日に、津留さんのお墓参りに、行ってきました。
 
 
 周辺の建物に、大きな変化があって、
 墓地の雰囲気には、変わった感じを受けたものの、
 
 初めて訪れてから、12年超、
 お墓そのものは、いつもの、見慣れた感じで、
 
  「今年も、この時期になったなぁ」
 
 といった感覚を持ちながら、
 お墓参りを済ませてきました。
 
 
 さて、
 前回、昨年の命日に、お墓参りをしたときには、
 
  「悟っちゃっても、いいんですよ」
 と、
 
 なにか、そんなことを、言われたような、
 なにか、そんな感覚を、受けたんですが
 (過去記事「津留さんお墓参り2016」)、
 
 今回、お墓を訪れたときには、
 そのような感覚を、まったく、感じませんでした。
 
 前回、そのような感覚を受けた背景には、
 僕の中に、
 「悟ること」「悟っていること」を、特別視している認識がありました。
 
 「悟っていること」と、「悟っていないこと」とが、
 並列では、ありませんでした。
 
 だから、
  「悟っても、いいんだよ」
 という表現で、ニュアンスで、
 「悟る」ということが、
 僕の中で、フォーカスされていました。
 
 
 ところが、今回、お墓を訪れてみて、
 前回は、そんなことがあったことを、思い出してみて、
 
 しかし、自分の中に、
 「悟る」とか、「悟っていない」とかに、反応する感覚が、
 自覚できる範囲では、ほとんど無いことに、気づきました。
 
 別の表現をすると、
 自分が、どのようなブロックを持っていようと、いなかろうと、
 どのようなブロックを手放していようと、いなかろうと、
 
 そのことを、
 自覚できる範囲では、ほとんど、気にしていないように、感じました。
 
 ようやく、
 このブログのタイトルである、
  「迷悟一如」
 を、
 体感できたような気がしました。
 
 2017年の、津留さんの命日になって、
 ようやく、それを体験できた気がしました。
 
 
 もちろん、
 僕の中で、「悟っていること」と、「悟っていないこと」とが、
 完全に、差のないことになったわけでは、ありません。
 
 「悟り」というものが、
 まったく、意識にのぼらないものになったわけでは、ありません。
 
 だからこそ、
 こうして、そのことをテーマにして、記事を書いているわけです。
 
 状況によっては、対象によっては、
 今後も、そのことを、強くすら、体感することでしょう。
 
 ですが、今回、
 津留さんのお墓の前で、そのことを、意識にあげてみて、
 
 しかし、はじめて、
 「体感できる『反応』が、無い」という状態になりました。
 
 「認識できる『反応』が、無い」という体験をしました。
 
 これは、
 僕の、『人間体験プロセス』においては、
 とても画期的なことです。
 
 とても存在感のある、
 一里塚、マイルストーンです。
 
 そんな状態を体験できたことに、
 とても感慨深いものがありました。
 
 
 これは、ひとえに、
 これまで、個人セッションを受けてくださったみなさま、
 浄化実践講習会・ワークショップを受けてくださったみなさま、
 交流会に来てくださったみなさま、
 みなさまのおかげです。
 
 みなさまに、機会あるごとに、
 
  「私たちは、『人間』を体験しに来ている存在です」
  「『人間』に成っている存在です」
  「『迷う』体験を、わざわざ、望んでしている、『悟りきった』存在です」
 
 ということを、
 津留さんが遺してくれた、この、認識を、アイデアを、
 
 機会あるごとに、お伝えさせて来ることができた、おかげです。
 
 みなさまに、繰り返し、お伝えさせていただくことで、
 なにより、自分自身が、それを、吸い込み、
 なにより、自分自身に、それが、染み入っていきました。
 
  「自分は、自分の意思で、主体的に、
   この、『迷っている』体験を、しているんだ」
 
 という思い込みが、
 まったく、違和感無く、染み込んでいるようです。
  
  「だから、『迷う』体験をしてもいいし、しょうがないし、
   でもだから、『迷う』ことを十分体験したなら、苦しいなら、
   それを終えても、終えようとしても、それもいい」
 
 そんなふうに、
 深くから、思っているようです。
 
 
 2017年の、津留さんの命日に、
 そんなことを、感じました。