2017年12月7日木曜日
酸素マスク
ここのところ、
年に数度、飛行機に乗っています。
僕がよく利用する、航空会社では、
離陸前に、「緊急時の対応」の説明がありますが、
そこでは、
酸素マスクに関して、
次のような説明がされます。
「まず、ご自分の酸素マスクを付けてから、
お子さまや、周りの方の、マスクを付けてあげて下さい。」
はじめて、それを耳にしたとき、
ちょっと、びっくりしました。
自分の「知識」「基準」「考え方」「価値観」とは、
逆だったからです。
自分よりも、
子どもや、身体の不自由な人など、
補助が必要な方への対処が、まず、先だ
と、
認識していました。
でも、その、初めて聞いたとき、
驚きはしましたが、
反発は感じず、
むしろ、
すぐに、納得し、
さらに、感心しました。
確かに、
まず、自分の身体の保全が図られたほうが、
より多く、他の人々を助けることが、できるはずです。
とても合理的だと、納得しました。
むしろ、
自分の、それまでの考え方のほうが、
ある種、「道徳的」なものであり、
比較すれば、非合理的なものであると、思いました。
津留さんのメッセージも、(ある意味では)例外ではなく、
多くのスピリチュアルな教えや、アドバイスでは、
『エゴ』を、
悪者であったり、厄介者であったり、
不要なもの、無くすべきもの、消し去るもの、
そのように、捉えているものと、認識しています。
もちろん、
確かに、そのように捉えることも、
当然であり、とても自然なことかもしれません。
ですが、
僕は、
『エゴ』というのは、
ただ、立脚点や、方向性が、違うだけの、
ただ、特殊な存在なだけのものと、
認識しています。
先の、機内アナウンスの例で言えば、
『エゴ』は、
とても、合理的なのだと思います。
『エゴ』は、
何も「自分だけ」と、思っているわけではないと、思います。
「自分が先」「自分を優先」なだけ、で、
「自分だけ」「自分さえ」なわけではない、と、思います。
『エゴ』だって、
最終的に、目指す場所は、目指すことは、
同じで、
「みんなが、幸せに」
なのだと、思います。
ただ、そのときの、
方向性が、志向性が、立脚点が、
ちょっと、特殊で、
「そのために、まず、自分が」
「そのためにこそ、まず、自分が」
という、
スピリチュアルな、「博愛」的価値観からは、
最終地点の、「みんなが ... 」からは、
一件、「逆」な、アプローチなので、
そのために、
違和感を持たれたり、
反感を持たれたり、
誤解を受けているだけで、
『エゴ』にしても、
最終的に目指しているものは、
同じなのだと、思います。
球面を、どの方向に進んで行こうが、
最終的には、同じ地点に、たどり着くように、
『エゴ』だって、
目指しているところは、たどり着くところは、
同じで、
ただ、
方向が逆で、
経路が独自、
なだけなのだと、思います。
だとすれば、
だからこそ、
それを、
「北風方式」で、
良くないものと、邪魔なものと、あるべきでないものと、
吹き飛ばそうとするよりは、
「そうだよね」「ありがとうね」「おつかれさま」と、
労い、感謝し、共感し、理解してあげるべきものだと、
感じています。
いえ、
そもそも、
「無くそうとする」べきものなのではない、と、
思います。
『エゴ』とて、
理解されず、
あげく、排除されように扱われるからこそ、
ときに、暴走してしまい、
ときに、極論に走ってしまうのであって、
「生まれつきの、ワル」
という札付けこそが、
その、接し方こそが、
むしろ極端なのでは、と、思います。