2014年7月21日月曜日

M2体操・補足

前回、「M2体操」という記事を書きました。

 「折に触れ、
  何も考えずに、
  とにかく、M2の『動作』をする」

 「気がついたら、
  ハートの感覚に意識を向け、
  そして、ただ、M2をする」

そんなことを、するようになりましたので、
お伝えいたしました。


さて、
先の記事では、

 「では、何が浄化されるのか?」
ということに関しては、

 「そのとき、ハートに感じていたストレス」
 「そのとき、ハートに来ていたエネルギー」
と、書きました。

この点、
すこしお分かりいただけ辛いかも、と思いましたので、
すこしだけ、補足させていただきます。


普段、
『ハート』や『身体』に、意識を向けていただければ、
意識を向け続けていただければ、
『ハート』や『身体』を、観察し続けていただければ、

私たちは、日ごろ、
 「常に常に、『ストレス』を感じている」
ということに、気づかれると思います。


いま、
 「私たち」
って、書きました。

もちろん、中には、浄化がだいぶ進んでいらして、
 「基本的には、もう、ストレスを感じない」
という方も、いらっしゃることとは思います。

ただ、ここでは、
わざわざ、このブログを読みに来てくださって、
ご自身の浄化のご参考にしてくださっているであろう方々を対象として、
書かせていただいています。

いま、まさに、浄化を進められている、
あるいは、
いまから浄化をはじめよう、とされている方々を想定して、
書かせていただいています。

以下も、
そんな前提で、お読みいただければと思います。


さて、続けます。

たとえば、
『ハート』の状態を観察してもらえば、し続けてもらえば、
ハートは、常に常に、
 「閉じている」
 「キュッとしている」
 「冷たさがある」
 「違和感がある」
 「痺(しび)れている」
 「チクチクしている」
 「ゾワゾワしてる」
そんな状態だと思います。
そんな状態であることに、気づかれると思います。

つまり、
私たちの身体には、ハートには、
常に常に、
エネルギーブロックが、やって来ています。

常に常に、
エネルギーブロックが上がって来ていて、
それを、身体が、感知しています。


別の表現をしましょう。

おそらく、
みなさん、
常に常に、考えごとをしていると思います。

常に常に、
 「考えごとをしている」
 「心配事をしている」
 「頭を働かせている」
 「左脳を働かせている」
 「思考に入っている」
 「思考と一体化している」
そんな状態だと思います。

 「考えるのを、止めよう」
 「思考から、離れよう」
そう思っても、なかなか、思考を止められない、
そんな状態だと思います。

それは、
見方を変えれば、
常に常に、
私たちのハートに、身体に、
 『エネルギーブロック』が、
 『ミニ自我』が、
 『価値観』が、
やって来ている、上がって来ている、
ということです。

考えごと、心配事をするから、
エネルギーブロックがやって来て、
そして、ストレスを感じるのではなく、

エネルギーブロックが『すでに』やって来ているから、
ハートが、そんな状態だから、
その反応として、思考が動き出すんですね。

これ、
津留さんが言っていたことです。

だから、
思考が動いているということは、
エネルギーブロックがやって来ている、
という証拠です。

 「思考が、常に常に、働いている」
ということは、
 「エネルギーブロックが、常に常に、やって来ている」
という証拠です。


つまり、
言いたかったことは、

 私たちには、日ごろ、
 常に常に、
 何らかの『エネルギーブロック』『ミニ自我』がやって来ている
ということです。

 「それを、しっかりと認識・把握できているかどうか」
は、別として、
私たちには、常に常に、『エネルギーブロック』がやって来ています。
『ミニ自我』が、『価値観』が、上がって来ています。

つまり、『浄化対象』が、常に、『来ている』のです。
気づいたときには、いつも。
もう、すでに。

おそらく、それは、
表面意識では、それを『問題だ』『ストレスだ』と認識しないほど、
「小さなもの」だとは思いますが、

ただ、
 「有るか、無いか」「来ているか、来ていないか」
で言えば、
 「有ります」「来ています」。


なので、
『M2体操』をしていただければ、

その、
 「常に常にやって来ている『エネルギーブロック』」
を、浄化することができます。
手放すことができます。
解放することができます。

「常に常にやって来る」類いのもののうち、
「そのときに来ていたもの」を、浄化することができます。

「常に常に、やって来ているもの」 ...

 常に感じている、漠然とした『不安』『恐れ』。
 常に感じている、漠然とした『欲求』『願望』。
 常に感じている、漠然とした『怒り』『いらだち』。
 常に感じている、漠然とした『焦り』『焦燥』。

そういった、
「些細」だけれど、「小さい」けれど、
そして、「漠然」としているけれど、
でも、
何か、常に常に感じている、『ストレス』 ...

そういったものの『素』を、
これによって、解放することができます。

そういったものを、
すこしずつ、手放していくことができます。

なので、『M2体操』をしていただくと、続けていただくと、
 「なんだかよく分からないけど、すこし、軽くなった気がする」
 「なんだかよく分からないけど、すこし、楽になった」
そんな感想をお持ちになるのではないかと思います、
僕の体験からすると。


そして、
逆にいうと、
そういう、
 「なんとなく、いつも感じている、(小さめの)『ストレス』」
を浄化するには、
とても向いている手段・方法なのではないか、と思います。





2014年7月18日金曜日

M2体操

先週、
僕が、普段、
 「『ハート』の状態を、観察していること」
そして、
 「ハートにストレスを感じたら、それを浄化していること」
を書きました
(過去記事「ハート観察」)。

その際に、
浄化の方法としては、
 「『感じる』『感じ尽くす』という方法」
を採っていることを、書きました。


さて、
そこでは、明記はしませんでしたが、

僕は、普段、
ほとんどの浄化を、
 「『感じる』こと」
によって、行っています。

そして、
M2による浄化は、
めったにしていません。

M2は、
おそらく、月に2回ほど、
「価値観」などの、大きめの浄化対象を浄化する際に、
使っています。

理由としては、
単純に、
『感じる』方法が、好きだからです。

たしかに、
ちゃんと浄化し切るまで、感じ尽くすには、
時間も集中力も要しますが、

ただ、『感じる』という方法は、
僕の場合、
浄化している間も、浄化し終わった後も、
浄化できている実感が、割と、しっかりとあるので、

この方法を使うと、
 「やった感」「した感」
が得られます。感じられます。

そんな理由から、
好んで使っています。

また、
場所や状況に影響を受けず、
 「『感じた』ままに、即座に、『浄化』できる」
という点でも、気に入っています。


いまは、
 「感じられた、上がってきた、細かいストレスを、
  感じたままに、浄化している」
  ので、
  『感じる』という方法で浄化をしているし、
  なので、M2は使っていない。

そんな感じです。


さて、
先の記事では、そんな感じで、
僕の、日ごろの、浄化の様子を、お伝えしました。

ところが、
おもしろいことに、というか、不思議なことに、
あの記事を書いた直後から、
急に、
M2がしたくなりました!

これって、何なんでしょうね? ^^

 「M2は、めったにしない」
という状況からの、記事を書いたら、
急に、M2がしたくなったのです。

おそらく、
 「M2をしないで、『感じる』だけで浄化をする、という体験」
と、
 「その体験の様子を、報告する」
という必要とが、あったのでしょうね、
しかも、あのタイミングで。

だれかにとって、
とても必要な・有用な情報だったのかも、しれません、
もしかしたら ^^ 。

それはともかく、
僕は、急にM2がしたくなり、
あの記事を書いた日以来、
折に触れ、
M2を使った浄化をするようになりました。


では、具体的に、
 「どんなふうに、何を、浄化しているのか」
というと、

これ、
特に、「具体的な『何か』」を意識・認識して、
浄化しているわけでは、ありません。

とはいえ、
『何か』を浄化しているわけですが、

では、
 「『何』を浄化しているのか」
というと、
それは、
これまでと同じで、
 「そのとき、『ハート』に感じたストレス」
を、浄化しています。

というより、
より、正確に言えば、
 「そのとき、ハートに感じて『いる』ストレス」
です。

 「そのとき、『たまたま』、ハートに上がって来ていたエネルギー」
を、解放し、手放しています。

つまり、
ここでは、
 「『浄化対象』が『主』」
なのではなく、
 「『浄化方法』ないしは『浄化をしようという意思そのもの』が『主』」
な、浄化をしているのです。


より詳しくいうと、
通常は、
 「いま、現に感じている『ストレス』が辛いから、浄化しよう」
とか、
 「自分は、こんな『エネルギーブロック』を持っているから、それを浄化しよう」
とか、

 「『浄化対象』『エネルギーブロック』の認識」
がまず、先にあって、
それを取り除く・手放す・解放するために、浄化をします。
それを意図して、浄化をします。

ところが、
いまからお伝えしようとしている、最近はじめた『浄化』は、
 そのような「『特定の』浄化対象の認識」があったりとか、
あるいは、
 「『特定の』ストレスの実感」があったりとか、
そういうことをきっかけとして行う浄化ではなく、

 「とにかく、浄化をしよう!」
という『意思』だけをきっかけとしていて、
 「じゃぁ、いま、浄化できるものを浄化しよう」
 「いま、浄化方法を実施したら浄化されて行くものを、浄化しよう」
と、浄化をします。

そのとき、
 「浄化対象が『何』であるか?」
ということは、認識しません。
頭で、理解・識別したりしません。

 「いま、現に『ハート』に来ている『エネルギー』」
を、ただ、『感じ』『捕まえ』、
そして、それを、
そのまま、M2(内杉式)によって、浄化します。

いま、「浄化をする」とだけ決めて、
そのときに、ハートにあるエネルギーを、ただ、解放します。
ただ、手放します。

なので、
そのときに、
 「何を浄化したのか」
 「何が浄化できたのか」
ということに関しては、
基本的には、分かりません。

「そのときに、ハートに来ていたエネルギー」を浄化しただけなので、
 「『何』が浄化されて行ったのか」
ということについては、
基本的には、分かりません。
 「それが『何』であったか」
は、基本的には、理解しません。

ただ、
 「そのときに、ハートに来ていたエネルギー」
が、浄化されて行きます。
ただ、
 「そのときに、感じていた『であろう』ストレス」
が、解放されて行きます。

という感じで、
すこし曖昧な感じの浄化ですが、
でも、
僕の場合には、
そのM2をやっている最中にも、
エネルギーをとらえられている実感がありますし、

やった後にも、
そのエネルギーが抜けて行って、
 「ハートが、すこし軽くなった」
とか、
 「ハートの、モヤモヤした感覚が減った」
とか、
 「気持ちが、すこし楽になった」
 「気分が、すこしすっきりした」
とか、
そんな形での実感が、あるので、
 「浄化そのものは、きちんとできている」
という確信があります。

理屈的にも、
浄化は、きちんと、できているはずです ^^ 。


 気づいたときに、気が向いたときに、
 ただ、ハートに意識を向けて、M2をする。

まるで、普段の生活の中において、
一息つくときに、
「身体を伸ばす」とか、
「首を回す」とか、
「凝りを感じるところを揉む」とか、
そんな感覚で、
ただ、「M2をする」。

あるいは、
 「ただ、M2の『動作』をする」
というふうに、言ってもいいかもしれません。

実際には、
ちゃんと、ハートに意識を向けて、
そこにある『エネルギー』を感じ、それを浄化しますが、
でも、
 「まるで、ただ、『動作』をしているかのごとく」
に、『浄化対象』には主眼を置かず、
ただ、淡々と、M2の動作を行う ...

そんな感じなので、
僕は、これを、
 『M2体操』
と呼んでいます。

 特に気構えずに、
 気が向いたら、
 ただ、M2をする。

そんな感じで、
機会を見ては、やっています。

ご興味を持たれた方は、
どうぞ、なさってみてください。

何度か、何日か、なさってみると、
 「なんだか分からないけど、すこし、軽くなった。楽になった」
そんな実感を持たれるかもしれません。

ご興味を持たれた方は、
特段、何かを期待せずに、
ただ、されてみてください。


される際のポイントとしては、
「M2をする際のポイント」そのものになりますが、

一つには、
先ほども触れましたが、
ハートに手を当てたときに、
できるだけ、
 「ハートの感覚・状態を、しっかりと、感じてみる」
 「ハートに来ているエネルギーを、意識する・とらえる」
ことをなさってください。
「個人個人の、可能な範囲内」で、結構ですので、
このことを、意識してみてください。

もう一つは、
手を前に動かすときに、
できるだけ、ゆっくりと動かしてみてください。
 「ハートの位置から、肘が伸びきるまで」
の動作を、
10秒を目安に、
ゆっくり、意識をその『手』に向け続けながら、
行ってみてください。

ゆっくり動かすほど、そこに意識を向けられますので、
その分、しっかりと浄化ができます。
これ、津留さんの言っていたことです。

どうぞ、ご参考になさってみてください。





2014年7月16日水曜日

蚊、再び

昨夏、
このブログに、「」という記事を書きました。

その後、
津留さんの講演会CDから、
津留さんが、蚊について語っている部分を、書き起こしました
(過去記事「蚊とか蜂とか」)。

今回は、それらを前提に、
今夏の、僕の、「蚊への取り組み」ついて、ご報告したいと思います ^^ 。


その前に、
この話の前提として、「僕(ひで)と蚊」について、お伝えしておくと、

まず、
僕は、すごくすご〜く、蚊に刺されやすいです。
そして、
刺されると、すっごくかゆくて、
そして、
もう、悲しいほど、腫(は)れるのです。

だから、
蚊に刺されることを、異常に嫌っています。
自分自身で、そのことを、はっきり認めざるを得ないくらい、嫌っています。
恐れています。

その「恐れぶり」は、
自分で見ても、尋常ではないので、
 過去に、
 自分自身か、あるいは、最愛の人を、
 蚊によって(つまり、マラリアなどによって)、失ったことがあるではないか
と思うほど、恐れています ^^ 。


さて、
それでは、話を続けますが、
まず、
昨夏の段階での認識と、それに基づいた取り組みとしては、

一つには、
 「蚊に刺されるには、理由がある」
 「蚊に刺されることは、身体にとっては、むしろありがたいことかもしれない」
ということを、認識しました。

その認識・理解から、
蚊に刺されることへの、理不尽な想いや、怒り、そして恐れが、少なくなり、
また、
蚊に刺されることへの抵抗感が、少なくなりました。

その結果、
蚊に刺されること自体が減り、
かつ、
蚊に刺された場合でも、その腫(は)れと、かゆみが、小さくなりました。


続いて、
秋に入り、津留さんの講演会CDを聞きました。

そこでは、津留さんの、
 「蚊は、人類の『チクチク』と外側を攻撃する性質の現れだ」
という見解を知りました。

そして、
僕は、そのことを、心の底から、納得しました。

というのは、
僕は、自分自身で、
 「僕は、蚊に刺されることを『異常に』嫌っている」
ということを認識している以上に、
 「僕は、普段、外の世界を、他人を、『チクチクチクチク』と攻撃している」
ということを、認識していたからです。
 「僕は、普段、外の世界を、他人を、しょっちゅうしょっちゅう、批判し、とがめている」
ということを、はっきりと、自覚していたからです。

 「自分が、外側を、『チクチク』と刺している」
という『作用』の結果、
『反作用』として、
 「蚊から、『チクチク』と刺されている」
ということに、
すごく、納得しました。

 「自分が、しょっちゅうしょっちゅう、外側をとがめる」
結果として、
 「蚊から、極めて頻繁に、刺される」
という事実に、
心の底から、納得しました。

 「こりゃぁ、しょ〜がないやぁ」
と、蚊に刺されてしまうことを、あきらめました。

そして、
この事実に、心から納得した結果として、
より一層、
 「僕は、もう絶対に、人をとがめない。何もとがめない。」
ということを、決意しました
(これについては、過去記事「自分に気づく訓練・儀式・アファメーション」を参照ください)。

 「『とがめない』結果、
  『蚊に刺されない』という現象を『創造』しよう」
という意図によってではなく、

単純に、純粋に、
 「『自分が、外側をとがめている』という事実を、
  これ以上ない形で、指摘され、気づかされた」
ということそのものを、素直に、謙虚に、認め、受け入れ、
そして、
 「それを変えよう」
と、純粋に、思ったからです。

 「『とがめてしまいがち』な自分を、
  これを契機に、止めよう」
と、純粋に、思えたからです。


以上のような認識に加えて、
今夏は、
定石(じょうせき)通りに、蚊に対して『浄化』することにしました。

そして、
その、蚊に対する浄化を、
定石通りに、行うことにしました。


まず、
僕の、蚊に対して持っている『恐れ』を、浄化しました。

先に触れたとおり、
僕には、尋常ならぬほどに、「蚊に対する『恐れ』」が、あります。

その「『尋常ならぬ』恐れ」が、
法則通りに、
「『尋常ならぬ』ほどに、蚊に刺される」という現象を、創り出しています。

そこで、
その『恐れ』『嫌さ』を、浄化しました。

 「僕は、すごく、蚊に刺されやすい」
という『記憶』や、
 「蚊にさされると、とてもかゆいし、とても腫れる」
という『不快感』『記憶』を、
そして、
 「蚊に刺されるのは、絶対に嫌だ!」
という『想い』『恐れ』を、
浄化しました。

その、浄化の、直接的な結果によって、
その『恐れ』『嫌さ』は、
少し、軽くなりました。

正直に、かつ、正確に言えば、
軽くなったのは、『少し』だけです。

ただ、
その程度の『量』であっても、
その変化ぶりは、
以前の自分からしたら、信じられないほどです。

軽くなったのは『少し』なので、
まだまだ、基本的には、『かなり嫌』なままなのですが、
でも、体感的に、かなり楽になりました。

例えば、
自分の身体の近くを飛んでいる蚊を見つけても、
動かずに、「ただ、目で追う」ことができるようになりました。

以前なら、
もう条件反射で、即座に立ち上がり、追いかけ、始末しようとしていたところを、
動ぜずに、見ることができるようになりました。

その変化で、
なにより、自分が楽になりました。

蚊を見るたびに、軽い『パニック』になっていたのに ^^; 、
いまでは、
まずは、「ただ見ていられる」ようになったのですから。

このように、
一つには、定石通りに、
蚊に対して自分が持っている『エネルギーブロック』を、浄化しました
(正確には、もちろん、いまも、浄化し続けている段階です)。


加えて、
もう一つ、蚊に対して、『浄化』で対処しています。

それは、
蚊に刺されたとしても、掻(か)いたりせずに、
その『かゆみ』を、『感じ尽くす』ようにしています。

『かゆみ』を、
『感じる』ことによって、『浄化』しています。

そうすると、
本当に、ビックリするくらいに、
感じるかゆみが少ないですし、
かゆみも早く引きます。

そして、
刺されたところの腫れが、少なくて済みます。

これは、
『痛み』や『かゆみ』といった、
「肉体の症状」に対する『浄化』の定石ですが、
これは、ちょっと、ビックリするくらいに、効果があります。

 (このことについては、また、機会を見て、お伝えします。
  興味を持たれた人は、ぜひ、試してみてください。
  ただし、される場合には、
  「余裕のある状況」で、「軽めのもの」に対して、行ってみてくださいね。)


ただ、
これは、先にも触れました、
 「刺されるのは、自分が、『とがめている』ことの結果である」
ということを、頭で理解し、気持ちとしても納得している、
ということと、深く、相互に、関連しています。

このような理解と納得があるから、
「刺されること」および「刺された場合のかゆみ」に対して、
「しかたない」というあきらめ、受け入れがあり、
それによって、「刺されること」「かゆみ」への拒否感・抵抗感が減り、
その結果、
「感じるかゆみ」も、「刺された後の腫れ」も、減ったのだ、と思うからです。

これまでは、
 「嫌だ。おまえ(刺されること・かゆみ)なんか認めない!受け入れない!」
という、僕のエゴの、強い強い拒絶感が、
 「そうか。それなら、絶対に認めさせてやる!受け入れさせてやる!」
という『反作用』を生み出し、
その結果、
僕が、その存在を認めざるを得ないほどの「強烈なかゆみ」「不快感」を、
肉体に感じさせられていたのです。

僕が、
 「嫌だ! 絶対に嫌だ!!」
と拒絶するのと、同じだけの力で、
 「ダメだ! 絶対に認めろ!受け入れろ!」
と、主張してきていたのです。

僕が、その存在を『はねつける』のと、同じだけの力で、
それらが、『押し返して』きていたのです。

いまは、
それが、はっきりと、分かります。

 自分が、これまで感じてきた、
 猛烈な『かゆみ』と、悲惨なまでの『腫れ』は、
 自分自身の、猛烈な『拒絶感』『恐れ』の現れだった、
ということが ...


さらに。

突然、ある記憶がよみがえってきました。

これは、『浄化』をしていると、往々にしてあることですが、
自分では、すっかり忘れてしまっていた、関連ある『記憶』を、
突然、思い出しました。

僕が小さかった頃。
僕が蚊に刺されると、
母や、祖母が、飛んで来て、
 「あぁ〜、かわいそうに!」
 「あぁー、かゆいねぇ。かわいそうだねぇ。」
 「あー、蚊が憎たらしいねぇ!」
と言いながら、刺されたところを、掻いてくれていたことを。

これまで、僕が、
蚊に刺されることを異常に嫌ってきた理由の一つとして、
そんな『記憶』があったことに、
気づきました。

 「蚊に刺されると、『かわいそう』なほどに、かゆいんだ」
 「あぁ、蚊は『憎たらしい』ものなのだな」
そんな『考え』『想い』を、小さい頃に握り、
そして、それを『想念』として、『記憶』として、
これまで、思い出せないところにしまい込んで、持っていたことに、
気づきました。



 「蚊に刺される」
 
こんなテーマで、こんなに長い文章が書けたなんて、
とっても僕らしくて、
読み返してみて、自分で笑っちゃいました。

これまで、蚊に刺され続けてきて、
よかった、のかも ^^ 。






2014年7月14日月曜日

浄化ドM道


私たちは、普段、
 「自分が、ストレスを感じないように、感じないように」
注意を払っています。

 「自分が、ストレスを感じることがないように、ないように」
気をつけ、自らの行動を、選択しています。

あるいは、
 「自分にストレスを感じさせる事柄が、
  可能な限り、自分の周りに存在しないように」
状況を、環境を、選択しています。

そして、
もし、その、自分にとって不都合な状況・環境が、
「避けられない」「排除できない」ものであれば、
そのときには、
私たちは、その状況を、
 「自分がストレスを感じないですむようなものに、変えよう、変えよう」
と、努力します。
状況・環境を、
『操作』『コントロール』しようと、『創造』しようと、努力します。

このように、
私たちは、普段、
できる限り、『ストレス』を、避けて、避けて、生きています。


もう2ヶ月近くも前になると思うのですが、
久しぶりに、子供抜きで、妻と二人で、
外で食事をする機会がありました。

普段、子供たちがいるときには、
彼らの都合を優先して、席を決めているので、
そのときには、妻の好きなように、席を選んでもらいました。

とても大きなレストラン・カフェで、席は様々に選択可能な中、
妻は、窓際のテーブルを選び、座りました。
明るく、景色のいい場所で、それはよかったのですが、
ただ、僕が座る側の席のすぐ後ろには、
騒がしい若い女の子たちが、二人、座っていました。

席に着いてみると、
予想通り、いえ、予想を超えて、
その女の子たちの話し声は大きく、
そして、途切れることがありません。

せっかくの、子供抜きの、妻と二人の外食なのに、
子供たちが居るとき以上に騒がしい状況に、イラッとしました。

そして、
 「なんで... 」
頭の中で、思考の声が、つぶやきはじめました。
 「なんでわざわざ、こんな席を、選ん... 」
と、そこまでつぶやいたときに、
まず、あることに気づきました。

それは、
自分が、その環境を、
 「自分にストレスを与える環境である」
と認識して、
そして、
 「それを避けようとしている」
ということです。

自分が、可能な限り、
 「自分にストレスを感じさせるような状況・環境を、
  排除しよう、回避しよう」
としていることを、はっきりと認識しました。

と同時に、
 「そのような環境を『わざわざ』選択し、
  そして、それを僕に『与えた』妻を、
  非難している、とがめている」
ということにも、気づきました。

以前の記事「彼がしているのか、宇宙がしているのか」で、
 「自分にストレスを感じさせているのは、
  目の前にいる『人』なのか、
  それとも、『全体としての宇宙』なのか?」
ということを書きましたが、

僕は、やはり、まだまだ、これまでの習慣で、反射的に、
 「目の前の『人』が、
  自分にとって不都合なこと・好ましくないことを、
  自分に対して、行っている」
と、認識し、
そして、その上で、
その『人』を『とがめ』ている、ということに、気づきました。


そのときには、
それらのことに気づいたのに加えて、
さらに、ふと、あることを思いました。

津留さん交流会に、いつも参加くださる方で、
この10年、浄化に励まれている方がいらっしゃいます。

その方は、ご自身曰く、
 「趣味は、『想念観察』と『浄化』」
なのだそうです ^^ 。

で、
もう、そうなってくると、
 「自分は、『精神的M(マゾ)』だ」
というような認識になってくるみたいで、
交流会では、そう、公言されています。

それは、つまり、
 「ストレスを感じることが、嬉しい!」
という心境なのだそうです  (◎-◎;) 。

 「やった!ストレスを感じてる!!」
 「まだ、浄化対象があった!」
 「まだ、エネルギーブロックがあった」
 「これでまた、浄化ができる」
 「これを取れば、またさらに、楽になれる」
どうやら、そんな心境らしいです ^^

さて、
そのときに思ったのは、
 「あの方なら、この状況を『喜ぶ』だろうな」
ということです。
 「ストレスを感じることができて、さぞ、嬉しいだろうな」
そんなふうに、思いました。

そして、そこまで思って、
さらに、
ひとつ、想いが浮かびました。

 「いや、あの方なら、
  自ら進んで、そのような席を選ぶのではないか?」
 「そのような席を、『与えられた』ことを喜ぶだけでなく、
  自ら進んで、そのような環境を選ぶのではないだろうか?」

そんな想い・考えを、その場で、妻に話したところ、
 「さすがに、そこまでは、されてないのではないか」
という結論になったのですが、
事の真相真偽はさておき、
可能性としては、そのような選択肢もあるわけですよね。

つまり、
 「日ごろ、自ら進んで、積極的に、
  ストレスを感じるほうを、ストレスがより多いほうを、選択する」
という在り方も、あるわけですよね。


意識して、気づいてみると、
はじめに触れましたとおり、
私たちは、本当に、凄まじい勢いで、
ストレスを感じることを、「避けよう」「回避しよう」と、
懸命になっています。

そのような状況・環境を、「避けよう」と、「回避しよう」と、
必死になっています。

場合によっては、
現実を『創造』してまで、
 「ストレスを回避しよう」
としています。

そんな中、
 「自ら進んで、『ストレス』を選択する」
という『可能性』について思い至ったとき、
何か、自分の中の、『ストレス』に対する想い・認識が、
少し、変わった気がしました。

僕は、まだ、
『ストレス』を『ストレス』と感じていて、
 「感じないで済むなら、感じたくない」
 「だけど、いま、せっかく感じたので、じゃぁ、浄化しようか」
というような感じで、
日々、ハートに感じたストレスを、浄化しています
(過去記事「ハート観察」も参照していただけると嬉しいです)。

このように、
 「『感じた』『感じてしまった』ストレスについては、
  それに気づき、それを『感じて』、そして『浄化する』」
ということが、少し、できて来ていますが、

ただ、
まだまだ、
 「ストレスを『感じなくて済む』なら、感じたくない」
 「避けたい、回避したい」
と、思っています。感じています。

そんな中、
 「『感じた』ものについて『は』、逃げず、逸(そ)らさず、浄化する」
という考え・在り方から、さらに一歩進めた、
 「自ら積極的に、ストレスを感じに行く」
という考え方を、
自分の中に取り込んでみたときに、

自分の中の、『ストレス』に対する想い・認識が、
少し、変わりました。

 「取り込んだ」
といっても、
それを「採用した」わけではありません。
いま、そのようにしているわけではありません。
そこまでは、まだ、思えていません。

ただ、
 「そういう考え方もある」
ということを、頭で認識し、
かつ、その認識を否定せず、排除せず、
 「それも、有り得る」
と思っただけで、

その後、
自分の、
 「『ストレス』に対する『感じ方』」
が、変わりました。

 「嫌さが、少なくなった」
と表現するのがいいと思います。
 「より、抵抗少なく、受け入れられるようになった」
というような感じかもしれません。

 「自分から進んで、『ストレス』を感じに行くことだって、できるのだから、
  『浄化』のために、そこまですることだって、可能なのだから、
  避けがたく、すでに『感じてしまった』ものくらい、素直に受け入れよう」
そんな心境かも知れません。

とにかく、
その「嫌さ」「抵抗感」が少なくなったことにより、
よりスムーズに、
 「いま、『ストレス』を感じている」
ということに気づけるようなりましたし、
かつ、
よりスムーズに、
 「その、いま感じている『ストレス』を、そのまま浄化しよう」
という流れに、入って行けるようになりました。

そんな体験・情報を、シェアさせていただこうと思い、
ここに、お伝えいたしました。


さて。

そのとき以来、妻と僕は、
そのような、
 「自ら積極的に、ストレスを感じる環境を選択する」在り方を、
 
「M」の上を行く、という意味も含め、
 『 浄化ドM道 』
と、呼んでいます。

浄化についても、
 「そこまでくれば、もう、『道』だ」
という認識です ^^ 。

日ごろ、浄化を進めていらっしゃる方は、
ぜひ、そんな『 浄化ドM道 』について、そんな在り方について、
少し、思いを巡らせてみてください。

『ストレス』や『浄化』についての認識や感覚が、
少し、変わるかもしれません。

ただ、
僕は、それを薦めているわけでは、ありませんからね ^^

特に、
浄化を始められたばかりの方は、
どうぞ、無理なさらないでくださいね!







2014年7月10日木曜日

ハート観察

津留さんは、
 『想念観察』
と、
 『呼吸に意識を合わせること』
とを、
常日頃、意識的に行うべきこととして、推奨していました。


 『想念観察』
は、
 「自分が、いつも、どんなことを考えているのか」
 「どんな思考をしているのか」
 「どんな想念を持っているのか」
 「どんな思考パターンを持っているのか」
そういうことに気づくことを、目的としています。

それによって、
自らの持つ
 『エネルギーブロック』『ミニ自我』『価値観』『想念』『思考パターン』
を見つけ出し、
そして、
 「それらを浄化する」
ことができるようになります。

と同時に、
 『思考している自分』『思考に入っている自分』『想念と一体化している自分』
に、いち早く気づき、
そして、
 「そこから離れられるようになる」
ことができます。
思考から離れる、その第一歩として、
 「常に『自分』を見張る、ということができるようになる」
という効果もあります。

つまり、
 『思考・想念との一体化に気づき、そしてそれを止める」
 「思考が自動的に始動することに気づき、そしてそれを止める」
そんな効果もあります。


また、
 『呼吸に意識を合わせる』
のは、

 「『呼吸』をしている自分は、『大我』としての自分」
なので、
 「そこに意識を合わせるのは、すなわち、『大我』としての自分に意識を合わせる」
ことになります。

その状態こそが、津留さん曰く
 『理想の状態』
であり、
24時間、常に、その状態で居られれば、それは
 『悟った人』
だそうです。

ちなみにいえば、
そのときには、自動的に、「思考から離れた自分」で居られます。


さて。

僕の現状を、正直にお話しすれば、

 『想念観察』
に関しては、
まあ、少し、できているかもしれません。

 「自分の思考が動き出す」
こと、そのものを、止められるようには、あまり、なっていませんが、
 「動き出したことを、そのしばらく後に、気づく」
ことは、少し、できるようになってきています。

なので、
まだまだ、
 「動き出した思考と一体化してしまう」
ことは、それなりに、あるのですが、
それでも、
 「それに、どっぷりと浸かってしまう」
ということは、
ずいぶんと少なくなってきたというか、落ち着いてきた、という感じはしています
(もちろん、これは、完全な『主観』ですが ^^; )。

一方、
 『呼吸に意識を合わせる』
ことは、
お恥ずかしながら、まったく、できていません。
ふだん、『呼吸』には、
まったく意識を向けられていません。

まだまだ、
 『エネルギーブロック』だらけ、『ミニ自我』だらけ
で、
まだまだ、
 「思考の動き」が活発で、頻繁に「思考が動き出す」
状態なので、

それらに意識を向けることで精一杯で、
『呼吸』には、
ぜんぜん意識を向けられていない状況です。


ところで、
いま、
 「それら(思考の動き)に意識を向けることで精一杯」
って言いました。

たしかに、
いったん、思考が動き出せば、そして、そのことに気がつけば、
 「意識をそこに向け、思考を観察する」
と同時に、
 「できるだけ速やかに、それを止める、抑える」
ということをしています。
そうすることを、心がけています。

ただ、
では、
 「日ごろ、何を、一番、心がけているか?」
 「何に、一番、意識を向けているか?」
ということに関していえば、
僕の場合、それは、
 「ハートの状態」
です。
 「ハートに感じる、感情」
です。

僕は、それを、
 『ハート観察』
 『感情観察』
と、呼んでいます、
一人で、勝手に ^^ 。


僕の場合は、
不快な感覚は、
ほとんど、『ハート』に感じます。

いわゆる『ストレス』は、
 「『ハート』の不快感」
として、感じます。

もちろん、それは、あくまでも、
 「ほとんど」
であり、

たとえば、
 「あ、これは、マズイ! どうしたらいいだろう!?」
というような、大きめの動揺や、大きめの焦りの場合は、
頭全体(特に、頭頂から後頭)が痺(しび)れて、
思考がきちんと機能しないような状態になり、
かつ、同時に、
ほんの少し、意識が後退するような感覚があります
(いわゆる、『頭が真っ白になる』状態ですね)。

あるいは、
 「なんだと!」
というような、大きめ・強めの怒りの場合は、
頭(特に、前頭から頭頂)が膨張し、そして圧迫されて、
その圧迫の中で、意識が拘束されてしまっているような感覚があります
(いわゆる、『頭に血がのぼる』状態ですね)。

というように、
『ハート』以外で、ストレスを感じることもありますが、
ただ、
基本的には、ほとんど、
 「『ハート』でストレスを感じる」
ので、
常日頃は、『ハート』の状態を観察しています。

これも、また、
「常にできている」わけなんかではなく、
しょっちゅう、しょっちゅう、
意識は、ふらふらと、『ハート』からどこかへ、行ってしまっていますが、
でも、
可能な限り、意識を『ハート』に向け、その状態を観察しています。

 「いま、『ハート』に、ストレスを感じているか、いないか?」
 「『ハート』に刺激があるか? 違和感があるか?」
を、見張っています。
『感じて』います。

そして、
何か、『ハート』に感覚があれば、『刺激』『痛み』があれば、
それを、そのまま、『感じ』ています。
可能ならば、
その『感覚』『刺激』が消えてしまうまで、
それを、そのまま、『感じ』ています。

もし、
 意識が逸(それ)れてしまったり、
 意識が思考に行ってしまったり、
 あるいは、その『感覚』が逃げてしまったり、
ということがあっても、
とりあえず、そのことは気にせず、
とにかく、
 「いま来ている『エネルギー』に意識を向けること、『感じ』ること」
をしています。

つまり、
いま、その場で、できる分だけ、『感じられる』分だけ、
 『浄化』
をしています。


このことができているときには、
意識は、『ハート』に向けられていますので、
結果として、
意識を『思考』から離すことも、同時に、できています。

また、
自分のストレスを、生じるそばから、気づけていますので、
 「『何』が、自分にストレスをもたらしているのか」
に、気づけます。
 「『何』が、自分の『ブロック』を刺激するか」
に、気づけます。
つまり、
 「『何』を、自分は『問題』としているのか」
に、気づけます。
そして、
もちろん、
 「『何』を、自分は『ブロック』として持っているか」
に、気づけます。

そして、
すぐ、そのまま、
 『浄化』
を行うことができます。

意識を、
『内側』に『内側』に、向けることができます。
向け続けることができます。


さて、
日ごろ、このように、『ハート』を観察していると、

お恥ずかしながら、
僕の場合、
常に常に、『ハート』は、ストレスを感じています。
常に常に、『ハート』は、「チクチク」と、痛みを感じています。

本当に、様々なことに、『ハート』は反応し、
本当に、些細なことに、『ハート』は痛みを感じています。

これって、
僕が、『ブロック』だらけだという、なによりの証拠なので、
ここで明らかにするのは、お恥ずかしい限りなのですが、

とはいえ、
その痛みに『気づけ』ている、ということは、
 「意識を、しっかりと、『意識的に』、『ハート』に向けられている」
という証拠でもありますし、

あと、
その痛みが「チクチク」程度の、小さなものである、ということは、
 「大きな『ブロック』に関しては、ある程度、浄化が終わっていて、
  いま、日常生活において刺激されるような『ブロック』は、
  ずいぶんと、小さなものばかりになった」
ということの証拠でもある、と認識しています。

なので、
個人的には、そのことを、あまりネガティブには、とらえていなくて、
 「まあ、いいか」
 「仕方ない。これが、等身大の自分だ」
というような感じで、
素直に、受け止め、受け入れています。


おそらく、
一人でいる時とか、あまりブロックが刺激されないような環境では、
僕のようなタイプであっても、
『呼吸に意識を合わせ』たり、『想念観察』をするのが、いいのだと思います。

ただ、
僕の場合は、
誰か他の人と一緒にいるときには、
まだまだ、様々なことに、些細なことに、雑多なことに、
細かく細かく、たくさんの刺激・ストレスを感じるので、
いま、している、
 『ハート観察』
 『感情観察』
というのは、
 「それでいいのではないか」
と思っています。

 「『感じる』がままに、『浄化』ができる」
という点においても、とてもいいと感じています。


津留さんが、
 「『想念』『呼吸』」
と言ったように、

たとえば、
先にご紹介した上江洲先生は、
 「『第3の眼』に意識を向けること」
を説いてらっしゃるし、

あるいは、最近では、
 「『丹田(男性の場合)』『子宮(女性の場合)』に意識を向けるのがいい」
というような話も、耳にしました。

確かに、そうなのかもしれません。
 『覚醒への近道』
という意味では、おそらく、そうなのだと思います。

ですので、
それらに興味がある方は、
それらに意識を合わせ、合わせ続けられる方は、
ぜひ、それらを行っていただければ、と思います。

ただ、
現状の僕には、
『ハート観察』は、とても向いているし、
遅い歩みであるとはいえ、
 「ちゃんと前進している」
という実感もあります。

一回一回の浄化は、
とても小さく、とても細かいものですが、
 「常に常に浄化を行っている」
という点では、
 「まあ、これでいいのではないか」
と、思っています。

もしご参考になることがあれば、と思い、
ご紹介させていただきました。





2014年7月9日水曜日

たとえば、やさしさとは


 『無条件の愛』

 「無条件の愛」この言葉ほど私の魂をふるわせる言葉はありません。
 神は光であると伝えられました。
 しかし私にとってそれは単なる説明でしかありませんでした。
 そこに感動がなかったからです。
 しかし神とは「無条件の愛」であると伝えられたときには、
 これこそ我が目指すゴールであると感じました。
  
   津留晃一 メッセージ集 『無条件の愛』より


津留さんのメッセージ集の5番目にある『無条件の愛』から、
引用しました。

おそらく、このブログを読んでくださっている方、全員が、
すでに読まれているメッセージだと思います。

 「そのとおりだ」
多くの方が、気に入って、お読みになっておられることでしょう。


 『無条件』...

 「条件なし」に
あるいは、
 「制限・限定なし」に
ということですね。

表現を変えれば、
 「そのまま」で
 「あるがまま」で
ということですよね。

 「『そのままの自分』を受け入れてもらう」
 「『そのままのあなた』を愛する」

そんな言葉に、心躍らせる方も多いのではないでしょうか。

 「ただ『そのまま』を愛し、ただ『そのまま』で愛される」

そんな言葉に、魂をふるわせられる方も多いのではないでしょうか。


ところが、
人は、
『そのまま』の相手を、愛せません。
『そのまま』の相手を、受け入れられません。

そして、
『そのまま』の相手を、愛することができない、受け入れられない『自分』を、
とがめてしまいます。

もうすでに、
愛することが、受け入れることができないことで、
十分に、苦しんでいるというのに、
さらに、そんな自分をとがめ、否定することで、
さらに、一層、苦しみます。

そんな
 『苦しさ・つらさの無限ループ』
に入り込み、
悩まれている方も、多いことでしょう。


では、
なぜ、人は、『そのまま』の相手を、愛し、受け入れることができないのでしょうか?

それは、
津留さんの説明によれば、
 『そのまま』の相手では、
 自分の中の『エネルギーブロック』が刺激されて、
 自分が苦しくて、つらくて、しかたないから。
ということです。

 『そのまま』の相手の中に有る、『そのまま』の相手が持っている、「ある要素」が、
 自分の中に有る、ある『エネルギーブロック』を刺激して来て、
 その作用の結果、自分が苦しくて、つらくて、しかたないから、
 どうしても、『そのまま』の相手を良しとできない。

頭では、十分に分かっているけれど、
でも、
 「恋人なら、こうして欲しい」
 「夫なら、こうして当然でしょ」
 「妻なんだら、そうすべきだろ」
 「人として、それは、いけないでしょ」
 「そんなお金の使い方したら、足りなくなるよ」
 「そんな言い方、ないでしょ」
そんな想いとともに、
強い苦しみが、どうしても、湧き上がってきます。
押さえきれない苦しみが、どうしても、こみ上げてきます。


そして、
これ、
 「どうしても」
上がってくるんですね。

 「頭での理解」や、
あるいは、
 「意思の力」では、
どれだけ頑張っても、
どう踏ん張っても、
ダメなんですね。

これが、『エネルギーブロック』の作用なんですね。

津留さんは、これを、
 「手で持っている物が、手を離せば、落下するように」
って、説明していました。

つまり、地上における物理法則のように、
 「自然に起こること」であり、
 「当然のこと」であり、
 「仕方のないこと」なのだ、
って、言ってました。

『エネルギーブロック』が有る以上、
それは、仕方のないことなんですね。

では、
どうすればいいのか?

もう、ご存知のとおり、
 『浄化』
ですね。

もし、どうにかしたいのであれば、
それは、『浄化』すれば、済みます。

あるいは、『浄化』しかないと思います、
もし、「どうにかしたい」のであれば。


あるいは、
『そのまま』の相手を受け入れられない理由は、
こんなふうにも、説明できるかもしれません。

過去記事「ハートの光源」でお伝えしたような表現ですが、
 『そのまま』の相手を受け入れて『あげる』だけの余裕が、
 自分に無いから。

 自分の内側から放たれる『光』『愛』『エネルギー』を、
 『エネルギーブロック』がふさいでしまっていて、十分に感じられないので、
 自分の中のそれらの量が、十分ではなくて、
 受け入れて『あげる』余裕がない。
ということです。

たとえば、
 自分を、きちんと保つことに精一杯で、
 自由な状態の相手を、受け入れる余裕がない
というようなことです。

なので、
この場合も、同様に、
 「『エネルギーブロック』があるから」
『そのまま』の相手を受け入れて『あげる』ことができないのであり、

そして、同様に、
『そのまま』の相手を受け入れるには、
 『浄化』
をする、ということになります。


説明としては、どちらにしても、
このように、
私たちは、『そのまま』の相手を愛することができません。

ところが、
これを相手方から見た場合、受け取る側から見た場合、
この
 「『そのまま』の自分を受け入れ、愛してほしい」
という欲求は、とても根源的で、深いものです。
とても深く、とても強いものです。

前の記事「最大のパラドックス」でも書きましたとおり、
私たちは、みな、その最も深いところで、根源的なところで、
 『欠落感』『欠乏感』『不完全だという想い』
を、握りしめています。

それゆえに、
私たちは、みな、その本質的な部分で、
 「自分は、欠点がある・完全ではない、という恐れ・怖さを、どうにかしたい」
 「その欠落を、欠乏を、埋め合わせたい」
 「満たされたい」
という想いを、欲求を、抱えています。

そして、
その本質的な想い・欲求を、言葉で表せば、
究極的には、
 「この自分で、OKだ、と認められたい」
 「そのままの、あるがままの、自分を、ただ、認め、受け入れられたい」
というところに行き着くと思います。

個人セッションをさせていただいていても、
 「結局、最終的には、そこですね」
というケースが、見受けられます。


そう考えると、
 「ただ、認め、受け入れる」
っていうのは、
 する側にとっては、難しく、
でも、
 してもらう側にとっては、とても大切で、とても貴重
ですね。

私たちは、日ごろ、
 「・・・してあげられなかった」
と、具体的な行動をすることができなかった自分を責め、
そんな自分を、「やさしくない」と責めます。

確かに、
人は、表面的には、
 「・・・をしてほしい」
 「・・・してくれ」
と想っていますし、そう言います。

でも、
その最も深い部分では、
そんな『何か』をしてほしい、というよりも、望んでいるものがあります。

そんな想いを満たしてあげること。

 「ただ、そこに、ともに、居てあげること」
 
これこそ、
 人が、実は、一番求めているものであり、必要としているものであり、
そして、
 それを、してあげられることこそが、実は、真の『やさしさ』なのではないか。

 「『そのまま』を認め、受け入れる」
ということの難しさを感じるにあたり、
そんなことを想いました。


 「具体的に、『何か』をしてあげる」
ということは、
もちろん、それはそれで、とても大切なことですが、

でもそれは、
いわば、二次的な問題であり、
あるいは、妻がよく使う表現を借りれば『オプション』のようなものであり、

 ただ、そのままの相手を、
 否定もせず、意見もせず、要求もせず、
 ただ、ともに居る、ただ、寄り添う...

 そんなものが、
 深い意味での、本当の『やさしさ』なのではないか。

そんなふうに想っています。

 夫婦関係や、恋人関係、
 あるいは、親子関係。
 親密で、深い、人間関係においては、
 まさに、そんなことこそ、そんな認識こそ、大切なのではないか。

そんなことを、想ったりします。

もちろん、それは、
 「言うは易し、行うは ... 」
なんですが ... ^^







2014年7月6日日曜日

最大のパラドックス

 「この世界は、パラドックスです」

津留さんが、よく言っていたことですね。


 「パラドックス」

その意味を、そのままストレートに説明するのは、難しいですが、
ここでは、
 「一見したことと逆の結果になる」
とか、
 「常識的には矛盾した結果になる」
とか、
そんなふうにとらえていただければいいと思います。


たとえば、
 「彼氏が欲しい、欲しい!」
と想っていると、なかなか彼ができなくて、
 「まあ、いなくてもいいか」
と想えると、突然、彼氏ができる、とか。

あるいは、
 「お金が無いと、困る」
と想っていると、お金が無くて困り続けて、
 「お金なんて無くても、大丈夫だよ」
って想えると、急に、思いがけない大金が転がり込んできたり、とか。

あるいは、
 「こうしてくれ。こうして欲しい」
と言っていると、どうしてもそうしてくれなくて、
 「そのままのあなたでいいよ」
と想えると、ある時気がついてみると、そうしてくれていた、とか。

あるいは、
このブログの最初に書いた、あいだみつをさんの言葉、
 「奪い合うと、足らないけれど、分け合うと、余る」
なんていうのも、そうですよね。

あるいは、
これも、このブログのはじめに書いた、
 「すべての敵を打ち負かして、最強になろう」
と想っていると、どんどん際限なく強い『敵』がやって来て、無敵になれず、
 「いや、みんな仲間だ。『敵』なんていない」
と想えると、その瞬間から、『無敵』になってしまう、とか。

そんなところが、
今、僕がパッと思いつく例です。

おおよその『パラドックス』の意味は、
つかんでいただけたことと思います。


そのように、「この世がパラドックス」な構造なのは、
たとえば、以前の記事「創造のパラドックス」に書かせていただいたこととか、
あるいは、「与えたものが、受け取るもの」という法則によって、
基本的には、説明することができるのではないか、と、思っています。

ただ、
今日は、とりあえず、その説明については、置いておいて、

ここでは、
そんな『パラドックス』の中で
 「最大のもの」
と僕が思うもの、

あるいは、
 「究極のもの」
と僕が認識しているもの、

あるいは、
 「最も根源的な『パラドックス』」
とも言うべきものについて、
お伝えしたいと思います。


それは、
 「私たちは、元々、神であった」
ということです。

そして、
 「私たちは、神に『還っていく』のである」
 「私たちは、神に『戻る』存在である」
ということ、です。


 「私たちは、元々、神であった。」
津留さんのメッセージの、最前提にある、考え方ですね。

 私たちは、元々、『全知全能』の神であった。
 私たちは、『すべて』であり、『全体』であった。

 その『神』が、
 『神』であることに『飽き』てしまって、
 『神』では『体験』できないことを『体験』したくて、
 この物質界・この宇宙を創り、
 そして、『全体』から分離して、『人間』となった(なっている) ...

そんな、考え方です。

ある人は、何の抵抗も無く、受け入れたかもしれません。
ある人は、ただ、信じたかもしれません。
また、ある人は、そうであったことを『思い出した』かもしれません。

そんな、考え方です。


津留さんの説明によれば、
『全体』であった私たちは、
『分離』され、『切り離された』その瞬間から、
『欠落感』『欠乏感』を抱きました。
『不完全さ』を感じました。

『全体』であり、『全知全能』であったのに、
突然、『分離』し、『欠片(かけら)』となり、『できなく』なり、『分からなく』なり、
それゆえに、
『魂』的に、そのもっとも深いところで、
『欠落感』『欠乏感』『不完全さ』を抱くようになりました。

あるいは、
妻がよくお伝えしているのですが(出典は、雲黒斎さんの本のようです)、
私たちは、みな、
母親の胎内にいるときには、
『包み込まれ』て『安全』で、『満たされて』いて、
しかも、母親には、テレパシーのように、「思ったことがそのまま伝わる」状態が、

産まれ出る瞬間から、
突然、『暗く』『狭く』『苦しい』産道を通らされ、
産み落とされると、目もくらむ眩しさに照らされ、
しかも、不安定で頼りない外の世界に投げ出され、
さらに、母親とも、まったく意思の疎通ができなくなっている ...

そんな体験から、
『人間』的・『肉体』的にも、その原初の体験として、
『欠乏感』『不安感』を抱くようになるそうです。


そんな『欠落感』『欠乏感』『不安感』から、
私たちは、みな、当然のように、
 「完全になりたい」
 「できるようになりたい」
 「分かるようになりたい。知りたい」
 「神のようになりたい」
と、強く、感じます。
強く、想います。

そして、
そのように、「できるようになりたい」と想ったとき、
その『欠乏感』ゆえに、
 「できるようになるためには、あの能力を『手に入れ』なければ」
 「分かるようになるためには、あの能力を『得』なければ」
と、
 『得よう』『得よう』
とします。

 「自分は『足りない』存在だから」
と、
 「『得よう』『手に入れよう』」
とします。

ところが、
それこそが、実は、
 「『最大の』『究極の』『最も根源的な』パラドックス」
なのですね。


私たちは、そもそも、『神』です。
私たちは、元々、『神』なのです。

そして、
『神』が、『神ならざる者』を体験するために、
『神ならざる』状態になっているだけなのです。

私たちは、今、この状態においても、『神』そのものなのです。

ただ、
『神』が、『神ならざる者』を体験するために、
自らが『神』であることを『忘れている』だけなのです。

自らが『全知全能』であることを『忘れている』だけなのです。

私たちは、
 「自分は『不完全』である」
 「自分には『分からない』『知らない』」
 「自分には『できない』」
という考え方を受け入れ、
自らが『全知全能』であることを『忘れ』ました。
そして、身につけたそんな考え方を裏付けるような体験を重ね、
それゆえに、そんな考え方をより強固なものとし、握りしめ、
さらに、それゆえに、そんな体験をさらに重ねていく ...

そんな循環を、何万年、幾世代と重ね、
しっかりと『人間』に成って来ました。
そうやって、
『人間』を極めて来ました。


そんな私たち『人間』からすれば、
 「『得る』こと『手に入れる』ことによって、
  神に『成る』」
という発想は、至極当然なことでしょう。

ただ、
実際のところは、
私たちは、いろいろなものを
 『持っている』から、
 『握りしめている』から、
 『手放さない』から、
『人間』なのです。
『人間』のままなのです。

 「自分は『不完全』である」
という考え方が、自分を不完全にしているのです。

 「自分には『分からない』『知らない』」
という思考が、自分を無知にしているのです。

 「自分には『できない』」
という想念が、自分を無能にしているのです。

その考え方が、思考が、想念が、
価値観が、記憶が、
私たちを、『人間』に、縛り付けているのです。

それらを手放したとき、
私たちは、自然と、
『神』に『還っていく』のです。
『神』に『戻る』のです。

『神』に『成る』のではなく ...


それらの『想念』は、
あるいは、『エネルギーブロック』は、『ミニ自我』は、
たとえれば、
それは、重い『重り』のようなものです。

そんな『重り』を、自らの意思によって、
身にまとい、身体に縛り付け、手放さないから、
浮かび上がることができないのです。

驚異的な跳躍力を身につけることが、
あるいは、浮遊能力・飛行能力を身につけることが、
浮かび上がるために必要なことなのではないのです。

私たちは、いわば、『気球』なのです。
『重り』をつけたままだから、飛べないだけなのです。

飛ぶためにすべきことは、ただ一つ。
『重り』を捨てること。『重り』を手放すこと。
ただ、それだけなのです。

 「『無い』から『神』に『成れない』」
のではなく、
 「『有る』から『神』に『還れない』」
のです。

それこそが、
私たちにとっての「最大の誤解」であり、
「最大のパラドックス」なんですね。


私たちは、日々、
 「これもない」「あれもない」
 「あれができない」「これができない」
と、自分のいわゆる『欠点』に意識を向け、

そして、
 「それらを『手に入れよう』」
と、もがいています。

 「それらさえ手に入れば、幸せになれるのに」
 「これさえできれば、『神』に近づけるのに」
そんなふうに、考えています。

しかし、実際には、
そんな考え方、想念こそが、
その状況を創り出しているのであり、
そんな考え方、想念を、手放すことだけが、
『神』に近づくために必要なことなのです。

それこそが、
『約束された道』を歩み進むために、唯一、必要なことなのです。





2014年7月1日火曜日

大阪でのイベントを終えて

2014年6月28日(土)と29日(日)の両日、
大阪市で、「津留さん交流会」、「浄化実践講習会」、「個人セッション」を、
無事に開催することができました。

まずはじめに、ご参加くださったみなさまに、お礼を申し上げます。
ご参加くださり、ありがとうございました。
お会いできて、とても嬉しかったです。


はじめての、『地元』以外での開催。
千葉・東京から、遠く離れた、大阪での開催。
泊まりがけで、二日連続の開催。
朝9時過ぎから、夜9時過ぎまでの、長時間開催。
しかも、妻抜きの、僕一人での開催。

準備段階から、普段とは違った作業や処理を多く必要としたため、
ご予約受付の段階では、何名かの方々に、
ご不便とご迷惑をおかけしたりいたしました
(その節は、すみませんでした m(_ _;)m )。

もちろん、当日の対応などでも、普段とは違ったことが、いろいろとあり、
そのすべてが、とても貴重な経験・勉強となりました。


今回は、両日合わせて、のべ31名の方々に、ご参加いただきました。
「浄化実践講習会」は、当日、ご都合が悪くなられた方々が多くいらっしゃり、
ご予約くださったのに、お会いできない方々がいらして、とても残念でした。

また、ご参加くださった方でも、ほとんどお話しをすることができなかった方もいらして、
そのことも、とても残念でした。
特に、「浄化実践講習会」は、会の性質上、そうなってしまうのはやむを得ないのですが、
それでも、やはり、残念です。
次回以降は、もう少し、いろいろなお話しをし合えるような内容のものも行いたいと、
思っています。
どんなことができそうか、少し、考えておきます ^^ 。


今、「次回以降は」って、書きました。
そう、僕としては、もう、再び、大阪にお伺いするつもりでいます ^^ 。

会の中で、何名かから、
 「また、大阪には、来ますか?」
と、ご質問いただきました。
ある方からは、
 「次回は、いつの予定ですか?」
とまで、言っていただきました。

 「個人的には、来たいと思っていますが、またご参加してくれますか?」
とお訊きすると、
 「はい。」
とおっしゃってくださった方々が、いらっしゃいました。
 「お手伝いもしますよ。」
という、とても嬉しいお声まで、いただきました。

本当に、ありがとうございます。
また、準備して、いずれ、お伺いしたいと思います。
そのときには、また、よろしくお願いします。


今回、いくつか、
特別に思い出に残るようなことがあったり、
記憶に残るお話を伺ったり、
あるいは、自信になる言葉をいただいたりしました。

その中でも、いちばん嬉しかったのが、
 「ブログ、読んでます。参考になります。」
というご感想を、いただけたことです。
それも、何人もの方から、そう言っていただけました。
具体的に、どう、ご利用いただいているか、とか、
どこが、どう、いいと感じているか、を、細かく教えていただいたりもしました。

2ヶ月前に、『大阪イベント』の開催を決めたとき、
 「妻抜きで、僕一人で行って、果たして、みなさんにお集まりいただけるのだろうか?」
という不安が、けっこう、ありました。

交流会や浄化実践講習会、個人セッションを、僕一人でやることには、
正直、さほどの不安などはありませんでした。
これまでにも、一人でやったことがありましたし。

ただ、
「僕一人でやる」ということを事前に明らかにして、
その上で、みなさんにご興味を持っていただいて、ご参加していただけるか、
ということに関しては、
浄化をしてみても、なかなか消えない不安がありました。

それに、これから初めて開催する場所で、
まだお会いしたことのないみなさんに、お集まりいただく、というのに、
僕『ひで』が、どんな輩(やから)なのか、を、
ご判断していただく材料を、ほとんどご提供していない、ということに、気がつきました。

これでは、不安があっても当然だ、と、思いました。
これでは、みなさまに失礼だ、と、思いました。

そこで、この2ヶ月間、
 「僕が、どんな人間か?」
 「どの程度の理解があるのか?」
 「と同時に、どの程度の理解しかないのか?」
ということを、参加をご検討してくださっている方々に、お伝えできるよう、
そして、お申し込みくださった方々に、事前に、お伝えしておけるよう、
折りを見ては、思っていること、感じたこと、理解できたことを、記事に書いてきました。

「幸いに」というか、
1月に、個人セッションを始めて、
2月に、浄化実践講習会を始めて、
それ以来、
自分の浄化度も、理解度も、一歩進んだという実感がありましたし、
それらを通じて、感じたこと、思ったことが、いくつもありましたし、
そして、それらを、みなさんのご参考にしてほしい、お役立ていただきたいと思う事項が、
いくつか、貯まって来ていました。

ただ、
2月の末娘の入院、義母の入院、
3月の義母の旅立ち、
4月の新年度を迎えるにあたってのシステム的な変更(サイトの改編など)、
などなど、
通常の業務、およびそれ以外のところで、どうしても、時間と意識を取られてしまい、
なかなか、ブログを更新するまでの時間も意欲も無い、という状態が続いていました。

なのに、内側には、みなさんに伝えたい事項が増えていく、
というジレンマ。

そんな中、流れのようなものによって、開催することが決まった『大阪イベント』。
僕にとっては、とてもいい機会でした。
とてもいいきっかけでした。

そうやって、
しかし、焦らずに、ちゃんと消化できたものだけを書くことも意識して、
これまで書いて来た記事を、
今回、多くの方に読んでいただけていることを知って、
そして、少なくとも、それらの方々には、ポジティブに利用していただけていることを知って、
本当に嬉しかったし、とても自信になったし、とても励みになりました。

これからも、
 「参考になります」
と言っていただけるようなものを書けるよう、精進したいと思います。

津留さんの遺してくれたものの内、
僕なりに理解できたもの、僕なりに消化できたものを、
僕なりの言葉で、僕なりの表現で、
書き表していきたいと思っています。

といっても、することは、
 「ただ、生きること。」
それだけです。

やって来る環境の中で、起きて来る物事の中で、
ただ、生きていくだけです、
自分の『ハートの状態』を『観察』しながら。

そして、その中で、
感じたこと、気づいたこと、あるいは『思い出したこと』を、
ただ、持ち合わせの言葉に変換していくだけです。

 『生きていること、そのものが、仕事』
だなんて、なんてありがたいことでしょう!

これもすべて、
津留さん、お義母さん、
妻の裕子さん、
そして、みなさんのおかげです。

本当に、こころから、感謝しております。

その想いを、これからも、謙虚に持ち続け、
思い上がることなく、勘違いすることなく、
ただ、『ひで』として、やって行きたいと思っています。

そんなことを、再確認、再認識できた、
大阪でのイベントでした。




 「第13回 津留さん交流会 in 大阪」の様子は、こちら をご覧ください。
 「第7回 浄化実践講習会 in 大阪」の様子は、こちら をご覧ください。