2014年12月31日水曜日

この一年、ありがとうございました(2014年大晦日に)


服喪中につき、
年末年始のご挨拶を、ご遠慮させていただきます



2014年、この一年、
集合人編集局は、
多くのみなさまにご愛顧いただき、

おかげさまで、無事に、
年を越すことができそうです。

みなさま、まことにありがとうございました。


2014年、ほんとうに多くの方々に、
津留さんの書籍・冊子、CD/DVDをお求めいただきました。

また、
私たちの催した、津留さん交流会・浄化実践講習会・個人セッションには、
大阪・鹿児島・札幌でのイベントへのご参加を含めると、
のべ387名もの方々に、ご参加いただきました。

改めまして、みなさま、ありがとうございました。


多くの方々に、
直接、津留さんのメッセージをお手元に置いていただいたり、

あるいは、
私どもが、直接お会いして、その骨子をお伝えしたりと、

津留さんが遺してくれたメッセージを、
たくさんの方々にお届けすることができたことを、
とても嬉しく思っています。

また、
浄化の方法をお伝えしたり、
そのお手伝いしたりと、

津留さんの遺してくれた『実践方法』である、
『浄化』についても、
たくさんの方々にお伝えできたことを、
とても嬉しく感じます。

いずれにせよ、
津留さんを通して、
この一年だけでも、とてもたくさんの方々とご縁をいただけたことを、
こころから、喜ばしく思います。


来年も、また、
特に気負うことなく、
目標や想いを持つこともなく、
淡々と、
すべきことをし、起きてくることに対処していこうと思っています。

どうぞよろしくお願いいたします。


 集合人編集局 裕子・ひで





2014年12月26日金曜日

冬至出雲旅行記


12月21日から23日まで、
家族で、出雲へ行ってきました

(その間、ご注文をくださったみなさま、
 ご対応が遅くなりましたこと、
 まことに申し訳ありませんでした)。


今年の冬至は、12月22日でしたね。
そして、その日は、新月でも、ありました
(ちなみに、大安でも、ありました ^^ )。

「冬至」は、
一年で、一番、日の短い日。

そして、この日を境に、
日が長くなって行きます。

『陰』が極まり、
そして、『陽』となって行く日です。

また、「新月」は、
月が見えない日です。

「月明かり」についても、
『陰』が極まり、『陽』となって行く日ですね。

「新月」のときは、また、
地上の私たちの位置からは、太陽と月が、同方向にあり、
まるで、一緒に、移動しているかのようです。

 太陽と月が、手を携え、
 ともに、『陰』を極め、
 そして、『陽』へと反転して行く ...

しかも、
そんな、冬至と新月が重なるのは、
19年に1度、
なのだそうです。

 これまでの19年間を、一区切りし、見つめ・手放し、
 そして、これからの19年を、
 新たな、より調和したものとしていきたい ...

そんな想いを胸に、
このタイミングで、
山陰にある、出雲大社さまに、
お詣りさせていただくことができました。





これからの、新たな19年については、
いま現時点での、宇宙の流れ・地球の進展にそくして、
 「より『融合』『調和』した社会」
へと進んでいけるように、意図しました。

ここ数年、
さまざまなご神事が執り行われ、
 「『日向』と『出雲』の和合」
が、なされて来た、と聞いています。

この秋には、
「皇室」と「出雲大社」との間でのご婚儀も、ありましたね。

僕個人についても、
「『日向』の祖」ともいうべき地、
霧島神宮および高千穂峰に、
今年、すでに、伺うことができていました
(伺ったのは、そのご婚儀の、1週間前でした)。

ですので、今回、出雲の地にも、伺うことができ、
そこで、新たな19年の始まりを迎え、
そして、さらなる『和合』『融合』を、
こころに想い描くことができたことには、
とても感慨深いものがあります。

すべては、
『全体』・『宇宙』の計らいであり、
かつ、
3次元的には、すべて、妻の計らいであり、

人間意識の、僕としては、
ただ、感謝しかありません。

ありがとうございます。


妻にとっては、約20年ぶり、
僕にとっては、はじめての、
出雲詣では、

雪という、事前の予報からすると、好天に恵まれましたが、
それでも、気温も低く、陽射しも少なく、風も強く、
『老体』^^ には、少々、厳しい部分もありました。

ですが、
出雲大社さまは、
当然でしょうが、とても素晴らしいお宮でした。



また、出会う人、出会う人、みなさんが、とても温かでした
(息子曰く、「出雲の人は、みな、いい人だね」^^)。

それから、今回もまた、
飛行機から、素晴らしい景色を拝むことができました。

富士山

大山 


そして、なにより、
冬の日本海の恵みや、出雲の農産物が、素晴らしく、
味覚的にも、最高の体験をすることができました。





そんな中、
これからの、さらなる『和合』『融合』へと進んでいくために、
『唯一』、必要なこと ...

すなわち、
これまで、自ら、自らを『分離』させてきた、
数々の『思い込み』『価値観』『記憶』『想い』『感情』・・・
そういったものを、自ら、手放し、解放していくこと。

つまり、『浄化』をすること。

それを、僕自身が、しっかりと、進めて行くこと。

そして、みなさまが、それを進めていかれるにあたって、
しっかりと、お手伝いができるようにすること。

そんなことを、
改めて、こころに想いました。















2014年12月12日金曜日

感情認識のパラドックス


 「ブルーになるようなことを考えるから、
  気持ちがブルーになる」
 のではなくて、
 「ハートに、ブルーなエネルギーが来ているから、
  頭が、ブルーなことを考える」

すでに、このブログでも、ご紹介済みですが、
津留さんが、DVDの中で、言っていたことです。

通常、感覚的に認識していることと、
これまた、「順序が『逆』」ですよね。

この、「『パラドックス』な構造を採った宇宙」においては、
こんな事例が、無数に、あるのですね。


ところで、
私たちは、普段、

 「(誰それに)怒られた」
 「嫌みなことを言われた」
 「バカにされた」

と言っては、
不快感・ストレスを、感じています。

ですよね?

 「(誰それに)こう言われた。こう思われた。
  だから、不快だ。困った。どうしよう?」

そんなふうに、ストレスを感じていますよね?

さて、
まず、ここで、
一つ、ご質問です。

そのとき、
相手の人は、本当に、「怒っている」のでしょうか?
「嫌みなことを言っている」のでしょうか?
「バカにしている」のでしょうか?


話は変わりますが、
先週、2度ほど、立て続けに、
妻から、
 「パパ(僕のことです ^^; )が、○○って言った」
と、言われました。

簡単に言えば、
『言い間違え』のようなことです。

 「(『パジャマ』のことを)『ピャジャマ』って言った」
というような、たぐいのことです。

そのとき、
僕は、間違いなく、言い間違えはしていなかった、と、思うのですが ^^ 、
妻は、
 「そう、言った」
と、言っていました。

そのとき、
これからお伝えするようなことを、
改めて、認識しました。


さて、まず、
その、妻との話ですが、

たとえば、
 「人、それぞれ、住んでる『宇宙』が違う」
という観点からすれば、

確かに、
 「『妻の宇宙』においては、僕は、そう言った」
のかも、しれません。

確かに、
そうも、言えます。
そうも、考えられます。

ただ、
こうも、言えますよね。

つまり、
 「妻に分かるのは、どう『聞こえたか』だけであり、
  どう『言ったか』は、言った人、本人にしか、分からない」
ということです。

 「自分に分かるのは、自分の知覚できることだけ」
ですよね。

だとすれば、
 「自分には、こう、聞こえた」
ということは、言えたとしても、

でも、
 「『そう聞こえた』からといって、
  相手が『そう言った』ということの証拠・証明には、ならない」
ということにです。

そして、そうであれば、
たとえ、さきほどの『宇宙』のたとえのケースのように、
 「確かに、その人の宇宙では、相手は、『そう言った』」
としても、
 「その場合であっても、
  その人に分かることは、『どう聞こえたか』だけであり、
  『どう言った』かは、分からないし、証明しようがない」
ということです。

ところが、
私たちは、
 「相手が、どう言った。こう言った」
 「だって、君は、そう言ったじゃないか」
と言って、
喧嘩になり、口論になります。

そして、
 「こう言われたから」
と、
気を落としたり、
恐れおののいたり、
パニックになったりします。

それは、本当に、
残念ながら、
 「とても不毛なこと」
と、言えそうです。


そして、です。

さらにいえば、
相手が『どう言った』ということが、
仮に、何らかの手段によって、確認できたとしても、

だからと言って、
その人の『気持ち』や『想い』や『意図』は、
聞き手側には、本当のところは、分からないわけですよね。

相手の『こころの中』『想い』『意図』は、
見えていないし、聞こえていない、ですよね。

それなのに、
私たちは、それを、
 「あの人は、怒っている」
とか、
 「バカにしている」
とか、
そのように『決めつけて』、
そして、
不快感・ストレスを感じているわけです。


そして、そして、
さらに、さらに言えば、です ^^ 。

仮に、相手の『感情』を、
何らかの形で、確認できたとして、
そして、相手が、確かに、『怒っている』としても、

そうだとしても、
だからといって、
自分が、怖がったり、不快になったり、ストレスを感じる必要は、ない、
ですよね。

自分の感情・感覚・ストレスを、
他人に、影響される、コントロールされる必要は、ない、わけです。

そうしていると、
いつまでも、
 「自分の幸不幸が、他人に、外側の環境に、依存してしまう」
ことになります。

そうしていると、
どうしても、
 「自分が、自分の(人生の)、創造主」
には、なれない、わけです。

そして、
まさに、この点こそが、
津留さんに、『浄化』というものを、
理解・認識させて、構造を解明させて行った『きっかけ』だったわけです。


さて、
改めて、ここで、
話を、戻しましょう。

このように、
相手が『どう思っているか』、
相手が『何と言っているか』、は、
自分には、本来、分からないはずなのに、

でも、
普段、私たちは、
 「あの人に、怒られた」「からかわれた」「バカにされた」
と、認識しますよね。

で、ここで、
今回の記事の、一番はじめに戻りますが、

そう認識するのは、
それは、
 「相手が、『どう思っているか』」
とか、
 「相手が、『何と言ってたか』」
とか、
そういうことによって、ではなく、

 「相手の言った言葉が『聞こえた』際に、
  自分が、『そう感じる』から、
  相手が、そう言っているように・思っているように、認識する」
のです。

  「相手が、『どう思っている』」
  「相手が、『どう言った』」
という『事実』が先にあって、
そう、認識するのではなく、
  
  「自分が、そう感じる『から』、
   だから、そう言っているように・思っているように、認識する」
のです。

ここでも、「順序が『逆』」なのです。

そして、
 「自分に、そう『感じさせる』モノ」
それこそが、
 『エネルギーブロック』
なのです。

相手の言葉や、表情、態度などを、見聞きしたときに、
どうしても、自然に、自動反応的に、嫌な気持ちになってしまう、
自分を、そう、感じさせるモノ、
それこそが、『根本原因』であり、
それこそが、『エネルギーブロック』なのです。

そのような『エネルギーブロック』が、自分の中にあって、
それがゆえに、
それが作用したがゆえに、
相手が、そう、言っているように・思っているように、認識するのです。

ですので、
浄化によって、その『エネルギーブロック』が無くなれば、
その後、相手の、まったく同じ言葉を聞いても、
もう、相手がそう思っているとは、感じなくなります。

ただ、相手が言っている言葉が、音が、
ただ、聞こえてきます。

あるいは、
仮に、相手が、そう思っていると、頭が認識したとしても、
自分は、不快感・ストレスを、感じません。

なので、やはり、
ただ、聞いているだけです。

いずれにせよ、
自分は、不快感・ストレスを、感じませんし、
ただ、聞いているだけ、で、居られます。

自分の周りの世界を、
自分自身の体験を、
ただ、『観察』できます ...


いずれにせよ、
 「自分が、しあわせである」
 「自分が、ストレスを感じない。楽で居る」
ということこそが、重要なのであるとすれば、

 「自分が、どう感じるか」
 「自分が、どう認識するか」
ということだけが、問題なのであって、

 「相手が、どう言うか」
 「相手が、どう思っているか」
ということは、
問題ではないのです。

そして、
そのような状態を作ることができるのが、
そのような状態をもたらしてくれるのが、
『浄化』、なのです。









2014年12月11日木曜日

第2回 大阪イベント 開催のお知らせ

 
 2015年2月20日(金)、21日(土)、22日(日)、
 大阪市で、2回目となる、
 『浄化実践講習会』・『津留さん交流会』・『個人セッション』を行います。

 今回も、ひで 一人で伺います(井瀧裕子は参加いたしません)。

 大阪のみなさん、関西地区のみなさんに、
 ふたたび、お会いできることを、こころから楽しみにしています。
 どうぞ、よろしくお願いいたします。
 
 詳細・お申し込みは、『 第2回 大阪イベント 』 のページをご覧ください。
 

 2014年12月11日 集合人編集局 裕子・ひで








ちゃんと、浄化が、出来ているか?


 「浄化は、やってみたけど、ちゃんと出来てるか、分からない」
 「これでいいのか、自信がない」

浄化実践講習会や、個人セッションに、いらしてくださった方で、
そうおっしゃる方が、結構、いらっしゃいます。


 「浄化のやり方自体が、ちょっと、よく分からない」
という方や、
 「ポイントとなる部分が、いまひとつ、きちんとつかめない」
という方、

そのような方々は、
できるなら、
浄化実践講習会や、個人セッションにいらしてくだされば、と、思います。

もちろん、いろいろとご事情がおありで、
簡単には、お越しいただけない方も、いらっしゃることとは、思いますが、

もし、いらしていただければ、
やり方や、ポイントとなる点、などについて、
できるだけ、詳細に、ご説明させていただきますし、
ご質問にも、お答えさせていただきます。


さて、
以上のような方々とは別に、

 「浄化をやってみたけど、いまひとつ、『実感』がない」
 「『実感』が、つかめない」

そのような意味で、
 「浄化が出来ているか、分からない。自信がない」
そう、お思いの方々も、
いらっしゃることと思います。

そのようなお声も、
これまでに、よく、お聞きしてきました。

そこで、その点について、
ここで、すこし、お伝えさせていただきます。


さて、
浄化の、具体的な手続きは、

 身体に感じる、
 「不快感・ストレス」、「ネガティブな感情・想い」 ...
 そういったものを、
 『感じ』、とらえ、集めて、
 そして、それらを、
 『手放し』、『解放する』。

以上のようになりますが、

ところで、
 「やってみたけど、いまひとつ、『実感』がない」
と、お感じになられる場合、
それらは、大きく分ければ、
二通りのケースが、あると思います。


一つは、
 「やってみた『直後』に、変化が感じられない」
という、ケースです。

 「浄化の際に、身体に感じていた不快感などが、離れていった『実感』が、ない」
と、お感じゆえに、
うまく出来ているか自信がない、と、お思いの方は、
けっこう、いらっしゃることと、思います。

僕自身の場合で言うと、
一回一回の浄化に関して、
行った直後に、
その、エネルギーブロックから感じられる『感覚』が、
 「軽くなった」「少なくなった」「無くなった」
という実感があります。

そして、
『それゆえに』、
浄化が、しっかりと出来たかどうかを、確認することができます。

ただし、
では、「毎回、必ず、そのような実感があるのか」、というと、
必ずしも、そうではありません。

浄化対象が、大きなエネルギーのものであれば、
その存在感が大きく、身体で感じ取りやすいので、
浄化後、無くなって行った・少なくなった感覚を、
感じやすいですが、

浄化対象が、小さなものであれば、
そもそも、浄化をする前に感じられる感覚が、小さく、弱いので、
浄化後の変化は、微妙なもので、感じ取りにくいです。
ほぼまったく、感じられないこともあります。

では、
「そのような場合には、浄化は出来ていないのか」、というと、
そのようなことはありません。

たとえば、先の浄化が、
誰かに対する『怒り』であったとすると、
その対象者に会ったとき、
あるいは、
その対象者を思い出してみたとき、
そのときに感じる『怒り』が、
先の浄化によって、減っていたりするからです。

つまり、
ここでお伝えしたいことは、

 「浄化をしてみたけど、
  その『直後』に、変化を『実感』できない、『体感』できない」
 としても、
 それで、「浄化が出来ていない」というわけではない。

と、いうことです。

そして、

 「浄化が出来たかどうか」
 は、
 「実際に、浄化対象を見たり、
  あるいは、その対象を思い出したり、考えたりしてみて、
  その際に感じる不快感・ストレスが、軽減したかどうか」
 で、ご判断なさってください。

と、いうことです。

 「浄化『直後』に感じる、エネルギーの変化や、すっきり感」
は、
あくまでも、
浄化が出来たかどうか、に関する、
「便宜的な『目安』」です。

本来は、
 これまで、ストレス・不快感を感じて来たのと、同じ状況・環境下において、
 これまでより、感じるストレス・不快感を、減らす・無くす
ことを目的に、
浄化をするわけですから、

「浄化が出来たかどうか」は、
 そのような、これまで、ストレス・不快感を感じて来た状況・環境下において、
 感じるストレス・不快感が、軽減したかどうか
が、
本来の、判断の基準となるわけです。

どうぞ、そのように、判断なさってください。


さて、もう一つの、
 「浄化の『実感』がない」
と、お感じのケースは、

まさに、先のように、
 「これまで感じて来た不快感・ストレスが、軽減したかを、
  ちゃんと、チェックしてみたけれど、
  でも、浄化をしてみても、
  あいかわらず、軽減しない、無くならない」
と、お感じゆえに、

「浄化が、出来ていないのではないか」と、
お思いのケースです。

場合によっては、
 「浄化をすると、その『直後』に、
  身体に感じていた感覚が『軽くなった』実感があるけれど、
  それでも、浄化対象のことを見ると、考えると、
  あいかわらず、ストレスがある」
というケースさえ、
おありだと思います。

そのような場合には、
「浄化が出来ていない」とお考えになるのも、
無理はありません。

でも、
そのような場合でも、
ちゃんと浄化ができている可能性はあります。

というか、
そのような場合でも、
ほとんどの場合、
ちゃんと、浄化はできていると、
思います、僕、個人的には。

というのは、
『浄化』によって、
『エネルギーブロック』を、手放し、解放していくわけですが、

一回の、浄化作業によって、
手放せる、解放できるのは、
場合によっては、
その『エネルギーブロック』全部では、ありません。

いえ、むしろ、
一回で、手放せる、解放できるのは、
 「その『エネルギーブロック』のうちの、数%から数十%」
というケースが、ほとんどだと思います。

ですから、
一回、浄化作業をして、
その結果、まだ、ストレスがあったとしても、
それは、別に、おかしなことではありませんし、

ストレスが減った実感が、『まったく』無くても、
それでも、それは、おかしなことではないし、
そして同時に、
その場合でも、「浄化が出来ていない」というわけでもありません。

『浄化』は、
『エネルギーブロック』を、手放し、解放していく作業ですから、

 「浄化が出来たかどうか」
は、
 「『エネルギーブロック』を手放せたか、解放できたか」
 「身体から、その『エネルギー』が、出て行ったか」
で、判断できるものです。

ですので、
『一回』の、浄化作業によって、
たとえ『少しでも』、そのエネルギーが、出て行った、少なくなったのであれば、
ちゃんと、浄化は、出来ている、
ということになります。

あとは、
何度か、浄化をしていただくだけです。
浄化の回数を、増やしていただくだけです。

そうすれば、
あるとき、
ストレスを感じなくなるところまで、行かれることとと思います。

薬を、たとえば風邪薬を、
一回だけ飲んで、
でも「治らなかった・回復しなかった」からといって、
その薬が、効いていない・効果がない、とは、
判断なさらないはずです。

治るまで飲んで、
そして治れば、
「その薬は効いた・効果があった」と、
判断なさるはずです。

浄化に関しても、
まったく同じことです。

どうか、
 「一回やっても、あるいは、数回やっても、効果が感じられない」
としても、
さらに何回か、浄化をなさってみてください。

何度も、何度も、
なさってみてください。

ストレス・不快感や、怖さ、怒りなどが、
強ければ、強いほど、
その『エネルギーブロック』が、大きなものである、可能性が高いです。

そんなケースでは、
数%、数十%、解放出来たとしても、
『実感』としては、
 「あいかわらずだ。まだまだだ」
と、お感じなるケースが、ほとんどかもしれません。

でも、
たとえ、1%でも、一回で、解放できれば、
それを、100回もすれば、
それらが、すべて、無くなって行く可能性があります。

いえ、
いくら、大きくて強烈な『エネルギーブロック』でも、
すべてを手放す、その前に、
その大半を、手放せた段階で、
 「あぁ、楽になった」
という実感を、得られることと思います。

それで、十分だと思います、
僕、個人的には。

そして、
その時には、
もう、二度と、
そのストレスを、感じることは、ないはずです、
新たに、その『エネルギーブロック』を、取り入れない限りは。

それが、
津留さんが、
 「浄化は、『根本治療』だ」
と、言ったゆえんです。


以上、まとめます。

 「浄化をやってみたけど、うまく出来ていないかもしれない」

そう、お思いの方は、
ぜひ、

 ・浄化を、一回だけでなく、何回も、やってみてください。
 ・その上で、浄化対象を目にした、考えた状態で、
  前より楽になったか、軽くなったか、で、判断なさってください。

きっと、いままでのやり方で、
浄化は、ちゃんと、できているはずです。

大丈夫です ^^ 。









2014年12月7日日曜日

望みは、すでに、叶っている


 「あなたの望みは、すでに、叶っています」

そう、お聞きになって、どう、思われますか?

 「そんなはず、ないじゃないか!」
 「冗談じゃないよ!」

そう、思われた、その、強さ・度合いによって、
みなさん、それぞれの、
 「大我との、繋がり具合」
 「大我との、融合具合」
 「大我の、回復具合」
が分かる、
と、言えるかもしれません。


言葉を、変えましょう。

 「宇宙は、完璧である」

そう、お聞きになったとき、どう、感じられますか?

 「そんなはずは、ない!」
 「とてもじゃないが、そうは、思えない」

そう、思われた、その具合によって、
みなさん、それぞれの、
 「エゴの、強力さ」
 「小我の、堅牢(けんろう)さ」
そんなものが、
確かめられるのかもしれません。


ここでは、
結局のところ、

 「普段、無意識のうちに、認識している
   『私』『自分』
  というものが、
  どのようなものであるか?」

ということが、
問題・ポイントとなっています。

普段、『私』と認識しているものが、
 「『小我』としての『自分』そのもの」
 「100%、『エゴ』としての『自分』」
であれば、

もちろん、
この宇宙を、『完璧』だなんて、思えないでしょうし、
『自分』の望みが叶えられている、だなんて、思えませんよね。

でも、
 「『私』とは、『小我』としての自分と、『大我』としての自分の、総和」
 「『自分』とは、『エゴ』の自分そのもの、ではなく、
  『大我』としての自分をも、含んだもの」
と認識していれば、

そして、
その認識度合いが、大きければ大きいほど、

この世が、『自分』の望み通りにできていることが、納得できるでしょうし、
宇宙の完璧さを、体感されることでしょう。


『私』と言ったとき、
そこには、
 「『大我』としての自分」
 「『集合意識』としての自分」
 「『全体』としての自分」
 「『神』としての自分」
が、含まれています。
内在しています。

たとえば、
『私たち』の内側には、
 『大我』としての自分が、
 『集合意識』としての自分が、
 『神』としての自分が、
内在していて、

それが、
 「『外なる世界』『鏡としての世界』に、
  『空』『天空』『星の運行』『銀河』として、
  存在している、映し出されている」
ということについては、

過去記事「内なる神の、外なる投影」に、
書かせていただいている通りです。

また、
津留さんが、
 「『小我』と『大我』の、完全な二人三脚」
の状態を『集合人』と名付けて、
それを、当面の、目指すべき状態だと、言ってた、
ということについては、
過去記事「バランス」に、書かせていただいている通りです。

そして。

『大我』『全体』『神』は、
全能であり、
『自分』が体験したいことを体験できるように、
この宇宙を創造していますよね。

ですから、
 「それらが含まれた、それらが内在した、『私』」
にとってみれば、

望みは、100%、叶えられるものですし、
いえ、すでに、そして、常に、
望んだものは、望んだとおりに、叶えられています。

『私』たちは、
まさに、「『創造主』そのもの」なわけです。


そして、
そう、思えないのは、
そう、感じられないのは、

 「『自分』が、
  『自分というもの』のことを、
  そのように、認識していない」
というだけのこと、なのです。

そして、
そうであれば、

すなわち、
私たちが、
 「『私』の望みは、叶えられていない」
と、感じているのであれば、

そのときには、
その、感じている分だけ、

あるいは、
 「宇宙は、完璧でない」
と、感じているのであれば、
そのときには、
その、感じている分だけ、

 『私』が、
 『私』と認識しているものが、

 『真我』『大我』『集合意識』『神』たる自分から、
 乖離(かいり)している

ということを、示しています。

そして、
それは、
その分だけ、

自分の中に、
『小我』としての自分が、
『エゴ』としての自分が、
厳然と、存在していて、
強固に、自らを主張している、
ということであり、

そして、それは、
その分だけ、

 『自分』を、
 『小我』としての自分に、
 『エゴ』としての自分に、
 留まらせる・固執させる・吸着させる、
 『エネルギーブロック』が、存在している

ということを、示しています。


私たちが、
 「そんなはずは、ない」
 「信じられない」
 「冗談じゃない」
と思うとき、感じるとき、

『大我』『集合意識』『神』としての『自分』が、
その、自らが映し出された『外なる宇宙』『外なる世界』を通して、
そのことを、教えてくれているのです。
気づかせてくれているのです。

 「もう、その『エネルギーブロック』は、手放していい頃ではありませんか?」
 「もう、『こちらの私』との一体性を、もっと、取り戻していいのですよ」

そう、語りかけて来ているのです。

そして、そんなとき、
することは、ただ一つ。

 『ブロック』を、手放すこと

ただ、それだけです。








2014年12月4日木曜日

宇宙は、ただ、循環しているだけ


この1ヶ月、
記事をアップしませんでした。

 「何も、書けなかった」
といえば、
そんな感じですし、

 「何も、書かなかった」
といえば、
それもまた、そんな感じです。

その間、
僕のところには、
いまの僕にとって、とても重要で、深淵な、
『情報』と『理解・気づき』が、
いくつか、
やって来ていました。

ある方は、
とても意義深い『情報』を携え、
僕(ら)のところに、いらしてくださり、

また、
妻が、
とても納得のいく『情報』を入手して来て、
それを、僕に伝えてくれ、

そして、
ある朝には、
目覚めとともに、
ある、深い『理解』が、やって来ていました。


はじめに、
ある方が、個人セッションに来てくださいました。

その方は、
あるとき、突然に、
 「分かってしまった」
のだそうです。

そして、
津留さんが、メッセージで言っていたことが、
その、
 「『分かってしまった』内容」
と、
まったく同じであった、ということを、
私たちに伝えに来てくださったのでした。

 「分かってしまってみると、
  津留さんのメッセージが、より理解できるし、
  その『正しさ』に、とても驚きと親しみを感じた」
という趣旨のことを、おっしゃっていました。

その方がいらっしゃる前日の、10月の交流会で、
『わかちゃった人たち』という本のことが、
ちょうど、話題になっていたことも、
『偶然』というか、『必然』というか、
とても興味深いことでした。


その方が『分かってしまった』内容は、
お聞きする範囲では、
津留さんのメッセージと、ほぼまったく、同じでした。

 「私たちは、そもそも、『神』である」
 「その神は、全知全能であるがゆえに、とても退屈である」
 「そこで、このような宇宙を創り出し、遊んでいる」
 「人と人が演じているドラマは、同一人物の『指』と『指』がじゃれ合っているようなもの」
 ・・・

その方の、そんなご理解をお聞きしていて、
いままで、頭で理解できていた津留さんのメッセージが、
一段、下に、降りました。
一段、腑に、近づきました。

中でも、
 「『神』は、全知全能であるがゆえに、とても『退屈』なんだ」
という部分が、
とても、こころに響きました。

 「ほんとうに、そうなんだなぁ〜・・・」
と、
こころから、思いました。


つづいて、
妻が、ある方のワークショップに、参加してきました。

そこで聞いて来た内容を、
僕に、伝えてくれました。

その内容は、多岐に渡っていたのですが、
その中心は、
 「いま、地球が迎えている状況」
 「これから、進んで行くであろう状況」
を、

 『宇宙の創造の流れ』
という観点の中で、
把握し、認識していて、

そして、
他の銀河文明(シリウス、プレアデス、オリオンなど)を引用し、
そして、それらと比較しながら、
説明していました。


 「地球は、これまでは、『2極』『分離』を、体験して来た」
 「そして、これからは、『統合』に向かって行く」

単純に言えば、その骨子は、こんな感じです。

そして、
その『流れ』は、
 「それが、その方向が、『正しい』から、
  そう流れている、そう進んでいる」
というわけではなく、

 「ただ、そう、巡っている」
というものであり、

その中で、
 「いまは、2極の世界の終焉を迎えている
  かつ、
  これから、統合の世の中に向かっている」
だけのもので、

そして、
  「いまは、ただ、そういうポジションにある
   そういうタイミングにある」
とのことでした。

 「『分離』から、『統合』へ」
という流れについては、

 「約23,000年という、
  天の川銀河の歳差運動の中で、
  半分の約16,500年は、地球が、銀河の下側を通り、
  残りの半分は、銀河の上側を通り、

  下側を通っているときには、
  銀河の中心から流れ出ているエネルギーの影響が、
  『分離』の方向に働き、
  地球は、その影響を受け、

  上側を通っているときには、
  そのエネルギーが、『統合』の方向に働き、
  その影響を受けている。
 
  地球は、いま、
  その『下側』から『上側』への移行時期にある。」

という説明も、なされていました。


これらも、また、
津留さんの言っていたことと、
驚くほど、合致していますよね。

そして、
 「それが『正しい』から
  『統合』に向かっている、というわけではない」
 「『そうあるべき』だから
  『神に還る』、というわけではない」
という点、

 「ただ、そう、巡っているだけ」
 「いま、地球は、ただ、そういうタイミングなだけ」
という点が、
特に、強く深く、こころに残りました。

 「銀河の歳差運動の中における、いまの地球のポジション」
に関する説明には、
これまでの理解が、す〜っと、深まっていきました。


そして、ある朝。

かすかな、夢の記憶とともに、目覚めました。

そのとき、僕のもとには、
ある『理解』が、留まっていました。

強烈でもなく、強力でもなく、
漫然とした感じではあるのですが、

でも、
『納得』と『体感』をともなった、
ある『理解』が、
やって来ていて、そして、そこに留まっていました。

そのときの『理解』を、
あえて、言葉にすれば、

それは、
 「『過去』というものがあるわけでもなく、
  『未来』というものがあるわけでもなく、
  ただ、『いま』という瞬間に、『目の前の映像・現実』が存在し、
  そして、それが、ただ、『変化』しているだけ」
という、理解です。

その『理解』が、
これまでの、『頭』だけでの『理解』とは、すこし、異なり、
『体感的納得』とでも言うべきようなものをともなって、
やって来ていました。

たぶん、
夢で、何かを、見たのだと、思います。
あるいは、
夢の中で、何かを、教えられたのだと、思います。
何かを、伝えられたのだと、思います。

それが、『何』であったのかは、
そのときも、すでに、うっすらしていました。
いまでは、まったく、思い出せません。

ただ、
それによって、
目が覚めたときには、すでに、その『体感』のようなものが、
存在していました。

 「あぁ〜、ほんとうに、ただ、目の前が、変化しているだけなんだぁ〜」

その言葉が、
頭の中を、何度も、リフレインし、

その『理解』の持つ『振動』が、
何度も、身体の中を、響き巡っていました。



上記の、それら一連の、『情報』と『理解』は、
僕にとっては、
ある一つの『理解』に、収れんされて行きます。

 『宇宙は、ただ、循環しているだけ・・・』
 
津留さんが言っていた、
その言葉が、その内容が、その意味が、
ようやく、わずかながら、
理解でき、納得できた気がしました。

 「『宇宙は、ただ、循環しているだけ』
  それを、100%理解できたら、それで、すでに、悟っている」
という、津留さんの言葉があります。

それだけ、
とても本質的な概念であり、
それだけ、
本質的な理解である、
その内容 ...


宇宙は、ほんとうに、ただ、循環しているだけ、なんですねぇ。

そして、
私たちは、ただ、それを、体験しているだけなんですねぇ。

「何が正しい」とか、「どうなるべき」とか、
そういうことではなく、
ただ、
『神』では体験できないことを、体験するために、
それらを、ただ、体験しているんですねぇ。

しかも、
それら『体験』には、
『時間的な順序』というものは、存在しません。

ある『時代』を体験したら、
その次には、それ以降の時代しか、体験できないわけではありません。

また、
『レベルの高低という順序』があるわけでも、ありません。

たとえば、
いま、地球に来ている魂のほとんどは、
オリオンにおいて、何度もの転生を経験していて、

そこでは、
極限的な『分離』『2極』を体験し、
かつ、
それらを『統合』し、『融合』する、という体験も、
経験済みなのだそうです。


そのような、様々な、ありとあらゆる『体験』をするために、

「『神』たる私たち」は、
無数に分裂し、
体験のための『舞台』として、宇宙を創造し、

「ありとあらゆる『体験』」のために、
「ありとあらゆる」「無数に異なる」
体験のための『場』としての環境を創り、

その『体験』のための『器』として、
人間を含む、「ありとあらゆる」「無数に異なる」『生命体』を生み、

そして、それらが、
ただ、「無限に」『変化』している ...


そんな『理解』を、
これまでよりも、一段、深いところで、味わい、
それらを、
これまでよりも、一層、外側まで、浸透させる ...

そんなことを、
この約1ヶ月間、
していました。