2015年12月22日火曜日

考えてください (思考が止まらない方へ)


 「どうしても、すぐ、考えちゃうんです」
 「どうしても、頭で解決しようとしています」
 「どうしても、思考が止まりません」

個人セッションや、交流会などで、
いろいろな方から、お話を伺っていると、
このようなことを、とってもよく、お聞きします。

スピリチュアルな世界で、言われているとおり、
また、津留さんも、言っているとおり、

思考には、思考による解決には、限界があり、
また、思考・想念に、捕われているから、苦しい・辛いのであり、
そこから離れられれば、そこには、ただ、平安が広がっています。

ですから、
 「考えるのを、やめてください」
 「思考を、止めてください」
 「思考から、離れてください」
ということが、
いわゆる、スピリチュアルにおける一般的な『教え』、
に、なっています。

 とはいえ、
 なかなか、そうはできない ...

とても多くの方にとっての、正直な感想ではないでしょうか。
ほとんどの方にとっての、現状ではないでしょうか。

以前、このブログに書きましたとおり、
僕自身が、そうなので、
その状況や、そのお気持ちは、よ〜く、分かります ^^ 。

瞑想なんて、1分もできない、僕なので
(すぐに、思考が動き出してしまいます ^^; )、
おそらく、誰よりも、よ〜く、分かります。

スピリチュアルな知識を得た方にとって、
スピリチュアルなことを実践していくうえで、
もっとも一般的な『悩み』の一つであり、
また、スピリチュアルな道を進むうえで、
もっとも普遍的な『壁』、かもしれませんね

(『悩み』を無くす・少なくするために、
 スピリチュアルなことに、興味を持ったのに、
 それがゆえに、新たな悩みを持つなんて、
 なんとまあ、皮肉なことなのでしょうね。
 これもまた、『パラドックス』ですね ^^ )。


ところで、
なぜ、わたしたちは、思考を止められないのでしょうか?
なぜ、わたしたちは、ずっと、考えてしまうのでしょうか?

以下は、個人的な見解ですが、

それは、「考える」ということが、
うまく・よく生きるための、「唯一・最善の方法」である、と、
認識されているからであり、

そして、それ(考えること)が、
「習慣となっている」「習慣づけられているから」でしょう。

何か失敗したとき、うまく行かなかったとき、
わたしたちは、
親から、教師から、上司から、社会から、
 「ちゃんと、考えなさい!」
 「しっかりと、考えないから、そんなことになるのよ」
と、言われてきました。

つまり、人間一般にとって、人類の集合意識にとって、
『考える』ということは、
人生に対処するための、手段・方法なわけですね。

おそらく、
 唯一かつ最強の、手段・方法である
と、認識されていますよね。

また、そのような認識のもと、
社会では、
考える能力が高い人が、凄いとされ、重視され、重用され、

そのために、
学校教育においては、
考える能力を高めること、その素材である知識を増やすことを、重視し、
その能力に優れていることを、評価します。

そのような環境で、生まれ、育ち、生きている、わたしたちは、
自然、「考える」ことをします。
それが、習慣となっています。

場合によっては、何世代にも渡って、
そう、習慣づけられてきました。

なので、
ちょっとやそっと、「考えるのが、いけない」と、聞いたところで、
簡単には、それをやめることは、できないわけですよね。

また、実際のところ、
『エゴ』にとっては、
「考える」ということは、
得た「知識」(過去の情報)」を用いて、「考える」ということは、
自ら保持している、唯一の、『武器』なのだと思います。

「恐れ」に基づいて行動する『エゴ』にとっては、
唯一の『武器』を放棄することは、
即、自らの「死」を意味します。

そんな「恐ろしい」ことは、
『エゴ』には、できません、

特に、「恐れ」に敏感な、『エゴ』にとっては、
なおさら ...

そんなわけで、
「考えてしまう」ことは、
「考えるのを、やめられない」ことは、
わたしたちにとっては、極めて自然なことであり、
ある種、当然のこと、
そして、ある種、『必然』なことだと思います。


ところで、
いま、
 「思考」は、エゴにとっての『武器だ』
と、言いました。

ところが、
この武器、なんか、あまり、効きませんよね?

これまで、この武器を手に、
一生懸命、この『おそろしい、不完全な世界』を、
『戦い』、進んできましたが、
なにか、どうも、うまくいきませんでしたよね?

効かないからこそ、うまくいかないからこそ、
 「思考が、問題だ」
 「思考を、手放しましょう」
と聞いて、
 「もしかしたら、そうかも。そうしたほうが、いいかも」
と、思ったわけですよね?

では、
なぜ、この『武器』は、あまり効果がないのでしょうか?


それは、
実は、それが、「『おもちゃ』の武器」だからです。

「思考」というのは、
『おもちゃの刀』『おもちゃのピストル』なのです。

だから、
ほとんどの人にとって、
これを手に、『戦』ったところで、
勝ち進み、想い通りにしていくことが、できないのです。

そして、
そのことを知っている、そのことを見抜いた、
マスターたちが、
 「離れなさい」「手放しなさい」「捨て去りなさい」
と、おっしゃっているわけです。

『ところが』、です。

ところが、
この『おもちゃ』、
エゴにとっては、唯一かつ最高の、おもちゃなのです。

このおもちゃで、遊ぶことが、
エゴにとっては、楽しくて、楽しくて、仕方がないのです。

そんな、唯一最高のものを、
エゴは、手放せますでしょうか?

いえ、手放せませんよね。
捨てられませんよね。

それで、当然なんです。
それが、自然なんです。

ところが、それを、
 「おもちゃなんかで、遊んでないで、勉強なさい」
と言って、取り上げたり、
あるいは、
 「『戦い』というのは、悪いことです。
  おもちゃとはいえ、『武器』で遊ぶのは、良くありません」
と言って、取り上げたら、
どうなるでしょうか?
エゴは、どう反応するでしょうか?

おもちゃを、無理矢理、取り上げられた、こどもは、
おとなの視点で、おとなの理屈で、おとなの都合で、
おもちゃを、無理矢理、取り上げられた、こどもは、
どうなるでしょうか?

不満を募らせ、泣きじゃくり、
そして、
 「おもちゃを、返せ!」
と、叫び、わめくことでしょう。

そして、
これまで以上に、そのおもちゃに、こだわることでしょう。
執着することでしょう。

そして、
これまで以上に、握りしめ、
これまで以上に、手放せなくなることでしょう。


小学生のとき、
僕は、親の意思で、塾に行かされることになりました。

放課後、友人たちと、楽しく遊んでいると、
いつも、途中で、その、楽しい最中に、
塾に行く時間になったからと、不本意ながら、遊びを終え、
塾に行っていました。

そのときの光景は、いまも、鮮明に、脳裏に残り、
そして、
 「僕は、十分に、遊んでいない」
 「遊び足りない。もっと、遊びたい」
という、満たされなかった想いが、
大人になっても、まったく、消え去りませんでした。
いつまでも、その不満を、引きづり続け、
いつまでも、その想いが、こころの中を、漂いつづけました。

ところが、です。
一方、思う存分、遊んだ子どもは、どうなるでしょうか?

だれにも邪魔されず、だれにも止められず、
自分のやりたいように、やりたいだけ、
そのおもちゃで、遊んだこどもは、
そのあと、どうなるでしょうか?

そのおもちゃで遊ぶことに、飽きますよね?
そのおもちゃに、飽きますよね?

そうなったら、
もう、そのおもちゃのことなど、見向きもしなくなりますよね?

そうなると、
今度は、逆に、親のほうが、
 「そのおもちゃ、高かったんだから、もっと遊んでよ」
なんて、言いはじめて ^^ 、
でも、こどもは、
もう、そのおもちゃになんか、興味が無くなって、
そのおもちゃで遊ぶことを、やめてしまうことでしょう。


 「思考を止められる人」「思考が止まる人」
というのは、
スピリチュアルな世界における、いわば『大学院生』なのです。

そして、
その『大学院生』というのは、ほとんどの場合、
 「子どものころから、遊ばずに、勉強ばかりしていた人」
なのではなく、
むしろ、
 「子どものころに、思う存分に、おもちゃで、遊び尽くした人」
なのです。

 「おもちゃも、遊ぶことも、もう、十分だから、そこに想いが無くて、
  そして、だから、今度は、『学ぶこと』が、楽しくなって、
  学ぶことの、楽しさが、素晴らしさが、自然と、分かって、
  自らの自然な思いで、自らの自然な意思で、学んでいる人」
なのです。 

 「おもちゃが、遊ぶことが、良くないことだから、悪いことだから、
  そして、勉強することが、良いことだから、正しいことだから、
  だから、意思の力で、無理やり、勉強している人」
では、ないのです。


この、パラドックスな世界では、
『北風方式』よりも、『太陽方式』のほうが、
結果、効果があります。

あるいは、
こう、表現できるかもしれません、

 『人間と成っていく』サイクルにおいては、
 『北風方式』が、効果がある
と。

 不完全な、われわれ人間は、
 意思の力によって、我慢をして、努力して、
 思考することを、やめなければならない。
 思考は、努力によって、止めていくのだ ...

これによって、
わたしたちは、ますます、思考から離れられず、
ますます、思考によって、解決を図ろうとし、
結果、ますます、失敗し、分離を深め、
そして、ますます、人間と成ってきました。

それに対して、

 『神に還ってく』サイクルにおいては、
 『太陽方式』が、効果がある
と、言えるかもしれません。

 そもそも、その本質において、完全な、わたしたち人間は、
 想いのまま、存分に、思考してあげれば、
 自然と、そのおもちゃを、手放していける ...


津留さんは、
講演会CD/DVD『幸せテクニック講座6』の中で、
浄化を思いついたときの様子を、詳しく、話していますが、

その内容は、
 「考えて、考えて、考え尽くしても、答えが分からず、
  それでも、考えようとしたら、
  脳がオーバーヒートを起こし、
  そして、安全弁が抜けて、『思考が止まり』、
  そのとき、パッと、ひらめいた・理解できた」
というものです。

津留さんの、思考が止まった、瞬間です。

また、
津留さんの話に続いて、お伝えするのは、僭越ですが、

振り返ってみると、
僕が、本格的に、浄化をするようになったのは、
 考えても、考えても、どうしたらいいのか、分からず、
 「あぁ、もう、だめだ。
  思考では、どうやっても、解決できない」
 と、こころから、思ったとき
です。

津留さんの場合は、
例えるなら、

 『思考』という、グルグル回る、エンジンを、
 限界まで回して、回して、回し続けて、それでも、まだ回して、
 そして、その結果、あるとき、エンジンが壊れた

というような、感じでしょうか。

あるいは、
僕のケースでは、

 『思考』というエンジンを、回し回し続けた結果、
 エゴが、疲れて(そして、ある意味、納得をして)、
 そして、エンジンへの、燃料の供給をやめた

という感じ、かもしれません。

いずれの場合も、
回り続けるエンジンを、
ブレーキによって、無理やり、止めようとしたのでは、ありません。

強力な力で、回り続ける、エンジンを、
それ以上の力で、それ以上の意思の力で、ブレーキを踏んだところで、
エゴのほうは、
 「なにおぉ〜? そっちがその気なら、こっちだって!」
と、
ますます盛んに、燃料を補給して、
ますます、回転を高めてくることでしょう。

ところが、エゴに、
 「いいよ、いいよ! もっとやりな、もっとやりな ^^ 」
と、言ってあげれば、
 「え、そうなの?」
 「でも、そう言われてみると、もういいよ、十分だよ。疲れたよ」
と、
やがて、燃料の補給をやめ、回転も収まってくる、止まってくることでしょう。


この世界は、
 『体験の世界』
です。

 「神さまが、神さまそのもので居たら、体験できないことを、
  体験するために、作り上げ、そして、人間をしてる」
世界です。

 「体験すること」
が、
 「十分に、体験すること」
 「存分に、味わうこと」
が、
その目的です。

『思考』も、十分に体験してあげれば、
終わっていきます。
他の体験を、したくなります。

あるいは、
『思考』も、
十分に、体験してあげる必要があります。

全知で、全能な、神さまだったときの、わたしたちは、
『考える』ことなんて、できませんでした、
何でも知っているし、何でもできるのですから ...

こうして、『人間』に成って、はじめて、
制約された条件の中で、
限られた情報を使って、機能的に限られた頭脳で、
『考える』ことが、できるようになったのです。

ですから、
その、『人間』に成れた、その一人として、
ぜひ、存分に、『考える』ことを、体験なさってください。

多くの存在(「自分のハイヤーセルフ」「ソウルグルーブ」)を代表して、
いま、『人間』を体験している存在として、
責任を持って、『思考』を、存分に、味わってください。


考えは、
『止めるもの』ではなく、『止まるもの』です。

考えが、止まらない方は、
どうぞ、
 「『考えること』は、良くない。正しくない。」
という視点から、一度、離れて、

 「わたしたちは、『考える』という体験をするために、
  いま、人間をしているのだ」
という可能性について、検討なさって、

そして、ぜひ、
思いっきり、考えてください。

考えて、考えて、考え尽くして、あげてください。

エゴに、『考える』というおもちゃを与えて、
思う存分、遊ばせてあげてください。

エゴが、飽きるまで、
エゴが、音を上げるまで、
どうぞ、考えてあげてください。


考えが、止まらない方は、
実は、
 「『考える』という体験が、足りていない」
のです。

 「どうしても、考えて、考えてしまう」
という方は、
 「いつもいつも、考えている自分は、考え過ぎだ」
と、認識なさっておられるかもしれませんが、

少し長いスパンで見てみると、
実は、
 「『考える』という体験が、足りていない」
 「『考える』ということに、まだ、飽きていない」
のです。

これからは、
どうぞ、思う存分、考えてください。

そして、
その体験を、十分になさって、
 「『人間』としての体験」
を、存分に、味わわれて、感じられて、

そして、
未練なく、心置きなく、
 「『人間』に成っていく」
 「『人間体験』を極める」
というプロセスを、サイクルを、
終えられて、

そして、
 「『神』に還っていく」
というプロセス・サイクルを、

肩に力を入れること無く、
ナチュラルに、自然に、
歩まれて行ってください。