2017年12月8日金曜日
「ゲーム」を選択する
「あぁ、その『ゲーム』、してないなぁ」
あるとき、
内側で、そう、つぶやいていたことがあります。
その日は、
昼どきに、街中に居ました。
人ごみの中を、ゆっくりと、歩いていると、
背後に、かなり大きめな声でやり取りをしている、
女性グループが、近づいてきました。
会話の内容を把握できるくらいに、近づいてきたとき、
最初に認識できたのは、
こんなやり取りでした。
「いやぁ、でも、それは、カロリー高すぎない?」
「そうねぇ。 じゃぁ、何にするぅ?」
おそらく、
これからする、ランチを、
何にするか、話し合っていたのでしょう。
聞こえませんでしたが、
何らかの案が提示され、
それだと、「カロリーが高すぎる」から、
それにすると、「太ってしまう」から、
なので、別のものにしよう
そのようなやり取りを、していたもの、
と、理解しました。
僕は、
学生時代に、かなり太っていた時期があり、
それゆえに、
青春時代から、青年時代を 通じて、
そのことには、人一倍、敏感で、過敏で、
「体型」「カロリー」という項目は、
そのころの僕にとっては、
最重要項目の一つ、でした。
なので、
彼女たちが、食事にあたって、
「カロリーが、高いか、低いか」
「太りやすいか、どうか」
を基準とする気持ちは、
よ〜く分かります。
ですが、
押しも押されぬ「おじさん期」に入り、
食べても、さほど、太らない
いえ、そもそも、もう、さほど食べられない
いえいえ、そもそも、もう、太ったところで、気にならない
という状況になり ^^; 、
「太るかどうか」「体型」
「カロリーが、高いか低いか」「カロリー」
という観念・項目、そのものが、
気になる事項としては、
自分の中に、反応を起こす事項としては、
もう、存在していません。
もちろん、
僕と同年代や、僕より高齢の方でも、
「体型」や「カロリー」のことを、
気にされている方は、いらっしゃると思います。
ですので、
僕の場合には、
「それらのことを気にする」という体験を、
さんざん、やり尽くした
ということ、
そして、
その、やり尽くしたことを通じて、
それらのことが、ニュートラルになった、フラットになった
ということのだと、思います。
つまり、
実体験を通じて、
それらを、体験し尽くした
ということ。
そして、そのような体験を通じて、
それらのことが、浄化できた
ということ。
なのだと思います。
津留さんは、
「地球人間ゲーム」
という表現を、とりました
(覚醒進化プログラム「 人生はゲームである 」)。
私たちは、人間として生きている間、
「人間を体験する」ゲームをしている、
という見方です。
遊びとして、ゲームとして、楽しみとして、
人間をしている、という考え方です。
その見解においては、
私たちは、
「地球という場において、人間をしている」
という部分においては、
共通のゲームをしています。
『スーパーマリオ』ゲームにおいて、
みなが、「スーパーマリオとして、ピーチ姫を助ける」
という部分と、同じように。
ですが、
同じ、『スーパーマリオ』ゲームをしていても、
ある人は、
「どれだけ早く、クリアーできるか」
を、目標にしていたり、
あるいは、ある人は、
「どれだけ高得点をあげて、ゴールするか」
を、競っていたり、
また、ある人は、
「一度も死なずに、ゴールすること」
を、目指していたり、
同じゲームをプレイしていても、
人、それぞれに、
「副次目的」と言いましょうか、
「付加的目的」と言いましょうか、
共通項である「主目的」とは違う、
別の目標を持っている場合があります。
そうすると、
その、付加的な目的次第で、
プレーの仕方が、気にする項目・内容が、違い、
同じゲームながら、
違うゲームをしているように、
楽しむことができます。
さらに、
人によっては、そもそも、
「ピーチ姫を助ける」という共通項・主目的を、
端(はな)から、念頭に置いていなかったりも、すると、
「同じゲーム」とは、言えないくらいに、
それぞれに、独自の、
楽しみ方をすることができます。
先の、
津留さんのメッセージでは、
「将棋」を事例にして、
「制限・制約を、自ら、わざわざ、持つことによって、
ゲームを、面白くし、楽しんでいる」
と、書かれていますが、
同じように、
『スーパーマリオ』ゲームの例では、
「目的を、自ら、わざわざ、付加することで、
ゲームを、さらに面白くし、楽しんでいる」
と、言えると思います。
制限や、制約事項、付加目的を、持つことで、
「できないこと」「してはいけないこと」
「すべきこと」「しなければいけないこと」
が、生まれ、
それらが、増えれば増えるほど、
ゲームは、複雑さを増し、
同時に、面白さも増えます。
ところが、
その『面白さ』は、
その、『複雑さ』から、生み出されており、
その、『難しさ』から、生み出されています。
『複雑さ』が、増せば増すほど、
『難しさ』が、増し、
それを、「望んでプレーしている」という意識からは、
『面白さ』も、増し、
加えて、
「それをクリアーできたとき」の『面白さ』、喜びも、
激増します。
ところが、
この、『地球人間ゲーム』においては、
このゲームを、
「自ら、望んでプレーしている」んだ、という認識は、
そもそも、ありません。
これが、『ゲーム』なんだ、という認識も、
ありません。
そうなると、
そこにあるのは、
単に、『難しさ』であり、
単に、『複雑さ』です。
「クリアーできたときの『面白さ』」を、
純粋に、そして、積極的に、
味わっている人達も、確かに、居ますが、
『面白さ』も、喜びも、感じることができず、
ただただ、『難しさ』に、『複雑さ』に、
埋没してしまっている方々も、
多数、存在します。
そんなとき、
まず、役に立つのが、
「そういう『ゲーム』をしているんだ」
という観念を、見地を、
一度、試しに、持ってみることです。
もし、それに続いて、
「しかも、それは、『自ら望んで』、しているんだ」
と、思えてしまったなら、
さらに、話は早いのですが、
そこは、置いておいたとしても、
「だったら、自分は、『どんなゲーム』をしているんだ?」
と、
自分がプレーしているゲームを、
明確化・特定化していくことです。
『目的』としていること
『制限・制約』としていること
「できないこと」「してはいけないこと」
「すべきこと」「しなければいけないこと」
自分の中には、それらに関して、どのようなものがあるか、を、
一つずつ、チェックし、
一つずつ、気づいてあげることです。
無自覚に、無意識に、
プレーしているゲームを、
参加しているゲームを、
一つずつ、特定していくことです。
それによって、
すこしずつ、混乱が減り、
すこしずつ、複雑さが減り、
すこしずつ、はっきりしてくること、スッキリしてくることがあります。
そして、そのうえで、
「自分は、それをプレーする必要があるのか?」
「自分は、そこに参加したいのか?」
「自分は、このゲームを続けたいのか?」
と、
一つひとつの、ゲームについて、
その参加を、継続を、中止を、
検討・検証することです。
これまでは、
無自覚に、無意識のうちに、
参加し、プレーしていたゲームだけれど、
でも、明確に認識してみれば、
「それをプレーする必要は無い」とか、
「かつては、そうしたかったけど、今はもう、止めよう」とか、
そのような決断が、できてくるはずです。
それを、
ご自分の意思で、はっきりと、なさってみてください。
そうすれば、
この、混沌として、複雑で、困難極まりない、
「自分の周りの環境」が、
「自分の置かれた状況」が、
すこしずつ、シンプルになり、
すこしずつ、分かりやすくなり、
すこしずつ、解きやすくなる ...
そんなサイクルが、
始まってくるものと思います。
まとめてみます。
私たちは、
「地球人間ゲーム」をプレーしていると、認識してみた場合でも、
いくつもの、ミニゲームが、組み合わされた、
「総体としての『地球人間ゲーム』」をプレーしている、
と、
言うことができます。
その場合、それぞれの組み合わせは、
一人ひとり、それぞれに、異なっていて、
実は、それぞれが、それぞれに、
独自のゲームを、プレーしています。
それが、
「一人ひとり、違う『宇宙』に住んでいる」
という、
津留さんの言葉の、
一つの意味になりますが、
そのとき、
それら、ミニゲームの組み合わせは、
自ら、選択することができます。
それによって、
『総体としてのゲーム』の、難しさや、面白さを、
自ら、調節することができます。
そうするためには、
まず、一つひとつの(ミニ)ゲームに、気づいてあげること、
そして、それらを、自ら、取捨選択すること。
捨てる(止める)ためには、
その項目に関して、
フラットになること、ニュートラルになること、
「どっちでもいい」「どうでもいい」となること。
そのためには、それに近づくためには、
(当初の目的どおりに)
プレーし尽くすこと、体験し尽くすこと。
ですが、
もし、それが辛ければ、たいへんであれば、
津留さんが遺してくれた『浄化』を、ご活用していただけても、
そこに、近づいていくとこができると思います。