2018年9月8日土曜日

お見舞い申し上げます(北海道地震・大阪台風)

 
先日の、北海道での地震により、被害に遭われた方。

および、台風による強風で、被害に遭われた、大阪・関西方面の方。

ならびに、今年に入り頻発している、自然災害に遭われた方。

みなみなさまに、心より、お見舞い申し上げます。
 
 
このところ、
特に今年に入ってから、

自然災害が頻発していて、

また、その規模・強度が増し、
被害が甚大に、深刻になっている印象を、
個人的には、持っています。

被害に遭われた方やご関係の方、影響を受けられた方、
みなさまに、お見舞い申し上げます。
 
 
被害に遭われている最中などは、
特に、

恐怖や不安が大きく、とても強く、
動揺が収まらず、混乱し、

落ち着くこと、冷静になること、
そんなことが、まずもって、難しい状態になることもあります。

そんなときにこそ、
スピリチュアルな考えや、津留さんのメッセージなどが、
役に立つ、助けになる、

そんな方も、いらっしゃるかもしれませんし、
そんなケースも、あるかもしれません。

ですが、
しかし、

多くの、緊迫した、切羽詰まった状況では、

ほとんどの方の場合、
それどころではない、
という状態になられることと思います。
 
 
そんなときには、

まず、
今目の前の状況に対して、

3次元的な、実際的な行動を、
躊躇なく、そして集中して、行ってください。

また、
そんな状況で、
津留さんの言っていたことで、役立つとすれば、

呼吸に意識を向けて、
しっかりと、冷静なる方向に、意識を持って行くこと、

それを、どうぞ、
全力でなさってみてください。
 
 
 「呼吸に意識を向ける」
 「集中して、呼吸をする」
と、

巨大な感情の波に飲み込まれてしまうことから離れることが、
思考の渦に翻弄されてしまうことから距離を置くことが、

可能になる確率が、格段に高まります。

そんな状況では、
まず、そのことを、最優先になさってください。
 
 
もう、
5年以上も前のことになりますが、

娘が、
意識を失い、痙攣を起こし、
救急車で救急搬送されたことがあります。

病院に着くなり、
救急救命室に運ばれ、

閉まりゆく扉越しに、
 「気道を確保して!」
と叫ぶ声が聞こえるような、
そんな事態でした。
 
 
搬送されている間、
あるいは、病院に着いてからも、

猛烈な、強烈な、
なんとも形容のし難い、圧倒的な恐怖感に、

押しつぶされそうになりながら、
気が狂いそうになりながら、

でも、
ただ、ひたすら、
呼吸に意識を向けていました。

津留さんの、
 「そんなときには、浄化なんてできませんから、
  とにかく、呼吸に意識を向けてください」
という言葉を左手に握りながら、

ただ、ひたすらに、とにかく、
全力で、全身全霊で、
息を吸い、そして、息を吐いていました。
 
 
僕の場合には、
「そのおかげで」、と認識していますが、

どうにかこうにか、ギリギリ、
意識の一部分を、自分の冷静な部分に繋ぎ止め、

津波のように激動して起きている、目の前の現象に、
どうにかこうにか、かろうじて、ギリギリ、
自分の意識を、時差なく、並列走行させることができました。
 
 
スピリチュアルなことは、
特に、「浄化的」なことは、

状況が落ち着いてから、
心が落ち着いてから、

いくらでも、できます。
 
 
まず、可能な範囲内で、
気持ちを、心を、冷静に保つこと。

そして、取れる現実的な対応を、
逡巡なく、行うこと。
そのことに、集中すること。

そのためにも、
そのためにこそ、
可能な限り、気持ちを鎮めること。

まず、
そのことに、注力なさってください。
 
 
そのためには、
ひとまず、

平時に役立つものたちは置いておいて、

その状況に全力で当たられてください。









2018年9月7日金曜日

かりそめ、だけど本番

 
前回、
人生は旅行のようなもの
と、書きました。

そこで、お伝えしたかったことは、

 「津留さん的な見方をする場合には、
  『人生』あるいは『人間をする』というのは、
  旅行みたいなものだ、
  と、とらえていただくと、
  とても当てはまっていて、お分かりいただけやすいと思います」

ということです。

また、
そこでは、

津留さん的な見方・考え方・認識の、
その他のスピリチュアル的なメッセージとの違いや、
あるいは特徴のようなものも、
少し、まとめてみました。

以上の中で、
何かご参考にしていただけることがあると、嬉しいです。
 
 
さて、今回は、
その補足のようなものを、

一つ、
させてください。
 
 
 「人生は旅行のようなもの」

そう、認識したとき、

『人生』『人間をしている今』は、
「旅行中」です。

今の私たちは、
「旅先にいる旅人」です。

「旅」は、
やがて、いずれ、
終わりを迎え、

そのときには、
『家』に帰ります。

つまり、
「旅」とは、
一時的なものです。

『かりそめ』です。

今の状態も、
「永続」「永遠のもの」ではないし、

また、
今のこの存在(している『人間』という存在・状態)は、
「本質」では、ありません。
 
 
「そもそも」の、「元々」の、
場所だと、ものだと、

味わえないから、体験できないから、

今は、かりそめに、
この場所にいて、このものに成っている。

『人間をしている』『人間に成っている』存在としての、
今現在の私たちは、

「本質」からはかけ離れた、
仮の、かりそめの、状態になっている、

そんな存在です。
 
 
『人間』として生きていることに、
絶望を感じたり、
圧倒されてしまったり、
虚しさを感じたり、
あるいは、嫌悪を感じたり ...

そんなこと、
どなたでも、おありだと思います。

特に、
津留さんのメッセージがお好きな方は、
心優しい方が多く、
そして、自分を責めがちですから、

そんな、辛い思いをされてらっしゃる方、
多くいらっしゃることと思います。

そんなときには、

どうぞ、
 「これは『かりそめ』である」
ということを、
想ってみてください。

そんな考えを、見方を、
採用してみてください。
取り入れてみてください。

役立つことが、
少しでも、安らげることが、
あるのではないかと思います。
 
 
また、
しかし。

しかし同時に、

ここは、今の状態は、
かりそめではあるけれども、

しかし、同時に、
ここは、今は、「本番」です。
 
 
旅先は、
旅人という状態は、

かりそめの場所であり、
かりそめの状態だけれども、

しかし、それは、

想いを果たすために、
望んで、求めて、訪れている場所であり、

その場所でないと、その状態でないと、
できないことをするために、

そのために、わざわざ、
訪れている場所であり、状態です。

今が、
望んだ結果が得られている状態、

今が、
『本番』です。
 
 
ですから、

楽しいことは、
嬉しいことは、

遠慮なく、
楽しんで、満喫してください。

また、もし、
辛いことや、大変なことであっても、

どこかに客観的に見られる余裕があり、
どこかに冷静になれる部分があるようなら、

しっかりと、体験なさってくだい。

旅先の旅人として、
この本番を、
遠慮なく、存分に、味わってください。
 
 
 かりそめであり、
 でも、そうではあるけれども、しかし同時に、本番

そんな、
一見、相反するような、

そんな、
「どちらも」な状態が、

津留さん的な見方をしたときには、
矛盾なく、成立しています。

だからこそ、
「全てOK」です。
 
 
そして、ですから、

 「好ましくないことは、
  『かりそめ』と、重く受け止めず、気にかけず、
 
  でも、好ましいことは、
  『これぞ本番』として、存分に満喫する・味わう」

そんな都合の良さを、
ぜひ、取り入れてみてください。

遠慮なく、
活用してみてください。

それを、
ご自分に、許してください。


今、ここは、
かりそめであり、だけど、本番。









2018年9月6日木曜日

人生は旅行のようなもの


 「人生は旅である」

 「人生というのは、旅のようなものであり、
  また、旅というのは、人生のようなものである。」

このような言葉・格言・慣用句・表現を、
耳にされたことがおありなのではないかと思います。
 
 
誰が言った言葉なのか、
ググってみましたが、

明確なもの、確定的なもの、
広く一般に合意・認識されているもの、には、
行き当たりませんでした。

ただ、古くは、
お釈迦さまも、
人生を旅に、私たちを旅人に、例えていらしたようです。
 
 
また、
 「人生は旅である」
と言ったとき、

では、
 それがどういう意味なのか
 何を意図したものなのか、どんな教訓めいたものなのか
など、

その言わんとするところは、
また、それぞれに、いろいろ、あるようです。

 「とどまることのないもの」(無常・変化)
 「種々雑多なもの・ことがあるもの」
 「自ら進んでいくもの」
 「何があるかわからないもの」
など、

そこで言わんとするは、
言い手・使い手により、
状況・シチュエーションにより、
様々なようです。
 
 
ところで、みなさん。

みなさんは、
実生活において、
旅をするとき、旅行をするとき、

どのようなきっかけで、
どのような動機で、
旅行をされますか?

もちろん、
「旅」「旅行」といっても、
いろいろありますが、

基本的には、
旅行というのは、

 「見たいもの」
 「したいこと」
などがあり、

それをするために、
行くものではないでしょうか?
 
 
例えば、
 テレビで、ある風景を見て、
 それに感激して、
 自分も、ぜひ、それを生で、この目で、見てみたい
とか、

 雑誌に載っていた、あるお店の、ある料理が、
 とっても美味しそうで、
 どうしても、それを食べてみたい
とか、

あるいは、
 友人から聞かされた、ダイビングの話が、
 とっても素敵で、羨ましくて、
 ぜひ、自分も、そこに潜ってみたい
とか、

そんなきっかけ・動機・目的があって、

で、
それをするために、実現するために、
その場所を訪れる。

旅行というのは、
おそらく、
そのような動機・目的で、なさるものだと思います。

 どんな場所・景色か、料理か、アクティビティか、
 知っているし、
 知っているからこそ、知れば知るほど、
 実際に、見てみたい、味わってみたい、体験してみたい、
 その気持ちが高まり、
 そして、その願望を叶えに行く

そんな感じなのでは、と思います。 
 
 
そのことを、
僕がここで言いたいことを伝えやすいように、表現すると、

私たちは、

 事前に知っていたこと、
 事前に情報を得ていたこと、を、
 実際に自分で体験するために、
 旅行をする

となります。

つまり、

 旅・旅行とは、
 事前に知っていたことを、
 現地に行って実体験すること

と、なります。


さて、
で、ここで。

僕も、
先と同じようなことを、言ってみたいと思います。

 「人生とは、人間として生きるとは、人間をするとは、
  旅行のようなもの」
と。
 
 
毎度おなじみ、
津留さん的な見方・認識では、

私たちは、
元々は、神さまでした。

この見方・認識、仮定・仮説においては、

私たちは、元々は、
「全て」でした。

 「すべてである、一なる意識であり、
  全知であり全能である」存在
でした。

 「全てが自分であり、
  だから、全てを知っていて、なんでもできる」
そんな存在でした。
 
 
しかし、
「全てを知っている」存在であり、
「なんでもできる」存在である、
そんな存在『だからこそ』、

逆に、
パラドックス的に、
「できないこと」が、ありました。

それは、
 「知らない」「わからない」
 「できない」
ということ。

全てを知っているので、
 「知らない」「わからない」
ということが、
ありません(できません)でした。

なんでもできてしまうので、
 「できない」
ということが、
できませんでした。
 
 
ただ、
もちろん、
「全てを知っている」存在ですから、

「知らない」「わからない」ということが、
どういうことなのか、

「できない」ということが、
どういうことなのか、

そのことは、
完全に、知っていました。

その意味を、概念を、
知識としては、完璧に、完全に、
「知っていました」。
 
 
ただ、
知っていはいましたが、

しかし、
「できません」でした。

表現を変えれば、
「体験できません」でした。

それが、どういう感じなのか、
「感じられません」でした。
「味わえません」でした。

そして、
知っているからこそ、
感じてみたくて、味わってみたくて、
たまりませんでした。
 
 
で、では、
「できる」ためには、
「体験する」ためには、
どうしたらいいのでしょうか?

それには、
 「全知ではない」「知らないことがある」「わからないことがある」存在
 「できないことがある」存在
に成ること。

 「全知全能」ではない
 「完全」「完璧」ではない
そんな存在に成ること。

そう成れば、
 「わからない」「できない」
ができます。
 
 
では、
そう、成れるでしょうか?

成れます。
だって、「全能」ですから。
「なんでもできる」のですから。
できないことは、ありませんから ...
 
 
こうして、
私たちは、

 「知らないことがある」
 「わからないことがある」
 「できないことがある」

そんな存在に成りました、

自らの、「全能性」を、
遺憾なく発揮して。
 
 
そして、さらに、
「わからない」「できない」内容を深めるために、

 「わからないことだらけの」
 「できないことだらけの」
 「不完全な」
 「ちっぽけな」

そんな存在にまで、成りました。

それが、
今、私たち一人一人がやっている、
『人間』という存在です。
 
 
完璧に、完全に、
知っているにもかかわらず、

でも、
「知っている」だけでは、
不十分で、不満足で、物足りなくて、

「わからない」「できない」を、
「体験」したくて、
「感じ」たくて、
「味わい」たくて、

私たちは、
人間という存在を創り出し、

そして、
それに、成っています。

それが、
今、私たち一人一人がやっている、
『人間』という存在です。
 
 
そんな見方、
そんな仮定に立ったとき、

「人生」を「旅行」に例えるという比喩は、
とてもしっくりとくる、適切で、当てはまったもの、
であると、感じます。
 
 
まず、
一番ポイントとなる部分は、

 「体験すること」
 「感じること」
 「味わうこと」
 それが、一番の目的である

ということです。

 「人間をしている」「人間として生きている」というのは、
 「地球人間体験『ゲーム』」をしている
という、
津留さんの、別の表現とも、一致しているとおりに、

このような見方からすれば、
「体験すること」「感じること」「味わうこと」こそが、
一番の目的です。

「知ること」が、目的ではありません。
もう、はじめから、完璧に、知っているのですから。

旅行の前に、その情報は、完璧に、手に入れているのですから。
 
 
しかも、
その、「体験したいこと」「感じたいこと」「味わいたいこと」は、

元々の『神さま』の状態では体験できない、
『人間』に成らないと体験できない、

「わからない」「できない」という内容であること、
です。

このマゾ的な、一見信じがたいような目的こそが、
実は、渇望し、憧れ、恋い焦がれたもの、なのです。
 
 
また、それは、「探検」とは、
少し、違います。

「探検」は、
未知のものを探しに行くもの、ですが、

『人生』とは、
むしろ、すでに知っていることを、
見に、体験しに、行くものです。

 そこに行かないとできないから、
 そのために、そこに行き、
 そして、それを実体験すること
それが目的のものです。
 
 
そして、それは、
「したいから、している」行為です。

ただ、「したいから、している」ことです。

むしろ「しなくてもいい」、のだけれど、

でも、
「したいから、している」ことです。

つまり、
広く言えば、それは『遊び』であり、

決して、『仕事』でも、
ましてや『修行』では、ありません

(『遊び』『ゲーム』『仕事』『修行』については、
 過去記事「 人生は、『修行』か、『ゲーム』か? 」や、
 その関連記事をご一読いただけると幸いです)。
 
 
また、それは、
「したいから、している」のです。

 自分がしたいから、している、
 そして、それができている、
 というのが、
 今の、人間として生きている、自分の状況だ

つまり、

 自分の望みが叶っているのが、今の状況であり、
 それは、自分がそれを創り出したからであり、
 つまり、自分が『創造主』だ

という観点です。

決して、

 自分は望んでもいないのに、させられている存在、
 自分は『被創造物』であり、
 自分は『被害者』だ

という認識では、ありません。

 『自分』というものを、そのように認識している
あるいは、
 「元々の自分」「本来の自分」というものを常に認識している部分がある
そんな認識・感覚を有しています。
 
 
また、
『旅行』ですから、

「見ていないもの」
「行ったことがない場所」
「していないこと」
に、基本的な興味があって、

そして、
それを、興味があるから、行くだけ・しているだけ、
で、

また、
その順序も、順不同、
したい順にし、行きたい順番に行きます。

決して、
 「してしまったから、今度は、されてしまう」
 「する側をしたから、次は、される側になる」
というような、

カルマ的な、因果応報的な、
そんな理由や順序は、ありません。
 
 
そして、
そこに行かないとできないことをしたいから、
そこに行くのであって、

そこに行くこと、そこで体験すること、
そのプロセスそのもの・全体が、目的であり、

そして、
それらが終われば、
家に帰ります。

元の場所に、
元の存在に、還ります。

どこかの目的地に到達すること、
そのことだけが目的ではないし、

また、そこに留まることが、
目的でもありません。

また、なので、
そこに、目的地に、ゴールに、
いかに早く着くかが、大切なわけでもありません。

自分が望み、計画した、せっかくの楽しい旅行を、
いかに早く終わらせるかが、目的・目標、なんて、
哀しいですよね。
 
 
津留さん的な見方をしたとき、

 「人生とは、人間として生きるとは、人間をするとは、
  旅行のようなもの」

という例えは、
とても当てはまったものとなります。

その見方からすると、

 「私たちは、
  『(地球)人間』旅をしている最中(さいちゅう)」

と、例えることができます。

そして、
このように見てもらえると、

津留さんの言っていたことを、
津留さんが見ていた見方を、
よりお分かりいただけやすいのではないか、
と、思いますし、

また、
このような見方を採用していただけると、

人生を送ることが、人間として生きることが、
それまでよりは(ほんの少しかもしれないけれど)、
楽になられる、楽しくなられるのではないか、
と、思い、

このような形で、シェアさせていただきました。









2018年8月29日水曜日

人間ハワイ


それは、
今年4月の、ある日。

船橋での、うさと展が終わり、
会場の片付けを終え、
道具を運ぶために、車に乗っていたときのこと。
 
 
四月の、夕刻。
若干の雲が漂う、風の無い、穏やかな晴天。

薄茜色に染まりはじめた、
その空を、

よりはっきりと見たくて、
しっかり、直接、感じたくて、
窓を開けると、

流れ込んでくるのは、
その季節特有の、
爽やかで、涼やかな、空気。

騒がしさは、少し、あるものの、
しかしながら、それは、
休日ならではの、温かな「家族・家庭」の、
気配、音ども。

そして、
それらを包み越えて、
耳に届いて来ているのは、

昨年ハワイを訪れて以来、
車に乗るときには、いつも聴いている、
ハワイアンミュージック。

穏やかで、柔らかく、ゆったりとした、
その音の帯は、
細やかに、滑らかに、
僕の身体に、流れ入り、染み渡ります。
 
 
全てが弛緩し、
『自分』が、瓦解していきます。

『肉体』が崩れ、
周りに、全体に、溶け広がっていきます。

「力み」が感じられず、
完全に、「ただ、そのまま」の感覚になります。

「至福」の、
一形態に浸りました。
 
 
そのとき、
思考が認識したのは、

 「あぁ、
  『ハワイ』が存在してくれているってことは、
  なんて、ありがたく、すばらしいことなんだ」

ということでした。

『ハワイ』に繋がることで、
あるいは、
『ハワイ』を深く感じ、思い出すことで、

僕は、
「至福」とまでも言えるほどの、
感覚に浸り入ることができる ...

この地球上に、
『ハワイ』という、
「楽園」の一形態が、

具体的に、
実在してくれていることに、

心から、感謝しました。

自分にとって、
喜びであり、希望であり、
また、救いであると、
感じました。
 
 
もちろん、
私たち共通の、客観的事実としての
ハワイには、

いろいろな側面があり、
さまざまな事情があり、

決して、「『楽園』そのもの」などではないことは、
十分に、認識しています。

経済的なこと、
人種的なこと、
環境的なこと、
そして、歴史的なこと ...
 
 
また、特に、
この5月から、はじまった、
ハワイ島での、新たな溶岩流の噴出は、

8月に入り、
ようやく、終息を迎えてはいるようですが、

それまでの3ヶ月余で、
広範な地域を、
溶岩で、焼き払い、覆い尽くしてしまったこと。

しかも、その噴出が、
まさに、私たちが滞在した住宅地 " Leilani Estates " から起こり、

私たちが滞在した家から、500mも離れぬ一帯でも、
私たちが訪れた当時の様子を、一切、留めていないということ。

このブログでも紹介した、『楽園の海』( カポホ・タイドプール )も、
今は、厚い真っ黒な岩の層の下に、沈降してしまったということ。

この、個人的体験に関係のある、
極めて狭い範囲内においてさえも、

極めて極端で過酷な出来事が起こりうる、
『ハワイ』という場所が、

決して、「『楽園』そのもの」と言い得ないことは、
十二分に、認識しています。

それどころか、
今回の出来事に見舞われた地域では、
「『楽園』どころか『地獄』」のような体験をなさっておいでなことと、
認識しています

(心より、心よりお見舞い申し上げます)。
 
 
それでも、なお、
『ハワイ』の持つ、緩やかさ・のどかさ・暖かさ・美しさと、
『ハワイ』が放つ、煌めきは、

僕の心を、身体を、
緩め、和らげ、溶かし、
そして、整え、再構成してくれます。

『ハワイ』という『楽園』が、
夢が、憧れが、理想が、

僕を、
柔らかくし、

そして、
僕を、強くしてくれます。
 
 
 「『ハワイ』のような『場所』が存在することで、
  僕が、これほどまでに、
  救われ、癒され、慰められ、そして、励まされるのならば、
  
  同じように、
  『こんな人が存在することで、救われ、励まされる ... 』
  そんな『人物』が、居てもいいのではないか?

  いや、僕が、そんな人物になってもいいのではないか?
  率先して、僕が、そんな人物になってもいいのではないか?」
 
 
そのとき、突如、
そんな想いが、浮かび上がりました。

僕にとっては、
初めて到来してきたアイデアであり、

僕にとっては、
初めて得られた認識でした。

そんなこと、
思ってもみたことがありませんでした。

自分が、率先して、
『夢』を、『理想』を、生きることが、

むしろ、
他者の救いになり、励ましになるなんて、
思ってもみたことがありませんでした。

でも、
いったん、そう認識できてみると、

それは、
至極当然のアイデアであり、

それは、
採用しない理由の見つからないものでした。
 
 
考えてみれば、
「津留さん」も、そんな一人、ですかね?

みなさんの中には、
「津留さん」という人物が存在したことが、
救いであり、希望である、という方も、
いらっしゃいますかね?

そう、気づきました。
 
 
でも、
では、なぜ、

これまで、僕は、
そのような認識に至らなかったのでしょうか?

僕の場合、
それは、明白でした。

そこには、
二つの理由がありました。
 
 
一つは、
 「そんな『理想』に、自分が成れるわけない」
という、

自己評価の低さ、自己能力への懐疑、自信のなさ、自己否定 ...

そのようなものでした。

おそらく、
これは、分かりやすく、

また、
多くの方も、共感されるところなのでは、と思います。
 
 
もう一つ。

そして、
僕の場合には、

こちらこそが、
より大きく、より強い、要因に感じられます。

 「そんなことをしたら、ズルい。
  そんな状況になったら、他の人に悪い。 申し訳ない。」
 
 
この、
「ズルい。悪い。申し訳ない」には、

そうなった場合には、
他者から「ズルい」と責められることになり、
他者から妬まれることになり、
それが怖い、それのほうが余計に嫌だ、
という思いも、付随しているでしょうが、

でも、
それ抜きに、純粋に、

自分が優れた状態であることを、
自分が恵まれた状況になることを、
禁ずるような、諌めるような、
ブレーキをかけるような、

そんな想いが、
みなさんにも、ありはしませんか?
 
 
 困っている人がいるのに、
 苦しんでいる人がいるのに、

 自分が楽で、楽しくて、恵まれて、幸せで ...
 そんなこと、あり得ない!

そう、声高らかに叫ぶ子が、
あるいは、
静かに、揺るぎなく、そう決意している子が、

あなたの内側には、居ませんか?

心優しい人ほど、
当然のように、
そんな想いを、抱えていることでしょう。

道徳心にあふれた、心清き人ほど、
当たり前のように、
そんな想いと、同居していることでしょう。
 
 
 「心優しき人」ほど、辛い思いをする
 「心清き人」ほど、幸せになれない ...

これまでの歴史で、これまでの社会で、
私たちが、数多く遭遇し、数多く体験してきた、

一見、パラドックスと思えるような、
この、シニカルなジレンマは、

私たちに、深い、深い、
憤りと、哀しみと、絶望と、諦めと、虚無と ...
を、感じさせてきました。

ですが、しかし、
それも、もう、十二分に味わってきたものと、
もう、「完了印」を押すべき時に来ているものと、
個人的には、感じています。
 
 
 ライトワーカー

この言葉を聞いて、
心震える人が、多くいらっしゃることでしょう。

夜の闇に、光を照らす、灯台のように、
世の中に、光をもたらす、人。

そんな人物として生きていこうと、決めている方も、
そんな人物にこそなりたいと、望んでいる方も、
多数、いらっしゃることでしょう。

そのときに、ポイントとなるのが、
「自分に対する許可」だと、思っています。

飢えている人が、食べ物を恵むことができないように、
お金がない人が、お金を恵むことができないように、

自らが光り輝いていない人は、光を放射することができません。

 「私は、光り輝けるだろうか?」
そんな、
自分自身に対する、疑念や不信と同様に、

いえ、それ以上に、

 「この暗闇で、もがき苦しんでいる人々がいるのに、
  私は、光り輝いてしまって良いのだろうか?」
そんな、
自分自身を律し、諌め、禁ずるような想いを手放し、
自分自身に対して許可を与えることこそが、
もっとも重要なポイントなのだと、感じています。

むしろ、
そんな人こそが、
そして、周りのためにこそ、
自分が率先して、光を溢れさせること、

自分が率先して、先に進み、理想を歩み、
目印となり、道筋を示してあげること、

それこそが、大切なのだと、
そう、認識を換えてしまうことが、重要なのだと、感じます。
 
 
私たちが、これまで、
心優しさ、清さ、道徳・モラルを持って来たことは、
決して、間違いでも、過ちでも、ありません。

それゆえに、これまで、
ここまでの深さの、苦しみを、味わうことができたのですから。

それを味わうために、
私たちは、自ら、それらを、身の内に入れ込み、抱え込んで来たのですから。

ですから、
それらを恨む必要はなく、

ただ、「もう使い終わりました」と、
宣言し、伝え、手放してあげればよいのです。
 
 
自らの前進を、とどまらないでください。
自らの幸福を、躊躇しないでください。

堂々と、むしろ積極的に、
希求し、実現してください。

その許可を、ご自分に与えてください。

許可を与えていないのは、
許していないのは、認めていないのは、

ご自分だけです。
 
 
 「『人間ハワイ』に、成ってもいいんだよ。
  近づいて、いいんだよ」

僕の場合には、
そう、言ってあげることにします。










2018年8月24日金曜日

第6回名古屋イベント 開催のお知らせ


 2018年11月2日(金)、3日(土)、4日(日)、
 名古屋市で、
 『津留さん交流会』および『個人セッション』を行います。
 
 
 前回の、名古屋での、
 交流会と個人セッションは、
 
 8月の、真夏の、
 「名古屋らしい ^^」とても厳しい暑さの中でした。
 
 それから、1年以上が経ってしまいましたが、
 今回、11月に、名古屋に伺えることになり、
 とても嬉しく思っています。
 
 
 前回の、名古屋での交流会は、
 中身の濃い、内容の深い、
 とても素晴らしい交流会だったことを、
 よく記憶しています。
 
 今回もまた、
 みなさんと、楽しく、
 語り合えたら、交流できたら、
 と、楽しみにしています。
 
 
 また、
 個人セッションにつきましては、
 
 ここのところ、
 従来よりも頻繁に、

  「電話などの、遠隔での、
   個人セッションは、受けられませんか?」
 と、
 お問い合わせいただいています。
 
 とてもありがたいことであるとともに、
 
 そのようなご希望にお応えできておらず、
 心苦しいところではあるのですが、
 
 私たちの個人セッションの内容・手段や、
 私たちの能力的なこと、
 
 その他、様々な事情を勘案すると
 (また、いくつかのトライアルの経験からすると)、
 
 現状としては、
 対面のみの個人セッションに、限定させていただいています。
 
 そのようなこともあり、
 可能な範囲で、こちらから各地へ伺う機会を設けているつもりでいます。
 
 今回の名古屋での個人セッションの機会につきましても、
 ぜひ、ご活用いただけると嬉しいです。
 
 どうぞよろしくお願いします。
 
 
 それでは、
 名古屋のみなさま、中部東海地区のみなさま、
 お会いできることを楽しみにしています ^^
 
 
 2018年8月24日 集合人編集局 裕子・ひで

 
 詳細・お申し込みは、『 第6回 名古屋イベント 』 のページで。











第9回大阪イベント 開催のお知らせ


 2018年10月12日(金)、13日(土)、14日(日)、
 大阪市で、
 「個人セッション」および「津留さん交流会」を行います。
 
 
 ありがたいことに、
 ここのところ、「年2回」「半年に1回」のペースで、伺えている、
 大阪。

 今年も、
 前回の5月に続き、
 10月に、伺えることになり、
 
 今年も、2度、
 伺えることになりました。
 
 ご参加くださっている みなさん、
 ありがとうございます。
 
 
 今回は、
 浄化ワークショップを行わず、
 
 「個人セッション」と「津留さん交流会」を行います。
 
 
 交流会には、前回も、
 定員一杯の方々にご参加いただき、
 
 とても積極的な会話と交流を、たくさん、
 していただく機会を、ご提供でき、
 
 大阪に伺って、交流会を開催することの意義を、
 強く、感じることができています。
 
 今回も、
 たくさんのみなさまにご参加いただき、
 
 多くの交流を図っていただければ、
 と、思っています。
 
 ひでが、
 みなさんにお会いでき、みなさんのお話を伺えることも、
 もちろん、とても楽しみにしています。
 
 
 また、
 個人セッションにつきましては、
 
 ここのところ、
 従来よりも頻繁に、

  「電話などの、遠隔での、
   個人セッションは、受けられませんか?」
 と、
 お問い合わせいただいています。
 
 とてもありがたいことであるとともに、
 
 そのようなご希望にお応えできておらず、
 心苦しいところではあるのですが、
 
 私たちの個人セッションの内容・手段や、
 私たちの能力的なこと、
 
 その他、様々な事情を勘案すると
 (また、いくつかのトライアルの経験からすると)、
 
 現状としては、
 対面のみの個人セッションに、限定させていただいています。
 
 そのようなこともあり、
 可能な範囲で、こちらから各地へ伺う機会を設けているつもりでいます。
 
 今回の大阪での個人セッションにつきましても、
 ご活用いただけると嬉しいです。
 
 どうぞよろしくお願いします。
 
 
 それでは、
 大阪のみなさま、関西地区のみなさま、
 お会いできることを楽しみにしています ^^
 
 
 2018年8月24日 集合人編集局 裕子・ひで

 
 詳細・お申し込みは、『 第9回 大阪イベント 』 のページで。
 
 
 
 
 
 




2018年6月3日日曜日

50回目のファーストキス(時間、そして、他人)


ここ最近、
テレビや、ネット上、街中などで、
映画「50回目のファーストキス」の告知を、
よく目にします。

一昨日が、公開日だったんですね。

聞くところによると、
この、日本版の「50回目のファーストキス」は、

ロケ地もハワイと、そのままで、
元の、アメリカ版の、リメイクだとか。

しかも、主演が、長澤まさみさん(!)、ということですので、
ヒットとなることを、祈念いたしております ^^ 。


さて、元となっている、
アダム・サンドラーと、ドリュー・バリモアの、
ハリウッド版「50回目の ファースト・キス(50 First Dates)」のほうは、

根がロマンチストな、僕は ^^; 、
ストーリー的にも、好きですし、

ハワイの情景や、
コメディータッチなところも、相まって、
大好きで、
何度か、観ています。

なので、
ストーリーなども、比較的、記憶しているのですが、

(この後、ネタバレ注意!)

主役の女性(ドリュー・バリモア)は、
交通事故により、『短期記憶喪失障害』となり、

記憶が、1日間しか持たず、
夜間の睡眠が明けると、前日の記憶がなくなり、

記憶がリセットされ、
事故前の状況に、記憶が戻ってしまいます。

なので、
事故後に会った人のことを、記憶しておらず、

そこで、その後に出会った、
主演男性(アダム・サンドラー)とは、

毎回、毎回、出会いから始まり、
そして、毎回、ファーストキス(原題的には、ファーストデート)を、
繰り返すことになる ...

というストーリー内容から、
このタイトルに、なっています。


いわゆる、「ラブコメディー」で、
ハワイの美しい風景も満載ですので、

その辺りがお好きな方で、
かつ、
アダム・サンドラーとドリュー・バリモアが苦手でなければ、

個人的には、お薦めの映画です ^^ 。


さて。

既述のとおり、
主人公の女性は、

一晩経つと、記憶を無くしてしまいます。

なので、
彼女は、

いつも、いつも、
「一日」を、生きています。

その日の、「一日」を生き、

翌日には、「前日」が無く、
そして、その(翌日である)「一日」を、生きます。


彼女には、
「一日」しか、ありません。

それ以上の長い時間は、
彼女の認識の中には、ありません。

つまり、
彼女には、「一日」しか、ありません。


この点は、ご納得いただけるものと思います。


では。

その、彼女の状況を、
ぜひ、さらに、もっと極端なものに、してみましょう。

もし。

もし、彼女が、
1秒たりとも、記憶できなかったとしたら ...

そのとき、
彼女には、「何時間」「何分」、いえ、「何秒」が、
あるのでしょうか? ...


そうですよね。
彼女には、「1秒すらも無い」ですよね。

彼女には、『時間はありません』。

よね?

え、ということは? ...


私たちが体験している、この社会では、
私たちは、みな、記憶を有しています。

なので、『時間を有しています』。

でも、もし、
もし、みなが、全員が、記憶を有していなかったら、

そこには、果たして、
時間は存在しているのでしょうか? ...


とても良く、
 「『時間』は無い。
  『瞬間』が有るだけ。」
と、
言われます。

この感覚は、なかなか、理解・体得の難しいものですが、

しかし、
そのような、理解・体得が無くとも、
先のように、考えてみたら、

 「『時間』は、『記憶』があって初めて、存在する」

すなわち、

 「『時間』は『記憶』の中にしかない」

ということは、よろしいかと思います。

 「『記憶』という、頭の中の認識の中にのみ、『時間』は存在する」

ということで、よろしいかと思います。


私たちは、
プロセス・変化を、体験しています。

それによって、初めて、
 「良くなる」
 「悪くなる」
という、体験ができます。

そして、それによって、はじめて、
 「嬉しい」とか、
 「悲しい」とか、
 「不安だ」とか、
そのような種類の感情体験を、することができます。

そのような種類の、
感情体験をするためには、

私たちは、
「変化・プロセス」というものを、記憶していなければなりません。

そこで、
私たちは、「記憶力」を有しているのですが、

それに伴って、
そこで、はじめて、

その、それら「変化・プロセス」を、
脳が、『時間』と、認識します。

その「変化」を、
その「プロセス」を、
その、よどみない流れを、

脳が、『時間』と、認識します。


なので、変化が無いときには、
私たちは、時間の流れを、認識できなくなります。

テレビの実験企画などで、
外の様子が分からない、外の変化が一切感知できない部屋などに、
隔離・幽閉された人が、
果たして、時間の経過を、しっかりと当てられるか、

といった内容のものを、
ご覧になったことのある方も、いらっしゃると思います。

そんなとき、
大抵、その人は、
大幅に違う時間認識を、持っています。

これなどは、
私たちが、

変化・プロセスを、時間として認識している、
最たる例だと思いますが、

私たちも、日常生活の中で、
例えば、変な時間に昼寝をしてしまったときや、
長い時間、昼寝をしてしまったときなどに、
起きたとき、時計を見ないと、時刻がまったく分からない、
なんて体験を、したりしますよね。

以上のようなことからも、
『時間』が絶対的なものではない、ということは、
すでに、実感されたり、認識なさったりしていることと思います。


いずれにせよ、

 『時間』というのは、『記憶』を通じて、頭の認識に中にあるものだ

という点は、よろしいかと思います。

それが、

 「頭に中にしか、ない」のか、否か
 「頭の認識の中にのみ、あるもの」なのか、否か

については、置いておいて
(「時間は無い」と言う人々は、
 「なので、頭の中にしかないのだ」と、言っているのだと思いますが)、

でも、いずれにせよ、
 「『時間』は、頭の中にあるもの」
 「『時間』は、頭で認識されているもの」
 「頭の中の『記憶』が無ければ、『時間』は認識できない」
ということは、よろしいかと思います。


以上、『時間』というものについて、
ご参考にしていただければと思います。


そして、さらに。

この、『時間』についてと、同じことが、

 「嫌な人」
 「嫌みな人」
 「意地悪な人」
 「困った人」...

など、

自分のストレスの原因となっている『他人』についても、
言えるのです。

そして、それを、
津留さんは、

「『時間』は無い」と言うタイプの(その認識の)、
津留さんは、

 「『他人』は、居ない」
と、
言うのです。


これを、
僕が、今回、この記事で使った表現で言えば、

 「『他人』は、頭の中にしかいない」
 「『他人』は、『記憶』を通じて、頭の認識に中にあるものだ」

と、いうことになります。


『時間』についてと、同様、
『他人』も、

このように、
「『自分の頭の中』に居る」のです。

「『自分の中』に居る」のです。


だからこそ、
「『自分の外』に居る」他人を変えようとすることが、
ときに、無意味なのです。

だからこそ、
「『自分の中』に居る」他人にアプローチするしか、
ときに、方策が無いのです。

『自分の中』だけが、問題なのです。









2018年5月30日水曜日

「できる」ということ


もう、ずいぶんと昔のことになりますが、
『オーラの泉』というテレビ番組で
(もうずいぶんと、昔のことになりますね ^^ )、

ある俳優さんが、
数日で、英語を話せるようになった、
という逸話を、告白されていました。

その話に対して、
美輪さんも、江原さんも、
至極納得という感じに、受け入れられていました

(たしか、「前世がアメリカ人だから」、というようなことでした)。


また、
ある、人気ブロガーさんは、

その方は、世界の科学的内容の記事を、
日本語に翻訳して、ご紹介されているのですが、

その方は、
ある日、目を覚ましたら、突然、英語が読めるようになっていた、
のだそうです。


事の真偽は、
確かめようがありませんが、

ここで、この文章を目にしていらっしゃる方は、
それらを、一応、「あり」として、進めることに、
さほどの抵抗はないのではないか、と、推察し、

では、
 もし、そのようなことが起こりうるのだとしたら、
 では、どうして、そのようなことが可能なのか?
ということに関して、

以下、一つの見解を(「津留さん的見方」を)、
述べたいと思います。


それにあたって、
まず、
ある、僕自身の、個人的な実体験を、
一つの事例として、紹介させてください。


僕は、
高校時代、ラグビーを部活でやっていたのですが、

高校入学にあたってのストレスから、
中学卒業の近辺に、10Kg以上、体重を増やしてしまったため ^^; 、

ラグビー部入部当初は、
身体(の重さ)を持て余し、身体の扱いに慣れず、
それゆえ、足が遅かったです。

「足が遅い」というのは、
当然ながら、周りの部員たちとの比較での判断・認識で、

一般的には、どうだったのかは、置いておいて
(クラスの中では、確かに、遅くなかったですが)、

とにかく、ラグビー部においては、足が遅く、
そのため、走ることが含まれる練習は、僕にとっては辛く、

また、担当(ポジション)としては、
パワー系の役割を担っていました。


そんな状況が、10ヶ月近く続いた、ある日。

その日、何が、それまでの日々と、違っていたのか、
今や、もう、何一つ、全く、記憶してはいないのですが、

とにかく、その日の、練習の、ほぼ最後。

いつものように、
蹴られたボールを、みなで追いかけ、
まず一人がそれを拾い上げ、そしてそれをみなでパスで繋いで運んでいく、
という練習が始まりました。

はじめに拾う一人は、
蹴った人が、名前を呼んで、指名していました。

僕の名前が呼ばれました。

声を上げて返事をし、
そして、とにかく、一目散に、ボールに向かって走り、
そして、ボールを拾い上げました。

走るのが遅く、苦手に感じていた僕は、
いつものように、周りに迷惑をかけないように、
懸命に、ボールに向かって走りました。

そのときは、ボールを、すんなりと、拾うことができたため、
そこで、横で待っているであろう人に、すぐにパスして渡そうと、
横を見たときです。


いつもであれば、
足の遅い、僕が拾うケースでは、

仲間たちが、
僕のペースに合わせて、ゆっくりと走り、

僕が拾い上げるタイミングでは、
ずらっと、横に並んで、勢揃いして待っている感じでした。

ところが、その日は、
いつものように、すでに横にいるであろう仲間にパスをしようとすると、

横に、誰もいません。

不思議に思い、見回すと、
みな、まだ僕の後ろを、「懸命に」走っています。

そのようなシチュエーションでは、
選択肢の一つとして、
誰かが追いつくまで、ボールを拾い上げた人が、そのまま突き進む、
というのがありました。

そのとき、僕は、そうしました。
誰かが、すぐに追いつくだろうと思い、そうしました。

そして、拾い上げた後に、
そのまま、ボールを抱えて、全力で走り続けました。

ところが、予想に反し、
誰も、僕に追いついて来ません。

結局、そのときは、
僕がゴール地点に着くまで、誰も、追いつくことがありませんでした。


ゴール地点で、みなを待つと、
みな、怪訝(けげん)そうな面持ちで、やって来ました。

 「なんで、そんなに早く、走れたの?」

そう言われて、はじめて、
「自分が速く走ったのだ」ということを、認識しました。

みなが、わざと、ゆっくりと走ったのではなく、
僕が、速く走れたのだと、分かりました。

その日は、僕自身も、訳が分からず、
不思議な感じ、不思議な心地でしたが、

でも、ひとつ、はっきりとしていたのは、
 「僕は、速く走れた」
ということでした。


そして、
その日以降、

 「僕は、速く走ることができる」
という認識が、
僕の中に、生まれていました。

そして、
その日以降、

僕は、実際に、足が速くなりました。

その日を境に、
僕は、突如、足が速くなりました。

そして、その後ずっと、
僕は、足が速いままでした。

むしろ、ますます、
みなよりも、速くなって行きました ...


いま、ご紹介した、
僕の、「速く走れた」事例・出来事を、

今になって、
改めて、振り返り、見てみると、

当時、
少なくとも、その出来事が起きたとき(その日)には、

僕は、僕自身が、
 「(自分は)足が遅い」
と思い込んでいたから、
遅かったのであって、

それが取り払われたら、
あるいは、
それが、「(自分は)足が速い」に書き換えられたら、

そのときから、
その日から、
その瞬間から、

 「速く走れた(足が遅くなくなった)」
と、
見ることができると思います。


この見方は、

少なくとも、この事例において、
この見方をすることは、

さほど唐突で、不自然なものではなく、
それなりに、同意・納得される方も、多いのではないかと思います。


で、ここで、
はじめの、英語の事例です。

これについても、
さきほどの、「速く走れた」ときと同じ見方を、
当てはめてみましょう。


あるとき、突然に(あるいは、ある数日間で、急に)、
「英語が分かるようになった」。

この事例では、
先の見方をするならば、

 「(自分は)英語は分からない」
という認識があったから、
英語が分からなかった、のであって、

「英語は分からない」という認識が、
そのときに、突然に(、何らかの理由・事情で)、
消えた・無くなった・取り払われた、ら、

そのときには、
英語が分かるようになっていた、

と、捉えることになると思います。


つまり、
「英語が分かるようになった」のは、

 「英語が分かる」という「『能力』を『獲得した』から」
ではなく、

 「英語が分からない」という「『認識・決め込み・制約条件』が『無くなった』から」
だ、

と、捉えます。


でも、そうですよね?

「英語を学ぶ」という行為(単語を覚えるとか、例文を覚えるとか)は、
ほとんど、あるいは全く、していないのですから。

それなのに、英語が分かるようになったのですから。

であれば、
 「元々は、分かっている」のに、
 「分からない」と認識することによって、分からない状態になっていた
と、

そう捉えるのが、
むしろ、そちらのほうが、自然ですよね。


確かに、
僕の、「速く走れた」事例においては、

その日までの、10ヶ月近くの日々の練習において、
「速く走れる『能力(・筋力など)』を『身につけていた』」と、
捉えることもできます。

そして、
それが、私たちにとっての、一般的認識(『常識』)でしょう。

「だから、早く走れたのだ」、と。


でも、
その日、自身の体験として、実体験をした僕の感覚だと、

「『能力』を『獲得』していた」という部分・認識、
そのものを、否定しは しませんが、
そして、それはそれで、そのとおりだと思いますが、

しかし、それは、その点は、
その出来事にとって、重要なポイントではありません。


だって、
僕自身の感覚では、

その日までの間だって、
懸命に、一生懸命に、がんばって、
速く走ろうと、していたのですから。

でも、
一切変わらずに、遅かったのですから。

いえ、
その日の、その一日の、
その瞬間までの間の、練習中だって、ずっと、

速く走ろうと懸命だったのに、
速く走れなかったんですから。
遅かったんですから。

それなのに、
その瞬間、その1回、
突然に、唐突に、
速く走れたのですから。

そして、それ以来、
一度、速く走れた、それ以降、
ずっと、速く走れたのですから ...


このように、
このような『見方』で、見ると、

私たちは、

 「『できる』『能力』を持っていること」
 「『できる』『能力』を『獲得』したこと」
 については、できる・できるようになる

のではなく、

 「『できない』という認識・決めつけ・思い込みを有していること」
 が、できない

ということになります。


 私たちは、
 「そもそもは、『できない』存在」で、

 その、「『できない』存在」が、
 「『できる』『能力』を『獲得』したこと」についてのみ、できるようになる

のではなく、

 私たちは、
 「そもそもは、何でも『できる』存在」で、

 その、「『できる』存在」が、
 「『できない』と決めたこと」についてのみ、できないようになっていて、

 なので、
 「『できない』という決め込み」を無くしたことに関しては、
 そもそものとおり、『できる』

ということになります。


これが、
ここでご紹介している『見方』であり、

これが、
「津留さん的な見方」であり、

そして、これが、
「『私たちは、そもそもは、神さまだった』という見方」です。


以前、
はじめに言葉ありき ( 宇宙を分つもの )
という記事を書きました。

そこでは、
 「はじまりは、『すべてがある』という『無』という状態だ」
ということを、
書かせていただきました。

そして、
今回の話も、同じ話、同じ見方です。


 私たちは、
 無数の『できない』ことのうち、
 『できる』ようになったことだけ、できる。
 そんな存在だ

と、
そう、認識することも、できます。

津留さんが、
『人間スタート』と呼んでいた、
そんな、見方です。

そして、それは、

赤ちゃんとして生まれ、
そこからの(その後しばらくしてからの)記憶が存在していて、

赤ちゃんとして、小さな子どもとして、
(ほとんど)何もできない状態で育ち、

その後、
徐々に、能力を高め、獲得し、
徐々に、できることが増えていった、

という過程を経てきていて、
そして、その過程を記憶し、
それをこそ『自分だ』と認識している、

そんな、私たち『人間』にとっては、
極めて当然の、当たり前な、見方・認識です。


一方、
今回ご紹介したような、

 私たちは、
 あらゆる・すべての『できる』ことのうち、
 『できない』と決めたことについてだけ、できない。
 そんな存在だ

そう、
認識することもできます。

津留さんが、
『神さまスタート』と呼んでいた、

「私たちは、そもそもは、神さまだった」のだ、という見方です。


この見方によれば、

『できる』ほうが、基準・標準です。
『できる』のが、そもそもです。
『できる』状態が、スタートです。

そして、
『できない』と決めたことだけが、できません。

「『できない』こと」の方にこそ、
工夫がなされています。
『努力』が加えられています。

『努力』して、『できない』ことに、できています。

『努力』して、『できない』状態になっています。

『努力』して、『できない』状態を『獲得』しています。

『努力』しているのは、
『獲得』しているのは、
「『できない』状態」の方、なのです。


この見方によれば、

私たちは、『人間』として生きているとき、
無数のことを、あるいは ほとんどのことを、
『できない』と、規定しています。

それによって、
「ほとんどのことを『できない』」人間、という存在になっています。

これをさらに、
津留さん的な見方で表現すれば、

私たちは、
この、『地球人間(体験)ゲーム』において、

「ほとんどのことを『できない』」と規定することによって、
「ほとんどのことを『できない』」人間というものを、体験できています。

すなわち、
「ほとんどのことを『できない』」『人間』というものを体験するために、
『自ら』、「ほとんどのことを『できない』」と、規定しています。


その規定を、

(個人的な認識は関係なく)人類全体(『集合意識』)として、しているのか、
あるいは、先祖がして、それをDNAとして受け継ぐことで、受け取っているのか、
あるいは、先祖・祖父母・親がして、それを価値観として、受け継いでいるのか、
それとも、自分自身の体験から、記憶し、決め込み・思い込んだのか、

それは、項目により、事情により、人により、違うでしょうが、

そして、だからこそ、
『人』それぞれに、できることと、できないことが、違うのでしょうが
(あるいは、「『人間全員・全体』ができないこと」が、あるのでしょうが)、

いずれにせよ、
このような見方においては、

私たちは、
ベースとしては、『できる』のであり、

特別に、わざわざ、『できない』と規定した項目だけが、
『できない』能力状態になっている、

と、捉えます

(アテネオリンピック ハンマー投げの金メダリスト、室伏広治氏が、
 「生後4か月にして懸垂ができた」という、都市伝説も、
 そんな見方から捉えると、すんなり受け入れられそうですね ^^ )。


なので、
本稿のタイトルの件、

 「『できる』というのは、どういうことなのか?」
 「『できるようになる』『できるようになった』というのは、
  どういうことなのか?」
ということについてですが、

 『できるようになる』
 『できるようになった』
というのは、

 もともと、『できる』ことだけれども、
 それを、『できない』と規定することで、できない状態にしていたけれども、
 その「『できない』との規定」を、取り外して、
 元の、本来の、『できる』状態に戻した・戻った

ということ、に、なります。

それが、
 「津留さん的な見方」
 「私たちは、そもそもは、神さまだった」
 「その神さまが、『地球人間(体験)ゲーム』をしている」
という見方、
に、なります。


ちなみに触れておくと、
その、
 「『できない』との規定」を、取り外す
という行為が、

津留さん自身も行い、提唱し、推奨し、
また、今現在、私たちも個人セッションなどでお手伝いしている、
『浄化』ということ、そのものになります。

だからこそ、
津留さんは、
 「『浄化』をしてください」
と、奨めていました ...



私たちは、これまで、
人類全体としては、
『人間スタート』の見方を、採用してきました
(『人類全体の意識(集合意識)』の合意のもと)。

だから、
『できない』が、標準値・当たり前であり、

そして、だからこそ、
『できる』『できるようになった』ことに、喜びを感じ、
そして、そこに、価値を見出してきました。
そこに、意識を向けてきました。


ですが、
今、ここで、
今後、これ以降、

「『できる』が、当たり前だ」と、
ちょっと、見方を、認識を、変えてみてください。

『できる』のは、
当たり前で、当然で、
特別ではなく、平凡で、凡庸で、
むしろ、退屈なくらい、ありふれた、つまらないことなのだ、と、
そんな認識を、かりそめに、持ってみてください。

その状況では、
『できない』こそが、
珍しく、ありがたく、非凡で、
そして、憧れであり、クールで、

だからこそ、そんな『できない』に、
努力して、工夫して、頑張って、
自主的に、意図的に、作為的に、望んで、なっているのだ、

そんな風に、仮定してみてください。


もし、そうだとしたら、
今、『できない』ことがあるのは、
失敗ですか、成功ですか?

能力が足りないから、『できない』のですか?
それとも、
能力があり、それが発揮されたからこそ、『できない』のですか??


こう、見ることができると、
津留さんが言っていた、

 「すべては、それで、完璧です」
 「それで、ベストです」

という言葉の意味を、
より抵抗なく受け入れることが、
より深く理解し、受け入れることが、
できるのではないかと思います。


このような見方、『仮定』、
みなさんのご参考になれば、幸いです。










2018年5月16日水曜日

『第8回 大阪イベント』を終えて


2018年5月11日(金)、12日(土)、13日(日)、
大阪で8回目となるイベントを、開催いたしました。


あぁ、もう、8回目になるんですねぇ ...

特に最近は、毎回、ご参加くださる方々もいらしてくださって、
なんか、
 「会いに行く」
 「遊びに行く」
感が、強くなってきましたが ^^; 、

いつも、このように、
大阪に伺えることを、とても嬉しく思っています。


今回は、
個人セッションに4名、
浄化ワークショップに3名、
交流会に11名、
計18名の方々に、

お越しいただき、
お会いすることができました。


会場(大阪市立此花区民ホール)は、
初めて使わせていただいた場所でしたが、

最寄り駅からのアクセスが抜群で(徒歩2分ほど?)、
内装は、比較的最近に改装されたみたいで、なかなかに綺麗で、

とても有り難い会場でした。

今後も、機会があれば、使わせていただきたいと思いました。


また、今回も、いつもと同様に、
イベントの後には、
京都に行って、
京都の「うさと店」に、伺ったのですが、

今回は、京都に行ってみると、なんと、
15日が、ちょうど、「葵祭」当日!

期せずして、葵祭を見ることができました。

各地でのイベントは、ほとんどのケースで、
「会場が借りられるかどうか?」から、
日程を決めているのですが、

今回の、「葵祭」といい、
前回の沖縄の、「清明」といい、

少なくとも、僕の「顕在意識」からすると『偶然』に、
そのような日に、各地に伺うことができて、

各地でのイベントを行うことで、
「起きてくる」ということを、
実体験させてもらっています。


それでは、
今回ご参加くださったみなさま、
ありがとうございました。

またお会いできる機会があると嬉しいです。


   集合人編集局 ひで









2018年4月13日金曜日

『第1回沖縄イベント』を終えて


2018年4月6日(金)、7日(土)、
沖縄で初めてとなるイベントを、開催いたしました。
 
 
4月に入ると「海開き」となる、沖縄に、
「暑さ」を期待して、渡った僕を、待っていたのは、

いえいえ、
出発地・千葉よりも寒い、低気温 ...
 
特に、「『お金』浄化ワークショップ」を開催した、
7日(土)は、
 
最高気温が16℃で、
お天気サイト曰く「記録的な寒さ」!

しかも、
強風と、雨が降る、
あいにくのお天気で、

僕としては、
本当に、「凍える」ように、寒かったです。
 
 
 「こんな天気になるなんて、
  沖縄に『歓迎されてない』ですね」

そんな、本音の感想を申し上げたところ、

 「いえいえ、
  こんな涼しくなるなんて、歓迎されてますよ!」

と、
沖縄の夏の暑さの厳しさを知る、地元のみなさんからは、
それを『歓迎』と、とっていただきました ^^ 。

おもしろいものですね ^^ 。
 
 
さて、
そんな、
季節外れの、天候の中、

個人セッションに2名、
浄化ワークショップに3名、

合計5名の方々が、お越しくださいました。
 
 
また、
当初予定していた、
津留さん交流会は、

お申し込みが無く、
実施いたしませんでした。
 
 
もちろん、
より多くの方にお越しいただけたほうが、
僕の『エゴ』ちゃんは、喜ぶわけですが、

でも、
少人数であったら、あったで、
ゆっくりと、深く、お話しができるので、

僕としては、
今回も、

とても楽しく、
かつ、気づき・学び多く、

有意義なイベントを
行うことができたと感じています。
 
 
お越しくださったみなさま、
ありがとうございました。

またお会いできる機会があると、嬉しいです。


   集合人編集局 ひで