2017年9月23日土曜日

Facebook はじめました


 2017年秋分の日、おめでとうございます。
 
 今日、この日、このときに、
 地球に、肉体を持って存在し、
 
 みなさんとともに、
 この体験をできていることを、
 
 こころから感謝するとともに、
 こころからの祝福を申し上げます。
 
 
 さて、
  「いまさらながら ... 」
 ですが ^^; 、
 
 今日、この日を機会に、
 
 『集合人編集局(津留晃一の世界)』として、
 Facebookをはじめました。
 
 
  「集合人編集局(津留晃一の世界)」
    https://www.facebook.com/tsurukoichicom/
 
 
 裕子さんの発案・管理・運営で、
 
 私たちが開催するイベントの情報や、
 私たちが得られた気づき、
 みなさんから頂戴したご感想 などや、
 そして、もちろん、津留さんのメッセージも、
 
 Facebook を通じても、
 お伝えしていく予定です。

 どうぞよろしくお願いします。
 
 
 もともとのサイト
  「津留晃一の世界」
    http://www1.ttcn.ne.jp/~turu/
 にも、
 
 新しいサイト
  「津留晃一の世界」
    http://tsurukoichi.com
 にも、
 
 Facebookページを、
 一部、表示させています。
 
 よろしければ、
 そちらもご覧になってください。
 
 
 以上、どうぞよろしくお願いします。
 














2017年8月23日水曜日

いただいた 個人セッションのご感想(名古屋イベントで)


先日の、名古屋での個人セッションを受けてくださった方から、
とっても嬉しいご感想を、お手紙でいただきました。

ご本人のご了解をいただいたきましたので、

半分は、みなさんに自慢するつもりで ^^; 、

半分は、これから個人セッションを受けてくださる場合の
ご参考になればと思い、

ここに、掲載させていただきます。

よろしければ、読まれてみてください。


○○さん、ありがとうございました! ^^

  ひで




 こんにちは。
 先日、名古屋で 個人セッションを受けさせていただきました、○○と申します。

 すばらしいセッションを、ありがとうございました。
 いつも このような お礼状を書くことは あまりないのですが、
 とても嬉しかったので、お礼の気持ちを伝えたく、お手紙させていただきました。

 セッションの申し込みを せていただき、その時は 迷う気持ちも あったのですが、
 その後いただきました メールの返信に とてもほっとして、
 セッションの日を たのしみに待つことが できました。

 そうして 受けた 浄化セッション。
 わたしの 小さなひとことから、
 どうしてこんなにも 適確に気持ちを とり出してもらえるのか、
 そして、こんなにたくさんの感情に、
 こんなに大きく深く 寄りそうことが できる人がいるなんて、すごいなぁ!と
 本当に驚きました。
 たくさんの感情を 癒していただき、いっぱい泣いて、すっきりとしました。

 セッション中に、わたしが 宇宙から来た魂であると 言っていただき、
 それを聞いた時に、子供の頃に感じていた すべてのことが 一瞬でつながって、
 「あぁ、そうだったのか」と、
 いつも抱えて 手にあまっていた、たくさんの思いを理解し、
 「あってよい感情だったんだ」と許すことができました。
 本当に心底 救われた気持ちです。

 その後しばらくは ホームシックのようにさみしくて、
 帰りたい気持ちが 強く出ましたが、
 つらさの中でも 不思議とあたたかな雰囲気で、
 お会いしたことはありませんが、津留さんが そばにいてくれるような感じでした。

 わたしにとって、この世界で生きる つらさの理由が わかったことは、
 本当に大きなことで、
 このことは きっと これから人生を生きる道を支えてくれるだろうなと感じています。
 本当に すばらしいセッションを ありがとうございました。
 感謝と感動の気持ちを 上手く伝えることが できませんが ...
 また、ワークショップに参加してみたいなと思っています。
 またその時にお会いできましたら うれしいです。

 それでは、このようなすばらしい活動の 更なるご発展をお祈りいたしまして、
 結びの言葉とさせていただきます。
 本当にありがとうございました。
 またお会いできる日を たのしみにしております。
 (M2も 不馴れながら ぼちぼちやっております ... )











2017年8月13日日曜日

第7回大阪イベント 開催のお知らせ


2017年11月17日(金)、18日(土)、19日(日)、
大阪市で、
「個人セッション」「『お金』浄化ワークショップ」「津留さん交流会」を行います。


大阪で、7回目となるイベントを、
11月に、行います。

今年は、4月に、大阪で開催し、
昨年も、同じ、11月に開催したので、

ちょうど、
「年2回」「半年に1回」のペースです。

このように、頻繁に、大阪に伺えることを、
とっても嬉しく、感じています。

そして、今回は、
大阪で、はじめて、
「『お金』浄化ワークショップ」を開催します。

丸一日かけて、
『お金』に対して持っているブロックを探り、見つめ、
それらを、浄化していきます。

また、
『お金』をとおして、
『自分自身』『仕事』『親』『社会』などに対して持っている意識に、
気づいていきます。

そして、従来の「浄化実践講習会」同様に、
『浄化』というものについても、
その実践方法・テクニックをお伝えすること、
浄化を行っていく上でのポイントなども、
詳しく、お伝えします。

ですので、
主催側としては、
かなり内容の濃いものとなっていると、自負しています。

また、
「個人セッション」「津留さん交流会」も、
これまで同様に、行います。

浄化のお手伝い、
みなさんとの語らい、
とても楽しみにしています。

大阪のみなさま、関西地区のみなさま、
どうぞよろしくお願いします。

11月に、お会いできること、
楽しみにしています。


 詳細・お申し込みは、『 第7回 大阪イベント 』 のページをご覧ください。


2017年8月13日 集合人編集局 裕子・ひで 









2017年8月12日土曜日

第5回名古屋イベント 「『お金』浄化ワークショップ」開催のお知らせ


2017年9月30日(土)、
名古屋市で、
「『お金』浄化ワークショップ」を開催しいます。


8月に、
「個人セッション」と「津留さん交流会」を開催した、
名古屋で、

9月30日(土)に、
はじめての、「『お金』浄化ワークショップ」を行います。

丸一日かけて、
『お金』に対して持っているブロックを探り、見つめ、
それらを、浄化していきます。

また、
『お金』をとおして、
『自分自身』『仕事』『親』『社会』などに対して持っている意識に、
気づいていきます。

そして、従来の「浄化実践講習会」同様に、
『浄化』というものについても、
その実践方法・テクニックをお伝えすること、
浄化を行っていく上でのポイントなども、
詳しく、お伝えします。

ですので、
主催側としては、
かなり内容の濃いものとなっていると、自負しています。

ご興味がおありの方、
どうぞ、ご参加ください。

名古屋でお会いできること、
楽しみにしています。


 詳細・お申し込みは、
 「9月30日名古屋『お金』浄化ワークショップ」 のページをご覧ください。


2017年8月12日 集合人編集局 裕子・ひで 









2017年8月11日金曜日

『第4回名古屋イベント』を終えて


 2017年8月4日(金)、5日(土)、6日(日)の3日間、
 真夏の、暑さ厳しい名古屋に、
 
 津留さん交流会7名、
 個人セッション6名、
 計13名の方々がお集まりくださり、
 
 名古屋で4回目のイベントを、開催することができました。
 
 今回は、特に、
 鹿児島や、兵庫、福井など、
 名古屋・東海地区以外の方々も、多数ご参加くださり、
 たくさんの方にお会いでき、
 たくさんの浄化のお手伝いができ、
 そして、たくさんのお話を伺えて、
 とても気づきが多く、
 同時に、とても嬉しかったです。
 
 また、今回は、
 「浄化実践講習会・浄化ワークショップ」を開催せず、
 個人セッションと津留さん交流会だけを行う、
 はじめてのイベントの形でした。
 良い経験となりました。
 
 交流会には、
 顔なじみの方々、はじめての方々、
 はじめてなのに顔なじみのように感じる方、など、
 多くの方々にお集まりいただき、
 内容の濃いお話ができました。
 
 また、個人セッションでは、
 まるでデジャヴのように、
 セッションの最後に、
 「来て良かったです」
 という言葉をいただく、体験ができました。
 
 とても嬉しく、とても楽しかったです。

 また、いつもながら、
 お手伝いをしていて、こちらが、学ぶこと、気づくことがたいへんに多く、
 とても勉強になりました。
 
 ご参加くださったみなさん、ありがとうございました。
 またお会いできることを、楽しみにしています。
 
     集合人編集局 ひで


  イベントの様子につきましては、
  こちらの「『第4回名古屋イベント』のご報告」のページをご覧ください。









2017年7月4日火曜日

「『人間』をするぞ!」


 前回の記事の後半では
 ( 「自分」の中の『闇・陰』を認める )、
 
  『自分』というのは、
  
  『人間(そのもの)』ではなく、
  『肉体(そのもの)』でもなく、
  
  『人間』『肉体』に入り込んで、
  『人間』としての体験をしている存在
 
 と、認識していただくことを、お薦めする、
 いうことを、お伝えしました。
 
 
 『自分』というものを、
 『人間』『肉体』と認識していると、
 
 そこに存在・付随している、
  「性格」「自我・エゴ」「ブロック」
  『闇』『陰』
  「『愛』とは感じられないもの」「『愛』とはほど遠いもの」
 といったものを、
 
 どうしても、
 『自分自身』『自分そのもの』(の一部)として、感じてしまい、
 
 その結果、
 どうしても、
 「自分を責める」ことになるし、
 「自分をダメな存在だ」とみなすことになるし、
 
 どうしても、
 「それら(エゴ・ブロック・闇など)を手放すことなどできない」と感じがちになる、
 
 からです。
 
 
 でも、私たちは、
 これまで、普通、
 
 自分自身のことを、
 「『人間』だ」と、
 「『肉体』こそが、自分だ」と、
 認識してきています。
 
 無意識のうちに、
 当然のものとして、
 
 そう、思ってしまっています。
 
 それを、
 そうではなく、
 
 自分自身は、
 「『人間』『肉体』に入り込んでいる存在」だと、
 「『人間』としての体験をしている存在」だと、
 認識するためには、
 
 そう、気づいている頻度を増やし、
 そう、気づいている時間を延ばし、
 そう、認識していることを癖にする、習慣付けることが、
 できると、いいです。
 
 
 そうするために、
 僕自身が、やっている、
 お薦めの工夫・テクニックがあります。
 
 それは、
 
 朝、目覚めたときに、
 布団から、起き上がるときに、
 
  「よし、今日も、『人間』をするぞ!」
  「さあ、今日も、『ひで』をするぞ!」
  と、宣言をする
 
 というものです。
 
 そう宣言すると、
 
 『自分自身』は、
 『本質としての自分』は、
 「『自分』の意識の中心」は、
 
 「『人間』をしている存在」であり、
 「『ひで』をしている意識」であり、
 
 決して、
 『自分』は、
 
 「『人間』そのもの」ではなく、
 あるいは、
 「『ひで』そのもの」ではない、
 
 と、
 認識し易くなります。
  
 「意識的に」「自発的に」、
 『自分』というのは、
 
  いま、「『人間』をしている存在」だ
 と、
 
 気づいて居易くなります。
 受け取り易くなります。
 認識し易くなります。
 自覚し易くなります。
 
 
 人によっては、
 
  「よし、今日も、『自分』という『モビルスール』に乗り込むぞ!」
 とか、
  「よし、今日も、『自分』という『アバター』と接続するぞ!」
 とか、のほうが、
 
 ピッタリする、スッキリする、イメージが湧く、
 という方も、いるかもしれません。
 
 ご自分にとって、一番しっくりくる言葉・表現を、探し、
 そして、それを、ご自分に掛けてみてください。
 
 ご自分に掛けることを、習慣づけてみてください。
 
 
 そして、もちろん、
 これは、朝だけに限ったものでは、ありません。
 
 気づいたときには、いつでも、
 ご自分に、掛けてみてください。
 
 
 僕にとっては、
 とても、効果がある、方法・テクニックなので、
 ご紹介しました。
 
 よろしければ、
 やってみてください。











2017年7月1日土曜日

「自分」の中の『闇・陰』を認める


 先月の、個人セッションの中で、
 こんな会話が、ありました。
 
  「津留さんが、
   『他人の中の光を見てください』
   って、おっしゃってましたけど、
   
   私、
   他人の中に、『光』が見られないんです。
   他人の中に、『光』が感じられないんです。
   
   どうしたら、
   他人の中に、『光』が見られるようになりますか?」
 
 その方は、
 少し、涙ぐみながら、
 
 そう、おっしゃってました。
 そう、訴えてらっしゃいました。
 
 こころ優しい方なので、
 他人を、『光』と、『愛そのもの』と、
 見ることができないことに、
 苦しんでいらっしゃいました。
 
 他人に対して、
 ネガティヴな感情が湧いてしまう、
 そんなご自分を、
 ひどく、責めていらっしゃいました。
 
 
 同じように、感じてらっしゃる方は、
 同じような疑問を、お持ちの方は、
 
 少なからず、いらっしゃることと、思います。
 
 今回は、
 これを、話題としましょう。
 
 
 そして、今回は、
 珍しく ^^ 、「結論」から行きましょう。
 
 
  「他人の中に、『光』が見られない」
 のは、
 なぜでしょう?
 どうしてでしょう?
 
 それは、
  「『自分』の中に、『光』が見られない」から
 です。
 
  「『自分』の中に、ちゃんとある、『光』たるものを、
   ちゃんと、認識できていない・認められていない」から
 です。
 
 「パラドックス」ですねぇ ^^
 
 
 では、
 
  「『自分』の中に、『光』が見られない」
 のは、
 なぜでしょう?
 どうしてでしょう?
 
 それは、
  「『自分』の中の、『闇』『陰』を、認めていない」から
 です。
 
  「『自分』の中に、やはり、存在してしまっている、『闇』『陰』を、
   ちゃんと、認めていない」から
 です。
 
 これまた、
 そして、さらに、
 「パラドックス」ですねぇ!
 
 
 もし、
 この部分をお読みになって、
 ピンと来られた方は、
 
 ぜひ、
 少し、時間を取って、
 
 「『自分』の中の、『闇』『陰』を、認めて」みてください。
 「『自分』の中の、『闇』『陰』を、感じて」あげてください。
 
 きっと、
 実り多い、素晴らしい時間を、
 過ごされることでしょう。
 
 実り多い、素晴らしい体験を、
 されることでしょう。
 
 
 先の、個人セッションでも、
 そう、お伝えすると、
 
  「『自分』の中の『闇』を、見つめます」
 とおっしゃって、
 
 しばらく、それを見つめ・意識を向けて、
 浄化をなさり、
 
 そして、その後、
  「見つめてあげたら、
   『闇』が、喜んでいるのが、感じられます!」
 と、
 
 こちらの、想定・想像を、はるかに上回る、
 驚くべき、素晴らしいご返答を、くださいました。
 
 驚くべき、素晴らしい『浄化』を、
 なさっておいででした。
 
 
 で、
 話を続けましょう。
 
 では、

  「『自分』の中の、『闇』『陰』を、認められない」
 のは、
 なぜでしょう?
 どうしてでしょう?
 
 それは、
 
  「『自分』の中の、『闇』『陰』を、
   良くないもの・いけないもの・あってはならないもの、
   と、認識している」から
 ですね。
 
 これは、
 かなり単純な構造なので、
 お分かりいただけやすいと思います。
 
 
 『闇』を、『陰』を、
 「ネガティヴなもの」を、
 
 「良くないもの」と、
 「いけないもの」と、
 「あってはならないもの」と、
 
 想っているから、
 認識しているから、
 
 それが、「『自分』の中に在る」ということを、
 認められないわけです。
 
 否定しているものが、
 「『他人』の中に在る」としても、
 なかなか、認められないものを、
 
 それが、
 「『自分』の中に在る」なんて、
 もっと、認められないわけです。
 
 そんなこと、
 許せないわけです。
 
 そんなこと、
 「あってはならない」わけです。
 
 「あってはならない」わけですから、
 そんなものが、「在る」なんて、
 認められないわけです。
 
 
 そして、
 さらに、話を続けましょう。
 
 では、
  「『自分』の中に在る」と認められない
 のは、
 なぜでしょう?
 どうしてでしょう?
 
 それは、
 僕が思うには、
 
  「 " 自分 " を、『自分』だと、思っている・認識している」から
 です。
 
 ちょっと、
 「禅問答」のように、なってしまいましたが、
 
 でも、こここそ、今回お伝えしたいポイントなので、
 ぜひ、このまま、お付き合いください。
 
 
 さきほど、
   「『他人』の中に在る」としても、
    なかなか、認められない
 と、言いました。
 
 それが、『他人』の中に在っても、
 それは嫌、なのですが、
 
 でも、嫌だけど、
 「『他人』の中」ならば、
 どうにか、こうにか、認められるわけです。
 
 なぜなら、
 それは、
  「『他人』の中」
 だから。
 
 つまり、
 『陰』が存在している場所が、
 『闇』を有している人が、
 『他人』だから。
 
 
 ですが、それが、
 「『自分』の中」ならば、
 それは、もう、認められません。
 
 それは、
 『陰』が存在している場所が、
 『闇』を有している人が、
 『自分』だから。
 
 ですよね。
 
 
 つまり、
 『他人』と『自分』が、
 ここでは、違っていますね。
 
 もし、
  「『他人』と『自分』は、違って、当然じゃないか」
 というご指摘が、ここであれば、
 ここでは、そのとおりですし、
 
 また、
  「『他人』は居ない。『自分』と『他人』は、同じ」
 ということが、
 ここで、言いたいこと、では、ありません。
 
 ここで言いたいことのポイントは、
  『他人』か、どうか
 ではなく、
 
   " 自分 " は、『自分』か?
 
 という点です。
 
 言いたいのは、
  「『陰』が存在している場所を、
   『闇』を有している人を、
   『自分』だと、思っているかもしれませんが、
   
   それは、そうですか?
   そうではないのでは、ありませんか? 」
 ということです。
 
 
 『陰』が存在している場所は、
 実は、
 " あなた " という存在の、『肉体』の部分です。
 
 『闇』を有しているのは、
 実は、
 『あなた』の『肉体』であり、
 あるいは、
 『あなた』が、今やっている、『人間』の部分です。
 
 つまり、
 いま、ここで、僕が言いたいのは、
 
 『あなた』というのは、
  表現をかえれば、
  「本当の『あなた』」は、
 
 『人間』の『肉体』の中に入って、
 「『人間』をしている存在」であり、
 
 決して、
 「『肉体』そのもの」では、ないし、
 「『人間』そのもの」でも、ない、
 ということです。
 
 そして、
 『闇』とよばれるもの、
 『陰』とよばれるもの、
 
 あるいは、それだけでなく、
 「性格」「思考」「自我」「ブロック」
 それら、すべて、は、
 
 いま、『あなた』が、
 「その『人間』」としての体験をするために、
 入り込んでいる、成っている、借りている、
 『肉体』部分に、『人間』部分に、存在しているもの、であり、
 
 それらは、
 決して、
  『あなたそのもの』では、ない
 ということです。
 
 
 わたしたちは、
 『人間』をするために、
 『人間』を体験するために、
 それらを、かりそめに、一時的に、身にまとっている、
 そんな存在です。
 
 津留さんが、
 『観察者』と言っていたり、
 『感じる自分』と言っていたのは、
 
 まさに、
 そんな『自分』です。
 
 
 これまで、普段、
 特段、意識しない場合に、
 私たちが、認識してきた " 自分 " は、
 
 「『人間』としての自分」や、
 「纏(まと)っている『肉体』としての自分」ですが、
 
 しかし、それは、
 本当の『自分』ではないし、
 本来の『自分』では、ありません。
 
 まず、そのことを、
 改めて、しっかりと、認識なさってみてください。
 
 そして、
 もし、「広い意味での自分」の中に、
 
 『闇』や『陰』や、
 「妬(ねた)み」や「嫉(そね)み」や、
 「怒り」や、「憤(いきどお)り」や、
 「『愛』とは感じられないもの」「『愛』とはほど遠いもの」が、
 あったとしても
 (それは、必ず、あるわけですが)、
 
 それは、
 『肉体』の部分に、『人間』の部分に、
 存在しているものであって、
 
 『本質としての自分』『そもそもの自分』『本来の自分』には、
 そのようなものは、存在していません。
 
 
 私たちは、
 『神さま』のままでは、体験できないことを、体験するために、
 『人間』になっている、存在です。
 
 『人間』として、
 『神さま』のままでは、体験できないことを、体験するためには、
 
 『闇』が、『陰』が、
 「妬み」が、「嫉み」が、
 「怒り」が、「憤り」が、
 「『愛』とは感じられないもの」が、
 「『愛』とはほど遠いもの」が、
 必要です。
 
 『神さま』のときの、私たちには、
 そのようなものが、ありませんでしたのでね。
 
 それらを有して、はじめて、
 私たちは、
 『神さま』のままでは、体験できない体験が、
 『人間』としての体験が、
 できるわけです。
 
 ですから、
 『人間』をしていれば、誰でも、
 それらは、有しているものであり、
 
 そして、それらは、
 『人間』としての部分に、『肉体』に、
 存在しているものです。
 
 そこを、
 『人間』部分・『肉体』を、
 「自分」と認識するのか、
 
 それとも、
 そこに入り込んでいる存在を、
 「自分」と認識するのか、
 
 いまいちど、
 検討してみてください。
 
 
 そして、
 もし、津留さんが言っているように、
 
 「そこに入り込んでいる存在」を、
 『自分』を、
 「自分」と認識するならば、
 
 『闇』も、『陰』も、
 「性格」も、「思考」も、「自我」も、「ブロック」も、
 それらは、すべて、
 
 自分 ではありません。
 
 
 例えるならば、
 それらは、すべて、
 あなたが着ている『服』に、付着しているものです。
 
 「人間世界」という、
 深い闇の世界を、覗き観るために、着込んだ、
 「潜水服」に装備されている、機能のようなものです。
 
 「人間世界」という、
 争い・分離に満ちた世界を、体験してみるために、搭乗した、
 『モビルスーツ(ガンダムの)』に装備されている、機能・武器のようなものです。
 
 「人間世界」という、
 『自分』のままでは体験できない世界を、体験するために、使用・操作している、
 『アバター』に組み込まれている、能力・性質のようなものです。
 
 
 ただ、
 これまでは、
 
 「それらを着込んでいる・搭乗している」と、
 認識していなかったし、
 
 それらの機能・武器・能力が、
 自動プログラムで、自分の意思とが関係なく、勝手に、稼働していたので、
 「自分でコントロールできるもの」という認識が、
 さらには、「自分で停止できるもの、取り除けるもの」という認識が、
 無かっただけです。
 
 それらは、
 必要があれば、停止できるし、
 望ましければ、取り除くことができます。
 
 そのことを、その事実を、
 いまいちど、ご認識なさってください。
 
 
 ただ、
 面白いもので、
 
 「使用したくて」「自ら望んで」装備したものなので、
 
 それを身に付けていることを、
 「肯定」した後のほうが、

 また、それらを、
 充分に使い込んであげた後のほうが、

 停止することも、取り除くことも、
 「『一般的には』、し易い」、という性質がありますけど ^^













2017年6月30日金曜日

8月26日『お金』浄化ワークショップ 開催のお知らせ


 第2回目の、「『お金』浄化ワークショップ」を、
 8月26日(土)に、開催します。
 
 
 おかげさまで、
 前回の、第1回目のワークショップは、
 ご好評いただきました(と、思っています ^^ )。
 
 そして、その体験から、
 「どの部分が、みなさんにとって、一人だと、気づき難いところなのか」
 「どの部分が、新鮮な気づきになるのか」
 「どうお伝えするのが、よいのか?」
 「どの部分を、深め、どの部分を、しつこくないようにしたらいいのか」
 など、
 主催側として、多くの気づきを得られました。
 
 そんな経験を生かし、
 そして、ご参加くださった方々からいただいた、
 ご感想やご意見などのフィードバックを受けて、
 
 ブラッシュアップした内容を、
 厳選しながらも、盛りだくさん、ご提供します。
 
 
 そして、今回からは、時間を延長し、
 午前と午後の、丸一日のワークショップとします。
 
 その分、
 
 浄化実践も、しっかりと、行っていただきます
 (浄化方法・ポイントをお伝えし、実践のお手伝いもします)。
 
 質疑応答の機会・時間も、ふんだんに、設けてあります
 (疑問や、質問がありましたら、この機会に、お尋ねください)。
 
 
 『お金』に関するブロックに気づき、それを浄化したい方、
 『お金』を通して、『自分』『仕事』『他人』『社会』『人生』をどうみなしているか、
 それに気づき、浄化していきたい方、
 『お金』を通して、『浄化』そのものを、より深く理解し、さらなる実践を行いたい方、
 
 そのようなみなさまのご参加を、お待ちしています。
 
 
 ワークショップ形式で、行いますので、
 その特徴として、
 
 複数の方々と、ともに学び、実践することで、
 お互いに、刺激することや、気づくことが、あると思います。
 
 また、多くの方々に共通する、項目・事項や、傾向などを、
 多数、お伝えしますので、
 「一般的」な部分を、かつ具体的に、知ることができると思います。 
 
 また、こちらからお伝えすることを、お聞きいただき、理解していただく形式なので、
 「自分の状況・悩みを、打ち明けるのには、抵抗がある」という方は、
 ご自分で理解し、進めて行くことができるならば、
 この、ワークショップ形式は、とても、有効な手段・方法であると思います。
 
 そのような点に、ご感心がおありな方には、
 魅力的な内容となっているのではないかと、思っています。
 
 よろしければ、ご参加をご検討なさってみてください。
 
 
 なお、
  「自分の状況・悩みを、具体的に聞いてもらい、特定的に浄化をしたい」
 という方の場合は、
 もしかしたら、個人セッションを受けていただいたほうが、良いかもしれません。
 
 ご参考になさってください。
 
 
 それでは、
 「『お金』浄化ワークショップ」でお会いできることを、楽しみにしています。


集合人編集局 裕子・ひで(2017年6月30日 記載)  



  詳細・お申し込みは、
  こちらの「 『お金』浄化ワークショップ 」(外部ページ)で お願いします。












2017年6月26日月曜日

他人の「イライラ」

 
 僕の、現在の、浄化の対象は、
 8割がた、「他人の『イライラ』」です。
 
 はじめのうちは、
 「お金のこと」「仕事のこと」
 そして、「蚊のこと」^^ が、ほとんどでした
 (「蚊のこと」については、よろしければ、こちら をご覧ください)。
 
 そのうち、
 それらの浄化が、
 少しずつ、進むにつれて、
 
 それらのことが、
 少しずつ、気にならなくなり、
 それほどには、重く感じられなくなり、
 
 かわって、
 現在、日々、とにかく、感じることは、
 「他人の『イライラ』」を、嫌がる感情・感覚です。
 
 
 他人が「イライラ」していると、
 とにかく、不快です。
 
 落ち着かず、
 あるいは、怖く、
 場合によっては、こちらがイラつきます。
 
 「怒っている人」や、「イライラしている人」のことを、
 好きな人、得意な人は、
 そもそも、あまりいないと思います。
 
 みなさん、総じて、
 好きではないし、嫌いだと思います。
 
 津留さんの場合も、そうで、
 そして、それが、
 『浄化』というものを理解し、生み出した、きっかけでした。
 
 
 みなさん、総じて、
 そういう人のことを、
 嫌いで、苦手で、
 
 なので、
  「では、どうして、嫌なのか・嫌いなのか?」
 については、
 あまり、考えたことも無いかもしれませんが、
 
 僕の場合、
 その、おもな理由は、
 
 他人が「イライラ」していると、
 
  「その原因は、自分にある」
  「自分が悪い」
 と、
 感じてしまうからです。
 
 
 僕の場合、今回の人生で、
 「イライラしている人」は、
 
 幼少期においては、
 主に、父でした。
 
 前述 しましたが、
 父は、周りの人々の犠牲で、
 仕方なく、働きづめでした。
 
 『犠牲者』でした。
 
 おそらく、そんな理由から、
 
 いつも、不満があり、
 いつも、イライラしていました。
 
 少なくとも、
 僕からは、そう、見えていました。
 
 
 その、父の不満の原因は、
 ときに、僕でした。
 
 なので、
 「イライラしている人」が居るとき、
 
  「その原因は、自分にある」
  「自分が悪い」
 と、
 感じます。
 
 
 また、多くの場合、
 不満の矛先は、
 母でした。
 
 なので、
 「イライラしている人」が居るとき、
 
  「自分が悪い」
 と、
 感じます。
 
 自分にとって、最も大切な母を、
 僕が、救えていないからです。
 
 僕が、守れていないからです。
 
 だから、
  「自分が悪い」
 と、
 感じます。
 
  「自分はダメだ」
 と、
 感じます。
 
 
 なので、
 「イライラしている人」が居るとき、
 その人を、
 放っておけません。
 
 そのままに、しておけません。
 
 「イライラ」しているままに、
 させてあげられません。
 
 なぜなら、
 「イライラしている人」が居る間中、
 
  「お前が悪い」
 と、
 言われ続けているからです。
 
  「自分はダメだ」
 と、
 言われ続けているからです。
 
 実際には、
 「イライラしている人」が、
 そのようなことを、言わなくても、
 
 そのようなことを、
 思ってすら、いなかったとしても、
 
 「実質的」には、
 「心情的」には、
 そう、言われているのと、同じだからです。 
 
 
 僕の場合、
 主に、以上のような理由で、
 「イライラしている人」が、
 苦手なのですが、
 
 ただ、そのことは、
 これまでに、すでに、認識できていました。
 
 なので、
 認識した上での、浄化を、
 これまでに、行ってきました。
 
 
 加えて、先週、
 新たに、
 別の「理由」があることを、発見しました。
 
 これまでの浄化の成果か、
 別の「想い」に、気づけました。
 
 
 自分の想いとしては、
  「その原因は、自分にある」
  「自分が悪い」
  と、感じる
 
 ということは、
 これまでと、同様なのですが、
 
 では、
  どうして、
  「その原因は、自分にある」
  「自分が悪い」
  と、感じるのか?
 
 に関しては、
 別の理由がありました。
 
 
 それは、
 気づいてみて、
 「気づいた自分が、驚いてしまう」ような理由、
 
 いえ、というよりも、
 むしろ、『理屈』だったのですが、
 
 それは、
 
  「その原因は、自分には無い」
  「自分は悪くない」
  と、
  認識してしまうと、
  捉えてしまうと、
  
  自分には、
  その状況を、変えることができなくなってしまうから
 
 というものでした。
 
 
 「その原因は、自分には無い」「自分は悪くない」
 と、認識してしまうと、
 
 「自分は悪くな」くて、
 「自分に原因が無い」ので、
 
 自分には、
 その状況を、変えることができなくなってしまいます。
 
 「自分には、その状況を変えることができない」
 と、
 自ら、認めてしまうことになります。
 
 自ら、宣言してしまうことになります。
 
 よね?
 
 だって、
 「自分は悪くな」くて、
 「自分に原因が無い」のですから。
 
 
 なので、
 実際のところは、
 自分が悪くなかろうが、非が無かろうが、
 
  「その状況を変えることができる」
 という『可能性』を持つために、
 
  「自分が悪い」
  「自分に原因がある」
 と、
 自分で思い込んでしまう、
 という行為を、
 
 無意識のうちに、
 自分の内側で、
 行っていました。
 
 その結果、
 自分が、より、痛むことになろうと、
 自分が、より、辛いことになろうと、
 
  「もしかしたら、状況を変えることができるかもしれない」
 という、
 論理的に考えたならば、「有り得ない『可能性』」を持つために、
 その可能性に縋(すが)るために、
 
 自ら、
  「自分が悪い」
  「自分に原因がある」
 と、
 無意識に、思い込んでいました。
 自ら、決め込んでいました。
 
 
 いまであれば、
 『浄化』というものを知っていて、
 
 内側・自分の感覚を変えてしまう、
 という、「対処方法」を、知っているので、
 
 いまであれば、
 そのように思い込むことなど、しないのではないか、
 と、思いますが
 (するかも、しれませんが ^^; )、
 
 そう思い込みはじめたときには、
 そうするしか、無かったんですね。
 
 そして、その習慣が、
 無意識のうちに、続いていたんですね。
 
 
  「自分にはどうにもできない」という " 絶望 " に比べれば、
  「自分が悪い」という " 痛み・辛さ " のほうが、まだまし
 
 そんな表現が適切な、
 そんな『理屈』によって、

  「自分が悪い」
 という決めつけ・思い込みを、
 自ら、取り入れ、引き込み、
 
 そして、
 自ら、痛み、苦しんでいたことに、気づきました。
 
 しかも、それは、
 そもそも、見当違いな思い込みなので、
 それが、外部から解消されることは、ありません。
 
 なので、
 その痛み、苦しみは、
 際限なく、長続きします。
 存続し続けます。
 
 自分が、止めない限り ...
 
 とても辛い、自己仕打ちでした。
 
 
 でも、
 
  「いや、『自分が悪い』のでは、なかったんだ。
   そう、思い込んでいただけだったんだ。
   自分は、悪くなかったんだ!」
 
 そう、気づいたとき、
 そう、こころから思えたとき、
 
 「他人の『イライラ』」に対する感覚が、
 少し、
 いえ、ずいぶん、小さくなっていました。
 
 
 そして、
 なにより、
 
 そう、気づいたとき、
 そう、こころから思えたときに、

 こころの底から、じわじわと、湧き上がった、
 安堵感、開放感。
 自己肯定感 ...
 
  「そうかぁ、
   これを、この感覚を、感じるために、
   長い長い間、わざわざ、自ら、
   自己否定をしていたんだな」
 
 この週末は、
 これまでとは、また、ひと味違った、
 特別な感覚に、浸っていました。












2017年5月26日金曜日

慣れる・飽きる



 以前、個人セッションに来てくださった方から、
 お聞きした話です。
 
 
 その方が、
 お仕事の後、美容院に行かれて、
 遅い時間に、電車に乗っていた時のことです。
 
 仕事で疲れていたし、夜も遅くなってしまい、
 電車の中では、
 うとうとと、眠ってしまっていたのだそうです。
 
 そして、ある瞬間、
 「違和感」に、
 ふと、目を覚まします。
 
 周りに、人の気配が、無くなっていました。
 
 東京の、夜の電車。
 「ぎゅうぎゅうの満員」では、なかったとしても、
 基本的には、混んでいます。
 
 その日、電車に乗った時も、
 車内は、かなり混雑していました。
 
 ところが、気がつくと、
 自分の周りには、人が居ません。
 
 不思議に思いながら、
 周りを見回すと、
 
 自分の車両には、
 乗客は、自分を含めて、3人ほど。
 
 ところが、
 両隣の車両は、混み合っていて、
 きっちりと、人々が、乗っています。
 
 その段階で、初めて、
 「自分の乗った車両」に、異常があると、認識し、
 
 そこで、
 自分の車両の異常を、探し始めます。
 
 そして、
 探すことによって、初めて、
 自分の車両の異常の原因に、気づきます。
 
 車内には、
 大きな、「大便」が、あったのでした!
 
 
 実は、その方は、
 「訪問介護のヘルパーさん」をされている方で、
 
 普段から、介護の場面で、
 他人の「大便」を扱うことに、慣れていらっしゃいます。
 
 なので、その時も、
  「そういえば、臭うな」
 といった感じで、
 
 「車内の、『大便の臭い』」よりも、
 「車内の、『人が居ない気配』」に、
 先に、違和感を感じ、
 
 「大便の存在」「大便の臭い」に関しては、
 探して初めて、気づいたのでした。
 
 その方曰く、
  「普段の仕事中なんかは、
   便を、顔に引っ掛けられてしまうことがあって、
   
   そんなときには、事務所に戻ってから、同僚と、
   『飛びウ○コ、引っ掛けられちゃった』
   『私もよ』って、
   笑いながら、話し合うのよ」
 なのだ、そうです。
 
 
 その日、その車内に、「便」があったのは、
 その方の、推測では、
 おそらく、酔っぱらいが、我慢できず、してしまったのだろう、
 との、ことでしたが、
 
 事の真相は、ともあれ、
 「大便のある車内で、平然と寝ていた」という、
 その逸話に、
 
 僕は、とても感心してしまいました。
 
 さらには、
  「他の車両は、人が一杯なのに、
   自分の居る車両は、がら空きで、
   ラッキー! って思って、
   結局、降りるまで、そのまま、そこで寝てました ^^ 」
 という、
 その後の対応に、
 
 僕は、純粋に、驚嘆してしまいました。
 
 
 いま、ご紹介したお話を、お読みになって、
 みなさんは、どのようなご感想を持たれましたか?
 
 僕は、
  「人(人間)は、
   大便にすら、
   『慣れる』ことができるんだなぁ」
 と、
 すごく、驚嘆・感激しました。
 
 僕の認識からすると、
 「(他人の)大便」は、
 生理的に嫌なものの、代表です。
 
 僕の感覚では、
 「大便の臭い」は、
 生理的・本能的に、耐えられないものの、代表です。
 
 家の中で、家族が付けた、
 便器の汚れを掃除するのも、嫌なのに
 (ただ、これは、「嫌」だけど、できます)、
 
 こどもの便の臭いで立ちこめている、
 家のトイレに入るのも、嫌なのに
 (こちらは、臭いが収まるまで、待ちます ^^; )、
 
 全くの他人の、便の臭いが立ちこめている『密室』^^ で、
 寝ていられること、
 仕事上とはいえ、他人の便を、しかも顔に付けられても、
 それを、笑い話にできること、
 
 そのことに、
 純粋に、感激しました。
 
 そう成れている方を、
 純粋に、尊敬しました。
 
 そして、
 人の能力・性質を、
 また一つ、具体的に、知ることができたことが、
 深い喜びとなりました。
 
 
  「美女は三日で飽きるが、ブスは三日で慣れる」
 
 という、慣用句、
 ご存知の方、お聞きになったことがある方も、
 多いことと思います。
 
 念のため、確認しておくと、
 これは、女性を卑下しているものでは、ありません。
 
 ネットで検索してみると、
  「ハンサムは三日で飽きる ... 」
 という文言も、出てきていて、
 
 これは、
 「『女性』だから」とか、
 「『男性』だから」とか、
 そういうことでは、ありません。
 
 そこに、
 この慣用句のポイントは、ありません。
 
 ここでも、この記事においても、
 そこには、ポイントは、ありません。
 
 ここで、言いたいのは、確認したいのは、
 
  「人は、
   ネガティヴなことにも、『慣れ』ていくものだし、
   ポジティヴなことでも、『飽き』ていくものだ」
 
 ということです。
 
 
 先にご紹介した、
 「電車の中の大便」の逸話は、
 
 「大便」という、
 ある種、「『ネガティヴ』の頂点」であっても、
 
 人は、慣れてしまうことが可能なことを、
 実例として、ご紹介したわけです。
 
 そして、
 それとは反対に、
 「『ポジティヴ』なこと」であっても、
 
 わたしたちは、
 飽きていきますよね。
 
 あれだけ欲しかった、
 おもちゃ・服・バッグ・宝石・車・家だって、
 
 あれだけ望んだ、
 仕事・会社・資格・学校だって、
 
 あれだけ好きだった、
 彼・彼女だって、
 
 手に入れられたときは、
 はじめは、
 嬉しかったけど、
 
 そのうちに、
 飽きてしまいましたよね。
 
 「普通」に、なりましたよね。
 
 『人間』というのは、
 そういう生き物であり、
 そういう、存在、なんですねぇ。

 
 嬉しい気持ちであれ、
 嫌な気持ちであれ、
 
 わたしたちは、
 それを、感じていると、味わっていると、
 
 だんだんと、
 その感覚を、感じなくなっていきます。
 
 「嬉しい・ポジティヴな感覚」を感じなくなっていくことを、
 わたしたちは、『飽きる』と言い、
 
 「嫌な・ネガティヴな感覚」を感じなくなっていくことを、
 わたしたちは、『慣れる』と言っていますが、
 
 どちらも、
 基本的には、同じことであり、
 同じ仕組みが働いた結果です。
 
 
 わたしたちは、
 感情・感覚を、
 しっかりと、意識を向けて、感じていると、
 
 最初は、瞬間、
 その感覚が、増大したようにも、感じられますが、
 
 そのまま、意識を向け続け、感じ続けていると、
 だんだんと、その感覚は、弱まり、細まり、軽くなり、
 そのうちに、ふっと、消えてなくなっていきます。
 
 これが、
 「感じる・感じ尽くす」ということであり、
 これが、
 浄化の、一番基本的な方法です。
 
 
 何かに『飽きる』とき、『慣れる』とき、
 わたしたちは、
 体験を通じて、
 「無意識」のうちに、
 そして、すこしずつ、時間をかけて、
 この、「感じる・感じ尽くす」という行為を、
 行っています。
 
 その結果、
 その気持ちに『飽き』、
 その感覚に『慣れ』ていきます。
 
 それらを、(あまり)感じなくなっていきます。
 
 『浄化』というのは、
 それを、
 体験を伴っていなくても、
 『意識的』に、『意図的』に、『積極的』に、
 「短い時間」で、
 行っていく行為です。
 
 それによって、
 その「気持ち」を、「感情」を、「感覚」を、
 感じること、体験することを、
 積極的に、終わらせていく行為です。
 
 
 自然に、流れに、『エゴ』に、任せていても、
 体験していれば、
 いずれ、どんな感覚も、
 『慣れ』『飽き』ていきます。
 
 感じなくなっていきます。
 終わっていきます。
 
 それも、一つの道です。
 
 ですが、
 放っておいても、
 無くなっていくもの、終わっていくものですから、
 
 それを、意識的に、積極的に、
 無くしていっても、終わらせていっても、
 
 もちろん、それは、
 消えていきます。
 
 それも、一つの道です。
 
 それらには、ただ単に、
 「遅いか、早いか」の違いしか、ありません。
 
 ただ、
 
 「いずれ、終わっていくもの」であれば、
 そして、
 それを、「充分に体験した」と思われるのであれば、
 
 自ら、積極的に、終わらせていっても、
 いいのではないでしょうか?
 
 それが、
 僕が、個人的に、
 『浄化』に対して、有しているスタンスです。
 
 
 何かに『慣れた』ご経験がおありなら、
 何かに『飽きた』ご経験がおありなら、
 
 きっと、『浄化』は、お出来になります。
 
 もし、ご自分も、
 「終わらせていこう」と、お思いならば、
 
 「これについては、終わらせてもいいのでは」と、
 お思いになることが、おありなら、
 
 ぜひ、
 『浄化』を、考慮なさってみてください。
 
 きっと、
 思いの外、すんなりと、
 楽になられたことに、驚かれることでしょう。
 
  
 『慣れる』『飽きる』という性質・能力は、
 『人間』にとっての本質なんだと、
 僕は、認識しています。