2018年10月10日水曜日

旧サイト「津留晃一の世界」が表示されていないことについて

 
 現在、旧サイト「 津留晃一の世界 」が表示されなくなっています。
 
 それに伴い、津留さんのメッセージ集『 覚醒進化プログラム 』も、
 お読みいただけなくなっています。
 
 みなさまには、ご迷惑をお掛けして、まことに申し訳ございません。
 
 現在、サーバ管理会社に問い合わせを行い、
 漸次対応をしているところです。
 
 ご迷惑をおかけして、まことに申し訳ございませんが、
 今しばらくお待ちいただけますようお願い申し上げます。


     集合人編集局 裕子・ひで








2018年10月4日木曜日

台風24号(別個の宇宙)


台風24号の影響で被害にあわれたみなさまに、
こころより、お見舞い申し上げます。


2018年9月30日(日)。

その日は、ちょうど、
津留さん交流会の日でした。
 
 
2ヶ月近く前に、開催日を決定しましたので、
まさか、当日に、非常に強い台風が到来するとは、
夢にも思っていませんでした。

開催の数日前から、
「非常に強い」勢力のまま、
しかも、ちょうど開催当日にやって来るらしい、
ということが、分かっていたため、

前日には、
予約してくださっていたみなさまに、
 「ご遠慮なく、キャンセルなさってください」
という旨のメールをお送りしました。

結果、4名の方々は、キャンセルなさいました
(あの時点での判断としては、
 極めて当然で、とても賢明だったと思います)。

ですが、
蓋を開けてみると、

 「本当に、近づいているの?」
とすら思えるほど、
台風の影響が見られないままに、
交流会も終えることができ、

主催者としては、胸をなでおろすことができた、
その夜。
 
 
予報どおりに、ようやく、
台風は、やって来ました。

ですが、
風こそ、それなりに強く吹きつけていましたが、
しかし、
雨もそれほど強くなく、

その影響もほとんどないものと、
高を括っていた、午前1時半過ぎ。

突然、
玄関チャイムが鳴りました。

同時に、
電話機も、音を立てて、なんらかの作動を始めました。

はじめは、
なんのことか分からず、

玄関をのぞいてみると、
強風で、門の扉が開いてしまっている様子が見え、

 「なんだ、これを閉めろっていうことか」
と、
見えない存在からの、間接的な指示なのだろうと、
スピチュアル的解釈をして、門を閉め、

また布団に入るやいなや、
もう一度、
玄関チャイムと電話機が音を立てました。
 
 
そのとき、
事態がつかめました。

というのも、
起きあがった際につけた照明が、
一瞬消え、そして、ついたからです。

それら全てが、
同じタイミングで起きたからです。

 「あっ。 停電か!」

玄関チャイムと電話機は、
一度停電し、その後通電したことによって、
それゆえに、初期作動を起こしていたようです。

停電と通電が繰り返されている、
ということが分かりました。

その後、さらに数度、
同じ現象が起こった後、

機器たちは、
完全なる沈黙に入りました。

本格的に、停電になりました。

ただ、
家族たちは、深く寝ているようでしたし、
水道は止まってなくて、トイレも使えましたし、
枕元には、懐中電灯も準備できましたので、

とりあえず、寝ることにしました。
 
 
翌朝。

やはり、停電で、
まだ、回復していませんでした。

普段とは、少し違った方法・手段で、
家族みなが、早めに、身支度を整えて、
一息つけたところで、

外の様子を見に行くことにしました。

手元の携帯で、ネットを調べたところ、
停電しているのは、
近隣の一部であり、

しかも、
近隣の中でも、
限られた一帯だけ、のようです。

興味から、その状況を調べてみよう、
というのとともに、

駅の様子や、学校の様子、
そして、コンビニが営業しているのかどうか
(何か緊急に必要なものが生じた場合、手に入れられるのかどうか)、

という、実用的な点からも、
周りの様子を見てみることにしました。

好奇心旺盛な、小学生の娘が、
一緒に来ることになりました。
 
 
幸い、
というのか、

いえ、不幸なことに、
なのか、

停電していたのは、
本当に、わが家の周りの一角だけでした。

隣の隣のブロックは、
信号も正常、自販機も正常。
行き交う人々の様子も正常。
聞こえて来る生活音も、正常。
電動の雨戸を開けている様子も、目に入りました。

駅・学校方面は、大丈夫なことが分かり、
反対方向のコンビニがどうなっているか、見に行きました。

こちらこそ、
どうやら、数ブロック、停電しているように思えましたが
(確認は取れませんでしたが)、

しかし、
調査目的のコンビニは、
全く通常どおりに、営業していました。

お客さまが殺到しているようなこともなく、
やはり、停電しているのは、ほんの一部のようです。

僕は、少し安心して、
家に向かいました。
 
 
その道中。

娘が、口を開きました。

 「電気ムカつく。
  止まるなんて、ムカつく。
  うちの周りだけつかないなんて、すごい頭に来る」

その言葉に、
ビクッとしました。
 
 
確かに、
その感想そのものは、理解できます。

ましてや、
うちの娘の想いだとすれば、
なおさら、納得もできます ^^; 。

ですが、
そのときの僕は、

停電地域も、影響も、
極めて限られていることを知って、
安堵したのと同時に

(ということは、
 わが家付近の復旧も、そう、遠くないでしょうから)、

普段当たり前に使っているものたちのありがたみを、
「電気」のありがたさを、恩恵を、

身に染みて感じ入り、
感謝していたタイミングだったからです。

その自分と、
まさに正反対ともいえる感情を娘が感じていることに、

わずかですが、反射的な驚きのような反応を、
感じました。
 
 
結局、
そのわずか数十分後には、
電気は復活しました。

停電時間は、
通算で、6時間強。

しかも、
そのうちの大半の時間が、睡眠中だったことを加味すれば、

実質的に影響を受けたのは、
2時間弱。

おかげさまで、
その程度の影響で済みました。
 
 
静岡県内では、
今日、10月4日現在でも、
まだ、停電している地域があるようですね。

そのご不便、
そして、ご不安、ご心配、
いかばかりかと、心よりお見舞い申し上げます。

今回の、
たった(実質)2時間ほどの停電でさえ、
不便と、不安を、それなりに感じました。

ましてや、
何日も、それが続けば、

不便も、指数級数的に累積されることでしょうし、
不安や心配も、飛躍的に増幅していかれることでしょう。
 
 
そして、
このような、停電の影響は、

今年の日本列島では、
各所で、みられましたよね。

のみならず、
北海道ので地震や、
大阪での地震・台風、
岡山・広島などの西日本での豪雨災害 ...

そこでは、
「利便性が損なわれる」状況をはるかに超えた、
「生命の確保・存続が危ぶまれる」ほどの状況すら、
ありましたよね。

各地で、
様々なご不便、恐怖、不安を、
深く、強く、強烈に、お感じになられた方々が、
多数、おいでのことと存じます。

今回、
僕自身が、軽度の影響を体験することによって、
これまで以上に、
それらの方々に対するお見舞いの念を、
しっかりと感じることができました。
 
 
同時に、
繰り返しになりますが、

「電気」「文明」というもののありがたさを、
改めて、素直に、
感じることになりました。

ともすると、
僕の場合、
それらを否定してしまいがちな傾向があるのですが

(「エコロジー」的な観念・観点が強固なので)、

今回、改めて、
それらを、それらの存在を、
肯定し、感謝することができました。

これら、
僕にとっては、
とても大きな意義のある体験ができました。
 
 
 
さて、
前置きがとても長くなりましたが、

このブログ的な内容についても、
最後、一言、
触れたいと思います。
 
 
今回の停電を体験した件では、

娘と僕とは、
いわば、正反対の感情体験をしました。

そして、
それこそが、
まさに、

 「私たちは、一人ひとり、
  別々の、独自の宇宙に居る」

ということの、
一つの意味です。
 
 
いわゆる「客観的」と呼ばれるような視点から見れば、

娘と僕は、
全く同じ事実を、共通した同じ現象を、
体験しているはずです。

しかし、
そこから感じること、
「感情的な体験」は、
全く別個であり、

しかも、
内容的には、正反対ですらあります。
 
 
このとき、

 「いや、共通の同じ事実・現象を体験しているのでは、ないのだ。
  そもそも違う現象を体験をしているのだ。
  だから、異なる感想を、感情を、持つのだ」

と、
ある種、『便宜的に』考えてしまうこと。
『都合がよいように』認識してしまうこと。

それが、
 「それぞれに、それぞれの宇宙」
 「宇宙が違う」
というときの、

『一つの意味』『一つの捉え方』です。
 
 
もし、
そのように「都合よく」解釈してしまうことに抵抗がおありでしたら

(もし抵抗がなければ、そのように解釈し、認識してしまってください。
 とても楽に生きる、大きな秘訣になります)、

たとえば、以下のように考えてみてください。
 
 
娘と僕は、
仮に、その「停電時」という時点においてには、
同じ共通の現象を(宇宙を)体験していたとしても、

しかし、それ以外の部分では、
違う現象を体験しています。

例えば、

娘が小学校に行き、
そこで、学校生活を体験している最中、

僕は、例えば、
個人セッションをしている、

などのケースがあるわけですが、

そのように、
たとえ、どこかでは、
共通の宇宙を体験していたとしても、

その場合であっても、
それ以外の、それ以前の場面では、
それぞれに違う宇宙を体験していれば、

今現在体験している宇宙は、
それらの宇宙を体験してきた後の宇宙であり、
それらの宇宙を経由した後の宇宙であり、

つまり、
それらが積み重なり、積算された結果の、
今現在の、その時点での宇宙は、

あるいは、
それらを経由した結果の、
現時点での宇宙は、

各人が、それぞれに、違う、
と、いうことができますよね。
 
 
その結果、
仮に、
「現時点」という一点での宇宙は、共通していたとしても、

結局のところ、
個人個人の、「総体としての『宇宙』」は、
それぞれに、違う、ということであり、

その結果、
そこから体験すること、感じる感情は、
それらの相違によって、異なってくる、
ということになります。
 
 
その、
「積算された部分」や、
「経由してきた部分」というものを、

私たちの「外的な宇宙」ではなく、
私たちの「内的な宇宙部分」として認識した場合には、

それらが、それぞれ、
独自の、「エネルギーブロック」として把握されます。

そして、
上記表現は、

 「私たちは、それぞれ、独自の体験を経た結果、
  私たちは、それぞれ、独自のエネルギーブロックを有しており、
  それらから受ける影響が、それぞれ、独自なために、
  私たちは、それぞれ、独自の宇宙に住んでいる」

という表現になります。

まさに、
津留さんが表現しているとおりの、
認識です

(「それぞれに、独自のサングラスをかけて、
  世界を見ている」なんて言い方も、されますね)。
 
 
以上のように、

 「私たちは、それぞれ、別の宇宙に住んでいるのだ」

と、思えてしまえば、

その場合には、

それぞれが、それぞれに、
別個の感想を持つに至ったり、
別個の意見や価値観を持つに至ったり、しても、

それは、至極当然のことと、
思うことができるわけですが、

しかし、私たちは、

 「体験している現象は、
  みなに共通する、同一の、一つの、『事実』である」

と、
社会通念的に、
それゆえ無意識のうちに、
そう、認識しています。

そして、
だからこそ、

そこから発生し、受け取り、体験する、
「感情(体験)」にしても、「価値観」「観念」にしても、
同じもので然るべきだ、と、

と、無意識のうちに、
認識しています。

 
特に、
今回の僕のケースのように、

片一方が「親」であり、
もう一方が「子」であるケースなどは、

 「なんで、そんな風に思うの?
  なんて子供なの?
  それは、不謹慎で、ダメよ!
  こう思いなさい!」
と、

自分とは違った感想を持ったり、
自分とは違った感情体験をしている他者を、
否定しがち・批判しがちです。
 
 
そして、
その認識こそが、

苦しみの原因であったり、
困惑の原因であったり、

あるいは、
対立の、闘争の、原因になったりします。
 
 
 「そもそも、同じで然るべき」

という認識は、

同じであって、「普通」であり、
違うと、「問題」です。

同じであって、「0」で、
違うと、「マイナス」です。

減点評価で、
不幸になりがちな捉え方です。
 
 
対して、

 「そもそも、違っていて、当然」

の認識は、

違っていて、「普通」「0」。

もし同じならば、
それは、「ラッキー」で、「プラス」。

そんな捉え方です。

加点評価的な、捉え方で、
こちらの方が、より幸福感を味わいやすいです。
 
 
なので、

 「こんな風に認識した方が、楽ですよぉ」
というのが、

津留さんが伝えたかった、一番ポイントなんだと、
僕は理解しています

(津留さんの場合には、
 『真理』として、
 別個の宇宙に存在している、と、認識していたとも、思いますが)。












2018年9月30日日曜日

向き合っているのは、『自分』


先日、
個人セッションに来てくださった方から、
お聞きした話です。
 
 
その方は、
「株」をされているのだそうです。

そして、
その売買の指標は、

 「その会社の業績・企業価値などを勘案する」
というタイプではなく、

完全に
 「相場だけ、相場の動きだけを見る」
というタイプだそうです。

株式市場における、
ある会社の株式に注目したら、

その株価の動き・変遷に注目し、
その「流れ」を追い、注視し、

その変化の動きを予測して、
売買をし、
そこから利益を得る、

という、手法を採られているそうです。


で、
その日、話題になったのは、

先ごろ、
その方が体験された出来事です。

所有していた株式が、値を上げ、
利益が上がって来たのだそうです。

そのときに、
その方の採用されている方式によれば、

 そのまま持ち続けて、
 さらなる値上がりを待つ

というのが、
定石なシチュエーションで、

でも、
とても怖くなってきて
(「怖くなった」その理由は、
 おそらく、反転して、損失が出てしまうこと、だと思います)、

売却してしまい、
少額の利益を確定させたのだそうです。

しかし、
案の定、

その後の、その株価の動きは、
その後に、急上昇を見せ、

そのまま保持していれば、
大きな利益を得られたはずだった、
そうなのです。


そのとき、
 「怖くなって、売却してしまったこと」
に関連して、

その方は、
こう、おっしゃってました。

 「株をやっていても、
  対峙しているのは、
  株式市場ではないんです。
  
  向き合っているのは、いつも、
  『自分』なんです。」

と。


事例として、
とても分かりやすいと、感じたので、
ここで、シェアさせていただきましたが、

みなさんも、
事例は違えど、
似たようなこと、思い当たること、
ありますよね?
 
 
例えば、この方の事例である、
株式売買をしていても、

問題なのは、
「株式市場」では、ないんです。

「自分の内側の『恐れ』」なんです。
 
 
いえ、
きっちりと、正確に表現したいので、
言い直しますが、

「株式市場」も、
もちろん、大切だし、問題です。

そこと、向き合っています。

なのですが、
しかし、

それ以上に、
それ以前に、
その手前で、
それよりも圧倒的に大きく、重く、

「自分の内側の『感情』」が、
問題なのです。

そこが、
『相手』なのです。
 
 
そして、
誤解を恐れずに、さらに言えば、

『そここそが』、
問題なのです。

それ以外は、
大した問題ではないのです。
 
 
加えて、
私たちは、すでに、

『外側』の問題に対処する方法については、

経験も積み、
方法論も多数身につけ、
参照できる情報もあふれていて、

ある程度以上の対応を、
取れるようになってきています。

そして、
『だからこそ』、

それらの方法では、有効に対応できない、
未だに問題となっている事象に対しては、

そうでない方法を、
かつ、より根本的な対処を、

ぜひ、採っていただきたいのです。

それが、
『内側』に対する対処であり、

その一つが、
『浄化』になります。
 
 
この点に関しては、
今回は、この簡潔なまま、
終わりにさせていただきます。
 
 
そして、
もう一点。

何か『問題』と認識する状況になったとき、

結局、そのとき、
『外側』の状況が問題なのではないのです。
 
 
いえ、
ここも、
より正確な表現をとりましょう。

『外側』も、
問題といえば、問題なのですが、

しかし、
それを『問題』と判別している基準は、

あくまでも、
自分の『内側』にあります。

より重大で、
より根本的なのは、

『内側』なのです。

『自分』なのです。
 
 
『自分』が、

 「あぁ、問題だ。
  どうしよう。
  大変だ。
  どうにかしなきゃ ... 」

と、
騒いでいるのです。

人によっては、

 「よし、やった。
  このまま、定石どおりなら、
  大金が儲かるぞ」
と、

「好ましい状況」と判断する、
そんなシチュエーションで、

 「どうしよう。
  怖い ...
  逃げたい ...
  売っちゃおぅ 」
と、

恐怖を、ストレスを、
感じているのです。

向き合っているのは、
「状況」ではないのです。

その、
「『内側』の反応」なのです。

自分の中の『自分の反応』なのです。
 
 
問題なのは、

すぐに怒る夫でも、
怒ると恐ろしい上司でも、
陰湿な先輩女性でも、
ないのです。

問題なのは、
それらを怖がっている、
それらを嫌がっている、
『自分の中の自分』なのです。

向き合っているのは、
対峙しているのは、

常に、
『自分の中の自分』なのです。

『自分』なのです。
 
 
そして、これが、

 「宇宙には、自分一人しか居ない」

の、
一つの意味、なのです。
 
 
結局のところ、
問題なのは、

騒いでいるのは、
泣き叫んでいるのは、

『自分の中の自分』なのです。
『内側の、その子』なのです。

震えているのは、
怯えているのは、

その子なのです。

『外側』には、
現象が、あるだけなのです。

出来事が、
映し出されているだけなのです。

それを見て、
『その子』が、怖がっていること。

そのことが、
問題なのです。
 
 
同じように、

笑っているのも、
喜んでいるのも、

その子です。

そこも、
大切ですね。


いずれにせよ、

なので、

その子を認め、理解し、寄り添い、
そして、仲直りすること。

その子と、和解すること。

あるいは、
場合によっては、

その子に、成仏してもらうこと。
その子に、昇天してもらうこと。
安らかになってもらうこと。

それが、全てなのです。

私たち一人一人が、
向き合っているのは、

その子たちだけ、なのですから。

宇宙には、
その子たちしか、居ないのですから ...
 
 
そう思えるようになる、
 「認識の、コペルニクス的転回」
が、

おそらく、
誰にでも、訪れるのだと思います。

そのときが、
 「暗闇に、光が射すとき」
なのだと思います。

そここそが、
 「下って行った、谷の底」
なのだと思います。


そうすると、

 「自分が向き合っているのは、『自分』だけだ」
と、

 「宇宙には、自分一人しか居ない」
と、

自然、
『感じられる』のだと思います。
 
 
そして、
そのとき、

 「すべてが、自分だった」
と、
体感することになり、

それを
深く、体感できればできるほど、

今度は、
 「すべてが、愛おしい」
と、
感じてこられるのだと思います。
 
 
津留さんは、

本を手にしては、
感涙し、

割り箸を手にしては、
感涙していたそうですが、

おそらく、
そのときの心境は、

すべてが愛おしくて仕方なかった、
のだと、思います。
 
 
その始まりは、

「すべての『自分』」を、
きちんと認め、
きちんと向き合うこと。

そこなんだと、思います。
 
 
 
 
 
 
 
 

2018年9月8日土曜日

お見舞い申し上げます(北海道地震・大阪台風)

 
先日の、北海道での地震により、被害に遭われた方。

および、台風による強風で、被害に遭われた、大阪・関西方面の方。

ならびに、今年に入り頻発している、自然災害に遭われた方。

みなみなさまに、心より、お見舞い申し上げます。
 
 
このところ、
特に今年に入ってから、

自然災害が頻発していて、

また、その規模・強度が増し、
被害が甚大に、深刻になっている印象を、
個人的には、持っています。

被害に遭われた方やご関係の方、影響を受けられた方、
みなさまに、お見舞い申し上げます。
 
 
被害に遭われている最中などは、
特に、

恐怖や不安が大きく、とても強く、
動揺が収まらず、混乱し、

落ち着くこと、冷静になること、
そんなことが、まずもって、難しい状態になることもあります。

そんなときにこそ、
スピリチュアルな考えや、津留さんのメッセージなどが、
役に立つ、助けになる、

そんな方も、いらっしゃるかもしれませんし、
そんなケースも、あるかもしれません。

ですが、
しかし、

多くの、緊迫した、切羽詰まった状況では、

ほとんどの方の場合、
それどころではない、
という状態になられることと思います。
 
 
そんなときには、

まず、
今目の前の状況に対して、

3次元的な、実際的な行動を、
躊躇なく、そして集中して、行ってください。

また、
そんな状況で、
津留さんの言っていたことで、役立つとすれば、

呼吸に意識を向けて、
しっかりと、冷静なる方向に、意識を持って行くこと、

それを、どうぞ、
全力でなさってみてください。
 
 
 「呼吸に意識を向ける」
 「集中して、呼吸をする」
と、

巨大な感情の波に飲み込まれてしまうことから離れることが、
思考の渦に翻弄されてしまうことから距離を置くことが、

可能になる確率が、格段に高まります。

そんな状況では、
まず、そのことを、最優先になさってください。
 
 
もう、
5年以上も前のことになりますが、

娘が、
意識を失い、痙攣を起こし、
救急車で救急搬送されたことがあります。

病院に着くなり、
救急救命室に運ばれ、

閉まりゆく扉越しに、
 「気道を確保して!」
と叫ぶ声が聞こえるような、
そんな事態でした。
 
 
搬送されている間、
あるいは、病院に着いてからも、

猛烈な、強烈な、
なんとも形容のし難い、圧倒的な恐怖感に、

押しつぶされそうになりながら、
気が狂いそうになりながら、

でも、
ただ、ひたすら、
呼吸に意識を向けていました。

津留さんの、
 「そんなときには、浄化なんてできませんから、
  とにかく、呼吸に意識を向けてください」
という言葉を左手に握りながら、

ただ、ひたすらに、とにかく、
全力で、全身全霊で、
息を吸い、そして、息を吐いていました。
 
 
僕の場合には、
「そのおかげで」、と認識していますが、

どうにかこうにか、ギリギリ、
意識の一部分を、自分の冷静な部分に繋ぎ止め、

津波のように激動して起きている、目の前の現象に、
どうにかこうにか、かろうじて、ギリギリ、
自分の意識を、時差なく、並列走行させることができました。
 
 
スピリチュアルなことは、
特に、「浄化的」なことは、

状況が落ち着いてから、
心が落ち着いてから、

いくらでも、できます。
 
 
まず、可能な範囲内で、
気持ちを、心を、冷静に保つこと。

そして、取れる現実的な対応を、
逡巡なく、行うこと。
そのことに、集中すること。

そのためにも、
そのためにこそ、
可能な限り、気持ちを鎮めること。

まず、
そのことに、注力なさってください。
 
 
そのためには、
ひとまず、

平時に役立つものたちは置いておいて、

その状況に全力で当たられてください。









2018年9月7日金曜日

かりそめ、だけど本番

 
前回、
人生は旅行のようなもの
と、書きました。

そこで、お伝えしたかったことは、

 「津留さん的な見方をする場合には、
  『人生』あるいは『人間をする』というのは、
  旅行みたいなものだ、
  と、とらえていただくと、
  とても当てはまっていて、お分かりいただけやすいと思います」

ということです。

また、
そこでは、

津留さん的な見方・考え方・認識の、
その他のスピリチュアル的なメッセージとの違いや、
あるいは特徴のようなものも、
少し、まとめてみました。

以上の中で、
何かご参考にしていただけることがあると、嬉しいです。
 
 
さて、今回は、
その補足のようなものを、

一つ、
させてください。
 
 
 「人生は旅行のようなもの」

そう、認識したとき、

『人生』『人間をしている今』は、
「旅行中」です。

今の私たちは、
「旅先にいる旅人」です。

「旅」は、
やがて、いずれ、
終わりを迎え、

そのときには、
『家』に帰ります。

つまり、
「旅」とは、
一時的なものです。

『かりそめ』です。

今の状態も、
「永続」「永遠のもの」ではないし、

また、
今のこの存在(している『人間』という存在・状態)は、
「本質」では、ありません。
 
 
「そもそも」の、「元々」の、
場所だと、ものだと、

味わえないから、体験できないから、

今は、かりそめに、
この場所にいて、このものに成っている。

『人間をしている』『人間に成っている』存在としての、
今現在の私たちは、

「本質」からはかけ離れた、
仮の、かりそめの、状態になっている、

そんな存在です。
 
 
『人間』として生きていることに、
絶望を感じたり、
圧倒されてしまったり、
虚しさを感じたり、
あるいは、嫌悪を感じたり ...

そんなこと、
どなたでも、おありだと思います。

特に、
津留さんのメッセージがお好きな方は、
心優しい方が多く、
そして、自分を責めがちですから、

そんな、辛い思いをされてらっしゃる方、
多くいらっしゃることと思います。

そんなときには、

どうぞ、
 「これは『かりそめ』である」
ということを、
想ってみてください。

そんな考えを、見方を、
採用してみてください。
取り入れてみてください。

役立つことが、
少しでも、安らげることが、
あるのではないかと思います。
 
 
また、
しかし。

しかし同時に、

ここは、今の状態は、
かりそめではあるけれども、

しかし、同時に、
ここは、今は、「本番」です。
 
 
旅先は、
旅人という状態は、

かりそめの場所であり、
かりそめの状態だけれども、

しかし、それは、

想いを果たすために、
望んで、求めて、訪れている場所であり、

その場所でないと、その状態でないと、
できないことをするために、

そのために、わざわざ、
訪れている場所であり、状態です。

今が、
望んだ結果が得られている状態、

今が、
『本番』です。
 
 
ですから、

楽しいことは、
嬉しいことは、

遠慮なく、
楽しんで、満喫してください。

また、もし、
辛いことや、大変なことであっても、

どこかに客観的に見られる余裕があり、
どこかに冷静になれる部分があるようなら、

しっかりと、体験なさってくだい。

旅先の旅人として、
この本番を、
遠慮なく、存分に、味わってください。
 
 
 かりそめであり、
 でも、そうではあるけれども、しかし同時に、本番

そんな、
一見、相反するような、

そんな、
「どちらも」な状態が、

津留さん的な見方をしたときには、
矛盾なく、成立しています。

だからこそ、
「全てOK」です。
 
 
そして、ですから、

 「好ましくないことは、
  『かりそめ』と、重く受け止めず、気にかけず、
 
  でも、好ましいことは、
  『これぞ本番』として、存分に満喫する・味わう」

そんな都合の良さを、
ぜひ、取り入れてみてください。

遠慮なく、
活用してみてください。

それを、
ご自分に、許してください。


今、ここは、
かりそめであり、だけど、本番。









2018年9月6日木曜日

人生は旅行のようなもの


 「人生は旅である」

 「人生というのは、旅のようなものであり、
  また、旅というのは、人生のようなものである。」

このような言葉・格言・慣用句・表現を、
耳にされたことがおありなのではないかと思います。
 
 
誰が言った言葉なのか、
ググってみましたが、

明確なもの、確定的なもの、
広く一般に合意・認識されているもの、には、
行き当たりませんでした。

ただ、古くは、
お釈迦さまも、
人生を旅に、私たちを旅人に、例えていらしたようです。
 
 
また、
 「人生は旅である」
と言ったとき、

では、
 それがどういう意味なのか
 何を意図したものなのか、どんな教訓めいたものなのか
など、

その言わんとするところは、
また、それぞれに、いろいろ、あるようです。

 「とどまることのないもの」(無常・変化)
 「種々雑多なもの・ことがあるもの」
 「自ら進んでいくもの」
 「何があるかわからないもの」
など、

そこで言わんとするは、
言い手・使い手により、
状況・シチュエーションにより、
様々なようです。
 
 
ところで、みなさん。

みなさんは、
実生活において、
旅をするとき、旅行をするとき、

どのようなきっかけで、
どのような動機で、
旅行をされますか?

もちろん、
「旅」「旅行」といっても、
いろいろありますが、

基本的には、
旅行というのは、

 「見たいもの」
 「したいこと」
などがあり、

それをするために、
行くものではないでしょうか?
 
 
例えば、
 テレビで、ある風景を見て、
 それに感激して、
 自分も、ぜひ、それを生で、この目で、見てみたい
とか、

 雑誌に載っていた、あるお店の、ある料理が、
 とっても美味しそうで、
 どうしても、それを食べてみたい
とか、

あるいは、
 友人から聞かされた、ダイビングの話が、
 とっても素敵で、羨ましくて、
 ぜひ、自分も、そこに潜ってみたい
とか、

そんなきっかけ・動機・目的があって、

で、
それをするために、実現するために、
その場所を訪れる。

旅行というのは、
おそらく、
そのような動機・目的で、なさるものだと思います。

 どんな場所・景色か、料理か、アクティビティか、
 知っているし、
 知っているからこそ、知れば知るほど、
 実際に、見てみたい、味わってみたい、体験してみたい、
 その気持ちが高まり、
 そして、その願望を叶えに行く

そんな感じなのでは、と思います。 
 
 
そのことを、
僕がここで言いたいことを伝えやすいように、表現すると、

私たちは、

 事前に知っていたこと、
 事前に情報を得ていたこと、を、
 実際に自分で体験するために、
 旅行をする

となります。

つまり、

 旅・旅行とは、
 事前に知っていたことを、
 現地に行って実体験すること

と、なります。


さて、
で、ここで。

僕も、
先と同じようなことを、言ってみたいと思います。

 「人生とは、人間として生きるとは、人間をするとは、
  旅行のようなもの」
と。
 
 
毎度おなじみ、
津留さん的な見方・認識では、

私たちは、
元々は、神さまでした。

この見方・認識、仮定・仮説においては、

私たちは、元々は、
「全て」でした。

 「すべてである、一なる意識であり、
  全知であり全能である」存在
でした。

 「全てが自分であり、
  だから、全てを知っていて、なんでもできる」
そんな存在でした。
 
 
しかし、
「全てを知っている」存在であり、
「なんでもできる」存在である、
そんな存在『だからこそ』、

逆に、
パラドックス的に、
「できないこと」が、ありました。

それは、
 「知らない」「わからない」
 「できない」
ということ。

全てを知っているので、
 「知らない」「わからない」
ということが、
ありません(できません)でした。

なんでもできてしまうので、
 「できない」
ということが、
できませんでした。
 
 
ただ、
もちろん、
「全てを知っている」存在ですから、

「知らない」「わからない」ということが、
どういうことなのか、

「できない」ということが、
どういうことなのか、

そのことは、
完全に、知っていました。

その意味を、概念を、
知識としては、完璧に、完全に、
「知っていました」。
 
 
ただ、
知っていはいましたが、

しかし、
「できません」でした。

表現を変えれば、
「体験できません」でした。

それが、どういう感じなのか、
「感じられません」でした。
「味わえません」でした。

そして、
知っているからこそ、
感じてみたくて、味わってみたくて、
たまりませんでした。
 
 
で、では、
「できる」ためには、
「体験する」ためには、
どうしたらいいのでしょうか?

それには、
 「全知ではない」「知らないことがある」「わからないことがある」存在
 「できないことがある」存在
に成ること。

 「全知全能」ではない
 「完全」「完璧」ではない
そんな存在に成ること。

そう成れば、
 「わからない」「できない」
ができます。
 
 
では、
そう、成れるでしょうか?

成れます。
だって、「全能」ですから。
「なんでもできる」のですから。
できないことは、ありませんから ...
 
 
こうして、
私たちは、

 「知らないことがある」
 「わからないことがある」
 「できないことがある」

そんな存在に成りました、

自らの、「全能性」を、
遺憾なく発揮して。
 
 
そして、さらに、
「わからない」「できない」内容を深めるために、

 「わからないことだらけの」
 「できないことだらけの」
 「不完全な」
 「ちっぽけな」

そんな存在にまで、成りました。

それが、
今、私たち一人一人がやっている、
『人間』という存在です。
 
 
完璧に、完全に、
知っているにもかかわらず、

でも、
「知っている」だけでは、
不十分で、不満足で、物足りなくて、

「わからない」「できない」を、
「体験」したくて、
「感じ」たくて、
「味わい」たくて、

私たちは、
人間という存在を創り出し、

そして、
それに、成っています。

それが、
今、私たち一人一人がやっている、
『人間』という存在です。
 
 
そんな見方、
そんな仮定に立ったとき、

「人生」を「旅行」に例えるという比喩は、
とてもしっくりとくる、適切で、当てはまったもの、
であると、感じます。
 
 
まず、
一番ポイントとなる部分は、

 「体験すること」
 「感じること」
 「味わうこと」
 それが、一番の目的である

ということです。

 「人間をしている」「人間として生きている」というのは、
 「地球人間体験『ゲーム』」をしている
という、
津留さんの、別の表現とも、一致しているとおりに、

このような見方からすれば、
「体験すること」「感じること」「味わうこと」こそが、
一番の目的です。

「知ること」が、目的ではありません。
もう、はじめから、完璧に、知っているのですから。

旅行の前に、その情報は、完璧に、手に入れているのですから。
 
 
しかも、
その、「体験したいこと」「感じたいこと」「味わいたいこと」は、

元々の『神さま』の状態では体験できない、
『人間』に成らないと体験できない、

「わからない」「できない」という内容であること、
です。

このマゾ的な、一見信じがたいような目的こそが、
実は、渇望し、憧れ、恋い焦がれたもの、なのです。
 
 
また、それは、「探検」とは、
少し、違います。

「探検」は、
未知のものを探しに行くもの、ですが、

『人生』とは、
むしろ、すでに知っていることを、
見に、体験しに、行くものです。

 そこに行かないとできないから、
 そのために、そこに行き、
 そして、それを実体験すること
それが目的のものです。
 
 
そして、それは、
「したいから、している」行為です。

ただ、「したいから、している」ことです。

むしろ「しなくてもいい」、のだけれど、

でも、
「したいから、している」ことです。

つまり、
広く言えば、それは『遊び』であり、

決して、『仕事』でも、
ましてや『修行』では、ありません

(『遊び』『ゲーム』『仕事』『修行』については、
 過去記事「 人生は、『修行』か、『ゲーム』か? 」や、
 その関連記事をご一読いただけると幸いです)。
 
 
また、それは、
「したいから、している」のです。

 自分がしたいから、している、
 そして、それができている、
 というのが、
 今の、人間として生きている、自分の状況だ

つまり、

 自分の望みが叶っているのが、今の状況であり、
 それは、自分がそれを創り出したからであり、
 つまり、自分が『創造主』だ

という観点です。

決して、

 自分は望んでもいないのに、させられている存在、
 自分は『被創造物』であり、
 自分は『被害者』だ

という認識では、ありません。

 『自分』というものを、そのように認識している
あるいは、
 「元々の自分」「本来の自分」というものを常に認識している部分がある
そんな認識・感覚を有しています。
 
 
また、
『旅行』ですから、

「見ていないもの」
「行ったことがない場所」
「していないこと」
に、基本的な興味があって、

そして、
それを、興味があるから、行くだけ・しているだけ、
で、

また、
その順序も、順不同、
したい順にし、行きたい順番に行きます。

決して、
 「してしまったから、今度は、されてしまう」
 「する側をしたから、次は、される側になる」
というような、

カルマ的な、因果応報的な、
そんな理由や順序は、ありません。
 
 
そして、
そこに行かないとできないことをしたいから、
そこに行くのであって、

そこに行くこと、そこで体験すること、
そのプロセスそのもの・全体が、目的であり、

そして、
それらが終われば、
家に帰ります。

元の場所に、
元の存在に、還ります。

どこかの目的地に到達すること、
そのことだけが目的ではないし、

また、そこに留まることが、
目的でもありません。

また、なので、
そこに、目的地に、ゴールに、
いかに早く着くかが、大切なわけでもありません。

自分が望み、計画した、せっかくの楽しい旅行を、
いかに早く終わらせるかが、目的・目標、なんて、
哀しいですよね。
 
 
津留さん的な見方をしたとき、

 「人生とは、人間として生きるとは、人間をするとは、
  旅行のようなもの」

という例えは、
とても当てはまったものとなります。

その見方からすると、

 「私たちは、
  『(地球)人間』旅をしている最中(さいちゅう)」

と、例えることができます。

そして、
このように見てもらえると、

津留さんの言っていたことを、
津留さんが見ていた見方を、
よりお分かりいただけやすいのではないか、
と、思いますし、

また、
このような見方を採用していただけると、

人生を送ることが、人間として生きることが、
それまでよりは(ほんの少しかもしれないけれど)、
楽になられる、楽しくなられるのではないか、
と、思い、

このような形で、シェアさせていただきました。









2018年8月29日水曜日

人間ハワイ


それは、
今年4月の、ある日。

船橋での、うさと展が終わり、
会場の片付けを終え、
道具を運ぶために、車に乗っていたときのこと。
 
 
四月の、夕刻。
若干の雲が漂う、風の無い、穏やかな晴天。

薄茜色に染まりはじめた、
その空を、

よりはっきりと見たくて、
しっかり、直接、感じたくて、
窓を開けると、

流れ込んでくるのは、
その季節特有の、
爽やかで、涼やかな、空気。

騒がしさは、少し、あるものの、
しかしながら、それは、
休日ならではの、温かな「家族・家庭」の、
気配、音ども。

そして、
それらを包み越えて、
耳に届いて来ているのは、

昨年ハワイを訪れて以来、
車に乗るときには、いつも聴いている、
ハワイアンミュージック。

穏やかで、柔らかく、ゆったりとした、
その音の帯は、
細やかに、滑らかに、
僕の身体に、流れ入り、染み渡ります。
 
 
全てが弛緩し、
『自分』が、瓦解していきます。

『肉体』が崩れ、
周りに、全体に、溶け広がっていきます。

「力み」が感じられず、
完全に、「ただ、そのまま」の感覚になります。

「至福」の、
一形態に浸りました。
 
 
そのとき、
思考が認識したのは、

 「あぁ、
  『ハワイ』が存在してくれているってことは、
  なんて、ありがたく、すばらしいことなんだ」

ということでした。

『ハワイ』に繋がることで、
あるいは、
『ハワイ』を深く感じ、思い出すことで、

僕は、
「至福」とまでも言えるほどの、
感覚に浸り入ることができる ...

この地球上に、
『ハワイ』という、
「楽園」の一形態が、

具体的に、
実在してくれていることに、

心から、感謝しました。

自分にとって、
喜びであり、希望であり、
また、救いであると、
感じました。
 
 
もちろん、
私たち共通の、客観的事実としての
ハワイには、

いろいろな側面があり、
さまざまな事情があり、

決して、「『楽園』そのもの」などではないことは、
十分に、認識しています。

経済的なこと、
人種的なこと、
環境的なこと、
そして、歴史的なこと ...
 
 
また、特に、
この5月から、はじまった、
ハワイ島での、新たな溶岩流の噴出は、

8月に入り、
ようやく、終息を迎えてはいるようですが、

それまでの3ヶ月余で、
広範な地域を、
溶岩で、焼き払い、覆い尽くしてしまったこと。

しかも、その噴出が、
まさに、私たちが滞在した住宅地 " Leilani Estates " から起こり、

私たちが滞在した家から、500mも離れぬ一帯でも、
私たちが訪れた当時の様子を、一切、留めていないということ。

このブログでも紹介した、『楽園の海』( カポホ・タイドプール )も、
今は、厚い真っ黒な岩の層の下に、沈降してしまったということ。

この、個人的体験に関係のある、
極めて狭い範囲内においてさえも、

極めて極端で過酷な出来事が起こりうる、
『ハワイ』という場所が、

決して、「『楽園』そのもの」と言い得ないことは、
十二分に、認識しています。

それどころか、
今回の出来事に見舞われた地域では、
「『楽園』どころか『地獄』」のような体験をなさっておいでなことと、
認識しています

(心より、心よりお見舞い申し上げます)。
 
 
それでも、なお、
『ハワイ』の持つ、緩やかさ・のどかさ・暖かさ・美しさと、
『ハワイ』が放つ、煌めきは、

僕の心を、身体を、
緩め、和らげ、溶かし、
そして、整え、再構成してくれます。

『ハワイ』という『楽園』が、
夢が、憧れが、理想が、

僕を、
柔らかくし、

そして、
僕を、強くしてくれます。
 
 
 「『ハワイ』のような『場所』が存在することで、
  僕が、これほどまでに、
  救われ、癒され、慰められ、そして、励まされるのならば、
  
  同じように、
  『こんな人が存在することで、救われ、励まされる ... 』
  そんな『人物』が、居てもいいのではないか?

  いや、僕が、そんな人物になってもいいのではないか?
  率先して、僕が、そんな人物になってもいいのではないか?」
 
 
そのとき、突如、
そんな想いが、浮かび上がりました。

僕にとっては、
初めて到来してきたアイデアであり、

僕にとっては、
初めて得られた認識でした。

そんなこと、
思ってもみたことがありませんでした。

自分が、率先して、
『夢』を、『理想』を、生きることが、

むしろ、
他者の救いになり、励ましになるなんて、
思ってもみたことがありませんでした。

でも、
いったん、そう認識できてみると、

それは、
至極当然のアイデアであり、

それは、
採用しない理由の見つからないものでした。
 
 
考えてみれば、
「津留さん」も、そんな一人、ですかね?

みなさんの中には、
「津留さん」という人物が存在したことが、
救いであり、希望である、という方も、
いらっしゃいますかね?

そう、気づきました。
 
 
でも、
では、なぜ、

これまで、僕は、
そのような認識に至らなかったのでしょうか?

僕の場合、
それは、明白でした。

そこには、
二つの理由がありました。
 
 
一つは、
 「そんな『理想』に、自分が成れるわけない」
という、

自己評価の低さ、自己能力への懐疑、自信のなさ、自己否定 ...

そのようなものでした。

おそらく、
これは、分かりやすく、

また、
多くの方も、共感されるところなのでは、と思います。
 
 
もう一つ。

そして、
僕の場合には、

こちらこそが、
より大きく、より強い、要因に感じられます。

 「そんなことをしたら、ズルい。
  そんな状況になったら、他の人に悪い。 申し訳ない。」
 
 
この、
「ズルい。悪い。申し訳ない」には、

そうなった場合には、
他者から「ズルい」と責められることになり、
他者から妬まれることになり、
それが怖い、それのほうが余計に嫌だ、
という思いも、付随しているでしょうが、

でも、
それ抜きに、純粋に、

自分が優れた状態であることを、
自分が恵まれた状況になることを、
禁ずるような、諌めるような、
ブレーキをかけるような、

そんな想いが、
みなさんにも、ありはしませんか?
 
 
 困っている人がいるのに、
 苦しんでいる人がいるのに、

 自分が楽で、楽しくて、恵まれて、幸せで ...
 そんなこと、あり得ない!

そう、声高らかに叫ぶ子が、
あるいは、
静かに、揺るぎなく、そう決意している子が、

あなたの内側には、居ませんか?

心優しい人ほど、
当然のように、
そんな想いを、抱えていることでしょう。

道徳心にあふれた、心清き人ほど、
当たり前のように、
そんな想いと、同居していることでしょう。
 
 
 「心優しき人」ほど、辛い思いをする
 「心清き人」ほど、幸せになれない ...

これまでの歴史で、これまでの社会で、
私たちが、数多く遭遇し、数多く体験してきた、

一見、パラドックスと思えるような、
この、シニカルなジレンマは、

私たちに、深い、深い、
憤りと、哀しみと、絶望と、諦めと、虚無と ...
を、感じさせてきました。

ですが、しかし、
それも、もう、十二分に味わってきたものと、
もう、「完了印」を押すべき時に来ているものと、
個人的には、感じています。
 
 
 ライトワーカー

この言葉を聞いて、
心震える人が、多くいらっしゃることでしょう。

夜の闇に、光を照らす、灯台のように、
世の中に、光をもたらす、人。

そんな人物として生きていこうと、決めている方も、
そんな人物にこそなりたいと、望んでいる方も、
多数、いらっしゃることでしょう。

そのときに、ポイントとなるのが、
「自分に対する許可」だと、思っています。

飢えている人が、食べ物を恵むことができないように、
お金がない人が、お金を恵むことができないように、

自らが光り輝いていない人は、光を放射することができません。

 「私は、光り輝けるだろうか?」
そんな、
自分自身に対する、疑念や不信と同様に、

いえ、それ以上に、

 「この暗闇で、もがき苦しんでいる人々がいるのに、
  私は、光り輝いてしまって良いのだろうか?」
そんな、
自分自身を律し、諌め、禁ずるような想いを手放し、
自分自身に対して許可を与えることこそが、
もっとも重要なポイントなのだと、感じています。

むしろ、
そんな人こそが、
そして、周りのためにこそ、
自分が率先して、光を溢れさせること、

自分が率先して、先に進み、理想を歩み、
目印となり、道筋を示してあげること、

それこそが、大切なのだと、
そう、認識を換えてしまうことが、重要なのだと、感じます。
 
 
私たちが、これまで、
心優しさ、清さ、道徳・モラルを持って来たことは、
決して、間違いでも、過ちでも、ありません。

それゆえに、これまで、
ここまでの深さの、苦しみを、味わうことができたのですから。

それを味わうために、
私たちは、自ら、それらを、身の内に入れ込み、抱え込んで来たのですから。

ですから、
それらを恨む必要はなく、

ただ、「もう使い終わりました」と、
宣言し、伝え、手放してあげればよいのです。
 
 
自らの前進を、とどまらないでください。
自らの幸福を、躊躇しないでください。

堂々と、むしろ積極的に、
希求し、実現してください。

その許可を、ご自分に与えてください。

許可を与えていないのは、
許していないのは、認めていないのは、

ご自分だけです。
 
 
 「『人間ハワイ』に、成ってもいいんだよ。
  近づいて、いいんだよ」

僕の場合には、
そう、言ってあげることにします。










2018年8月24日金曜日

第6回名古屋イベント 開催のお知らせ


 2018年11月2日(金)、3日(土)、4日(日)、
 名古屋市で、
 『津留さん交流会』および『個人セッション』を行います。
 
 
 前回の、名古屋での、
 交流会と個人セッションは、
 
 8月の、真夏の、
 「名古屋らしい ^^」とても厳しい暑さの中でした。
 
 それから、1年以上が経ってしまいましたが、
 今回、11月に、名古屋に伺えることになり、
 とても嬉しく思っています。
 
 
 前回の、名古屋での交流会は、
 中身の濃い、内容の深い、
 とても素晴らしい交流会だったことを、
 よく記憶しています。
 
 今回もまた、
 みなさんと、楽しく、
 語り合えたら、交流できたら、
 と、楽しみにしています。
 
 
 また、
 個人セッションにつきましては、
 
 ここのところ、
 従来よりも頻繁に、

  「電話などの、遠隔での、
   個人セッションは、受けられませんか?」
 と、
 お問い合わせいただいています。
 
 とてもありがたいことであるとともに、
 
 そのようなご希望にお応えできておらず、
 心苦しいところではあるのですが、
 
 私たちの個人セッションの内容・手段や、
 私たちの能力的なこと、
 
 その他、様々な事情を勘案すると
 (また、いくつかのトライアルの経験からすると)、
 
 現状としては、
 対面のみの個人セッションに、限定させていただいています。
 
 そのようなこともあり、
 可能な範囲で、こちらから各地へ伺う機会を設けているつもりでいます。
 
 今回の名古屋での個人セッションの機会につきましても、
 ぜひ、ご活用いただけると嬉しいです。
 
 どうぞよろしくお願いします。
 
 
 それでは、
 名古屋のみなさま、中部東海地区のみなさま、
 お会いできることを楽しみにしています ^^
 
 
 2018年8月24日 集合人編集局 裕子・ひで

 
 詳細・お申し込みは、『 第6回 名古屋イベント 』 のページで。











第9回大阪イベント 開催のお知らせ


 2018年10月12日(金)、13日(土)、14日(日)、
 大阪市で、
 「個人セッション」および「津留さん交流会」を行います。
 
 
 ありがたいことに、
 ここのところ、「年2回」「半年に1回」のペースで、伺えている、
 大阪。

 今年も、
 前回の5月に続き、
 10月に、伺えることになり、
 
 今年も、2度、
 伺えることになりました。
 
 ご参加くださっている みなさん、
 ありがとうございます。
 
 
 今回は、
 浄化ワークショップを行わず、
 
 「個人セッション」と「津留さん交流会」を行います。
 
 
 交流会には、前回も、
 定員一杯の方々にご参加いただき、
 
 とても積極的な会話と交流を、たくさん、
 していただく機会を、ご提供でき、
 
 大阪に伺って、交流会を開催することの意義を、
 強く、感じることができています。
 
 今回も、
 たくさんのみなさまにご参加いただき、
 
 多くの交流を図っていただければ、
 と、思っています。
 
 ひでが、
 みなさんにお会いでき、みなさんのお話を伺えることも、
 もちろん、とても楽しみにしています。
 
 
 また、
 個人セッションにつきましては、
 
 ここのところ、
 従来よりも頻繁に、

  「電話などの、遠隔での、
   個人セッションは、受けられませんか?」
 と、
 お問い合わせいただいています。
 
 とてもありがたいことであるとともに、
 
 そのようなご希望にお応えできておらず、
 心苦しいところではあるのですが、
 
 私たちの個人セッションの内容・手段や、
 私たちの能力的なこと、
 
 その他、様々な事情を勘案すると
 (また、いくつかのトライアルの経験からすると)、
 
 現状としては、
 対面のみの個人セッションに、限定させていただいています。
 
 そのようなこともあり、
 可能な範囲で、こちらから各地へ伺う機会を設けているつもりでいます。
 
 今回の大阪での個人セッションにつきましても、
 ご活用いただけると嬉しいです。
 
 どうぞよろしくお願いします。
 
 
 それでは、
 大阪のみなさま、関西地区のみなさま、
 お会いできることを楽しみにしています ^^
 
 
 2018年8月24日 集合人編集局 裕子・ひで

 
 詳細・お申し込みは、『 第9回 大阪イベント 』 のページで。
 
 
 
 
 
 




2018年6月3日日曜日

50回目のファーストキス(時間、そして、他人)


ここ最近、
テレビや、ネット上、街中などで、
映画「50回目のファーストキス」の告知を、
よく目にします。

一昨日が、公開日だったんですね。

聞くところによると、
この、日本版の「50回目のファーストキス」は、

ロケ地もハワイと、そのままで、
元の、アメリカ版の、リメイクだとか。

しかも、主演が、長澤まさみさん(!)、ということですので、
ヒットとなることを、祈念いたしております ^^ 。


さて、元となっている、
アダム・サンドラーと、ドリュー・バリモアの、
ハリウッド版「50回目の ファースト・キス(50 First Dates)」のほうは、

根がロマンチストな、僕は ^^; 、
ストーリー的にも、好きですし、

ハワイの情景や、
コメディータッチなところも、相まって、
大好きで、
何度か、観ています。

なので、
ストーリーなども、比較的、記憶しているのですが、

(この後、ネタバレ注意!)

主役の女性(ドリュー・バリモア)は、
交通事故により、『短期記憶喪失障害』となり、

記憶が、1日間しか持たず、
夜間の睡眠が明けると、前日の記憶がなくなり、

記憶がリセットされ、
事故前の状況に、記憶が戻ってしまいます。

なので、
事故後に会った人のことを、記憶しておらず、

そこで、その後に出会った、
主演男性(アダム・サンドラー)とは、

毎回、毎回、出会いから始まり、
そして、毎回、ファーストキス(原題的には、ファーストデート)を、
繰り返すことになる ...

というストーリー内容から、
このタイトルに、なっています。


いわゆる、「ラブコメディー」で、
ハワイの美しい風景も満載ですので、

その辺りがお好きな方で、
かつ、
アダム・サンドラーとドリュー・バリモアが苦手でなければ、

個人的には、お薦めの映画です ^^ 。


さて。

既述のとおり、
主人公の女性は、

一晩経つと、記憶を無くしてしまいます。

なので、
彼女は、

いつも、いつも、
「一日」を、生きています。

その日の、「一日」を生き、

翌日には、「前日」が無く、
そして、その(翌日である)「一日」を、生きます。


彼女には、
「一日」しか、ありません。

それ以上の長い時間は、
彼女の認識の中には、ありません。

つまり、
彼女には、「一日」しか、ありません。


この点は、ご納得いただけるものと思います。


では。

その、彼女の状況を、
ぜひ、さらに、もっと極端なものに、してみましょう。

もし。

もし、彼女が、
1秒たりとも、記憶できなかったとしたら ...

そのとき、
彼女には、「何時間」「何分」、いえ、「何秒」が、
あるのでしょうか? ...


そうですよね。
彼女には、「1秒すらも無い」ですよね。

彼女には、『時間はありません』。

よね?

え、ということは? ...


私たちが体験している、この社会では、
私たちは、みな、記憶を有しています。

なので、『時間を有しています』。

でも、もし、
もし、みなが、全員が、記憶を有していなかったら、

そこには、果たして、
時間は存在しているのでしょうか? ...


とても良く、
 「『時間』は無い。
  『瞬間』が有るだけ。」
と、
言われます。

この感覚は、なかなか、理解・体得の難しいものですが、

しかし、
そのような、理解・体得が無くとも、
先のように、考えてみたら、

 「『時間』は、『記憶』があって初めて、存在する」

すなわち、

 「『時間』は『記憶』の中にしかない」

ということは、よろしいかと思います。

 「『記憶』という、頭の中の認識の中にのみ、『時間』は存在する」

ということで、よろしいかと思います。


私たちは、
プロセス・変化を、体験しています。

それによって、初めて、
 「良くなる」
 「悪くなる」
という、体験ができます。

そして、それによって、はじめて、
 「嬉しい」とか、
 「悲しい」とか、
 「不安だ」とか、
そのような種類の感情体験を、することができます。

そのような種類の、
感情体験をするためには、

私たちは、
「変化・プロセス」というものを、記憶していなければなりません。

そこで、
私たちは、「記憶力」を有しているのですが、

それに伴って、
そこで、はじめて、

その、それら「変化・プロセス」を、
脳が、『時間』と、認識します。

その「変化」を、
その「プロセス」を、
その、よどみない流れを、

脳が、『時間』と、認識します。


なので、変化が無いときには、
私たちは、時間の流れを、認識できなくなります。

テレビの実験企画などで、
外の様子が分からない、外の変化が一切感知できない部屋などに、
隔離・幽閉された人が、
果たして、時間の経過を、しっかりと当てられるか、

といった内容のものを、
ご覧になったことのある方も、いらっしゃると思います。

そんなとき、
大抵、その人は、
大幅に違う時間認識を、持っています。

これなどは、
私たちが、

変化・プロセスを、時間として認識している、
最たる例だと思いますが、

私たちも、日常生活の中で、
例えば、変な時間に昼寝をしてしまったときや、
長い時間、昼寝をしてしまったときなどに、
起きたとき、時計を見ないと、時刻がまったく分からない、
なんて体験を、したりしますよね。

以上のようなことからも、
『時間』が絶対的なものではない、ということは、
すでに、実感されたり、認識なさったりしていることと思います。


いずれにせよ、

 『時間』というのは、『記憶』を通じて、頭の認識に中にあるものだ

という点は、よろしいかと思います。

それが、

 「頭に中にしか、ない」のか、否か
 「頭の認識の中にのみ、あるもの」なのか、否か

については、置いておいて
(「時間は無い」と言う人々は、
 「なので、頭の中にしかないのだ」と、言っているのだと思いますが)、

でも、いずれにせよ、
 「『時間』は、頭の中にあるもの」
 「『時間』は、頭で認識されているもの」
 「頭の中の『記憶』が無ければ、『時間』は認識できない」
ということは、よろしいかと思います。


以上、『時間』というものについて、
ご参考にしていただければと思います。


そして、さらに。

この、『時間』についてと、同じことが、

 「嫌な人」
 「嫌みな人」
 「意地悪な人」
 「困った人」...

など、

自分のストレスの原因となっている『他人』についても、
言えるのです。

そして、それを、
津留さんは、

「『時間』は無い」と言うタイプの(その認識の)、
津留さんは、

 「『他人』は、居ない」
と、
言うのです。


これを、
僕が、今回、この記事で使った表現で言えば、

 「『他人』は、頭の中にしかいない」
 「『他人』は、『記憶』を通じて、頭の認識に中にあるものだ」

と、いうことになります。


『時間』についてと、同様、
『他人』も、

このように、
「『自分の頭の中』に居る」のです。

「『自分の中』に居る」のです。


だからこそ、
「『自分の外』に居る」他人を変えようとすることが、
ときに、無意味なのです。

だからこそ、
「『自分の中』に居る」他人にアプローチするしか、
ときに、方策が無いのです。

『自分の中』だけが、問題なのです。