2018年1月18日木曜日

はじめての「うさと展」、終わりました〜 ^^


僕たちにとっての、はじめての「うさと展」、
無事に、終えることができました。

来てくださった、お客さま各位、
ありがとうございました。


また、今回は、
「共催コーディネーター」として、
すなべともこさん が、
全面的にサポートをしてくださいました。
こころから、感謝お礼申し上げます。

最初2回のうさと展は、「原則2日間開催」のところ、
すなべさんのご了解をいただいて、
今回、3日間開催することができました。

そのおかげで、
初日、金曜日、平日にも、たくさんのお客さまにお越しいただけ、

そして、最終日、日曜日、
うさぶろうさんに来ていただいた上で、
また、たくさんのお客さまにお越しいただくことができました。

すなべさん、
ご理解とご協力、本当にありがとうございました。
そして、おつかれさまでした。
 
 
また、うさとジャパンスタッフ のみなさまにも、
お礼申し上げます。

日ごろから、いろいろと、サポートをしてくださるおかげで、
ほとんど、分からないこと無く、あまり不安なく、
開催の準備をすることができました。

また、今回のうさと展には、
とっても素敵な服を、たくさん、送っていただきました、

もちろん、うさとの服は、素敵なものばかりなので、当然なのですが … ^^;

でも、そのおかげで、
お客さまが、「お気に入りの一着」に出会われる瞬間に立ち会うことが、
その場所・機会をご提供することが、できました。

夢が叶いました。

本当にありがとうございました。
また、今後ともよろしくお願いします。


そして、
もう、先に触れましたが、

最終日に、なんと、
うさぶろうさんが、来てくださいました〜!





超ご多忙な中、お時間を割いてお越しくださり、
そして、たくさんのお客さまに、コーディネートしたり、商品選びを手伝われたり、
また、子どもをあやしたり、大人を笑わせたり ^^ 、
細やかな心配りを、随所に、してくださいました。

ありがとうございました。

お客さま、みなさま、
楽しそうに、嬉しそうに、喜んでくださいました。

そして、せっかくいらしてくださったにもかかわらず、
お客さまが途切れてしまう時間帯があり、
申し訳なく思っていると、

近所のケーキ屋さんに向かわれて、
みんなに、ケーキのごちそうまで、してくださいました
(ごちそうさまでした)。

本当に、すべての方に、心遣いをしてくださる、
心細やかな、大きな方なのだと、
改めて、実感いたしました。

ありがとうございました。


そして、このブログでは、
触れないわけにはいかないことが、
一つ。

うさぶろうさん、
津留さんのことを、ご存知でした!

僕は、又聞きなのですが、
うさぶろうさん、
 「あぁ、津留ちゃん、
  会ったことあるよ」
と、
おっしゃっていたそうです。

調べてみると、
うさぶろうさんが、1948年生まれ、
津留さんが、1946年生まれ。

近いですね。
会っていて、おかしくないですね。

そして、共通点があり、
それは、「22日」生まれ、ということ。

うさぶろうさんは、10月22日。
津留さんは、2月22日。

うさぶろうさんは、
「22日会」という、
22日生まれの人の会をしているそうで
(うちの末娘にも、入会を誘ってくださいました ^^ )、

「22日」生まれであることに、
ある種、意識を置いていらっしゃることからすると、

僕が考えていた以上に、
もしかしたら、ご縁があるのかも。

まぁ、
 「だから何?」
の話ですけどね ^^ 。

そんなことも、知ることができました。


さて、今回は「はじめて」ということで、
すべてにおいて、不馴れで、行き届かないことばかりでしたが、

お越しくださったみなさま、ご協力くださったみなさまが、
みなさん、受け止めてくださって、
どうにか、こなすことができました。

ただ、僕としては、
すべてが新鮮で、すべてが楽しく、

とにかく、楽しく嬉しい時間を過ごせました。

でも、
それゆえに、興奮していたのでしょう、

終わってみたら、とっても疲れている自分を発見しました ^^; 。


次回の開催も、
とっても楽しみです。

決まり次第、ご案内いたします。
どうぞよろしくお願いします。


改めまして、
みなさん、ありがとうございました。


 ひで











2018年1月11日木曜日

いよいよ明日から、はじめての「うさと展」


いよいよ明日から、
僕たちの、はじめての「うさと展」です!

今日は、すなべともこさんに、お手伝いいただき、
また、名古屋から、「うさと仲間」のせつこさんにお越しいただき、
設営・準備をしました。





はじめてのことで、分からないこと、戸惑うことばかり。
僕としては、とても貴重な「新たな体験」をさせてもらい、
とっても楽しい一日でした。

でも、まだ、「準備万端」とはいかず、
細かいことを、いろいろと整えることが、残っています。

今晩は、楽しみながら、じっくりと、
うさと服に触れていきたいと思います。
あぁ〜幸せ ^^
念願が、一つ、叶いました。


そういえば、
 「(お客という形とは)違う形で、うさとに関わりたい」
という想いは、
ずっと、持っていました。

僕の場合は、
まだまだ、いっぱいの『想い』を、持っていますねぇ〜


それでは、明日から3日間、
「うさとの服展@本八幡スペースあむりた」を開催します。

うさと服にご興味おありの方は、
ぜひ、いらしてください。

 ひで



  アクセス詳細などは、こちら のページ(外部サイト)をご覧ください。










2018年1月1日月曜日

はじめに言葉ありき ( 宇宙を分つもの )


    初めに言葉があった。
   
    すべてのものは、これ(注:言葉)によってできた。
    できたもののうち、一つとしてこれ(注:言葉)によらないものはなかった。
   
     ( 新約聖書:「ヨハネによる福音書」1章1節および3節)
       [ 参照: こちら ]
    
    
    初めに、神は天地を創造された。
   
    神は言われた。「光あれ。」
    こうして、光があった。
   
     ( 旧約聖書:「創世記」1章1節および3節)
       [ 参照: こちら ] 
 
 
 
 「すべてのもの」は、
 「言葉」によって、出来(でき)・創られました。
 
 言葉によらず、出来たもの・創られたものは、ありません。
 
 また、
 「光」は、
 「光」という「言葉」によって、創られました。
 
 
 ところで、
 「すべてのもの」は、
 『どこから』、生まれたのでしょうか?
 
 
 『無』からです。
 
 
 では、
 その、『無』とは、
 
 何なのでしょうか?
 どういう意味なのでしょうか?
 
 
 一つには、
 あえて言葉で表せば " nothing " 、
 
 文字通り、
  「何も無い」状態
 と、認識できると思います。
 
 僕も、
 かつては、そう理解していましたし、
 
 一般的には、
 そう、理解されているのではないか、と、思います。
 
  「はじめ」「原始」「原初」は、
  「何も無」く、
  そこに、「すべてのもの」が、創造された
 
 という、認識です。
 
 
 ところが、もう一つ、
 別の、違う認識も、できると思います。
 
 それは、
 『無』とは、
 『空』と呼ばれるもの(「色即是空」の『空』ですね)。
 
 津留さんは、これを、
 『神さま』と、呼び、
 
 また、別の表現としては、
 「ホワイトノイズ」と呼びました
 (過去記事「 『ホワイトノイズ』という『神』 」)。
 
 僕は、このブログでは、過去に、
 「無色透明」という事例で、表しました
 (過去記事「 最驚のパラドックス 」)。
 
 
 それは、
 先の、「何も無い」 " nothing " としての『無』とは、
 反対で、
 
 それは、
 『すべて』です。
 
 『すべて』であり、
 かつ、「『未分化』のもの」、です。
 
 そこから、
 「すべてのもの」が、生まれました。
 
 『すべて』から、
 「すべてのもの」が、生まれました。
 
 
 はじめに、神が、居ました。
  
 その『神』が、創造されたのです。
  
 『神』が、『言われた』のです。
 
 であれば、
 「はじめに、神が、居ました」。
 
 そう、捉えるのが、
 むしろ、自然なのではないか、
 と、思いますが、
 
 それは、
 僕の個人的な認識ですので、
 その、「どちらのほうが」は、置いておきましょう。
 
 
 さて、
 はじめに、神が、居ました。
 
 はじめに、
 『神』という『すべて』が、ありました。
 
 「すべてであり、一つであり、未分化」の、『すべて』が、ありました。
 
 そこから、「すべてのもの」が、生まれました、
 神の『言葉』によって ...
 
 
 「ホワイトノイズ」は、
 「チューニング(周波数の特定)」によって、
 特定の音が、聞こえるようになります。
 
 「無色透明」は、
 「プリズム」によって、
 七色の色が、見えるようになります。
 
 それと同じように、
 
 『すべて』から、
 「言葉」によって、
 「すべてのもの」が、できました。
 
 「光あれ。」の言葉によって、
 「光」が、できました。
 
 
 「言葉」とは、
 何でしょうか?
 
 岩波書店『広辞苑』によれば、
 「言葉」とは、
   「人の音声の意味を持っているもの」
 のこと、
 
 つまり、
 「言葉」とは、
 
 『意味』であり、
 『概念』であり、
 『定義』です。
 
 「光あれ。」の言葉によって、
 「光」が、意味付けられ、定義され、
 
 『すべて』のうち、
 「光」に該当するものが、「光」とされました。
 
 これが、
 「こうして、光があった。」の、意味するところです。
 
 こうして、
 「光」が、『できました』。
 「光」が、『生まれました』。
 
 
 と同時に、
 「光あれ。」の言葉によって、
 
 「『光』ならざるもの」が、意味付けられ、定義され、
 
 こうして、
 「『光』ならざるもの」が、『できました』。
 『闇』が、『生まれました』。
 
 
 「光」という『言葉』により、
 「光」と「光ならざるもの(闇)」とが、生まれました。
 
 
 『言葉』により、
 『意味』により、
 『概念』により、
 『定義』により、
 
 「それに該当するもの」が、できました。
 
 
 『すべて』が、
 
 「それに該当するもの」と、
 「それに該当しないもの」とに、
 
 分けられました。
 区切られました。
 隔てられました。
 
 
 それが、
 『できた』『生まれた』
 ということです。
 
 
 『言葉』『名前』
 『意味』『定義』
 『概念』『考え』『価値観』 ...
 
 それらにより、
 『すべて』が、
 
 「それに該当するもの」と、
 「それに該当しないもの」とに、
 分けられました。
 
 
 「善」という言葉によって、
 すべては、
 「善」と「悪」に、分けられ、
 
 そして、はじめて、
 「善」と「悪」が生み出されました。
  
 「正しさ」「正義」という概念によって、
 すべては、
 「正しい」ものと「誤った」ものに分けられ、
 
 そこで、はじめて、
 「正しい」ものと「誤った」ものとが、誕生しました。
 
 「良い」という言葉によって、
 すべては、
 「良い」ものと「悪い」ものに分けられ、
  
 「成功」という言葉によって、
 すべては、
 「成功」と「失敗」に分けられ、
 
 「地球」という言葉によって、
 宇宙は、
 「地球」と、それ以外の宇宙とに分けられ、
 
 「陸」という言葉が生まれ、
 それによって、「地球」は、
 「陸」と「海」とに分けられ、
 
 「人間」という言葉によって、
 「生き物」は、
 「人間」と「動物・植物など」に分けられ、
 
 さらに、
 「人間」は、
 
 「性別」という言葉によって、
 「女」と「男」に分けられ、
 
 「年齢」という言葉によって、
 「子ども」「大人」「高齢者」に分けられ、
 
 「国籍」「人種」という言葉によって、
 「日本人」「黄色人種」などに、分けられました ...
 
 
 このような見方、
 このような認識の仕方、
 このような捉え方、
 
 それが、
 津留さんのいう、
  「私たちは、はじめ、『神さま』だった」
 という、
 見方であり、
 
 そして、それが、
 その見方に沿った、
 『宇宙の誕生』です。
 
 
 この見方によれば、
 『私たち』は、
 
 そもそもは、
 『言葉』の前に存在していたものです。
 
 「はじめに言葉ありき」
 の、
 
 " はじめ " の前に、存在していた『もの』です。
 
 " はじめ " を、『はじめたもの』です。
 
 まず、それが、
  「私たちは、はじめ、『神さま』だった」
 ということの、意味です。
 
 
 そして、
 その、「 " はじめ " を『はじめたもの』」は、
 
 「『すべて』であると、体験できないこと」を、体験するために、
 『すべて』であることを、辞めました。
 
 『言葉』によって、
 自らを、分化すること、分割すること、分裂させることにより、
 
 『すべて』では、なくなりました。
 
 『部分』に、なりました。
 
 それが、
 『言葉』の、
 『意味』の、
 『概念』の、
 『定義』の、
 
 『名前』の、
 『知識』の、
 『情報』の、
 『価値観』の、
 『道徳感』の、
 
 意味であり、役割です。
 
 
 さあ、
 ここで。
 
 もし、
 
 分割を、
 分裂を、
 孤独を、
 対立を、
 止め、
 
 融合を、
 結合を、
 連帯を、
 友好を、
 はじめ、増やすには、
 
 どうしたら、いいのでしょうか?
 
 
 まず、
 「融合」「結合」は、
 
 『成れの果て』では、なく、
 『努力の結果』では、なく、
 
 『そもそもの、元の姿』である、
 ということ。
 
 「分裂」こそが、
 「孤独」こそが、
 「対立」こそが、
 
 『元』では、なく、
 『はじまり』では、なく、
 『そもそも』では、なく、
 
 それらこそが、
 『果て』であり、
 『努力の結果』である、
 ということ。
 
 それを、知ること。
 それを、思い出すこと。
 
 あるいは、
 それを、選択すること、です
 (過去記事「 選択 」)。
 
 
 そして、
 そのうえで、
 
 一つ、一つ、
 『言葉』を、
 『意味』を、
 『概念』を、
 『定義』を、
 無くしていくことです。
 
 『名前』を、『知識』を、『情報』を、
 『価値観』を、『道徳感』を、
 消していくことです。
 
 ただし、
 それは、何も、
 完全に消し去ること、消去すること、を、
 する必要は、なく、
 
 それに、
 囚われないこと、
 
 ただ、
 それだけ、です。
 
 そこから、
 切り離せるようになること、なっていること、
 
 ただ、
 それだけ、です。
 
 
 そのとき、
 「『自分』でないもの」が、無くなります。
 
  自分でないもの
  分からないもの
  ありえないもの
 が、無くなります。
 
 そのとき、
 『自分』が、
 
 元の、そもそもの、『すべて』に、
 戻り、還ります。










2017年12月31日日曜日

2017年 今年も一年ありがとうございました


 今年、2017年も、
 一年間、
 ありがとうございました。
 
 
 この一年も、
 津留さんを通して、
 
 たくさんの方々に、
 お会いすることができ、
 お話を伺うことがました。
 
 とても楽しく、
 そして、
 とても気づき・学びになりました。
 
 また、
 津留さんの商品をご購入くださった、
 ほんとうにたくさんの方々。
 
 みなさんとも、
 メールや商品を介してですが、
 繋がりを感じさせていただくことができ、
 
 また、
 津留さんのメッセージが、浄化という実践手段が、
 今の時代にこそ、また、
 意味を持って、求められているということ、
 
 それを、実感させていただきました。
 
 みなさん、
 ほんとうにありがとうございました。
 
 
 2017年、
 
 個人セッションや、
 交流会・ワークショップ・各地でのイベントを通じて、
 お会いできたみなさんは、
 のべ252名でした。
 
 また、
 個人セッションは、
 こちらに来ていただいた方、各地で受けてくださった方、
 合わせて、のべ125名でした。
 
 これで、
 これまでに、
 私たちの個人セッションを受けてくださった方々は、
 
 のべで、ちょうど、555名となりました。
 
 ほんとうに多くの方々のお手伝いができ、
 多くの方々に、津留さんの遺してくれたものをお伝えでき、
 そして、多くの方々から、お話を伺うことができ、
 
 なによりも、
 こちらが、
 学びとなり、気づきをいただけています。
 
 また、
 純粋に、
 嬉しいこと、楽しいことが、多いです。
 
 ほんとうに、ありがとうございます。
 
 
 個人的なことでいえば、
 
 2017年は、
 2月に、ハワイ島を訪れることができました。
 
 これは、
 感じるところ、想うところ、気づくことが、
 独特で、かつ、大きかったです。
 
 2016年になりますが、
 セドナおよびマウントシャスタを訪れた、
 その流れから、連なり、
 
 視野が広がったところがあったり、
 認識が変わったことがあったり、して、
 
 これからも、
 『生来の旅人』『生粋の旅人』として、
 いろいろな場所を訪問したいと思いました。
 
 
 また、
 2017年は、
 「浄化ワークショップ」を始めました。
 
 裕子さんが、
 「再誕生ワークショップ」を始めました。
 
 今後も、
 これらをブラッシュアップし、
 
 また、
 別の内容にも応用・発展させて、
 
 いままでと、(少し)違ったものも、
 お伝えできれば、と、考えています。
 
 
 そして、
 2018年。
 
 決まっているところでは、
 「うさと展」を始めます。
 
 年に数回の開催とはなりますが、
 これまでとは違った方々にも、お会いできることと、
 楽しみが募っています。
 
 その他にも、
 自然に湧いてくる範囲で、
 新たなことも、始めていくかもしれません。
 
 今年同様、
 また、これまで以上に、
 
 楽しい瞬間を重ねられることを、
 楽しみにしています。
 
 どうぞよろしくお願いします。
 
 
 それでは、
 改めまして、
 みなさん、
 
 2017年、この一年も、
 ありがとうございました。
 
 来る年も、
 どうぞ、よろしくお願いします。
 
 そして、
 どうぞ、よいお年をお迎えください。
 
 
  ひで









2017年12月29日金曜日

選択


 今年2月に、ハワイ島を訪れて、
 そしてはじめて、
 こころから納得できたことがあります。
 
 
 ハワイ島では、
 文字通り、
 大地が生まれていました。
 
 粘度の高い溶岩が噴き出し、
 海へ流れ出したものは、新たな陸地を生み出し、
 陸上に留まったものは、新たな表層を形成していました。

海に流れ込む溶岩

 それら、「新たに生まれた大地」は、
 漆黒の、固く、荒々しい、「岩」です。
 
 何年・何十年もの間、
 そのままの形状・形態のままに留まり、
 
 生物たちが近づき、居住することを、
 無慈悲なまでに、拒絶し続けます。
 
 
 しかし、やがて、
 そんな岩肌に、
 根を張り、生活を始めるものが現れます。
 
 細長い単葉の草たち、
 あるいは、シダ類、
 
 そして、今回、
 僕が目にして、心奪われ、感銘したのは、
 オヒア( Ohia )でした。
 
キラウエア火山火口(ハレマウマウ)で目にしたオヒアと、その花レフア

 
 ニュージーランドで、この初夏の時期に咲き誇り、
 地元の人々にとって、シンボルとも言える樹、
 ポフタカワ( Pohutukawa )と、親戚関係にあり、
 
 そんなことからも、
 はじめて目にした時から、
 とても親しみを感じた、オヒア。
 
 そんなオヒアが、
 レフア( Lehua )と名前の付けられた赤い花を携えて、
 
 漆黒の固い溶岩の上に、
 ひとり、ひっそりと、しかし健気に、
 たたずむ姿を、
 
 幾箇所かで、目にしました。
 
 
 さて、
 そんな、岩の上に根を張り、生を営み、
 
 やがて、その命を終え、サイクルを終え、
 その身体を横たえ、枯れ、朽ちていくと、
 
 続いて、
 その状態になって初めて、
 その場に、根を張り、生きることができる種類の植物たちが、
 そこで、生活を始めます。
 
 固い岩肌には、直接・いきなりは、住めないが、
 しかし、シダやオヒアなどの、第一世代が暮らした後ならば、
 
 彼らによって、岩肌を少し崩し・細かくされ、
 そして、彼らの根や幹・葉などの有機物が堆積された後ならば、
 
 その状態ならば、暮らせる植物たちが、
 次に、そこに生えます。
 
 そして、その彼らが、生涯を終えた後には、
 その状態になって初めて、暮らせる植物たちが、
 続いて、そこで生活を始めます。
 
 そんな変遷を、繰り返し、
 そんな連携を、紡ぎ、重ねることによって、
 岩が、土へと、変わって行きます。
 
 土壌が肥え、
 やがて、多種多様な植物が暮らせる土地になっていきます。
 
 実際、ハワイ島でも、
 降雨量の多い地域には、
 「ジャングル」とは行かないまでも、
 数種の樹木が密生しているような、
 緑豊かな、緑深い地域も、存在しています。
 
 そこでは、
 そのような、植物たちによる、
 「命の連携」が、
 脈々と、連綿と、繰り返され、
 
 その結果として、
 そのような環境が生み出されきたのです。
 
 
 さて、冒頭に申した、
 今回、はじめて、こころから納得し、理解したこと、
 というのは、
 
  その、「命の連携」によって、
  土壌が作られ、緑豊かになっていく
 という、
 「その部分」では、ありません。
 
 そのことも、含まれているのですが、
 それらを含めた上で、
 
  「その連携」が、
  『自然と』、営まれ、紡ぎ出されている
  
 という部分です。
 
 その連携が、
 誰かに命じられ、あるいは誰かに操作されて、
 なされているわけではなく、
 
 その植物、その植物、それぞれが、
 ただ、自分が生きることができる場所・環境で、
 ただ、生きると、
 
 それが、意図したわけではない結果として、
 自然と、続く種族のための環境を作り上げることになる、
 
 という部分です。
 
 その結果、
 地球表面が、進展し、豊かになり、
 数多くの種類の植物が、
 その結果、数多くの種類の生物・動物たちが、
 地表で、生きていけるようになる、
 
 という部分です。
 
 それが、
 『自然と』、
 行われているということ。
 
 その部分です。
 
 
 つまり、
 
  地球は、
  それぞれの生物が、ただ、生きていると、
  自然と、勝手に、豊かになっていくのだ
 ということ。
 
  生物たちは、その連なりとして、連携して、
  自然と、地球を豊かにしているのだ
 ということ。
 
 そのことです。
 
 
  「いやいや!
   この世は、『弱肉強食』だろ。
   生物たちは、捕食・被捕食関係にあって、
   それぞれ、利害が対立した関係だろ」
 
 先の話をお読みになられて、
 そう、お思いになられた方も、
 多数、いらっしゃることと思います。
 
  虫は、植物を食べ、
  鳥は、虫を食べ、
  草食動物も、植物を食べ、
  そして、肉食動物は、草食動物を食べる ...
 
  この世は、地球上は、
  強いもの・賢いものが、より弱いもの・愚かなものを、
  食べる・搾取する世界だ。
 
 たしかに、
 そう、見ることもできます。
 
 そして、
 その見方からすると、
 
 地上は、この世は、
  「殺し合い」「奪い合い」「競争」「努力」「生き残り」
 の世界です。
 
 
 一方、
 今回、僕が納得した見方では、
 
 では、
  それらの行為については、どのように見るのか
 というと、
 
 たとえば、
 「虫が、植物を食べる」のは、
 
 たとえば、
 植物の身体の部分の、「腐敗」してしまった部分を、
 虫が、食べてあげることによって、
 
 むしろ、
 植物の活動状態(健康状態)を維持・回復させてあげている、
 
 あるいは、
 草食動物が、腐敗した植物を食べないで済むようにしている、
 
 と、捉えます。
 
 
 あるいは、
 「草食動物が、植物を食べる」行為は、
 
 草食動物が、植物を食べ、消化し、
 糞・尿に変換することで、
 
 植物の推移によるだけの進展よりも、
 より早く、より効率的に、
 土壌の進化を進めることができる、
 
 と、捉え、
 
 また、
 「肉食動物が、草食動物を食べる」行為については、
 
 草食動物が、植物を食べ過ぎてしまい、植物が減り過ぎてしまい、
 かえって、土壌の進展が遅くなってしまうことを、防ぐとともに、
 
 草食動物の肉体を、食べ、消化し、
 より早く、より効率的に、
 土壌へと戻し、土壌を進展させるため、
 
 と、捉えます
 (肉食動物には、生きている動物を食べるものと、死体を食べるものと、居ます)。
 
 
 また、
 実際のところ、
 「弱肉強食」的な見方においても、
 
 たとえば、蝶や蜂といった虫たちが、
 植物の花の蜜を吸うという行為は、
 
 その行為の結果、
 植物たちの受粉が行われ、促され、
 その結果、結実し、
 その結果、当該植物の子孫が生まれ、世代が繋がる、
 
 と、
 捉えられていると思います。
 
 それぞれが、ただ、そのまま、生きることが、
 (ケースによっては、「長い目で見たときに、はじめて」ではありますが)
 それぞれが、それぞれを、助け合うことになり、
 
 それによって、すべての存在が、連携して、
 地上・地球という全体を、より豊かにする方向に進めている、
 
 と、
 認識されているものと思います。
 
 
 ですが、 
 いずれにせよ、
 
 このような見方においては、
 
 地上は、この世は、
  「共存」「共栄」「連携」「輝き合い」「そのまま」「循環・進展(における部分)」
 の世界です。
 
 
 さて。
 
 前振りが長くなりました、いつもながら ^^; ...
 
 この記事で、お伝えしたいことは、
 このあとの部分です。
 
  「それなら、
   『弱肉強食』と、『進展促進連携』と、
   どっちが正しい?」
 
 そう、思われませんでしたか?
 
  「正しい方を、知りたい」
 
 と、思われましたか?
 
 あるいは、
 
  「いや、そう言われたところで、
   『弱肉強食』としか、『生き残り』としか、
   思えないんだけど、
   じゃぁ、どうしたらいいんだ?
   それでいいの?」
 
 そう、思われませんでしたか?
  
 
 私たちは、「正しさ」を求めます。
 
 しかも、それを、『外側』に、求めます。
 
 しかし、
 今、この世には、
 
  「この世は、『弱肉強食』『生き残り』の世界だ」
 と思って生きている人もいれば、
 
  「この世は、自然に『連携』して『より豊かにしている』世界だ」
 と、思っている人もいるわけです。
 
 どちらの人も、
 この地球で、同じときに、生きているわけです。
 
  「どちらかの考え方をとらなければ、
   死んでしまい、生きていられない」
 というわけではありません。
 
 だからこそ、両者が居るわけです。
 
 
 500年ほど前まで、
 私たちは、
 「地球の周りを、太陽が動いている」
 と認識して、
 
 生きていました。
 
 それで、
 生きていてることができました。
 
 それで、
 何も、問題はありませんでした。
 
 今、そのように認識している人は、
 おそらく、ほとんど、居ないと思いますが、
 
 しかし、
 当時(それ以前)の人々は、
 
 そう、認識していることで、
 何も問題なく、生きていました。
 
 
 あるいは、
 「地球は平面だ」と、
 そう、認識して、
 
 そのうえで、
 何も問題なく、生きていました。

 
  「地球のほうこそが、動いているのだ」と、
  「地球は、球体・球面だ」と、
 そう、認識しないと、
 生きていられないわけでは、ありません。
 
 
 また、
 今の、この、
  「地球のほうこそが、動いているのだ」
  「地球は、球体・球面だ」
 という認識にしたところで、
 
 それが『正しい』のかどうか、分かりませんよね。
 
 たとえば、
  「すべては、映像だ、ホログラフィだ」
 という認識が、
 正しいとされ、一般化されたときには、
 
 今の認識は、
 前近代の、旧い、誤った認識であると、
 みなが、鼻で笑うことでしょう。
 
 
 ただ、
  「太陽が廻っている」
 と認識するのと、
 
  「地球が廻っている」
 と認識するのとでは、
 
 体験する事柄が、違います。
 
 同様に、
 
  「弱肉強食の地球」
 という認識を持って生きるのと、
 
  「進展促進連携の地球」
 という認識を持って生きるのとでは、
 
 体験する事柄は、違います。
 
 体験し、感じる、感情・感覚は、違います。
 
 ただ、
 それは、
  「どちらが、正しいか?」
 の問題ではありません。
 
  「どちらを、自分は、選択するのか?」
 の、問題です。
 
 
 ぜひ、ここで、
 改めて、
 津留さんのメッセージ集の「 選択 」を読んでみてください。
 
 
  「想っているとおりを、体験する」
 のだとしたら、
 
 私たちは、
 
  外の世界にある、客観的事実としての「正しいこと」
 を、
 体験するのではなく、
 
  自分の内側で、「正しい」としたこと
 を、
 体験するのです。
 
  自分が、自分の内側で、「正しい」とラベルを貼ったこと
 を、
 体験するのです。
 
 であれば、
 津留さんが言っているとおりに、
 
 どうぞ、
  「あなたにとって都合のいい考え方を選び取ってみて」
 ください。 
 
 
 あと数日で、
 2017年が終わります。
 
 来る年からは、
 もう、「正しさ」「正解」を探すことは、
 ご一緒に、終わりにしませんか?
 
 私たちは、
 もう、充分に、十二分に、
 『正しさゲーム』を、体験したのではないでしょうか?
 
 
 『正しさゲーム』は、
 奥の深い、ゴールの無い、
 極めて『面白い』『複雑な』ゲームです。
 
 それによってしか味わえない体験・感覚に満ちた、
 極めて『魅力的』なゲームです。
 
 しかも、
 それを(基本的に)参加者全員で体験する、
 ということを、行ってきました。
 
 それでこそ、はじめて、体験できること、味わえることを、
 味わうことが、できてきました。
 
 それは、
 私たち全員(集合意識としての人間)にとっては、
 極めて『魅力的』で、
 
 恋い焦がれて、渇望した果てに、
 望んで、体験して来たことです。
 
 そのことは、認めます。
 
 
 ですが、それらは、
 もう、散々に、味わってきました。
 
 よね?
 
 
 もし、そう思われる方は、
 そう思われた方から、
 ご一緒に、
 
 今度は、
 『選択ゲーム』を、プレーしませんか?
 
 攻略法や、コツ・ポイントなどは、
 ぜひ、シェアし合いましょう!
 
 
 そんな2018年にしていこうと、
 僕は、思っています。












2017年12月22日金曜日

季節外れの、宿敵来訪


 夜中。
 
 突然の違和感に、目を覚ましました。
 場所としては、右頬に、それは在りました。
 
 夢うつつの中で、その違和感を、感じてみます。
 
 その感覚は、
 非常にゆっくりと、少しずつ、明確な感覚に変わっていきましたが、
 それでも、それが「何」の感覚かのか、なかなか、探り当たりません。
 
 というのも、
 とにかく分かるのが、
 「最近感じていない」感覚であり、
 かつ、「睡眠中に感じることの無い」感覚である、
 ということ。
 
 そのまま、意識を向け続けると、
 ようやく、
 「もしや?」という案が、一つ、出てきました。
 
 自分で出しておきながら、
 しかし、あまりにも唐突な、その案に、
 訝(いぶか)しげに、指を、違和感の在る場所に運びます。
 
  「え? やっぱり ... 」
 
 脹(ふく)れたその箇所を触りながら、
 自ら出した案を受け入れるべきなのだなと、思っているとき、
 
 右耳に、その思いを確信させる、
 聞き慣れた音が、届きました。
 
  「ブ〜〜ン」
 
 蚊でした。
 
 
 明かりをつけます。
 
 時計は、1時50分を指しています。
 
  「あ、ほぼ冬至だ」
 
 まだ、虚(うつ)ろな頭ながら、
 記憶が一つ、あがりました。
 
 東京の冬至時刻は、1時28分だと、
 昼間に、見ていました。
 
  「冬至に、蚊に刺された」
 
 だんだんと、はっきりとしてきた痒(かゆ)みに、
 頬を指で摩(さす)りながら、
 
 その、奇妙な出来事を、
 人生で初めての体験を、
 その感覚を、
 
 半ば呆(あき)れ、
 半ば笑いながら、
 味わい、受け入れていました。
 
 
 その後、
 蚊は、
 
 布団の、ピッタリ目の前の場所に止まり、
 僕に、姿を確認させてくれました。
 
 蚊に刺されたことは、
 間違いありませんでした。
 
 
 このブログをお読みくださっている方は、
 ご存知だと思いますが、
 
 僕にとって、
 蚊は、
 
 とてつもなく、強大・強烈な、存在感を有していて、
 そして、極めて重要な、「浄化対象」です
 
 (よろしければ、過去記事「 」「 蚊、再び 」をお読みください)
 (また、津留さんが、蚊について言っていたことについては、
  過去記事「 蚊とか蜂とか 」をお読みください)。
 
 その、蚊が、
 「冬」という季節の、最重要な節目である、
 「冬至」に現れ、
 
 そして、
 刺してきた。
 
 
  「僕にとって、『蚊』とは、何なのか?」
  「なぜ、そこまで、『蚊』が嫌なのか? 嫌いなのか?」
 
 徐々に明確になって来た、
 意識の中で、
 
 改めて、その設問を、
 自分の中に、深〜く、落としました。
 
 
 得られた答えは、
 気づいてみれば、
 僕にとって、明白なものでした。
 
  「『迷惑』な存在だから」
 
 
  迷惑なこと。
  迷惑・負担をかけること。
  自分勝手なこと。
  わがままなこと。
 
 
 やはり、
 僕が、大嫌いな事柄です。
 
 それをする、外側の存在を、
 好みませんし、
 
 自分が、それをすることは、
 なおさら、認めていません。
 許していません。
 
 
  「その想いを、今後も、持ち続けていくのか?」
 
 自分で、自分に、問わざるを得ませんでした。
 
 
  「いいや、もういいんじゃない?」
 
 答えは、
 当然のように、すんなりと、出てきました。
 
 
 新年は、
 ここに、向き合うことになりそうです。











2017年12月21日木曜日

「自信がない」とは 2


 先日、
 「自信がない」ということについて、書きました
 (過去記事「 「自信がない」とは 」)。
 
 そこでは、
 
  「自信がない」とは、
  
  「自分の感情(感情体・内側)」が、
  「自分(の行動判断主体)」に対して有している、
   不信感。
 
 と、書きました。
 
 今回は、
 その補足、と言うか、
 少し、書き加えさせていただきます。
 
 
 私たちには、誰しも、
 内側に湧き上がる「想い」とか、「感情」が、
 ありますよね。
 
  「あぁ、これ、やってみたいなぁ」
  「今は、これ、やりたくないなぁ」
  「あぁ、怖いよぉ」
  「ダメだよ、できないよ!」
 
 自然と湧いてくる「本音」など、
 自分の中の、
 「とても素直な反応」の部分です。
 
 その、「素直な反応」に対して、
 
  「それを監視する」
  「それに意見する」
  「それを律する」
  「そして、行動を決める」
 
 主体であるような、
 そんな存在も、居ますよね。
 
  「そんなことを『やってみたい』なんて、夢みたいなことを言うな」
  「それを『やりたくない』なんて、甘えたこと言うな」
  「『怖い』なんて、それでも大人か!」
  「『できない』なんて、言ってられないんだ。 さあ、やれ!」
 
 そう、自分を監視し、自分を律し、
 そして、判断・決定を下し、
 そして、自分自身を行動させる、
 
 そんな主体である存在も、居ますよね。
 
 
 以下では、
 前者の、想い、感情、本音、素直な反応の部分を、
 『感情』と、
 
 それに対する、後者の、
 監視し、律し、判断・決定し、行動する部分を、
 『意思』と、
 
 そう、呼んでみましょう。
 
 
 さて、
  「自信がない ... 」
 そんな感覚を感じるシチュエーションというのは、
 
  「何かをしよう!」「しなきゃ」「するべき」「できるといいな」
 そう、思うんだけれど、
 
 でも、
  「うまくできるかなぁ ... 」「不安 ... 」「心配 ... 」
 と感じる、
 
 その結果、行動できない、
 あるいは、行動できたとしても、ビクビクしながら、
 
 そんな状況ですよね。
 
 それは、
 先の言葉を使えば、
 
  「自分の『意思』」が、
  「しよう!」「するべき」と、思うんだけど、
 
  「自分の『感情』」が、
  「不安 ... 」「心配 ... 」と、感じている
 
 その結果、
  行動できない。
 あるいは、
  行動できたとしても、不安・心配なまま。
 という状況、
 
 と、言えると思います。
 
 
 『意思』が、
 「しよう!」と思ったとき、
 
 『感情』が、
 「やってみたい」と感じていたら、
 
 そのときには、
 「自信がある」と、感じていると思います。
 
 いえ、
 この状況だと、
 
 まず先に、
 『感情』が、
 「やってみたい」と感じて、
 
 それに対して、
 『意思』も、
 「OK! よし、やってみよう」と、思っている、判断している、
 
 基本的には、
 そんな状況だと、思いますが、
 
 いずれにせよ、
 そんなときには、
 『総体としての自分』は、
 「自信がある」と、感じていると思います。
 
 この状況は、
 ほとんどの人にとって、
 「自信がある」と、感じられているシチュエーションでしょうから、
 問題ありませんよね。
 
 
 問題なのは、
 というか、
 ここで話題としているのは、
 
 『意思』が、
 「しよう!」と思ったとき、
 
 『感情』が、
 「いやだ」「できない」「不安 ... 」「心配 ... 」と感じているけれども、
 
 でも、
 それでも、行動できるかどうか。
 
 あるいは、
 そんなときにでも、
  「いや、でも、大丈夫」
  「どうにかなるはず」
  「とにかく、やってみよう」
 と、
 思えるかどうか、
 感じられるかどうか、
 
 だと、思います。
 
 そこが、
 ポイントですよね。
 
 そして、
 そう、思えることを、
  「自信がある」
 と、言っていて、
 
 そう、思えないことを、
  「自信がない」
 と、呼んでいるのだと思います。
 
 
 では、
 そのような状況で、
 そう、思えるのか、思えないのか、
 
 その二つを、
 分けているものは、何なのでしょうか?
 
 違いは、何なのでしょうか?
 
 
 それには、
 二つ、あると思います。
 
 
 まず一つは、
  「いやだ」「できない」「不安 ... 」「心配 ... 」
 と感じる、
 
 その、『感情』の、
 大きさ、重さ、強さ、多さ、量。
 
 それが、多ければ、大きければ、強ければ、
 やはり、なかなか、
  「でも、大丈夫」
  「やってみよう」
 とは、
 ならない、なりにくい、と思います。
 
 これは、
 分かりやすいですよね。
 
 これは、
 すでに、認識、ご自覚なさっていると思います。
 
 そして、
  「だから、どうにもできない」
 と、
 お思いかもしれません。
 
 ですが、
 この場合には、
 どうぞ、その『感情』の感覚を、
 浄化なさってください。
 
 そうすれば、
 少しずつ、ゆっくり、だとは、思いますが、
 その、大きさ・重さ・強さ・量は、
 減ってくると思います。
 
 今回は、
 ここがポイントではないですし、
 
 このことは、
 浄化をご存知であれば、
 お分かりいただけやすいことだと思うので、
 
 ここでは、以上で終わりとし、
 以下は割愛させていただきます。
 
 
 問題は、
 もう一つのほうです。
 
 『感情』の感じている、不安や心配の、
 その強さや量のことは、置いておいて、
 
 『感情』で、心配や不安を感じていながら、
 でも、それにもかかわらず、
 「やろう」と、思えているとき。
 
 つまり、
 「自信がある」と感じられているとき。
 
 そうなっているとき、
 あるいは、
 そうなっている「人」の場合、
 
 そこでは、
 何が起こっているのでしょうか?
 
 
 結論を先に言えば、
 そのとき、起きているのは、
 
  「やろう」という『意思』に対して、
  
  「やりたくない」「不安」という『感情』が、
 
  歩み寄っている、
  妥協している、
  あるいは、協力してくれている
 
 ということです。
 
 「やろう」という『意思』に対して、
 
 『感情』は、
 
  「やりたくない」「不安」
 と、
 感じたものの、
 
  「でも、大丈夫かも」「やってみようか」
 と、
 
 『意思』側に、
 歩み寄ってくれている、協力してくれている、
 そんな状態です。
 
 
 「自信がない」ときには、
 
 『感情』が、歩み寄ってくれません。
 『感情』が、協力してくれません。
 
 だから、
 『意思』の、「やろう」という想いが、
 孤立してしまっています。
 
 それこそが、
 「自信がない」の感覚です。
 
 
 それに対して、
 「自信がある」ときには、
 
 『感情』は、
 最初、自然な、本音としての反応としては、
 「怖い」「嫌だ」と感じていますが、
 
 しかし、その後、
 自分の想いは、置いておいて、
 『意思』の想いを尊重し、
 
 『意思』の方側に、歩み寄り、
 『意思』の想い実現のために、協力をしようとしてくれているのです。
 
 それが、
  「でも、大丈夫かも」「やってみようか」
 という、
 『感情』の、想いです。
 
 その結果、
 『意思』の、「やろう」という想いが、
 孤立していません。
 
 『感情』が、サポートに付いてくれているからです。
 『感情』が、バックアップしてくれているからです。
 
 それが、
 「自信がある」という感覚です。
 
 
 では、
 
 『感情』が、歩み寄り、協力してくれる、
 「自信がある」場合と、
 
 『感情』が、歩み寄ってくれず、協力してくれず、
 「自信がない」場合と、
 
 では、
 何が違うのでしょうか?
 
 どうして、
 『感情』が、歩み寄り、協力してくれる場合、というか、「人」と、
 歩み寄ってくれない、協力してくれない、「自信がない」人とが、
 居るのでしょうか?
 
 その違いは、何なのでしょうか?
 
 
 それは、
 先の記事で書いたとおり、
 
  普段、日ごろ、
  『意思』が、『感情』を、
  無視せずに、否定せずに、ちゃんと、扱っているか
  
  あるいは、
  否定し、無視し、無かったことにしているのか
  
 の、違いです。
 
 この、
  「普段における、『意思』の、『感情』に対する、扱い・接し方」
 が、
 違いです。
 
 
 普段、『感情』は、
 さまざまなことを、感じています。
 
 その中には、
 もちろん、ポジティヴな感情・感覚を感じることもあれば、
 
 あるいは、
 ネガティヴな感情を感じることもあります。
 
 例えば、
 そんな 、ネガティヴな感情を感じたとき、
 
 最初に書いた例であれば、
  「今は、これ、やりたくないなぁ」
  「あぁ、怖いよぉ」
  「ダメだよ、できないよ!」
 などの、
 感情・感覚を感じたとき、
 
 そんなとき、
 『意思』が、
 
  「それを『やりたくない』なんて、甘えたこと言うな」
  「『怖い』なんて、それでも大人か!」
  「『できない』なんて、言ってられないんだ。 さあ、やれ!」
 と、
 強烈に、否定していたり、ダメ出ししていたり、
 
 そのうえに、
 その『感情』を無視して、行動を強要していたり、
 
 普段、日ごろ、これまで、
 そのように、扱っていると、
 
 『感情』は、
 『意思』に対して、
 信頼感を持っていません。
 
  「自分のことを、尊重してくれない」
  「自分のことを、否定している」
  「自分のことを、無視する」
 と、
 
 『感情』は、
 『意思』に対して、
 不信感を持っています。
 
  「そのうえに、『自分の想い』に反した行動を、強要される」
  「無理やりに、支配してくる、管理してくる、コントロールしてくる」
 と、
 
 『感情』は、
 『意思』に対して、
 反発心を持っています。
 
 「敵意」すら、持っているかもしれません。
 
 
 そんな状況で、
 『感情』が、
 『意思』に、
 
 「歩み寄ろう、協力しよう」とは、
 思わないですよね。 
 
 
 ネガティヴな感情だけでなく、
 ポジティヴな感情であっても、
 
 最初の例であれば、
  「あぁ、これ、やってみたいなぁ」
 というような、
 想いであっても、
 
  「そんなことを『やってみたい』なんて、夢みたいなことを言うな」
 と、
 
 『意思』は、
 『感情』の想いを、否定し、拒否し、無視します。
 
 
 そんなことを、積み重ねられて来た、
 『感情』たちが、
 
 『意思』に協力せず、
 ときに、反発したとしても、
 不思議ではない、ですよね。
 
 
 また、
 先ほど、「『自信がない』理由の一つ目」として、区別した、
 「『感情』が大きすぎる、強すぎる」ケースも、
 
 『意思』が、
 
  「そんな感情を、感じてはいけない。 感じていては、いけない」
  「そんな『自分』では、いけない」
 と、
 
 『感情』のことを、
 否定し、無かったことにして来たからこそ、
 
 それだけ、大きく、強く、重く、
 溜まっているわけですね。
 
 
 つまり、
 「自信がない」理由は、
 
  『意思』が、
  『感情』を、
 
  否定し、無視し、無かったことにしている。
  (そのうえで、強要・支配・コントロールしている。)
 
 だから、
 ということになります。
 
 
 なので、
 
 「自信がない」から脱却するためには、
 「自信がある」に近づくためには、
 
 その反対をすること。
 
 つまり、
 
  『感情』を、
   否定しない
   無視しない
   無かったことにしない
   強要しない
   支配しない
 
 ということになります。
 
  『感情』に、
   寄り添う
   認める
   受け入れる
   理解する
 
 ということになります。
 
 『意思』が、何かをする、という場合であれば、
 
  「支配・コントロールし、命令し、強要する」
 のではなく、
 
  「理解・納得してもらい、協力してもらう」
 のです。
 
 
 日ごろから、
 『感情』が、何かを想い、感じたら、
 
 それを、
 頭ごなしに否定したり、
 無視し、無かったことにする、のではなく、
 
 ちゃんと、
 その「存在」に気づき、認め、認識し、
 
 その想うところ、感じるところを、
 理解してあげ、寄り添い、分かってあげること。
 
 そのうえで、
 それに対して、
 『意思』側の想いを、感じるところを、
 きちんと、伝えてあげること。
 
 「認める」「受け入れる」といっても、
 盲目的に従う、というわけではありません。
 
 しかし、かといって、
 頭ごなしに否定したり、無視する、というわけでもありません。 
 
 また、
 「伝える」といっても、
 従わせるため、命令するために、伝えるわけではなく、
 
 尊重し、敬意を払い、
 対等な関係として、認め合う、
 
 その関係を構築するために、
 『意思』側も、その想いを、ただ、伝えるのです。
 
 
 こうしていることによって、
 両者の信頼関係が構築されていれば、
 
 『感情』は、
 『意思』の想いに、
 歩み寄り、協力するケースが、出てきます。
 増えていきます。
 
 もちろん、
 「すべてのケースでそうする」ということは、無いでしょうが、
 
 歩み寄り、協力するケースが、
 増えていきます。
 
 「自信がない」感覚が減り、
 「自信がある」感覚が、増えていきます。
 
 
 そのとき、
 『意思』と『感情』が、
 分離していません。
 
 それらが、
 「共同体」として、融合しています。
 
 
 「自信がない」とき、
 「『意思』が孤立している」と、言いました。
 
 『意思』が分離し、孤立しているのです。
 
 いわば、
 『自分』が分裂し、
 『自分』が、小さくなっているのです。
 
 「『総体としての自分』が小さい」から、
 「自信がない」と感じられるのです。
 
 つまり、
 「自信がない」とは、
 
  「『総体としての自分』が小さい」こと
  「『総体としての自分』が小さい」ときに感じる感覚
 
 とも、
 表現できます。
 
 
 逆に、
 「自信がある」とは、
 
 『自分』の分裂が、少ないこと、小さいこと、
 その結果、
 「『総体としての自分』が大きい」こと(「『自分』が小さくない」こと)、
 「『総体としての自分』が大きい」(「『自分』が小さくない」)ときに感じる感覚
 
 と、
 言うことができます。
 
 
  どんなに弱い自分が居ても、
  どんなにネガティヴな自分が居ても、
 
  それを無視せず、
  その存在を、きちんと認め、
  その想いを、声を、聞いてあげ、分かってあげ、
 
  そのうえで、
  できうる行動を、日々、とること。
 
 
 「自信がある人」というのは、
 
 弱い自分を無視し、振り払い、
 強引に、行動している人、
 ではなく、
 
 おそらく、
 そんな行動を、自然と、できている人、
 なのだと、思います。











2017年12月8日金曜日

「ゲーム」を選択する


  「あぁ、その『ゲーム』、してないなぁ」
 
 あるとき、
 内側で、そう、つぶやいていたことがあります。
 
 
 その日は、
 昼どきに、街中に居ました。
 
 人ごみの中を、ゆっくりと、歩いていると、
 背後に、かなり大きめな声でやり取りをしている、
 女性グループが、近づいてきました。
 
 会話の内容を把握できるくらいに、近づいてきたとき、
 最初に認識できたのは、
 こんなやり取りでした。
 
  「いやぁ、でも、それは、カロリー高すぎない?」
  「そうねぇ。 じゃぁ、何にするぅ?」
 
 おそらく、
 これからする、ランチを、
 何にするか、話し合っていたのでしょう。
 
 聞こえませんでしたが、
 何らかの案が提示され、
 
  それだと、「カロリーが高すぎる」から、
  それにすると、「太ってしまう」から、
  なので、別のものにしよう
 
 そのようなやり取りを、していたもの、
 と、理解しました。
 
 
 僕は、
 学生時代に、かなり太っていた時期があり、
 
 それゆえに、
 青春時代から、青年時代を 通じて、
 そのことには、人一倍、敏感で、過敏で、
 
 「体型」「カロリー」という項目は、
 そのころの僕にとっては、
 最重要項目の一つ、でした。
 
 なので、
 彼女たちが、食事にあたって、
  「カロリーが、高いか、低いか」
  「太りやすいか、どうか」
 を基準とする気持ちは、
 よ〜く分かります。
 
 
 ですが、
 押しも押されぬ「おじさん期」に入り、
 
  食べても、さほど、太らない
  いえ、そもそも、もう、さほど食べられない
  いえいえ、そもそも、もう、太ったところで、気にならない
 
 という状況になり ^^; 、
 
  「太るかどうか」「体型」
  「カロリーが、高いか低いか」「カロリー」
 
 という観念・項目、そのものが、
 気になる事項としては、
 自分の中に、反応を起こす事項としては、
 もう、存在していません。
 
 
 もちろん、
 僕と同年代や、僕より高齢の方でも、
 「体型」や「カロリー」のことを、
 気にされている方は、いらっしゃると思います。
 
 ですので、
 僕の場合には、
 
  「それらのことを気にする」という体験を、
  さんざん、やり尽くした
 ということ、
 
 そして、
  その、やり尽くしたことを通じて、
  それらのことが、ニュートラルになった、フラットになった
 
 ということのだと、思います。
 
 つまり、
 
  実体験を通じて、
  それらを、体験し尽くした
 ということ。
 
  そして、そのような体験を通じて、
  それらのことが、浄化できた
 ということ。
 
 なのだと思います。
 
 
 津留さんは、
  「地球人間ゲーム」
 という表現を、とりました
 (覚醒進化プログラム「 人生はゲームである 」)。
 
 私たちは、人間として生きている間、
 「人間を体験する」ゲームをしている、
 という見方です。
 
 遊びとして、ゲームとして、楽しみとして、
 人間をしている、という考え方です。
 
 その見解においては、
 私たちは、
  「地球という場において、人間をしている」
 という部分においては、
 共通のゲームをしています。
 
 『スーパーマリオ』ゲームにおいて、
 みなが、「スーパーマリオとして、ピーチ姫を助ける」
 という部分と、同じように。
 
 
 ですが、
 同じ、『スーパーマリオ』ゲームをしていても、
 
 ある人は、
  「どれだけ早く、クリアーできるか」
 を、目標にしていたり、
 
 あるいは、ある人は、
  「どれだけ高得点をあげて、ゴールするか」
 を、競っていたり、
 
 また、ある人は、
  「一度も死なずに、ゴールすること」
 を、目指していたり、
 
 同じゲームをプレイしていても、
 人、それぞれに、
 「副次目的」と言いましょうか、
 「付加的目的」と言いましょうか、
 
 共通項である「主目的」とは違う、
 別の目標を持っている場合があります。
 
 
 そうすると、
 その、付加的な目的次第で、
 プレーの仕方が、気にする項目・内容が、違い、
 
 同じゲームながら、
 違うゲームをしているように、
 楽しむことができます。
 
 さらに、
 人によっては、そもそも、
 「ピーチ姫を助ける」という共通項・主目的を、
 端(はな)から、念頭に置いていなかったりも、すると、
 
 「同じゲーム」とは、言えないくらいに、
 それぞれに、独自の、
 楽しみ方をすることができます。
 
 
 先の、
 津留さんのメッセージでは、
 「将棋」を事例にして、
 
  「制限・制約を、自ら、わざわざ、持つことによって、
   ゲームを、面白くし、楽しんでいる」
 
 と、書かれていますが、
 
 同じように、
 『スーパーマリオ』ゲームの例では、
 
  「目的を、自ら、わざわざ、付加することで、
   ゲームを、さらに面白くし、楽しんでいる」
 
 と、言えると思います。
 
 制限や、制約事項、付加目的を、持つことで、
  「できないこと」「してはいけないこと」
  「すべきこと」「しなければいけないこと」
 が、生まれ、
 
 それらが、増えれば増えるほど、
 ゲームは、複雑さを増し、
 同時に、面白さも増えます。
 
 
 ところが、
 その『面白さ』は、
 その、『複雑さ』から、生み出されており、
 その、『難しさ』から、生み出されています。
 
 『複雑さ』が、増せば増すほど、
 『難しさ』が、増し、
 
 それを、「望んでプレーしている」という意識からは、
 『面白さ』も、増し、
 
 加えて、
 「それをクリアーできたとき」の『面白さ』、喜びも、
 激増します。
 
 
 ところが、
 この、『地球人間ゲーム』においては、
 
 このゲームを、
 「自ら、望んでプレーしている」んだ、という認識は、
 そもそも、ありません。
 
 これが、『ゲーム』なんだ、という認識も、
 ありません。
 
 そうなると、
 そこにあるのは、
 単に、『難しさ』であり、
 単に、『複雑さ』です。
 
 「クリアーできたときの『面白さ』」を、
 純粋に、そして、積極的に、
 味わっている人達も、確かに、居ますが、
 
 『面白さ』も、喜びも、感じることができず、
 ただただ、『難しさ』に、『複雑さ』に、
 埋没してしまっている方々も、
 多数、存在します。
 
 
 そんなとき、
 まず、役に立つのが、
 
  「そういう『ゲーム』をしているんだ」
 という観念を、見地を、
 一度、試しに、持ってみることです。
 
 もし、それに続いて、
  「しかも、それは、『自ら望んで』、しているんだ」
 と、思えてしまったなら、
 さらに、話は早いのですが、
 
 そこは、置いておいたとしても、
 
  「だったら、自分は、『どんなゲーム』をしているんだ?」
 と、
 自分がプレーしているゲームを、
 明確化・特定化していくことです。
 
  『目的』としていること
  『制限・制約』としていること
  「できないこと」「してはいけないこと」
  「すべきこと」「しなければいけないこと」
 
 自分の中には、それらに関して、どのようなものがあるか、を、
 一つずつ、チェックし、
 一つずつ、気づいてあげることです。
 
 
 無自覚に、無意識に、
 プレーしているゲームを、
 参加しているゲームを、
 
 一つずつ、特定していくことです。
 
 それによって、
 すこしずつ、混乱が減り、
 すこしずつ、複雑さが減り、
 すこしずつ、はっきりしてくること、スッキリしてくることがあります。
 
 そして、そのうえで、
 
  「自分は、それをプレーする必要があるのか?」
  「自分は、そこに参加したいのか?」
  「自分は、このゲームを続けたいのか?」
 と、
 
 一つひとつの、ゲームについて、
 その参加を、継続を、中止を、
 検討・検証することです。
 
 これまでは、
 無自覚に、無意識のうちに、
 参加し、プレーしていたゲームだけれど、
 
 でも、明確に認識してみれば、
 「それをプレーする必要は無い」とか、
 「かつては、そうしたかったけど、今はもう、止めよう」とか、
 そのような決断が、できてくるはずです。
 
 それを、
 ご自分の意思で、はっきりと、なさってみてください。
 
 そうすれば、
 この、混沌として、複雑で、困難極まりない、
 「自分の周りの環境」が、
 「自分の置かれた状況」が、
 
 すこしずつ、シンプルになり、
 すこしずつ、分かりやすくなり、
 すこしずつ、解きやすくなる ...
 
 そんなサイクルが、
 始まってくるものと思います。
 
 
 
 まとめてみます。
 
 私たちは、
 「地球人間ゲーム」をプレーしていると、認識してみた場合でも、
 
 いくつもの、ミニゲームが、組み合わされた、
 「総体としての『地球人間ゲーム』」をプレーしている、
 と、
 言うことができます。
 
 その場合、それぞれの組み合わせは、
 一人ひとり、それぞれに、異なっていて、
 
 実は、それぞれが、それぞれに、
 独自のゲームを、プレーしています。
 
 それが、
  「一人ひとり、違う『宇宙』に住んでいる」
 という、
 津留さんの言葉の、
 一つの意味になりますが、
 
 そのとき、
 それら、ミニゲームの組み合わせは、 
 自ら、選択することができます。
 
 それによって、
 『総体としてのゲーム』の、難しさや、面白さを、
 自ら、調節することができます。
 
 そうするためには、
 まず、一つひとつの(ミニ)ゲームに、気づいてあげること、
 そして、それらを、自ら、取捨選択すること。
 
 捨てる(止める)ためには、
 その項目に関して、
 フラットになること、ニュートラルになること、
 「どっちでもいい」「どうでもいい」となること。
 
 そのためには、それに近づくためには、
 (当初の目的どおりに)
 プレーし尽くすこと、体験し尽くすこと。
 
 ですが、
 もし、それが辛ければ、たいへんであれば、
 
 津留さんが遺してくれた『浄化』を、ご活用していただけても、
 そこに、近づいていくとこができると思います。










2017年12月7日木曜日

酸素マスク


 ここのところ、
 年に数度、飛行機に乗っています。
 
 僕がよく利用する、航空会社では、
 離陸前に、「緊急時の対応」の説明がありますが、
 
 そこでは、
 酸素マスクに関して、
 次のような説明がされます。
 
  「まず、ご自分の酸素マスクを付けてから、
   お子さまや、周りの方の、マスクを付けてあげて下さい。」
 
 
 はじめて、それを耳にしたとき、
 ちょっと、びっくりしました。
 
 自分の「知識」「基準」「考え方」「価値観」とは、
 逆だったからです。
 
  自分よりも、
  子どもや、身体の不自由な人など、
  補助が必要な方への対処が、まず、先だ
 と、
 認識していました。
 
 
 でも、その、初めて聞いたとき、
 驚きはしましたが、
 反発は感じず、
 
 むしろ、
 すぐに、納得し、
 さらに、感心しました。
 
 確かに、
 まず、自分の身体の保全が図られたほうが、
 より多く、他の人々を助けることが、できるはずです。
 
 とても合理的だと、納得しました。
 
 むしろ、
 自分の、それまでの考え方のほうが、
 
 ある種、「道徳的」なものであり、
 比較すれば、非合理的なものであると、思いました。
 
 
 
 津留さんのメッセージも、(ある意味では)例外ではなく、
 多くのスピリチュアルな教えや、アドバイスでは、
 
 『エゴ』を、
 
 悪者であったり、厄介者であったり、
 不要なもの、無くすべきもの、消し去るもの、
 そのように、捉えているものと、認識しています。
 
 もちろん、
 確かに、そのように捉えることも、
 当然であり、とても自然なことかもしれません。
 
 
 ですが、
 僕は、
 
 『エゴ』というのは、
 ただ、立脚点や、方向性が、違うだけの、
 
 ただ、特殊な存在なだけのものと、
 認識しています。
 
 
 先の、機内アナウンスの例で言えば、
 『エゴ』は、
 とても、合理的なのだと思います。
 
 『エゴ』は、
 何も「自分だけ」と、思っているわけではないと、思います。
 
 「自分が先」「自分を優先」なだけ、で、
 「自分だけ」「自分さえ」なわけではない、と、思います。
 
 
 『エゴ』だって、
 最終的に、目指す場所は、目指すことは、
 同じで、
 
  「みんなが、幸せに」
 
 なのだと、思います。
 
 ただ、そのときの、
 方向性が、志向性が、立脚点が、
 ちょっと、特殊で、
 
  「そのために、まず、自分が」
  「そのためにこそ、まず、自分が」
 
 という、
 
 スピリチュアルな、「博愛」的価値観からは、
 最終地点の、「みんなが ... 」からは、
 
 一件、「逆」な、アプローチなので、
 
 そのために、
 違和感を持たれたり、
 反感を持たれたり、
 誤解を受けているだけで、
 
 『エゴ』にしても、
 最終的に目指しているものは、
 同じなのだと、思います。
 
 
 球面を、どの方向に進んで行こうが、
 最終的には、同じ地点に、たどり着くように、
 
 『エゴ』だって、
 目指しているところは、たどり着くところは、
 同じで、
 
 ただ、
 方向が逆で、
 経路が独自、
 なだけなのだと、思います。
 
 
 だとすれば、
 だからこそ、
 それを、
 「北風方式」で、
 
 良くないものと、邪魔なものと、あるべきでないものと、
 吹き飛ばそうとするよりは、
 
 「そうだよね」「ありがとうね」「おつかれさま」と、
 労い、感謝し、共感し、理解してあげるべきものだと、
 感じています。
 
 いえ、
 そもそも、
 「無くそうとする」べきものなのではない、と、
 思います。
 
 
 『エゴ』とて、
 
 理解されず、
 あげく、排除されように扱われるからこそ、
 
 ときに、暴走してしまい、
 ときに、極論に走ってしまうのであって、
 
  「生まれつきの、ワル」
 という札付けこそが、
 その、接し方こそが、
 むしろ極端なのでは、と、思います。










2017年12月6日水曜日

見つめる


 いま、お子さんをお持ちの方は、ご存知だと思いますが、
 
 今どきの子どもたちは、
 友達と一緒に、
 「家の中」で、遊ぶんですよね。
 
 「一緒に遊ぶ内容が、ゲーム(機)だから」
 だ、とか、
 「外で遊ぶのか危ないから」「外で安全に遊べる場所が無いから」
 だとか、
 
 僕の時代とは、背景が違うし、
 
 あるいは、当時でも、
 女の子たちは、よく、
 「家の中」で、遊んでいたのかもしれませんが、
 
 いまは、
 男の子でも、女の子でも、
 
 お菓子を持って、友達の家に行き、
 そこで、一緒に、遊ぶことが、スタンダードなようです。
 
 
 上の男の子の場合、
 小学校入学以来、ほぼ毎日のように、
 友達が、わが家に遊びに来ていました。
 
 彼が、(ようやく)外遊びをするようになり、
 家が、静かになったと思ったころ、
 
 今度は、
 下の娘が、友達を連れてくるようになりました。
 
 子どもたちの友達が、わが家に遊びに来たところで、
 僕は、
 その子たちとは少し離れた場所で、仕事をしているだけなので、
 
 多少騒がし過ぎたりして、
 嫌な想いをすることはあっても、
 高がしれていて、
 
 「決して望ましくはないが、積極的に拒否するほどでもない」
 感じで、これまでいました。
 
 
 ところが。
 
 娘の友達に、
 一人、
 どうにも、苦手な子がいます。
 
 具体的な、苦手な理由は、よく把握できず、
 陳腐な表現ですが、「雰囲気が、好きでない」のに加えて、
 
 臭い、見た目、声 ...
 そんな、物理的な部分も、
 どうにも、苦手なのです。
 
 加えて。
 
 その子が連れてくる、
 その子の弟が、
 その子に増して、苦手です。
 
 その、苦手な理由も、まったく同じです。
 
 
 その子たちに関してだけは、
 使う表現としては、間接的にしていますが、
 積極的に、家に来ないように、仕向けます。
 
 ところが。
 
 こちらの、
  「来ないで!」
 の想いの強さと、同じだけの強さで、
 
  「行くよ!」「来たよ!」
 が、現れます ^^; 。
 
 僕としては、
 もちろん、
 積極的に、浄化をしますが、
 
 どうにも、
 その「苦手感」「嫌さ」は、
 無くなりません。
 あまり減りません。
 
 なので、
 より積極的に、僕の
  「来ないで!」
 が表出し、
 
 その結果、
 より顕著に、頻繁に、
  「来たよ!」
 が、やって来ます。
 
 それが、繰り返されます。
 
 
 そんな、ある日。
 
 その子たちが、やはり、やって来ました。
 
 その日は、僕に出かける用事があり、
 その子たちが占拠している、わが家のダイニングを、
 通る必要がありました。
 
 
  「こんにちは」
 
 僕としては、その時の感情に則して、
 かなり、フラットな感じで、挨拶をしたつもりですが、
 
 それに対して、
 弟くんの、こんな言葉が、耳に飛び込んで来ました。
 
  「怒ったおじさんが、来たよ」
 
 その言葉に、
 ちょっと、唖然としました。
 
 
 僕は、そのときの自分自身を、
 「怒っている」状態だとは、認識していませんでしたし、
 そんな口調でも、内容でも、表情でもないと、
 認識していたからです。
 
 そのような言われ様をされる理由があるか、
 それが、不当ではないのか、
 瞬時に、そこを、検証しようとしました。
 
 そのとき、 
 一つのことに、気づきました。
 
 
 自分の正当性を、検証しようとして、
 相手の真意は何か、相手に落ち度は無いか、
 調べようとしたのですが、
 
 そのとき、
 その、弟くんの表情を、思い出すことができませんでした。
 
 彼のことを、見ていなかったのです。
 
 彼だけでなく、
 その部屋を、その場を、ちゃんと見ていなかったのです。
 
 目を、そむけていたのです。
 
 
 その後、
 その部屋での必要なことを終え、退室し、
 そして、玄関から、外に出ました。
 
 その、出たところに置いてある、
 自転車に乗ろうとしたところ、
 
 ちょうど、窓の前に立つ形になり、
 その窓越しに、ちょうど、ダイニングを眺めることができました。
 
 子どもたちが、騒ぎ、暴れています。
 約束を破って、隣の部屋にまで、なだれ込んでいます。
 そして、冷蔵庫を勝手に開け、中のものを貪(むさぼ)っています。
 
 そんな様子が、目に入ってきました。
 
 
 まず、その段階で、
 自分が感じていた「雰囲気が、好きでない」の理由が、分かった気がし、
 そして、その気持ちに対する、自分の正当性が証明された気がしました。
 
 娘の友達に対して、
 正当な理由・根拠も無く、いわば「不当」に、
 「好きではない」と感じていた自分に対する罪悪感が、払拭されました。
 
 そこで、気持ちがイーブンになりました。
 負い目が無くなり、
 正々堂々としていられる状態になりました。
 
 
 そこで、
 その光景を、見つめることにしました。
 
 僕は、顔だけ、窓からのぞいている形なので、
 僕が見ていることに、子どもたちは、気づいていません。
 
 そこで、その光景を、見つめました。
 文字通り、見つめ続けました。
 
 その、子どもたちの振る舞いを「悪し」とするエゴが、
 かなり強めの苦痛を、僕の胸に感じさせてきます。
 
 肉眼の目で、子どもたちの振る舞いを見つめ続けながら、
 内なる目で、その感情を見つめ続けました。
 
 浄化できているのか、感情が減っているのか、
 よく、分からなくなっていましたが、
 一段落とし、その場を離れました。
 
 胸の痛みは、
 その場を離れても、しばらく続きました。
 
 
 面白いことに、
 そして、よくあるように、
 
 それ以来、これまでのところ、
 僕は、その子たちに、遭遇していません。
 
 その後、わが家に遊びに来たこともあるようですが、
 僕は、出会いませんでした。
 
 おそらく、
 ある程度以上の浄化が、できたのだと思います。
 
 そして、
 僕にとっては、珍しいことに、
 浄化によって、現象の変化を促す結果になりました。
 
 
 普段、浄化の場面では、
 よく、「感情を『見つめてください』」と、申し上げます。
 
  感情を、感じる。感じ尽くす。
  意識を向ける。
  見つめる。
 
 これらは、浄化の、もっとも基本的な方法です。
 
  感情を、
  エネルギーブロックがもたらす感覚を、
  
  感じる、
  内なる意識を向ける、
  内なる目で見つめる。
 
 これらは、浄化の基本的で、
 常々、お伝えもしているし、
 自分でも、行っていることです。
 
 
 ですが、
 同じように、
 
  物理的に見つめること。
  肉眼で、物質・現象・出来事を、見つめること。
 
 これも、同じように、大切なのだと、
 痛感させられました。
 
 
 おもえば、僕は、
 今回の、苦手な子どもたちに対して、行ったように、
 
 嫌なこと、都合の悪いこと、好ましくないこと、
 に対しては、
 
  見ない振りをする
  無かったことにする
  目をそらす
 
 という対応を、採ってきました。
 
 そうすることを、常套手段としてきました。
 
 
 場合によっては、
  「委ねているのだ」
 と、
 自分に弁明し、
 
 そして、
 目をそむけてきたこと、
 放置してきたこと、
 そんなことが、日常的に、多々あったことを、
 思い出させられました。
 
 自分には、そういう、明白な傾向があることに、
 これまでに、もうすでに、気がついていたはずです。
 
 でも、そのことにも、
 目をそらせてきていました ...
 
 その事実に、
 いま、ここで、向き合わざるを得ませんでした。
 
 
 でも、おかげで、
 「何をすればいいのか」が、
 これ以上無いくらいに、明確になりました。
 
 これまでは、「何をしてこなかったのか」を、
 それゆえに、「何が体験不足なのか」を、
 そして、今後は、「何をすればいいのか」を、
 
 これ以上、明確にはできないくらい、はっきりと、
 知ることができました。
 
 
 そして、今後は、
 「内側」だけでなく、外側も、
 「感情」だけでなく、現象も、
 「内なる眼」だけでなく、肉眼でも、
 
 しっかりと、じっくりと、眼(まなこ)を開いて、くっきりと、
 見つめる覚悟が、決まりました。
 
 覚悟が決まり、
 それを、習慣化することも、できてきました。
 
 それ以来、
 それまで、明け方に、定期的に見ていた、
 ある、似た種類の夢たちのことも、
 見ることが無くなりました。
 
 
 僕にとっては、
 「見つめる」ということは、
 最重要ともいうべき、気づきでした。
 
  「人間をする」ということは、
  「体験をする」ということは、
 
  「感情を感じること」であると同時に、
  現象・出来事そのものを、肉眼の眼で、はっきりと、
  「見ること」「見つめること」「観察すること」である。
 
 少なくとも、僕にとっては、そうでした。
 
 そして、今回の件は、
 その気づきを得るための、出来事だったのだと、
 僕のために起きてきてくれた出来事だったのだと、
 あの子たちは、僕のために、存在し、振る舞ってくれていたのだと、
 知ることもできました。