2017年12月8日金曜日

「ゲーム」を選択する


  「あぁ、その『ゲーム』、してないなぁ」
 
 あるとき、
 内側で、そう、つぶやいていたことがあります。
 
 
 その日は、
 昼どきに、街中に居ました。
 
 人ごみの中を、ゆっくりと、歩いていると、
 背後に、かなり大きめな声でやり取りをしている、
 女性グループが、近づいてきました。
 
 会話の内容を把握できるくらいに、近づいてきたとき、
 最初に認識できたのは、
 こんなやり取りでした。
 
  「いやぁ、でも、それは、カロリー高すぎない?」
  「そうねぇ。 じゃぁ、何にするぅ?」
 
 おそらく、
 これからする、ランチを、
 何にするか、話し合っていたのでしょう。
 
 聞こえませんでしたが、
 何らかの案が提示され、
 
  それだと、「カロリーが高すぎる」から、
  それにすると、「太ってしまう」から、
  なので、別のものにしよう
 
 そのようなやり取りを、していたもの、
 と、理解しました。
 
 
 僕は、
 学生時代に、かなり太っていた時期があり、
 
 それゆえに、
 青春時代から、青年時代を 通じて、
 そのことには、人一倍、敏感で、過敏で、
 
 「体型」「カロリー」という項目は、
 そのころの僕にとっては、
 最重要項目の一つ、でした。
 
 なので、
 彼女たちが、食事にあたって、
  「カロリーが、高いか、低いか」
  「太りやすいか、どうか」
 を基準とする気持ちは、
 よ〜く分かります。
 
 
 ですが、
 押しも押されぬ「おじさん期」に入り、
 
  食べても、さほど、太らない
  いえ、そもそも、もう、さほど食べられない
  いえいえ、そもそも、もう、太ったところで、気にならない
 
 という状況になり ^^; 、
 
  「太るかどうか」「体型」
  「カロリーが、高いか低いか」「カロリー」
 
 という観念・項目、そのものが、
 気になる事項としては、
 自分の中に、反応を起こす事項としては、
 もう、存在していません。
 
 
 もちろん、
 僕と同年代や、僕より高齢の方でも、
 「体型」や「カロリー」のことを、
 気にされている方は、いらっしゃると思います。
 
 ですので、
 僕の場合には、
 
  「それらのことを気にする」という体験を、
  さんざん、やり尽くした
 ということ、
 
 そして、
  その、やり尽くしたことを通じて、
  それらのことが、ニュートラルになった、フラットになった
 
 ということのだと、思います。
 
 つまり、
 
  実体験を通じて、
  それらを、体験し尽くした
 ということ。
 
  そして、そのような体験を通じて、
  それらのことが、浄化できた
 ということ。
 
 なのだと思います。
 
 
 津留さんは、
  「地球人間ゲーム」
 という表現を、とりました
 (覚醒進化プログラム「 人生はゲームである 」)。
 
 私たちは、人間として生きている間、
 「人間を体験する」ゲームをしている、
 という見方です。
 
 遊びとして、ゲームとして、楽しみとして、
 人間をしている、という考え方です。
 
 その見解においては、
 私たちは、
  「地球という場において、人間をしている」
 という部分においては、
 共通のゲームをしています。
 
 『スーパーマリオ』ゲームにおいて、
 みなが、「スーパーマリオとして、ピーチ姫を助ける」
 という部分と、同じように。
 
 
 ですが、
 同じ、『スーパーマリオ』ゲームをしていても、
 
 ある人は、
  「どれだけ早く、クリアーできるか」
 を、目標にしていたり、
 
 あるいは、ある人は、
  「どれだけ高得点をあげて、ゴールするか」
 を、競っていたり、
 
 また、ある人は、
  「一度も死なずに、ゴールすること」
 を、目指していたり、
 
 同じゲームをプレイしていても、
 人、それぞれに、
 「副次目的」と言いましょうか、
 「付加的目的」と言いましょうか、
 
 共通項である「主目的」とは違う、
 別の目標を持っている場合があります。
 
 
 そうすると、
 その、付加的な目的次第で、
 プレーの仕方が、気にする項目・内容が、違い、
 
 同じゲームながら、
 違うゲームをしているように、
 楽しむことができます。
 
 さらに、
 人によっては、そもそも、
 「ピーチ姫を助ける」という共通項・主目的を、
 端(はな)から、念頭に置いていなかったりも、すると、
 
 「同じゲーム」とは、言えないくらいに、
 それぞれに、独自の、
 楽しみ方をすることができます。
 
 
 先の、
 津留さんのメッセージでは、
 「将棋」を事例にして、
 
  「制限・制約を、自ら、わざわざ、持つことによって、
   ゲームを、面白くし、楽しんでいる」
 
 と、書かれていますが、
 
 同じように、
 『スーパーマリオ』ゲームの例では、
 
  「目的を、自ら、わざわざ、付加することで、
   ゲームを、さらに面白くし、楽しんでいる」
 
 と、言えると思います。
 
 制限や、制約事項、付加目的を、持つことで、
  「できないこと」「してはいけないこと」
  「すべきこと」「しなければいけないこと」
 が、生まれ、
 
 それらが、増えれば増えるほど、
 ゲームは、複雑さを増し、
 同時に、面白さも増えます。
 
 
 ところが、
 その『面白さ』は、
 その、『複雑さ』から、生み出されており、
 その、『難しさ』から、生み出されています。
 
 『複雑さ』が、増せば増すほど、
 『難しさ』が、増し、
 
 それを、「望んでプレーしている」という意識からは、
 『面白さ』も、増し、
 
 加えて、
 「それをクリアーできたとき」の『面白さ』、喜びも、
 激増します。
 
 
 ところが、
 この、『地球人間ゲーム』においては、
 
 このゲームを、
 「自ら、望んでプレーしている」んだ、という認識は、
 そもそも、ありません。
 
 これが、『ゲーム』なんだ、という認識も、
 ありません。
 
 そうなると、
 そこにあるのは、
 単に、『難しさ』であり、
 単に、『複雑さ』です。
 
 「クリアーできたときの『面白さ』」を、
 純粋に、そして、積極的に、
 味わっている人達も、確かに、居ますが、
 
 『面白さ』も、喜びも、感じることができず、
 ただただ、『難しさ』に、『複雑さ』に、
 埋没してしまっている方々も、
 多数、存在します。
 
 
 そんなとき、
 まず、役に立つのが、
 
  「そういう『ゲーム』をしているんだ」
 という観念を、見地を、
 一度、試しに、持ってみることです。
 
 もし、それに続いて、
  「しかも、それは、『自ら望んで』、しているんだ」
 と、思えてしまったなら、
 さらに、話は早いのですが、
 
 そこは、置いておいたとしても、
 
  「だったら、自分は、『どんなゲーム』をしているんだ?」
 と、
 自分がプレーしているゲームを、
 明確化・特定化していくことです。
 
  『目的』としていること
  『制限・制約』としていること
  「できないこと」「してはいけないこと」
  「すべきこと」「しなければいけないこと」
 
 自分の中には、それらに関して、どのようなものがあるか、を、
 一つずつ、チェックし、
 一つずつ、気づいてあげることです。
 
 
 無自覚に、無意識に、
 プレーしているゲームを、
 参加しているゲームを、
 
 一つずつ、特定していくことです。
 
 それによって、
 すこしずつ、混乱が減り、
 すこしずつ、複雑さが減り、
 すこしずつ、はっきりしてくること、スッキリしてくることがあります。
 
 そして、そのうえで、
 
  「自分は、それをプレーする必要があるのか?」
  「自分は、そこに参加したいのか?」
  「自分は、このゲームを続けたいのか?」
 と、
 
 一つひとつの、ゲームについて、
 その参加を、継続を、中止を、
 検討・検証することです。
 
 これまでは、
 無自覚に、無意識のうちに、
 参加し、プレーしていたゲームだけれど、
 
 でも、明確に認識してみれば、
 「それをプレーする必要は無い」とか、
 「かつては、そうしたかったけど、今はもう、止めよう」とか、
 そのような決断が、できてくるはずです。
 
 それを、
 ご自分の意思で、はっきりと、なさってみてください。
 
 そうすれば、
 この、混沌として、複雑で、困難極まりない、
 「自分の周りの環境」が、
 「自分の置かれた状況」が、
 
 すこしずつ、シンプルになり、
 すこしずつ、分かりやすくなり、
 すこしずつ、解きやすくなる ...
 
 そんなサイクルが、
 始まってくるものと思います。
 
 
 
 まとめてみます。
 
 私たちは、
 「地球人間ゲーム」をプレーしていると、認識してみた場合でも、
 
 いくつもの、ミニゲームが、組み合わされた、
 「総体としての『地球人間ゲーム』」をプレーしている、
 と、
 言うことができます。
 
 その場合、それぞれの組み合わせは、
 一人ひとり、それぞれに、異なっていて、
 
 実は、それぞれが、それぞれに、
 独自のゲームを、プレーしています。
 
 それが、
  「一人ひとり、違う『宇宙』に住んでいる」
 という、
 津留さんの言葉の、
 一つの意味になりますが、
 
 そのとき、
 それら、ミニゲームの組み合わせは、 
 自ら、選択することができます。
 
 それによって、
 『総体としてのゲーム』の、難しさや、面白さを、
 自ら、調節することができます。
 
 そうするためには、
 まず、一つひとつの(ミニ)ゲームに、気づいてあげること、
 そして、それらを、自ら、取捨選択すること。
 
 捨てる(止める)ためには、
 その項目に関して、
 フラットになること、ニュートラルになること、
 「どっちでもいい」「どうでもいい」となること。
 
 そのためには、それに近づくためには、
 (当初の目的どおりに)
 プレーし尽くすこと、体験し尽くすこと。
 
 ですが、
 もし、それが辛ければ、たいへんであれば、
 
 津留さんが遺してくれた『浄化』を、ご活用していただけても、
 そこに、近づいていくとこができると思います。










2017年12月7日木曜日

酸素マスク


 ここのところ、
 年に数度、飛行機に乗っています。
 
 僕がよく利用する、航空会社では、
 離陸前に、「緊急時の対応」の説明がありますが、
 
 そこでは、
 酸素マスクに関して、
 次のような説明がされます。
 
  「まず、ご自分の酸素マスクを付けてから、
   お子さまや、周りの方の、マスクを付けてあげて下さい。」
 
 
 はじめて、それを耳にしたとき、
 ちょっと、びっくりしました。
 
 自分の「知識」「基準」「考え方」「価値観」とは、
 逆だったからです。
 
  自分よりも、
  子どもや、身体の不自由な人など、
  補助が必要な方への対処が、まず、先だ
 と、
 認識していました。
 
 
 でも、その、初めて聞いたとき、
 驚きはしましたが、
 反発は感じず、
 
 むしろ、
 すぐに、納得し、
 さらに、感心しました。
 
 確かに、
 まず、自分の身体の保全が図られたほうが、
 より多く、他の人々を助けることが、できるはずです。
 
 とても合理的だと、納得しました。
 
 むしろ、
 自分の、それまでの考え方のほうが、
 
 ある種、「道徳的」なものであり、
 比較すれば、非合理的なものであると、思いました。
 
 
 
 津留さんのメッセージも、(ある意味では)例外ではなく、
 多くのスピリチュアルな教えや、アドバイスでは、
 
 『エゴ』を、
 
 悪者であったり、厄介者であったり、
 不要なもの、無くすべきもの、消し去るもの、
 そのように、捉えているものと、認識しています。
 
 もちろん、
 確かに、そのように捉えることも、
 当然であり、とても自然なことかもしれません。
 
 
 ですが、
 僕は、
 
 『エゴ』というのは、
 ただ、立脚点や、方向性が、違うだけの、
 
 ただ、特殊な存在なだけのものと、
 認識しています。
 
 
 先の、機内アナウンスの例で言えば、
 『エゴ』は、
 とても、合理的なのだと思います。
 
 『エゴ』は、
 何も「自分だけ」と、思っているわけではないと、思います。
 
 「自分が先」「自分を優先」なだけ、で、
 「自分だけ」「自分さえ」なわけではない、と、思います。
 
 
 『エゴ』だって、
 最終的に、目指す場所は、目指すことは、
 同じで、
 
  「みんなが、幸せに」
 
 なのだと、思います。
 
 ただ、そのときの、
 方向性が、志向性が、立脚点が、
 ちょっと、特殊で、
 
  「そのために、まず、自分が」
  「そのためにこそ、まず、自分が」
 
 という、
 
 スピリチュアルな、「博愛」的価値観からは、
 最終地点の、「みんなが ... 」からは、
 
 一件、「逆」な、アプローチなので、
 
 そのために、
 違和感を持たれたり、
 反感を持たれたり、
 誤解を受けているだけで、
 
 『エゴ』にしても、
 最終的に目指しているものは、
 同じなのだと、思います。
 
 
 球面を、どの方向に進んで行こうが、
 最終的には、同じ地点に、たどり着くように、
 
 『エゴ』だって、
 目指しているところは、たどり着くところは、
 同じで、
 
 ただ、
 方向が逆で、
 経路が独自、
 なだけなのだと、思います。
 
 
 だとすれば、
 だからこそ、
 それを、
 「北風方式」で、
 
 良くないものと、邪魔なものと、あるべきでないものと、
 吹き飛ばそうとするよりは、
 
 「そうだよね」「ありがとうね」「おつかれさま」と、
 労い、感謝し、共感し、理解してあげるべきものだと、
 感じています。
 
 いえ、
 そもそも、
 「無くそうとする」べきものなのではない、と、
 思います。
 
 
 『エゴ』とて、
 
 理解されず、
 あげく、排除されように扱われるからこそ、
 
 ときに、暴走してしまい、
 ときに、極論に走ってしまうのであって、
 
  「生まれつきの、ワル」
 という札付けこそが、
 その、接し方こそが、
 むしろ極端なのでは、と、思います。










2017年12月6日水曜日

見つめる


 いま、お子さんをお持ちの方は、ご存知だと思いますが、
 
 今どきの子どもたちは、
 友達と一緒に、
 「家の中」で、遊ぶんですよね。
 
 「一緒に遊ぶ内容が、ゲーム(機)だから」
 だ、とか、
 「外で遊ぶのか危ないから」「外で安全に遊べる場所が無いから」
 だとか、
 
 僕の時代とは、背景が違うし、
 
 あるいは、当時でも、
 女の子たちは、よく、
 「家の中」で、遊んでいたのかもしれませんが、
 
 いまは、
 男の子でも、女の子でも、
 
 お菓子を持って、友達の家に行き、
 そこで、一緒に、遊ぶことが、スタンダードなようです。
 
 
 上の男の子の場合、
 小学校入学以来、ほぼ毎日のように、
 友達が、わが家に遊びに来ていました。
 
 彼が、(ようやく)外遊びをするようになり、
 家が、静かになったと思ったころ、
 
 今度は、
 下の娘が、友達を連れてくるようになりました。
 
 子どもたちの友達が、わが家に遊びに来たところで、
 僕は、
 その子たちとは少し離れた場所で、仕事をしているだけなので、
 
 多少騒がし過ぎたりして、
 嫌な想いをすることはあっても、
 高がしれていて、
 
 「決して望ましくはないが、積極的に拒否するほどでもない」
 感じで、これまでいました。
 
 
 ところが。
 
 娘の友達に、
 一人、
 どうにも、苦手な子がいます。
 
 具体的な、苦手な理由は、よく把握できず、
 陳腐な表現ですが、「雰囲気が、好きでない」のに加えて、
 
 臭い、見た目、声 ...
 そんな、物理的な部分も、
 どうにも、苦手なのです。
 
 加えて。
 
 その子が連れてくる、
 その子の弟が、
 その子に増して、苦手です。
 
 その、苦手な理由も、まったく同じです。
 
 
 その子たちに関してだけは、
 使う表現としては、間接的にしていますが、
 積極的に、家に来ないように、仕向けます。
 
 ところが。
 
 こちらの、
  「来ないで!」
 の想いの強さと、同じだけの強さで、
 
  「行くよ!」「来たよ!」
 が、現れます ^^; 。
 
 僕としては、
 もちろん、
 積極的に、浄化をしますが、
 
 どうにも、
 その「苦手感」「嫌さ」は、
 無くなりません。
 あまり減りません。
 
 なので、
 より積極的に、僕の
  「来ないで!」
 が表出し、
 
 その結果、
 より顕著に、頻繁に、
  「来たよ!」
 が、やって来ます。
 
 それが、繰り返されます。
 
 
 そんな、ある日。
 
 その子たちが、やはり、やって来ました。
 
 その日は、僕に出かける用事があり、
 その子たちが占拠している、わが家のダイニングを、
 通る必要がありました。
 
 
  「こんにちは」
 
 僕としては、その時の感情に則して、
 かなり、フラットな感じで、挨拶をしたつもりですが、
 
 それに対して、
 弟くんの、こんな言葉が、耳に飛び込んで来ました。
 
  「怒ったおじさんが、来たよ」
 
 その言葉に、
 ちょっと、唖然としました。
 
 
 僕は、そのときの自分自身を、
 「怒っている」状態だとは、認識していませんでしたし、
 そんな口調でも、内容でも、表情でもないと、
 認識していたからです。
 
 そのような言われ様をされる理由があるか、
 それが、不当ではないのか、
 瞬時に、そこを、検証しようとしました。
 
 そのとき、 
 一つのことに、気づきました。
 
 
 自分の正当性を、検証しようとして、
 相手の真意は何か、相手に落ち度は無いか、
 調べようとしたのですが、
 
 そのとき、
 その、弟くんの表情を、思い出すことができませんでした。
 
 彼のことを、見ていなかったのです。
 
 彼だけでなく、
 その部屋を、その場を、ちゃんと見ていなかったのです。
 
 目を、そむけていたのです。
 
 
 その後、
 その部屋での必要なことを終え、退室し、
 そして、玄関から、外に出ました。
 
 その、出たところに置いてある、
 自転車に乗ろうとしたところ、
 
 ちょうど、窓の前に立つ形になり、
 その窓越しに、ちょうど、ダイニングを眺めることができました。
 
 子どもたちが、騒ぎ、暴れています。
 約束を破って、隣の部屋にまで、なだれ込んでいます。
 そして、冷蔵庫を勝手に開け、中のものを貪(むさぼ)っています。
 
 そんな様子が、目に入ってきました。
 
 
 まず、その段階で、
 自分が感じていた「雰囲気が、好きでない」の理由が、分かった気がし、
 そして、その気持ちに対する、自分の正当性が証明された気がしました。
 
 娘の友達に対して、
 正当な理由・根拠も無く、いわば「不当」に、
 「好きではない」と感じていた自分に対する罪悪感が、払拭されました。
 
 そこで、気持ちがイーブンになりました。
 負い目が無くなり、
 正々堂々としていられる状態になりました。
 
 
 そこで、
 その光景を、見つめることにしました。
 
 僕は、顔だけ、窓からのぞいている形なので、
 僕が見ていることに、子どもたちは、気づいていません。
 
 そこで、その光景を、見つめました。
 文字通り、見つめ続けました。
 
 その、子どもたちの振る舞いを「悪し」とするエゴが、
 かなり強めの苦痛を、僕の胸に感じさせてきます。
 
 肉眼の目で、子どもたちの振る舞いを見つめ続けながら、
 内なる目で、その感情を見つめ続けました。
 
 浄化できているのか、感情が減っているのか、
 よく、分からなくなっていましたが、
 一段落とし、その場を離れました。
 
 胸の痛みは、
 その場を離れても、しばらく続きました。
 
 
 面白いことに、
 そして、よくあるように、
 
 それ以来、これまでのところ、
 僕は、その子たちに、遭遇していません。
 
 その後、わが家に遊びに来たこともあるようですが、
 僕は、出会いませんでした。
 
 おそらく、
 ある程度以上の浄化が、できたのだと思います。
 
 そして、
 僕にとっては、珍しいことに、
 浄化によって、現象の変化を促す結果になりました。
 
 
 普段、浄化の場面では、
 よく、「感情を『見つめてください』」と、申し上げます。
 
  感情を、感じる。感じ尽くす。
  意識を向ける。
  見つめる。
 
 これらは、浄化の、もっとも基本的な方法です。
 
  感情を、
  エネルギーブロックがもたらす感覚を、
  
  感じる、
  内なる意識を向ける、
  内なる目で見つめる。
 
 これらは、浄化の基本的で、
 常々、お伝えもしているし、
 自分でも、行っていることです。
 
 
 ですが、
 同じように、
 
  物理的に見つめること。
  肉眼で、物質・現象・出来事を、見つめること。
 
 これも、同じように、大切なのだと、
 痛感させられました。
 
 
 おもえば、僕は、
 今回の、苦手な子どもたちに対して、行ったように、
 
 嫌なこと、都合の悪いこと、好ましくないこと、
 に対しては、
 
  見ない振りをする
  無かったことにする
  目をそらす
 
 という対応を、採ってきました。
 
 そうすることを、常套手段としてきました。
 
 
 場合によっては、
  「委ねているのだ」
 と、
 自分に弁明し、
 
 そして、
 目をそむけてきたこと、
 放置してきたこと、
 そんなことが、日常的に、多々あったことを、
 思い出させられました。
 
 自分には、そういう、明白な傾向があることに、
 これまでに、もうすでに、気がついていたはずです。
 
 でも、そのことにも、
 目をそらせてきていました ...
 
 その事実に、
 いま、ここで、向き合わざるを得ませんでした。
 
 
 でも、おかげで、
 「何をすればいいのか」が、
 これ以上無いくらいに、明確になりました。
 
 これまでは、「何をしてこなかったのか」を、
 それゆえに、「何が体験不足なのか」を、
 そして、今後は、「何をすればいいのか」を、
 
 これ以上、明確にはできないくらい、はっきりと、
 知ることができました。
 
 
 そして、今後は、
 「内側」だけでなく、外側も、
 「感情」だけでなく、現象も、
 「内なる眼」だけでなく、肉眼でも、
 
 しっかりと、じっくりと、眼(まなこ)を開いて、くっきりと、
 見つめる覚悟が、決まりました。
 
 覚悟が決まり、
 それを、習慣化することも、できてきました。
 
 それ以来、
 それまで、明け方に、定期的に見ていた、
 ある、似た種類の夢たちのことも、
 見ることが無くなりました。
 
 
 僕にとっては、
 「見つめる」ということは、
 最重要ともいうべき、気づきでした。
 
  「人間をする」ということは、
  「体験をする」ということは、
 
  「感情を感じること」であると同時に、
  現象・出来事そのものを、肉眼の眼で、はっきりと、
  「見ること」「見つめること」「観察すること」である。
 
 少なくとも、僕にとっては、そうでした。
 
 そして、今回の件は、
 その気づきを得るための、出来事だったのだと、
 僕のために起きてきてくれた出来事だったのだと、
 あの子たちは、僕のために、存在し、振る舞ってくれていたのだと、
 知ることもできました。










2017年12月5日火曜日

「なにもしないでいる」ことが、できない


   健康だけど、3日間 ただ 寝ていた、っていう人。
   
   これができる人というのは、実は 哲人ですね。
   もう学びの終わった人で、
   普通の人たちは、大体、何かしています。
   
   「何をしているか?」というと、
   基本的には、不安から 逃れようとしています。
   
   皆さんは100%例外なしに、
   幸せじゃない状態から、幸せになろうとする方向へ、努力しているんです。
 
     津留晃一 小冊子「 Q&A 」 より引用
 
 
 今日は、個人セッションの募集をしていましたが、
 予約が入りませんでした。
 
 こんな日は、
 いただいた「商品のご注文」を処理し終えれば、
 
 しなければいけないことは、
 何もありません。
 
 
 こんなとき、
 「なにもしないでいる」ことが、できません。
 
  何もせず、ボーっとしている
  ただ、寛(くつろ)いでいる
  ただ、寝ている
 
 ということが、できません。
 
 「何か」を、しようとします。
 「すべき何か」を、探そうとします。
 「今できる何か」を、探します。
 
 そして、何か見つかれば、それをします、
 例えば、この記事を書くように ... ^^;
 
 
 そんなとき、
 この、津留さんが遺してくれたメッセージを、思い出します、
 
 感心と、感歎と、ともに ...
 
 本当に、
  「なにもしないでいる」
 ということが、できませんよねぇ。
 
 
 確かに、
 「健康だけど、3日間、寝ている」という人は、
 いると思います。
 
 僕も、覚えがあります。
 
 でも、そのような人の場合には、
 「『ただ』寝ている」のではなく、
 
 「寝ていることしかできない」のだと思います。
 
 そのような人の場合には、
 「何かしなきゃ」という想いを持っていて、
 
 でも、その想いとは裏腹に、
  「でも、何をしていいか分からない」
  「何ができるのか、分からない」
  「何もできない」
  「寝ていることしかできない」
 のだと思います。
 
 「何かしなきゃ」力士と、
 「でも、何もできない」力士とが、
 がっぷり四つに組み合っていて、
 どうにも膠着してしまっているのですよね。
 
 「何かしなきゃ」アクセルと、
 「でも、何もできない」ブレーキとを、
 同じ力で、踏み込んでいて、
 その場で、ブレーキパッドが、ただ、摩耗してしまっているんですよね
 
 (過去記事「 アクセルとブレーキ 」)。
 
 
 日によっては、
 「すべきこと」を探していることに気づき、
 それを、止めることができます。
 
 でも、そんなときには ...
 
  「じゃぁ、『したいこと』をしよう!」
 
 そう言って、
 『したいこと』を、探し始めたりします。
 
 「『したいこと』を探す」ことを、します。
 
 本当に『したいこと』なら、
 探すまでもなく、「したい」と思っているでしょうに ...
 
 それに、
 『したい』と感じたときに、すればいいでしょうに ...
 
 
  「なにもしないでいる」ことが、できない。
  「何かをしてしまう」。
 
 その理由は、
 津留さんがいっているとおり、
 「不安」「恐れ」からです。
 
  「『今、このまま』を、良しとできない。 良しとは思えない。」
  「良しとできたとしても、でも『この先も良しのまま』とは思えない」
 
 そんな、
 今に対する不足感から、
 将来に対する不安感から、
 自分に対する不足感・不信感から、
 
 常に、
 「何かをしよう」としてしまいます。
 
 
 あるいは、僕の場合には、
 
 何もしないでいると、
 激しくはないけれども、でも、なかなかに強力な、
 ネガティヴな感覚を、感じてしまいます。
 
  「あぁ、暇だ」
  「あぁ、何もすることが無い」
  
 という、
 実に重苦しく、実に落ち着かない、感覚です。
 
 この、「暇だ」という感覚は、
 実は、とても根源的な感覚なのだと、僕は認識していますが、
 
 いずれにせよ、
 その、「暇で仕方ない」という感覚を感じないようにするために、
 どうしても、何かをしてしまうところもあると、自覚しています。
 
 
 「不安感」「不足感」であれ、
 それ以外の感覚(「暇で苦しい感」)であれ、
 
 私たちは、ネガティヴな感覚を感じないようにするために、
 常々、何かをしていますね。
 
 
 津留さんは、
  「呼吸に意識を合わせる」こと
   を継続することは、世界で一番難しいこと
 と、
 言っていましたが
 (過去記事「 神に還るというのは 」)、
 
 これも、「しようとしている」ことですね。
 
 だとすると、
  「なにもしないでいる」
  「ただ、寝ている」
  「ただ、ボーっとしている」
 ことこそ、
 もっとも困難なこと なのかもしれませんね ^^ 。
 
 
 まずは、
 「何かをしよう」としていることに、
 そうしている自分に、気づくこと。
 
 そして、可能ならば、
 その動機、「なぜ、そうしてしまうのか」を、認識すること。
 
 それらができたなら、
 あとは、次なる展開が、見えてくると思います、
 「しようとしなくても」 ^^ 。
 
 
 ところで、
 はじめに引用した、津留さんのメッセージ。
 
 僕にとっては、
 意外な方向に続いていきます。
 
  「さすがだなぁ〜」
  「すごいなぁ〜」
 
 そう、感心せざるを得ない、
 その後の展開。
 
 下記いたします。
 
 そして、
 それこそが、
 そこで言われていることこそが、
 
 『浄化』ということです。
 『浄化』でしようとしていることです。
 
 とてもご理解いただきやすいのではないかと思います。

 
 
   皆さんは100%例外なしに、
   幸せじゃない状態から、幸せになろうとする方向へ、努力しているんです。
   
   ですから、本当に幸せという人は、何もしていません。
   
   皆さん、普段からすでに体験していると思うんですが、
   「ああ嬉しい、幸せ!」っていう時は何もしないですよね。
   皆さんドタバタしないんです。
   じっとしています。
   
   ただ、それはすぐに通り過ぎて行くんですね。
   「幸せだなー」という状態はスーッと退いていくんですね。
   「そうじゃない」っていう人、いないでしょ。
   
   ずっと幸せ状態が続いたって人いないですよね。
   これは皆さん体験しています。
   
   実は不幸せも、これと同じなんですね。
   幸せと同じように「ああ、辛いなあ」ってじっと浸っていると、
   その感じはスーッと退いてどこかへ行ってしまうんです。
   あまりやらないでしょ?
   
   辛いときは、「何とかしよう」とするんです。
   自我は、自分の力で何とかぬけだそうとします。
   だから自分の今の不幸せな状態に意識が留まるんですね。
   それでまた不幸せなエネルギーをさらに作り出すのです。
   じっとしていればいいものを、
   「これじゃいけない、何とかしよう」という意識を持つと、
   またポッと不幸せになる。
   
   ちょうど鐘をつくような状態ですね。
   鐘をポーンと突くと音がスーッと消えていきますね。
   あらゆる感情というものは、退いていくんです。
   
   寄せてきた波が引いていくように、
   来た感情は引いて行くんです。
   
   それなのに、不幸が来たときはじっとしていられなくて、
   なんとかしようとそのことに意識が向きます。
   
   不幸には、皆さん対処するんですね。
   それが、再び鐘を突く状態です。
   
   意識が向くから、また顕在化する訳です。
   対処しようとすると、その不幸な状態に
   エネルギーを注いで行くことになるんです。
   だから、ちっとも減衰していかないんです。
   
   これが、その苦しみが続いていく理由なんです。
   どちらかというと対処すれば、するほど、苦しみというのは大きくなります。
   
   嫌いな人がいて、嫌いな人を非難する。
   そうすることは、嫌いな人をさらに顕在化させて、
   その人にエネルギーを与える状態になるんです。
   
     津留晃一 小冊子「 Q&A 」 より引用










 
 

2017年12月4日月曜日

二つの「シンクロ」に


 先月、11月13日に、
 「 幸せな幼少期 」という、
 僕が子育てに関して感じていることを、掲載しました。
 
 それまでの流れとは、全く関係なく、
 その日、突然、
 
  「あぁ、いま、これを書いておこう。
   いまなら、書けそうだな」
 
 と、
 ふと、思い、
 
 そして、
 パソコンに向かってみると、
 素直に、書けたからです。
 
 そして、
 その記事のアップをもって、
 大阪イベントに向かいました。
 
 
 そして、迎えた、
 大阪での、「『お金』浄化ワークショップ」。
 
 『お金』がテーマの、浄化ワークショップでしたが、
 お金以外のことにも、話題が広がり、
 
 そこで、既述のとおり(「 子育て こんなケースも 」)、
 このようなご質問も、いただきました。
 
  「子育てについて、不安に感じてしまうのですが ... 」
 
 
 その「偶然」を、
 「シンクロだ」と、認識しながら、
 
  「そのことでしたら、
   ちょうど、こちらに来る直前に、
   僕が考えていることを、ブログにアップしてきました。
   よろしければ、お読みください」
 
 と、申し上げました。
 
 ですが、
 感情的には、
 とくに反応することもなく、
 
 頭では、
  「現象は、ただの現象。
   そこに、意味は無い」
 と、
 判断していました。
 
 
 そして、一昨日、
 12月2日。
 
 どんなきっかけだったか、
 それすらも、覚えていないのですが、
 
 急に、
  「あぁ、『エゴ』にエサを与える件 を、
   ブログに書こう。
   いまなら、書けそうだな」
 と思い、
 
 書き始めると、素直に書けたので、
 それを、ひととおり書き終えるまでタイプし、
 その日は、寝ました。
 
 翌、12月3日、
 昨日の、朝。
 
 前日に書いた記事に、改めて目を通してみると、
 あらかた、すんなりと読めましたので、
 多少、校正をして、
 ブログにアップをしました。
 
 そして迎えた、
 その日の昼の、個人セッション。
 
 いらしてくださった、クライアントさんに、
 まず最初に、
 本日いらしてくださった動機・目的を、お聞きすると、
 
 その方が、開口一番、
 こう、おっしゃいました。
 
  「摂食障害というわけではないんですが、
   どうしても、過食してしまうんです。
   それを、止められないんです ... 」
 
 
 もう一度、
 似た現象が、
 より顕著な現象が、繰り返されました。
 
 そこで、今回は、
 改めて、はっきりと、
  「シンクロだ」
 と、認識し、
 
 加えて、
 それを、
  「ただの現象」
 とは、判定せずに、
 
  「意味あること」
  「必然として、起きてきたこと」
 と、
 受け止めることにしました。
 
 そう認識し、受け入れ、受け止めることが、
 いまの僕には、必要なんだと、
 解釈しました。
 
 
 僕は、ふだん、
 
  「意味づけ」
 を、
 極力、排するように、しています。
 
 スピリチュアルなことに、親しみはじめて以来、
 しばらくは、
 出来事の意味合いを考えていました。
 
 そして、
 出来事に対して、
 
  「すごい!」
 とか、
  「シンクロだ」
 とか、
  「それは、こういうことを表している」
 とか、
 
 そんなことを、
 盛んに、考え、評価していました。
 
 
 ですが、
 そのようなことを指向していると、
 
 まず、
 思考が、絶えず、動いてしまいます。
 
 思考で、
 「意味」を探してしまいます。
 
 
 そして、
 見いだされた「意味」に付随して、
 
 「良い」「悪い」の判断が、
 働いてしまい、
 その判断行為が、止まらなくなり、
 
 その結果、
 「気分」が動かされてしまいます。
 
 「悪い」との判断になれば、
 必然、気分は確実に下がります。
 
 
 しばらくは、
 そんなことを含めて、楽しく感じ、
 
 ある意味、積極的に、
 そんな行為を行っていたのですが、
 
 そのうちに、
 そのデメリット面が、
 「楽しさ」というメリット面を上回るようになり、
 
 自然と、
 物事・現象への判断を、抑えるように、
 
 場合によっては、
 否定し、毛嫌いするように、
 なっていました。
 
 
 ところが、
 そんな状況で迎えた、
 今回の、一連の出来事。
 
 自分の中に、
 「意味づけ」を、
 
 ある意味、「否定」し、
 「毛嫌い」すらしていることを、
 見つめ直さざるを、得ませんでした。
 
 
 スピリチュアルなことを知る前の、
  「(物事の裏側に、意味があるという可能性すら知らずに)
   物事・出来事には、意味は無い」
 という認識の段階から、
 
 スピリチュアルなことを知って、
  「物事・出来事には、すべて、意味がある」
 という認識の段階に移行し、
 
 そこを経て、
 現在の僕は、
  「現象は、ただの現象」
 という段階に至っているものと、認識していました。
 
 
 ですが、
 僕の場合には、
 
 「第2段階への否定」があった上での、第3段階、
 という状況なのであって、
 
 なので、
 厳密には、第3段階に至ってはおらず、
 
 第2段階の体験不足であると、
 理解しました。
 
 もっと、
 「現象を生み出している側」の意識・存在を肯定し、
 「現象を生み出している側」に、積極的に、同調してみる
 
 そんなことが必要なのだと、思いました。
 
 
 ちょっと、
 先を急ぎ過ぎたようです。
 
 頭だけで、
 先に進もうと、し過ぎたみたいです。
 
 まだ、アンバランスでした。
 
 
  「物事の裏側には、意味・意図が存在している」
 という認識は、
 
 僕が接する人々にとっては、
 とても大切な認識であるにもかかわらず、
 
 僕にとっても、
 重要な事柄であるにもかかわらず、
 
 僕の勝手な思い込みで、
 それを軽視し、排除すらしようとしていました。

 
 別の表現で表すと、
 
  「スピリチュアルであること」
 を、
  「スピリチュアルな表現・説明」
 を、
  「スピリチュアルなことを前提・当然とした上での説明」
 を、
 
 僕の勝手な思い込みで、
 極力、廃しようとしていました。
 
 
 でも、僕も、
 もうすこし、
 スピリチュアルであっていいみたいです。
 
 もうすこし、ゆっくりと、
 スピリチュアルな道程を、楽しんでもいいみたいです。











2017年12月3日日曜日

「エゴ」にエサを与える


 前々回の、大阪イベントの際に、
 個人セッションを受けてくださった方がいて、
 
 その方とのやり取りの中で、
 教えたいただいたこと、気づいたことを、
 このブロッグで書くことを、すっかり、忘れていました ^^; 。
 
 もう、半年以上も時間が経ってしまって、
 その方とのやり取りについては、記憶違いがあるかもしれませんが、
 覚えていることを、ここに、シェアさせていただきます。
 
 ヒントになること、ご参考になることがあれば、
 ぜひ、ご活用ください。
 

 その方は、
 いわゆる「摂食障害」を、患われていて、
 
 過食と嘔吐を、
 繰り返してしまうのだそうです。
 
 仕事が終わり、一人暮らしの家に帰る途中、
 その日の夕食を、調達します、
 
 大量に。
 
 そして、
 帰宅後、夕食を食べます、
 
 大量に、黙々と。
 
 そして、その後、
 自ら、嘔吐します、
 
 罪悪感、自己嫌悪とともに ...
 
 
  「なぜ、大量に、召し上がるのですか?」
 
 僕の質問に、
 こう、お答えになられました。
 
  「食事をしている最中だけ、
   落ち着いていられるのです。
   
   内側が、静かなのです。
   
   自分を咎(とが)める声が、
   自分を否定する声が、
   自分の無価値さを嘆き叫ぶ声が、
   
   無心に食べている間だけ、
   止むんです。」
 
 そう、おっしゃいました。
 
 
 それをお聞きして、
  「あぁ、なるほど」
 と、思いました。
 
 僕にも、
 こころあたりが、あるからです。
 
 
 僕も、いまも、そこそこ、暴食気味なことがありますし、
 若い頃には、かなり、暴飲暴食をしていました。
 
 若い頃に、一番暴食をし、
 そして、それゆえに、一番太っていたのは、
 
 自分として、もっとも、学業成績が悪い時期で、
 それは、もっとも、自己嫌悪の強い時期(の一つ)でした。
 
 また、それは、
 「どうしたらいいんだろう?」と、
 もっとも、不安が強く、悩み深き時期であり、
 
 「でも、どうにもできない!」と、
 もっとも、途方に暮れた時期(の一つ)でした。
 
 
 また、僕は、
 お酒を飲むと、とても気分が良くなります。
 
 体質的には、それほどお酒は飲めないのですが、
 飲むと気分が良くなるので、頻繁に、飲酒をします。
 
 では、
  「どう、気分が良くなるか?」
 というと、
 
 太っ腹になるというか、
 気が大きくなるというか、
 心配が、無くなります。
 不安を、感じなくなります。
 
 
 僕の場合、
 暴食しているときには、
 
 無心になれるというか、
 現実を忘れられるというか、
 現実から逃避できる感じがしています。
 
 それは、
 一つには、
 食事を採っていることによって発せられる
 ドーパミンによって、
 
 何かポジティヴな感覚を感じられている、
 と、認識することもできます。
 
 
 ですが、
 より、適切な感覚としては、
 
 食事を採っている際には、
 その体感覚が、しっかりと、強く、
 
 その感覚に、
 (無意識のうちに)意識を集中させることによって、
 
 自分の中の、
  「自分を責める声」
  「不安を叫ぶ声」
  「途方に暮れて嘆く声」
 が、
 聞こえなくなる、
 
 そんな感じだと、認識しています。
 
 
 また、
 お酒を飲んだ際には、
 
 自分の中の、
  「自分を不安視する『自分』」
  「自分の行動を監視し、見張る『自分』」
 が、
 
 アルコールの作用によって、
 寝てしまうというか、
 寛(くつろ)ぐというか、
 仕事を放棄するというか、
 
 そんなことが起きて、
 
 それゆえに、
 それらの声が、内側で、鳴り響かなくなり、
 
 それゆえに、
 飲んでいる間だけ、それらの声を聞かずに済み、
 
 それゆえに、
 自分の思ったままに行動できるし、
 将来のことまで考えずに、その場を楽しむことができる、
 だから、楽しく、リラックスできている。
 
 そんな感じだと、感じています。
 
 
 そんな、
 自分自身における体験から、
 
 その方のおっしゃっていることの意味が、
 その一部分だけに過ぎませんが、
 僕なりに、分かった気がしました。
 
 そして、
 僕なりの理解の仕方からすれば、
 
 その方の場合には、
 こんなことが起きていると、例えてみることができるのでは、
 と、思いました。
 
 
 その方の場合には、
 その他の方々に比べて、圧倒的に強力な、
 「自分を否定するエゴ」が、存在しています。
 
 それは、
 あまりに強力で、
 いえ、「凶暴」とすら言えるほどで、
 
 なので、
 その存在は、
 まるで「狂犬」と、みなせる感じです。
 
 その、『内なる狂犬』が、常に、
  「それじゃぁ、ダメだ!」
  「お前は、ダメだ!」
 と、
 
 自分に向かって、
 吠え、叫んでいるのです。
 
 
 そんな、内なる狂犬を飼っている場合には、
 「自分が食事を採る」ということが、
 
 すなわち、イコール、
 「その狂犬に、エサを与える」ということになります。
 
 自分が、食べたものが、
 その狂犬の、エサになるのです。
 
 だから、
 自分が食べている間、
 その狂犬も、食べています。
 
 その狂犬は、
 食事中だけ、叫ぶことができません。
 
 また、
 その狂犬も、
 一日中、叫び続けているので、
 夕方には、猛烈に、空腹になっています。
 
 なので、
 無心に、猛烈に、大量に、
 食べます。
 食べ続けます。
 
 
 ところが、
 そんな狂犬も、
 やがて、お腹が満ちて来ます。
 
 すると、
 また即座に、叫びはじめます。
 
  「なんで、そんなに食べるんだ!
   やっぱり、ダメなやつだな!!」
 
 再開したその声に、怯(おび)えながら、
 嘔吐を繰り返します、
 
 そんなことを繰り返してしまう、
 自分の行為を、
 さらに、自分でも、強烈に嫌悪しながら ...
 
 
 ご自分が、
 自らの意思や望みから、かけ離れて、
 
 何らかの行為を、
 (無意識のうちに)繰り返してしまう場合、
 
 どんな「内なる声」が存在しているのか、
 
 たとえば、このような、
 強力な自己否定、自己嫌悪、自己監視のエゴが存在していないか、
 
 ぜひ、
 チェックなさってください。
 
 まず、
 内側で繰り広げられている「やり取り」に、
 どうぞ、気づいてあげてください。
 
 それが、
 第一歩です。
 
 
 そして、それに気づけたなら、
 その段階で、
 何らかの対応・対策・対処を施せるケースがあると思います。
 
 その場合には、
 どうぞ、あせらずに、かつ、可能な範囲で迅速に、
 できることを、なさってください。
 
 
 でも、
 すぐには、対応できない場合もありますよね。
 
 その場合には、
 
 その、これまでの、(無意識の)行動を、
 またふたたび、採ってしまうことを、
 ご自分に、許してあげてください。
 
 もし、すぐには、対応できず、
 そして、それが、
 身体的に、経済的に、人間関係的に、
 もう少し続けても大丈夫なようなら、
 
 それを続けてしまうことを、
 ご自分に、許してあげてください。
 
 続けてしまう自分を、しまった自分を、
 責めるのを、お止めになってください。
 
 
 自分の内側に、
 自分を責める、強力なエネルギーが存在していて、
 
 その存在に、
 強烈に、否定され、責められているのに、
 
 それに加えて、
 その状態を、そんな自分を、
 ご自分自身が、さらに、責め、否定してしまったら、
 
 どんなに強い人でも、
 挫(くじ)けてしまいます。
 
 
 その、
 「さらに、自分自身が、責めてしまう」
 という部分を、終わらせること。
 
 それが、大切です。
 
 そして、そのためにも、
 まず、いったん、
 
 どんな自分でも、
 どんな小さなことでも、結構です、
 
 自分を、許してあげてください。
 
 
 そこが、スタートです。
 
 そこが、
 「自己否定の、無限ループ」の、
 終わりの始まり、です。
 
 
 「否定の、無限ループ」を終わらせるには、
 「否定」を、許してあげてください。
 
 否定的行為を、否定せずに、採らせてあげてください。
 
 それができれば、
 
 そこからは、
 「肯定の、無限ループ」が始まります。
 
 
 否定される、責められる、
 そんな自分を、そんな状況を、
 『北風』で、吹き飛ばそうと、振り払おうと、するのを止めて、
 
 そんな自分を、そんな状況を、
 『太陽』で、温めようと、労(ねぎら)おうと、したとき、
 
 「肯定の、無限ループ」が始まります。









2017年12月1日金曜日

「自信がない」とは

 
 「自信がある」とか、
 「自信がない」とか、
 とても一般的に、使っていますね。
 
 ですが、
 それって、具体的には、どういう意味なのでしょうか?
 
 あるいは、
 「自信を持つ」ためには、
 具体的には、どうしたらいいのでしょうか?
 
 以下は、
 僕における認識、
 僕における一部ケースの場合の実例ですが、
 
 ご参考になることがあるかもしれませんので、
 シェアさせていただきます。
 

 「自信がない」とは、
 
 「自分の感情体」や、
 「自分の本当の想い」など、
 
 「自分の内側」が、
 
  「蔑(ないがし)ろにされている」
  「無視されている」
  「大切にされていない」
  「重視されていない」
  「尊重されていない」
  「信じてもらえていない」
 
 と、感じていること。
 
 
 その結果、
 
 「自分の内側」
 「自分の感情」が、
 
 「自分(の行動主体)」
 「自分(の判断主体)」を、
 
 信じていないこと。
 
 です。
 
 
 この場合、
 「自信がない」とは、
 
 「自信」という感覚が無い、少ない、
 というよりは、
 
 「『自信がない』という感覚」が有る、強い、
 のです。
 
 
 「自分の感情」が、
 「自分」に対して有している、不信感。
 
 それが、
 「『自信がない』という感覚」です。
 
 
 自分の感情を、
 その存在を、
 それを感じていることを、
 
 認める。
 
 目を背けず、
 無視せず、
 無かったことにせず、
 気づかぬ振りをせず、
 
 認める。
 
 そして、可能ならば、寄り添う。
 同調する。
 共感する。
 
 さらにもし可能ならば、
 その感情に基づいて、行動する。
 判断する。
 
 
 それをできていないと、
 「自信がない」状態になります。
 
 逆に、
 それをしてあげられると、
 
 だんだんと、
 「自信がない」感覚が少なくなり、
 
 その結果として、
 「自信がある」感覚が増えていく。
 
 ということなのだと、
 理解・認識しています。









2017年11月28日火曜日

子育て こんなケースも

 
 先日の記事、「 幸せな幼少期 」と、
 その元となった記事「 子育てに当たって、「このごろ思うこと」 」とで、
 
 僕が、子育てについて思っている、
 
  価値観を与えてしまうことを、
  ブロックを与えてしまうことを、
  あまり、恐れないでください。
 
 ということを、
 お伝えしました。
 
 
 そこでは、
 前提として、
 
  ブロックを与える親
   → ブロックを受け取る子ども
 
  ブロックを与えない親
   → ブロックの無い(少ない)子ども
  (→ でも、それゆえに、大人になってから苦労)
 
 といったケースを、
 想定し、ご紹介し、
 そして、話を進めました。
 
 
 ところが。
 
 僕が、それらでは、想定していなかったケースを、
 実例として、今回、教えていただく機会がありました。
 
  「こんなケースも、実際にあるのだ、あり得るのだ」
 と、お知りになると、
 
 さらに、子育てに際しての、
 不安感が、過剰な責任感が、少なくなるのではないか、
 と思い、
 
 ご本人の許可をいただいて、
 以下に、ご紹介させていただきます。
 
 
 きっかけは、
 大阪での、「『お金』浄化ワークショップ」でのことです。
 
 ご参加くださった方のお一人が、
 ワークショップの中で、
  「子育てについて、不安に感じてしまう」
 という趣旨のことを、おっしゃったので、
 
 僕は、そのときに、
 先のブログ記事の内容を、お伝えしました。
 
 その方が、ワークショップの後、
 そこでの会話のご感想や、ブログ記事を読まれたご感想を、
 メールしてくださったのですが
 (ありがとうございました)、
 
 そこに、その方の、
 以下のような実例が、書かれていました。
 
 
 ----------
 
  私は、
   「理想的な子育てをしてきたと周りからも思われる、
    そして自分自身もきっとそう自負している母」
  に育ててもらいました。
 
  怒られた記憶は一切ないですし、
  愛情たっぷりに育ててもらいましたし、
  いつも褒められていました。
 
  けれど、私の受け取り方がひねくれていて(笑)、
  褒められたら素直に喜んで自信に繋げず、
 
   「それ以外のことをしたらダメなんだ」
 
  と、どんどん自分のいられる範囲を狭めてきたんだと思います。

  それを「母親のせいだ」と思う怒っている自分と、
  愛情深く、母が思う最善の方法で育ててくれた母に対してそんなことを思う自分を、
  責める自分もいました。
 
  そこらへんはだいぶクリアしてきたつもりですが、
  まだたまに出てくるので、その都度、ちゃんとM2で浄化していこうと思います。
 
  ----------
 
 
 先の書き方で表すと、
 
  ブロックを与えない親
   → ブロックを受け取る(作り出す)子ども
 
 という、
 頭で想定すると、ちょっと、ありえなさそうなケースも、
 実は、ちゃんと、存在しているんですね!
 
 
 この実例をお聞きして、
 (その方には、ちょっと、失礼かもしれませんが)
 僕は、ものすごく、ホッとしました。
 
  親が、どういう状態で、
  どう、子育てをするか、子どもに接するか
 
 と、
 
  それを受けて、
  子どもが、どう、育つか
 
 とは、
 
 (そこに、「傾向」「可能性の高低」こそ、あるとしても)
 やはり、「一対一の関係」ではなく、
 
  それぞれに、ケースバイケースである
 
 ということを、
 「実例」として、証明できた感じがしたからです。
 
 この実例をお聞きして、
 こころから、納得ができました。
 こころから、自信が持てました。
 こころから、安心できました。
 
 
  「自分が、子どもに対して、どう接し、どう振る舞うか」
 と、
 
 それを受けて、
  「子どもが、どういうブロックを持つか」
 とは、
 
 (そこに、「傾向」「可能性の高低」こそ、あるとしても)
 確定的ではない。
 
 改めて、
 そう、思ってみてください。
 
 
 僕は、今回、
 そう、改めて、しっかりと思えたとき、
 まず、
 
  「自分は、子どもとの接触・やり取り・関係を通じて、
   『自分自身の体験』をしているんだ」
  「『自分の体験』として、子どもと接しているんだ」
  「『自分の体験』のために、子どもが存在してくれているんだ」
 
 と、
 深く、納得できました。
 
 「子ども」という他人が、
 外側に、確定的に、現実的に、存在していると認識していて、
 
  「(その)子どもに、どういう影響を与えてしまうか?」
 を、
 常に、気にしながら、ときに、ビクビクとしながら、
 子どもに接している、
 そういう「自分の中の『自分』」の部分が、
 
 今回、ずいぶんと、昇天していったように思います。
 
 
 と同時に、
 今回、
 その作用を経て、強く想ったのは、
 
  「では、自分が、子ども時代に、
   親との関係から握ったブロックは、
   それは、『自分が握りたかったから』握ったブロックなんだ」
  
  「親から与えられたものではなく、
   親から押し付けられたものではなく、
   『自分が握った』『そして、自分が握り続けた』ブロックなんだ」
 
 と、素直に、思えました。
 
 このことが、
 今回の僕にとっては、
 いまの僕にとっては、
 
 とても大きな気づきであり、
 とても大きな安堵・安らぎとなりました。
 
 
  「自分しか居ない」
 んですね。
 
 
 そして、もう一つ。
 
 先の想定式では、
 
  ブロックを与えない親
   → ブロックを受け取る(作り出す)子ども
 
 として、
 今回実例を教えてくださった方のお母さまを、
 「ブロックを与えない親」と、分類・表現しましたが、
 
  「怒らない」
  「愛情たっぷり」
  「いつも褒める」
 
 というのも、
 一つの『偏り』であり、
 
 それはそれで、
 『ブロック』なんですね。
 
 いわば、
  「『ポジティヴ』な偏り」
  「『ポジティヴ』なブロック」
 とでも言う。
 
 それも、たいへん勉強になりました。
 
 僕の中の、
 そちらを希求する想いも、それを良しとする想いも、
 明らかに、「ブロック」ですね。
 
 それを、改めて、認識できました。











2017年11月26日日曜日

「どちらも」は、ありえない って、決めつけてませんか?

 
 今回の、大阪イベントの往復には、
 飛行機を利用しました。
 
 往路は、
 久しぶりに、窓側の席に当たり、
 天候も、晴れ。
 しかも、昼間の時間帯だったため、
 
 いくつか、
 記憶に残る光景を目にすることができました。
 
 
 まず、富士山。
 
 雪を抱き、
 雲も纏(まと)い、
 ある意味、とても富士山らしいお姿を、
 
 ほぼ真上から、
 拝ませていただけました。



 座席が、窓側とはいえ、
 右側だと分かったとき、
 
  「あぁ、せっかくの窓席だけど、
   富士山は、ダメだな」
 
 と、残念に思いました。
 
 よく利用する、その航空会社の航路では、
 富士山は、いつも、飛行機の左側に、見えるからです。
 
 離陸後、
 千葉上空、
 続いて、東京上空を滑空し、


 順調に、
 神奈川、そして静岡に、入って行きます。
 
 眼下に、山中湖が見えたときには、
 
  「あぁ、やっぱり、ダメだな。
   いつもよりは、北側を通ってくれているけど、
   でも、この感じだと、こちら側の窓からは、見えないな ... 」
 
 そう、思っていると、
 
 機体が、突然、
 わずかに、左に旋回しました。
 
  「えっ ... 」
 
 そのタイミング、その方向に、
 ビックリしました。
 
 案の定、
 そのおかげで、
 見えていた富士山麓の範囲が、増大していきます。
 
 徐々に、
 白い山肌が、左方向から、流れてきました。
 
 結果。
 
 富士山を、
 そのお釜が覗けるくらい、真上から、
 拝ませていただけました。
 
 写真を撮りつつも、
 その光景を凝視し、
 脳裏に焼き付けました。
 
 
 その後、
 飛行機は、順調に、航路を消化していきます。
 
 ついに、
 和歌山上空にまで達し、
 紀の川、さらには和歌山城も、目視できました。
 
  「このあたりで、右旋回して、北に向かい、
   もうすぐ、着陸だな」
 
 遠方ながら、関空も見えており、
 これまでの体験から、
 そう、思っていると、
 
 飛行機は、
 いつまでたっても、直進を止めません。
 
 紀伊水道に入っても、
 淡路島が見えてきても、
 西行を止めません。
 
 ついには、
 淡路島の中程にまで、入り込んで行きます。
 
  「いやいや、そこまで行って、大丈夫なの?
   いや、この飛行機って、九州行きだったっけ?」
 
 そんな愚かしいことを、
 一部で、本気に、心配する気持ちが湧きはじめたころ、
 
 ようやく、
 機体が、右旋回をはじめました。
 
 その時です。
 
 この映像が、肉眼に、飛び込んで来ました。
 
 2015年、沖縄からの帰路 以来の、
 機体ブロッケンです。


 
 高度を下げつつ、淡路島上空に入って、
 そこではじめて、機体が雲が近づき、
 
 そのうえに、
 機体を旋回して、角度が変わり、
 
 そこではじめて、
 僕の席から、窓から、
 見ることができた、現象でした。
 
 
 その後、
 若干東よりに北上した飛行機は、
 神戸上空にまで進み、
 僕の席からも、大阪市街を、眺めることができました。
 
 そして、
 最後にもう一度、右旋回したときには、
 このように、黄金に光輝く大阪湾を、見せてくれました。


 
 
 事後、振り返って見れば、
 すべては、『僕のために』に、
 整えられ、与えられたことでした。
 
  窓席があてがわれたこと。
  
  それが、右側であったこと。
 
  富士山手前での、航路の微調整。
 
  淡路島への、直進。
 
  神戸・大阪までの、北上・大回り。
 
 でも、結果を知らない僕は、
 事前には、
 それらの出来事・展開を、
 不満に思い、あるいは、心配すらしていました。
 
 もたらされる結果が、
 予想すらしていない、最高のものであるにもかかわらず ...
 
 
 これまで、自分が体験してきたこと、
 これまで、自分が認識してきたこと、判断・評価してきたこと、
 
 そこにおける、事の成り立ちのカラクリを、
 見せつけられた気がしました。
 
 
 さて、
 大阪でのイベントを、
 おかげさまで、すべて、無事に、終えた後。
 
 来年から、もう一つの、新たな仕事となる、
 「うさと服」の販売
 
 その、本拠地である、京都を、訪れ、
 うさとのお店を覗いて、うさと服についての勉強をしてきました。
  
 営業時間以外には、
 「美的感覚」そのものを養おうと、補おうと、
 
 京都の町を散策したり、美術館を訪れたりできて、
 充実した時間を過ごすことができました。
 
 
 11月中旬の、秋の京都は、
 紅葉真っ盛りでした。
 
 樹々の様子、山々の色づき、
 庭園の佇まいなど、
 
 感じることが多く、
 学びとるべきことに溢れていました。


 
 そんな中。
 
 訪れた二カ所で、
 このような光景を目にしました。




 
 これまでにも、
 「桜の狂い咲き」は、何度か、
 いえ、何度も、目にしてきましたが、
 
 このときのように、
 楓などの紅葉と併置された様子を見たのは、
 はじめてでした。
 
 それらを目にして、
 地球から、このように言われているように、
 思うことがありました。
 
  「どちらか」しかない って、思っていませんか?
  「どちらも」は、ありえない って、決めつけてませんか?
 
 
 また、その後には、
 このような光景にも、出会いました。



 アオサギに、野生の大型の鳥に(カラスを除く)、
 このようにまで、近づくことができたのは、はじめてでしたし、
 
 そのアオサギの視線の先には、
 「鳥の天敵」とも言うべき猫が、しかも数匹、
 くつろいで、存在している光景も、はじめてでしたし、
 
 両者が、
 (多少の警戒感を持ちつつも)敵対的・対立的でなく、
 共存している光景も、はじめてでした。
 
 何か、
 「自分が知っているプログラム」とは、異なるプログラムに基づいた映像が、
 上映され、見せられている気がしました。
 
 「自分が慣れ親しんで来た地球・日本」とは、かなり違う場所に、
 ワープし、存在させられている気がしました。 
 
 
  これまでは、どうであったとしても、
  これまでの、ありようは、どうであったにせよ、
 
  これからは、「どちらも」を、選択できますよ。
 「どちらも」を、選択してもいいんですよ。
 
  いままでを、引きずらなくていいんですよ。
  
  そして、すべては、あなたの選択次第ですよ。
 
 そう、
 地球から言われているように、
 感じました。










2017年11月25日土曜日

『第7回大阪イベント』を終えて


 2017年11月17日(金)、18日(土)、19日(日)の3日間、
 大阪で7回目のイベントを、開催することができました。


 冬の寒さに満ち、街中では黄色く色づいたイチョウが目立つ、
 11月の、大阪で、
 
 津留さん交流会に10名、
 個人セッションに6名、
 
 そして、今回が、大阪では はじめてだった、
 『お金』浄化ワークショップに10名、
 
 計26名の方々が、ご参加くださいました。
 
 おそらく、今回がはじめて、
 募集した定員すべてが埋まるという、
 「満員御礼」のイベントで、
 
 いつもに加えて、一つ多く、嬉しさを感じましたし、
 また一つ、新たな体験をさせていただけました。
 
 ご参加くださったみなさん、ありがとうございました。

 
 『お金』浄化ワークショップでは、
 みなさんが、たくさん、質問してくださり、
 そして、気づいたことを、シェアしてくださり、
 
 活発な雰囲気の中で、進めることができて、やり易かったですし、
 こちらも、気づけたこと、知ることができたことが多く、楽しかったです。
 
 
 個人セッションでは、
 これまで同様に、浄化をしっかりとしてくださる方や、
 今回は、お話しすることがメインの方や、
 僕に、いろいろ、気づき・情報を教えてくださることがメインの方など、
 バリエーションも豊富で、楽しく、気づきも多く、
 そんな中で、個人セッションをさせていただくことができました。
 
 
 交流会は、顔なじみの方々が多数お越しくださり、
 はじめての方も、ご参加くださり、
 そんな中、とても深い理解をシェアしてくださる方が多く、
 会話も活発に行き交い、素晴らしいお話をたくさん伺え、
 とても楽しく、気づきもたくさん得られました。
 
 
 今回も、たくさんの方にお会いでき、
 たくさんの、学び多い、素晴らしいお話をお聞きでき、
 とても楽しく、とても嬉しかったです。
 
 ここのところ、大阪には、定期的(半年ごと)に伺えて、
 とても嬉しく思っています。
 
 また、伺うことになると思いますが、どうぞよろしくお願いします。
 また、みなさまにお会いできることを、楽しみにしています。
 
     集合人編集局 ひで


  イベントの様子につきましては、
  こちらの「 『第7回大阪イベント』のご報告 」のページをご覧ください。