津留さんは、
『想念観察』
と、
『呼吸に意識を合わせること』
とを、
常日頃、意識的に行うべきこととして、推奨していました。
『想念観察』
は、
「自分が、いつも、どんなことを考えているのか」
「どんな思考をしているのか」
「どんな想念を持っているのか」
「どんな思考パターンを持っているのか」
そういうことに気づくことを、目的としています。
それによって、
自らの持つ
『エネルギーブロック』『ミニ自我』『価値観』『想念』『思考パターン』
を見つけ出し、
そして、
「それらを浄化する」
ことができるようになります。
と同時に、
『思考している自分』『思考に入っている自分』『想念と一体化している自分』
に、いち早く気づき、
そして、
「そこから離れられるようになる」
ことができます。
思考から離れる、その第一歩として、
「常に『自分』を見張る、ということができるようになる」
という効果もあります。
つまり、
『思考・想念との一体化に気づき、そしてそれを止める」
「思考が自動的に始動することに気づき、そしてそれを止める」
そんな効果もあります。
また、
『呼吸に意識を合わせる』
のは、
「『呼吸』をしている自分は、『大我』としての自分」
なので、
「そこに意識を合わせるのは、すなわち、『大我』としての自分に意識を合わせる」
ことになります。
その状態こそが、津留さん曰く
『理想の状態』
であり、
24時間、常に、その状態で居られれば、それは
『悟った人』
だそうです。
ちなみにいえば、
そのときには、自動的に、「思考から離れた自分」で居られます。
さて。
僕の現状を、正直にお話しすれば、
『想念観察』
に関しては、
まあ、少し、できているかもしれません。
「自分の思考が動き出す」
こと、そのものを、止められるようには、あまり、なっていませんが、
「動き出したことを、そのしばらく後に、気づく」
ことは、少し、できるようになってきています。
なので、
まだまだ、
「動き出した思考と一体化してしまう」
ことは、それなりに、あるのですが、
それでも、
「それに、どっぷりと浸かってしまう」
ということは、
ずいぶんと少なくなってきたというか、落ち着いてきた、という感じはしています
(もちろん、これは、完全な『主観』ですが ^^; )。
一方、
『呼吸に意識を合わせる』
ことは、
お恥ずかしながら、まったく、できていません。
ふだん、『呼吸』には、
まったく意識を向けられていません。
まだまだ、
『エネルギーブロック』だらけ、『ミニ自我』だらけ
で、
まだまだ、
「思考の動き」が活発で、頻繁に「思考が動き出す」
状態なので、
それらに意識を向けることで精一杯で、
『呼吸』には、
ぜんぜん意識を向けられていない状況です。
ところで、
いま、
「それら(思考の動き)に意識を向けることで精一杯」
って言いました。
たしかに、
いったん、思考が動き出せば、そして、そのことに気がつけば、
「意識をそこに向け、思考を観察する」
と同時に、
「できるだけ速やかに、それを止める、抑える」
ということをしています。
そうすることを、心がけています。
ただ、
では、
「日ごろ、何を、一番、心がけているか?」
「何に、一番、意識を向けているか?」
ということに関していえば、
僕の場合、それは、
「ハートの状態」
です。
「ハートに感じる、感情」
です。
僕は、それを、
『ハート観察』
『感情観察』
と、呼んでいます、
一人で、勝手に ^^ 。
僕の場合は、
不快な感覚は、
ほとんど、『ハート』に感じます。
いわゆる『ストレス』は、
「『ハート』の不快感」
として、感じます。
もちろん、それは、あくまでも、
「ほとんど」
であり、
たとえば、
「あ、これは、マズイ! どうしたらいいだろう!?」
というような、大きめの動揺や、大きめの焦りの場合は、
頭全体(特に、頭頂から後頭)が痺(しび)れて、
思考がきちんと機能しないような状態になり、
かつ、同時に、
ほんの少し、意識が後退するような感覚があります
(いわゆる、『頭が真っ白になる』状態ですね)。
あるいは、
「なんだと!」
というような、大きめ・強めの怒りの場合は、
頭(特に、前頭から頭頂)が膨張し、そして圧迫されて、
その圧迫の中で、意識が拘束されてしまっているような感覚があります
(いわゆる、『頭に血がのぼる』状態ですね)。
というように、
『ハート』以外で、ストレスを感じることもありますが、
ただ、
基本的には、ほとんど、
「『ハート』でストレスを感じる」
ので、
常日頃は、『ハート』の状態を観察しています。
これも、また、
「常にできている」わけなんかではなく、
しょっちゅう、しょっちゅう、
意識は、ふらふらと、『ハート』からどこかへ、行ってしまっていますが、
でも、
可能な限り、意識を『ハート』に向け、その状態を観察しています。
「いま、『ハート』に、ストレスを感じているか、いないか?」
「『ハート』に刺激があるか? 違和感があるか?」
を、見張っています。
『感じて』います。
そして、
何か、『ハート』に感覚があれば、『刺激』『痛み』があれば、
それを、そのまま、『感じ』ています。
可能ならば、
その『感覚』『刺激』が消えてしまうまで、
それを、そのまま、『感じ』ています。
もし、
意識が逸(それ)れてしまったり、
意識が思考に行ってしまったり、
あるいは、その『感覚』が逃げてしまったり、
ということがあっても、
とりあえず、そのことは気にせず、
とにかく、
「いま来ている『エネルギー』に意識を向けること、『感じ』ること」
をしています。
つまり、
いま、その場で、できる分だけ、『感じられる』分だけ、
『浄化』
をしています。
このことができているときには、
意識は、『ハート』に向けられていますので、
結果として、
意識を『思考』から離すことも、同時に、できています。
また、
自分のストレスを、生じるそばから、気づけていますので、
「『何』が、自分にストレスをもたらしているのか」
に、気づけます。
「『何』が、自分の『ブロック』を刺激するか」
に、気づけます。
つまり、
「『何』を、自分は『問題』としているのか」
に、気づけます。
そして、
もちろん、
「『何』を、自分は『ブロック』として持っているか」
に、気づけます。
そして、
すぐ、そのまま、
『浄化』
を行うことができます。
意識を、
『内側』に『内側』に、向けることができます。
向け続けることができます。
さて、
日ごろ、このように、『ハート』を観察していると、
お恥ずかしながら、
僕の場合、
常に常に、『ハート』は、ストレスを感じています。
常に常に、『ハート』は、「チクチク」と、痛みを感じています。
本当に、様々なことに、『ハート』は反応し、
本当に、些細なことに、『ハート』は痛みを感じています。
これって、
僕が、『ブロック』だらけだという、なによりの証拠なので、
ここで明らかにするのは、お恥ずかしい限りなのですが、
とはいえ、
その痛みに『気づけ』ている、ということは、
「意識を、しっかりと、『意識的に』、『ハート』に向けられている」
という証拠でもありますし、
あと、
その痛みが「チクチク」程度の、小さなものである、ということは、
「大きな『ブロック』に関しては、ある程度、浄化が終わっていて、
いま、日常生活において刺激されるような『ブロック』は、
ずいぶんと、小さなものばかりになった」
ということの証拠でもある、と認識しています。
なので、
個人的には、そのことを、あまりネガティブには、とらえていなくて、
「まあ、いいか」
「仕方ない。これが、等身大の自分だ」
というような感じで、
素直に、受け止め、受け入れています。
おそらく、
一人でいる時とか、あまりブロックが刺激されないような環境では、
僕のようなタイプであっても、
『呼吸に意識を合わせ』たり、『想念観察』をするのが、いいのだと思います。
ただ、
僕の場合は、
誰か他の人と一緒にいるときには、
まだまだ、様々なことに、些細なことに、雑多なことに、
細かく細かく、たくさんの刺激・ストレスを感じるので、
いま、している、
『ハート観察』
『感情観察』
というのは、
「それでいいのではないか」
と思っています。
「『感じる』がままに、『浄化』ができる」
という点においても、とてもいいと感じています。
津留さんが、
「『想念』『呼吸』」
と言ったように、
たとえば、
先にご紹介した上江洲先生は、
「『第3の眼』に意識を向けること」
を説いてらっしゃるし、
あるいは、最近では、
「『丹田(男性の場合)』『子宮(女性の場合)』に意識を向けるのがいい」
というような話も、耳にしました。
確かに、そうなのかもしれません。
『覚醒への近道』
という意味では、おそらく、そうなのだと思います。
ですので、
それらに興味がある方は、
それらに意識を合わせ、合わせ続けられる方は、
ぜひ、それらを行っていただければ、と思います。
ただ、
現状の僕には、
『ハート観察』は、とても向いているし、
遅い歩みであるとはいえ、
「ちゃんと前進している」
という実感もあります。
一回一回の浄化は、
とても小さく、とても細かいものですが、
「常に常に浄化を行っている」
という点では、
「まあ、これでいいのではないか」
と、思っています。
もしご参考になることがあれば、と思い、
ご紹介させていただきました。