2017年12月6日水曜日

見つめる


 いま、お子さんをお持ちの方は、ご存知だと思いますが、
 
 今どきの子どもたちは、
 友達と一緒に、
 「家の中」で、遊ぶんですよね。
 
 「一緒に遊ぶ内容が、ゲーム(機)だから」
 だ、とか、
 「外で遊ぶのか危ないから」「外で安全に遊べる場所が無いから」
 だとか、
 
 僕の時代とは、背景が違うし、
 
 あるいは、当時でも、
 女の子たちは、よく、
 「家の中」で、遊んでいたのかもしれませんが、
 
 いまは、
 男の子でも、女の子でも、
 
 お菓子を持って、友達の家に行き、
 そこで、一緒に、遊ぶことが、スタンダードなようです。
 
 
 上の男の子の場合、
 小学校入学以来、ほぼ毎日のように、
 友達が、わが家に遊びに来ていました。
 
 彼が、(ようやく)外遊びをするようになり、
 家が、静かになったと思ったころ、
 
 今度は、
 下の娘が、友達を連れてくるようになりました。
 
 子どもたちの友達が、わが家に遊びに来たところで、
 僕は、
 その子たちとは少し離れた場所で、仕事をしているだけなので、
 
 多少騒がし過ぎたりして、
 嫌な想いをすることはあっても、
 高がしれていて、
 
 「決して望ましくはないが、積極的に拒否するほどでもない」
 感じで、これまでいました。
 
 
 ところが。
 
 娘の友達に、
 一人、
 どうにも、苦手な子がいます。
 
 具体的な、苦手な理由は、よく把握できず、
 陳腐な表現ですが、「雰囲気が、好きでない」のに加えて、
 
 臭い、見た目、声 ...
 そんな、物理的な部分も、
 どうにも、苦手なのです。
 
 加えて。
 
 その子が連れてくる、
 その子の弟が、
 その子に増して、苦手です。
 
 その、苦手な理由も、まったく同じです。
 
 
 その子たちに関してだけは、
 使う表現としては、間接的にしていますが、
 積極的に、家に来ないように、仕向けます。
 
 ところが。
 
 こちらの、
  「来ないで!」
 の想いの強さと、同じだけの強さで、
 
  「行くよ!」「来たよ!」
 が、現れます ^^; 。
 
 僕としては、
 もちろん、
 積極的に、浄化をしますが、
 
 どうにも、
 その「苦手感」「嫌さ」は、
 無くなりません。
 あまり減りません。
 
 なので、
 より積極的に、僕の
  「来ないで!」
 が表出し、
 
 その結果、
 より顕著に、頻繁に、
  「来たよ!」
 が、やって来ます。
 
 それが、繰り返されます。
 
 
 そんな、ある日。
 
 その子たちが、やはり、やって来ました。
 
 その日は、僕に出かける用事があり、
 その子たちが占拠している、わが家のダイニングを、
 通る必要がありました。
 
 
  「こんにちは」
 
 僕としては、その時の感情に則して、
 かなり、フラットな感じで、挨拶をしたつもりですが、
 
 それに対して、
 弟くんの、こんな言葉が、耳に飛び込んで来ました。
 
  「怒ったおじさんが、来たよ」
 
 その言葉に、
 ちょっと、唖然としました。
 
 
 僕は、そのときの自分自身を、
 「怒っている」状態だとは、認識していませんでしたし、
 そんな口調でも、内容でも、表情でもないと、
 認識していたからです。
 
 そのような言われ様をされる理由があるか、
 それが、不当ではないのか、
 瞬時に、そこを、検証しようとしました。
 
 そのとき、 
 一つのことに、気づきました。
 
 
 自分の正当性を、検証しようとして、
 相手の真意は何か、相手に落ち度は無いか、
 調べようとしたのですが、
 
 そのとき、
 その、弟くんの表情を、思い出すことができませんでした。
 
 彼のことを、見ていなかったのです。
 
 彼だけでなく、
 その部屋を、その場を、ちゃんと見ていなかったのです。
 
 目を、そむけていたのです。
 
 
 その後、
 その部屋での必要なことを終え、退室し、
 そして、玄関から、外に出ました。
 
 その、出たところに置いてある、
 自転車に乗ろうとしたところ、
 
 ちょうど、窓の前に立つ形になり、
 その窓越しに、ちょうど、ダイニングを眺めることができました。
 
 子どもたちが、騒ぎ、暴れています。
 約束を破って、隣の部屋にまで、なだれ込んでいます。
 そして、冷蔵庫を勝手に開け、中のものを貪(むさぼ)っています。
 
 そんな様子が、目に入ってきました。
 
 
 まず、その段階で、
 自分が感じていた「雰囲気が、好きでない」の理由が、分かった気がし、
 そして、その気持ちに対する、自分の正当性が証明された気がしました。
 
 娘の友達に対して、
 正当な理由・根拠も無く、いわば「不当」に、
 「好きではない」と感じていた自分に対する罪悪感が、払拭されました。
 
 そこで、気持ちがイーブンになりました。
 負い目が無くなり、
 正々堂々としていられる状態になりました。
 
 
 そこで、
 その光景を、見つめることにしました。
 
 僕は、顔だけ、窓からのぞいている形なので、
 僕が見ていることに、子どもたちは、気づいていません。
 
 そこで、その光景を、見つめました。
 文字通り、見つめ続けました。
 
 その、子どもたちの振る舞いを「悪し」とするエゴが、
 かなり強めの苦痛を、僕の胸に感じさせてきます。
 
 肉眼の目で、子どもたちの振る舞いを見つめ続けながら、
 内なる目で、その感情を見つめ続けました。
 
 浄化できているのか、感情が減っているのか、
 よく、分からなくなっていましたが、
 一段落とし、その場を離れました。
 
 胸の痛みは、
 その場を離れても、しばらく続きました。
 
 
 面白いことに、
 そして、よくあるように、
 
 それ以来、これまでのところ、
 僕は、その子たちに、遭遇していません。
 
 その後、わが家に遊びに来たこともあるようですが、
 僕は、出会いませんでした。
 
 おそらく、
 ある程度以上の浄化が、できたのだと思います。
 
 そして、
 僕にとっては、珍しいことに、
 浄化によって、現象の変化を促す結果になりました。
 
 
 普段、浄化の場面では、
 よく、「感情を『見つめてください』」と、申し上げます。
 
  感情を、感じる。感じ尽くす。
  意識を向ける。
  見つめる。
 
 これらは、浄化の、もっとも基本的な方法です。
 
  感情を、
  エネルギーブロックがもたらす感覚を、
  
  感じる、
  内なる意識を向ける、
  内なる目で見つめる。
 
 これらは、浄化の基本的で、
 常々、お伝えもしているし、
 自分でも、行っていることです。
 
 
 ですが、
 同じように、
 
  物理的に見つめること。
  肉眼で、物質・現象・出来事を、見つめること。
 
 これも、同じように、大切なのだと、
 痛感させられました。
 
 
 おもえば、僕は、
 今回の、苦手な子どもたちに対して、行ったように、
 
 嫌なこと、都合の悪いこと、好ましくないこと、
 に対しては、
 
  見ない振りをする
  無かったことにする
  目をそらす
 
 という対応を、採ってきました。
 
 そうすることを、常套手段としてきました。
 
 
 場合によっては、
  「委ねているのだ」
 と、
 自分に弁明し、
 
 そして、
 目をそむけてきたこと、
 放置してきたこと、
 そんなことが、日常的に、多々あったことを、
 思い出させられました。
 
 自分には、そういう、明白な傾向があることに、
 これまでに、もうすでに、気がついていたはずです。
 
 でも、そのことにも、
 目をそらせてきていました ...
 
 その事実に、
 いま、ここで、向き合わざるを得ませんでした。
 
 
 でも、おかげで、
 「何をすればいいのか」が、
 これ以上無いくらいに、明確になりました。
 
 これまでは、「何をしてこなかったのか」を、
 それゆえに、「何が体験不足なのか」を、
 そして、今後は、「何をすればいいのか」を、
 
 これ以上、明確にはできないくらい、はっきりと、
 知ることができました。
 
 
 そして、今後は、
 「内側」だけでなく、外側も、
 「感情」だけでなく、現象も、
 「内なる眼」だけでなく、肉眼でも、
 
 しっかりと、じっくりと、眼(まなこ)を開いて、くっきりと、
 見つめる覚悟が、決まりました。
 
 覚悟が決まり、
 それを、習慣化することも、できてきました。
 
 それ以来、
 それまで、明け方に、定期的に見ていた、
 ある、似た種類の夢たちのことも、
 見ることが無くなりました。
 
 
 僕にとっては、
 「見つめる」ということは、
 最重要ともいうべき、気づきでした。
 
  「人間をする」ということは、
  「体験をする」ということは、
 
  「感情を感じること」であると同時に、
  現象・出来事そのものを、肉眼の眼で、はっきりと、
  「見ること」「見つめること」「観察すること」である。
 
 少なくとも、僕にとっては、そうでした。
 
 そして、今回の件は、
 その気づきを得るための、出来事だったのだと、
 僕のために起きてきてくれた出来事だったのだと、
 あの子たちは、僕のために、存在し、振る舞ってくれていたのだと、
 知ることもできました。