2017年11月28日火曜日

子育て こんなケースも

 
 先日の記事、「 幸せな幼少期 」と、
 その元となった記事「 子育てに当たって、「このごろ思うこと」 」とで、
 
 僕が、子育てについて思っている、
 
  価値観を与えてしまうことを、
  ブロックを与えてしまうことを、
  あまり、恐れないでください。
 
 ということを、
 お伝えしました。
 
 
 そこでは、
 前提として、
 
  ブロックを与える親
   → ブロックを受け取る子ども
 
  ブロックを与えない親
   → ブロックの無い(少ない)子ども
  (→ でも、それゆえに、大人になってから苦労)
 
 といったケースを、
 想定し、ご紹介し、
 そして、話を進めました。
 
 
 ところが。
 
 僕が、それらでは、想定していなかったケースを、
 実例として、今回、教えていただく機会がありました。
 
  「こんなケースも、実際にあるのだ、あり得るのだ」
 と、お知りになると、
 
 さらに、子育てに際しての、
 不安感が、過剰な責任感が、少なくなるのではないか、
 と思い、
 
 ご本人の許可をいただいて、
 以下に、ご紹介させていただきます。
 
 
 きっかけは、
 大阪での、「『お金』浄化ワークショップ」でのことです。
 
 ご参加くださった方のお一人が、
 ワークショップの中で、
  「子育てについて、不安に感じてしまう」
 という趣旨のことを、おっしゃったので、
 
 僕は、そのときに、
 先のブログ記事の内容を、お伝えしました。
 
 その方が、ワークショップの後、
 そこでの会話のご感想や、ブログ記事を読まれたご感想を、
 メールしてくださったのですが
 (ありがとうございました)、
 
 そこに、その方の、
 以下のような実例が、書かれていました。
 
 
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  私は、
   「理想的な子育てをしてきたと周りからも思われる、
    そして自分自身もきっとそう自負している母」
  に育ててもらいました。
 
  怒られた記憶は一切ないですし、
  愛情たっぷりに育ててもらいましたし、
  いつも褒められていました。
 
  けれど、私の受け取り方がひねくれていて(笑)、
  褒められたら素直に喜んで自信に繋げず、
 
   「それ以外のことをしたらダメなんだ」
 
  と、どんどん自分のいられる範囲を狭めてきたんだと思います。

  それを「母親のせいだ」と思う怒っている自分と、
  愛情深く、母が思う最善の方法で育ててくれた母に対してそんなことを思う自分を、
  責める自分もいました。
 
  そこらへんはだいぶクリアしてきたつもりですが、
  まだたまに出てくるので、その都度、ちゃんとM2で浄化していこうと思います。
 
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 先の書き方で表すと、
 
  ブロックを与えない親
   → ブロックを受け取る(作り出す)子ども
 
 という、
 頭で想定すると、ちょっと、ありえなさそうなケースも、
 実は、ちゃんと、存在しているんですね!
 
 
 この実例をお聞きして、
 (その方には、ちょっと、失礼かもしれませんが)
 僕は、ものすごく、ホッとしました。
 
  親が、どういう状態で、
  どう、子育てをするか、子どもに接するか
 
 と、
 
  それを受けて、
  子どもが、どう、育つか
 
 とは、
 
 (そこに、「傾向」「可能性の高低」こそ、あるとしても)
 やはり、「一対一の関係」ではなく、
 
  それぞれに、ケースバイケースである
 
 ということを、
 「実例」として、証明できた感じがしたからです。
 
 この実例をお聞きして、
 こころから、納得ができました。
 こころから、自信が持てました。
 こころから、安心できました。
 
 
  「自分が、子どもに対して、どう接し、どう振る舞うか」
 と、
 
 それを受けて、
  「子どもが、どういうブロックを持つか」
 とは、
 
 (そこに、「傾向」「可能性の高低」こそ、あるとしても)
 確定的ではない。
 
 改めて、
 そう、思ってみてください。
 
 
 僕は、今回、
 そう、改めて、しっかりと思えたとき、
 まず、
 
  「自分は、子どもとの接触・やり取り・関係を通じて、
   『自分自身の体験』をしているんだ」
  「『自分の体験』として、子どもと接しているんだ」
  「『自分の体験』のために、子どもが存在してくれているんだ」
 
 と、
 深く、納得できました。
 
 「子ども」という他人が、
 外側に、確定的に、現実的に、存在していると認識していて、
 
  「(その)子どもに、どういう影響を与えてしまうか?」
 を、
 常に、気にしながら、ときに、ビクビクとしながら、
 子どもに接している、
 そういう「自分の中の『自分』」の部分が、
 
 今回、ずいぶんと、昇天していったように思います。
 
 
 と同時に、
 今回、
 その作用を経て、強く想ったのは、
 
  「では、自分が、子ども時代に、
   親との関係から握ったブロックは、
   それは、『自分が握りたかったから』握ったブロックなんだ」
  
  「親から与えられたものではなく、
   親から押し付けられたものではなく、
   『自分が握った』『そして、自分が握り続けた』ブロックなんだ」
 
 と、素直に、思えました。
 
 このことが、
 今回の僕にとっては、
 いまの僕にとっては、
 
 とても大きな気づきであり、
 とても大きな安堵・安らぎとなりました。
 
 
  「自分しか居ない」
 んですね。
 
 
 そして、もう一つ。
 
 先の想定式では、
 
  ブロックを与えない親
   → ブロックを受け取る(作り出す)子ども
 
 として、
 今回実例を教えてくださった方のお母さまを、
 「ブロックを与えない親」と、分類・表現しましたが、
 
  「怒らない」
  「愛情たっぷり」
  「いつも褒める」
 
 というのも、
 一つの『偏り』であり、
 
 それはそれで、
 『ブロック』なんですね。
 
 いわば、
  「『ポジティヴ』な偏り」
  「『ポジティヴ』なブロック」
 とでも言う。
 
 それも、たいへん勉強になりました。
 
 僕の中の、
 そちらを希求する想いも、それを良しとする想いも、
 明らかに、「ブロック」ですね。
 
 それを、改めて、認識できました。