2015年12月31日木曜日

今年も、ありがとうございました(2015年大晦日に)


2015年という、
これまた、節目の一年を、

わたしたち、集合人編集局は、
みなさまに、ご愛顧いただき、
充実した日々を送ることができ、

そして、今日ここに、
無事、年を越すことができそうです。

みなさま、
まことにありがとうございました。


この一年も、たいへん多くの方々に、
津留さんの商品をご購入いただきました。

そして、
私たちの催した、津留さん交流会・浄化実践講習会・個人セッションには、
名古屋、大阪、そして津留さんの出身県・福岡でのイベントへのご参加を含めると、
のべ350名もの方々に、お越しいただきました。

改めまして、
こころより、感謝申し上げます。


非力ながら、
津留さんのメッセージをお伝えすること、
そして、それに基づいて、実践していただくこと、
そのお手伝いができたとしたら、望外の喜びです。

そして、来年もまた、これまで通りに、
自分たちの役割を果たせていけたらと、思っています。

どうぞよろしくお願いいたします。

改めまして、今年一年、ありがとうございました。
そして、どうぞ良いお年をお迎えください。

  集合人編集局 裕子・ひで






2015年12月25日金曜日

2015年冬至


メリークリスマス。

満月の、クリスマスは、
聞くところによると、19年に一度らしいですね
(情報によっては、その倍の、38年に一度、ともありますが ... )。

いずれにせよ、
今日、いま、このタイミングは、
宇宙における地球として、節目であることは、間違いないと思います。


ところで、
クリスチャンではない、僕にとっては、
「クリスマス」は、
なにか、お祭りイベントのような感じです。

一方、
「冬至」は、
地球に住まわせていただいている身として、
大切な節目であると、普段から、認識しています。

日が短くなる一方であった流れから、
反転、日が長くなっていく、その、底日。
「陰」から「陽」への、転換日。
いわば、『元日』。

昨年は、その大切な日に、
出雲大社さまに、お詣りをさせていただきました。

そして、
2012年の冬至に続いて、重要なポイントであった、
この、2015年12月22日、
つづく、23日、24日、

僕は、
妻と、子どもたちと、一緒に、
大好きな『聖地』、八ヶ岳で、
その節目を迎えさせていただきました。


23日午後の曇り空、夜の雨、を除き、
素晴らしい好天に恵まれた、3日間でした。

22日は、昼、千葉を出発し、
夕方、八ヶ岳に着きました。

そして、
冬至当日の、この日に、
『僕にとって』は、『日本一の聖地』(世界一、でもあります)に、
お詣りをさせていただきました。

到着したときには、
すでに、日が傾きはじめていましたが、
甲斐駒ケ岳の横から注ぐ、陽光は、
まだまだ、眩(まばゆ)く、力強いものでした。



地球を貫く、光の軸。
裏側の、ボリビアにある、『陽』軸に対し、
『陰』軸である、このポイント。

そこに、
無事、この日、このときを、
しかも、この地で、迎えられたことに、
感謝を申し上げるとともに、
今後の、進みゆく道のりが、光り満ちたものであることを、
お祈りいたしました。

そのときには、
丸さを増した、お月さまが、
正面に、上がっていました。



翌日、23日は、
午前中、諏訪大社、上社二社にお詣りしました。

今年、四度目のお詣りですが、
いつも新鮮で、いつも、気が引き締まります。

いつものとおり、
今後のさらなる精進を誓い、
今後の平安をお祈りいたしました。

そして、午後は、
あるイベントに参加しました。

縁ある人々と、一同に会し、
この日を迎えられた慶びと、
今後の明るい展開を祈り、誓い合いました。



翌24日、クリスマスイブ。

 「早く帰らないと、サンタさんが、来ないかも ... 」
と、心配をする、末娘をなだめながら ^^ 、

午前中、
神社へのお詣りと、知人宅を訪問し、
帰路につきました。

神社では、
参道に入るなり、『木製のバラの花』に、遭遇。

調べると、
「ヒマラヤ杉」の実(松ぼっくり)で、
「シダーローズ」だとのこと。



神さまから、
そして、『アナスタシア』から、

これまでの道のりを、
いま居る場所を、
そして、いま向かいゆく方向を、

 「それで良し」
と、
おっしゃっていただけたように、受け取りました。

八ヶ岳を離れるとき、
前方には、
雲海に浮かぶ、富士山を、望むことができました。













2015年12月22日火曜日

考えてください (思考が止まらない方へ)


 「どうしても、すぐ、考えちゃうんです」
 「どうしても、頭で解決しようとしています」
 「どうしても、思考が止まりません」

個人セッションや、交流会などで、
いろいろな方から、お話を伺っていると、
このようなことを、とってもよく、お聞きします。

スピリチュアルな世界で、言われているとおり、
また、津留さんも、言っているとおり、

思考には、思考による解決には、限界があり、
また、思考・想念に、捕われているから、苦しい・辛いのであり、
そこから離れられれば、そこには、ただ、平安が広がっています。

ですから、
 「考えるのを、やめてください」
 「思考を、止めてください」
 「思考から、離れてください」
ということが、
いわゆる、スピリチュアルにおける一般的な『教え』、
に、なっています。

 とはいえ、
 なかなか、そうはできない ...

とても多くの方にとっての、正直な感想ではないでしょうか。
ほとんどの方にとっての、現状ではないでしょうか。

以前、このブログに書きましたとおり、
僕自身が、そうなので、
その状況や、そのお気持ちは、よ〜く、分かります ^^ 。

瞑想なんて、1分もできない、僕なので
(すぐに、思考が動き出してしまいます ^^; )、
おそらく、誰よりも、よ〜く、分かります。

スピリチュアルな知識を得た方にとって、
スピリチュアルなことを実践していくうえで、
もっとも一般的な『悩み』の一つであり、
また、スピリチュアルな道を進むうえで、
もっとも普遍的な『壁』、かもしれませんね

(『悩み』を無くす・少なくするために、
 スピリチュアルなことに、興味を持ったのに、
 それがゆえに、新たな悩みを持つなんて、
 なんとまあ、皮肉なことなのでしょうね。
 これもまた、『パラドックス』ですね ^^ )。


ところで、
なぜ、わたしたちは、思考を止められないのでしょうか?
なぜ、わたしたちは、ずっと、考えてしまうのでしょうか?

以下は、個人的な見解ですが、

それは、「考える」ということが、
うまく・よく生きるための、「唯一・最善の方法」である、と、
認識されているからであり、

そして、それ(考えること)が、
「習慣となっている」「習慣づけられているから」でしょう。

何か失敗したとき、うまく行かなかったとき、
わたしたちは、
親から、教師から、上司から、社会から、
 「ちゃんと、考えなさい!」
 「しっかりと、考えないから、そんなことになるのよ」
と、言われてきました。

つまり、人間一般にとって、人類の集合意識にとって、
『考える』ということは、
人生に対処するための、手段・方法なわけですね。

おそらく、
 唯一かつ最強の、手段・方法である
と、認識されていますよね。

また、そのような認識のもと、
社会では、
考える能力が高い人が、凄いとされ、重視され、重用され、

そのために、
学校教育においては、
考える能力を高めること、その素材である知識を増やすことを、重視し、
その能力に優れていることを、評価します。

そのような環境で、生まれ、育ち、生きている、わたしたちは、
自然、「考える」ことをします。
それが、習慣となっています。

場合によっては、何世代にも渡って、
そう、習慣づけられてきました。

なので、
ちょっとやそっと、「考えるのが、いけない」と、聞いたところで、
簡単には、それをやめることは、できないわけですよね。

また、実際のところ、
『エゴ』にとっては、
「考える」ということは、
得た「知識」(過去の情報)」を用いて、「考える」ということは、
自ら保持している、唯一の、『武器』なのだと思います。

「恐れ」に基づいて行動する『エゴ』にとっては、
唯一の『武器』を放棄することは、
即、自らの「死」を意味します。

そんな「恐ろしい」ことは、
『エゴ』には、できません、

特に、「恐れ」に敏感な、『エゴ』にとっては、
なおさら ...

そんなわけで、
「考えてしまう」ことは、
「考えるのを、やめられない」ことは、
わたしたちにとっては、極めて自然なことであり、
ある種、当然のこと、
そして、ある種、『必然』なことだと思います。


ところで、
いま、
 「思考」は、エゴにとっての『武器だ』
と、言いました。

ところが、
この武器、なんか、あまり、効きませんよね?

これまで、この武器を手に、
一生懸命、この『おそろしい、不完全な世界』を、
『戦い』、進んできましたが、
なにか、どうも、うまくいきませんでしたよね?

効かないからこそ、うまくいかないからこそ、
 「思考が、問題だ」
 「思考を、手放しましょう」
と聞いて、
 「もしかしたら、そうかも。そうしたほうが、いいかも」
と、思ったわけですよね?

では、
なぜ、この『武器』は、あまり効果がないのでしょうか?


それは、
実は、それが、「『おもちゃ』の武器」だからです。

「思考」というのは、
『おもちゃの刀』『おもちゃのピストル』なのです。

だから、
ほとんどの人にとって、
これを手に、『戦』ったところで、
勝ち進み、想い通りにしていくことが、できないのです。

そして、
そのことを知っている、そのことを見抜いた、
マスターたちが、
 「離れなさい」「手放しなさい」「捨て去りなさい」
と、おっしゃっているわけです。

『ところが』、です。

ところが、
この『おもちゃ』、
エゴにとっては、唯一かつ最高の、おもちゃなのです。

このおもちゃで、遊ぶことが、
エゴにとっては、楽しくて、楽しくて、仕方がないのです。

そんな、唯一最高のものを、
エゴは、手放せますでしょうか?

いえ、手放せませんよね。
捨てられませんよね。

それで、当然なんです。
それが、自然なんです。

ところが、それを、
 「おもちゃなんかで、遊んでないで、勉強なさい」
と言って、取り上げたり、
あるいは、
 「『戦い』というのは、悪いことです。
  おもちゃとはいえ、『武器』で遊ぶのは、良くありません」
と言って、取り上げたら、
どうなるでしょうか?
エゴは、どう反応するでしょうか?

おもちゃを、無理矢理、取り上げられた、こどもは、
おとなの視点で、おとなの理屈で、おとなの都合で、
おもちゃを、無理矢理、取り上げられた、こどもは、
どうなるでしょうか?

不満を募らせ、泣きじゃくり、
そして、
 「おもちゃを、返せ!」
と、叫び、わめくことでしょう。

そして、
これまで以上に、そのおもちゃに、こだわることでしょう。
執着することでしょう。

そして、
これまで以上に、握りしめ、
これまで以上に、手放せなくなることでしょう。


小学生のとき、
僕は、親の意思で、塾に行かされることになりました。

放課後、友人たちと、楽しく遊んでいると、
いつも、途中で、その、楽しい最中に、
塾に行く時間になったからと、不本意ながら、遊びを終え、
塾に行っていました。

そのときの光景は、いまも、鮮明に、脳裏に残り、
そして、
 「僕は、十分に、遊んでいない」
 「遊び足りない。もっと、遊びたい」
という、満たされなかった想いが、
大人になっても、まったく、消え去りませんでした。
いつまでも、その不満を、引きづり続け、
いつまでも、その想いが、こころの中を、漂いつづけました。

ところが、です。
一方、思う存分、遊んだ子どもは、どうなるでしょうか?

だれにも邪魔されず、だれにも止められず、
自分のやりたいように、やりたいだけ、
そのおもちゃで、遊んだこどもは、
そのあと、どうなるでしょうか?

そのおもちゃで遊ぶことに、飽きますよね?
そのおもちゃに、飽きますよね?

そうなったら、
もう、そのおもちゃのことなど、見向きもしなくなりますよね?

そうなると、
今度は、逆に、親のほうが、
 「そのおもちゃ、高かったんだから、もっと遊んでよ」
なんて、言いはじめて ^^ 、
でも、こどもは、
もう、そのおもちゃになんか、興味が無くなって、
そのおもちゃで遊ぶことを、やめてしまうことでしょう。


 「思考を止められる人」「思考が止まる人」
というのは、
スピリチュアルな世界における、いわば『大学院生』なのです。

そして、
その『大学院生』というのは、ほとんどの場合、
 「子どものころから、遊ばずに、勉強ばかりしていた人」
なのではなく、
むしろ、
 「子どものころに、思う存分に、おもちゃで、遊び尽くした人」
なのです。

 「おもちゃも、遊ぶことも、もう、十分だから、そこに想いが無くて、
  そして、だから、今度は、『学ぶこと』が、楽しくなって、
  学ぶことの、楽しさが、素晴らしさが、自然と、分かって、
  自らの自然な思いで、自らの自然な意思で、学んでいる人」
なのです。 

 「おもちゃが、遊ぶことが、良くないことだから、悪いことだから、
  そして、勉強することが、良いことだから、正しいことだから、
  だから、意思の力で、無理やり、勉強している人」
では、ないのです。


この、パラドックスな世界では、
『北風方式』よりも、『太陽方式』のほうが、
結果、効果があります。

あるいは、
こう、表現できるかもしれません、

 『人間と成っていく』サイクルにおいては、
 『北風方式』が、効果がある
と。

 不完全な、われわれ人間は、
 意思の力によって、我慢をして、努力して、
 思考することを、やめなければならない。
 思考は、努力によって、止めていくのだ ...

これによって、
わたしたちは、ますます、思考から離れられず、
ますます、思考によって、解決を図ろうとし、
結果、ますます、失敗し、分離を深め、
そして、ますます、人間と成ってきました。

それに対して、

 『神に還ってく』サイクルにおいては、
 『太陽方式』が、効果がある
と、言えるかもしれません。

 そもそも、その本質において、完全な、わたしたち人間は、
 想いのまま、存分に、思考してあげれば、
 自然と、そのおもちゃを、手放していける ...


津留さんは、
講演会CD/DVD『幸せテクニック講座6』の中で、
浄化を思いついたときの様子を、詳しく、話していますが、

その内容は、
 「考えて、考えて、考え尽くしても、答えが分からず、
  それでも、考えようとしたら、
  脳がオーバーヒートを起こし、
  そして、安全弁が抜けて、『思考が止まり』、
  そのとき、パッと、ひらめいた・理解できた」
というものです。

津留さんの、思考が止まった、瞬間です。

また、
津留さんの話に続いて、お伝えするのは、僭越ですが、

振り返ってみると、
僕が、本格的に、浄化をするようになったのは、
 考えても、考えても、どうしたらいいのか、分からず、
 「あぁ、もう、だめだ。
  思考では、どうやっても、解決できない」
 と、こころから、思ったとき
です。

津留さんの場合は、
例えるなら、

 『思考』という、グルグル回る、エンジンを、
 限界まで回して、回して、回し続けて、それでも、まだ回して、
 そして、その結果、あるとき、エンジンが壊れた

というような、感じでしょうか。

あるいは、
僕のケースでは、

 『思考』というエンジンを、回し回し続けた結果、
 エゴが、疲れて(そして、ある意味、納得をして)、
 そして、エンジンへの、燃料の供給をやめた

という感じ、かもしれません。

いずれの場合も、
回り続けるエンジンを、
ブレーキによって、無理やり、止めようとしたのでは、ありません。

強力な力で、回り続ける、エンジンを、
それ以上の力で、それ以上の意思の力で、ブレーキを踏んだところで、
エゴのほうは、
 「なにおぉ〜? そっちがその気なら、こっちだって!」
と、
ますます盛んに、燃料を補給して、
ますます、回転を高めてくることでしょう。

ところが、エゴに、
 「いいよ、いいよ! もっとやりな、もっとやりな ^^ 」
と、言ってあげれば、
 「え、そうなの?」
 「でも、そう言われてみると、もういいよ、十分だよ。疲れたよ」
と、
やがて、燃料の補給をやめ、回転も収まってくる、止まってくることでしょう。


この世界は、
 『体験の世界』
です。

 「神さまが、神さまそのもので居たら、体験できないことを、
  体験するために、作り上げ、そして、人間をしてる」
世界です。

 「体験すること」
が、
 「十分に、体験すること」
 「存分に、味わうこと」
が、
その目的です。

『思考』も、十分に体験してあげれば、
終わっていきます。
他の体験を、したくなります。

あるいは、
『思考』も、
十分に、体験してあげる必要があります。

全知で、全能な、神さまだったときの、わたしたちは、
『考える』ことなんて、できませんでした、
何でも知っているし、何でもできるのですから ...

こうして、『人間』に成って、はじめて、
制約された条件の中で、
限られた情報を使って、機能的に限られた頭脳で、
『考える』ことが、できるようになったのです。

ですから、
その、『人間』に成れた、その一人として、
ぜひ、存分に、『考える』ことを、体験なさってください。

多くの存在(「自分のハイヤーセルフ」「ソウルグルーブ」)を代表して、
いま、『人間』を体験している存在として、
責任を持って、『思考』を、存分に、味わってください。


考えは、
『止めるもの』ではなく、『止まるもの』です。

考えが、止まらない方は、
どうぞ、
 「『考えること』は、良くない。正しくない。」
という視点から、一度、離れて、

 「わたしたちは、『考える』という体験をするために、
  いま、人間をしているのだ」
という可能性について、検討なさって、

そして、ぜひ、
思いっきり、考えてください。

考えて、考えて、考え尽くして、あげてください。

エゴに、『考える』というおもちゃを与えて、
思う存分、遊ばせてあげてください。

エゴが、飽きるまで、
エゴが、音を上げるまで、
どうぞ、考えてあげてください。


考えが、止まらない方は、
実は、
 「『考える』という体験が、足りていない」
のです。

 「どうしても、考えて、考えてしまう」
という方は、
 「いつもいつも、考えている自分は、考え過ぎだ」
と、認識なさっておられるかもしれませんが、

少し長いスパンで見てみると、
実は、
 「『考える』という体験が、足りていない」
 「『考える』ということに、まだ、飽きていない」
のです。

これからは、
どうぞ、思う存分、考えてください。

そして、
その体験を、十分になさって、
 「『人間』としての体験」
を、存分に、味わわれて、感じられて、

そして、
未練なく、心置きなく、
 「『人間』に成っていく」
 「『人間体験』を極める」
というプロセスを、サイクルを、
終えられて、

そして、
 「『神』に還っていく」
というプロセス・サイクルを、

肩に力を入れること無く、
ナチュラルに、自然に、
歩まれて行ってください。














2015年12月3日木曜日

第2回福岡イベント 開催のお知らせ


 2016年1月21日(木)、22日(金)、23日(土)、
 福岡市で、
 『浄化実践講習会』『個人セッション』を行います。


 今年6月の開催につづき、
 福岡で、2回目の、イベントを開催させていただきます。

 津留さんが、生まれ育ち、そして旅立った地、福岡県で、
 また、イベントをさせていただけることを、とても嬉しく思っています。
 
 前回は、数多くのみなさまに、お越しいただきました。
 福岡県内だけでなく、大分・熊本・宮崎、そして山口からも、
 ご参加いただきました。
 ほんとうに、ありがとうございました。
 
 ですが、個人的には、
 『浄化実践講習会』でのご説明が、
 少々、うまく出来なかったと、反省しています ^^; 。
 
 それ以降、改めて、しっかりと準備をして、臨んでいますので、
 今回は、しっかりとお伝えできることと、思っています。

 もちろん、個人セッションも、
 誠心誠意、させていただきます。

 ご興味がおありの方は、どうぞ、ご参加ください。


 福岡県のみなさま、九州地区・中国地区のみなさまに、
 またお会いできますことを、楽しみにしています。

 どうぞよろしくお願いします。


 詳細・お申し込みは、『 第2回 福岡イベント 』 のページをご覧ください。

 2015年12月3日 集合人編集局 裕子・ひで











2015年10月20日火曜日

『第3回大阪イベント』を終えて


 2015年10月16日、17日、18日の3日間、
 大阪で、3回目のイベントを、開催させていただきました。
 
 3日とも、まばゆい陽射しが降り注ぐ、好天に恵まれ、
 10月とは思えぬ、暑いほどの陽気となりました。
 
 そんな中、
 18日(日)の浄化実践講習会には、3名の方々が、
 3日間の個人セッションには、5名の方々が、
 計8名の方々が、ご参加くださいました。
 
 今回は、いつもに増して、
 お一人お一人と、ゆっくり、じっくりと、
 お話しをすることができたため、
 
  「津留さん的な考え方」
  「津留さん的な発想」
  「津留さん的な解釈」
 というものを、
 改めて、しっかりと、お伝えできた実感があります。
 
 多くの方にも、
 「よく分かった」と、おっしゃっていただけました。
 
 10月17日の、
 津留さんの命日に合わせて行ったイベントとして、
 一定の役割を果たせたとしたら、とても幸せです。

 今回、大阪でご参加くださったみなさま、
 どうもありがとうございました。
 また、お目にかかれる機会がありますことを、
 楽しみにしています。

   集合人編集局 ひで


 
  イベントの様子につきましては、
  こちらの「『第3回大阪イベント』のご報告」のページをご覧ください。











2015年9月25日金曜日

『第2回名古屋イベント』を終えて


 2015年9月21日(敬老の日)から、23日(秋分の日)までの、
 好天に恵まれた、シルバーウィークの3日間、
 のべ27名もの方々に、ご参加いただき、
 名古屋で2回目のイベントを、開催することができました。

 9月21日敬老の日の、津留さん交流会には、9名の方々が、
 9月22日秋分の日の、浄化実践講習会には、11名の方々が、
 3日間の、個人セッションには、7名の方々が、
 お越しくださいました。

 多くの方々にお集まりいただけた結果、
 多くの方にお会いでき、たくさんのお話しができ、
 また、参加者のみなさま同士も、コミュニケーションを楽しんでいただけたようで、
 こちらとしても、とても楽しいイベントでした。

 前回と同様、今回も、たくさんの方々がお越しくださり、
 また、とても好意的に向かい入れてくださり、楽しんでくださって、
 名古屋・東海のみなさまには、とても感謝しています。

 ご参加くださったみなさま、
 どうもありがとうございました。
 また、お目にかかれる機会がありますこと、
 お話を伺える機会がありますことを、
 楽しみにしています。

   集合人編集局 ひで


 
  イベントの様子につきましては、
  こちらの「『第2回名古屋イベント』のご報告」のページをご覧ください。
 
 








2015年9月5日土曜日

人生は、『修行』か、『ゲーム』か?


ここ3回ほど、
「仕事」について、
そして、
その元にある、「『しなければいけない』という想い」について、

『浄化』という観点から、ご参考になるのでは、
と思うことを、お伝えさせていただきました。

その関連で、
最後に、もう一つ、
ここに書かせていただきます。


さて、
精神世界・スピリチュアルと言われる分野には、
 「人生とは、『魂磨き』であり、『修行』である」
という教えがありますよね。

 「人生とは、魂研鑽(けんさん)の機会であり、
  人間は、魂を向上させていくために、修行をしているのだ」
 「人生は、魂を磨き、向上させ、神に近づくための機会だ」
という、
教えであったり、教義であったり、見解がありますよね。

一方、
津留さんは、
 「人生は『ゲーム』である」
 「わたしたちは、『地球人間ゲーム』をしているのだ」
と、言っていますね。

 「わたしたちは、そもそも『神』であり、
  そんな『神』が、『ゲーム』をして、『遊んでいる』んだ」
そんな、理解であり、見解ですね。

一体、どちらなのでしょうか?

人生は、『修行』なのでしょうか?
あるいは、『ゲーム』なのでしょうか?

みなさんは、
どちらだと、捉えておいでですか?


ちなみに、ですが、
僕個人としては、
 「どちらが、『正しい』のか、『正解』なのか」
とか、あるいは、
 「どちらが『真実』なのか、『真理』なのか」
ということに関しては、
まったく、分かりません。

みなさんの中には、
 「人生は、『修行』だよ」
とか、あるいは、
 「人は、『人間ゲーム』をしているのよ」
と、
迷い無く、疑い無く、確信を持って、
理解・認識されている方も、『分かって』らっしゃる方も、
いらっしゃるかもしれませんが、

 「いったい、どちらなんだろう?」
と、思われている方も、
おそらく、多くいらっしゃるのではないでしょうか。

で、そんな、
「どちらだろう?」とお思いの方に、
以下のこと、お伝えしたいと思います。


前3回の記事の中では、
いくつかの「例」を、挙げました。

最初の、ゲームオタクの人の例では、
彼は、「テレビゲーム」をしていました。

そして、
彼にとって、「テレビゲーム」は、
あるときは、まさに『ゲーム』であり、
あるときには、それが『仕事』でした。

 「したいから、している」
ときには、
「テレビゲーム」は、『ゲーム』であり、
これ以上にないほどに、楽しいものであり、

ところが、
 「『しなければいけない』こと」
になった途端、
「テレビゲーム」は、『仕事』になり、
もうこれ以上は、やっていられなくなりました。

また、
津留さんが例に挙げた、女性の場合、
彼女は、「食事を作る」ということを、していました。

彼女にとって、「食事を作る」ということは、
 「しなくていいことけど、したいから」
と、「彼氏」に作ってあげているときには、
「ルンルン」と、楽しいことでした ^^ 。

ところが、
その「彼氏」が、「夫」になり「家族」になり、
「食事を作る」ということが、彼女にとって、
  「『しなければいけない』こと」
になった後は、
その行為は、苦痛であり、憂鬱の元となりました。


まず、ここで、お伝えしたいことは、

まったく同じことが、まったく同じ「行為」が、まったく同じ「現象」が、
 あるときには、それが『ゲーム』になり
 そして、あるときには、それが『仕事』『しなければいけないこと』になる
ということです。

すなわち、
わたしたちの認識次第によって、
 ときにそれは、『仕事』『しなければいけないこと』になり
 ときにそれは、『ゲーム』『遊び』『しなくてもいいこと』になる
ということです。

そして、
それを、その行為を、
 『仕事』だと判別すれば、それは、「苦しいもの」となり
それを、
 『ゲーム』だと判別すれば、それは、「苦しくないもの」となる
ということです。

つまり、
 「苦しいか、苦しくないか」
は、
わたしたちの認識次第、わたしたちの内側次第、
ということです。


このことを、
さらに、一歩、積極的に、進めてみましょう。

わたしたちの「認識次第」「内側次第」で、
外側の「行為」「現象」が、
『仕事』になったり、あるいは『ゲーム』になったりする、
ということは、

わたしたちの『外側』に、『現象世界』に、
 「『仕事』『しなければいけないこと』という行為」
があるわけではなく、
また、
 「『ゲーム』『遊び』『しなくてもいいこと』という行為」
があるわけでもない、
と、いうことです。

もし、あなたが、
迷い無く、疑い無く、確信を持って、
 「それは『仕事』だ」
 「それは『ゲーム』だ」
と、認識しているなら、『知って』いるのであれば、
その場合には、これは当てはまりません。

ですが、
もし、そうではないのならば、
ご自分の「認識」次第で、
それが『仕事』になったり『ゲーム』になったりするのであれば、

その、『外側』にある「行為」「現象」は、
それ自体は、『ただの』「行為」「現象」である、
と、言うことができます。

『外側』には、
ただ、「行為」「現象」そのものが、あるだけで、

そして、それを、
それぞれが、それぞれの『内側』で、
 「『仕事』『しなければいけないこと』」
なのか、
 「『ゲーム』『遊び』『しなくてもいいこと』」
なのか、に、決めているのに過ぎない、
と、言うことができます。

『外側』に、そもそも、
「『仕事』『ゲーム』」という、絶対的な行為があるわけではなく、
『内側』に、それらを、
「『仕事』か『ゲーム』か」に判定・判別する『認識』があるだけだ、
と、言うことができます。

そして、その場合、
それを、その行為を、
 『仕事』だと判別すれば、それは、「苦しいもの」となり
それを、
 『ゲーム』だと判別すれば、それは、「苦しくないもの」となる
ということです。


ここで、話を、
『人生』に、戻しましょう。

 「人生とは、『修行』だ」
あるいは、
 「人生とは、『ゲーム』だ」
と、
確信している人、『知って』いる人の場合には、
次のことは、当てはまりません。

その方にとっては、
 「人生とは、あくまで、『修行』」
であり、
あるいは、
 「人生とは、あくまで、『ゲーム』」
です。

ただ、
そうでない方にとっては、
「どちらかだ」と、『知って』いない方にとっては、

 「人生とは、単なる『人生』」
であり、
 「『人間をする』ということは、単に、『人間として生きる』」
ということ、ただそれだけのこと、
であり、

それそのものが、
『修行』であったり『ゲーム』であったりする、
というわけでは、ありません。

そして、それは、
ご自分が、「『修行』だ」と思えば、
ご自分にとっては、『修行』であり、

あなたが、「『ゲーム』だ」と思えば、
あなたにとっては、『ゲーム』です。

そして、
この判定を、認識を、そのプロセスを、
より正確に言えば、

『人生』を、
 「『しなければいけない』もの」
と、感じていれば、捉えていれば、
その場合には、『人生』を、『修行』と認識するでしょうし、

反対に、『人生』を、
 「『しなくてもいい』けれども、あえてしているのだ」
と、捉えていれば、捉えることができれば、
その場合には、『人生』を、『ゲーム』と感じられることでしょう。


たいていの場合、
わたしたちは、
 「なぜ、生まれてきたのか?」
 「いったい、どのような『想い』で、生まれてきたのか?」
といったことを、
記憶としては、持ち合わせていません。

気がついたときには、物心ついたときには、
すでに、人間として生まれ、人間として生きていました。

よね? ^^

しかも、たいていの場合、
わたしたちは、
『死』に対して、強〜い恐怖を、持っています。
『死』を、恐れています。

自覚しているかしていないかは、それぞれだと思いますが、
たいていの場合、
わたしたちは、『死』を、『この生が終わること』を、恐れています、
強く ...

そうすると、
 「いま、ここで、生きていること」
 「人間をしていること」
を、
ある種、不可避の、避けられない、絶対的なこと、
と、感じています。

そのような感覚があれば、
自然と、人生を、
 「避けられないもの」「逃げられないもの」
 「『しなければいけない』もの」『修行』
と、感じがち、認識しがちです。

加えて、
これは、完全に、僕個人の、個人的な推測ですが、

わたしたちのほとんどは、『魂』の経験として、
 ある星において、転生しても転生しても、ある状況から逃れられなかった
という体験をしていて、
 その体験を、『魂』の奥底に、癒されぬ記憶として、恐怖として
 未消化のまま、未浄化のまま、持ち合わせている
というような気がしています。

なので、
このように、肉体(物質的・三次元的な『入れ物』)を持つと、
より一層、『修行』的な感覚を持ちがちなのではないか、
と、思います。

ですので、
 「人生は『修行』である」
と感じられるのは、
多くの方にとって、ある意味、とても自然なことで、

そう感じていたとしても、
ある意味、それは仕方のないことだと、思います。


ですが、とはいえ、
ここで、もっとも大切なのことは、

 「人生は『修行』だ」
と認識していれば、
自然と、必然的に、
 人生そのものを、生きていることにまつわるさまざまなことを
 辛く感じてしまいがちだ
ということです。

『事実』として、『真理』として、
 「人生とは『修行』である」
かどうか、
が、大事なわけではありません。

 「ご自分が幸せかどうか」
 「この人生が、辛くないかどうか」
 「より、楽に生きられるかどうか」
に関して言えば、

 「『真理』としてどうか」
が、重要なのではなく
 「自分が、どう『認識』しているか」
が、重要で、

そして、
 「人生とは『修行』である」
と、思わない・感じないでいられるかどうか、
 「人生なんて、『ゲーム』だ」
と、思えるかどうか、
が、重要だ、ということです。

どちらかを選べるのであれば、
ぜひ、「『ゲーム』だ」というほうを、選んでいただきたい、
ということです。


そして、そのためには、
『浄化』が、お役に立ちます。

 「人生は、『修行』だ」
 「この人生は、『魂を向上させる』ため、
 「そのために、生きなければならない」
 「耐えなければならない。努力しなければならない」
 
そう思ったときに感じる、
辛さ・苦しさ・重さ・絶望感・無力感 ...
そういったものを、浄化によって、手放してください。

 「人生は『ゲーム』なんだ」
 「『遊び』なんだ」
 「『しなければいけない』ことなんて、ないんだ」

そう、思ってみようとしたときに、感じる、
抵抗感・モヤモヤ感・疑問感・苦しさ、重さ ...
そういったものを、浄化によって、取り出してみてください。

おそらく、全部、スッキリと、浄化し切れてしまうケースは、
むしろ、少ないのではないかと、思います。

それでも、まったく構いません。
まったく、問題ありません。

とにかく、ご自分のできる範囲で、可能な範囲で、
より少なく、より軽く、なさってください。

なさり続けた結果、
いずれ、やがて、だんだんと、
感じる辛さ・苦しさ・重さが、徐々に、少なくなり、

そして、だんだんと、
 「あぁ、人間として生きているのは『ゲーム』かもしれないなぁ」
と、
思える量が、感じられる量が、
すこしずつ、増えてこられることと、思います。

そうすると、
人生そのものが、人生全般が、人生におけるすべての物事が、
その深刻さが、切迫感が、理不尽さが、
すこしずつ、徐々に、軽く、少なくなってこられることと、思います。

体験的に、そう、思います。


津留さんに関して言えば、

僕の、個人的な理解では、
おそらく、津留さんは、
 「人生は、『ゲーム』である」
ということを、『思い出した』のだと思います。

津留さんにとっては、津留さんの宇宙では、
 「人生は、『ゲーム』である」
ということは、『真理』なのだと、思います。

ですが、
もし、そうではあっても、

津留さんが、
 「人生は『ゲーム』ですよ」
 「人間は、『地球人間ゲーム』をしているんですよ」
と、伝えていた、
その真意は、その一番の意図は、

 「そう捉えることができれば、
  人生は、楽になりますよ」
 「そう捉えられないことが、
  苦しさの原因なのですよ」
ということを、
みなさんに伝えたかった、

ということに、あるのではないか ...

僕は、そう、思っています。













2015年8月30日日曜日

そもそも、なぜ、「仕事」を『しなければならない』と思っているか?(『仕事』についての補足2)


前回の記事(「「しなければいけない」こと(『仕事』についての補足)」)では、
前々回の記事(「「仕事」に関して、お悩みの方へ」)の補足を、
書かせていただきました。

ところが、
そもそも、そこで、一番お伝えしたい、と思っていたことを、
お伝えし忘れてしまっていました ^^; 。

そこで、今回は、
「補足の補足」 ^^ を、書かせていただきます。


さて、
おさらいですが、

「仕事」に関して、悩みや苦しみを、お持ちの場合、
その原因は、『本質的』には、
 「(その)仕事を『しなければならない』と思っている」
ということにある、
というのが、はじめにお伝えさせていただいたことです
(よろしければ 「「仕事」に関して、お悩みの方へ」 をお読みください)。

そして、その、
 「仕事を『しなければいけない』」
 「しないわけにはいかない」
と感じる感覚を、
浄化によって、手放してください、
と、お伝えしました。


で、
今回の、「補足の補足」ですが、

では、
そもそも、なぜ、わたしたちは、
 「『仕事』を、『しなければならない』と思っている」
のでしょうか?

「仕事」に関して、浄化をしていただく場合には、
ぜひ、その部分まで含めて、
なさってみてください。

より深い、よりしっかりとした、浄化を、
行うことができると思います。


で、
では、なぜ、でしょうか?

なぜ、
 「『仕事』を、『しなければならない』」
と、思っているのでしょうか?

その理由は、
細かく言えば、さまざまで、
みなさん一様ではない、と、思います。

ですが、
大別すれば、次の二つに、分けられると思います。

一つは、
たとえば、
 「大人になったら、働かなくてはいけない」から
とか、
 「仕事を通じて、社会に貢献してこそ、人として価値がある」
 「仕事で、人の役に立ってこそ、生きるに値する」
とか、
 「男たるもの、仕事をして、はじめて、人として認められる」
 「男は、仕事・会社で、その価値が決まる」
とか、

そのような理由で、
「『仕事』を『しなければならない』」と、
思っていらっしゃる場合です。

それらの場合には、
 「『仕事』というもの、そのもの」
のことを、『しなければならない』と、認識している、
と、言えます。

そして、さらに言えば、
それらの場合には、
 「働かざるもの、食うべからず」
 「ひとの役に立ってこそ、意味がある」
 「『すること』『行為』によって、人の価値が決まる」
というような、
より深いところにある、より根本的な価値観から、
それらの想いが来ている、
という場合が、ほとんどだと思います。

言葉を換えれれば、
津留さんが言うような、
 「人は、『存在』そのものに、価値がある」
とは、思えていない、
ということが、原因になっている、と言えます。

 「人は、『行動』しなければならない」
 「そして、その『行動』『行為』によって、価値が決まる」
という、価値観です。

 「だから、何かをしなければいけない」
 「人の役に立たなければいけない」
 「誰かに喜んでもらわなきゃいけない」
 「(あの人に)認められなきゃいけない」
そんな想いが、
深くに、常に、潜んでいませんか?

そのような場合には、
 「『仕事』を『しなければならない』」
 「働かなければいけない」
という、『仕事』に関する浄化を行うとともに、

それらの価値観そのものも、
ぜひ、同時に、浄化なさってください。


そして、もう一つの場合です。

僕自身の経験や、
あるいは、
個人セッションに来てくださった方々のお話からすると、

けっこうな割合で、
そう思われている方がいらっしゃるのではないか、と思うのですが、

仕事『そのもの』のことは、
実は、さほど、『しなければならない』とは、感じてはいなくて、

むしろ、
 「仕事をして、お金を稼がなくてはいけないから」
 「仕事をしないと、お金が得られないから」
 「『だから』、仕事をしなければいけない」
と、お感じになってらっしゃる、
という、場合です。

つまり、
 「『仕事』とは、『お金』を稼ぐ手段」
であり、
 「『仕事』をする理由は、『お金』にある」
と、感じてらっしゃる、
という場合です。

 「『お金』が必要だから、
  『お金』がないと、生きていけないから、
  だから、そのために、『お金』得るために、
  『仕事』を『しなければいけない』」
そう、思っておられる、
ということです。

試しに、ここで、
 「もし、『お金』のことが心配なかったら、『お金』が無限にあったら、
  自分は、『仕事』をするだろうか?」
と、ご自分に問いかけてみてください。

 「『お金』があるんなら、『仕事』なんかしないわ」
と、
お思いになりませんか?

その場合には、
『仕事』をされている理由は、
『仕事』を『しなければいけない』と思われている理由は、
『基本的』には、100%、『お金』にあります。

その場合には、
『お金』のことほうが、『仕事』よりも、
より、ベースにあります。
より、根本にあります。
より重い、より重大なこととして、握っておいでです。

 「『仕事』を『しなければいけない』」
ということからくる、悩み・辛さ・ストレスなんかよりも、
 「『お金』がないと、生きていけない」
 「『お金』がないと、どうにもならない」
ということのほうが、
断然、深刻で、重大で、大問題です。

そして、その場合には、
『仕事』の辛さ・苦しさ・悩みを浄化するためには、
『仕事』そのものに関して、浄化するだけでなく、
『お金』に関する浄化も、必須となってきます。

むしろ、
『お金』に関する浄化『こそ』が、重要になってきます。

このことを、しっかりと認識していただいた上で、
『仕事』に関する浄化を行い、
同時に(続けて)、『お金』に関して浄化を行うことが、

とても効果的で、
とても根本的な、
よりしっかりとした浄化を、行うことができます。


多くの方にとって、
いえ、ほとんどの方にとって、

『仕事』と『お金』とは、
きわめて密接に結びついていて
(場合によっては、完全に連結していて)、

そして、
多くの方にとっては、
『仕事』よりも『お金』のほうが、
よりベースにある、より重い、より根本的な、
価値観・ブロックと、なっています。

そして、
『仕事』のことを軽くしていくためには、
『お金』のことも、同時に、浄化していく必要があり、

また、
『お金』のことが軽くなってくると、
そのときには、自然と、
『仕事』のことが、とても軽くなっている、
という、流れになっていることと、思います。

個人的な見解としては、
このことは、強調しても強調し過ぎることは無い、
とすら、思います。

どうぞ、ご自身の浄化の際には、
ご参考になさってみてください。









2015年8月26日水曜日

「しなければいけない」こと(『仕事』についての補足)


前回、
「仕事」について、「『仕事』に関する悩み」について、
書かせていただきました
(よろしければ 「「仕事」に関して、お悩みの方へ」 をご覧ください)。

今回は、
それについて、いくつか、補足をさせていただければと、思います。


さて、前回お伝えした内容を、一言で言えば、

 「『仕事』に関する悩み・辛さは、
  『仕事』を、『しなければならないこと』と認識していることに、起因している」

ということです。

もちろん、
その仕事の「内容」であったり、「上司」「同僚」であったりが、
『表面的』な問題ではあるのですが、

しかし、
その『本質的』な問題は、
ご自身がお持ちの
 「しなければいけない」
 「やらなければいいけない」
 「しない訳にはいかない」
という、認識です。


この点に関して、
津留さんが言っていた「例」を、いくつか、以下に、
お伝えしたいと思いします。

お伝えしたいことを、
より、ご理解していただけやすいのではないかと思います。

 「主婦のみなさんは、たいてい、食事を作るのが、苦痛です。
  でも、結婚前は、その彼に、
  頼まれていもいないのに、ルンルンしながら、料理を作ってあげたでしょ?
  そのときには、楽しかったでしょう? ^^」

 「(小さな)こどもは、何をしていても、楽しそうです。
  それは、こどもには、『しなければいけないこと』が、ないからです。
  だから、何をしても、それは、『しなくてもいいこと』をしているのです。
  こどもは、すぐに、『わたしもやる!』と言って、家事を手伝おうとしますね。
  そして、それを、本当に楽しそうに、やりますね。」

 「『しなくてもいい』けれど、していること、のことを、
  『趣味』と呼ぶのです。
  だから、趣味は、楽しいのです。」

苦しい・辛い、幸・不幸に関しては、
 「『何』をするか」
よりも、
 「その『すること』を、『どう認識してしているか』」
が、重要である、
ということを、その可能性を、
どうぞ、認識・検討なさってみてください。


また、その正反対のような事例についても、
ここで、お伝えさせていただきます。

以前、このブログで、
 「浄化をしていたら、テレビゲームばかりしていた弟さんが、働き出した」
という体験談を、ご紹介させていただきました
(過去記事「いただいた、個人セッションのご感想」)。

その方から、その後、
もう少し、詳しいお話を、お伺いすることができました。

その弟さんは、以前、
寝ても覚めても、テレビゲームばかりを、なさっていたのだそうです
(なにか、前回の、「ゲームオタク」の例と、そっくりで、
 興味深いですね ^^ )。

そのことに対して、その弟さんの状態に対して、
それまでは、ずっと、
咎(とが)めの気持ちを、お持ちだったのだそうです。

ところが、
そのことに対して、浄化を徹底的に行った結果、
その咎めの気持ちが、困ったという認識が、
いつしか無くなり、

そのうちに、
 「よ〜し、やれやれ。思う存分、やれ!」
とさえ、思うようになり、
実際に、そう声をかけて、応援もされたのだそうです ^^ 。

その結果、弟さんも、
 「おう、やるやる!」
と、心置きなく、思う存分に、ゲームを遊び ^^ 、

そして、ゲームをさんざんやり尽くした結果、
 「もう、飽きた」
と言って、
そして、ちょうどそのタイミングで、友人から仕事を紹介され、
そして、その仕事を、することにされたのだそうです。

それはまるで、
蝶々が、
「菜の葉」に飽いて、「桜」に止まるように、
その弟さんは、
「ゲーム」に飽きて、「仕事」を始められたのです。

「仕事」というものを、『しなければいけないこと』と認識していない、
その弟さんにとっては、
「ゲーム」と「仕事」は、
等価なのですね。
違いは、無いのですね。

そうすると、
「ゲーム」をすることと同じように、
「ゲーム」に飽きたからと、「仕事」をできるのです。

そして、そうすると、
「仕事」をすることは、苦しくないのですね。

案の定、
その弟さんは、現在、楽しそ〜に、仕事に行かれているそうです ^^ 。


もちろん、
その弟さんが、いつ、その仕事を辞めてしまうかは、分かりません。

ゲームを止めたときのように、
 「飽きた」
といって、突然、サッと、辞めてしまうかもしれません。

でも、
そんなだからこそ、

「仕事」を、『しなければいけない』『続けなければいけない』と、
認識していないからこそ、

仕事が、苦しくないわけです。
仕事が、楽しいわけです。


とても興味深く、
そして貴重な実例を、
ここに、みなさまに、シェアさせていただきます。









2015年8月24日月曜日

第3回 大阪イベント 開催のお知らせ


 2015年10月16日(金)、17日(土)、18日(日)、
 大阪で、3回目となる、
 『浄化実践講習会』・『個人セッション』を行います。
 
 10月17日、津留さんの命日。
 この日に、大阪でイベントをすることができることを、
 とても嬉しく思います。

 またふたたび、
 大阪のみなさん、関西地区のみなさんにお会いできることを、
 こころから、楽しみにしています。
 どうぞよろしくお願いします。


 詳細・お申し込みは、『 第3回 大阪イベント 』 のページをご覧ください。


2015年8月24日 集合人編集局 裕子・ひで







2015年8月1日土曜日

「仕事」に関して、お悩みの方へ


「仕事」に関して、
悩み・苦しみ・辛さをお感じの方は、
とても多くいらっしゃるのではないか、と思います。

僕にとっても、
「仕事」は、一番大きい、「悩み・苦しみ」の一つでしたので、
そのお気持ちは、よく分かります。

また、
個人セッションに来てくださる方の、ご相談内容としても、
やはり、とても多い、テーマですし、

僕個人としても、
浄化によって、相当に楽になった今でも、なお、
やはり、「仕事」に関しては、悩みや不安を感じますので、

「仕事」というのは、
「お金」や、
「親子関係」「夫婦関係」、「人間関係」、
そして「病」「健康」などとともに、
現代における、悩み・苦しみの、主要テーマの一つ、なのでしょうね。

ただ、幸いなことに(「不幸中の幸い」なことに?)、
このテーマにこそ、
『浄化』という手段は、とっても効果があります。

これまでに実践された方々からお聞きした事例からも、
個人セッションにおいて、お手伝いをさせていただいたケースからも、
なにより、自分自身の体験からも、
そう、確信しています。

ですので、
「仕事」というテーマについて、
津留さん的な見解、『浄化』によるアプローチを、
ぜひ、ここで、お伝えさせたいただきたいと思います。


それに当たっては、
まず、最初に、
次のような実話を、ご紹介させてください。

とっても参考になる、実例として実に素晴らしいお話で、
この事例を頭に入れていただくと、
その後の説明が、とてもスムースになりますので、
少し長くなってしまいますが、
まず最初に、どうぞお読みください。


それは、あるテレビ番組で紹介されていた、
ある、ゲームオタクの男性についての、話です
(見たのが、ずいぶん昔なので、詳細については、記憶違いがあるかもしれません)。

それは、日本でのことではなく、
たしか、カナダでのこと、だったのですが、

その男性は、
テレビゲームが、大好きで、
いわゆる、引きこもりの状態で、
寝ても覚めても、ゲームをしている人でした。

そして、
それほどやっていたからか、腕前もすごくて、
同じような興味を持つ人たちの間では、
有名で、一目置かれるような存在でした。


あるとき、
彼の元に、連絡が入ります。

ゲームソフト会社からでした。

その会社は、
テレビゲームのソフトウェアを、作っているのですが、
彼の腕前を見込んで、
彼に、仕事を依頼します。

 社員として、
 発売前の製品の、チェックをしてほしい

というのが、その、内容でした。

テレビゲームのソフトは、
膨大な量のプログラムを組んで、作るものなので、
慎重に作っていても、
どうしても、ミスが生じてしまいがちです。

また、それをチェックする段でも、
プログラムを読んでいるだけでは、
どうしても、気づきづらいミスが、あります。

なので、実際に、ゲームとしてプレーしてみて、
そのうえで、不具合が無いかどうかを、
確認する必要があります。

いわゆる、「バグチェック」です。

そして、そのためには、
あらゆる場面、いえ、すべての場面に行き、
そして、すべての動作をしてみて、
そして、ちゃんと動作するか、不具合が無いか、を、
確認する必要があります。

なので、
その確認のためには、
その腕前が優れた、ゲーム好きの人物が、適任です。

そのため、
その会社では、それまでにも、
多くの、名の通ったゲーマーたちを、雇い入れ、
そして、発売する商品のバグチェックを、してもらっていました。


そして、今回、
その彼に、お呼びが掛かった訳です。

彼は、大喜びで、受諾します。

だって、やることは、ゲームをするだけです。
いままでやっていた通りに、
大好きなゲームを、するだけです。

それで、お金がもらえます。

しかも、これまでは、
 「仕事もしないで、家に閉じこもって、ゲームばっかりして ... 」
と、言われて、「ろくでなし」扱いだったのに、
これからは、立派な社会人です。

もう、そのようなことを言われなくて済むし、
もう、肩身の狭い思いをしなくて済みます。

さらには、
 「あの会社に、雇われた!」
という、仲間からの、賞賛・名誉も、手に入ります。
発売前のゲームを、一足先にできる、という、楽しみもあります。

意気揚々と、会社に乗り込み、
得意げに、自らの腕前を披露する、彼の姿がありました。


そして、2ヶ月後。

会社には、彼の姿は、ありませんでした。
彼は、もう、その仕事を辞めていました。

理由は、
 「つまらないから」
 「苦しいから」「たいへんだから」
というものでした。

つづけて、ナレーションで紹介されていたところによると、
彼だけではなく、
そのようにして雇われた、バグチェック係の多くは、
1ヶ月、2ヶ月と持たずに、辞めていくのだそうです。


とても興味深い話だと、思いませんか?

改めて、確認したいと思いますが、
彼が、仕事として行っていたことは、

 テレビゲームを、プレーすること
ただ、それだけです。

『ゲーム』です。
それをするだけ、です。

しかも、それは、それまでにも、ずっとしてきていたことで、
そして、彼は、それが、元々、大好きでした。
寝る間も惜しんで、ずっとずっと、やっていました。

親から、他人から、何を言われようと、
 「好きだから」
と、ずっと、やっていたことです。

しかも、彼は、それが、得意でした。
とても上手でした。
自然と、その評判が、世間に広がっていくほどの、腕前でした。

それなのに、
彼は、2ヶ月もしないうちに、
それが、「つまらなく」なり、「苦痛」になり、
最後には、辞めてしまいました。

以前は、
「タダ(無収)」で、自ら勝手に、やっていたことなのに、

まったく同じことをして、
収入が得られ、
親や世間からの、承認も得られ、
仲間うちからの、羨望も得られるようになったのに、

それにもかかわらず、
彼は、辞めてしまいました。

そして、さらに興味深いことに、
辞めてしまうのは、彼だけではありませんでした。
多くの人たちが、同様に、辞めていくのでした。


それでは、
一体、なぜ、彼(ら)は辞めてしまったのでしょうか?

一体、何が、起こったのでしょうか?
一体、何が、以前と、変わったのでしょうか?


細かく言えば、
変わったことは、いろいろとある、とは、思います。

ですが、彼(ら)が、
 「仕事を辞めてしまった理由」
ということ関して言えば、

津留さん的な解釈では、
基本的には、
それは、ただ、一つ、です。

それは、
ゲームが、
 『やらなければいけないこと』
に、変わったのです。

これまでの、
 「やりたいから、やっていた」
ことが、

就職後には、
 『やらなければいけないこと』
に、変わったのです。

「仕事」という、
 『しなければいけないこと』
に、変わってしまったのです。

彼が、
ゲームが「つまらなく」なり、「苦痛」になったこと、
そして、仕事を辞めたこと、
そのことだけに、関して言えば、

変わったのは、それだけ、です。

そして、
それこそが、
彼が辞めた理由です。


津留さんが使っていた表現を用いれば、
 「エゴは、『しなければいけないこと』をするのが、苦手」
です。

 「しなければいけない」
と思った瞬間、
エゴは、苦痛を感じます。

そして、
みなさんが、「仕事」に関して感じていらっしゃる、
ストレス(悩み・苦しさ・辛さ)に関して言えば、

根本的な理由は、
 「(その)仕事を、『しなければいけない』」
と、認識なさっているということ、
その一点です。

もちろん、
表面的に感じていらっしゃる、「仕事」に関するストレスは、
 「ちゃんと評価されていない」
とか、
 「給料が、労働に見合っていない」
とか、
 「仕事の内容が、どうも、自分には合わない」
とか、
 「仕事の内容に関しては、いいんだけど、人間関係が ... 」
など、
様々だということは、充分に、承知しています。

そして、
その場合、それぞれのケースによって、
まず浄化すべき、原因(エネルギーブロック)は、
まず浄化すべき、『表面的』なエネルギーブロックは、
様々ではありますが、

ですが、
その『根本』的な、より『本源的』な、原因・理由・要因は、
共通していて、同じであり、

そして、それは、
 「(その)仕事を、『しなければいけない』」
と思っていらっしゃること、
そのことに、あります。


逆の言い方を、してみましょう。

みなさんが、「仕事」に関して、
ストレスを感じていらっしゃる、根本的な原因は、
 「(その)仕事を、『しなくてもいい』」
 「(その)仕事を、『辞めてもいい』」
 とは、思えて『いない』こと
に、あります。

選択肢として、
 「(その)仕事を、しない」
 「(その)仕事を、辞める」
というチョイスを、持てていない、ということです。

仕事ということに関して、
 「する」と「しない」
が、フラットに、なっていないのです。
ニュートラルに、なっていないのです。
「どっちでもいい」「どっちも同じ」に、なっていないのです。

もし、辛いのなら、苦しいのなら、
 「しなければいい」
 「辞めればいい」
のですよね。

 「もう、永遠に、しなければいい」
 「今すぐに、辞めればいい」
だけの話、ですよね。

ところが、
 「話としてはそうかもしれない」
『けれども』、
 「理屈としてはそうかもしれない」
『けれども』、
 「でも、そうは『できない』」
から、
悩んでらっしゃる訳ですよね。
苦しい訳ですよね。

つまり、意識的にであれ、無意識的にであれ、
「仕事」を、『しなければいけない』ものと、思っているのです。
あるいは、
「仕事」を、『しない訳にはいかない』と、思っているのです。

だから、苦しいのです。
だから、辛いのです。
だから、困るのです。

そして、
それこそが、苦しさの、『根本的な原因』、なのです。


念のために申し上げれば、
 「具体的に、『何をするか』は、
  無意味であり、関係ない」
と、言っている訳では、ありません。

仕事の内容(職種)や、事業の内容(業種)が、
どうしても、自分には合わず、馴染めず、

それらを変えることで、問題が解決し、
生き生きと仕事をなさっている方々は、たくさんいらっしゃることでしょう。

 「自分が好きなこと、得意なこと、ワクワクすることをしなさい。
  それが、あなたの天職です」
そんなアドバイスをもとに、
ご自分の小さい頃に好きだったことを、思い返してみたり、
得意なことを、仕事になさっておいでの方も、多数いらっしゃることでしょう。

それによって、幸せな生活を手に入れられた方も、
大勢、いらっしゃることでしょう。

それはそれで、
素晴らしいアプローチの一つであり、
とても有効な方法であり、
それ『も』、ぜひ、実践していただきたいと、思います。

ですが、
 「『自分が好きなこと、得意なこと』を探ってみたけれど、
  それでも、自分のしたいことが、よく分からない」
という方は、
大勢、いらっしゃるのではないでしょうか?

何を隠そう、僕もそんな一人でしたので、
そのような方の状況は、とってもよく、分かります。

あるいは、
 「『自分が好きなこと、得意なこと』を仕事にしてみたけれど、
  それでも、苦痛・不安・悩みは、解消されない」
という方すら、
いらっしゃるのではないでしょうか?

そして、
そんな方にこそ、ぜひ、
最初の、ゲームオタクの彼の実例を、思い返していただきたいのです。


彼の仕事は、『テレビゲーム』でした。
『遊び』の代表ともいえる、『ゲーム』でした。

そして、それは、
彼の、大好きなこと、でした。
彼の、得意なこと、でした。
彼の、ずっとしてきたこと、でした。

それでも、
彼は、嫌になってしまいました。
苦痛になってしまいました。

そして、
仕事を、辞めてしまいました。

『ゲーム』を『仕事』にした、結果 ...

この事例から、
ぜひ、
 「『何をするか』が、原因ではない」
という可能性について、考察なさってみてください。

そして、
 「ご自分のケースにおいても、同様かもしれない」
という可能性について、検討なさってみてください。


もし、今、
仕事について、悩まれていることがおありだとしたら、

仕事を辞められる前に、
ぜひ、じっくりと(でも、無理の無い範囲で)、
ご自分が感じてらっしゃる苦しさを、辛さを、
しっかりと、感じてみてください。

転職をされる前に、
新しい仕事を探される前に、
ぜひ、じっくりと(でも、無理の無い範囲で)、
ご自分が感じてらっしゃる苦しさを、辛さを、
しっかりと、分け入って、感じ、見つめてみてください。

繰り返しますが、
「仕事を辞めないでください」とか、
「仕事を換えないでください」とか、
「新しい仕事を探さないでください」とか、
申している訳では、ありません。

それらの行為をすることも、重要であり、
あるいは、
それらの行為をしないことも、重要です。

ただ、
ご自身の感じていらっしゃる「辛さ・苦しさ」に関しては、
ご自身が「不幸でないかどうか」「幸せかどうか」については、

どうぞ、自分の『内側』を、見つめてみてください。
自分の『中』を、探ってみてください。

そこにこそ、『原因』があるかどうかを、
ぜひ、ご自分で、感じてみてください。

 自分の『中』の『想い』『考え』『価値観』こそが、
 自分に苦痛を感じさせている原因である
という可能性について、ぜひ、検証なさってみてください。

そして、それによって、ぜひ、
 「ただ単に、単純に、外側の世界を変えることで、解決を図る、
  という、『永久循環運動』」
から、
一歩、足を踏み出してみてください。

現在の『窮地』を、
そのための、『絶好の機会』として、活用なさってみてください。

あえて言うならば、
 「それこそが、いま、あなたが、その苦しみを感じている、理由」
です。

そう、認識してみてください。
そう思えなくても、感じられなくても、まったく問題ありません。
ただ、「そうかもしれない」と、思ってみてください。


そして、ぜひ、
『浄化』をなさってみてください。

 「仕事を『しなければいけない』」
 「仕事を『辞められない』」
 「仕事を『しないわけにはいかない』」
そう、考えたときに感じるストレスを、
そう、思ったときに感じる『感覚』そのものを、
浄化なさってみてください。

あるいは、
 「仕事なんて、しなくてもいい」
 「こんな仕事、今すぐ、辞めてやる」
 「何なら、今すぐ、辞表を叩き付けてやる」
そう、想像してみたときに感じるストレスを、
そう、自分で自分に言ってみたときに感じる、ネガティブな『感覚』そのものを、
自分から取り出し、手放し、解放してみてください。

そのときには、
それを、繰り返し繰り返し、根気づよく、なさった後には、

きっと、
『浄化』というものの効果を、体感なさっておいででしょう。

きっと、
「苦しみ」「ストレス」「不幸」というものの構造・仕組みを、
また一段深く、理解しておいででしょう。

そして、きっと、
さらに一段、新たなステップへと、お進みのことでしょう。











2015年7月31日金曜日

夏期休業のお知らせ(2015年)


2015年8月1日(土)から7日(金)まで、
集合人編集局は、夏期休業をいただきます。

その間、サイトからの商品のご注文は、お受けいたしますが、
ご確認メールの送信、および、商品の発送は、8月10日(月)以降になります。

ご不便・ご迷惑をお掛けいたしますが、
ご理解のほど、よろしくお願いいたします。


2015年7月31日 集合人編集局









2015年7月1日水曜日

第2回名古屋イベント 開催のお知らせ


 2015年9月21日(月)、22日(火)、23日(水)、
 名古屋市で、
 『津留さん交流会』『浄化実践講習会』『個人セッション』を行います。


 今年1月の開催につづき、
 名古屋で、2回目の、イベントを開催させていただきます。

 前回は、数多くのみなさまにお会いでき、
 とても楽しい時間を、過ごすことができました。

 今回も、楽しいお話しができますことを、
 愛知県のみなさま、東海地区のみなさまに、お会いできますことを、
 楽しみにしています。

 どうぞよろしくお願いします。


 詳細・お申し込みは、『 第2回 名古屋イベント 』 のページをご覧ください。

 2015年7月1日 集合人編集局 裕子・ひで










2015年6月30日火曜日

『第1回福岡イベント』を終えて


全国的に、梅雨の候、
みなさま、いかがお過ごしですか?
時節柄、くれぐれも、ご自愛くださいませ。

さて、
このブログの記事更新も、すっかりと、ご無沙汰になってしまいました。

 「ひでさんのブログが、最近更新されていないようなので、
  少し心配です」

とのメッセージを、頂戴いたしましたので ^^; 、
久々に、ご挨拶させていただきます。

僕としては、相変わらず、
 内側を眺め・観察し、浄化に励む
という日々を、淡々と、送っています。

ブログを更新していないのは、
お伝えしたいことが無いから、という訳では、ありません
(むしろ、有り過ぎるくらいです)。

また、
体調的にも、おかげさまで、
すこぶる元気で、健康です。

ただ、むしろ、
 元気過ぎて、やりたいことがいっぱい有り過ぎて、
 それで、記事の更新が疎かになってしまっている ...
そんな感じです ^^; 。

ご心配くださった方に、お礼申し上げます ^^ 。


さて、
そんな、元気な状態で、
このたび、福岡に行かせていただき、
福岡で初めてのイベントを、開催することができました。

2015年6月19日(金)、20日(土)、21日(日)の3日間、
のべ14名の方々が、ご参加くださいました。

ご参加くださったみなさま、
どうもありがとうございました。

イベントの様子につきましては、
こちら のページをご覧ください。


津留さんの出身県、福岡県で、イベントをさせていただくことは、
僕にとって、
この仕事(活動)をさせていただいた当初から、念頭にあった、
一つのメルクマールであり、
それを実現できたことに、深い感慨を覚えます。

そのイベントに、14名もの方々が、
九州各地や、本州からも、お集まりくださったことに、
深い感謝を覚えるとともに、
津留さんの素晴らしさを、改めて、感じさせられました。

そして、
この活動をさせていただけていることに、
改めて、深い嬉しさを感じました。

今後も、
可能な範囲で、いろいろな場所に伺いながら、
させていただけることを、自分の役割を、
果たして行く所存です。

今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。








2015年4月16日木曜日

第1回 福岡イベント 開催のお知らせ


 2015年6月19日(金)、20日(土)、21日(日)、
 福岡市で、
 『浄化実践講習会』と『個人セッション』を行います。

 津留さんの出身地である、福岡県で、
 このたび、開催できることを、
 とても嬉しく思っています。
 
 福岡のみなさん、九州のみなさんに、お会いできることを、
 こころから、楽しみにしています。

 どうぞよろしくお願いします。

 詳細・お申し込みは、『 第1回 福岡イベント 』 のページをご覧ください。
 

 2015年4月16日 集合人編集局 裕子・ひで








2015年4月13日月曜日

「青空交流会」のお知らせ


ここ数日、
冬が戻ってきたかのような、寒さですが、

みなさん、
いかがお過ごしですか?


さて、
とはいえ、ここ、千葉では、
春は、着実に、本番を迎え、

今年も、
見事なまでに、
桜が、自らをあでやかに彩り、
咲き誇ってくれました。

そして、
これからしばらくは、

寒くもなく、暑すぎもせず、
湿気も無く、爽やかで、

しかも、まだ、蚊も出ないという
(個人的には、とっても大事です! ^^ )、

屋外で過ごすには、
最高の季節となりますね。


そこで、
そんな季節なので、

次回、4月の、「津留さん交流会」は、
はじめての企画として、
「青空交流会」と、させていただきます。


ふだんの交流会では、
晴天の場合には、
室温が上がり過ぎないように、眩しくないように、

降り注ぎ、差し込む、まばゆいばかりの陽光を、
ブラインドによって、遮って、

DVDを観たり、
シェアリングをしたり、しています。

もちろん、
おかげで、
ゆっくりと、DVDが観られたり、
みなさんのお話を、しっかりと、お聞きできる訳ですが、

このような季節には、
ぜひ、一度、

天井が無い場所で、青空の下で、
自然の空気が流れる中で、
そんな陽光も、身体で受け止めながら、

身体を動かしたし、
席を自由に移動したり、
テーマも決めず、会話をしたり ...

そんな形での交流会を、
やってみたいと、思っていました。

とくに、
現状、悩みや苦しみがあって、
それゆえに、
スピリチュアルなことに興味があったり、
津留さんのメッセージに興味があったりすると、

どうしても、
屋内に、室内に、
閉じこもってしまいがちですよね。

もちろん、
それはそれで、別に、「いいも悪いも、無い」のですが、

でも、せっかくの時期ですから、
屋外で過ごす、ここちよさも、
身体全体で、自然を感じる、ここちよさも、
身体を動かす、ここちよさも、
ぜひ、味わっていただきたいし、

そんなことの、
一機会になれば、きっかけになれば、
と、思っています。


というようなことで、
4月の交流会は、

4月29日(水)、昭和の日、
東京都葛西臨海公園で、

「青空交流会」を、行います。

草っ原に、レジャーシートを広げて、
青空を眺めながら、緑を眺めながら、海を眺めながら、
ただ、しゃべり、ただ、遊びましょう。

参加費は、無料です。
事前のお申し込みも、とくに、必要ありません。

お子さんや、ご家族、パートナーなどと、
一緒にいらしてくださって、結構です。

わたしたちは、
小学生の子ども、二人を、
連れて行かせていただきます。

おやつや、飲み物も、
レジャーシートといっしょに、お持ちください。

好天だと、
陽射しが強く、日焼けするかもしれません。

気になる方は、
日焼け止めや、日避けも、
お持ちください。

それから、
海(といっても、東京湾ですが ^^; )が、目の前です。

海風が、
強かったり、冷たかったり、
するかもしれません。

羽織るものを、一枚、
お持ちになられると、いいかもしれません。

 「海に入りたい!」
 「海水に、触れたい!」
という方は、
タオルも、お忘れなく。

遊泳は、禁止だと思いますが ^^ 、
足を浸けるくらいなら、
楽しいと思います。

同じ公園内には、
水族館や、鳥類園、大観覧車もあります。

早めにいらして、
午前中は、
それらで遊ばれるのも、一興、かも。


それでは、
ご興味がおありの方は、
ぜひ、いらしてください。

お会いできることを、
楽しみにしています。


なお、
雨天時は、中止とし、

通常の「津留さん交流会」を、
通常どおり、いたします。

そちらにつきましては、
こちら のページをご覧ください。



青空交流会(第23回 津留さん交流会)

 [ 月 日 ] 2015年4月29日(水・昭和の日)

 [ 時 間 ] 13:00  ~ 16:00

 [ 会 場 ] 葛西臨海公園 展望広場 or 汐風広場
      ( 最寄駅:JR京葉線・葛西臨海公園駅)

 [ 会 費 ] 無料

 [ 集合時刻 ] 13:00

 [ 集合場所 ] 葛西臨海公園 展望施設クリスタルビュー 1F
     (下の地図の、赤い丸のところです)



(集合場所、クリスタルビューの、外観です)










2015年4月7日火曜日

春休み(2015年)


4月1日から、5日までの、5日間、
集合人編集局としての業務は、お休みをいただいて、
家族で、沖縄に、遊びに行ってきました

(その間、ご注文をくださったみなさま、
 ご対応が遅くなり、失礼いたしました)。


7年振りの、沖縄でした。

前回も、まったく同じ時期に、訪れたのですが、
「晩春・初夏」という、記憶の中の、季節とは違って、
今回は、ほぼ、「真夏」。

焦げるような陽射しが、遠慮なく、容赦なく、照りつける中、
気温も、28℃まで、上がる日もあり、
みな、すっかり、日焼けしてしまいました ^^;

(4月にお目にかかるみなさま、
 「黒バージョン」の裕子さんを、お楽しみに! ^^ ) 。

でも、おかげで、
海に入って泳いだり、屋外プールで泳いだり、といった、
屋外でのアクティヴィティーを、
こころから、満喫できました。

子どもたちは、イルカさんたちと、触れ合うプログラムに、
大興奮! ^^

そのほかにも、みなで、
エイと一緒に、泳いだり、
ホエールウォッチングを、楽しみました。


エイと一緒に泳いだのは、
僕は、9年振り。
ニュージーランドの、海で、以来でした。

そのときには、
濃く深い藍色に染まった、深い海の底を背景に、
宙を浮くように、漂い流れていくエイを、
静寂の中、遠くに、一人、眺めていました。

今回は、
足も付くくらいの、浅瀬で、
何匹ものエイたちの群れを、
子どもたちの、興奮した、騒がしい声の中、眺めていました ^^; 。

その、両者の、あまりの対照ぶりに、笑ってしまうとともに、
当時との状況・環境の変化に、感慨深いものが、ありました。

「『未来が分からないこと』の怖さ」も、まだまだ、実感がありつつも、
「『未来が分からないこと』の楽しさ・面白さ」を、再認識させられました。


野生のクジラを見たのは、
今回が、はじめてでした。

15年前に、1度、
オーストラリア西岸で、
ホエールウォッチング・ボートに、乗船したことがあります。

ところが、そのときには、
「遭遇率90数%以上」というツアーにも関わらず、
その姿を拝むことは、できませんでした。

今回の、沖縄での、ホエールウォッチングも、
繁殖のために、沖縄本島近海まで、南下してきたクジラたちが、
アラスカ付近まで、北上していく、その期限ギリギリだったため、

僕の頭の中では、
 「おそらく、また、今回も ... 」
というストーリーが、いつの間にか、出来上がっていました。

探せど探せど、見つからず、いたずらに、時間が過ぎていく展開に、
 「やっぱり .. 」
との想いが、増していきました。

ところが、
そんな「『ネガティヴ』な予想・想い」に反して、
最後には、親子のクジラが、
間近に、姿を現してくれました。

 「今日のお客さんは、ラッキーですねー!」
と、ガイドのスタッフさんが、叫んでくれるほど、
大きな姿を、見せてくれました。

 「現実を『創造しよう』」
とすることの、無意味さを、
ここちよく、楽しく、体験することができました ^^ 。


そして、
今回の沖縄滞在中の、メインイベントは、
皆既月食でした。

実は、
この、皆既月食、

人間意識の、わたしたちとしては、
沖縄行きを計画し、予約手配した段階では、
それが起きることを、まったく、知りませんでした。

それどころか、
ほんの、数週間前まで、
それがやって来ることを、まったく、知りませんでした。

ところが、
人間意識の、わたしたちが、
人間としての、様々な事情を、勘案し、調整した結果、

『偶然』に、
滞在最終夜が、その夜と、重なりました。

その日は、朝から、
雲が立ちこめたり、晴れ渡ったりを、
幾度となく、繰り返していました。

そして、夕暮れ過ぎからは、
その日で、最も厚い雲々が、垂れ込めていました。

しかも、
春休みで、ごった返した、ホテルのレストランは、
テーブルへ案内されるまでの時間が、まったく読めず、

また、
朝から、全力で、
各種のイベントやアクティヴィティーを、満喫していた、
子どもたちは、

食事の準備が整うことを、待ち切れず、
早々と、夢の世界へと、歩み進んでいってしまいました ^^; 。

そんなこんなで、
皆既時刻がやって来たときには、
ちょうど、名前を呼ばれ、席に通され、食事を選び ...
と、バタバタしていて、

ふと、気がついたときには、
すでに、皆既が始まっている時刻でした。

 「でも、どうせ、雲に隠れて ... 」
と、諦めがちにつぶやく、一人の『エゴちゃん』の声を聞きつつ、
しかし、ただ、席を立ち、外に出て、夜空を見上げる『僕』が、目にしたのは、

南国の樹々の合間に、ひっそりと身を置いた、
赤く、暗く、淡い、
見慣れない、お月さまの、お姿でした。

(この写真では、赤くありませんね ^^; )


前回の、皆既月食と同様に
(よろしければ、過去記事「皆既月食に(2014年10月8日)」をご覧ください)、

今回も、
この、
 「月の『欠け、満ち』」
を見ながら、

改めての、
 「エネルギーの交代」
 「光の交代」
を、
祈り、想って、いました。

しかも、
「清明」の前日での、皆既月食を、
「清明祭」を、三大行事の一つとしている、沖縄の地で、迎えたことに、
その『偶然』に、

その想いを、
新たにしました。

「清明祭」では、
お墓の前に、場合によっては、一族みなが集まり、
先祖を供養し、宴が催されるのだそうですね
(そのために、沖縄のお墓は、あんなに、大きいんですね!)。

 過去を敬(うやま)い、赦(ゆる)し、癒(いや)し、
 広く家族として敬愛し、広く家族として共に慶(よろこ)ぶ ...

そんなエネルギー・意識への転換が、
沖縄の地から始まり、
沖縄の地から進み、広がっていくことを、
祈り、願っていました。


帰路の、機中では、
2度にわたって、
『虹(7色の光)』を、目にしました。

僕、個人として、
常々、
 「個人的な『OK』サイン」
として、認識し・捉えている、
『虹』を、2度、目にして、

今回の沖縄訪問・滞在が、
 「『エゴ』としての、僕個人・僕の家族」
にとっても、
 「『全体』としての僕、『宇宙』としての僕」
にとっても、
 「どちらにとっても、OKだった」
ものと、

勝手に解釈し、
勝手に納得し、
勝手に満足して、

楽しかった、幾多の出来事、それぞれを、
幾度も、反芻(はんすう)しながら、
細やかな温かい周波数に満たされての、
家路となりました。















2015年3月31日火曜日

いただいた、個人セッションのご感想


昨年、2014年10月に、
わたしたちの個人セッションを受けてくださった、
ある方が、

個人セッションのご感想と、後日談を、
数日前に、メールで、
お寄せくださいました。

ご本人の了承を得て、
ここに、みなさまに、
シェアさせていただきます。

『浄化』というものが、どういうものなのか、
その一例として、
ご参考にしていただければと、思います。

なお、
メールとしては、まず、1通くださり、

その後、
こちらの返信に対して、さらに1通、

計2通、いただきました。

その内容を、そのまま、
以下に、掲載させていただきます。


( Nさん、ありがとうございました ^^ )


 ひで



 ——————

 セッションでは、両親への想いを一緒に浄化して頂き、ありがとうございました!
 帰り道は、心も身体も軽くなりました♪

 セッション後に会った友人にも「顔が優しくなった」と言われました(^-^)


 その後も、両親への想い、こうして欲しかったとか寂しかったことなどを、
 状況を思い出しながら浄化し続けています。


 セッションの時には、同居している弟共々、無職で、好きなことをやって遊んで
 過ごしていました。

 その時には、この先自分が何をやったらいいかわからず、貯金が減っていくことに
 恐れがありましたが、その度に、お金に対する恐れを感じて手放し続けました。

 すると、しばらくして弟が働きだし、私を養えるほど稼ぐようになったのです。

 これまでの私の人生は、両親がいなくなってからは、私が弟二人を養わなくては
 いけない、私が働かないと生活できない、いつもお金に苦労する…
 など思っていました。

 弟にも対しても、お金は入れてくれない、稼ぎが少ない、どうしようもないと
 レッテルを貼っていたことに気付き、それらを手放していくと、
 弟は別人のようになりました。

 自分の握っていた観念通りに現実が創られていたことを実感しました。

 私は相変わらず無職ですが、何もないけれど今が一番幸せを感じています。

 私が、これから何をしたらいいか焦る気持ちもありますので、強迫観念などを
 手放して行こうと思います。

 裕子さんとひでさんのセッションのお蔭で、今までとは違う世界にいる感じです♪

 お礼をお伝えしたく、メールしました。

 本当にありがとうございました(^-^)/


 ——————


 私は、無職でやることがないので(笑)お金を使うたびに沸き上がる「使うとなくなる」
 「お金がないと困ったことになる」「貯金が減るのが怖い~」と言いながら、
 胸に手をあて感じきり手放すことを毎日のようにやっていました。

 すると、だんだん使うときの恐れが減っていき、浄化を続けていくうちに、
 今までお金が必要な時は、どこからか入ってきてたし、結局困ったことはなかったと
 気づきました(^^;)

 ですが、今も完全にお金に対する恐怖がゼロになったわけではないので、
 感情が出たら感じて飛ばしています。


 弟に対しても、こういう弟だと決めつけていたこと、例えば、お金を使われたり、
 キレられた場面を思い出しながら、感情を感じて手放していきました。

 私の弟への決めつけが消えると、弟がまさに…別人28号!?です(笑)


 一人では感情を感じて手放す方法がうまくできなかったので、セッションで一緒に
 やってくださったお蔭です。

 あの時のやり方を思い出して、手放しています。

 何でもそうだと思いますが、コツコツやり続けていくと、見えてくる世界があるん
 ですね。

 今まで何かを継続することは苦手でしたが、やれば心が軽くなる実感があり、
 周りが変わったように見える… 実際は、自分の内側が変わったわけですが、
 やっただけ変わるので、やめられません(笑)


 私の体験談が誰かのお役に立てるなら喜んで!

 どうぞ使って下さい(^∇^)

 また、裕子さんとひでさんに会いに行きますので、その時は、よろしくお願い致します。







2015年3月6日金曜日

3月6日、満月、啓蟄


ここ、千葉県市川市では、
3月に入って、急に、
梅の花の開いた姿を、目にするように、なりました。

3月3日、桃の節句。

義母、山口潤子が亡くなって、
ちょうど、一年が経ちましたが、

この日、
お墓に向かう、道すがらも、
見事に咲き誇った、梅の木々が、
随所に、見受けられました。


さて、
今日は、3月6日。

音でいうと、みろく(三六・弥勒)に当たる、本日は、
ちょうど、
月齢でいうと、満月であり、
二十四節気でいうと、啓蟄です。

 「みろくが、満ち、そして、現れ出(いで)る」

そんな、日、ですね。

あるいは、
後世において、振り返ったときに、
そんな日だった、と、思い返すかも、しれません。

そんなことを、感じさせるかのように、
今日に入って、
震度『3』の地震が、
北海道と、沖縄(宮古島)と、伊豆大島と、で、
起きたようです、

日本の、
北と、南と、真ん中と、で ...


ふだん、僕は、
 「自分の、内側を、観察すること」
の重要性を、
自ら実践しながら、お伝えしています。

おそらく、これからも、
「内側」のことを、「内側を見つめること」を、
お伝えし続けると、思います。

ですが、それは、
 「『内側』だけが、重要である」
とか、
 「『内側』だけに、真実がある」
とか、

そのような、理解・認識のもとに、
「内側」のことを、お伝えしているわけでは、ありません。

 「『外側』のことは、重要ではない」
とか、
 「『外側』には、真理は無い」
とか、

そのようなことを、申しているわけでは、ありません。

外側は、重要です。
外側にも、真理はあります。

外側と、内側とは、等価です、
だって、
 「『内側』が映し出されたものが、『外側』」
なんですから ...


ただ、
わたしたちは、みな、
これまでの、習慣で、

自然自然と、無意識のうちに、
『外側』のことを、
『外側』のこと『ばかり』を、
意識し、見つめ、気にしています。

ですので、
「意識して」、『内側』のことを、見つめる、
という訓練が、とても、重要です。

『内側』を観察することを、習慣づけることが、
とても、重要です。

それを、相当期間、集中して行って、
はじめて、ようやく、
『内側』と『外側』とを、等しく、見ることができるようになります。

はじめて、「等価」だと、見なせるようになります。
感じるようになります。

ようやく、
 「『内側』が映し出されたものが、『外側』」
だと、腑に落ちるようになってきます。
体感を持って、納得できるようになってきます。

そうして、はじめて、
『内側』と『外側』が、ニュートラルに、なってきます。


基本的に、わたしたちは、みな、
今回の人生を、
 「『外側』だけが、重要」
から、スタートしています。

ですから、
わたしたちは、一旦(いったん)、
 「『内側』こそが、重要である」
 「『外側』のことは、気にならない」
に、行くことが、とても重要です。

そうなって、はじめて、
自然と、意識する必要なく、勝手に、
 「『外側』の真価」
に、気づくことになります。

そうなって、はじめて、
 「『外側』との、つきあい方」
 「『外側』との、距離感」
を、
自然と、見いだすのだと、思います。

そうなって、はじめて、
『外』と、『内』が、
『エゴ』と、『神』が、
『小我』と、『大我』が、
等しく、偏ること無く、同時に、存在し得ます。
現れ出て来ます。

「『どちらか』の世界」から、
「『どちらも』の世界」に、移り住みます。

そのとき、
この世界は、もう、二極では、ありません。

それこそが、
みろくの世、なのかも、しれません ...


今日は、3月6日、みろくの日。

『大我』・『集合意識』としての、わたしたちは、
この日に、
「満月」を合わせ、
「啓蟄」を合わせてきました。

このことが、いったい、どのような意味があるのか、は、
一人ひとりの、
「『外側』の見え方」によって、違っているかも、しれません。

 「『大我』・『集合意識』としての、わたしたち」
という言葉が、
どれだけ、『私』であると、感じていらっしゃるか、によって、
違っているかも、しれません。

ですが、いずれにせよ、
わたしたちは、みな、誰一人残らず、
全体としては、「『神』へ還る道」を、順調に、
歩み進んでいるものと、
僕個人は、認識しています。

これからも、
いまだ、『他人』と見える、みなさまと、
いまだ、『他人』と感じる、みなさまと、ともに、

楽しく、このゲームを進め、
そして、『苦しく』、この生を、全うしていきたいと思います ^^ 。

今日、この日に、
そんなことを、感じました。










2015年2月24日火曜日

『第2回大阪イベント』を終えて


2015年2月20日(金)、21日(土)、22日(日)の3日間、
のべ18名の方々に、ご参加いただき、
大阪で2回目のイベントを、開催することができました。


2月21日の、浄化実践講習会には、7名の方々が、
2月22日の、津留さん交流会には、5名の方々が、
3日間の、個人セッションには、6名の方々が、
お越しくださいました。

大阪は、今回で、2回目で、
しかも、会場も、前回と、まったく同じだったので、
緊張したり、構えたりすることなく、臨むことができました。

でも、逆に、リラックスし過ぎで、
もうちょっと、きちんとしても、よかった、かも? ^^;


今回は、これまでに比べて、
いろいろな方々に、いろいろなお話を、少し深く、伺うことができて、
とても、楽しく、有意義でした。

特に、個人セッションでお聞きできたお話は、
これまでに体験されて来たこと、いま体験されていることが、
とても濃密で、鮮烈で、
伺っているこちらが、申し訳なく感じてしまったり、
あるいは、浄化による解放の場面が、とても感動的であったり、と、
貴重な学びと、気づきと、体験を、いただくことが、たくさん、できました。

それから、交流会は、
2月22日という、津留さんの誕生日に、開催することができました。
亡くなってから、14年半、生きていれば、69歳の誕生日。
その日に、大阪で、このようなイベントを催すことができて、
とても、嬉しかったです。


改めまして、
今回、ご参加くださったみなさま、
本当に、ありがとうございました。

また、お目にかかれる機会がありますこと、
お話を伺える機会がありますことを、
楽しみにしています。

次回の、大阪での開催の予定などは、
現時点では、未定ですが、
定期的に開催ができるよう、努めてまいります。

どうぞよろしくお願いします。

  集合人編集局 ひで



 今回の『第2回大阪イベント』の様子や、いただいたご感想については、
 こちらの「『第2回大阪イベント(2015年2月)』のご報告」のページをご覧ください。









2015年2月17日火曜日

『鏡』の使い方


みなさんは、ふだん、鏡を見ますか?

男性の場合には、
ほとんど、ご覧にならない方も、
いらっしゃるかも、しれませんが、

女性の場合は、
おそらく、日に数度か、
ご覧になられることでしょうね。

ところで、
ふだん、鏡をお使いになる場合、
その用途には、いくつか、あると思いますが、

基本的には、
自分の顔を、姿を、映し、
それを、チェックするために、使いますよね。

 鏡の上(中)の、像を見て、
 そして、
 その元である、自分のことを、チェックする。
 必要があれば、自分を、直す。

そのように、
お使いのことと、思います。


さて。

 「この世の中は、『鏡』である」
 「自分の見えている世界は、『鏡』である」

これらの言葉については、
みなさんは、
もう、「耳タコ」なくらいに、お聞きになっていて、
もう、充分に、理解され、納得されておいでのことと、思います。

この言葉を、知る前には、
わたしたちは、
 『外の世界』『物質世界』
というものが、
それだけが、
独立して、存在していて、

そして、
 自分が幸せになるためには、
 その、外の世界を、
 自分にとって、都合の良いように、
 変えていかなくては、いけない。
 自分にとって、都合の良いように、
 創り出し、作り替えていかなくては、いけない ...

そう、思っていましたよね。

この時期は、
頭での理解としては、まだ、
 「それが『鏡』だ」
ということは、知らないわけですが、

ですが、あえて、例えてみると、
それは、いわば、
 「鏡の中に、手を突っ込んで、そこに映る像を、変えようとしている」
そんな感じだと、
僕は、思っています。


そして、その後、
わたしたちは、
 「外の世界は、自分の内面が映し出された『鏡』なんだ」
と、耳にするわけですが、

それでも、はじめのうちは、
 「それなら、自分の内側を変えて、
  『鏡』に映るものを、自分の望むものにしよう」
と、
やはり、外側の世界を変えることに、勤(いそ)しんでこられた、
というケースが、ほとんどだと、思います。

この場合には、
 「鏡の中に、手を突っ込んで ・・・ 」
という感じでは、
もう、なくなっているかもしれませんが、

それでも、まだ、
その、外側の世界を変えることに、焦点を向けている、
という点で、

 「『鏡』に映し出された像に、
  そして、その変化に、
  意識を奪われたまま、である」
という点で、

まだ、以前と、とても似た意識状態にある、
とは、言えるかも、しれません。


さて、
それも、しばらくすると、

この、
 「この世の中は、『鏡』の世界だ」
という考えが、
さらにしっかりと、自分の中に、定着してきます。

そのときには、
 「問題なのは、『自分の内側』なのだ」
という点が、
すんなりと、理解・納得できて来ています。

「自分が、辛い・苦しい・悲しい」という点に関しては、
あるいは、
「自分が、幸せかどうか」という点に関しては、

それは、
 「映し出された側の、『外側の世界』ではなく、
  映っている元である、『自分の内側』に、問題があるのだ」
という認識が、
すんなりと、身体に入ってくるようになって来ていることと、思います。


ところが、です。
その時に、です。

たとえば、
 「自分が辛いのは、『自分の内側』に問題がある」
ということは、十分に、分かっては、いるけれども、

 「『自分が、辛い』という点に関して、
  問題なのは、『自分の内側』だ」
ということが、十二分に、認識できては、いるけれども、

でも、
 「では、なぜ、どうして、
  『自分が、辛い』という点に関して、『自分の内側』が問題なのか?」
というと、

それは、
 「『自分が、辛い』と感じるような『現象』を、
  『自分の内側』が、生み出しているから。
  だから、問題だ」
と、認識なさっています。

 「『外側』の、その、『辛い現象』の原因が、『自分の内側』だから。
  だから、『自分の内側』が、問題なのだ」
と、認識されています。

なので、
 「こんな現実を体験してしまうなんて、
  いったい、自分は、どんな『ブロック』を握ってしまっているのだろう?」
とか、

あるいは、
 「私は、こんな現実を、生み出しちゃってます。
  どうしたら、いいのでしょうか?」
とか、
そんな風に、お想いになられています。

 「『自分を幸せにする』ための、ツール」
に過ぎない、
 「この世は、『鏡』だ」
という情報によって、
かえって、
 『自分の辛さ・苦しさ』
を、増やしてしまっています。

そのような想いを、ご体験を、
これまでに、何度となく、お聞きしてきました。


このような場合には、
 「『自分の内側』が問題だ」
ということは、
もう、充分に、認識なさっておいで、なのですね。

ですが、
しかし、依然として、
 「自分に、不快さを、辛さを、感じさせているのは、
  『外の世界』に存在している、『現象』だ」
という認識は、
無意識であるにせよ、わずかであるにせよ、
いまだ、お持ちのまま、なので、

したがって、
 「この問題を解決するために、『自分の内側』を変える」
 「『問題だ』と認識している、『自分の内側』を変える」
と、決意し、
そう、なさっていても、

しかし、
その目的は、そうする目的は、依然として、
 「『外の世界』に存在している、その現象を変えること、消滅させること」
のまま、
というケースが、とても多いと、思います。

また、ですので、
 「『問題だ』と認識している、『自分の内側』を変えることが、
  ちゃんと、できたかどうか」
ということに関する、判断基準についても、

 「『外の世界』に存在している、その現象を、
  ちゃんと、変えられたか、消滅させられたか」
に、なってしまいがち、です。


この場合、
 「『鏡』の使い方」
としては、
とても素晴らしい、のですね。

 「自分が見ている世界は、『鏡』なんだ」
と、理解された後に、
 「では、その『鏡』を、自分の幸せのために、利用しよう」
と、思われたときの、

その、利用の仕方として、
それは、素晴らしい、のですね。

わたしたちが、ふだん、使うとおりに、
『鏡』を、お使いになられている、わけですから。

つまり、
鏡の中に、手を突っ込んで、それを直そう、
としたりするのではなく、

鏡の中の、像を見て、
その元である、自分のことを、チェックなさっている、
そして、その上で、
必要があれば、自分のほうを、直そうとする、
のですから。

ですが、やはり、
 「『鏡に映ったもの』が、どうであるか?」
ということに、意識の焦点が向けられたままである、
という点については、
以前と、変わりが、ありません。

別の言い方をすれば、
 「『鏡に映ったもの』が、自分に辛さを感じさせる『元』であり、
  それを、変えられるかどうか」
ということに、意識の焦点がある、ままであり、

 「その、自分に辛さを感じさせる『元』を、変えるために、
  それを生み出している、『自分の内側』を変えよう」
と、なさっておいでです。

『鏡に映ったもの』『外の世界』を、
依然として、評価し、判断されている、
という点に関しては、
以前と、同じまま、なのですね。

『鏡』の例に、戻れば、
『鏡』を眺めて、
 「あぁ、自分は、こんなにも、醜(みにく)いわ」
 「こんなに、脂肪が、付いちゃった」
 「この皺(しわ)、どうにか、ならないかしら?」
 「あれ、白髪が、増えちゃってる ... 」
と、感じ、想い、

そして、その上で、
 「じゃぁ、この薬を、飲んでみよう」
 「肉を止めて、野菜を食べよう」
 「このコスメを、使ってみよう」
とか、
そう、思われて、

そうして、『自分』を変えようと、なさっているのですね、
「『鏡』に映る『自分』」を、変えるために ...


もし、今後も、
この『鏡』を、
 「ご自分の、幸せのために」
あるいは、
 「ご自分の、辛さ・苦しさを、減らすために」
使おう、と、お想いでしたら、

これからは、
ぜひ、次のように、
この『鏡』を、利用なさってみてください。


『鏡に映っているもの』『鏡の中の像』には、
本来、意味は、ありません。

たしかに、
映っている『元』は、『自分』なのですが、
しかし、
そこに、『意味』は、ありません。

それは、ただの、『像』です。

そこには、それには、
 『良い』も、『悪い』も
 『辛い』も『苦しい』も、『楽しい』も
 『悲しい』も、『嬉しい』も
ありません。

ただ、『像』が、あるだけです。

そこには、ただ、『鏡』があり、
そこに、『像』が、映っているだけです。

もし、そこに、何かある、とすれば、
そこには、
あなたに、それらの気持ちを感じさせる、
『原因』が、あるだけです。

あなたに、そう、感じさせる、
 「未消化なままの、『感情』」が
 「過去の『記憶』」が
 『価値観』『社会通念』『道徳規範』が
 『情報』が、『プログラム』が
あるだけです。

つまり、
 『エネルギーブロック』
が、あるだけです。


本当は、ただ、
 「皮膚の下部が、膨らんだ」だけ
 「皮膚の表面に、溝が、できた」だけ
 「髪の毛の色づけが、なされなかった」だけ
ただ、それだけ、です。

本来は、
 「ただ、それだけ」
なのです。

ですが、
それらを、
 「醜い」
とする、「美の基準」が、
あるのです。

それらを、
 「老い」
とする、「判断基準」が、
あるのです。

そして、
それら、「醜いこと」を、「老い」を、
 「良くないこと」
 「悲しいこと」
 「辛いこと」
と、評価・判断する、『価値基準』が、
あるのです、

あなたの中に ...

もし、
『問題』があるとすれば、

 「あなたが、幸せかどうか」
 「あなたの、辛さ・苦しさ・悲しさが、無くなるか・減るか」
という点に関して、
もし、
『問題』があるとすれば、

それは、
 あなたに、そう、思わせる・感じさせる、『基準』が
 あなたの中に、ある
ということ、
ただ、それだけ、なのです。


ですから、
これからは、

 「『外なる世界』は、『外なる宇宙』は、『鏡』なんだ」
と、
思えたときには、気づけたときには、

 「その、『鏡』に、意識を向ける」
のでは、なく、
 「その、『鏡』『像』を、観察・評価・判断する」
のでは、なく、

ただ、
『自分の内側』に、意識を向けてください。

ただ、
『自分の内側』を、観察してください。

ただ、
『自分の内側』に湧き起こる、『感情』を、『感覚』を、
観察し、感じてください。

そして、それを、
ただ、
取り除いて行ってください。

ただ、その、『感情』『感覚』を、
取り除いてください。
『浄化』なさってください。

そのときに、
外側の『現象』を、『像』を、
観察する、評価・判断・分析する必要も、ありませんし、

『自分の内側』の、『原因』を、
評価する必要も、分析する必要も、理解する必要も、
いえ、知る必要すら、ありません。

ただ、
自分が感じる、『辛さ』を、『苦しさ』を、『悲しさ』を、
ただ、
取り除いてください。


外に見える『像』は、
ただの、『像』です。

いえ、
それは、ただの『像』ですら、ありません。

それは、『虚像』です。
『虚像』なのです。

いえ、
そもそも、『鏡』そのものが、『幻』なのです。

それらの『像』は、『映像』は、
あくまでも、『幻』であり、

そして、それらは、
わたしたちを、
悲しませるために、苦しませるために、
映し出されている、わけではなく、

あるいは、
わたしたちを、
楽しませるために、喜ばせるために、嬉しがらせるために、
映し出されている、わけでも、ありません。

それらは、ただ、単に、
わたしたちに、
わたしたちが、(まだ)持っている、
『原因』を、『ブロック』を、
指し示していくれている、だけなのです。

わたしたちが、(まだ)持っている、
『ブロック』を、
教えようと、してくれている、だけなのです。


 「では、なぜ、教えようと、してくれているのか?」

それは、
『ブロック』を、取り除くこと、手放すこと、が、
 「『根本治療』だから」
です。

『鏡』に映る『像』を、変えたところで、
それは、
 『応急処置』『対処療法』
に、過ぎません。

脂肪を、減らしたところで、
皺を、のばしたところで、
白髪を、黒髪にできたところで、染めたところで、

また、脂肪が付けば、皺ができれば、白髪が出れば、
悲しくなることは、辛くなることは、
避けられません。

あるいは、
自分自身に関しては、
 「永遠に、脂肪が付かない・皺ができない・白髪がでない」
ということが、万が一、できたとしても、

自分のパートナーが、自分の親が、自分の子どもが、
あるいは、目にする誰かが、
そうなったときに、そうであるときに、
苦しくなったり、悲しくなったり、不快になることは、
避けられません。

一方、
もし、自分の中から、
自分に、そう、感じさせる・判断させる、
『基準』が、なくなれば、

自分が、そうなろうが、なるまいが、
家族が、そうなろうが、なるまいが、
そういう人を、目にしようが、目にしまいが、

自分が、
苦しくなったり、悲しくなったり、不快になることは、
もう、ないのです。

今後、もう、二度と、
そのように、苦しまないために、悲しまないために、
教えてくれて、いるのです。


 「では、なんで、『根本治療』を望んでいるのか?」
 「そもそも、『誰』が、教えようと、してくれているのか?」

それは、
 「『大我』としての、自分」が
 「『ハイヤーセルフ』としての、自分」が
 「『全体』としての、『神』としての、自分」が
教えてくれて、いるのです。

『自分自身』が、『自分自身』に、教えているのです。

『自分自身』のことは、
可愛くて、可愛くて、仕方ないから、

自己愛で、親心で、
純粋なる愛で、純粋なる優しさで、
教えてくれて、いるのです、
『自分自身』に、対して。

 「ほら、まだ、そんな『怒り』を、持ってるだろ?」
 「そんな『正しさ』、まだ、必要かい?」
 「いま、手放してしまえば、もう、感じなくて済むよ」

そう、
教え、示してくれているのです、

それが、
『自分自身』にとって、最善であるから。


『大我』『ハイヤーセルフ』『神』は、
長い目で、見えているから、
高い視点から、見えているから、
愛の表現が、こんな形になるのです。

『大我』『ハイヤーセルフ』『神』にとっては、
わたしたちの『エゴ』が望む、
 「楽しいこと」「喜ぶこと」「嬉しいこと」
を、与えることが、
愛の表現、では、ありません。

 「移り行くこと、変化すること、巡り移ろうこと、循環すること ... 」
それこそが、本質である、無常なる、この、物質宇宙において、
刹那(せつな)的な、特定の現象を、与えることが、
それによって、一瞬の、儚(はかな)い、消え行く定めの、感情を、与えることが、
愛の表現では、ないのです。

わたしたちの『エゴ』が
 「嫌だ」「辛い」「苦しい」と感じること
そんなことを、あえて、与え、
そして、それによって、
 「嫌だ」「辛い」「苦しい」と感じる『原因』
に、気づいてもらうこと、

そして、
それを、自ら、手放し、解放していくこと、
それによって、もう二度と、そんな感情を感じなくて済む状態を、
今後、永続していく、そのような状態を、
自ら、手に入れて行くこと、自ら、作り上げて行くこと、
それこそが、
『大我』『ハイヤーセルフ』『神』が、望んでいること、なのです。

それこそが、
愛の表現・愛の形なのです、

それこそが、
『自分自身』にとって、最善であるから ...














2015年1月30日金曜日

冬場のお風呂


大寒の候、
みなさま、いかがお過ごしでしょうか?

今日は、ここ、千葉県市川市でも、
雪が降り、寒い一日になりました。

そんな、寒さ厳しい、この時期は、
お風呂に入るのが、
ことのほか、気持ちいいですよね! ^^

一人暮らしをされていたり、
お仕事が忙しくて、帰宅が遅かったりする方は、
ふだん、あまり、
湯船につかったりは、しないかもしれませんが、

ですが、
もし、そんな機会がある場合には、
ぜひ、「その、気持ちよさ」を、
しっかりと、じっくりと、
感じ、味わってみてください。


「『感じる』という行為」は、
『考える』という行為と、対極にあるものであり、

「『感じる』という行為」の訓練は、
『思考』から離れ、『思考』を観察するうえで、
とても助けになります。

そして、また、
「『感じる』という行為」は、
『浄化』において、とても重要な手段であり、

「『感じる』という能力」は、
『浄化』のプロセスにおいて、とても助けになります。

ですから、
ふだんから、「『感じる』という行為」を、
意識をして、頻繁(ひんぱん)に、行っていただきたいのですが、

とくに、
お風呂に入るときには、湯船につかるときには、
ぜひ、「その、気持ちよさ」を、
じっくりと、しっかりと、深く、細かく、
感じ、観察してみてください。


僕の場合、
とくに、この寒い時期に、熱めのお湯に入ったときには、

最初、お湯の中に、身を浸した瞬間は、
動きが大きく、体表に感じる感覚が多くて、
感覚を、細かく、しっかりとは、感じ取ることができません。

ですが、そのあと、
身体を浴槽内に落ち着かせて、1秒か2秒たったとき、
そこで、怒濤のような気持ちよさが、
全身に、全身各所から、駆け巡り、駆け上がって来ます。

口からは、
 「あぁ〜〜〜〜」
 「気持ちい〜い〜っ!」
という声が、
思わず、無意識のうちに、漏れてしまっています ^^ 。

全身を包み込む、熱さ・温かさ。
液体がもたらす、ほどよい・ここちよい、圧力。
それらによって、身体が、細胞が、ゆるみ・伸びるような感覚 ...

それらを、しばし、感じていると、
続いて、意識は、手足の指先の、軽いしびれに、向かいます。

寒さによって、もたらされた、
軽く、細かい、そのしびれが、
お湯の熱さ・温かさによって、
徐々に、徐々に、細か〜く、淡〜く、薄〜くなって行き、
そして、さらに軽〜く、細か〜くなって、消滅していきます。

そして、そのときには、
全身が、完全に、くつろぎ、伸びきっています。

このあたりの、数秒間、
全身で、全霊で、
その、ここちよさ・気持ちよさを、感じています。

みなさんも、ぜひ、
そんな、気持ちのよさの感覚を、
しっかりと、じっくりと、
深く、かつ、細かく、
味わうように、なさってください。

できれば、それを、
習慣づけてみてください。


さて、
この、お風呂に入ったときに感じる、
この、「気持ちよさ」ですが、

あれって、
 とっても、細やかで、柔らかで、安らかで、
 しかも、濃密で、圧倒的な量、
では、ありませんか?

あの、圧倒的で、濃密で、包み込むような、
あの、「ここちよさ」を、
あの、「ここちよいと感じている『感覚』」そのものを、
できれば、
しっかりと、感じ入り、味わい、見つめみてください。

そうすると、
あの、怒濤のように押し寄せてくる、
大きな「ここちよさ」が、

実は、
「お湯に接している『肉体』そのものが感じている感覚」だけでは、ない、
と、
感じられるのではないか、と、思います。

僕が、感じるところによると、
むしろ、その『大部分』が、
「お湯によって『肉体』が感じている感覚そのもの」
では、ありません。

その感覚を、あえて、分析してみると、
僕には、その大部分が、
「お湯が、直接的にもたらした、肉体的感覚」では、ない、
と、感じられます。


 「では、そのここちよさは、何なのか?」
というと、

僕には、
おそらく、その、約6割〜7割方は、
 「『思考』が、完全に、停止していて、
  意識が、しっかりと、『いま、ここ』に、根を下ろしている」
ということから来る、
「気持ちのよさ」「ここちよさ」だと、感じられます。

僕は、
そう、認識しています。

というのは、
あの、ここちよさが、
『ハート』をしっかりと、感じ入れたときに感じる、
温かさ・安らぎ感に、とても、似ているからです。

また、
あの、ここちよさを、しばらく味わったら、
その、すぐ後に、
あえて、思考を働かせてみてください。
あえて、何か、考えごとをしてみてください。
思考に、入ってみてください。

すると、
みるみると、あっという間に、さ〜っと、
あのここちよさが、消えていくのが、感じられると、思います。

しかも、
肉体の、お湯に接している、体表部分の「ここちよさ」は、
減りはするものの、まだ、感じたまま、だと、思うのです。

あえて、説明すると、
そのようにしか、お伝えできないのですが、

なので、
あの、ここちよさは、

 「『思考』による、エネルギーの浪費が、完全に、止まり
  かつ、
  『いま、ここ』の、安らぎに、至福に、完全に、ひたっている」

ということによる、「ここちよさ」が、
その大部分を、占めているものと、
僕は、認識しています。


 「『思考』というものが、いかに、エネルギーを浪費しているか」
ということについての、僕の認識については、
すでに、
過去記事「思考によるエネルギーロス」にも、書きましたが、

 「そのような、『浪費』がなく、
  しかも、
  しっかりと、『いま、ここ』に、在れると、
  しっかりと、『いま、ここ』の感覚に浸れると、
  ここまでに、安らぎに、安心感に、包み込まれるんだ」

ということを、
感じ取ってもらえる、絶好の機会だと、思います。

ぜひ、
あの、気持ちよさを、ここちよさを、
じっくりと、しっかりと、深く、細かく、
感じ、味わってみてください。

ぜひ、
それを、習慣づけてみてください。


それから、

津留さんの時代から、いまにおいても、
『浄化』について、ご説明すると、

 「『浄化』によって、
  だんだんと、『感情の機微』を、感じなくなってくると、
  日常は、つまらなくなってくるのではないか?
  喜びは、感じられなくなってくるのではないか?」

という、ご質問を、受けることがあります。

『浄化』の途上である、僕は、
まだまだ、『ブロック』だらけの、僕は、
これに対する、『体験的』『経験的』な、お答えを、
持ち合わせては、いないのですが、

でも、
先ほどから、お伝えしている、
お風呂に入ったときに感じる、あの、ここちよさが、
充分に、ポジティヴで、
充分に、多い・大きい・強い感覚であると、感じられる、
ということからすると、

津留さんや、その他の覚者の方々が、説明されているとおり、
そのときには、

これまでの、
 「『2極』ゆえにもたらされる、『ポジティヴな感覚』」
とは、
それらとは、まったく、違った種類の、

穏やかで、安らかで、細やかで、でも、濃密で、包み込むような、
そんな、至福感が、
しかも、断続すること無く、途切れることなく、継続して、
感じられるのだと、思います。


そんなことを、
冬場のお風呂に浸かって、想っています。












2015年1月28日水曜日

排泄


 「『いま、ここ』に居る」こと
 「『意識的』である」こと
 「『思考』から離れている」こと

そうしていることが、とても、難しいときが、
ありますよね。

たとえば、
 「大きな怒りが、湧き上がっているとき」
 「大きな恐怖に、覆い込まれているとき」

そんなときに、
それらから離れ、
意識的な状態でいること、
そんな状態をキープすることは、
なかなかに、難しいことですよね。


日常生活の中で、僕が、比較的頻繁に、
その難しさを、感じるケースが、あります。

それは、
汚い話で、恐縮ですが、
「排泄を、我慢しているとき」です ^^; 。

尿であれ、便であれ、あるいは、おならであれ、
それらの排泄・放出を、我慢しているとき ...

どうでしょう、
みなさんも、そんなときには、
 「『いま、ここ』に、居ること」
が、とても難しいのではないでしょうか?

頭の中では、
 「どうしよう?」「どうできるだろう?」
 「まだ、大丈夫かな?」「あとどれくらい、大丈夫かな?」
 「どこに、トイレがあったっけ?」
 「あのとき、行っておけばよかった」
 「あんなもの、食べなければよかった ... 」
 「あいつが、あんなタイミングで、トイレを使ってたから ... 」
そんな、さまざまな想いが、
止めどもなく、駆け巡り、

そして、
身体に襲ってくる、強烈な痛みや苦しみなどの感覚に、
意識は、さまざまに、動き、飛び、巡り、
『いま、ここ』に、留まることが、難しいのではないでしょうか?


そんなことを、そんなときの難しさを、
改めて、しっかりと、認識したとき、

次の、二つのことに、
気づかされました。


一つは、
『肉体』というものの持つ、その力の強さ、
あるいは、
人間にとっての、『肉体』というものの重要性、
です。

 「『肉体』というものが放つ、感覚の、力強さ」
 「『肉体』というものが感じ取る、感覚の、強烈さ」

そんなものを、
改めて、強く、認識させられます。

何度も繰り返しますが、
そんな感覚をこそ、感じてみたくて、味わってみたくて、
元々『神』であった、わたしたちは、
物質宇宙を創り出し、
人間を創り出し、
そして、
その中に入り込んで、『体験』をしているわけです。

それら、感じる感覚が、感覚こそが、
強く、強烈で、鮮明であることは、
いわば、当然ですよね。

また、
その感覚を感じさせてくれる『肉体』の、
その感覚を感じる主体である『肉体』の、
その重要性というものも、
認識させられます。

そして、それゆえに、
その、肉体感覚に基づいた、『エゴ』というものの力強さも、
その、肉体感覚を、ある意味、制御しようともがいている、
『エゴ』というものの、存在感の強烈さも、その吸引力の強さにも、
うなずかされます。

このように考えれば、認識すれば、
それはそれで、仕方のないことだ、
とも、思えます。

ですので、
『人間』というのは、
そのような『仕組み』に、なってしまっているのですから、

『エゴ』に引きずられてしまう自分を、
『エゴのつぶやき』『思考』に埋没してしまう自分を、
それはそれで、仕方のないこととして、
どうぞ、とがめず、否定せず、
そして、もし可能ならば、許し、認めてあげてください。

 「『エゴ』は、『エゴ』で、自分の役割を、しっかりと、果たしているんだ」

そのことを、
もし可能ならば、認めてあげてください。

 「自分が、自分を、否定すること」
 「自分の内側で、自分に対して、『否定』『拒否』を与えること」

それほど、確実に、
自分を痛め、傷つけ、苦しめることは、ありませんから ...


そして、もう一つ。

 「この、『排泄』という行為は、
  実に、『浄化』と、似ているなぁ」
と、
思いました。

『排泄』のケースでは、
もし、それができない場合、あるいは我慢している場合、
おそらくは、
物理的に、それが可能ではないから、できない・我慢している、
ということが、多いと思います。

 「電車の中だから」
 「トイレが無いから」
そのような理由で、
『排泄』ができない、我慢せざるを得ない場合が、
ほとんどだと、思います。

ですが、
場合によっては、
『自らの意思によって』、
排泄をしない・我慢している、という場合も、
ありますよね。

たとえば、
 「『尿』『便』が、汚いものだから」
とか、
 「その臭いをかぐことが、不快だから」
とか、
 「『排泄』することが、恥ずかしいから」
とか、
 「『排泄』行為自体が、汚(けが)らわしいものだから」
とか、

そんな理由によって、
『自ら』、『自らの意思によって』、
排泄をしない・我慢するケースも、有り得ますよね。

特に、「おなら」の場合なんかは、
 「恥ずかしいから」
 「臭いを出すことが、嫌だから」
 「失礼だから」
 「マナー違反だから」
とかで、
我慢するケースが、結構、ありますよね ^^ 。

そして、
そんな場合であれば、
そのときには、まさに、そうなのですが、

身体から出してしまうことが、(ある意味)自然なのに、
それを、自らの意思によって、出さず、留めていて、
そして、留めているから、それが理由で、
それによって、苦しさや、不快感を、感じさせられている、わけです。

その、留めている理由が、
たとえば、社会的通念や、道徳規範、マナー、などであったりして、
「そうすることが、当然だ」とか、
「そうすることが、むしろ『良いこと』だ」とか、思っていると、
そのような行為を、『無意識』のうちに、行っていて、
「『自らの意思・判断』によって、そうしている」という認識さえ、無い、
という場合も、あります。

ですが、
それを、意識できているにせよ、無意識にせよ、いずれにせよ、
苦しく・辛く・不快なのは、
便や尿が、排泄されず、体内に留まっているからであり、
それらが「留まっている」のは、
「留めている」からです。

その、苦しさ・辛さ・不快さから、逃れるために、
すべきことは、ただ、一つ、
「排泄すること」、ただ、それだけです。

排泄してあげさえすれば、いいのです。
体内から、出してあげさえすれば、いいのです。

そうすれば、
あの、痛さ・苦しさ・辛さから、解放されます。

そして、『スッキリ』します。

場合によっては、そのときに、
「ある種の『快感』」さえ、感じることでしょう ^^ 。

そんなときには、
すべての『思考』さえ、止まっていて、
意識は、『いま、ここ』に、たたずんでいることでしょう。


『浄化』も、
まったく、同じです。

苦しかったり、悲しかったり、辛かったり、
怖かったり、いらだたしかったり、不快だったり、するのは、

過去の未消化な感情、過去の想い、過去の記憶や、
観念、価値観、社会的通念、など、
すなわち、『エネルギーブロック』が、
体内に留まっているからであり、

そして、
それらが「留まっている」のは、
意識できているにせよ、無意識にせよ、
それらを、『自ら』「留めている」から、です。

まさに、
『自ら』、「握っている」「手放さずにいる」から、
なのです。

そんなとき、
それらの、苦しさ・悲しさ・辛さ・怖さから、
逃れるために、解放されるために、
すべきことは、ただ、一つ、

それらの『エネルギーブロック』を、
「解放してあげること」、ただ、それだけです。

「握っている」その手を、ゆるめ、開き、
それらを、自ら、「手放す」こと、
ただ、それだけです。

そうして、
自分の中から、出してあげさえすれば、いいのです。

そうすれば、
苦しさ・悲しさ・怖さから、解放されます。

一度では、あるいは、すぐには、
もしかしたら、解放されないかもしれません。
でも、
その、苦しさ・悲しさ・怖さは、
その度ごとに、少なくなっていきます。

そして、
場合によっては、
それは、多々あることなのですが、
『スッキリ』します。

そして、
『思考』も、穏やかになり、ゆるやかになり、
『いま、ここ』で、ゆったりとした幸せを、くつろぎを、
感じられるかも、しれません ...


 「そうか、いま、苦しいのは・辛いのは、
  トイレを、我慢してたようなものなんだ」
  
 「『浄化』って、トイレに行くようなものなんだ」

もし、そんな風に思ってもらえたら、
とても嬉しいです。









2015年1月26日月曜日

慣性の法則


今回、名古屋でのイベントでは、
『浄化』について、
たくさん、お話しをさせていただきました。

浄化実践講習会や、個人セッションで、
『浄化』について、お話しさせていただくのは、
いつもどおり、なのですが、

今回は、津留さん交流会でも、
はじめてお会いする方々の前で、
いっぱい、『浄化』について、
概要をご説明し、ポイントなどをお伝えさせていただく、
そんな機会がありました。

そして、
それら、「『自分』が話しをしている」ことを、
改めて、「『自分』が聞く」、という過程をとおして、

それら、「浄化のポイント」などとして、お伝えしている内容を、
改めて、自分にも当てはめてみる、ということをとおして、

一つ、
再認識したことが、あります。

それは、
 「僕が、日常生活において感じている『ストレス』が、
  おかげさまで、ずいぶんと、少なくなっているんだ」
という、
個人的な『事実』です。


過去記事「ハート観察」でもお伝えしたとおり、
僕は、ふだん、
自分の「ハート」の状態に、意識を合わせ、
そこで、ストレスを感じているかどうか、を、見張るように、
心がけています。

そして、
ストレスを感じていることを、認識したら、
無理の無い範囲で、速やかに(基本的には、「即」)、
それを浄化するように、しています。

ところで、いま、
 「ストレスを感じている」
と、書きましたが、

おかげさまで、「見張る」という行為が、
ずいぶんと、習慣づいてきましたので、

最近では、
 「ストレスを『感じている』ということに、気づく」
というよりは、
 「ストレスを『感じはじめた』ということに、気づく」
ということが、ずいぶんと、できるようになってきましたし、
そんな機会が、ずいぶんと、多くなりました。

 「感じるストレスを、浄化する」
ということを、
ゆっくりですが、あせらずに、丹念に、行ってきた、
その結果だと、思います。

そのような状態になれていることを、
今回の、名古屋でのことを機会に、
改めて、認識したのですが、

で、さらに、
名古屋でのことをきっかけに、
 「自分の、ふだんの、状況・状態」
 「自分が、ふだん感じ(てい)る、ストレスの強さ」
そんなものを、
改めて、チェック・再確認してみたところ、

 自分の、ふだんの状態が
 ずいぶんと、穏やかで、落ち着いてきていて
 自分が、ふだん感じるストレスが
 充分に小さく、充分に少なくなっている

そう、認識するに、至りました。


正直に、正確に、言うと、
まだまだ、細かいストレスを、しょっちゅうしょっちゅう、感じていますし、
割に大きめの・強めのストレスも、まだまだ、感じる機会があるので ^^; 、

自分では、『頭』では、
そのような認識を、持ってはいませんでした。

でも、逆に言うと、
自分が、ふだん、常に、「ストレスチェック」「ストレス探し」をしていて、
小さな、細かいストレスにまで、気を向けていた、気づけていた、
『その結果』、
自分の状態を、「まだまだ」と認識していたのだ、
とも、言えると思います。

そして、もう一つ。
もう一つ、自分の状態を、ちゃんと認識できていなかった理由は、
 「自分は、常に常に、思考が動いていて、
  まだ、ぜんぜん、思考が止まっていない。思考から離れていない」
という、
僕の状態への、認識があります。

ストレス(の素である『エネルギーブロック』)が、
思考を、動かします。
思考を、働かせます。
頭に、考えさせます。

ですので、僕の場合には、
 「思考が、常に常に、動いている」
ということを、充分すぎるほど ^^; 、認識していたので、
 「その原因である、ストレス(『エネルギーブロック』)が、
  まだまだ、たっぷりあるはず」
と、自分の状態を、判断していました。

ところが、
改めて、自分の、ふだんの、ストレスの状態を感じてみると、
それは、もう、ずいぶんと、小さく、軽くなっていました。

改めて、感じてみると、
もう、『ふだんの自分』というは、
おかげさまで、
特には、困ってはいないし、苦しんではいないし、不快さを感じていないし、
もう、ずいぶんと、穏やかで、ゆったりしています。


で、
そのような、自分の状態に、気がついて、
それゆえに、気がついたこと。

それは、
ということは、
 「ストレス(『エネルギーブロック』)が、少なくなれば・無くなれば、
  自動的に、思考は止まる」
というわけでは、ない、ということです。

 「ストレス(『エネルギーブロック』)が、多いと・強いと、
  自動的に、思考が動きだす」
ということは、そう、そのとおりなのですが、

でも、その反対の、
 「ストレス(『エネルギーブロック』)が、少なくなれば・無くなれば、
  自動的に、思考は止まる」
というわけでは、ない、のですね。

少なくとも、
『僕の場合』は、そうではありませんでした。

実際、
「思考を止める」ということに、意識を向けてみると、
前よりも、容易に、
前よりも、長い時間、
思考を止めておけるように、なっていました。

ですので、
ストレス(『エネルギーブロック』)が、少なくなって、
思考が止まりやすい状況になっていることは、間違いない、
と、思うのですね。

それでも、
思考は、
「思考を止める」ということに意識を向け、
それを行為することによって、
はじめて、止まるんですね。

ということに、
今回、気づくことができました。


これは、まるで、
たとえば、
 「自転車を動かすには、ペダルを踏み漕がなければいけないけど、
  漕ぐのを止めただけだと、自転車は、そのまま進む。
  自転車を止めるには、ブレーキを掛けなければいけない」
というのと、
とても似ているなあと、感じました。

つまり、
思考にも、『慣性の法則』が、働いているんですね!

そして、
思考を止めるためには、
自転車でいえば、「ブレーキを掛ける」に相当する、
「思考を止めよう」とする、別の作業・行為が、必要なんですね。

津留さんが、
 「『外の世界』は、『こころの世界』が映し出されたのものなのだから、
  外の世界に関する『物理法則』は、
  こころの中の世界の『法則』そのままであり、その一部だ」
と言っていたことを、
改めて、思い出しました。

『慣性の法則』というのは、
そもそも、こころの中、わたしたちの『内側』の、法則であり、
そして、それは、
『思考の動き』に関しても、
ある意味、当然に、
当てはまっているんですねぇ。

そんなことを、自分自身の体験から、自分自身の観察から、
知ることができ、認識することができ、
なんだか、思わず、嬉しくなっちゃいました ^^ 。


さて。

というようなことで、
現在の、僕の、個人的な状況としては、
おかげさまで、ここに来て、
一つ、新たな段階・ステージに、至ったのかも、しれません。

僕の『浄化の旅 ^^ 』は、
 「次の、踊り場に、着いた」
 「次の、一里塚に、着いた」
 「何合目かに、着いた」
のかも、しれません。

誤解のないように、
読み手のみなさまに、より正確にご理解いただけるように、
改めて、ちゃんと、正確に、虚勢を張らずに、お伝えすれば、

先ほども申したとおり、
僕は、小さくなったとはいえ、まだまだ、ストレスを感じていますし、
ときには、大きなものも、まだまだ、感じます。

まだまだ、
ハートは、動きますし、痛みます。
まだまだ、
感情は動きますし、思考にも入ります。

まだまだ、
悟りのようなものとは、ほど遠い、
『完全に』『普通の』人間です ^^ 。

ただ、
悩んだり、困ったり、苦しんだりは、
ずいぶんと、しなくなりました。

これも、完全に、
「『過去』の自分との、比較」なのですが、
日常の状態は、
ずいぶんと、楽に、穏やかに、なりました。

津留さんが、
 「浄化を進めて行って、『楽になったから』といって、
  そこで浄化を止めてしまうのは、もったいない」
と言っていた、
その、『そこ』の位置に、その近辺に、
もしかしたら、たどり着けたのかも、しれません。

ですが、
だからといって、
ここで、浄化を止めるつもりは、
僕の場合は、ありません。

津留さんが「もったいない」と言っていたとおりに、
この先に、さらに、いままでとは違う状態・世界が、あるのでしょうから、
僕の場合は、
 「その先の世界にも、進んでみたい」
 「その先の状態も、体験してみたい」
と、想っているからです。

ただ、
おそらく、
「新たな段階にたどり着いた」ということ、そのものは、
間違いないのだと、思います。

そして、
この段階に着いたのならば、
ここでは、これからは、
これまでとは、
『意識の位置』『意識の向き』『意識の焦点』を、
少し、変えるのが、いいのだと思います。

あるいは、
 「新たなことも、きちんと、意識するべきタイミングに、やって来た」
と、表現できるかも、しれません。


これまでは、
とにかく、ストレスが(それなりに)大きかったし、多かったので、
とにかく、それを、少なくすること、小さくすること、無くすこと、
つまり、その『浄化』に、
焦点を当ててきました。

ですが、
この段階では、これからの段階においては、
もう、その、ストレスそのものの方は、
ずいぶんと、治まって来ていますので、

もう、日常の状態において、
それで、常々、困ってしまったり、辛かったりは、してしないし、
穏やかで、ゆったりとした感覚を、感じられるように、味わえるように、
なって来ていますので、

これからは、
「その感覚を感じる・味わう」ということに、意識を当て、
そして、その部分・その感覚を増やすことに、
より、意識を向ける段階なのだと思います。

 「『思考』を止める」
 「『思考』を見張る」
ということに、
あるいは、
 「『いま、ここ』に居る」
 「『いま、ここ』を感じる」
ということに、
より、意識を合わせて行くべき段階、なのだと思います。


 「ストレス(『エネルギーブロック』)が、充分に少なく・小さくなれば、
  自然と、自動的に、
  思考が止まり、『いま、ここ』に居られる」
 というわけではない。

ということが、
少なくとも、僕個人の体験からは、分かりました。

 「『思考』にも、慣性の法則が働くのだ」
ということが、
少なくとも、僕個人の体験からは、分かりました。

みなさま、それぞれの、『浄化の旅』の、ご参考になれば、
と、思います。












2015年1月21日水曜日

写真・名古屋旅行記


2015年1月9日(金)、
この日は、午後から、個人セッションがあったため、
早朝に、家を出て、
名古屋に向かいました。

この日も、おかげさまで、晴天に恵まれ、
道中は、雲もほとんど無い、『日本晴れ』で、
富士山も、その美しいお姿を、拝ませてくださいました。




無事に、定刻どおりに、名古屋に着けたため、
午後の個人セッションまで、時間があったので、

まず、はじめに、
ともに『尾張国一宮』である、
真清田神社さまと大神神社さまに、
ご挨拶に伺いました。

真清田神社

大神神社



両神社は、徒歩で約30分ほどの距離にあります。
真清田神社さまへの、ご挨拶が終わり、
大神神社さまへ向かって、歩いているときでした。

妻からの、電話です。
受けると、その、声の調子で、
妻が、楽しげに微笑んでいることが、感じられます。

 「さっき、シャンタンさんから、電話があったよ!」

そう聞いて、僕も、思わず、笑ってしまいました。

シャンタンさんから、最後に、ご連絡をいただいたのは、
今回と同様に、
ちょうど、イベントで、北海道へ行っているときだったからです
(よろしければ、過去記事「写真・北海道旅行記5 ー二風谷での祈り」をご覧ください)。

そして、その伝えられたご用件をお聞きして、
さらに、笑ってしまいました。

 「1月11日、11時11分11秒、
  『光の柱』を立てるイベントをするんだって、
  名古屋で ... ! ^^ 」

その、『偶然の一致』具合に、
びっくりするよりも、笑ってしまいました。

しかも、シャンタンさんも、
 「尾張(おわり)名古屋から、始める」
という意図を持って、名古屋でなさる、
とのこと。

僕の場合は、
そもそも、今回の名古屋でのイベントを、2014年12月に行って、
「尾張名古屋で、終えよう」と、
思っていました。

ところが、
12月では、どこも会場が取れず、
そこで、2015年1月に変更して、会場を探したところ、
この3連休(プラス、前日の金曜日も)、
会場が、見事に空いていたため、
この日程になり、
「尾張名古屋から、始めさせていただく」ことになったのです。

この、シャンタンさんとの『シンクロ』具合、
何なんでしょうか? ^^

しかも、1月11日当日、
シャンタンさんと、電話でお話ししたときに、お聞きしたとことによると、

シャンタンさんが、「名古屋で」と、お感じなった理由の一つに、
 「『Dr.スランプ アラレちゃん』という、
  桁外れな作品を産み出した、『鳥山明』さんの出身地、だから」
というのが、あるのだそうです。

 「『鳥山明』さん、といえば、
  シャンタンさんのニックネームの一つ、『亀仙人』の、
  『ドラゴンボール』の、作者でも、ありますよね!」
思わず、そう、お伝えしてしましました。

 『津留(つる)』と『亀』(仙人)

そんな繋がりも、今回、あったようです ^^ 。


さて、
今回の『名古屋イベント』は、
イベントとして、本当に、楽しかったです
(よろしければ、「『第1回名古屋イベント(2015年1月)』のご報告」のページをご覧ください)。

それと同時に、
個人的には、とっても美味しかったです。

『名古屋名物』と呼ばれるものを、
存分に、満喫させていただきました ^^ 。







また、
今回の、この期間は、
これまた、『偶然』なのですが、

熱田神宮さまで、
 『新年御垣内参拝』
が、取り扱われていて、

はじめての、熱田神宮さまに、
普段は、入ることのできない、御垣内において、
ご挨拶をさせていただくことが、できました。

( 祝日で、込み合った、熱田神宮。  
  ここは、御垣内ではなく、その外です )



帰りの道中でも、
富士山を、間近に、拝ませていただくことができ、

今回の、『名古屋イベント』を、
こころからの、感謝とともに、
締めくくらせていただくことができました。












2015年1月20日火曜日

『片付け』の魔法2


もう、ずいぶんと前になってしまったのですが、
『片付け』の魔法」という記事を、書かせていただきました。

アップした直後に、読み返したときから、
一つ、とても重要なことを、書き忘れていることに、
気がついては、いたのですが、

なんとなく、筆が進まないまま、
2ヶ月以上も、経ってしまいました。

そんな中、昨日、個人セッションの最中に、
そのことそのものが、話題になり、
また、新たな情報も、そこで、お聞きしたので、

良い機会だと思い、
ここで、稿を改めて、書かせていただきます。


さて、
先の、こんまりさん(近藤麻理恵さん)の方法では、

「片付け」にあたっては、
「整頓」に入る前に、
まず、「捨てる」ということを、完全に、終わらせてしまいます。

そして、
その、「捨てる」という作業においては、
 「『ときめく』かどうか」
という、
 「『気持ち』を基準にして、モノを選別」
していきます。

そのことが、
こんまりさんの方法の、最大の特徴の一つ、だと思います。


ところで、
その方法を実践して行くに際しては、

「捨てる」という段階において、
当然ながら、先の基準に従い、

自分が所有しているモノを、
 「ときめくモノ」
 「ときめかないモノ」
の2種類に、選別していくわけですが、

ここで、
 「ときめくモノ」
というのは、分かりやすいですよね。

 「着ると、ときめく、服」
 「身につけると、ウキウキする、アクセサリー」
 「読むと、こころがワクワクする、本」
 「使うのが大好きな、鍋」

そんな、モノたち、ですよね。

それらは、言い換えれば、
 「自分に、プラスの気持ちを、もたらしてくれるモノ」
というように、言えるかもしれません。

そして、
それらが、自分の身の回りに存在することによって、
自分の気持ちは、ポジティブなものになります。
あるいは、
気持ちのポジティブさが、増えます。


では、
一方で、

 「ときめかないモノ」
って、
何でしょう?

それって、
どんなモノでしょう?

あるいは、
より詳細に言えば、
 「『ときめく』という理由が無いのに、所有していたモノ」
って、
いったい、何でしょう?

どうして、なぜ、
そのようなモノを、保持していたのでしょうか?


それには、
もちろん、様々な理由があるでしょうし、
言葉で表現すれば、
実に様々に、説明することができるでしょう。

ですが、
おそらく、ほとんどのケースでは、
たとえば、
 「捨ててしまうのは、もったいないから」
 「○○○○円もしたモノだから」
 「彼から貰ったものだから」
 「もしかしたら、もう手に入れられないかもしれないから」
 「今後、無いと困るかもしれないから」
そのような理由で、
これまで、捨てられず、そして、所持していたモノ、
ではないでしょうか。

もし、そうであれば、
それらは、
 「無くなってしまうのが、嫌だから。怖いから。恐ろしいから」
という理由で、所持していたモノ、

先の言い方で言えば、
 「無いと、マイナスの気持ちを、もたらしてしまうかもしれないモノ」
と、言えるかもしれません。

つまり、端的に言えば、
基本的には、
 「『恐れ』から、所持していた」
と、
言うことができる、と、思います。


で、
ここからは、昨日、お聞きした情報です
(なので、用語を含め、正確ではない可能性があります)。

これまた、「片付け」の方法である、
『断捨離』の、やましたひでこさん、によると、

片付けられない人、モノを捨てられない人は、
いくつかのタイプに分けられるそうで、

そして、それらのなかに、
 「未来不安型」
や、
 「過去執着型」
といったタイプが、あるそうです。

そして、
そういった人々は、
「未来への不安」や、あるいは、「過去へのとらわれ」といった、
まさに、『恐れ』が、原因で、
モノを捨てられない。

で、
モノが捨てられないので、モノがあふれていて、
そこで、整頓しようにも、整頓できない。

わたしたちは、そのようなプロセスで、
モノを過剰に持ち続け、
そして、片付けができないでいる、んですね。

 「まさに!」
という感じがします ^^ 。


このように、
わたしたちは、『恐れ』ゆえに、
無数のモノを、所持していて、

そんなモノたちが、
雑然と、しかし、厳然と、
存在し、存在感を放ちまくり、

そんなモノたちに囲まれ、それらに圧倒されているがゆえに、
寛(くつろ)げず、安らげず、
イライラとした状態で、生活し、

また、
必要なものが見つからず、不便をし、
さらに苛立(いらだ)ち、

そして、
せっかく持っている『ときめく』モノも、
自分の気持ちを、プラスにしてくれるモノも、

それが、
無数のモノの中に紛(まぎ)れてしまって、
それを、ちゃんと、見いだせなかったり、
あるいは、
その『ときめき』感を、ちゃんと感じられなかったり、
しています。

このように、
「片付けられない」状態によって、
ストレスを感じながら、
生きています。


そして。

それとまったく同じように、
わたしたちの内側には、こころの中には、
 『恐れ』
というものが、
多数、存在しています。

そして、それらが、
狡猾(こうかつ)と潜(ひそ)み、かつ、厳然と存在していて、

それらの存在が、
存在そのものが、存在感が、

ときに、静かながら苛立たしく、
ときに、騒々しく、騒がしく、
ときに、威圧的で、圧迫的で、圧迫感を持っていて、

それゆえに、
まず、そもそも、苛立たしかったり、
あるいは、そもそも、騒がしく、うるさく、
そして、落ち着かず、寛(くつろ)げず、
ゆったりとすることが、できません。

また、それゆえに、
そんな、マイナス(ネガティヴ)な感覚に、
自分の感覚器官・センサーを、支配されていて、
自分の感覚が、麻痺させられていて、

自分が、本当のところは実は、感じている、
『ときめく』感覚や、
穏やかな温かい感覚、安心感、
あるいは、「そのままの自分でいい」というような至福感、

そんな、プラス(ポジティヴ)の体感覚を、
しっかりとは、感じ取ることができずに、
それゆえに、
「そんな感覚は、自分には無い」とすら、思い込んで、
日常生活を送ってしまっているんですね。


ところが、
そのような『恐れ』を、
自ら、捨てて行く・無くして行く・手放して行くと、

自分を、苛立たせる感覚や、
自分の中で騒ぎ立てる『者』や、
自分を威圧してくる感覚、
そういったものが、だんだんと、無くなってきます。

日常が、日常感じる感覚が、
あるいは、自分の内側が、
静かに、落ち着いて、穏やかに、なってきます。

そうなると、
そうして、はじめて、
自分の中に存在している、
プラス(ポジティヴ)な感覚、
安心感・温かさ・自信・至福感を、
ちゃんと、感じられるようになるのです。


そして、
これは、また、
津留さんが言っていた、

 「エゴの声が、大きくて、うるさくて、
  『内なる神』の声が、想いが、
  聞こえない、分からない」
 「それが、聞こえるようになる・分かるようになる」

というのと、
まったく同じ状況なのです。

わたしたちは、誰でも、
『内なる神』の声を、受け取っていないわけでも、
『大我』としての自分の想いを、
あるいは、『本当の自分』の想いを、受け取っていないわけでも、
ないのです。

わたしたちは、それらを、しっかりと、受け取っていて、
それらは、わたしたちの内側に、確実に、存在しているのですが、

ただ、
わたしたちの内側が、
あまりにも、騒々し過ぎて、
あるいは、ものにあふれ過ぎて、散らかり過ぎて、雑然とし過ぎていて、

それらを、ちゃんと、
聞き取れていないだけ、
つかみ取れていないだけ、
なのです。

それらを、
しっかりと、聞き取り・受け取り、理解するためには、

それらを『受け取る』、
という努力をする必要があるわけではなく、

ただ、聞こえなくしている・分からなくしている『原因』である、
『雑音』を取り払い、『邪魔なもの』を捨てれば、いいのです。

これまた、いつもながら、
『パラドックス』なのです。

そして、
そのために必要な、具体的な作業(の一つ)が、

内側の、『雑音』や『邪魔なもの』を、
捨て去り、片付ける、具体的な方法(の一つ)が、
『浄化』なのです。


 「『本当にやりたいこと』が、分からない」
 「『真の自分の想い』に従って、生きたい」

そんなとき、そんな想いがおありのとき、
そんなときには、
あるいは、そんなときにこそ、
なぜ、『浄化』をしていただきたいか ...

ご理解いただけるものと、思います。