2015年9月5日土曜日

人生は、『修行』か、『ゲーム』か?


ここ3回ほど、
「仕事」について、
そして、
その元にある、「『しなければいけない』という想い」について、

『浄化』という観点から、ご参考になるのでは、
と思うことを、お伝えさせていただきました。

その関連で、
最後に、もう一つ、
ここに書かせていただきます。


さて、
精神世界・スピリチュアルと言われる分野には、
 「人生とは、『魂磨き』であり、『修行』である」
という教えがありますよね。

 「人生とは、魂研鑽(けんさん)の機会であり、
  人間は、魂を向上させていくために、修行をしているのだ」
 「人生は、魂を磨き、向上させ、神に近づくための機会だ」
という、
教えであったり、教義であったり、見解がありますよね。

一方、
津留さんは、
 「人生は『ゲーム』である」
 「わたしたちは、『地球人間ゲーム』をしているのだ」
と、言っていますね。

 「わたしたちは、そもそも『神』であり、
  そんな『神』が、『ゲーム』をして、『遊んでいる』んだ」
そんな、理解であり、見解ですね。

一体、どちらなのでしょうか?

人生は、『修行』なのでしょうか?
あるいは、『ゲーム』なのでしょうか?

みなさんは、
どちらだと、捉えておいでですか?


ちなみに、ですが、
僕個人としては、
 「どちらが、『正しい』のか、『正解』なのか」
とか、あるいは、
 「どちらが『真実』なのか、『真理』なのか」
ということに関しては、
まったく、分かりません。

みなさんの中には、
 「人生は、『修行』だよ」
とか、あるいは、
 「人は、『人間ゲーム』をしているのよ」
と、
迷い無く、疑い無く、確信を持って、
理解・認識されている方も、『分かって』らっしゃる方も、
いらっしゃるかもしれませんが、

 「いったい、どちらなんだろう?」
と、思われている方も、
おそらく、多くいらっしゃるのではないでしょうか。

で、そんな、
「どちらだろう?」とお思いの方に、
以下のこと、お伝えしたいと思います。


前3回の記事の中では、
いくつかの「例」を、挙げました。

最初の、ゲームオタクの人の例では、
彼は、「テレビゲーム」をしていました。

そして、
彼にとって、「テレビゲーム」は、
あるときは、まさに『ゲーム』であり、
あるときには、それが『仕事』でした。

 「したいから、している」
ときには、
「テレビゲーム」は、『ゲーム』であり、
これ以上にないほどに、楽しいものであり、

ところが、
 「『しなければいけない』こと」
になった途端、
「テレビゲーム」は、『仕事』になり、
もうこれ以上は、やっていられなくなりました。

また、
津留さんが例に挙げた、女性の場合、
彼女は、「食事を作る」ということを、していました。

彼女にとって、「食事を作る」ということは、
 「しなくていいことけど、したいから」
と、「彼氏」に作ってあげているときには、
「ルンルン」と、楽しいことでした ^^ 。

ところが、
その「彼氏」が、「夫」になり「家族」になり、
「食事を作る」ということが、彼女にとって、
  「『しなければいけない』こと」
になった後は、
その行為は、苦痛であり、憂鬱の元となりました。


まず、ここで、お伝えしたいことは、

まったく同じことが、まったく同じ「行為」が、まったく同じ「現象」が、
 あるときには、それが『ゲーム』になり
 そして、あるときには、それが『仕事』『しなければいけないこと』になる
ということです。

すなわち、
わたしたちの認識次第によって、
 ときにそれは、『仕事』『しなければいけないこと』になり
 ときにそれは、『ゲーム』『遊び』『しなくてもいいこと』になる
ということです。

そして、
それを、その行為を、
 『仕事』だと判別すれば、それは、「苦しいもの」となり
それを、
 『ゲーム』だと判別すれば、それは、「苦しくないもの」となる
ということです。

つまり、
 「苦しいか、苦しくないか」
は、
わたしたちの認識次第、わたしたちの内側次第、
ということです。


このことを、
さらに、一歩、積極的に、進めてみましょう。

わたしたちの「認識次第」「内側次第」で、
外側の「行為」「現象」が、
『仕事』になったり、あるいは『ゲーム』になったりする、
ということは、

わたしたちの『外側』に、『現象世界』に、
 「『仕事』『しなければいけないこと』という行為」
があるわけではなく、
また、
 「『ゲーム』『遊び』『しなくてもいいこと』という行為」
があるわけでもない、
と、いうことです。

もし、あなたが、
迷い無く、疑い無く、確信を持って、
 「それは『仕事』だ」
 「それは『ゲーム』だ」
と、認識しているなら、『知って』いるのであれば、
その場合には、これは当てはまりません。

ですが、
もし、そうではないのならば、
ご自分の「認識」次第で、
それが『仕事』になったり『ゲーム』になったりするのであれば、

その、『外側』にある「行為」「現象」は、
それ自体は、『ただの』「行為」「現象」である、
と、言うことができます。

『外側』には、
ただ、「行為」「現象」そのものが、あるだけで、

そして、それを、
それぞれが、それぞれの『内側』で、
 「『仕事』『しなければいけないこと』」
なのか、
 「『ゲーム』『遊び』『しなくてもいいこと』」
なのか、に、決めているのに過ぎない、
と、言うことができます。

『外側』に、そもそも、
「『仕事』『ゲーム』」という、絶対的な行為があるわけではなく、
『内側』に、それらを、
「『仕事』か『ゲーム』か」に判定・判別する『認識』があるだけだ、
と、言うことができます。

そして、その場合、
それを、その行為を、
 『仕事』だと判別すれば、それは、「苦しいもの」となり
それを、
 『ゲーム』だと判別すれば、それは、「苦しくないもの」となる
ということです。


ここで、話を、
『人生』に、戻しましょう。

 「人生とは、『修行』だ」
あるいは、
 「人生とは、『ゲーム』だ」
と、
確信している人、『知って』いる人の場合には、
次のことは、当てはまりません。

その方にとっては、
 「人生とは、あくまで、『修行』」
であり、
あるいは、
 「人生とは、あくまで、『ゲーム』」
です。

ただ、
そうでない方にとっては、
「どちらかだ」と、『知って』いない方にとっては、

 「人生とは、単なる『人生』」
であり、
 「『人間をする』ということは、単に、『人間として生きる』」
ということ、ただそれだけのこと、
であり、

それそのものが、
『修行』であったり『ゲーム』であったりする、
というわけでは、ありません。

そして、それは、
ご自分が、「『修行』だ」と思えば、
ご自分にとっては、『修行』であり、

あなたが、「『ゲーム』だ」と思えば、
あなたにとっては、『ゲーム』です。

そして、
この判定を、認識を、そのプロセスを、
より正確に言えば、

『人生』を、
 「『しなければいけない』もの」
と、感じていれば、捉えていれば、
その場合には、『人生』を、『修行』と認識するでしょうし、

反対に、『人生』を、
 「『しなくてもいい』けれども、あえてしているのだ」
と、捉えていれば、捉えることができれば、
その場合には、『人生』を、『ゲーム』と感じられることでしょう。


たいていの場合、
わたしたちは、
 「なぜ、生まれてきたのか?」
 「いったい、どのような『想い』で、生まれてきたのか?」
といったことを、
記憶としては、持ち合わせていません。

気がついたときには、物心ついたときには、
すでに、人間として生まれ、人間として生きていました。

よね? ^^

しかも、たいていの場合、
わたしたちは、
『死』に対して、強〜い恐怖を、持っています。
『死』を、恐れています。

自覚しているかしていないかは、それぞれだと思いますが、
たいていの場合、
わたしたちは、『死』を、『この生が終わること』を、恐れています、
強く ...

そうすると、
 「いま、ここで、生きていること」
 「人間をしていること」
を、
ある種、不可避の、避けられない、絶対的なこと、
と、感じています。

そのような感覚があれば、
自然と、人生を、
 「避けられないもの」「逃げられないもの」
 「『しなければいけない』もの」『修行』
と、感じがち、認識しがちです。

加えて、
これは、完全に、僕個人の、個人的な推測ですが、

わたしたちのほとんどは、『魂』の経験として、
 ある星において、転生しても転生しても、ある状況から逃れられなかった
という体験をしていて、
 その体験を、『魂』の奥底に、癒されぬ記憶として、恐怖として
 未消化のまま、未浄化のまま、持ち合わせている
というような気がしています。

なので、
このように、肉体(物質的・三次元的な『入れ物』)を持つと、
より一層、『修行』的な感覚を持ちがちなのではないか、
と、思います。

ですので、
 「人生は『修行』である」
と感じられるのは、
多くの方にとって、ある意味、とても自然なことで、

そう感じていたとしても、
ある意味、それは仕方のないことだと、思います。


ですが、とはいえ、
ここで、もっとも大切なのことは、

 「人生は『修行』だ」
と認識していれば、
自然と、必然的に、
 人生そのものを、生きていることにまつわるさまざまなことを
 辛く感じてしまいがちだ
ということです。

『事実』として、『真理』として、
 「人生とは『修行』である」
かどうか、
が、大事なわけではありません。

 「ご自分が幸せかどうか」
 「この人生が、辛くないかどうか」
 「より、楽に生きられるかどうか」
に関して言えば、

 「『真理』としてどうか」
が、重要なのではなく
 「自分が、どう『認識』しているか」
が、重要で、

そして、
 「人生とは『修行』である」
と、思わない・感じないでいられるかどうか、
 「人生なんて、『ゲーム』だ」
と、思えるかどうか、
が、重要だ、ということです。

どちらかを選べるのであれば、
ぜひ、「『ゲーム』だ」というほうを、選んでいただきたい、
ということです。


そして、そのためには、
『浄化』が、お役に立ちます。

 「人生は、『修行』だ」
 「この人生は、『魂を向上させる』ため、
 「そのために、生きなければならない」
 「耐えなければならない。努力しなければならない」
 
そう思ったときに感じる、
辛さ・苦しさ・重さ・絶望感・無力感 ...
そういったものを、浄化によって、手放してください。

 「人生は『ゲーム』なんだ」
 「『遊び』なんだ」
 「『しなければいけない』ことなんて、ないんだ」

そう、思ってみようとしたときに、感じる、
抵抗感・モヤモヤ感・疑問感・苦しさ、重さ ...
そういったものを、浄化によって、取り出してみてください。

おそらく、全部、スッキリと、浄化し切れてしまうケースは、
むしろ、少ないのではないかと、思います。

それでも、まったく構いません。
まったく、問題ありません。

とにかく、ご自分のできる範囲で、可能な範囲で、
より少なく、より軽く、なさってください。

なさり続けた結果、
いずれ、やがて、だんだんと、
感じる辛さ・苦しさ・重さが、徐々に、少なくなり、

そして、だんだんと、
 「あぁ、人間として生きているのは『ゲーム』かもしれないなぁ」
と、
思える量が、感じられる量が、
すこしずつ、増えてこられることと、思います。

そうすると、
人生そのものが、人生全般が、人生におけるすべての物事が、
その深刻さが、切迫感が、理不尽さが、
すこしずつ、徐々に、軽く、少なくなってこられることと、思います。

体験的に、そう、思います。


津留さんに関して言えば、

僕の、個人的な理解では、
おそらく、津留さんは、
 「人生は、『ゲーム』である」
ということを、『思い出した』のだと思います。

津留さんにとっては、津留さんの宇宙では、
 「人生は、『ゲーム』である」
ということは、『真理』なのだと、思います。

ですが、
もし、そうではあっても、

津留さんが、
 「人生は『ゲーム』ですよ」
 「人間は、『地球人間ゲーム』をしているんですよ」
と、伝えていた、
その真意は、その一番の意図は、

 「そう捉えることができれば、
  人生は、楽になりますよ」
 「そう捉えられないことが、
  苦しさの原因なのですよ」
ということを、
みなさんに伝えたかった、

ということに、あるのではないか ...

僕は、そう、思っています。