2015年2月17日火曜日
『鏡』の使い方
みなさんは、ふだん、鏡を見ますか?
男性の場合には、
ほとんど、ご覧にならない方も、
いらっしゃるかも、しれませんが、
女性の場合は、
おそらく、日に数度か、
ご覧になられることでしょうね。
ところで、
ふだん、鏡をお使いになる場合、
その用途には、いくつか、あると思いますが、
基本的には、
自分の顔を、姿を、映し、
それを、チェックするために、使いますよね。
鏡の上(中)の、像を見て、
そして、
その元である、自分のことを、チェックする。
必要があれば、自分を、直す。
そのように、
お使いのことと、思います。
さて。
「この世の中は、『鏡』である」
「自分の見えている世界は、『鏡』である」
これらの言葉については、
みなさんは、
もう、「耳タコ」なくらいに、お聞きになっていて、
もう、充分に、理解され、納得されておいでのことと、思います。
この言葉を、知る前には、
わたしたちは、
『外の世界』『物質世界』
というものが、
それだけが、
独立して、存在していて、
そして、
自分が幸せになるためには、
その、外の世界を、
自分にとって、都合の良いように、
変えていかなくては、いけない。
自分にとって、都合の良いように、
創り出し、作り替えていかなくては、いけない ...
そう、思っていましたよね。
この時期は、
頭での理解としては、まだ、
「それが『鏡』だ」
ということは、知らないわけですが、
ですが、あえて、例えてみると、
それは、いわば、
「鏡の中に、手を突っ込んで、そこに映る像を、変えようとしている」
そんな感じだと、
僕は、思っています。
そして、その後、
わたしたちは、
「外の世界は、自分の内面が映し出された『鏡』なんだ」
と、耳にするわけですが、
それでも、はじめのうちは、
「それなら、自分の内側を変えて、
『鏡』に映るものを、自分の望むものにしよう」
と、
やはり、外側の世界を変えることに、勤(いそ)しんでこられた、
というケースが、ほとんどだと、思います。
この場合には、
「鏡の中に、手を突っ込んで ・・・ 」
という感じでは、
もう、なくなっているかもしれませんが、
それでも、まだ、
その、外側の世界を変えることに、焦点を向けている、
という点で、
「『鏡』に映し出された像に、
そして、その変化に、
意識を奪われたまま、である」
という点で、
まだ、以前と、とても似た意識状態にある、
とは、言えるかも、しれません。
さて、
それも、しばらくすると、
この、
「この世の中は、『鏡』の世界だ」
という考えが、
さらにしっかりと、自分の中に、定着してきます。
そのときには、
「問題なのは、『自分の内側』なのだ」
という点が、
すんなりと、理解・納得できて来ています。
「自分が、辛い・苦しい・悲しい」という点に関しては、
あるいは、
「自分が、幸せかどうか」という点に関しては、
それは、
「映し出された側の、『外側の世界』ではなく、
映っている元である、『自分の内側』に、問題があるのだ」
という認識が、
すんなりと、身体に入ってくるようになって来ていることと、思います。
ところが、です。
その時に、です。
たとえば、
「自分が辛いのは、『自分の内側』に問題がある」
ということは、十分に、分かっては、いるけれども、
「『自分が、辛い』という点に関して、
問題なのは、『自分の内側』だ」
ということが、十二分に、認識できては、いるけれども、
でも、
「では、なぜ、どうして、
『自分が、辛い』という点に関して、『自分の内側』が問題なのか?」
というと、
それは、
「『自分が、辛い』と感じるような『現象』を、
『自分の内側』が、生み出しているから。
だから、問題だ」
と、認識なさっています。
「『外側』の、その、『辛い現象』の原因が、『自分の内側』だから。
だから、『自分の内側』が、問題なのだ」
と、認識されています。
なので、
「こんな現実を体験してしまうなんて、
いったい、自分は、どんな『ブロック』を握ってしまっているのだろう?」
とか、
あるいは、
「私は、こんな現実を、生み出しちゃってます。
どうしたら、いいのでしょうか?」
とか、
そんな風に、お想いになられています。
「『自分を幸せにする』ための、ツール」
に過ぎない、
「この世は、『鏡』だ」
という情報によって、
かえって、
『自分の辛さ・苦しさ』
を、増やしてしまっています。
そのような想いを、ご体験を、
これまでに、何度となく、お聞きしてきました。
このような場合には、
「『自分の内側』が問題だ」
ということは、
もう、充分に、認識なさっておいで、なのですね。
ですが、
しかし、依然として、
「自分に、不快さを、辛さを、感じさせているのは、
『外の世界』に存在している、『現象』だ」
という認識は、
無意識であるにせよ、わずかであるにせよ、
いまだ、お持ちのまま、なので、
したがって、
「この問題を解決するために、『自分の内側』を変える」
「『問題だ』と認識している、『自分の内側』を変える」
と、決意し、
そう、なさっていても、
しかし、
その目的は、そうする目的は、依然として、
「『外の世界』に存在している、その現象を変えること、消滅させること」
のまま、
というケースが、とても多いと、思います。
また、ですので、
「『問題だ』と認識している、『自分の内側』を変えることが、
ちゃんと、できたかどうか」
ということに関する、判断基準についても、
「『外の世界』に存在している、その現象を、
ちゃんと、変えられたか、消滅させられたか」
に、なってしまいがち、です。
この場合、
「『鏡』の使い方」
としては、
とても素晴らしい、のですね。
「自分が見ている世界は、『鏡』なんだ」
と、理解された後に、
「では、その『鏡』を、自分の幸せのために、利用しよう」
と、思われたときの、
その、利用の仕方として、
それは、素晴らしい、のですね。
わたしたちが、ふだん、使うとおりに、
『鏡』を、お使いになられている、わけですから。
つまり、
鏡の中に、手を突っ込んで、それを直そう、
としたりするのではなく、
鏡の中の、像を見て、
その元である、自分のことを、チェックなさっている、
そして、その上で、
必要があれば、自分のほうを、直そうとする、
のですから。
ですが、やはり、
「『鏡に映ったもの』が、どうであるか?」
ということに、意識の焦点が向けられたままである、
という点については、
以前と、変わりが、ありません。
別の言い方をすれば、
「『鏡に映ったもの』が、自分に辛さを感じさせる『元』であり、
それを、変えられるかどうか」
ということに、意識の焦点がある、ままであり、
「その、自分に辛さを感じさせる『元』を、変えるために、
それを生み出している、『自分の内側』を変えよう」
と、なさっておいでです。
『鏡に映ったもの』『外の世界』を、
依然として、評価し、判断されている、
という点に関しては、
以前と、同じまま、なのですね。
『鏡』の例に、戻れば、
『鏡』を眺めて、
「あぁ、自分は、こんなにも、醜(みにく)いわ」
「こんなに、脂肪が、付いちゃった」
「この皺(しわ)、どうにか、ならないかしら?」
「あれ、白髪が、増えちゃってる ... 」
と、感じ、想い、
そして、その上で、
「じゃぁ、この薬を、飲んでみよう」
「肉を止めて、野菜を食べよう」
「このコスメを、使ってみよう」
とか、
そう、思われて、
そうして、『自分』を変えようと、なさっているのですね、
「『鏡』に映る『自分』」を、変えるために ...
もし、今後も、
この『鏡』を、
「ご自分の、幸せのために」
あるいは、
「ご自分の、辛さ・苦しさを、減らすために」
使おう、と、お想いでしたら、
これからは、
ぜひ、次のように、
この『鏡』を、利用なさってみてください。
『鏡に映っているもの』『鏡の中の像』には、
本来、意味は、ありません。
たしかに、
映っている『元』は、『自分』なのですが、
しかし、
そこに、『意味』は、ありません。
それは、ただの、『像』です。
そこには、それには、
『良い』も、『悪い』も
『辛い』も『苦しい』も、『楽しい』も
『悲しい』も、『嬉しい』も
ありません。
ただ、『像』が、あるだけです。
そこには、ただ、『鏡』があり、
そこに、『像』が、映っているだけです。
もし、そこに、何かある、とすれば、
そこには、
あなたに、それらの気持ちを感じさせる、
『原因』が、あるだけです。
あなたに、そう、感じさせる、
「未消化なままの、『感情』」が
「過去の『記憶』」が
『価値観』『社会通念』『道徳規範』が
『情報』が、『プログラム』が
あるだけです。
つまり、
『エネルギーブロック』
が、あるだけです。
本当は、ただ、
「皮膚の下部が、膨らんだ」だけ
「皮膚の表面に、溝が、できた」だけ
「髪の毛の色づけが、なされなかった」だけ
ただ、それだけ、です。
本来は、
「ただ、それだけ」
なのです。
ですが、
それらを、
「醜い」
とする、「美の基準」が、
あるのです。
それらを、
「老い」
とする、「判断基準」が、
あるのです。
そして、
それら、「醜いこと」を、「老い」を、
「良くないこと」
「悲しいこと」
「辛いこと」
と、評価・判断する、『価値基準』が、
あるのです、
あなたの中に ...
もし、
『問題』があるとすれば、
「あなたが、幸せかどうか」
「あなたの、辛さ・苦しさ・悲しさが、無くなるか・減るか」
という点に関して、
もし、
『問題』があるとすれば、
それは、
あなたに、そう、思わせる・感じさせる、『基準』が
あなたの中に、ある
ということ、
ただ、それだけ、なのです。
ですから、
これからは、
「『外なる世界』は、『外なる宇宙』は、『鏡』なんだ」
と、
思えたときには、気づけたときには、
「その、『鏡』に、意識を向ける」
のでは、なく、
「その、『鏡』『像』を、観察・評価・判断する」
のでは、なく、
ただ、
『自分の内側』に、意識を向けてください。
ただ、
『自分の内側』を、観察してください。
ただ、
『自分の内側』に湧き起こる、『感情』を、『感覚』を、
観察し、感じてください。
そして、それを、
ただ、
取り除いて行ってください。
ただ、その、『感情』『感覚』を、
取り除いてください。
『浄化』なさってください。
そのときに、
外側の『現象』を、『像』を、
観察する、評価・判断・分析する必要も、ありませんし、
『自分の内側』の、『原因』を、
評価する必要も、分析する必要も、理解する必要も、
いえ、知る必要すら、ありません。
ただ、
自分が感じる、『辛さ』を、『苦しさ』を、『悲しさ』を、
ただ、
取り除いてください。
外に見える『像』は、
ただの、『像』です。
いえ、
それは、ただの『像』ですら、ありません。
それは、『虚像』です。
『虚像』なのです。
いえ、
そもそも、『鏡』そのものが、『幻』なのです。
それらの『像』は、『映像』は、
あくまでも、『幻』であり、
そして、それらは、
わたしたちを、
悲しませるために、苦しませるために、
映し出されている、わけではなく、
あるいは、
わたしたちを、
楽しませるために、喜ばせるために、嬉しがらせるために、
映し出されている、わけでも、ありません。
それらは、ただ、単に、
わたしたちに、
わたしたちが、(まだ)持っている、
『原因』を、『ブロック』を、
指し示していくれている、だけなのです。
わたしたちが、(まだ)持っている、
『ブロック』を、
教えようと、してくれている、だけなのです。
「では、なぜ、教えようと、してくれているのか?」
それは、
『ブロック』を、取り除くこと、手放すこと、が、
「『根本治療』だから」
です。
『鏡』に映る『像』を、変えたところで、
それは、
『応急処置』『対処療法』
に、過ぎません。
脂肪を、減らしたところで、
皺を、のばしたところで、
白髪を、黒髪にできたところで、染めたところで、
また、脂肪が付けば、皺ができれば、白髪が出れば、
悲しくなることは、辛くなることは、
避けられません。
あるいは、
自分自身に関しては、
「永遠に、脂肪が付かない・皺ができない・白髪がでない」
ということが、万が一、できたとしても、
自分のパートナーが、自分の親が、自分の子どもが、
あるいは、目にする誰かが、
そうなったときに、そうであるときに、
苦しくなったり、悲しくなったり、不快になることは、
避けられません。
一方、
もし、自分の中から、
自分に、そう、感じさせる・判断させる、
『基準』が、なくなれば、
自分が、そうなろうが、なるまいが、
家族が、そうなろうが、なるまいが、
そういう人を、目にしようが、目にしまいが、
自分が、
苦しくなったり、悲しくなったり、不快になることは、
もう、ないのです。
今後、もう、二度と、
そのように、苦しまないために、悲しまないために、
教えてくれて、いるのです。
「では、なんで、『根本治療』を望んでいるのか?」
「そもそも、『誰』が、教えようと、してくれているのか?」
それは、
「『大我』としての、自分」が
「『ハイヤーセルフ』としての、自分」が
「『全体』としての、『神』としての、自分」が
教えてくれて、いるのです。
『自分自身』が、『自分自身』に、教えているのです。
『自分自身』のことは、
可愛くて、可愛くて、仕方ないから、
自己愛で、親心で、
純粋なる愛で、純粋なる優しさで、
教えてくれて、いるのです、
『自分自身』に、対して。
「ほら、まだ、そんな『怒り』を、持ってるだろ?」
「そんな『正しさ』、まだ、必要かい?」
「いま、手放してしまえば、もう、感じなくて済むよ」
そう、
教え、示してくれているのです、
それが、
『自分自身』にとって、最善であるから。
『大我』『ハイヤーセルフ』『神』は、
長い目で、見えているから、
高い視点から、見えているから、
愛の表現が、こんな形になるのです。
『大我』『ハイヤーセルフ』『神』にとっては、
わたしたちの『エゴ』が望む、
「楽しいこと」「喜ぶこと」「嬉しいこと」
を、与えることが、
愛の表現、では、ありません。
「移り行くこと、変化すること、巡り移ろうこと、循環すること ... 」
それこそが、本質である、無常なる、この、物質宇宙において、
刹那(せつな)的な、特定の現象を、与えることが、
それによって、一瞬の、儚(はかな)い、消え行く定めの、感情を、与えることが、
愛の表現では、ないのです。
わたしたちの『エゴ』が
「嫌だ」「辛い」「苦しい」と感じること
そんなことを、あえて、与え、
そして、それによって、
「嫌だ」「辛い」「苦しい」と感じる『原因』
に、気づいてもらうこと、
そして、
それを、自ら、手放し、解放していくこと、
それによって、もう二度と、そんな感情を感じなくて済む状態を、
今後、永続していく、そのような状態を、
自ら、手に入れて行くこと、自ら、作り上げて行くこと、
それこそが、
『大我』『ハイヤーセルフ』『神』が、望んでいること、なのです。
それこそが、
愛の表現・愛の形なのです、
それこそが、
『自分自身』にとって、最善であるから ...