2015年3月6日金曜日

3月6日、満月、啓蟄


ここ、千葉県市川市では、
3月に入って、急に、
梅の花の開いた姿を、目にするように、なりました。

3月3日、桃の節句。

義母、山口潤子が亡くなって、
ちょうど、一年が経ちましたが、

この日、
お墓に向かう、道すがらも、
見事に咲き誇った、梅の木々が、
随所に、見受けられました。


さて、
今日は、3月6日。

音でいうと、みろく(三六・弥勒)に当たる、本日は、
ちょうど、
月齢でいうと、満月であり、
二十四節気でいうと、啓蟄です。

 「みろくが、満ち、そして、現れ出(いで)る」

そんな、日、ですね。

あるいは、
後世において、振り返ったときに、
そんな日だった、と、思い返すかも、しれません。

そんなことを、感じさせるかのように、
今日に入って、
震度『3』の地震が、
北海道と、沖縄(宮古島)と、伊豆大島と、で、
起きたようです、

日本の、
北と、南と、真ん中と、で ...


ふだん、僕は、
 「自分の、内側を、観察すること」
の重要性を、
自ら実践しながら、お伝えしています。

おそらく、これからも、
「内側」のことを、「内側を見つめること」を、
お伝えし続けると、思います。

ですが、それは、
 「『内側』だけが、重要である」
とか、
 「『内側』だけに、真実がある」
とか、

そのような、理解・認識のもとに、
「内側」のことを、お伝えしているわけでは、ありません。

 「『外側』のことは、重要ではない」
とか、
 「『外側』には、真理は無い」
とか、

そのようなことを、申しているわけでは、ありません。

外側は、重要です。
外側にも、真理はあります。

外側と、内側とは、等価です、
だって、
 「『内側』が映し出されたものが、『外側』」
なんですから ...


ただ、
わたしたちは、みな、
これまでの、習慣で、

自然自然と、無意識のうちに、
『外側』のことを、
『外側』のこと『ばかり』を、
意識し、見つめ、気にしています。

ですので、
「意識して」、『内側』のことを、見つめる、
という訓練が、とても、重要です。

『内側』を観察することを、習慣づけることが、
とても、重要です。

それを、相当期間、集中して行って、
はじめて、ようやく、
『内側』と『外側』とを、等しく、見ることができるようになります。

はじめて、「等価」だと、見なせるようになります。
感じるようになります。

ようやく、
 「『内側』が映し出されたものが、『外側』」
だと、腑に落ちるようになってきます。
体感を持って、納得できるようになってきます。

そうして、はじめて、
『内側』と『外側』が、ニュートラルに、なってきます。


基本的に、わたしたちは、みな、
今回の人生を、
 「『外側』だけが、重要」
から、スタートしています。

ですから、
わたしたちは、一旦(いったん)、
 「『内側』こそが、重要である」
 「『外側』のことは、気にならない」
に、行くことが、とても重要です。

そうなって、はじめて、
自然と、意識する必要なく、勝手に、
 「『外側』の真価」
に、気づくことになります。

そうなって、はじめて、
 「『外側』との、つきあい方」
 「『外側』との、距離感」
を、
自然と、見いだすのだと、思います。

そうなって、はじめて、
『外』と、『内』が、
『エゴ』と、『神』が、
『小我』と、『大我』が、
等しく、偏ること無く、同時に、存在し得ます。
現れ出て来ます。

「『どちらか』の世界」から、
「『どちらも』の世界」に、移り住みます。

そのとき、
この世界は、もう、二極では、ありません。

それこそが、
みろくの世、なのかも、しれません ...


今日は、3月6日、みろくの日。

『大我』・『集合意識』としての、わたしたちは、
この日に、
「満月」を合わせ、
「啓蟄」を合わせてきました。

このことが、いったい、どのような意味があるのか、は、
一人ひとりの、
「『外側』の見え方」によって、違っているかも、しれません。

 「『大我』・『集合意識』としての、わたしたち」
という言葉が、
どれだけ、『私』であると、感じていらっしゃるか、によって、
違っているかも、しれません。

ですが、いずれにせよ、
わたしたちは、みな、誰一人残らず、
全体としては、「『神』へ還る道」を、順調に、
歩み進んでいるものと、
僕個人は、認識しています。

これからも、
いまだ、『他人』と見える、みなさまと、
いまだ、『他人』と感じる、みなさまと、ともに、

楽しく、このゲームを進め、
そして、『苦しく』、この生を、全うしていきたいと思います ^^ 。

今日、この日に、
そんなことを、感じました。