2015年1月28日水曜日
排泄
「『いま、ここ』に居る」こと
「『意識的』である」こと
「『思考』から離れている」こと
そうしていることが、とても、難しいときが、
ありますよね。
たとえば、
「大きな怒りが、湧き上がっているとき」
「大きな恐怖に、覆い込まれているとき」
そんなときに、
それらから離れ、
意識的な状態でいること、
そんな状態をキープすることは、
なかなかに、難しいことですよね。
日常生活の中で、僕が、比較的頻繁に、
その難しさを、感じるケースが、あります。
それは、
汚い話で、恐縮ですが、
「排泄を、我慢しているとき」です ^^; 。
尿であれ、便であれ、あるいは、おならであれ、
それらの排泄・放出を、我慢しているとき ...
どうでしょう、
みなさんも、そんなときには、
「『いま、ここ』に、居ること」
が、とても難しいのではないでしょうか?
頭の中では、
「どうしよう?」「どうできるだろう?」
「まだ、大丈夫かな?」「あとどれくらい、大丈夫かな?」
「どこに、トイレがあったっけ?」
「あのとき、行っておけばよかった」
「あんなもの、食べなければよかった ... 」
「あいつが、あんなタイミングで、トイレを使ってたから ... 」
そんな、さまざまな想いが、
止めどもなく、駆け巡り、
そして、
身体に襲ってくる、強烈な痛みや苦しみなどの感覚に、
意識は、さまざまに、動き、飛び、巡り、
『いま、ここ』に、留まることが、難しいのではないでしょうか?
そんなことを、そんなときの難しさを、
改めて、しっかりと、認識したとき、
次の、二つのことに、
気づかされました。
一つは、
『肉体』というものの持つ、その力の強さ、
あるいは、
人間にとっての、『肉体』というものの重要性、
です。
「『肉体』というものが放つ、感覚の、力強さ」
「『肉体』というものが感じ取る、感覚の、強烈さ」
そんなものを、
改めて、強く、認識させられます。
何度も繰り返しますが、
そんな感覚をこそ、感じてみたくて、味わってみたくて、
元々『神』であった、わたしたちは、
物質宇宙を創り出し、
人間を創り出し、
そして、
その中に入り込んで、『体験』をしているわけです。
それら、感じる感覚が、感覚こそが、
強く、強烈で、鮮明であることは、
いわば、当然ですよね。
また、
その感覚を感じさせてくれる『肉体』の、
その感覚を感じる主体である『肉体』の、
その重要性というものも、
認識させられます。
そして、それゆえに、
その、肉体感覚に基づいた、『エゴ』というものの力強さも、
その、肉体感覚を、ある意味、制御しようともがいている、
『エゴ』というものの、存在感の強烈さも、その吸引力の強さにも、
うなずかされます。
このように考えれば、認識すれば、
それはそれで、仕方のないことだ、
とも、思えます。
ですので、
『人間』というのは、
そのような『仕組み』に、なってしまっているのですから、
『エゴ』に引きずられてしまう自分を、
『エゴのつぶやき』『思考』に埋没してしまう自分を、
それはそれで、仕方のないこととして、
どうぞ、とがめず、否定せず、
そして、もし可能ならば、許し、認めてあげてください。
「『エゴ』は、『エゴ』で、自分の役割を、しっかりと、果たしているんだ」
そのことを、
もし可能ならば、認めてあげてください。
「自分が、自分を、否定すること」
「自分の内側で、自分に対して、『否定』『拒否』を与えること」
それほど、確実に、
自分を痛め、傷つけ、苦しめることは、ありませんから ...
そして、もう一つ。
「この、『排泄』という行為は、
実に、『浄化』と、似ているなぁ」
と、
思いました。
『排泄』のケースでは、
もし、それができない場合、あるいは我慢している場合、
おそらくは、
物理的に、それが可能ではないから、できない・我慢している、
ということが、多いと思います。
「電車の中だから」
「トイレが無いから」
そのような理由で、
『排泄』ができない、我慢せざるを得ない場合が、
ほとんどだと、思います。
ですが、
場合によっては、
『自らの意思によって』、
排泄をしない・我慢している、という場合も、
ありますよね。
たとえば、
「『尿』『便』が、汚いものだから」
とか、
「その臭いをかぐことが、不快だから」
とか、
「『排泄』することが、恥ずかしいから」
とか、
「『排泄』行為自体が、汚(けが)らわしいものだから」
とか、
そんな理由によって、
『自ら』、『自らの意思によって』、
排泄をしない・我慢するケースも、有り得ますよね。
特に、「おなら」の場合なんかは、
「恥ずかしいから」
「臭いを出すことが、嫌だから」
「失礼だから」
「マナー違反だから」
とかで、
我慢するケースが、結構、ありますよね ^^ 。
そして、
そんな場合であれば、
そのときには、まさに、そうなのですが、
身体から出してしまうことが、(ある意味)自然なのに、
それを、自らの意思によって、出さず、留めていて、
そして、留めているから、それが理由で、
それによって、苦しさや、不快感を、感じさせられている、わけです。
その、留めている理由が、
たとえば、社会的通念や、道徳規範、マナー、などであったりして、
「そうすることが、当然だ」とか、
「そうすることが、むしろ『良いこと』だ」とか、思っていると、
そのような行為を、『無意識』のうちに、行っていて、
「『自らの意思・判断』によって、そうしている」という認識さえ、無い、
という場合も、あります。
ですが、
それを、意識できているにせよ、無意識にせよ、いずれにせよ、
苦しく・辛く・不快なのは、
便や尿が、排泄されず、体内に留まっているからであり、
それらが「留まっている」のは、
「留めている」からです。
その、苦しさ・辛さ・不快さから、逃れるために、
すべきことは、ただ、一つ、
「排泄すること」、ただ、それだけです。
排泄してあげさえすれば、いいのです。
体内から、出してあげさえすれば、いいのです。
そうすれば、
あの、痛さ・苦しさ・辛さから、解放されます。
そして、『スッキリ』します。
場合によっては、そのときに、
「ある種の『快感』」さえ、感じることでしょう ^^ 。
そんなときには、
すべての『思考』さえ、止まっていて、
意識は、『いま、ここ』に、たたずんでいることでしょう。
『浄化』も、
まったく、同じです。
苦しかったり、悲しかったり、辛かったり、
怖かったり、いらだたしかったり、不快だったり、するのは、
過去の未消化な感情、過去の想い、過去の記憶や、
観念、価値観、社会的通念、など、
すなわち、『エネルギーブロック』が、
体内に留まっているからであり、
そして、
それらが「留まっている」のは、
意識できているにせよ、無意識にせよ、
それらを、『自ら』「留めている」から、です。
まさに、
『自ら』、「握っている」「手放さずにいる」から、
なのです。
そんなとき、
それらの、苦しさ・悲しさ・辛さ・怖さから、
逃れるために、解放されるために、
すべきことは、ただ、一つ、
それらの『エネルギーブロック』を、
「解放してあげること」、ただ、それだけです。
「握っている」その手を、ゆるめ、開き、
それらを、自ら、「手放す」こと、
ただ、それだけです。
そうして、
自分の中から、出してあげさえすれば、いいのです。
そうすれば、
苦しさ・悲しさ・怖さから、解放されます。
一度では、あるいは、すぐには、
もしかしたら、解放されないかもしれません。
でも、
その、苦しさ・悲しさ・怖さは、
その度ごとに、少なくなっていきます。
そして、
場合によっては、
それは、多々あることなのですが、
『スッキリ』します。
そして、
『思考』も、穏やかになり、ゆるやかになり、
『いま、ここ』で、ゆったりとした幸せを、くつろぎを、
感じられるかも、しれません ...
「そうか、いま、苦しいのは・辛いのは、
トイレを、我慢してたようなものなんだ」
「『浄化』って、トイレに行くようなものなんだ」
もし、そんな風に思ってもらえたら、
とても嬉しいです。