2018年9月6日木曜日

人生は旅行のようなもの


 「人生は旅である」

 「人生というのは、旅のようなものであり、
  また、旅というのは、人生のようなものである。」

このような言葉・格言・慣用句・表現を、
耳にされたことがおありなのではないかと思います。
 
 
誰が言った言葉なのか、
ググってみましたが、

明確なもの、確定的なもの、
広く一般に合意・認識されているもの、には、
行き当たりませんでした。

ただ、古くは、
お釈迦さまも、
人生を旅に、私たちを旅人に、例えていらしたようです。
 
 
また、
 「人生は旅である」
と言ったとき、

では、
 それがどういう意味なのか
 何を意図したものなのか、どんな教訓めいたものなのか
など、

その言わんとするところは、
また、それぞれに、いろいろ、あるようです。

 「とどまることのないもの」(無常・変化)
 「種々雑多なもの・ことがあるもの」
 「自ら進んでいくもの」
 「何があるかわからないもの」
など、

そこで言わんとするは、
言い手・使い手により、
状況・シチュエーションにより、
様々なようです。
 
 
ところで、みなさん。

みなさんは、
実生活において、
旅をするとき、旅行をするとき、

どのようなきっかけで、
どのような動機で、
旅行をされますか?

もちろん、
「旅」「旅行」といっても、
いろいろありますが、

基本的には、
旅行というのは、

 「見たいもの」
 「したいこと」
などがあり、

それをするために、
行くものではないでしょうか?
 
 
例えば、
 テレビで、ある風景を見て、
 それに感激して、
 自分も、ぜひ、それを生で、この目で、見てみたい
とか、

 雑誌に載っていた、あるお店の、ある料理が、
 とっても美味しそうで、
 どうしても、それを食べてみたい
とか、

あるいは、
 友人から聞かされた、ダイビングの話が、
 とっても素敵で、羨ましくて、
 ぜひ、自分も、そこに潜ってみたい
とか、

そんなきっかけ・動機・目的があって、

で、
それをするために、実現するために、
その場所を訪れる。

旅行というのは、
おそらく、
そのような動機・目的で、なさるものだと思います。

 どんな場所・景色か、料理か、アクティビティか、
 知っているし、
 知っているからこそ、知れば知るほど、
 実際に、見てみたい、味わってみたい、体験してみたい、
 その気持ちが高まり、
 そして、その願望を叶えに行く

そんな感じなのでは、と思います。 
 
 
そのことを、
僕がここで言いたいことを伝えやすいように、表現すると、

私たちは、

 事前に知っていたこと、
 事前に情報を得ていたこと、を、
 実際に自分で体験するために、
 旅行をする

となります。

つまり、

 旅・旅行とは、
 事前に知っていたことを、
 現地に行って実体験すること

と、なります。


さて、
で、ここで。

僕も、
先と同じようなことを、言ってみたいと思います。

 「人生とは、人間として生きるとは、人間をするとは、
  旅行のようなもの」
と。
 
 
毎度おなじみ、
津留さん的な見方・認識では、

私たちは、
元々は、神さまでした。

この見方・認識、仮定・仮説においては、

私たちは、元々は、
「全て」でした。

 「すべてである、一なる意識であり、
  全知であり全能である」存在
でした。

 「全てが自分であり、
  だから、全てを知っていて、なんでもできる」
そんな存在でした。
 
 
しかし、
「全てを知っている」存在であり、
「なんでもできる」存在である、
そんな存在『だからこそ』、

逆に、
パラドックス的に、
「できないこと」が、ありました。

それは、
 「知らない」「わからない」
 「できない」
ということ。

全てを知っているので、
 「知らない」「わからない」
ということが、
ありません(できません)でした。

なんでもできてしまうので、
 「できない」
ということが、
できませんでした。
 
 
ただ、
もちろん、
「全てを知っている」存在ですから、

「知らない」「わからない」ということが、
どういうことなのか、

「できない」ということが、
どういうことなのか、

そのことは、
完全に、知っていました。

その意味を、概念を、
知識としては、完璧に、完全に、
「知っていました」。
 
 
ただ、
知っていはいましたが、

しかし、
「できません」でした。

表現を変えれば、
「体験できません」でした。

それが、どういう感じなのか、
「感じられません」でした。
「味わえません」でした。

そして、
知っているからこそ、
感じてみたくて、味わってみたくて、
たまりませんでした。
 
 
で、では、
「できる」ためには、
「体験する」ためには、
どうしたらいいのでしょうか?

それには、
 「全知ではない」「知らないことがある」「わからないことがある」存在
 「できないことがある」存在
に成ること。

 「全知全能」ではない
 「完全」「完璧」ではない
そんな存在に成ること。

そう成れば、
 「わからない」「できない」
ができます。
 
 
では、
そう、成れるでしょうか?

成れます。
だって、「全能」ですから。
「なんでもできる」のですから。
できないことは、ありませんから ...
 
 
こうして、
私たちは、

 「知らないことがある」
 「わからないことがある」
 「できないことがある」

そんな存在に成りました、

自らの、「全能性」を、
遺憾なく発揮して。
 
 
そして、さらに、
「わからない」「できない」内容を深めるために、

 「わからないことだらけの」
 「できないことだらけの」
 「不完全な」
 「ちっぽけな」

そんな存在にまで、成りました。

それが、
今、私たち一人一人がやっている、
『人間』という存在です。
 
 
完璧に、完全に、
知っているにもかかわらず、

でも、
「知っている」だけでは、
不十分で、不満足で、物足りなくて、

「わからない」「できない」を、
「体験」したくて、
「感じ」たくて、
「味わい」たくて、

私たちは、
人間という存在を創り出し、

そして、
それに、成っています。

それが、
今、私たち一人一人がやっている、
『人間』という存在です。
 
 
そんな見方、
そんな仮定に立ったとき、

「人生」を「旅行」に例えるという比喩は、
とてもしっくりとくる、適切で、当てはまったもの、
であると、感じます。
 
 
まず、
一番ポイントとなる部分は、

 「体験すること」
 「感じること」
 「味わうこと」
 それが、一番の目的である

ということです。

 「人間をしている」「人間として生きている」というのは、
 「地球人間体験『ゲーム』」をしている
という、
津留さんの、別の表現とも、一致しているとおりに、

このような見方からすれば、
「体験すること」「感じること」「味わうこと」こそが、
一番の目的です。

「知ること」が、目的ではありません。
もう、はじめから、完璧に、知っているのですから。

旅行の前に、その情報は、完璧に、手に入れているのですから。
 
 
しかも、
その、「体験したいこと」「感じたいこと」「味わいたいこと」は、

元々の『神さま』の状態では体験できない、
『人間』に成らないと体験できない、

「わからない」「できない」という内容であること、
です。

このマゾ的な、一見信じがたいような目的こそが、
実は、渇望し、憧れ、恋い焦がれたもの、なのです。
 
 
また、それは、「探検」とは、
少し、違います。

「探検」は、
未知のものを探しに行くもの、ですが、

『人生』とは、
むしろ、すでに知っていることを、
見に、体験しに、行くものです。

 そこに行かないとできないから、
 そのために、そこに行き、
 そして、それを実体験すること
それが目的のものです。
 
 
そして、それは、
「したいから、している」行為です。

ただ、「したいから、している」ことです。

むしろ「しなくてもいい」、のだけれど、

でも、
「したいから、している」ことです。

つまり、
広く言えば、それは『遊び』であり、

決して、『仕事』でも、
ましてや『修行』では、ありません

(『遊び』『ゲーム』『仕事』『修行』については、
 過去記事「 人生は、『修行』か、『ゲーム』か? 」や、
 その関連記事をご一読いただけると幸いです)。
 
 
また、それは、
「したいから、している」のです。

 自分がしたいから、している、
 そして、それができている、
 というのが、
 今の、人間として生きている、自分の状況だ

つまり、

 自分の望みが叶っているのが、今の状況であり、
 それは、自分がそれを創り出したからであり、
 つまり、自分が『創造主』だ

という観点です。

決して、

 自分は望んでもいないのに、させられている存在、
 自分は『被創造物』であり、
 自分は『被害者』だ

という認識では、ありません。

 『自分』というものを、そのように認識している
あるいは、
 「元々の自分」「本来の自分」というものを常に認識している部分がある
そんな認識・感覚を有しています。
 
 
また、
『旅行』ですから、

「見ていないもの」
「行ったことがない場所」
「していないこと」
に、基本的な興味があって、

そして、
それを、興味があるから、行くだけ・しているだけ、
で、

また、
その順序も、順不同、
したい順にし、行きたい順番に行きます。

決して、
 「してしまったから、今度は、されてしまう」
 「する側をしたから、次は、される側になる」
というような、

カルマ的な、因果応報的な、
そんな理由や順序は、ありません。
 
 
そして、
そこに行かないとできないことをしたいから、
そこに行くのであって、

そこに行くこと、そこで体験すること、
そのプロセスそのもの・全体が、目的であり、

そして、
それらが終われば、
家に帰ります。

元の場所に、
元の存在に、還ります。

どこかの目的地に到達すること、
そのことだけが目的ではないし、

また、そこに留まることが、
目的でもありません。

また、なので、
そこに、目的地に、ゴールに、
いかに早く着くかが、大切なわけでもありません。

自分が望み、計画した、せっかくの楽しい旅行を、
いかに早く終わらせるかが、目的・目標、なんて、
哀しいですよね。
 
 
津留さん的な見方をしたとき、

 「人生とは、人間として生きるとは、人間をするとは、
  旅行のようなもの」

という例えは、
とても当てはまったものとなります。

その見方からすると、

 「私たちは、
  『(地球)人間』旅をしている最中(さいちゅう)」

と、例えることができます。

そして、
このように見てもらえると、

津留さんの言っていたことを、
津留さんが見ていた見方を、
よりお分かりいただけやすいのではないか、
と、思いますし、

また、
このような見方を採用していただけると、

人生を送ることが、人間として生きることが、
それまでよりは(ほんの少しかもしれないけれど)、
楽になられる、楽しくなられるのではないか、
と、思い、

このような形で、シェアさせていただきました。