2018年6月3日日曜日

50回目のファーストキス(時間、そして、他人)


ここ最近、
テレビや、ネット上、街中などで、
映画「50回目のファーストキス」の告知を、
よく目にします。

一昨日が、公開日だったんですね。

聞くところによると、
この、日本版の「50回目のファーストキス」は、

ロケ地もハワイと、そのままで、
元の、アメリカ版の、リメイクだとか。

しかも、主演が、長澤まさみさん(!)、ということですので、
ヒットとなることを、祈念いたしております ^^ 。


さて、元となっている、
アダム・サンドラーと、ドリュー・バリモアの、
ハリウッド版「50回目の ファースト・キス(50 First Dates)」のほうは、

根がロマンチストな、僕は ^^; 、
ストーリー的にも、好きですし、

ハワイの情景や、
コメディータッチなところも、相まって、
大好きで、
何度か、観ています。

なので、
ストーリーなども、比較的、記憶しているのですが、

(この後、ネタバレ注意!)

主役の女性(ドリュー・バリモア)は、
交通事故により、『短期記憶喪失障害』となり、

記憶が、1日間しか持たず、
夜間の睡眠が明けると、前日の記憶がなくなり、

記憶がリセットされ、
事故前の状況に、記憶が戻ってしまいます。

なので、
事故後に会った人のことを、記憶しておらず、

そこで、その後に出会った、
主演男性(アダム・サンドラー)とは、

毎回、毎回、出会いから始まり、
そして、毎回、ファーストキス(原題的には、ファーストデート)を、
繰り返すことになる ...

というストーリー内容から、
このタイトルに、なっています。


いわゆる、「ラブコメディー」で、
ハワイの美しい風景も満載ですので、

その辺りがお好きな方で、
かつ、
アダム・サンドラーとドリュー・バリモアが苦手でなければ、

個人的には、お薦めの映画です ^^ 。


さて。

既述のとおり、
主人公の女性は、

一晩経つと、記憶を無くしてしまいます。

なので、
彼女は、

いつも、いつも、
「一日」を、生きています。

その日の、「一日」を生き、

翌日には、「前日」が無く、
そして、その(翌日である)「一日」を、生きます。


彼女には、
「一日」しか、ありません。

それ以上の長い時間は、
彼女の認識の中には、ありません。

つまり、
彼女には、「一日」しか、ありません。


この点は、ご納得いただけるものと思います。


では。

その、彼女の状況を、
ぜひ、さらに、もっと極端なものに、してみましょう。

もし。

もし、彼女が、
1秒たりとも、記憶できなかったとしたら ...

そのとき、
彼女には、「何時間」「何分」、いえ、「何秒」が、
あるのでしょうか? ...


そうですよね。
彼女には、「1秒すらも無い」ですよね。

彼女には、『時間はありません』。

よね?

え、ということは? ...


私たちが体験している、この社会では、
私たちは、みな、記憶を有しています。

なので、『時間を有しています』。

でも、もし、
もし、みなが、全員が、記憶を有していなかったら、

そこには、果たして、
時間は存在しているのでしょうか? ...


とても良く、
 「『時間』は無い。
  『瞬間』が有るだけ。」
と、
言われます。

この感覚は、なかなか、理解・体得の難しいものですが、

しかし、
そのような、理解・体得が無くとも、
先のように、考えてみたら、

 「『時間』は、『記憶』があって初めて、存在する」

すなわち、

 「『時間』は『記憶』の中にしかない」

ということは、よろしいかと思います。

 「『記憶』という、頭の中の認識の中にのみ、『時間』は存在する」

ということで、よろしいかと思います。


私たちは、
プロセス・変化を、体験しています。

それによって、初めて、
 「良くなる」
 「悪くなる」
という、体験ができます。

そして、それによって、はじめて、
 「嬉しい」とか、
 「悲しい」とか、
 「不安だ」とか、
そのような種類の感情体験を、することができます。

そのような種類の、
感情体験をするためには、

私たちは、
「変化・プロセス」というものを、記憶していなければなりません。

そこで、
私たちは、「記憶力」を有しているのですが、

それに伴って、
そこで、はじめて、

その、それら「変化・プロセス」を、
脳が、『時間』と、認識します。

その「変化」を、
その「プロセス」を、
その、よどみない流れを、

脳が、『時間』と、認識します。


なので、変化が無いときには、
私たちは、時間の流れを、認識できなくなります。

テレビの実験企画などで、
外の様子が分からない、外の変化が一切感知できない部屋などに、
隔離・幽閉された人が、
果たして、時間の経過を、しっかりと当てられるか、

といった内容のものを、
ご覧になったことのある方も、いらっしゃると思います。

そんなとき、
大抵、その人は、
大幅に違う時間認識を、持っています。

これなどは、
私たちが、

変化・プロセスを、時間として認識している、
最たる例だと思いますが、

私たちも、日常生活の中で、
例えば、変な時間に昼寝をしてしまったときや、
長い時間、昼寝をしてしまったときなどに、
起きたとき、時計を見ないと、時刻がまったく分からない、
なんて体験を、したりしますよね。

以上のようなことからも、
『時間』が絶対的なものではない、ということは、
すでに、実感されたり、認識なさったりしていることと思います。


いずれにせよ、

 『時間』というのは、『記憶』を通じて、頭の認識に中にあるものだ

という点は、よろしいかと思います。

それが、

 「頭に中にしか、ない」のか、否か
 「頭の認識の中にのみ、あるもの」なのか、否か

については、置いておいて
(「時間は無い」と言う人々は、
 「なので、頭の中にしかないのだ」と、言っているのだと思いますが)、

でも、いずれにせよ、
 「『時間』は、頭の中にあるもの」
 「『時間』は、頭で認識されているもの」
 「頭の中の『記憶』が無ければ、『時間』は認識できない」
ということは、よろしいかと思います。


以上、『時間』というものについて、
ご参考にしていただければと思います。


そして、さらに。

この、『時間』についてと、同じことが、

 「嫌な人」
 「嫌みな人」
 「意地悪な人」
 「困った人」...

など、

自分のストレスの原因となっている『他人』についても、
言えるのです。

そして、それを、
津留さんは、

「『時間』は無い」と言うタイプの(その認識の)、
津留さんは、

 「『他人』は、居ない」
と、
言うのです。


これを、
僕が、今回、この記事で使った表現で言えば、

 「『他人』は、頭の中にしかいない」
 「『他人』は、『記憶』を通じて、頭の認識に中にあるものだ」

と、いうことになります。


『時間』についてと、同様、
『他人』も、

このように、
「『自分の頭の中』に居る」のです。

「『自分の中』に居る」のです。


だからこそ、
「『自分の外』に居る」他人を変えようとすることが、
ときに、無意味なのです。

だからこそ、
「『自分の中』に居る」他人にアプローチするしか、
ときに、方策が無いのです。

『自分の中』だけが、問題なのです。