2018年8月29日水曜日

人間ハワイ


それは、
今年4月の、ある日。

船橋での、うさと展が終わり、
会場の片付けを終え、
道具を運ぶために、車に乗っていたときのこと。
 
 
四月の、夕刻。
若干の雲が漂う、風の無い、穏やかな晴天。

薄茜色に染まりはじめた、
その空を、

よりはっきりと見たくて、
しっかり、直接、感じたくて、
窓を開けると、

流れ込んでくるのは、
その季節特有の、
爽やかで、涼やかな、空気。

騒がしさは、少し、あるものの、
しかしながら、それは、
休日ならではの、温かな「家族・家庭」の、
気配、音ども。

そして、
それらを包み越えて、
耳に届いて来ているのは、

昨年ハワイを訪れて以来、
車に乗るときには、いつも聴いている、
ハワイアンミュージック。

穏やかで、柔らかく、ゆったりとした、
その音の帯は、
細やかに、滑らかに、
僕の身体に、流れ入り、染み渡ります。
 
 
全てが弛緩し、
『自分』が、瓦解していきます。

『肉体』が崩れ、
周りに、全体に、溶け広がっていきます。

「力み」が感じられず、
完全に、「ただ、そのまま」の感覚になります。

「至福」の、
一形態に浸りました。
 
 
そのとき、
思考が認識したのは、

 「あぁ、
  『ハワイ』が存在してくれているってことは、
  なんて、ありがたく、すばらしいことなんだ」

ということでした。

『ハワイ』に繋がることで、
あるいは、
『ハワイ』を深く感じ、思い出すことで、

僕は、
「至福」とまでも言えるほどの、
感覚に浸り入ることができる ...

この地球上に、
『ハワイ』という、
「楽園」の一形態が、

具体的に、
実在してくれていることに、

心から、感謝しました。

自分にとって、
喜びであり、希望であり、
また、救いであると、
感じました。
 
 
もちろん、
私たち共通の、客観的事実としての
ハワイには、

いろいろな側面があり、
さまざまな事情があり、

決して、「『楽園』そのもの」などではないことは、
十分に、認識しています。

経済的なこと、
人種的なこと、
環境的なこと、
そして、歴史的なこと ...
 
 
また、特に、
この5月から、はじまった、
ハワイ島での、新たな溶岩流の噴出は、

8月に入り、
ようやく、終息を迎えてはいるようですが、

それまでの3ヶ月余で、
広範な地域を、
溶岩で、焼き払い、覆い尽くしてしまったこと。

しかも、その噴出が、
まさに、私たちが滞在した住宅地 " Leilani Estates " から起こり、

私たちが滞在した家から、500mも離れぬ一帯でも、
私たちが訪れた当時の様子を、一切、留めていないということ。

このブログでも紹介した、『楽園の海』( カポホ・タイドプール )も、
今は、厚い真っ黒な岩の層の下に、沈降してしまったということ。

この、個人的体験に関係のある、
極めて狭い範囲内においてさえも、

極めて極端で過酷な出来事が起こりうる、
『ハワイ』という場所が、

決して、「『楽園』そのもの」と言い得ないことは、
十二分に、認識しています。

それどころか、
今回の出来事に見舞われた地域では、
「『楽園』どころか『地獄』」のような体験をなさっておいでなことと、
認識しています

(心より、心よりお見舞い申し上げます)。
 
 
それでも、なお、
『ハワイ』の持つ、緩やかさ・のどかさ・暖かさ・美しさと、
『ハワイ』が放つ、煌めきは、

僕の心を、身体を、
緩め、和らげ、溶かし、
そして、整え、再構成してくれます。

『ハワイ』という『楽園』が、
夢が、憧れが、理想が、

僕を、
柔らかくし、

そして、
僕を、強くしてくれます。
 
 
 「『ハワイ』のような『場所』が存在することで、
  僕が、これほどまでに、
  救われ、癒され、慰められ、そして、励まされるのならば、
  
  同じように、
  『こんな人が存在することで、救われ、励まされる ... 』
  そんな『人物』が、居てもいいのではないか?

  いや、僕が、そんな人物になってもいいのではないか?
  率先して、僕が、そんな人物になってもいいのではないか?」
 
 
そのとき、突如、
そんな想いが、浮かび上がりました。

僕にとっては、
初めて到来してきたアイデアであり、

僕にとっては、
初めて得られた認識でした。

そんなこと、
思ってもみたことがありませんでした。

自分が、率先して、
『夢』を、『理想』を、生きることが、

むしろ、
他者の救いになり、励ましになるなんて、
思ってもみたことがありませんでした。

でも、
いったん、そう認識できてみると、

それは、
至極当然のアイデアであり、

それは、
採用しない理由の見つからないものでした。
 
 
考えてみれば、
「津留さん」も、そんな一人、ですかね?

みなさんの中には、
「津留さん」という人物が存在したことが、
救いであり、希望である、という方も、
いらっしゃいますかね?

そう、気づきました。
 
 
でも、
では、なぜ、

これまで、僕は、
そのような認識に至らなかったのでしょうか?

僕の場合、
それは、明白でした。

そこには、
二つの理由がありました。
 
 
一つは、
 「そんな『理想』に、自分が成れるわけない」
という、

自己評価の低さ、自己能力への懐疑、自信のなさ、自己否定 ...

そのようなものでした。

おそらく、
これは、分かりやすく、

また、
多くの方も、共感されるところなのでは、と思います。
 
 
もう一つ。

そして、
僕の場合には、

こちらこそが、
より大きく、より強い、要因に感じられます。

 「そんなことをしたら、ズルい。
  そんな状況になったら、他の人に悪い。 申し訳ない。」
 
 
この、
「ズルい。悪い。申し訳ない」には、

そうなった場合には、
他者から「ズルい」と責められることになり、
他者から妬まれることになり、
それが怖い、それのほうが余計に嫌だ、
という思いも、付随しているでしょうが、

でも、
それ抜きに、純粋に、

自分が優れた状態であることを、
自分が恵まれた状況になることを、
禁ずるような、諌めるような、
ブレーキをかけるような、

そんな想いが、
みなさんにも、ありはしませんか?
 
 
 困っている人がいるのに、
 苦しんでいる人がいるのに、

 自分が楽で、楽しくて、恵まれて、幸せで ...
 そんなこと、あり得ない!

そう、声高らかに叫ぶ子が、
あるいは、
静かに、揺るぎなく、そう決意している子が、

あなたの内側には、居ませんか?

心優しい人ほど、
当然のように、
そんな想いを、抱えていることでしょう。

道徳心にあふれた、心清き人ほど、
当たり前のように、
そんな想いと、同居していることでしょう。
 
 
 「心優しき人」ほど、辛い思いをする
 「心清き人」ほど、幸せになれない ...

これまでの歴史で、これまでの社会で、
私たちが、数多く遭遇し、数多く体験してきた、

一見、パラドックスと思えるような、
この、シニカルなジレンマは、

私たちに、深い、深い、
憤りと、哀しみと、絶望と、諦めと、虚無と ...
を、感じさせてきました。

ですが、しかし、
それも、もう、十二分に味わってきたものと、
もう、「完了印」を押すべき時に来ているものと、
個人的には、感じています。
 
 
 ライトワーカー

この言葉を聞いて、
心震える人が、多くいらっしゃることでしょう。

夜の闇に、光を照らす、灯台のように、
世の中に、光をもたらす、人。

そんな人物として生きていこうと、決めている方も、
そんな人物にこそなりたいと、望んでいる方も、
多数、いらっしゃることでしょう。

そのときに、ポイントとなるのが、
「自分に対する許可」だと、思っています。

飢えている人が、食べ物を恵むことができないように、
お金がない人が、お金を恵むことができないように、

自らが光り輝いていない人は、光を放射することができません。

 「私は、光り輝けるだろうか?」
そんな、
自分自身に対する、疑念や不信と同様に、

いえ、それ以上に、

 「この暗闇で、もがき苦しんでいる人々がいるのに、
  私は、光り輝いてしまって良いのだろうか?」
そんな、
自分自身を律し、諌め、禁ずるような想いを手放し、
自分自身に対して許可を与えることこそが、
もっとも重要なポイントなのだと、感じています。

むしろ、
そんな人こそが、
そして、周りのためにこそ、
自分が率先して、光を溢れさせること、

自分が率先して、先に進み、理想を歩み、
目印となり、道筋を示してあげること、

それこそが、大切なのだと、
そう、認識を換えてしまうことが、重要なのだと、感じます。
 
 
私たちが、これまで、
心優しさ、清さ、道徳・モラルを持って来たことは、
決して、間違いでも、過ちでも、ありません。

それゆえに、これまで、
ここまでの深さの、苦しみを、味わうことができたのですから。

それを味わうために、
私たちは、自ら、それらを、身の内に入れ込み、抱え込んで来たのですから。

ですから、
それらを恨む必要はなく、

ただ、「もう使い終わりました」と、
宣言し、伝え、手放してあげればよいのです。
 
 
自らの前進を、とどまらないでください。
自らの幸福を、躊躇しないでください。

堂々と、むしろ積極的に、
希求し、実現してください。

その許可を、ご自分に与えてください。

許可を与えていないのは、
許していないのは、認めていないのは、

ご自分だけです。
 
 
 「『人間ハワイ』に、成ってもいいんだよ。
  近づいて、いいんだよ」

僕の場合には、
そう、言ってあげることにします。