2017年3月15日水曜日
『幻』『幻想』の、第一の意味
ニュージーランドに滞在していたとき、
ニュージーランドの人々は、
誰一人、
僕がかつて所属した学校を、知りませんでした。
というか、
厳密には、
僕が接した、ニュージーランドの人々は、
全員、
日本の学校を、一つも、知らなかったのですが、
いずれにせよ、
ニュージーランドでは、
僕の「学歴」は、
完全に、無意味でした
(というか、なので、
『誰』の「学歴」も、無意味なのですが ... )。
頭では、想像し得た、理解し得た、ことでしたが、
これを、実体験できたことは、
僕にとっては、
とても素晴らしい、貴重な、経験でした。
先日の交流会で、
「地位」のことが、話題として出たのですが、
そのとき、
僕は、
この、かつてニュージーランドで体験したことを、
思い出していました。
ニュージーランドでは、
誰一人、
日本の学校を知る人は、いませんでした。
なので、
当然のことながら、
誰一人、
日本の学校の「ランク」を知る人は、いませんでした。
そこには、
日本の学校の「ランク」は、ありませんでした。
存在していませんでした。
ということは、
本来、
日本の学校の「ランク」というものは、
『存在』していません。
もし、『存在』しているのならば、
ニュージーランドにも、存在していなければ、おかしいですね。
でも、
ニュージーランドには、存在していませんでした。
ということは、
本当は、
『どこにも』、存在していないのです。
では、
存在していると、感じている人の場合、
それは、『どこ』に存在しているのか、
というと、
それは、
その人の「こころ」の中に、「頭」の中に、
その人の『内側』に、存在しています。
「ランク」も、
そこに紐付けられた「意味」も、「価値」も、「重さ」も、
すべて、
その人の『内側』に、存在しています。
今回は、
事例として、「日本の学校の『ランク』」について、
述べましたが、
これは、当然ながら、
「ランク」あるいは「地位」というもの、全般について、
当てはまることです。
「ランク」というもの、
「地位」というものは、
それを、
その意味を、その価値を、
自らの『内側』で、認めた人に、
自らの『内側』で、受け入れた人に、
存在しているのです。
認めていない人、受け入れていない人には、
そもそも、存在していませんし、
また、
認めるのを止めれば、受け入れるのを止めれば、
存在しなくなります。
もし、あなたが、
「地位」や「ランク」や「名誉」といったものに、
悩んでいたり、苦しんでいたり、困っていたり、
あるいは、憤っていたとしたら、
「自分は、いったい、『何』に、悩んでいるのか?」
「自分は、いったい、『何』に、憤っているのか?」
「そもそも、どうして、苦しんでいるのか?」
「『誰』が、困らせているのか?」
もう一度、
改めて、
問い直してみてください。
その正体は、犯人は、
『存在』しているのか、『実在』しているのか、
改めて、
洞察してみてください。
津留さんが、
「この世は、『幻』です」
「すべては、『幻想』です」
と、言ったとき、
確かに、そこでは、
「この世の物質は、すべて、『幻』です」
「すべては、『映像』です」
という意味で、
言っている場合もあります。
ですが、そんな、
頭で考えても難しい、
実感するのは、さらにさらに難しい、
そんな認識の、前に、
まず、
今回の意味におけるような、
「『地位』『名誉』といったものが、『幻』だ」
ということについて、
じっくりと、考えてみてください。
津留さんも、
明言しているのですが、
『幻想』というのは、
まずは、『このような意味』において、
すべて、『幻想』なのです。
そして、
たとえば、今回の事例のような、
『地位』『名誉』といったものが、
『幻』だとの、認識と同時に、
それらによってもたらされる、
「悩み」「苦しみ」「憤り」も、
同様に、
『幻』であり、『幻想』なのです。
そして、それこそが、
まず、『幻』『幻想』の、第一の意味です。
どうぞ、このことを、
ぜひ、実感を持って、ご自分のものとされてみてください。
それについて、
じっくりと、考えてみてください。
検証してみてください。
きっと、
感じられる世界が、見えてくる世界が、
違ってくることでしょう。
そして、
おそらく、その先には、
「物質そのものが、『幻』だ」と、
「すべては、『映像』だ」と、
感じられる状態が、必然的に、続いているのだと、
僕は、理解しています。