2014年9月13日土曜日
人それぞれの『現実』
千葉は、昨日、今日と、
ようやく晴れましたが、
ここ数日、
ずっと、
雨が降ったり、止んだりで、
降ると、
ずいぶんと、激しい雨でした。
錦織圭くんの、快進撃を、
決勝進出が決まってから、知るくらい、
「『都会の、情報浦島』ひで」
なので、
詳しいことは、存じ上げないのですが、
妻から、
札幌をはじめ、北海道で、
記録的な降雨によって、
被害が生じたと、聞きました。
影響を受けられた、全ての方々に、
こころより、お見舞い申し上げます。
その前、一昨日は、
千葉でも、
かなり激しい雨が降りました。
娘を、
幼稚園に迎えに行くときには、
各所に、水たまりができていました。
途中、交通量の多い道の、歩道を歩いているとき、
前方の信号が、赤に変わったため、
交差点手前で、ゆっくりと歩いていると、
曲がってきた車が、
スピードを、あまり、落とさなかったため、
大きくふくらんで、
僕の近くを、通って行きました。
そこには、
けっこうな水たまりが、ありました。
車は、
水をはねて、
通り過ぎて行きました。
その水は、
幸い、
僕には、かからなかったのですが、
でも、
水が、僕の方向に、飛んできました。
その瞬間、
「ハッ」
として、
避ける必要があるかどうか、
判断していました。
水は、かかりそうになかったため、
「避ける必要は、ない」
と、判断しました。
と、
その判断と、ほぼ同時に、
僕の中に、
3人の『人間』が、同時に、
スクッ と、
立ち上がるのが、分かりました。
一人は、
「あ。水が、飛んできた」
と、言いました。
もう一人は、
「おい、気をつけろ! 水を飛ばすな!
第一、道路交通法違反だぞ。」
と、言いました。
別の一人は、
「おい、なんで『俺』に、水をかけようとするんだよ?
なんだよ、わざと、飛ばしたのか?」
と、言いました。
最初の一人は、
「水が、飛んできた」
という、
『あるがままの現実』を、
あるがままに、
ただ、とらえていました。
より、正確に言うと、
そのときには、
「『車が飛ばした』水が、飛んできた」
と、つぶやいたのですが、
いずれにせよ、
そこでの、あるがままの現象を、
ただ、あるがままに、とらえていました。
そこには、
感情も、特定の想いも、特になく、
ただ、水が飛んできたことを認識し、
ただ、見ている人が、いました
(「避ける必要はなかった」ので、ただ、見ていました)。
次の一人は、
「おい、気をつけろ! ... 」
といいながら、
車の行動を、とがめていました。
理由は、よく分からないのですが、
「車の運転手を」、というよりは、
なぜか、「車を」、とがめていました。
でも、そのことは、
明らかに、重要では、ありません。
その、とがめている『人物』は、
『社会的ルール』や、『同義的』な観点から、
相手の行動を、とがめていました。
批判していました。
そして、
左手には、『正義』あるいは『ルールブック』を持ち、
そして、
右手には、『怒り』を持っていました。
その姿が、
見えた、というより、『感じ』られました。
ただし、
その『怒り』は、
割と、「サラッ」としていました。
その点、
3番目の『人物』は、
「車の『運転手』」に対する、
結構、激しい、強めの『怒り』を、
右手に、握りしめていました。
そして、
その右手を、高々と、掲げ、
そして、上方で、振り回していました。
「なんで、そんなことをするんだ!
しかも、それを、わざわざ、『俺』に、したんじゃないのか?」
強い批判と、強い怒りとともに、
その人物は、
同時に、そんな、『過剰な自意識』と、『被害者意識』『被害妄想』を、
持っていました。
高々と振り上げ、力強く揺り動かす、
そんな右手とは対照的に、
彼の左手は、
胸に当てられ、
こころの『悲しみ』、こころの『寂しさ』を、
それらがあふれ出ている胸を、
押さえていました。
激しく、強い、『怒り』と、
まったく同じだけの量の、
辛く、切ない、『悲しみ』を、
そこに、抱いていました。
さて、
今回のケースでは、
僕の中に、
3人の、別人が現れたため、
そして、
幸い、
その「3人」に、気づくことができたため、
僕は、瞬間、
3人の、別々の人生を、
それぞれ、体験することができました。
3人は、
まったく同じ出来事を、
まったく同じ位置、同じ視点から、
体験しているにもかかわらず、
まるで、
『別の出来事』であるかのように、
それらを、体験していました。
そして、それらは、
『視覚的』にも、
すこし、異なって見えたような、気がします。
それが、「瞬間の出来事」だったこともあるし、
自分の意識が、充分には、精妙でなかったために、
それは、
「気がする」
というくらいの、曖昧なものなのですが、
でも、
そんな、感じがします。
一人目のときは、
飛んでくる「水」の動きが、
視覚の・映像の、中心に、どアップで、
存在していました。
そして、
その動きは、
ずいぶんと、ゆっくりだった感じがします。
二人目の場合は、
車がはねた水の動きと、車の動きの、
その両方を、目が追っていました。
なんとなく、
「動きをとらえる」ことが中心で、
全体の景色も、
割にしっかり、見えていました。
対して、
三人目の場合には、
怒りに、視野・視角が狭められて、
しかも、すこし、ぼやけた感じだったように思います。
とにかく、
自分の『感情』と、
それをもたらす、自分の『考え』『思考』が中心で、
視界が狭く、周りがぼけてしまっていました。
今回、僕が体験した例からも、
お分かりいただけるように、
人はみな、
物事を、
『外なる世界』の現象を、
ただ、
『あるがままの現実』だけでなく、
自らの内側に存在する
『エネルギーブロック』が作り出す
『観念的現実』
と呼ばれる、
ある種、
膜のような、フィルターのような、
そんな『現実』をも、
それに被せ、重ね合わせて、
見ています。感じています。
『エネルギーブロック』が無い人は、
あるいは、
『エネルギーブロック』があっても、それが刺激されていない人は、
その『現実』を、
あるがままに、見ます。
あるがままに、感じます。
ところが、
その現象と条件づけられた『エネルギーブロック』を持つ人は、
その、『エネルギーブロック』が刺激された結果、
特定の『想い』『感情』『感覚』が、
『あるがままの現実』の前に、
被さって、重なって、存在し、
それらを含めた、全体を、
「自分にとっての『事実』」
として、認識します、
ときには、『視覚的』な独自性をも、ともなって ...
そして、
その人にとっては、
まさに、それこそが、『事実』であり、
しかも、
それを、
「『唯一』の事実」
として、認識します。
だれも、
「『事実』が、いくつもある」
とは、認識していませんよね。
これこそが、
津留さんが言っていた、
「人それぞれ、見えている宇宙が違う」
「人それぞれ、住んでいる宇宙が違う」
ということの、一つの、説明です。
みな、それぞれ、
認識している『事実』そのものが、違うのです。
『あるがままの現実』としては、
まったく同じものを見ていても、
そこに重ねられる『観念的現実』が、
人それぞれ、異なるため、
人が、それぞれ、
『現実だ』『事実だ』
と認識しているものが、
『本当に』、
違うのです。
そして、
だから、
「他人を、説き伏せよう」
「他人に、分からせよう」
「正しいのはこちらなのだと、分からせよう」
といった試みは、
すべて、不毛なのです。
そもそも、
無理なのです、
そもそも、
「同じもの」を、見ていないのですから。
「違うもの」を、見ているのですから ...
そして、
人はみな、
「自分の『事実』『現実』」で、手一杯なのです。
自分にとっての『事実』、
特に、自分の『観念的現実』に、
捕まり、とらわれ、圧倒されていて、
それに、手一杯なのです。
自分の『現実』が、自分にもたらす、
「苦しさ」「怖さ」「恐ろしさ」「重さ」
「怒り」「悲しさ」「寂しさ」「空しさ」 ...
そういったものに、
とらわれ、包みおおわれ、圧倒されていて、
それらに対処することに、
それを感じている『自分』を、どうにかすることに、
手一杯なのです。
「他の人にとっての『事実』」など、
慮(おもんぱか)る余裕など、無いのです。
いえ、
さきほど触れたように、
そもそも、「他の『事実』」が存在するなど、
思ってもみていないのですが ...
ところが、
『浄化』を進めて行くと、
自分の『観念的現実』という膜が、
徐々に徐々に、だと思いますが、
薄く、明るく、軽く、柔らかく、なっていきます。
そして、同時に、
それらに、捕まり、とらえられ、圧倒されていたのが、
すこしずつ、自由が効き、軽くなっていきます。
すると、
それが、
『膜』であったことに、気づいてきます。
『膜』に過ぎなかったことが、分かってきます。
そして、
だんだんと楽になり、
そして、
余裕が生まれてきます。
その余裕が、
『他人』の『事情』に、意識を向ける『余裕』を、生みます。
すると、
『他人』が、
『自分』の場合とは違った、
その人特有の『現実』を見ていることに、気づけます。
そして、
『自分』が見ていた『膜』を見抜いた経験から、
いま、その『他人』が見ている『膜』が、
いったいどのような『膜』なのか、
すこしづつ、分かるようになってきます。
理解できるようになってきます。
その人が、
「どんな『現実』にとらわれているのか」
「どんな『現実』に、もがき、苦しんでいるのか」
察することができるようになってきます。
そして、
そこから抜け出すためには、どうしたらいいのか、
自分の経験から、分かるようになります。
自分の経験から、
アドバイスできるようになります。
たとえ、そこまでは、行かないにしても、
でも、
『他人』が、
自分とは違った、
その人オリジナルの『事実』を見ていること、
その人オリジナルの『現実』を生きていることが、
しっかりと、理解できてきます。
それが、「腑に落ち」てきます。
そうすると、
とにかく、
自分が楽になります。
「説得しよう」「説き伏せよう」「分からせよう」
とか、
「なんで、そうなんだろう?」「それは、おかしいよ!」
とか、
「それは、わたしのせいじゃないわよ!」
とか、
そんなことを、
思わなくなります。しようとしなくなります。
そんな必要がないことを、
こころから、理解できてきます。
その人を、
自分から、すこし、距離を置いて、見てあげられます。
その人を、
その人に、任せてあげることができます。
そうすると、
なにより、自分が楽になります。
そうすると、
ますます『余裕』が生まれ、
『自分』のことに、『他人』のことに、
余裕を持って、接することができるようになってきます。
それが、また ...
そんな循環を、生み出していきます。
一人でも多くの方が、
「そうなりたい」と思われる、一人でも多くの方が、
そのような循環に、入っていくことができるように、
その、お手伝いができるように、
まずは、
「自らの『余裕』作り」
に、
妻ともども、
励んでいるところです。