2014年9月8日月曜日

『アファメーション』と『浄化』


過去記事「自分に気づく訓練・儀式・アファメーション
で引用しているとおり、

津留さんは、
『アファメーション』の有用性を認め、
そして、推奨していました。

例えば、
そこでは、
 「どうしても、他人を、自分を、とがめてしまう」
という場合には、

 「わたしは、もう、とがめません」
と、1日に、何度も、
自分で自分に、唱えることによって、

 「とがめることを止められる」
と、言っていました。


僕も、
このアファメーションを、
しばらくの間、唱えていました。

 「他人をとがめる」
と、
どうしても、
 「外側に、原因がある」
という発想・認識から離れられず、

どうしても、
 「自分の内側を観察する」
 「自分の内側に、原因を見つける」
という流れ・展開に、入っていけません。

また、
 「自分をとがめる」
と、
どうしても、
何かあったときに感じる『ストレス』『痛み』が、
強くなってしまいます。

津留さんは、
 「自分をとがめると、
  痛みが2倍になる」
と、言っていました。

何かがあって、
自分が痛みを感じていて、
さらに、
 「それは、自分が悪いからだ」
と、自分をとがめると、
さらに、その分、
否定のエネルギーを、上乗せしてしまうからです。

だから、
自分が感じる痛みが、
その分、上乗せされてしまうのです。

そんな痛みは、
そもそも、
感じる必要が無いですし、

痛みが強いと、
どうしても、
そのことから、意識を離すことができません。
そこに、とらわれ続けてしまいます。

そんなわけで、
『浄化』に、本格的に取り組み始めた当初は、
そのアファメーションを、
繰り返し、唱えていました。


一応、そんな経験があるので、
 アファメーションというものが、
 どのように働くのか
ということについて、

ほんのすこしだけですが、
体験的に、理解できている部分があります。

そして、
その理解からすると、

アファメーションというのは、
まさに、
 『プログラム』
だと、思います。


 『プログラム』

これは、
いわゆる、
 「コンピューターの『ソフトウエア』」
と呼ばれるもののことを、
イメージしていただければいいと思います。

 コンピューターにおいて、
 作業しているときに、
 動いているもの、
 働いているもの

あるいは、
 その作業を、
 行っているもの、
 遂行しているもの

そんな感じにとらえていただければ、
と、思います。


ところで、
津留さんは、
エネルギーブロックのことを、

特に、そのうち、
 『価値観』『固定観念』『想い癖』
といったもののことを、だと思いますが、

まさに、それは、
 「『プログラム』だ」
と、
言っていました。

そして、
それが、
 「自動的に立ち上がって、
  自動的に走り出す」
んですね。

 「自動作動『プログラム』」
なんですね。


例えば、
先の例、
 「とがめる」
でいうと、

何か、
自分が『問題だ』と認識する出来事に出会ったとき、

それは、
 「誰々が、あんなことをしたから、こうなったんだ!」
と、
まず、他人を責め、とがめ、

そして、その後、
その、他人をとがめてしまったことに気づき、
そして、
 「あぁ、自分は、また、人を批判してしまった ...
  そんな『想い』こそが、こんな現実を創っているんだ ... 」
と言って、
自分を責め、とがめてしまいます。

そんなこと、ありますよね?

そんなとき、
自分が、
 「そのように『考える』『思う』『感じる』ようにする」
『プログラム』が、
自分の中で、
自動的に、
動き出しているんですね。

そのとき、
自分に、
 「そのように『考えさせる』『思わせる』『感じさせる』」
『プログラム』が、
自動的に、
立ち上がって、
自動的に、
走り出しているんですね。

このように、
『エネルギーブロック』は、
自分の「考え」、「想い」、「頭での理解」、「意志」、
といったものとは関係なく、

『自動的に』『反射的に』、
スッ と立ち上がって、
サッ と動き出す・走り出すんですね。

だから、
普段、
 「気がついたときには、もう、」
そのように思ったり、考えたり、感じたり、
ということを、
 「すでに」
してしまっているんですね。


さて、
さきほど、
 「アファメーションも、『プログラム』だ」
って、言いました。

先の例でいうと、

 「もう、とがめない」
っていう、アファメーションは、

 「他人を、自分を、『とがめる』」
プログラムが、
自動的に立ち上がり、走り出したときに、

 それに、いち早く気づき、
 そして、
 そのプログラムを、止める

という、作業をする『プログラム』
です。

そして、
 「アファメーションが、
  しっかりと、自分のものになるまで、身に付くまで、
  何度も、何度も、唱える」
というのは、

自分の中に、
そのアファメーションを、
 『インストールする』
ということに、当たります。

 何度も、何度も、唱えて、
 自分の中に、インストールして、
 そして、
 自分の中の、あるプログラムが、立ち上がり、走り出したときに、
 それに気づき、それを止める

ということを、
意図的に、
しているんですね。


なので、
アファメーションが、しっかりと、身に付けば、
つまり、
ちゃんと、インストールできれば、

 「とがめる」
という行為は、
 「止める」「ストップさせる」
ことができます。

つまり、
 「とがめなくなる」
ことができます。

ところが、
これ、
たしかに、
 「とがめなくなって『は』いる」
んですが、

厳密に見てみると、
はじめ、一瞬、
やはり
 「とがめている」
んですね。

別の言い方でいうと、
 「『とがめる』プログラム」
が、立ち上がって、走り出した、その瞬間に、
 「『とがめない』プログラム(アファメーション)」
が、立ち上がって、
先の、「『とがめる』プログラム」を、止めてるんですね。

なので、
 「とがめる」プログラム
は、存在したままで、
かつ、
それは、まだ、動いているんですね。

 まだ存在し、かつ、動き出すプログラムを、
 別のプログラムで、止めている
という、状態です。

いわば、
 「応急処置」
 「対処療法」
と言えます。


それに対して、
 『浄化』
がすることは、
 「根本治療」
です。

プログラムの例でいえば、
それは、
 『アンインストール(デインストール)』
に、当たります。

浄化でするのは、
 「プログラムそのものを、削除すること」
です。

なので、
浄化をすれば、
 「『とがめる』プログラム」が動き出す
ということ、
そのものが、なくなります。


『アファメーション』による方法では、
プログラムが動いていますので、
ちゃんと、機能させるためには、
『意識』を、そこに向けてあげる必要があります。

この、
「意図的にインストールしたプログラム」
(この場合は、「『とがめない』プログラム」)は、

しっかりと身に付けば、
 「『ほぼ』自動的」
に、立ち上がって、動き出しますが、

ただ、
自分の経験的には、
『完全に』、自動で動く状態にすることはできませんでしたので、
やはり、
自分の『意識』を向けて、
自分で、プログラムを動かす必要があると思います。

「『とがめない』プログラム」をインストールした後は、
「『とがめる』プログラム」が動き出したとき、
比較的すぐに、それに気づけますが、

でも、
毎回、確実に、気づけるわけではないし、

気づいた場合にも、
自分の意識を向けてあげて、
ちゃんと、
 「『とがめない』プログラム」を作動させてあげる
必要があるように感じます、
僕の体験では。

対して、
『浄化』の場合には、
プログラムが、動いていませんので、
それに、意識を向けたりする必要が、ありません
(というか、プログラムそのものが、存在していないわけですが)。


では、
なぜ、
津留さんは、アファメーションを、推奨していたのでしょう?

これは、
僕の、個人的な見解であることを、
先にお断りしておきますが、

『浄化』によって、
 「『とがめる』ことを、止める」
には、

結構、
いろいろな、多数の『ブロック』を、
浄化しないといけないと思いますし
(なので、僕も、まだまだ、「とがめ癖」が、
 治まらないんですが ... ^^; )、

それに、
浄化をはじめたばかりでのケースだと、
そもそも、浄化そのものが、
まだ、上手くいかなかったりして、

どちらにせよ、
結構、時間がかかってしまうと思うんですね。

なので、
 「とりあえず」、
 「応急処置、対処療法であっても」、
まず、
「とがめる」ということを、収めるために、
アファメーションを活用することは、
とても有効だからだ、
だと、思います。

最初に言いましたとおり、
「とがめている」と、
何より、
『痛み』が激しいですし、

グルグル、グルグルとした、
 「思考の、堂々巡り」
 「思考の、無限循環」
が、なかなか、止まらないので、

 「そこから、離れよう」
とか、
ましてや、
 「浄化をしよう」
とか、
そういうところに、
なかなか、意識が向かわないと思います。

そういう意味で、
 「まず、とにかく、『とがめ』を押さえる」
ということが、
とても有効で、とても大切なんだ、
と思います。


また、
これも、先に言いましたが、

こういう、
『エネルギーブロック』は、
まさに、
 『プログラム』
で、

何か、条件づけられた事柄を、
見たり、聞いたり、あるいは、思い出すと、

そのプログラムは、
反射的に、自動的に、
立ち上がり、
そして、
走り出します。
動き出します。

そして、
そんなプログラムが、
いっぱい、
走っているんですね、
いつも、いつも ...

なので、
パソコンでいえば、
パソコンそのものが、
とっても重くなっていて、

いざ、
必要な作業をしようとしても、
重くて、重くて、
動作が、処理が、
とっても遅いんですね。

あるいは、
もう、パソコン自体が、
『フリーズ』してしまって、
作業そのものが、できないかもしれません。

なので、
それが『応急処置』であったとしても、
とにかく、まず、プログラムを止めることは、
やはり、大切ですよね。


ただ、
やはり、

そこで、
本当に、
必要なこと、というのは、

止められるプログラムを、
一つずつ、
停止し、

そして、
その、不要なプログラムを、
一つ一つ、
削除(アンインストール)していくことだと思います。

 「新しい、
  無用なプログラムが動いていないパソコンが、
  どれだけ早く動くか」

パソコンの買い換えを、
なさったことのある方は、
よく、ご存知だと思います。
よく、実感されていることと思います。

 「そんなパソコンが、
  いま、ここで、
  本当になすべき、大切な作業を、
  どれだけ早く、正確に、
  行えるか」

そんなことが、
容易に、
想像できることと思います。


『パソコン』そのものは、
はじめから、
もう、驚くべき、驚嘆すべき性能を、持っているのです。

問題は、
 「パソコンという『ハードウェア』」
では、ないのです。

問題は、
ただ、
旧い、もう「不要」となった『プログラム』が、
いっぱい、いっぱい、
削除されないまま、残されていて、

それらが、
いまだに、自動作動してしまっているために、
パソコンが、重くなってしまっていて、
メモリが、そんなプログラムに占領されてしまっていて、

必要な、
いま、ここで、処理すべき『演算』を、
遂行できなくなってしまっている、
というだけのことなのです。

すべきことは、
ただ一つ。

 不要な『プログラム』を見つけ出し、
 そして、
 それを『アンインストール(削除)』する

ただ、それだけなのです。