2014年9月20日土曜日
『ドラマ』『カルマ』継続の源と、その終焉
M2は、
手や身体の動きをともなった、
浄化方法・テクニックです。
胸のところにやって来た、集まった、集めた、
エネルギー(ブロック)を、
手を前に出す動きによって、
身体から引き出してあげて、
そして、
それを、また、
自分の胸におさめます。
この、一連の動作によって、
「何をしているのか」
について、
津留さんは、
僕が知っているだけで、
3種類の、説明をしていました。
ここで、
はじめに、申し上げますが、
では、そこで、
「一体、何をしているのか?」
については、
特に興味がなければ、
理解なさる必要は、ありません。
理解していなければ、
M2が使えないわけでは、ありません。
これは、津留さんも言っていましたが、
「テレビの仕組み・構造を理解できなければ、
テレビが観られないわけではありません」
よね。
パソコンの中身が、どうなっているのか
どんな部品を使っていて、それらが、どういう機能を果たしていて
そして、それらが、どう繋ぎ合わされて ...
それが分からなければ、
パソコンを使って、ネットを見たり、メールを送ったり、
そういったことができないわけでは、ありませんよね。
ただ、
分かって、そして、納得すれば、
より、信頼して、納得して、
M2を使った浄化をしていただけるので、
普段、ご説明しています。
「なんだか、よく分からんことを、するんだなぁ」
「そんなことで、『浄化』できるのか?」
と思われてしまって、
M2を、お使いいただけないのは、
津留さんも言っているとおり、
せっかくの、便利で強力なツールなのに、
あまりにも、もったいないので、
ご説明しています。
それから、
「『3種類の説明』って、じゃあ、どれが、本当なの?」
「どの説明が、正しいの?」
「本には、こう書いてあるけど、どっちが正しいの?」
と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、
それは、
このブログでも、何度かお伝えしていますが、
「『どちらか』、ではなく、『どちらも』」
です。
津留さんにとっては、
「もし、説明するならば、こう、説明できる」
という、
説明の仕方が、
ただ、何通りもあった、というだけのことで、
それは、
「こちらから、こう見れば、こう説明できるし、
あちらから、こう見れば、こう説明できる」
ということです。
実際、
それら、何通りかの説明は、
みな、実のところは、
同じことを、言っています。
なので、
「どれが、どの説明が ... 」
ということについては、
こだわらず、とらわれず、
お願いします ^^ 。
さて、
そんな、
「M2で、何をしているのか」
についての説明で、
最近、僕が、気に入っていて、
実際に、M2をするときには、
そんなイメージでしてる、
という説明があります。
それは、
「『小我』としての自分が、エネルギーを取り出し、
『大我』としての自分が、それを納める」
という、説明・理解です。
「内杉式M2」では、
『小我』が、
胸から引き出したエネルギーを、
宇宙の果てに向かって、投げ放ち、
有限な宇宙の、外側にいる『大我』が、
手を伸ばして、それらを受け止め、
そして、それを、自らの中心に納めます。
「津留式M2」では、
『小我』が、
胸からエネルギーを
腕が伸びきるところまで引き出します。
そこで、
動きを止め、息を止めます。
そのとき、
『小我』と『大我』が、入れ替わります。
そして、
『大我』としての自分が、
やはり、それを、
自分の中心に、納めます。
内杉式、津留式、どちらでも、
そこでしているのは、
『小我』が、エネルギーを取り出し、
『大我』が、それを納めます。
『小我』が、
「もう、このエネルギーを、手放します」
「もう、このエネルギーから、卒業します」
と、
自らの決意のもと、
自分の中から、そのエネルギーを取り出し、
『大我』が、
それを受け取り、引き受け、
自らの中心に、納め入れます。
この説明・理解を、
最近、僕が気に入っている理由は、
一つには、
内杉式でも、津留式でも、
まったく同じことをしている
と、
しっかりと理解できる点です。
もう一つには、
『小我』が、決断し、手放したものを、
『大我』が受け取り、納め、そして、終わらせる
と、解釈している点です。
つまり、
そのエネルギーに関する、『カルマ』の連鎖・循環が、終わる
ということを、
しっかりと理解できる点です。
うまくお伝えできるように、
反対側から、話を進めることにします。
普段、私たちは、
地球上で、人間として、
『ドラマ』を演じ、
その中に、どっぷりと、浸かりきっています。
『ドラマ』 ...
人間ドラマ、感情ドラマ、感情のぶつけ合い、感情の応酬、など、
言葉としては、表現としては、いろいろとありますが、
そんな、
「人間として、感情を、出し合い、ぶつけ合う、やり取り」
「人間として、想いを、渡し合い、受け取り合う、やり取り」
に、
普段の、私たちは、無意識のまま、浸かりきっていて、
それらのことに、
その強さに、激しさに、辛さに、重さに、苦しさに、そして、しつこさに、
圧倒されてしまって、とらわれてしまって、埋没してしまっています。
また、
場合によっては、人によっては、
ぶつけられた感情を、
あるいは、
渡された価値観や規範、観念、想念を、
出すこと無く、一方的に受け止め、受け入れ、
それらを、自らの中に溜め込み、
それゆえに、それらから受ける影響に、
苦しみ、押しつぶされ、もがいておいでです。
いずれにせよ、
私たちは、これまで、
そのような『ドラマ』によって生じた感情や想いや、
それらにまつわる、様々な苦しみや悲しみといった想いを、
手放さず、いえ、手放せず、溜め込んできました。
私たちは、
もう、充分に、十二分に、
「どうしたらいいのか」
を、
『頭』で、理解しています。
「スピリチュアル」と呼ばれる分野には、
「どうしたら、いいのか」
「どうなったら、いいのか」
に関する情報が、満ちあふれていますので、
『頭』では、
もう哀しくなるくらいに、理解しています。
そして、
「感情に流されるのは、感情で反応するのは、止めよう」
「感情を投げ返すのは、止めよう」
「『愛』で居よう。『愛』で行動しよう」
「エゴではなく、『真我』で居よう。『大我』として行動しよう」
「思考に走らず、『意識的』で居よう」
そう、決意しています、
『頭』では。
強く、強く。
もう、何度も、何度も ...
でも、どうしても、
そうは、できません。
「そう、したい」
という、強い強い、切ないほどの、想いとは裏腹に、
「どうしても、そうできない。そうでは居られない」
自分が、居ます。
何かがあると、
『自動的』に、『反応』してしまう、自分が居ます。
怒りをぶつけられると、
怒りをぶつけ返さずにはいられない、自分が居ます。
何か指摘を受けると、
言い返さずにはいられない、自分が居ます。
不機嫌そうな人の顔を見ると、
「なんでそんな ... 」と、イライラせずにはいられない、自分が居ます。
幸せそうな人たちを見ると、
「それに比べて、私は ... 」と、落ち込まずにはいられない、自分が居ます。
それらの反応は、
すべて、『自動的』です。
そして、『強力』です。
その反応が起きることを、止められないし、
その反応が起きたことに、なかなか気づけないし、
気づいた後も、なかなか止められません。
そうやって、
私たちは、みな、行動してきました、
まるで、『自動反応ロボット』のように ...
その結果、
私たちは、『ドラマ』を演じてきたのです、
まるで、
『ロボット』と『ロボット』が、
地球という『舞台』で、『演劇』をしているかのように ...
そのとき、
そのロボットを『動かしていたもの』、
ロボットの中の、
『プログラム』と『動力源』こそが、
『エネルギーブロック』なのです。
『エネルギーブロック』こそが、
自分を自動反応させ、
自分を操り、
そして、自分を行動させていたのです。
そして、
その結果、
わたしたちは、
この『ドラマ』を、演じ続けてきたのです。
演じ合い続けてきたのです。
すなわち、
『エネルギーブロック』こそが、
この『ドラマ』を、『上演』させてきたのです。
あるいは、
その結果、
私たちは、『カルマ』を連鎖させてきたのです。
連鎖させ続けてきたのです。
循環させ続けてきたのです。
そのとき、
ロボットを『自動反応』させ、
カルマの連鎖を続けさせてきた『エネルギー源』こそが、
『エネルギーブロック』なのです。
すなわち、
『エネルギーブロック』こそが、
この『カルマ』を、連鎖・循環させてきたのです。
いま、
あなたが、
一つのエネルギーブロックを浄化すると、
そのエネルギーブロックは、
消滅していきます。
そのとき、
あなたは、
そのブロックに関することに、
自動反応しなくなります。
そして、行動しなくなります。
自動反応しなくなったあなたは、
状況を、ただ、冷静に、見ていられます。
何も感じることが無いので、
湧き上がる感情が無いので、
ただ、そのまま、見ていることができます。
何もやり返さず、何も行動せず、
ただ、見ていることができます。
相手に、状況に、
そのまま、やりたいことを、やらせてあげることができます。
やり返されず、
かつ、やりたいままにできた相手は、状況は、
そのことへのこだわり、とらわれが消え、
そして、立ち去ることでしょう。
過ぎ去っていくことでしょう。
こうして、
「やり取り」が、「応酬」が、
終わります。
『ドラマ』が、終演します。
つまり、
「浄化をする」
ということは、
「ロボットとしての自動反応を終わらせる」
ということです。
それは、すなわち、
あなたは、
ロボットとして、演じることを、止める、
ということ、
そのことに関して、
ロボットとして、上演し続けてきたドラマを、終演させる、
ということです。
これまで、
繰り返し、繰り返し、
上演されてきたドラマを、
代々、延々と、
ロングラン公演してきたドラマを、
一つ、一つ、終演させる、
ということです。
言葉を変えれば、
そのことに関して、
延々と繰り返してきた、
カルマの連鎖を、断ち切り、終わらせる、
ということです。
これまで、
「与え、受け取る」
を繰り返し、
延々と繰り返し、循環してきた、
それらの往来を、収束させる、
ということです。
カルマの循環を、終息させる、
ということです。
「神が、
神ならざるものを体験したくて、
人間となるため、人間らしらを極めるために、
ドラマを演じて、感情を感じ、感じさせる」
という体験を、してきました。
その結果、
ついに、『人間』を極めた、
私たち人類は、
「もういい。もう充分に、体験した」
「もう、十二分に、演じ切った」
と、
感じているところです。
そして、
これまで上演してきた、ドラマの公演を、
一つ、一つ、
終演させているところです。
そうして、
神に還っていくところです。
「浄化をする」
ということは、
「その、ドラマの台本を閉じ、舞台の幕を閉じる」
ということです。
こうして、
地球上のドラマは、
一つ、一つ、
終演していき、
カルマの連鎖は、
一つ、一つ、
終焉していきます。
「浄化をする」
ということは、
「その、終焉させる行為、まさにそのもの」
なのです。
それを、
あなたが、
あなたの決断によって、
行うのです。
あなたが、
浄化することによって、
あなたが、
これまで、人類として、延々と繰り返してきたストーリーを、
終了させるのです。
これまで、
地球上で、連綿と受け継がれてきた、繰り返されてきた、
『カルマ』の連鎖を、循環を、
あなたが、
終焉させるのです。
ドラマから離れ、
ドラマの苦しさから離れるには、
カルマを終わらせ、
カルマの連鎖を断ち切るには、
ただ、
その元となっているエネルギーを、
手放せばいいのです。
解放すればいいのです。
そのために、
M2では、
小我としての自分が、
そのように決意し、そして手放し、
大我としての自分が、
それを受け止め、納め、
そして、
終息させています。