2016年2月10日水曜日

『どちらも』ということ(『観自在』について)


いま、あなたは、
椅子に座っています
(座っている、とします ^^ )。

椅子に座って、じっとしています。

そのとき、
 あなたは、動いていますか?

停止しています、よね。
止まっています、よね。

ところが、
あなたが停まっている、
その地面は、

(日本付近においては)
時速約1,400kmの速さで、
地軸に対して、回転しています。

また、その地球そのものが、
太陽に対して、時速約10万7,280kmの速さで、
回転して、動いています。

このとき、
 あなたは、動いていますか?
それとも、
 止まっていますか?


このブログでは、これまでにも、何度か、
津留さんが、
 「この世界は、『どちらか』ではなく、『どちらも』だ」
と、言っていたことを、
お伝えしてきました

(たとえば、過去記事「バランス」をご覧ください)。

また、前回の記事では、
  「『自分』が、している」
 と同時に、
  「『集合意識』が、している」
ということについて、
書きました

(よろしければ、前稿「『想い』の源」をご覧ください)。

そこで、
今回は、改めて、『どちらも』、ということについて、
書かせていただければと、思いますが、

それに当たって、まず、
そもそも、
 『どちらも』
というのが、どういう意味なのか、について、
個人的に、とても分かりやすい、と、思っている事例を、
ご紹介いたしました。

で、
このように、具体的に、言われてみれば、

事例によっては、
『どちらも』ということの意味、意味そのものは、
さほど、難しいこと・分かりにくいこと、ではなく、
割に、シンプルで、イメージがつかみやすいこと、
なのではないかと、思います。

わたしたちは、
 「止まって」いると同時に「動いて」
います。

どちらも、同時に、成立しています。

『どちらも』です。

『どちらも』というのは、
たとえば、こういうことなのです。


では、なぜ、
わたしたちは、ふだん、
『どちらも』ではなく、『どちらか』と、
認識・判断しがちなのでしょうか?

ひとつには、
先の記事にも書きましたが、

これまで、わたしたちの社会は、社会システムとして、
 「正解は、1つ」
という認識に基づいて、活動してきたからです。

表現を換えれば、
これまで、わたしたちは、社会全体として、
 「正解は、1つ」
という『体験』を、してきたからです。

なので、
わたしたちは、
『どちらか』であると、習慣づいています。

わたしたちの脳・思考は、
『どちらか』であると、考えがち・判断しがちです。


もうひとつには、
こう、言えるかもしれません。

わたしたちが、
 『どちらか』
と、感じるときには、認識するときには、

わたしたちは、
その対象を、ある「基準」から、見ています。

わたしたちが、
 「動いているか、いないか」
を、認識・判断するときには、

わたしたちは、
 「対象物が、今いる位置から、周辺に対して、
  位置移動しているか、いないか」
で、認識・判断しています。

つまり、
 「周辺に対する、現在位置」
を、「基準点」とし、
 「その基準点から、物理的に、位置移動しているか、いないか」
で、認識・判断しています。

 「椅子に座っている自分が、動いているか?」
という例でいえば、

 「周りに存在するモノに対する、いま居る位置」
を、基準点とすれば、
あるいは、
 「地球表面に対する、いま居る位置」
を、基準点とすれば、
わたしは、動いていません。

ところが、
 「地軸に対する、いま居る位置」
 「太陽に対する、いま居る位置」
というものを、基準点をすれば、
わたしたちは、どの瞬間においても、
猛烈なスピードで、動き続けています。

つまり、
どのような認識も、判断も、
そのベースには、必ず、
前提となる「基準」が、存在しています。

それを、意識していようと、していなかろうと、
わたしたちの認識や、判断には、
必ず、
「基準」が、「ものさし」が、
前提として、存在しています。

ところが、
ほとんどの場合、
わたしたちは、
 「基準」「ものさし」を基に、判断・認識している
ということを、意識できていないし、

また、わたしたちは、
ほとんどの事項に関して、
そのような「基準」「ものさし」を、
無意識のうちに、持っている・内包している・握りしめいている、
ということを、認識できていません。
気づけていません。

あるいは、
認識できていたとしても、
気づけていたとしても、
それを、外せません。
捨て去れません。
手放せません。

だから、
どうしても、
片方からしか、見ることができないのです。

だから、
どうしても、
『どちらか』としか、認識できないのです。
感じられないのです。
体感できないのです。
納得できないのです。
腑に落ちないのです。

ちなみに、ですが、

そのような「基準」「ものさし」を、
「価値観」「固定観念」「社会通念」を、
自ら、手放し、取り外していく行為が、

 『浄化』
に、なります。

なので、
『浄化』を進めていただくと、
自然と、
『どちらも』ということが、どういう意味なのか、
分かってくるとともに、

『どちらも』と、
感じられるようになってきます。


さて、ここで、
もう一つ、事例を、出しましょう。

いま、あなたは、
椅子に座っています
(再び、座っているとします ^^; )。

いま、
 あなたは、いますか?

もちろん、
あなたは、いますよね。
存在しています。
存在して、椅子に座っています。

ここで、視点を、
ぐ〜〜っと、高く高く、上げてみてください。

下の写真の位置にまで、
高く高く、上げてみてください。

ここに、
 あなたは、いますか?

 あなたは、いませんか?

あるいは、
 そこにあるのは、地球そのもの
では、ありませんか?


NASA Earth Observatory


 津留さんや、他の覚者が、
 「『他人』は、居ない」
 とか、
 「すべては、一つ」
 とか、
 「『あなた』は、『神』である」
 と、よく言うけれども、
 
 その意味が、
 どうしても、分からない。
 そう、感じられない。
 腑に落ちない。

という感想を、お悩みを、
よく、耳にします。

僕自身、ずっと、そうだったので
(いまだって、そうなのですが ^^; )、
そのお気持ち、おっしゃっている意味は、よく分かります。

で、
そう、思われていらっしゃる方は、
どうぞ、
たとえば、この写真のような視点から、眺めて、

『自分』とか、『他人』とか、『人類』とか、『地球』とか、
そのようものについて、考えてみてください。

そうしてみると、
この視点から、見てみると、

『自分』とか、『他人』とか、
その、区別も、違いも、分離も、無くありませんか?

そして、
この視点から、見てみると、

わたしたちは、
 「わたし」であると同時に「地球そのもの」 
では、ありませんか?

 「個人・部分」であると同時に「全体そのもの」
では、ありませんか?

津留さんや、覚者たちは、
 「この視点から、
  『自分』や、『他人』『人類』を、見ている」
のです。

あるいは、
 「この視点から『も』、見えている」
のです。


先ほどは、
 ある特定の「基準」「ものさし」を持っているから、
 『どちらか』、としか、認識できない
という話を、しました。

これを、今度の事例に即して、
別の表現で、こうも、表すことが、できるでしょう。

 わたしたちは、
 ある特定の「視点」からのみ、見ているから、
 『どちらか』、としか、認識できない
と。

あるいは、
こう、表すことが、できましょう。

 わたしたちは、
 「視点」が、固定されているから、
 『どちらか』、としか、認識できない
と。

「視点」が、一点に、固定されているので、
ある一つの「見方」しか、見られないのです。

ある一つの「見え方」にしか、見えないのです。

常に、「こう」としか、感じられないのです。

「視点」が、
 「『自分』の目」の位置
に、固定されているのです。

 「この肉体としての『自分』の目」
からしか、見られていないのです。

だから、
いつも、同じようにしか、見られないし、
同じようにしか、感じられないのです。
認識できないのです。

この「視点」を、
移動させることが、できていないのです。


ところが、
この「視点」を、

たとえば、まず、
「水平方向」に動かすことができれば、

たとえば、
「『自分』の目」の位置から、
「『彼』の目」の位置に、動かすことができれば、

そうすれば、
『彼』の見え方が、見えるようになってきます。

そうすれば、
『彼』の感じ方が、感じられるようになってきます。

そうすれば、
『彼』のことが、理解できるようになってきます。
『彼』に、共感することができるようになってきます。

そして、
『彼』のことを、許せるようになってきます。

これまで、
 「どうして、いつも、そうなの?」
 「こうしてくれないなんて、信じられない!」
 「あんなことするなんて、許せない ... 」

そう、思っていた、『彼』のことが、
徐々に、理解できるように、なってきます。
共感できるように、なってきます。
許せるように、なってきます。

こうして、
「理解」し、「赦し」、「共感」できた、
『彼』のことは、

まるで、『自分』のように、
感じることができるように、なってきます。

『彼』と『自分』を合わせた、
それを、『自分』と、
新たに、感じられるように、なってきます。

『自分』が、広がります。

こうして、
「理解」し、「赦し」、「共感」できた部分を、
『自分』のように、感じられるように、なってきます。

「視点」を動かせる範囲が、広がれば広がるほど、
「理解」「赦し」「共感」できる部分が、増え、
『自分』と感じられる範囲が、広くなってきます。

『自分』が、広くなってきます。
『自分』が、大きくなってきます。

『他人』が、少なくなってきます。
『他人』が、小さくなってきます。


つづいて、
この「視点」を、
今度は、「垂直方向」に動かすことができれば、

さきほど、
「地球全体」を、目にしていたときのように、

これまでは、
 『わたし』と、『彼』
 『自分』と、『他人』
と、
分かれていた、分離していた、存在そのものが、

そもそも、存在として、
一つのものに、見えてきます、感じられてきます。

『分離』が、
「ある、限定された視点」からの、
ひとつの、見え方に過ぎなかったことが、
分かってきます。

『分離』が、
いわば、幻想であったことが、

分かるように、なってきます。
感じられるように、なってきます。

こうすると、

もともと、一つであった、すべてであった『神』そのものが、
分離して、分割して、『人間』となった、その果てに、

今度は、
再び、
結合し、融合し、統合して、
元の『一つ』に、戻っていきます。

『神』に、還って行きます。


このように、
自分の視点を、
水平方向、垂直方向に、
自在に、動かすことができれば、

あらゆる「立場」から、
物事を見ることが、できるようになり、

あらゆる「立場」から、
物事を理解することが、できるようになり、

あらゆる「立場」から、
物事を感じることが、できるようになってきます。

すべてが、自分になります。
対立が、無くなります。

すべてが、見えてきます。
すべてが、感じられてきます。

『自分』『個』『エゴ』からの、
離脱です。

そうなれば、
『苦しみ』『葛藤』『悩み』『恐れ』から、
離れることができます。

解脱です。

これが、
 『観自在』
と、一般に、表現されていることだと、
僕自身は、理解しています。


このことを、逆に見れば、

わたしたちが、
『苦しみ』や『悲しみ』、『恐れ』『不安』に、
苛(さいな)まれているのは、

わたしたちが、
自在に観ることが、できていないからです。

視点を、
自在に、動かすことが、できていないからです。

「『自分』の目」の位置から、
動かすことが、できていないからです。

「『自分』の目」の位置に、
視点が、固定されてしまっているからです。


では、
なぜ、「『自分』の目」の位置に、固定されているのでしょう?

それは、
「『自分』の目」の位置から見える、画像が、
あまりに、リアリティーが、有り過ぎるのです。

そして、
そのリアリティーは、

「『自分』の肉体」が感じる『感覚』が、
あまりに、強く、大きく、激しいことに、
由来しています。

『自分』の感じる「痛み」が、
『怖さ』が、『不安』が、『悲しみ』が、『辛さ』が、
あまりにも、強く、激しく、くっきりとしているので、

「『自分』の肉体」の存在感が、
あまりに、「リアル」に、感じられてしまうのです。

だから、
その、「『自分』の肉体の目」の位置に、
吸引されてしまうのです。

「『自分』の肉体の目から見える、画像に、
引き寄せられ、捕らえられてしまうのです。

また、
その、「『自分』の肉体」が感じる『感覚』が、
途切れること無く、ひっきりなしに、
やって来ているから、

どうしても、
絶えず、「『自分』の肉体」に、引きつけられ続けて、
そこから、離れられないのです。

さらには、
それらの感覚の強さ、激しさ、故、

 「『自分』の肉体を、守らなくては」
 「これ以上、『自分』の肉体が、痛まないようにしたい」
との想いが、自然、湧き、

「『自分』の肉体の目」の位置に、
積極的に、居て、監視をして、

 「『外の世界』から、『自分』を守ろう」
 「『外』から、これ以上、傷つけられないように」
と、します。

『自分』と、『外』とを、
さらに、分離させていってしまいます。

ますます、
『外』から離れて、『自分』を守るために、
『外』を、『外』側へと、押し離し、押し退け、
『自分』と『外』とを、離していき、

その「反作用」で、
ますます、意識が、『自分』方向に、入り込んでいきます。

『自分』から、離れられなくなってしまいます。
『自分』に、固定されてしまいます。

『意識』は広がらず、拡大せず、
『意識』は、縮こまり、収縮していきます。

これが、
「肉体の『自分』」から、
「視点」が離れられない、理由です。

水平方向に、垂直方向に、
動かせない、理由です。


『観自在』に、近づくためには、
『観自在』の方向に、向かうためには、

したがって、
『自分』が感じる『感覚』、
『自分』が感じる「痛み」を、
『怖さ』を、『不安』を、『悲しみ』を、『辛さ』を、
無くしていくこと、少なくしていくこと、
それを、進めて行くことです。

そして、
これもまた、
『浄化』が、行っていることです。

『浄化』で、行うことです。

ご自分が、感じておられる、ネガティブな感覚、
『怖さ』を、『不安』を、『悲しみ』を、『辛さ』を、
その「痛み」を、

どうぞ、
ただ、そのまま、
手放してください。
解放してください。

M2で、
宇宙の源に、送り返してください。

行えば、行うほど、
『自分』が感じる、ネガティブな感覚が、
減っていくことでしょう。

それによって、

「これまでの『自分』」が、
揺らぎ、震え、崩れ、溶け、

「新たな自分」が、
浸み広がって行きます。

ご自分の『視点』の、活動域が、
これまでにはなかった、拡大をみせ、

ご自分の『視点』が、
これまでとは違って、
飛び跳ね回る体験を、なさることでしょう。