前稿 と同じ、この写真から、
話を、始めましょう。
NASA Earth Observatory
わたしたちは、
そもそも、
この写真のように、
『地球全体』を、見ていました
(その前には、
『宇宙全体』を、見ていたことでしょう)。
その高さから見ていると、
遠くて、よく見ることができず、
また、垂直方向にしか、見ることができない、
「地表」の様子を、
至近距離から、
水平方向に、
見てみたくなりました。
その高さから見ていると、
『一体』にしか、見えず、
実感することのできない、
『分離』している状態を、
体感してみたくなりました。
「ここから見ていると、
『一つの地球』にしか、見えないのに、
『彼』と『彼女』が、けんかをしたり、
『親』と『子』が、憎しみあったり、
『国』と『国』が、殺し合ったり ...
あれは、いったい、どういうことなのだろう?
あれは、いったい、どういう『感覚』なんだろう?
そもそも、『肉体』を持つ、って、どんな『感覚』なんだろう?
ぜひ、『体験』『体感』してみたい!」
そこで、
その、高い位置から、
地表の、低い位置にまで、
降りて行くことに、決めました。
元々、高い位置に居たため、
低い位置に、行くためには、
「降りる」必要があります。
「下がる」必要があります。
そのためには、
『錘(おもり)』が、必要です。
『おもり』によって、
下へ行く必要が、あります。
そこで、
わたしたちは、
身体に、手に、
『おもり』を、縛り付け、握り締め、
そして、
「地表」まで、降りて来ました。
「地表」まで、降りて来た、
わたしたちは、
見事、念願の、
『人間』に、成りました。
『人間』となり、
願望であった、『分離』を、
余すこと無く、『体験』しました。
「『肉体』というのは、
こんなにも、重く、苦しく、痛く、
こんなにも、制約のあるものなのか」
「『他人』というのは、
なんとも、思いどおりに、ならないものだなぁ」
「そんな『他人』に、気持ちが通じ、好きになってもらえると、
こんなにも、高揚するものなのか!」
「でも、大好きな『相手』なのに、
大好き故に、こんなことを、してしまうのか ... 」
「大好きな『他人』から嫌われてしまうと、
こんなにも、絶望するものなのか ... 」
「誰にも、相手にされないというのは、
誰にも、分かってもらえないというのは、
誰にも、認めてもらえない、受け入れてもらえないというのは、
なんと、孤独で、寂しく、空しく、心細いものなのだ ... 」
「これは、『自分のモノ』だぞ。
それを、勝手に使うなんて、許せない!」
「ここは、『わたしたちの土地』だ。
『おまえたち』は、出て行け!
さもなければ、殺すぞ!!」
「『おまえたち』の信じていることは、間違っている。
正しいのは、『われわれ』だ」
そんな『分離』を、
分離故の『対立』を、
分離故の『矛盾』を、『葛藤』を、
分離故の『孤独』を、『虚無』を、
分離故の『陰』を、『闇』を、
わたしたちは、
もう、これまでに、
散々、味わい、体験してきました。
もう、
望みは、叶いました。
写真の位置から、眺めていたときに、
想い、切望した、望みは、
もう、充分に、十二分に、
達成されました。
『人類』としては、
「もう十分」と、感じました。
ですから、
個人としても、「もう十分」と、感じた人は、
そう、感じた人から、
元の位置に、
『全体』を見渡す「視点」の位置に、
戻ることができます。
戻れば、いいのです。
ただ、
戻れば、いいのです。
『還る』のです。
「行く」のでは、ありません。
『冒険』に、
旅立つわけでは、ありません。
『冒険』から、帰るのです。
帰還するのです。
「今」が、
『冒険』の、最中なのです。
念願叶って、始めた、
アドベンチャーの、
平和で、至福に満ちあふれていたときに、
恋い焦がれていた、
危険極まりない、アドベンチャーの、
「今」こそが、最中なのです。
でも、
「もう、十分、味わった」
のなら、
「もう、さすがに、疲れた」
のなら、
もう、『冒険』は、終わりにして、
元の位置に、帰っていけば、いいのです。
帰るために、すべきことは、
ただ、一つ。
『おもり』を、
外すことです。
『おもり』を、
手放すことです。
『下がる』『降りる』『往く』ために、
身に付けた、握り締めた、『おもり』ですから、
『上がる』『還る』ときには、
ただ、その『おもり』を、
身体から、外せばいいのです。
握り締めた拳を、
ただ、開けばいいのです。
『おもり』は、
自然、身体から離れて行き、
わたしたちは、
元の位置に向かって、浮上していくことでしょう。
「フリーダイビング」
という、競技・スポーツが、ありますね。
ジャック・マイヨール氏や、
映画『グラン・ブルー』などで、おなじみですが、
「どれだけ、深く、潜れるか」を競う、
素潜りの、競技です。
地上で、大気に包まれて、
生まれ、育った、わたしたちは、
海中が、深海が、
どんな場所なのか、
見てみたい、体験してみたい、衝動を、
どこかしら、内包しています。
とても多くの人々が、
シュノーケリングや、スキューバダイビングを含め、
「海」を楽しみ、
「海」に、潜ります。
海に潜るために、
わたしたちは、
身体に、「錘(おもり)」を付けます。
そもそもの、わたしたちは、
地上の、水の上の、生き物で、
そのままでは、
浮いてしまいます。
そこで、
潜るためには、
下へ下がる力を、加える必要があります。
おもりがあって、はじめて、
水中深く、潜ることができます。
希望どおり、おもりを手に入れて、身に付けて、
はじめて、念願叶って、
海の中を、深く、深く、潜ることができます。
潜れば潜るほど、
闇は、深まり、
水圧は、厳しくなります。
孤独は、深まり、
呼吸も、苦しくなります。
そこは、未知の世界。
一寸先が、見えない、分からない、世界。
見慣れない、奇怪な生物にも、遭遇しかねません。
でも、
そこでこそ、はじめて、
見えるものが、あります。
知ることができることが、あります。
体感できることが、あります。
それをこそ、
見たくて、知りたくて、感じたくて、
潜ってきました。
しかし、
そんな冒険も、チャレンジも、
「もう、十分」
と、感じられたなら、
あとは、
ただ、浮かび上がって来れば、いいのです。
「もう、限界 ... 」
そう、感じられたなら、
ただ、戻れば、いいのです。
そのために、必要なことは、
ただ、一つ。
おもりを、外すことです。
潜るために、下がるために、
付け加えた、力を、
ただ、手放せば、いいのです。
そうすれば、
自然と、浮かび上がってきます。
元の位置に、戻っていきます。
今回は、
過去記事「最大のパラドックス」でお伝えしたことを、
改めて、お伝えしたくて、書かせていただきました。
ここで、一番お伝えしたいのは、
わたしたちは、
「『神』に『成る』」
のではなく、
「『神』に『還る』『戻る』」
と、いうこと。
「『上』に『往く』」
のではなく、
「『上』に『帰る』『戻る』」
と、いうこと。
そして、
そのために、必要なのは、
「『浮力』『揚力』『跳躍力』を、『得る』こと」
ではなく、
「『おもり』『重力』を、『捨てる』『手放す』こと」
だ、ということ。
「今、念願叶って、
『人間』に『成っている』」
と、いうこと。
「今が、『冒険』『探検』の、最中であり、
今が、仮の状態、『夢の中』であり、
希望が叶って、この状態を『体験』している」
と、いうこと。
「何かの『罰』で、
この状態に『成らされている』わけではない」
と、いうこと。
そんな、ことごと、です。
そんな、『パラドックス』です。
そして、
過去記事 でも、お伝えしたとおり、
わたしたちが、『人間』に、成ることができたのは、
『おもり』の、おかげです。
その、『おもり』というのは、
たとえば、津留さんは、
『エネルギーブロック』と、呼んでいるもので、
たとえば、
具体的には、
「自分(人間)は、『不完全』である」
「自分(人間)には、『分からない』『知らない』」
「自分(人間)には、『できない』」
という、『想念』です。
わたしたちは、
「『神』ならざる者」:『人間』
に、成るために、
『忘却』という方法を、採りました。
「『すべて』であり、
『全知』であり、
『全能』である、
『神』が、
『神』ならざる『体験』を、するために、
『神』ならざる者:『人間』に、成るために、
自分は、
『すべて』であり、『全知』であり、『全能』である
ということを、忘れた」
『忘却』することによって、
『忘却』し切ることによって、
「自分(人間)は、
『できない』『分からない』『知らない』
『部分』『不完全』だ」
と、
思い込むことに、成功しました。
『神』から離れ、『人間』に成りました。
その、
『忘却』というプロセスにおいて、
わたしたちは、
『記憶』という手段を、採りました。
わたしたちは、
「あぁ、これが『できなかった』」
「あれは、『分からなかった』」
「そんなこと、『知らない』」
という、体験を、
『記憶』しました。
そんな『記憶』を、無数に、蓄積することによって、
ますます、
「自分は、
『できない』『分からない』『知らない』 ... 」
と、
確信を持って、思い込むことが、できるようになりました。
こうして、
『神』から離れ、『人間』に成りました。
ここでも、また、
『パラドックス』を、使っているのですね ^^ 。
そんな、
「蓄積してきた『記憶』」
こそが、
まさに、『おもり』なのです。
わたしたちは、
そんな、
「苟且(かりそめ)の『記憶』」を、
「一時的な、便宜上の『記憶』」を、
「偽りの『記憶』」を、
忘れてしまえさえすれば、いいのです。
手放してしまえば、いいのです。
忘れてしまえば、手放してしまえば、
勝手に、
本来の、元々の、
「『神』としての『記憶』」
が、
蘇ってきます。
「自分は、『個』ではない。
『彼』も、『あいつ』も、自分だ。
自分は、『全体』だ」
「自分は、あれも『できる』。
これも、『できる』」
「それも、『分かる』。
これも、『知っている』」 ...
そのためには、
どうしたら、いいのでしょうか?
そのためにこそ、
どうぞ、『浄化』を、利用なさってください。
もう、不要となった『おもり』を、
『人間』としての『記憶』を、
『人間』として体験した『感情』を、その残りを、
不要な『感覚』すべてを、
『浄化』によって、手放してください。
それから、
最後に、もうひとつ。
このように、
わたしたちは、『おもり』によって、
『人間』に、成ることが、できました。
したがって、
『人間』をしている以上、
この『おもり』は、無くなりません。
必要です。
無くなれば、
『人間』では、いられなくなってしまうのですから。
『人間』を、続けられなくなってしまうのですから。
ですから、
ご自分が、『おもり』を握っておられることを、
否定する必要は、ありません。
悲観する必要は、ありません。
この『おもり』を、
『錨(いかり)』『アンカー』
と、
表現されている方も、いらっしゃいます。
地上に、停(とど)まり続けるための、錨。
『人間』で、居続けるための、錨。
あるいは、
『魂』を、『肉体』に停め付けるための、アンカー ...
ですから、
そんな『おもり』を、
無下(むげ)に、否定することは、無いと思います。