2014年6月25日水曜日

創造のパラドックス


津留さんが伝えていたことを、
津留さんが遺してくれたことを、
大別すれば、

それは、
 『創造』と『浄化』
に分けられると思います。

 「想っているとおりを、体験する」
 「外なる世界は、内なる世界の『3次元立体映像』『鏡』『ホログラム』」
 「与えたものを、受け取る」

いろいろな言葉、いろいろな表現で伝えてくれましたが、
そこで言っていることは、
 『創造』
であり、
 「私たちは、みな、自分の現実の『創造主』である」
ということですね。

一方、
 「私たちの外側で起きる出来事と、肉体内の反応とは、無関係」
 「ストレスの原因は、100%、自分の内側にある」
 「『エネルギーブロック』を手放せば、ストレスは感じなくなる」

これが、津留さんの
 『浄化』
であり、
そして、浄化によって、
 「外側の世界に影響を受けなくなる」
ようになることができます。

このように、
私たちは、
 「外の世界を創り出すことができる」存在
であり、
と同時に、
 「外の世界から影響を受けなくなる」存在
でもあります。

この、一見、対極的なメッセージを、
津留さんは、伝え、遺してくれました。


さて、
 「私たちは、現実の『創造主』だ」
そう言われて、こころ躍(おど)った方も、多いことでしょう。
僕も、その一人ですから、よく分かります。

そして、
 「そうか、それなら、好きな現実を創ろう!」
そう、思われたことでしょう。
そして、懸命に、自分の
 「意識の向き」に
 「意識の対象」に
気をつけ、
そして、自らの『望む』現実を創り現すことに、懸命になられたことでしょう。

ところが、『現実の創造』は、
なかなか、うまく行かなかったのではないでしょうか?

もちろん、うまく行ったこともお有りかと思います。
しかし、
 「おかしい。こんなはずではない」
 「ちゃんと、『望む現実』に意識を合わせているのに、どうして?」
そんな悩みを、疑問を、持たれたのではないでしょうか?


私たちが、『何か』を『創造したい』と思っているとき、
私たちは、その『何か』を、『より好ましい』と思っています。

たとえば、より『金銭的に豊か』な現実を『創造したい』と思っているときには、
『金銭的に豊か』であることを、『より好ましい』と思っています。

そして、
『金銭的に豊か』であることを『好ましく』思っているときには、
かならず、『金銭的に貧しい』ことを『好ましくなく』思っています。
『嫌だ』と思っています。
『恐れ』ています。

『望み』があるときには、
かならず、
その底に、根底に、『恐れ』があります。

そして、多くの場合、
その『恐れ』こそが、その『望み』を作り出しています。


さて、
この『望み』と『恐れ』ですが、
津留さんの説明を、そのまま用いれば、

『望み』の方は、
「叶うこともあれば、叶わないこともあった」という、過去の経験から、
「その『望み』が叶うこと」を、50%信じています。
なので、意識は、50%注がれます。

ところが、
『恐れ』のほうは、
もう、無条件に『恐れ』ているので、
「必ずそうなる」と、100%信じています。
なので、意識は、100%注がれます。

つまり、
『望み』があるときには、必ず『恐れ』があり、
しかも、『望み』よりも『恐れ』の方が、
創造される可能性が、常に、高いのです。

ここが、
単に『創造』に意識を向けても、なかなかうまく行かない理由です。

『望み』を持っているとき、
私たちは、常に、『恐れ』の現象を創り続けているのです。


では、どうすればいいのでしょうか?

そのときには、
自分が、その『恐れ』を握っていることを、しっかりと認識して、
それを『浄化』してください。

『恐れ』を取り除いてください。
『恐れ』を手放してください。
『恐れ』を解放してください。
『恐れ』から卒業してください。

そうすれば、
その『恐れ』を創造することはありません。

つまり、『創造』ではなく、
『浄化』していただきたいのです。

『創造』するためには、
いきなり『創造』するのではなく、
まず、『浄化』をしていただきたいのです。

一見、対極的な、『創造』と『浄化』は、
実は、このように、とても緊密な関係にあります。


さて、
『創造』のために、『浄化』を行いました。

その結果、
『恐れ』を取り除くことができました。
『恐れ』を手放すことができました。
もう、そのことは怖くありません。

さて、そのとき、
『望み』は、どうなっているでしょうか?

言葉を変えます。
そのとき、
『望み』は、残っているでしょうか?

『恐れ』をきっちりと『浄化』できたときには、
おそらく、『ニュートラル』になれていると思います。
もう、『どっちでもいい』状態になっていると思います。

たとえば、
『金銭的に貧しい』ことを『恐れる』想いを『浄化』できたとき。
おそらく、
もう『貧しくても』『貧しくなくても』『どっちでもいい』状態になっていることでしょう。

そのとき、
『金銭的に豊かになりたい』という『望み』は、あるでしょうか?

もちろん、
『どっちでもいい』のですから、
『豊か』でもいいのですが、
しかし、いわゆる『望み』として、『豊かになりたい』という想いは、あるでしょうか?

もう、『望み』は、消え去っていることでしょう。
もう、『創造』には、意識が向かなくなっていることでしょう。


『創造』するためには、
『浄化』が必要で、

『浄化』をすると、
『創造』が必要なくなる ...

これこそ、
『創造のパラドックス』です。


私たちが、
 『浄化』『浄化』
と言っているのは、
一つには、このような理由があるのです。

たしかに、
私たちは、みな、津留さんが言ったとおり、『創造主』です。

たしかに、
 「想ったとおりを、創造している」
のです、
ただし、
『恐れ』という『想ったこと』をも含めて。

ですから、
『創造』のことは、とりあえず、置いておいて、
『浄化』に意識を向けていただけたらと思います。

『外側』の世界にではなく、
『内側』に、意識を向け続けていただきたいと思います。


そうしていると、
自然と、
かつて『望んだ』以上のことが、『起きてくる』ことと思います。

内なる『大我』が、『集合意識』が、
想像もしていなかったようなことを、『創造』してくれることと思います。

結果として。
望んだわけでもなく。