「これほど、つまらないことはない」
「これほど、興ざめなことはない」
と思うことって、何ですか?
こう質問されたら、何を思い出しますか?
僕にとっては、
「結果の分かっている、スポーツ」
「楽しみにしているゲームの、結果を教えられてしまうこと」
です。
いま、ちょうど、サッカー・ワールドカップが開催されています。
日本代表を応援されてらっしゃる方も、多いと思います。
先日の試合、ギリシャ戦を、いろいろな想いを持ちながら、観戦されたことでしょう。
さて、ここで。
もし、結果が、「0-0の引き分け」であるということが、事前に分かっていたら、
試合前に、ワクワク出来ましたか?
選手がシュートを打つ時に、興奮できましたか?
ドキドキしながら、観戦できましたか?
あるいは。
明日のコロンビア戦。
今から結果が分かっていたら、決勝トーナメントに進出できるかどうか分かっていたら、
ワクワク、ドキドキしますか?
試合を見るのが、楽しみですか?
朝早く起きて、生中継を見ますか?
とても古い話で恐縮ですが ^^; 、
中嶋悟さんが、F1ドライバーをされていたころ、
鈴鹿で行われた日本でのレースを、僕はとっても楽しみにしていました。
もう、記憶も定かではないのですが、
「日本人初の表彰台なるか?」(つまり、3位以内)
ということに、とても期待が集まっていたのだったと思います。
その日は、用事で出かけていました。
当時は、テレビでの放送が、夜で、
また、携帯電話でリアルタイムに情報を得る、ということもしていなかったので、
昼間に行われたレースの結果を知らずに、夜の放送を楽しみにして、夕方、帰宅しました。
帰りの電車の中でも、極力、人々の話し声に耳を傾けないようにして、
とにかく、結果を知ることがないように気をつけながら、家に着きました。
ところが、
「ただいま」
と、僕が言うが早いか、母が言いました。
「中嶋、4位だったのよ!!」
夕方のニュースで結果を知った母が、
親切にも ^^ 、教えたくれたのでした。
その夜、
それまでの人生で、もっともドキドキする、もっとも楽しいF1観戦をするはずが、
それまでの人生で、もっとも興ざめな、もっとも気持ちの乗らない、レース観戦をしました。
^^;
「結果が分かっている」
「未来を知っている」
ということが、いかにつまらないこと(になりうる)か、
ということは、
こんな例を出すまでもなく、すでにお分かりのことと思います、
『頭』では ...
「いや、いや、それは、『ゲーム』の話、『遊び』の話だからだよ」
「自分の人生は『遊び』じゃないから、未来を知ることができるなら、そのほうがいい」
それでも、そう、おっしゃるかもしれません。
そうですか?
「人生は、『遊び』だ」という可能性はないですか?
「人生は、『3次元地球人間ゲーム』だ」という可能性はないですか?
人生は、失敗の許されない『本番』ですか?
精進すべき『修行』でしょうか?
それでも、やはり、
「『人生』と『ゲーム』は違うんだ」
「同じだとは思えない」
と思われたとしたら、それはそれで、そのとおりですよね。
何を隠そう、僕も、100%の確信を持って、体感を持って、
「この人生は、『体験ゲーム』だ」
と感じられているわけでも、思えているわけでもありません。
ただ、『ゲーム』ではなく、『人生』のこと、『人生の出来事』のことであったとしても、
このような話もあります。
ドランヴァロ・メルキゼデクさんの著書、
『フラワー・オブ・ライフ』には、
彼が、未来の出来事を『見る』能力を、一時的に手に入れたときの様子が、記述されています。
「予知能力が欲しい」という願いが叶えられたドランヴァロは、
はじめのうちこそ、これから起きることを『知っている』ことに興奮したものの、
徐々に、その興奮から醒(さ)めていき、
次第に、そのことを退屈にさえ感じるようになります。
そしてついには、ガイドに懇願(こんがん)して、その能力を取り上げてもらったそうです。
津留さん的説明によれば、
私たちは、もともと『神』であり、
『神』が『神ならざる者』を『体験』したくて、
『人間』になっているわけです。
ただ、「『神』が『神ならざる者』に成る」ことは、物理的には不可能なので、
そこで、『忘却』という手段をとりました。
「自分が、『全知全能』であることを『忘れた』」
そして、私たちは、希望どおり、『全知』ではなくなりました、
何万年とかけて、何世代とかけて、
『人間』を極めていく過程を邁進(まいしん)することによって。
このように、
私たちは、私たちが望んだとおりに、
『分からない』『知らない』状態になり、
そして、
その状態になってはじめて体験できる
「あぁ、『分からない』! 困った、苦しい ... 」
という『感情』『感覚』を、これまでに、たっぷりと味わってきました。
ただ、
これが『望みどおり』であること自体も、同様に、忘れてしまいましたが ...
もし、
「この『感情』『気持ち』は、もう、十分に味わった。体験した。」
「だから、もう、この『感覚』からは卒業する。」
と思われたなら、
そのときには、どうぞ、浄化をなさってください。
未来のこと、将来のことを『知りたい』のは、
あるいは、
『頭』では、未来のことを知ることが『つまらない』ことになるのは分かっていても、
『気持ち』としては、どうしてもその「知りたい」という『衝動』を押さえられないのは、
基本的には、
そこに、『安心』したい、という想いがあるからです。
「分からないと怖い」という『恐れ』の想いがあるからです。
『恐れ』の『エネルギーブロック』があるからです。
その、『恐れ』の『エネルギー』をしっかりと見つめ、
そして、そのエネルギーに、
「あなたが居るのは、実は、私にとって、『本望』なのだ」
と、伝えてあげてください。
もし、しっかりと伝えられたそのときには、
その『恐れ』のエネルギーに対する『恐れ』は、
あなたの中から、消えてしまっていることでしょう。
そして、そうなれたときには、
ただ、その子に、そのエネルギーに、
ただ、素直に、
感謝の気持ちと、お別れの言葉を、告げることができるでしょう。