2014年6月24日火曜日

興ざめなこと(明日のコロンビア戦を前にして)

 「これほど、つまらないことはない」
 「これほど、興ざめなことはない」
と思うことって、何ですか?
こう質問されたら、何を思い出しますか?

僕にとっては、
 「結果の分かっている、スポーツ」
 「楽しみにしているゲームの、結果を教えられてしまうこと」
です。

いま、ちょうど、サッカー・ワールドカップが開催されています。
日本代表を応援されてらっしゃる方も、多いと思います。
先日の試合、ギリシャ戦を、いろいろな想いを持ちながら、観戦されたことでしょう。

さて、ここで。

もし、結果が、「0-0の引き分け」であるということが、事前に分かっていたら、
 試合前に、ワクワク出来ましたか?
 選手がシュートを打つ時に、興奮できましたか?
 ドキドキしながら、観戦できましたか?

あるいは。

明日のコロンビア戦。
今から結果が分かっていたら、決勝トーナメントに進出できるかどうか分かっていたら、
 ワクワク、ドキドキしますか?
 試合を見るのが、楽しみですか?
 朝早く起きて、生中継を見ますか?


とても古い話で恐縮ですが ^^; 、
中嶋悟さんが、F1ドライバーをされていたころ、
鈴鹿で行われた日本でのレースを、僕はとっても楽しみにしていました。

もう、記憶も定かではないのですが、
 「日本人初の表彰台なるか?」(つまり、3位以内)
ということに、とても期待が集まっていたのだったと思います。

その日は、用事で出かけていました。
当時は、テレビでの放送が、夜で、
また、携帯電話でリアルタイムに情報を得る、ということもしていなかったので、
昼間に行われたレースの結果を知らずに、夜の放送を楽しみにして、夕方、帰宅しました。

帰りの電車の中でも、極力、人々の話し声に耳を傾けないようにして、
とにかく、結果を知ることがないように気をつけながら、家に着きました。

ところが、
 「ただいま」
と、僕が言うが早いか、母が言いました。
 「中嶋、4位だったのよ!!」

夕方のニュースで結果を知った母が、
親切にも ^^ 、教えたくれたのでした。

その夜、
それまでの人生で、もっともドキドキする、もっとも楽しいF1観戦をするはずが、
それまでの人生で、もっとも興ざめな、もっとも気持ちの乗らない、レース観戦をしました。
^^;


 「結果が分かっている」
 「未来を知っている」
ということが、いかにつまらないこと(になりうる)か、
ということは、
こんな例を出すまでもなく、すでにお分かりのことと思います、
『頭』では ...

 「いや、いや、それは、『ゲーム』の話、『遊び』の話だからだよ」
 「自分の人生は『遊び』じゃないから、未来を知ることができるなら、そのほうがいい」
それでも、そう、おっしゃるかもしれません。

そうですか?
「人生は、『遊び』だ」という可能性はないですか?
「人生は、『3次元地球人間ゲーム』だ」という可能性はないですか?
人生は、失敗の許されない『本番』ですか?
精進すべき『修行』でしょうか?

それでも、やはり、
 「『人生』と『ゲーム』は違うんだ」
 「同じだとは思えない」
と思われたとしたら、それはそれで、そのとおりですよね。
何を隠そう、僕も、100%の確信を持って、体感を持って、
 「この人生は、『体験ゲーム』だ」
と感じられているわけでも、思えているわけでもありません。

ただ、『ゲーム』ではなく、『人生』のこと、『人生の出来事』のことであったとしても、
このような話もあります。

ドランヴァロ・メルキゼデクさんの著書、
『フラワー・オブ・ライフ』には、
彼が、未来の出来事を『見る』能力を、一時的に手に入れたときの様子が、記述されています。

「予知能力が欲しい」という願いが叶えられたドランヴァロは、
はじめのうちこそ、これから起きることを『知っている』ことに興奮したものの、
徐々に、その興奮から醒(さ)めていき、
次第に、そのことを退屈にさえ感じるようになります。
そしてついには、ガイドに懇願(こんがん)して、その能力を取り上げてもらったそうです。


津留さん的説明によれば、
私たちは、もともと『神』であり、
『神』が『神ならざる者』を『体験』したくて、
『人間』になっているわけです。

ただ、「『神』が『神ならざる者』に成る」ことは、物理的には不可能なので、
そこで、『忘却』という手段をとりました。

 「自分が、『全知全能』であることを『忘れた』」

そして、私たちは、希望どおり、『全知』ではなくなりました、
何万年とかけて、何世代とかけて、
『人間』を極めていく過程を邁進(まいしん)することによって。

このように、
私たちは、私たちが望んだとおりに、
『分からない』『知らない』状態になり、

そして、
その状態になってはじめて体験できる
 「あぁ、『分からない』! 困った、苦しい ... 」
という『感情』『感覚』を、これまでに、たっぷりと味わってきました。

ただ、
これが『望みどおり』であること自体も、同様に、忘れてしまいましたが ...


もし、
 「この『感情』『気持ち』は、もう、十分に味わった。体験した。」
 「だから、もう、この『感覚』からは卒業する。」
と思われたなら、
そのときには、どうぞ、浄化をなさってください。

未来のこと、将来のことを『知りたい』のは、
あるいは、
『頭』では、未来のことを知ることが『つまらない』ことになるのは分かっていても、
『気持ち』としては、どうしてもその「知りたい」という『衝動』を押さえられないのは、

基本的には、
そこに、『安心』したい、という想いがあるからです。
「分からないと怖い」という『恐れ』の想いがあるからです。
『恐れ』の『エネルギーブロック』があるからです。

その、『恐れ』の『エネルギー』をしっかりと見つめ、
そして、そのエネルギーに、
 「あなたが居るのは、実は、私にとって、『本望』なのだ」
と、伝えてあげてください。

もし、しっかりと伝えられたそのときには、
その『恐れ』のエネルギーに対する『恐れ』は、
あなたの中から、消えてしまっていることでしょう。

そして、そうなれたときには、
ただ、その子に、そのエネルギーに、
ただ、素直に、
感謝の気持ちと、お別れの言葉を、告げることができるでしょう。