2014年5月20日火曜日

ハートの光源


わたしたちは、ハートの中心に、光源を持っています。
心の中に、太陽のような、明るい光の源が、存在しています。


その『光』は、
明るく、温かく、柔らかく、優しく、そして穏やかな感覚のものです。

 『愛』『光』『(神の)エネルギー』
そんな表現でもいいかもしれません。

そんな光が、
ハートの中心から、燦々(さんさん)と照り出しています。
あふれ出ています。


ところが、
多くの人が、
その『光』を、
その『光源』の存在を、
感じられません。

僕自身、そうでした。


過去記事「内なる神の、外なる投影」とも重なりますが、
ハートの奥深くには、意識の中心には、
 『真我』『大我』『集合意識』『ハイヤーセルフ』『神』
ともいうべき、大いなる、真なる意識が存在しているのですが、

それを「感じよう」としても、
なかなか感じられない人が多いのではないかと思います。

そして、
体感しようとしても、体感できないがゆえに、
そのようなものが、自分の中に存在していることを、
なかなか信じることができないのではないかと思います。

僕自身がそうでしたので、よく分かります。


 「僕自身がそうで『した』」
と、過去形で書きましたが、

そう、
今は、その存在を確信できています。

一度、しっかりと、体感したからです。

今はまだ、感じようとしても、
 「少し感じられたり、あるいは、まったく感じられなかったり」
といった程度なのですが、
でも、しっかりと、確信しています。


それは、浄化に取り組んで、しばらくしてからのことでした。
少し、浄化が進んでからのことです。

いつものように、
浄化をした後、ハートの位置に意識をやり、
浄化がしっかりと行えたかどうか、エネルギーが残っていないかを、
確認していたときのことです。

ハートが、
いままでには感じたことがないような、
温かで、
穏やかで、
柔らかで、
そして、とても落ち着いていて、
ひっそりとしていながらも、確かな、幸福感に満ちていました。

その感覚を、はじめて、感じました。

そのとき、
はじめて、
ハートの温かさを感じられました。
真の平安とも呼べるような感覚を味わえました。
内なる神の存在を感じられました。

 内側に、すべてが存在していること
 内側で、すべてとつながっていること
そんなことを、確信できました。


私たちの『こころ』は、『気持ち』は、
この『光』によって、満たされたり、満たされなかったりします。
この『光』の量によって、左右されます。

だれでも、自らのハートの中に、
その『光』を放つ源があるのですから、
本来は、
その自らの内側からの『光』によって、十分に満たされることができます。

そもそも、
『生きている』ということは、
その『光』が届いて『生かされている』のですから、
だれでも、その『光』は、内側で放たれ、届いているはずです。

ところが、
その自らの内側から放たれる『光』を、十分に感じられないと、
その量を、十分と感じられないと、

その『光』の不足を感じて、
『こころ』が、『気持ち』が、
乱れ、不安定になり、
そして、欠乏感を感じます。

そして、
それを、解決するために、解消するために、
その『光』を、
自らの『外側』に求めます。

『外側』にいる『人』『他人』に、それを求めます。
『外側』にいる『人』『他人』から、それを得ようとします。


『得る』手段・方法は、
人それぞれ、さまざまです。

そして、
自分で一番多く得られる実感がある方法で、
得ようとします。
あるいは、
自分の内側に足らないと感じるものを満たすように、
得ようとします。

それは、
他人からの『承認』であったり、『理解』であったり、
『賞賛』であったり、『崇(あが)め』であったり、
『服従』であったり、『従属』であったり、
あるいは『同情』であったり、『憐憫(れんびん)』であったり ...

 分かって『くれ』
 認めて『くれ』
 理解して『くれ』
 誉めて『くれ』
 すごいと思って『くれ』
 かわいそうと思って『くれ』

いろいろなものを、
『くれ』『くれ』と求めます。


手段や方法、
求めるものの『質』、エネルギーの『質』『種類』『周波数』は、
それぞれ違いますが、

しかし、
求める理由、求める動機は、
みな、同じです。

 「自分に、『光』が足りない」
と感じているからです。

そして、
『光』が足りないと感じる理由は、
みな、同じです。

 「自分の内側から放たれている『光』を、十分に感じられない」
からです。

そしてさらに、
自分の中から放たれている『光』を、十分に感じられない理由も、
また、みな、同じです。

それは、
 「ハートの中の『光源』が、隠されている」
からです。
 「『光源』を、『膜』が覆(おお)ってしまっている」
からです。

何層にもわたる『膜』が、『光源』を覆い隠してしまっていて、
それゆえ、『光』が届かないのです。
『光』が見えないのです。
『光』を感じられないのです。


では、その『膜』とは、いったい、何なのでしょうか?

それこそ、
 『エネルギーブロック』
と呼ばれるものです。

 『エネルギーブロック』『ミニ自我』
と呼んでいるものです。

それらが、
心の中に、ハートの中に、(潜在)意識の中に、溜まっていて、
いく層にも重なって、溜まっていて、
そして、
ハートの『光源』を覆い隠しているのです。


だから、『浄化』によってそれらの『エネルギー』を取り去ると、
その『光』を感じられるようになるのです。

僕が、
 「浄化を進めて、はじめて、ハートの温かさを感じられた」
というのは、まさに、そういうことなのです。


『浄化』を進めると、
『光』を遮(さえぎ)っていたものが減っていき、
自らの内側で感じられる『光』の量が増えます。

そうすると、
それを外側に求めて行く必要がなくなります。

『光』を得るために、
外側を操作しようとしなくなります。
外側を支配しようとしなくなります。
外側をコントロールしようとしなくなります。

外側と距離を置いておくことができるようになります。
外側のことに、一喜一憂しなくなります。
外側に影響されなくなってきます。

エネルギー的に『自己充足』しているからです。

自分の浄化の体験を通して、
そんなことを理解できました。


それから、
 「『光』が足りていないと、外に得に行く」
という話をしましたが、

「足りない」とまではいかなくとも、
「十分に満ち足りている」という実感がないと、
あるいは、「溢(あふ)れ出る」ほどでないと、

その場合には、
外側の人に、他人に、
 共感して『あげる』ことが、
 同情して『あげる』ことが、
 理解して『あげる』ことが、
できません。

 譲って『あげる』ことが、
 認めて『あげる』ことが、
 許して『あげる』ことが、
できません。

 話を聞いて『あげる』ことが、
 黙って聞いて『あげる』ことが、
 言いたいことを言わせて『あげる』ことが、

 相手が傷つかないような言い方をして『あげる』ことが、
 配慮して『あげる』ことが、
 やさしくして『あげる』ことが、
できません。

 相手に合わせて『あげる』ことが、
 相手のしたいようにさせて『あげる』ことが、
 
 そのままの相手を認めて『あげる』ことが、
 あるがままの相手を受け入れて『あげる』ことが、
できません。

それは、
自分には、自分の内側には、
 「『あげる』ほどの『光』が、その余裕が、無い」
と感じているからです。


そして、その場合も、
浄化によって、自らの内側の『光』を増やして行けば、
そのような優しさを『あげる』ことができます。
『温かみ』を分けて差し上げることができるようになります。

自然と。
「しよう」と、意識しなくても。