2014年8月4日月曜日

一番大きいのは、自分の声

小学生の息子と、
幼稚園生の娘が、いるのですが、

この二人は、
 「元気だけが取り柄」
的な、
非常に、元気で、活発な、子供たちです。

そして、
そんな「元気な子」らしく、
家の中でも駆け回り、
出す声も、とても大きいです。

つまり、
 「とっても、騒々しい」
子供たちです ^^; 。

そういうお子さんをお持ちの方は、
よくお分かりだと思いますが、

この夏休み期間、
二人とも、
学校に行かずに、家にいますので、
家の中は、ズ〜ッと、騒がしいです。

そして、
二人でいるので、
そうなると、けんかも絶えず、
結果、ますます、うるさいです。


そんな状態のときに、
自分の内側を観察してみると、

自分が感じている『うるささ』が、
いつも一定なわけではない、ということに気づきます。

しかも、それは、
その、子供たちが発している「音の大きさ」に依存しているわけではなく、
むしろ、
その、子供たちが発している「音の内容」によることが分かります。

たとえば、
二人が、純粋に仲良く、楽しそうに遊んでいるときには、
その声や音が、興奮具合にともなって、多少大きくなっても、
こちらが感じるうるささは、たいしたことがなかったりします。

ところが、
たとえば、
上の子が、下の子に、すこし意地悪をしたようなときの声だったり、
下の子が、上の子に、わがままな要求をしているようなときの声だったりすると、
とたんに、とてもうるさく感じたりします。

あるいは、
自分が感じている『うるささ』が、
子供たちが発している「音」には一切関係なく、
自分の「こころの状態」「余裕具合」によっているときなどがあります。

たとえば、
ただ、何も考えず、何もこころに湧き上がって来ていないようなときには、
相当に大きな音が鳴り響いていても、
自分としては、まったく、うるささを感じなかったりします。
ただ、その状況・様子を、ただ、眺めているだけで、
『うるささ』というものは、感じていなかったりします。

ところが、逆に、
自分が、やり終えてしまいたい仕事をしているときや、
特に、文章を考えているようなとき、内容を推敲(すいこう)しているようなときには、
ちょっとした話し声であっても、
とてもやかましく、とてもさわがしく、とてもうっとうしく感じたりします。
すっごく、イライラさせられたりします。


そのようなときに、
もう一歩、さらに内側に入って、
もう少し、しっかりと、細かく、
聞こえてくる、その『うるささ』を聞き入ってみると、

じつは、その、聞こえている「音」の中に、
『自分自身の声』が入っていることに、気がつきます。

そして、
じつは、その『自分自身の声』の『量』や『内容』こそが、
自分が感じているうるささを、決定している、ということに、気がつきます。

 「そんな意地の悪いことをして ... 」
 「いくらなんでも、それはわがまま過ぎるだろ ... 」
 「あぁもう、騒がしくて、進まないよ ... 」
 「うるさくて、ぜんぜん、書きたい言葉が浮かんで来ないよ!!」

そんな、『自分自身の声』こそが、
一番大きな音量で、自分に降り掛かってきている、ということに、気がつきます。

一番大きいのは、自分自身の声なのです。


そして。

そんなことに気づいてから、
ひとつ、納得できたことがあります。

 「怖い」と思っているとき。
 「できない」と感じているとき。
 「嫌だなぁ」と気が進まないとき。

そんなとき、
いくら他人に説得されても、勧められても、
どうしても、できないことが、多々あります。

 「大丈夫」
 「たいしたことないよ」
 「やってみれば、そんなに嫌じゃないよ」
 
いくら、そういわれてみても、
どうしても、できないことが、よくあります。

また、
他人を、言葉で、
説得したり、勇気づけたり、納得させようとしても、
それって、なかなか、できないことですよね。

それは、
その人の内側では、その人自身が発した声が、
一番大きく、鳴り響いているからなんですね。

 「いやぁ、そうは言われても、怖いよ ... 」
 「でも、できそうにないよ ... 」
 「でも、なんか、嫌なんだよなぁ ... 」

そんな声が、
その人の内側では、
その人の『宇宙』では、
一番の大音量で、鳴り響いているんですね。

そして、
そんな声を発している『元』こそが、そんな『声の主』こそが、
『エネルギーブロック』なのです。