2016年2月29日月曜日
けんけん
(今回は、身体的な「例え」を使って、話を進めています。
もし、お身体に不自由がお有りで、「例え」が不適切と感じられたとしたら、
お詫びいたします)
昨日の交流会で、
「『内側も、外側も、どちらも大切』
ということを、ブログに、書いてらっしゃいましたね」
と、言われました。
また、
昨日の交流会では、ちょうど、
みなさんで観た、津留さんのDVDの中でも、
津留さんが、
「『浄化』は、
左脳での理解が、50%、
右脳でのワークが、50%」
と、言っていました。
もう、何度も、お伝えしていることですが、
大切なのは、ポイントとなるのは、
『どちらも』
です。
『どちらか』
というのは、
たとえば、
「物事を、『片目』だけで、見ている」
状態だと、思います。
『片目』だけで、見ていれば、
自然、
奥行きが、感じづらいですよね。
距離感が、
つかみにくいですよね。
それに、
とても、疲れやすいと思います。
「疲れやすい」
ということで、いえば、
『どちらか』
というのは、
たとえば、
「『片足』だけで、けんけんをしている」
ような状態だと、思います。
大人に成られてから、
けんけんは、
ほとんど、なさっておられないと、思いますが、
けんけんは、
多くの方にとって、
数十mも進むのが、限界なのではないか、
と、思います。
おそらく、ほんの、20mも進むと、
もう、かなりの疲労を感じられるのではないか、
と、思います。
ところが、
『両足』を使って、歩けば、
多くの方にとって、
数百mどころか、
数千m(数km)を超えて、
数万m(数十km)も、
進めるのではないかと、思います
(マラソンは、数時間で、4万m超、走りますね)。
『どちらか』
には、
たとえば、
「『外側』だけ」
とか
(「『内側』も」ではなく)、
「『自分』の視点だけ」
とか
(「『相手』の視点も」ではなく)、
あるいは、
「『人間』としての視点だけ」
とか
(『ハイヤーセルフ』の視点も」ではなく)、
といったものが、ありますが、
「『思考』だけ」
というのが、
この場合、特に、
当てはまる気がします。
「理解したい」
「分かりたい」
そんな想いが、
強ければ、強いほど、
これまでの習慣から、
一生懸命、考えてしまうと思います。
考えて、考えて、
考え抜くことによって、
なんとか、
答えを得ようとします。
納得を得ようとします。
ところが、
それは、
たとえば、
一生懸命、頑張って、
『片足』だけで、けんけんで、
進もうとしているようなもの
だと、感じます。
これまでは、
周りの人たちが、みな、
大人も、親も、
『片足』だけで、けんけんで、
移動していたから、
自分も、
自然、
けんけんをするようになって、
けんけんで、距離を進めると、
「偉いね」
「凄いね」
と、
親に、教師に、誉められたからと、
けんけんをすることが、
ただ、習慣になっている、
そんな感じだと、思います。
ところが、
みなが、
日に、数m、数十m、進んでいるところに、
日に、数万mも、
進む人たちがいることを、聞きました。
そんな人たちを、
実際、目にしました。
その人たちは、
何が、違うのでしょうか?
強靭な、
何百倍も、何千倍も優れた、
脚力を持っているのでしょうか?
いえ、
ただ、『両足』で、歩いているだけです。
『両足』を、使っているだけです。
ただ、それだけです。
ですから、
けんけんを止めて、
歩くことを、はじめれば、
今すぐにでも、
同じだけ、進めるようになるでしょう。
厳密には、
ずっと、「けんけん」をしていたので、
長距離を「歩く」ためには、
足の運びを、練習したり、
すっと使っていた片足を、休めたり、回復させたり、
若干の、訓練と時間は、必要かもしれませんが、
でも、
それは、ほんの些細なことです。
すぐに慣れて、
数千m、数万mと、進まれることでしょう。
「『考える』ことだけ」によって、
「『思考』だけ」によって、
理解をしたり、それを深めようとしたり、
いろいろなことを、納得しようとしたり、
状況を解決しようとしたり、
さらには、
幸せになろうとすることは、
まさに、
「『片足』だけ」「『けんけん』だけ」
で、
遠くまで、進もうとしている、
そんな感じだと、思います。
どうぞ、
もう一方の足を、使ってください。
次の一歩は、
そちらの足を、出されてください。
これまで、
左足だけで、進んでこられたなら、
どうぞ、
次は、右足を、出されてください。
「『もう片方の、これまで使ってこなかった足』
だけを、今度は、使ってください」
と、
申しているわけでは、ありません。
左足も、
ぜひ、お使いになってください。
左足を出すことが、
適切な場合には、
左足を、
右足を出すことが、
適切な場合には、
右足を、出していただければと、思います。
「右足」に当たるのが、
実際の、「『浄化』ワーク」です。
『エネルギーブロック』、『ミニ自我』、
感情・感覚・エネルギーを、
手放し、解放していく、
作業です。
それは、
もっとも基本的には、
『考える』の対極である、
『感じる』という行為であり、
さらには、
それを進めた、
『M2』などによる、エネルギー・ワークです。
『浄化』をされると、
「『思考』だけ」のときに比べて、
格段に、
理解が、進まれる、実感がおありだと、思います。
ひときわ、
納得が深まる、実感がおありだと、思います。
その実感は、
これまでの「数十m」単位から、
「数千m」単位へと、
変わられる感じではないかと、推測します。
ですから、
これまで、『思考』を得意とされてきた方には、
そんな方だからこそ、
「右足」を、
実際の、右脳による「『浄化』ワーク」を、
ぜひ、していただければと、お勧めします。
「そう、自分でも、思っているんだけど、
ついつい、『考え』て、しまって、
なかなか、『浄化』が、できないんだよな ... 」
そう、おっしゃる方も、いらっしゃることでしょう。
僕自身が、そうだったので、
よく、分かります。
そういう方は、
僕自身の経験と、同様だとすれば、
まだ、
左足が、元気なのです。
左足が、疲れ切って無いのです。
ですので、
もし、そのような場合には、
もう、さらに、徹底して、
左足によるけんけんを、
さらにさらに、なさってみるのも、
一手かもしれません
(この辺りについては、
過去記事「考えてください(思考が止まらない方へ)」
も、ご参照いただけると、嬉しいです)。
そうすれば、
自然と、
左足は、止まり、
右足が、
降りてくることでしょう。
はじめは、
両足を着いた、休息が、
必要かもしれません。
その後も、
左足に代わって、
今度は、「右足のけんけん」をしたり、
あるいは、
ぎこちない、たどたどしい「歩き」をしたり、
するかもしれません。
ですが、
それらも、一時(いっとき)です。
しばらくすれば、
自然と、
軽快に、歩いていらっしゃることでしょう。
そして、
その、楽々と進める距離に、
ビックリと、されることでしょう。
2016年2月22日月曜日
自灯明(津留さん70歳の誕生日に当たって)
今日は、2月22日、
津留さんの、誕生日です。
生きていれば、
70歳を、迎えていたはずの、
誕生日です。
津留さん、
お誕生日、おめでとうございます。
『人間』として、
起伏の激しい人生を送り、
見事に、絶望を迎え、
そして、
意識を反転させたのが、
40代後半。
講演活動を始め、
メッセージを、書き記し、語り、
そして、
「具体的」な手段である『浄化』を見い出し、
みなさんのお手伝いをしていたのが、
50代前半。
そして、
その活動に、終止符を打ち、
光へと還って行ったのが、
今から、15年ほど前。
その活動を、業績を、振り返ると、
個人的には、
改めて、津留さんの「偉大さ」を、
感じます。
1990年代に表された、メッセージが、
今なお、
多くの方々の、心に響き、
そして、おそらくは、
今からこそ、
さらに、多くの人々に、
ご活用いただけるのであろう、こと。
そんなことを、
日々、活動している中で、
強く、感じています。
そんな、津留さんが、
いろいろと、語り、遺してくれた中で、
おそらく、
一番、伝えたかったであろう、こと。
そう、
僕が、認識している、こと。
それは、
「自灯明」
ということです。
「答えは、
自らの、内側にある」
「ひとり一人が、『神さま』であり、
すべては、それぞれの『内側』にある」
言葉にすると、
そんなところでしょう。
お釈迦さまが、おっしゃっていたことと、
同じだと、
個人的には、解釈しています。
津留さんは、
みなさんから、
「津留さん」
と、
呼ばれていたそうです。
「先生と、呼ばないで下さい」
津留さんの、口癖でした。
『先生』を、『外側』に持つと、
どうしても、
その『外側』に、意識が向きがちですし、
どうしても、
その『外側』に、依存しがちです。
そうなると、
「自らの『内側』に、
求めているものが、答えが、在る」
とは、
なかなか、思えません。
「『内側』に、意識を向ける」
「『内側』を、探求する」
ということが、
なかなか、できません。
できても、
どうしても、疎かになってしまいます。
津留さんが、理解したことは、
津留さんのメッセージの内容は、
津留さんが伝えていたことは、
基本的に、すべて、
津留さんが、『内側』から受け取ったもの、
津留さんの『内側』から、湧いてきたもの、です。
そして、それを、
津留さんが、
自分自身の体験や、
クライアントさんの体験によって、
「そうだ」「そのとおりだ」
と、
確信・確証できたものです。
さらに、
それは、
「自分だから、できたこと、ではなく、
誰にでも、できること」
と、
確信していました。
だからこそ、
「『師』となり、『答え』を与える」
という、方式ではなく、
「『答え』の見つけ方を、お教えする」
「『答え』を見つける際のコツを、お伝えする」
という、方式を、
採っていました。
津留さんの誕生日に当たり、
津留さんのメッセージに、共鳴し、
津留さんのメッセージに、共感し、
津留さんのメッセージを、好み、愛読されている、
みなさまに、
改めて、お伝えしたいと、
僕が、(勝手に)思うことは、
みなさんの中には、
わたしたちの内側には、
津留さんが触れていたのと同じ、
『灯り』『明』
が、在る
ということ、
そして、
そこに近づくプロセスを、
ぜひ、ご一緒に、進んでいきましょう
ということです。
それと同時に、
それに続けて、
お伝えしたいと、思うことは、
だからといって、
『外側』の教えや情報(を求めること)を、
否定しているわけではないし、
否定する必要も無い
ということです。
過去記事「バランス」でも、お伝えしたとおり、
『内側』に在るものは、
『外側』にも、在ります。
『外側』を探し求めた結果、
求めていたものを見つけ出すことは、
これまでも、あったでしょうし、
これからも、あることでしょう。
そもそも、
『外』の世界を、探し求めた結果、
津留さんのメッセージに、出会えたわけですよね。
その経験は、
僕も、まったく同じなので、
よく分かりますし、
それを否定するつもりは、まったく、ありません。
これからだって、
『外』の世界の情報が、
直接的な『答え』や、「ヒント」となることは、
多々、あることでしょう。
ですから、
否定するつもりは、ありませんし、
否定する必要も、無いと思います。
これからも、ぜひ、
津留さんのメッセージを、大切にしていただきたいですし、
活用していただきたいと思います。
また、
津留さんに限らず、
いろいろな方々がおっしゃっていること、なさっていることに、
ヒントを見い出されること、参考にされることを、
していただければと、思います。
ただ、
これまで、わたしたちは、
一般的な常識として、
「『答え』は、『外側』に『だけ』、在るもの」
と、
思い込んで、教えられて、生きてきたので、
その、体験は、
もう、充分に、して来ています。
そして、いま、
「うまくいかない」
「苦しい」
と、思われている場合には、
基本的には、
「『外側』によって、解決をしよう」
というアプローチを、採っているから、
というケースが、ほとんど、
だと、思います。
その場合には、
これまでとは、違うアプローチを採られることが、
とても有効です。
ですから、
ほとんどの、わたしたちにとっては、
これまでの、
「すべて、『外』」
から、離れるために、
まず、一旦、
「すべて、『内』」
という、意識に、
成り切ってみることが、
とても、有効ですし、
そして、
「すべて、『内』」
という、体験を、
ある程度、重ねた後に、
自然と、
「『外』も、『内』も、同じ」
と、
なってくるものと、思います。
そうなるまでは、
意識的に、
「『内』『内』」
と、
習慣づけて、『内側』を、見つめてみられることが、
有効だと思います。
また、
『外』の世界は、
物理的に、広大だし、
いろいろな、障壁や障害が存在していて、
求めているものを、見つけ出しすことや、
見つけ出せても、それを、手に入れることが、
困難なケースも、数多くあることと、思います。
対して、
『内側』は、
もちろん、
それと同じだけ、『広大』ではあるのですが、
だからこそ、
そこを見つめたところで、
なかなか、求めるものに辿り着けないのですが、
でも、
障壁を、障害を、取り除いていくこと、
道を、整備していくこと、
視力を、高めていくこと、
視界を、明るくしていくことは、
ご自分の、働きかけによって、
進めて行くことができます。
そのときには、
『内側』は、常に、自分とともに在ります。
その段階では、
『内側』を探る方が、
格段に、便利で、楽で、早くて、確実、
なのではないか、と、思います。
あるいは、
その段階では、
『内側』からも、
必要なものが、湧いて『来る』し、
『外側』からも、
まったく同様に、
必要なものが、やって『来る』、
という状態に、
なっているのかも、しれません。
いずれにせよ、
この世界は、
『どちらも』
です。
『バランス』
です。
もし、ご自分が、
『外側』に、比重を置いていらっしゃると、
ご自覚されるようでしたら、
ぜひ、
『内側』に、意識を向けていかれることを、
お勧めします。
そこには、すべてが、在ります。
そして、そのためには、
具体的には、
『想念観察』や、『ハート観察』のように、
ご自分の『内側』に、意識を向け、
ご自分の『内側』を、監視なさることを、
習慣づけられるとともに、
『浄化』によって、
『内側』のお掃除、お片づけをされることを、
お勧めします。
まだまだ、
その過程を、歩み始めたばかりの僕なので、
偉そうなことは、何も言えないのは、承知の上で、
でも、
自分自身の、実体験から、
お勧めします。
逆に、
『内側』ばかりに、傾いているようでしたら、
『外側』を、再評価されてみることを、
お勧めいたします。
そして、
ご自分の中で、
『外』と『内』が、釣り合ったら、バランスしたら、
そのときには、
次の、新たなステップに、立たれるのだと、
理解しています。
2016年2月17日水曜日
『ポジティヴ』な体験も
ここ数回
(正確に言えば、「これまでずっと」、ですが)、
「『神さま』や『天使』が、
『神さま』や『天使』のままだと、体験できないことを、
体験してみたくて、感じてみたくて、
わざわざ、『人間』になって、
それらを、『体験』している、『感じ』ている」
ということを、
書いてきました。
津留さんが、
『地球人間ゲーム』
と、
呼んでいた、「仮定」について、です。
その際、
その、
「『体験』したいこと」
「『感じ』たいこと」
というのは、
「すべてであり、
全知であり、全能である
存在・状態だと、
『体験』できないこと
『感じ』られないこと」
なので、
基本的には、
いわゆる、『ネガティヴ』なこと、です。
「できない」
「分からない」
「知らない」
「寂しい」「悲しい」
「怖い」「恐ろしい」
「辛い」「苦しい」
「悔しい」「情けない」...
そのような、
『体験』、『感情・感覚』のことです。
このように、お聞きになると、
「では、人生では、
そんな、『ネガティヴ』なことばかりが、待ち受けているのか?」
「じゃぁ、『生きる』ということは、
そんな、『ネガティヴ』なことばかりを、感じることなの?」
「そんな、『ネガティヴ』なことばかりが、
『ハイヤーセルフ』によって、もたらされるのか?」
そう、思われるかもしれませんが、
安心してください、
それだけでは、ありませんよ ^^; 。
確かに、
『基本的には』、
そのような、『ネガティヴ』なことを、
『感じ』たくて、『体験』したくて、
『人間』となり、『人間』をしている
と、言えると、思います。
だって、
「『完全』な存在」にとっては、
そんな、
「『ネガティヴ』なこと」『こそ』が、
もっとも、縁遠く、
もっとも、意味が分からず、理解できず、
それゆえ、
もっとも、興味津々なこと
なわけですから。
それは、
仕方のないこと、では、ありませんか?
ですが、
繰り返しますが、
それだけでは、ありません。
津留さんは、
この、
「『神さま』が、『神さま』のままだと、
『体験』できないことを、
『体験』する」
ことについて、
別の表現で、
このようにも、言い表していました。
「『神さま』が、
自らの『完全さ』を、『実感』『体感』したくて、
『人間』になった」
そもそも、『完全』であると、
はじめから、『完璧』であると、
「『完全』だ」
「『完璧』なんだ!」
ということを、
『実感』することが、『体感』することが、
できませんよね?
わたしたちは、
日ごろ、『健康』であっても、
「あぁ、自分は『健康』だぁ!」
と、『実感』することは、
無いのでは、ありませんか?
あるいは、
もし、あったとしても、
それは、
少なくとも、一度、
『病気』になり、
「『健康』ではない状態」に、なったことがある、から
では、ありませんか?
はじめから、『完全』『完璧』だと、
『感じる』ことのできない、『実感』することのできない、
「自分は、『完全』なんだぁ!」
という気持ち、感情、感覚を、
『体感』してみたくて、
そこで、
わざわざ、はじめに、
まず、一旦、自ら、
「できない」「分からない」「知らない」
という体験を重ねて、
『人間』になった
というのが、
わたしたちの、「今の状態」であり、
かつ、「これまでの過程」だ、
というのが、津留さんの解説です。
つまり、
これまで、
「できない」「分からない」「知らない」という体験を、
重ねて来た
のは、
これから、
「自らの『完全さ』を、『実感』『体感』する」ための、
『準備』
だったのです。
これまでの、『準備』を経て、
はじめて、
わたしたちは、これから、
「あぁ、自分というのは、『完全』だぁ」
と、『実感』する、チャンスを、
得ることができたのです。
津留さんは、また、
「そもそも、『完全』」であった、存在が、
一度、『不完全』になった、ことによって、
「できる『ようになった』」
「分かる『ようになった」
「知ることができる『ようになった』」
という『感覚』を、『体感』することが、
できるようになった、
とも、言っています。
「そもそも、『完全』」で、
そして、「『完全』なまま」、だと、
「できる『ようになる』」
「分かる『ようになる』」
ということは、体験できませんよね?
また、加えて、
「そもそも、『完全』」で、
そして、「『完全』なまま」、だと、
「できて、当然」「分かって、当然」、ですから
「あぁ、できた〜!」
「分かった!」
という『感覚』も、
感じること、味わうことができませんよね。
それらは、
一度、『不完全』になったことによって、
はじめて、
『体感』することが、できるようになりました。
ですから、
「できた〜!」
「分かった!」
「やった!」
「嬉しい!!」
というような、
いわゆる「『ポジティヴ』な感情・感覚」も、
「今、『人間』をしているからこそ、
『感じ』ること、『体感』することができるもの」
なのです。
この、「『ポジティヴ』な感情・感覚」も、
それらを、『感じ』ることも、
わたしたちにとっては、
実は、
「『人間』をしている、目的そのもの」
なのです。
ですから、
どうぞ、
安心なさってください。
安心して、
「嬉しい」「楽しい」「やった〜!」
を、希求され、
安心して、
それらの『感情』『感覚』を、
たっぷりと、体感なさってください ^^ 。
「そもそも、『完全』であった」
という、仮定からすれば、
今現在の、
「『完全』ではない状態」
「『完璧』ではない状態」
は、
その、『すべて』『全部』が、
「『完全』なままでは、『体験』できない」状態
です。
つまり、
この環境、この状態、この状況、『すべて』が、
「『体験』したくて、体験している
『感じ』たくて、感じている
『味わい』たくて、味わっている」
こと、『そのもの』
だ、
と、いうことです。
『人間』という、
全体とは、周りとは、
『分離』された、『個別』の状態で、
『感じる』こと
量的に、極めて限定されている「情報」を基に、
機能的に、極めて限定されている『頭脳』を使って、
『考える』、ということ
『肉体』という、さまざまな制約のある『容れ物』を通して、
『感じる』、ということ ...
そのような、ことごと、すべてが、
一切合切、すべて、全部が、
つまり、
『人間』という状態において、
『感じる』こと、すべて
『行う』こと、すべて
『考える』こと、すべて
それら、『すべて』が、
「『神さま』のままでは、できない、行為」
「『神さま』のままでは、感じられない、感覚」
なのです。
ですから、
「『人間』で居ること」
「『人間』として、存在すること」
「『人間』として、感じること」
「『人間』として、行為すること」
すなわち、
「『人間』をしているということ」
「生きているということ」
そのものが、すべて、
「わたしたちが、こうしている『理由』」
であり、
「わたしたちが、こうしている『目的』」
なのです。
そして、それは、
わたしたちの、
「『状態』如何(いかん)」
「『意識』如何」
「『行為』如何」
「『内容』如何」
に、関わらず
なのです。
前稿(「ハイヤーセルフへの報告」)の最後で、述べました、
「『人間』することが、仕事」
というのは、
文字通り、そのとおり、なのです。
「『人間』という体験、すべて」が、貴重な、目的
なのです。
何を、『感じ』ようと、
何を、『感じなかろう』と、
そのすべてが、目的そのもの
なのです。
大手を振って、堂々と、
ただ、生きてください。
ただ、『人間』をされてください。
「『人間』すること」
それこそが、
あなたが、わたしたちが、
ここに、こうして『存在』している、意味であり、
目的そのものです
(津留さんのメッセージ「在る」も、
また、改めて、お読みください)。
言葉を換えれば、
いま、
「わたしたち」は、「わたしたちの状態」は、
「『神さま』の願望が、叶っている」状態
なのです。
「『神さま』にとっての、『夢』」の状態
なのです。
『神さま』という、
『すべて』であり、『全知』『全能』である存在が、
自ら、望んで、創り上げた、『結果』の状態
なのです。
「わたしたち」は、
これで、『完璧』です。
これこそが、
「『神さま』が、『宇宙』が、
望んだ『結果』そのもの」
なのですから。
わたしたちは、
「その、『結果』を、
『プロセス』として体験している、『意識』」
なのです
( 関連過去記事「望みは、すでに、叶っている」)。
そんな、「わたしたち」が、
「わたしたち」の行うこと、思うこと、考えることが、
「『完璧』でない」わけが、ありませんよね?
ですから、
どうぞ、
すべて、すべて、
安心なさってください ^^ 。
2016年2月14日日曜日
ハイヤーセルフへの報告
NASA Earth Observatory
こんな光景を見ながら、
数百人の、天使たちが、集まって、
話し合いを、しています。
「『人間』っていうのは、どんな、感じなんだ?」
「『分離』しているっているのは、どんな、感じなんだ?」
「『分からない』って、どんな、感覚なんだ?」
「『できない』って、どんな、感覚なんだ?」
「『悲しい』『苦しい』『寂しい』『怖い』って、どんな、感情なんだ?」
「『憎しむ』って、『恨む』って、どんな、感情なんだ?」
「どうして、『騙そう』なんて、思うんだ?」
「なんで、同じ『人間』を、痛めつけたり、傷つけたり、
ましてや、殺すなんてこと、するんだ? できるんだ??」
「これは、『体験』してみないと、分からない」
「よし、ぜひとも、実際に、『体験』してみよう。『体感』してみよう」
「では、
一人、代表者が行って、『体験』して来よう。
その、代表者一人の『体験』を、みんなで、分かち合おう」
「みんなが『体験』したいと思ったことを、
その一人が、きちんと、体験できるように、
残りのみんなは、サポートをしよう。
一人が、ちゃんと、体験できるように、
残りのみんなで、最適な『現象』『状況』を、創り出そう」
こうして、
また、一人の天使が、
地球に、舞い降りました、
母親の、子宮を、通って ...
産まれ出て、『人間』になってみると、
代表者には、
天使だったときの記憶は、ありません。
自分が、
そもそもは、何者で、
なんのために、ここにいるのか、
ここで、何をするのか、したいのか、
まったく、分かりません。
そこで、
ただただ、
周りの人々と、同じように、
ただただ、
『人間』として、生きることを、始めました。
ただただ、
『人間』として、生きていれば、
当然、
さまざまな、『人間』としての『体験』をし、
さまざまな、『人間』としての『感情を味わい』ます。
そもそもは、
そんな、
「『人間』ならではの『体験』」
を、
「『人間』ならではの『感情』『感覚』を味わう」
ために、
『天使』が、わざわざ、『人間』に生まれ、『人間』をしている、
わけなのですが、
そんなこと、
記憶にありませんから、知りませんから、
そんな、『体験』『感情』『感覚』に、
圧倒されます。
翻弄されます。
それらを、
回避しようとします。
そこから、逃げようとします。
意識を逸らそうとします。
感じないように、しようとします。
そもそもは、
『感じ』てみたくて、『人間』になったものの、
いざ、実際に、
『人間』をしてみると、
そして、
実際に、『感じ』てみると、
『感じる』のは、
痛くて、辛くて、たいへんです。
場合によっては、
身体を、壊してしまったり、
精神に、異常をきたしてしまったり、
あまりに酷ければ、
死を迎えてしまうことだって、あるわけです。
しかも、
自分が、『感じ』てみたくて、『人間』になった、
という、記憶も、ありません。
ですから、
「感じないように」「感じないように」
とすることは、
『人間』をしている立場からすれば、
当然です。
ところが、
天使たちのほうは、
代表者側の、
そんな事情が、分かりません。
真面目で、真摯で、貪欲な、天使たちは、
自分たちの役割を、きっちりと、果たそうと、
代表者のために、
そして、自分たち全体のために、
代表者が、
きちんと、『感じ』られるように、
現象を、状況を、
創り、与えます。
天使たちには、
代表者が、
「しっかりと、『感じた』こと」
だけが、
伝わってきて、
理解されて、
共有されて、
分かち合われる
という、
仕組みになっています。
代表者が、
「しっかりと、『感じた』こと」
だけが、
「あぁ、なるほど、こんな『感覚』なのか!」
「あぁ、なるほど、こんな『感じ』なのかぁ ... 」
と、
天使たちに、伝えられ、受け取られ、
共有され、分かち合われる
という、
仕組みになっています。
代表者を含めた、天使たちには、
「『感じ』てみたい」と、望んでいることが、あります。
代表者が、
「では、それを、『感じ』て来ます」
と、
予定・計画した、「項目」が、あります。
そして、
「それらを、しっかりと、充分に、『感じ』て来ます」
と、
予定・計画した、「量」が、あります。
残った側の、天使たちは、
代表者が、
それらの項目を、
充分な量、
しっかりと、感じられるように、
代表者の周りの、
『環境』『状況』『現実』『現象』を、
創り出し、管理・監視しています。
自分たちが、望んだとおりの『体験』を、できるように、
代表者の周りの、『世界』を、
生み出し、管理し、調整し、監視しています。
その中には、
たとえば、
代表者が、
必要な『体験』を、できるように、
望んだ『感情』を、感じられるように、
代表者の「知人」に、
代表者に対して、
特定の行為をしてもらうよう、
(その「知人」の、サポート天使たちを、通じて)
依頼・調整する
というようなことも、含まれています
(この具体例については、過去記事「『想い』の源」を、お読みください)。
計画どおりに、予定どおりに、
「『感じ』たいこと(項目・感情)」
を、
「『感じ』たい量」
感じられるように、
天使側は、
代表者の周りの現象を、創り出しています。
ところが、
いっこうに、
代表者が、それを感じている気配が、ありません。
代表者が、それを感じたら、
それが、天使側に伝わり、受け取りますから、
「代表者が、それを『感じ』たか、『感じ』てないか?」
は、
天使側にとっては、一目瞭然です。
そして、
それが、いっこうに、伝わってこないのですから、
いっこうに、受け取れないのですから、
あるいは、
伝わってきたとしても、その「量」が、少ないので、
想定している「量」に比べて、
ほんのわずかしか、受け取れないのですから、
天使側としては、
「どうも、代表者は、それを、『感じ』られていない」
と、
判断して、当然です。
真面目で、律儀な、天使たちは、
代表者のためにも、自分たちのためにも、
予定どおり、計画どおり、
しっかりと、感じられるように、
しっかりと、感じられるまで、
現象を、創り続けてくれます。
代表者の、『人間』側の、
事情を、知らない、天使たちは、
「あれぇ、おかしいな?
これだけの『現象』に、遭遇しても、
まだ、ちゃんと、『感じ』られないのかぁ?」
「それでは、ちゃんと『感じ』られるように、
もっと、もっと、『現象』を、与えよう」
「ちゃんと、十分な量を『感じ』られるように、
もっと、激しく、厳しい『状況』を、与えよう」
と、
『現象』を、創り続けてくれます。
容赦なく、より厳しい『現実』を、
与え続けてくれます。
こんな状況で、
『人間』側は、どうしたら、いいでしょう?
一番、真っ当な方法は、
「いま、感じていることを、しっかりと、『感じてあげる』」
こと、
「いま、感じていることを、『感じ尽くしてあげる』」
こと、
ですよね。
そうすれば、
感じたことは、しっかりと、天使側に伝わり、届けられ、
「あぁ、こんな『感じ』なのかぁ ... 」
「『代表者』は、ちゃんと、感じられたんだな」
「よし、では、この『体験』は、もう、充分だ。
終わりにしよう」
「そして、次の項目を『感じ』られるように、
新たな『状況』を、与えていこう」
と、
なっていくことでしょう。
ですが、
いざ、実際に、『人間』をしてみると、
実際に、『感じ』てみると、
『感じる』のは、痛くて、辛くて、たいへんで、
だからこそ、
これまでは、『感じる』ことをせず、
回避してきた、意識を逸らせてきたのであり、
そして、それゆえに、
天使側に、伝わって行かなかったのです。
それを、
ここで、わざわざ、改めて、
『感じ』なければ、いけないのでしょうか?
もし、他に、方法が無ければ、
そうせざるを、得ないでしょう。
しかし、幸いなことに ^^ 、
『人間』側には、別の手段が、いまは、与えられています。
その、天使たちに、伝えるべき、届けるべき、
「『感情』『感覚』『体験』そのもの」
を、
身体・肉体から、引き出し、取り出し、
それを、そのまま、
天使たちに、送り渡してしまえば、いいのです。
その、「『感情』『感覚』『体験』そのもの」を、
ハートのチャクラから、
手のひらに、吸い付けて、取り出し、
それを、大きく、広げ放ち、
天使側に、送り届けてしまえば、いいのです。
人間側が、
自らの意思で、それを取り出し、
そして、それを、天使側に、送り放てば、
そうすれば、天使たちは、
それを、受け取ることができます。
そうすれば、天使たちは、
ありがたく、それを、受け取ります。
「確かに、その『感情』『感覚』を、受け取りました」
「なるほど、それは、こんな『感じ』なのですね」
と。
そして、天使たちは、
こう、続けます。
「この『感情』『感覚』については、もう、充分です。
予定『量』を、しっかりと、感じられました」
「ありがとう。おつかれさまでした」
そして、かれらは、
今度は、換わりに、
その『感情』『感覚』に関する、
「受取証」「受領証」「お礼状」
を、
そして、
その『感情』『感覚』に関する、
「修了証」「卒業証書」
を、
『人間』側に、送り返してくれます。
それを、『人間』側は、
しっかりと、手で、受け止めて、
それを、さきほどの、
「『感情』『感覚』そのもの」の換わりに、
ハートチャクラから、身体の中に、納めてあげます。
そうすれば、
これで、もう、
その『感情』『感覚』に関する『体験』は、終了です。
もう、
その『感情』『感覚』に関する『体験』は、
終わっていきます。
そして、次は、
別の、体験したい『感情』『感覚』に、入っていきます。
別の、体験したい項目に、移っていきます。
ここまでお話ししたら、
もう、改めて、お伝えする必要は、無いと思いますが、
この、
「代表者」
というのが、
みなさんです。
この、
「数百人もの仲間たちを代表して、
単身、一人っきりで、
記憶も無くし、指針も、使命も、分からないまま、
勇猛果敢に、
『体験』をしに来ている、
チャレンジャー」
こそが、
わたしたち、ひとり一人、です。
そして、
「そんな、代表者である、わたしたちを、
常に、100%、サポートしながら、
わたしたちの、『現実』を創り出している、
存在(天使たち)」
が、
『大我』『ハイヤーセルフ』
と、
呼ばれている存在です。
わたしたちは、
仲間の元を、単身、離れ、
一人、
仲間たち全員のために、代表して、
『人間』を『体験』している、存在です。
孤独で、寂しくて、心細くて、不安で、
当然です。
しかも、
もともとは、さまざまな能力を、持ち合わせた、存在でした。
いま、『人間』として、生きていることを、
無能に感じて、劣っていると感じて、不甲斐なく感じて、
当然です。
しかも、
あらゆる記憶を、忘れて、
いま、『人間』をしているわけですから、
悩んで、苦しんで、途方に暮れて、虚無感に苛(さいな)まれて、
当然です。
ですが、
わたしたち、ひとり一人には、
数百もの、数万もの、
サポートしてくれている『存在』が、ついています。
わたしたちは、
彼らのために、彼らを代表して、
いま、ここで、『人間』をしているわけです。
ですから、
彼らが、
常に、100%のサポートをしてくれるのは、当然です。
当たり前です。
心配する必要は、ありません。
また、
それを、変に、有り難がったり、畏(おそ)れたり、
する必要も、ありません。
かれらは、同じ、『仲間』であり、
しかも、「彼らのために、彼らを代表して」、
わたしたちは、ここに、こうして、居るわけですから。
わたしたちは、
ここで、こうして、『人間』として、存在し、
そして、
『人間』として、さまざまなことを『感じる』ことが、
役割です。
『人間』として、さまざまなことを『体験』することが、
使命です。
そのために、存在しています。
ただただ、『人間』として、生きていれば、
さまざまなことは、
自然と、勝手に、
『感じ』られ、『体験』されます。
しかも、
それらの、『感じる』『体験する』項目は、
サポートする側の、
『大我』『ハイヤーセルフ』によって、
調整済みです。
わたしたちは、
何も、心配することも、考慮することも、
必要ありません。
ただ、生きてさえいれば、いいのです。
わたしたちは、
「『人間』することが、仕事。」
なのです。
どうぞ、
何も、心配すること無く、
何も、怖がること無く、
ただ、生きてください。
それだけで、充分です。
やがて、
ハイヤーセルフの声が、聞こえてくるはずです、
「ありがとう」
と。
また、
もし、辛く、苦しく、感じられていることが、お有りなら、
そう、ご自分の『ハイヤーセルフ』に、伝えてください。
その、辛く、苦しい、
「『感情』『感覚』そのもの」を、
ご自分の『ハイヤーセルフ』に、送り届けてください。
報告なさってください。
「わたしは、もう、充分に、『感じ』ていますよ」
「それは、こんな『感覚』ですよ」
「どうぞ、受け取ってください」
と。
『ハイヤーセルフ』は、
ただ、勘違いをしているのです。
「あなたが、まだ、充分に、感じられていないのではないか?
「あなたの周りの環境、状況、現象が、まだ、不足なのではないか?」
と、
ただ、勘違いをしているのです。
そうでないならば、
「そうではない」
と、
「もう、充分に、感じられている」
と、
そして、
「それは、こんな『感じ』ですよ」
と、
伝えてあげてください。
教えてあげてください。
報告してあげてください。
そうすれば、
『ハイヤーセルフ』からは、
「受取証」が、「感謝状」が、
そして、「修了証」が、
贈られてくることでしょう。
あなたは、
それを、胸に、納めてください。
それが、
『(内杉式)M2』
が、
やっていることです。
今後は、
どんどんと、
遠慮なく、気兼ねなく、躊躇なく、容赦せずに ^^ 、
『ハイヤーセルフ』に、送り届けて、あげてください。
『ハイヤーセルフ』側は、
あなたからの、報告を、
首を長くして、今か今かと、待ちわびている、はずですから。
2016年2月12日金曜日
おもり(錘)、いかり(錨)
前稿 と同じ、この写真から、
話を、始めましょう。
NASA Earth Observatory
わたしたちは、
そもそも、
この写真のように、
『地球全体』を、見ていました
(その前には、
『宇宙全体』を、見ていたことでしょう)。
その高さから見ていると、
遠くて、よく見ることができず、
また、垂直方向にしか、見ることができない、
「地表」の様子を、
至近距離から、
水平方向に、
見てみたくなりました。
その高さから見ていると、
『一体』にしか、見えず、
実感することのできない、
『分離』している状態を、
体感してみたくなりました。
「ここから見ていると、
『一つの地球』にしか、見えないのに、
『彼』と『彼女』が、けんかをしたり、
『親』と『子』が、憎しみあったり、
『国』と『国』が、殺し合ったり ...
あれは、いったい、どういうことなのだろう?
あれは、いったい、どういう『感覚』なんだろう?
そもそも、『肉体』を持つ、って、どんな『感覚』なんだろう?
ぜひ、『体験』『体感』してみたい!」
そこで、
その、高い位置から、
地表の、低い位置にまで、
降りて行くことに、決めました。
元々、高い位置に居たため、
低い位置に、行くためには、
「降りる」必要があります。
「下がる」必要があります。
そのためには、
『錘(おもり)』が、必要です。
『おもり』によって、
下へ行く必要が、あります。
そこで、
わたしたちは、
身体に、手に、
『おもり』を、縛り付け、握り締め、
そして、
「地表」まで、降りて来ました。
「地表」まで、降りて来た、
わたしたちは、
見事、念願の、
『人間』に、成りました。
『人間』となり、
願望であった、『分離』を、
余すこと無く、『体験』しました。
「『肉体』というのは、
こんなにも、重く、苦しく、痛く、
こんなにも、制約のあるものなのか」
「『他人』というのは、
なんとも、思いどおりに、ならないものだなぁ」
「そんな『他人』に、気持ちが通じ、好きになってもらえると、
こんなにも、高揚するものなのか!」
「でも、大好きな『相手』なのに、
大好き故に、こんなことを、してしまうのか ... 」
「大好きな『他人』から嫌われてしまうと、
こんなにも、絶望するものなのか ... 」
「誰にも、相手にされないというのは、
誰にも、分かってもらえないというのは、
誰にも、認めてもらえない、受け入れてもらえないというのは、
なんと、孤独で、寂しく、空しく、心細いものなのだ ... 」
「これは、『自分のモノ』だぞ。
それを、勝手に使うなんて、許せない!」
「ここは、『わたしたちの土地』だ。
『おまえたち』は、出て行け!
さもなければ、殺すぞ!!」
「『おまえたち』の信じていることは、間違っている。
正しいのは、『われわれ』だ」
そんな『分離』を、
分離故の『対立』を、
分離故の『矛盾』を、『葛藤』を、
分離故の『孤独』を、『虚無』を、
分離故の『陰』を、『闇』を、
わたしたちは、
もう、これまでに、
散々、味わい、体験してきました。
もう、
望みは、叶いました。
写真の位置から、眺めていたときに、
想い、切望した、望みは、
もう、充分に、十二分に、
達成されました。
『人類』としては、
「もう十分」と、感じました。
ですから、
個人としても、「もう十分」と、感じた人は、
そう、感じた人から、
元の位置に、
『全体』を見渡す「視点」の位置に、
戻ることができます。
戻れば、いいのです。
ただ、
戻れば、いいのです。
『還る』のです。
「行く」のでは、ありません。
『冒険』に、
旅立つわけでは、ありません。
『冒険』から、帰るのです。
帰還するのです。
「今」が、
『冒険』の、最中なのです。
念願叶って、始めた、
アドベンチャーの、
平和で、至福に満ちあふれていたときに、
恋い焦がれていた、
危険極まりない、アドベンチャーの、
「今」こそが、最中なのです。
でも、
「もう、十分、味わった」
のなら、
「もう、さすがに、疲れた」
のなら、
もう、『冒険』は、終わりにして、
元の位置に、帰っていけば、いいのです。
帰るために、すべきことは、
ただ、一つ。
『おもり』を、
外すことです。
『おもり』を、
手放すことです。
『下がる』『降りる』『往く』ために、
身に付けた、握り締めた、『おもり』ですから、
『上がる』『還る』ときには、
ただ、その『おもり』を、
身体から、外せばいいのです。
握り締めた拳を、
ただ、開けばいいのです。
『おもり』は、
自然、身体から離れて行き、
わたしたちは、
元の位置に向かって、浮上していくことでしょう。
「フリーダイビング」
という、競技・スポーツが、ありますね。
ジャック・マイヨール氏や、
映画『グラン・ブルー』などで、おなじみですが、
「どれだけ、深く、潜れるか」を競う、
素潜りの、競技です。
地上で、大気に包まれて、
生まれ、育った、わたしたちは、
海中が、深海が、
どんな場所なのか、
見てみたい、体験してみたい、衝動を、
どこかしら、内包しています。
とても多くの人々が、
シュノーケリングや、スキューバダイビングを含め、
「海」を楽しみ、
「海」に、潜ります。
海に潜るために、
わたしたちは、
身体に、「錘(おもり)」を付けます。
そもそもの、わたしたちは、
地上の、水の上の、生き物で、
そのままでは、
浮いてしまいます。
そこで、
潜るためには、
下へ下がる力を、加える必要があります。
おもりがあって、はじめて、
水中深く、潜ることができます。
希望どおり、おもりを手に入れて、身に付けて、
はじめて、念願叶って、
海の中を、深く、深く、潜ることができます。
潜れば潜るほど、
闇は、深まり、
水圧は、厳しくなります。
孤独は、深まり、
呼吸も、苦しくなります。
そこは、未知の世界。
一寸先が、見えない、分からない、世界。
見慣れない、奇怪な生物にも、遭遇しかねません。
でも、
そこでこそ、はじめて、
見えるものが、あります。
知ることができることが、あります。
体感できることが、あります。
それをこそ、
見たくて、知りたくて、感じたくて、
潜ってきました。
しかし、
そんな冒険も、チャレンジも、
「もう、十分」
と、感じられたなら、
あとは、
ただ、浮かび上がって来れば、いいのです。
「もう、限界 ... 」
そう、感じられたなら、
ただ、戻れば、いいのです。
そのために、必要なことは、
ただ、一つ。
おもりを、外すことです。
潜るために、下がるために、
付け加えた、力を、
ただ、手放せば、いいのです。
そうすれば、
自然と、浮かび上がってきます。
元の位置に、戻っていきます。
今回は、
過去記事「最大のパラドックス」でお伝えしたことを、
改めて、お伝えしたくて、書かせていただきました。
ここで、一番お伝えしたいのは、
わたしたちは、
「『神』に『成る』」
のではなく、
「『神』に『還る』『戻る』」
と、いうこと。
「『上』に『往く』」
のではなく、
「『上』に『帰る』『戻る』」
と、いうこと。
そして、
そのために、必要なのは、
「『浮力』『揚力』『跳躍力』を、『得る』こと」
ではなく、
「『おもり』『重力』を、『捨てる』『手放す』こと」
だ、ということ。
「今、念願叶って、
『人間』に『成っている』」
と、いうこと。
「今が、『冒険』『探検』の、最中であり、
今が、仮の状態、『夢の中』であり、
希望が叶って、この状態を『体験』している」
と、いうこと。
「何かの『罰』で、
この状態に『成らされている』わけではない」
と、いうこと。
そんな、ことごと、です。
そんな、『パラドックス』です。
そして、
過去記事 でも、お伝えしたとおり、
わたしたちが、『人間』に、成ることができたのは、
『おもり』の、おかげです。
その、『おもり』というのは、
たとえば、津留さんは、
『エネルギーブロック』と、呼んでいるもので、
たとえば、
具体的には、
「自分(人間)は、『不完全』である」
「自分(人間)には、『分からない』『知らない』」
「自分(人間)には、『できない』」
という、『想念』です。
わたしたちは、
「『神』ならざる者」:『人間』
に、成るために、
『忘却』という方法を、採りました。
「『すべて』であり、
『全知』であり、
『全能』である、
『神』が、
『神』ならざる『体験』を、するために、
『神』ならざる者:『人間』に、成るために、
自分は、
『すべて』であり、『全知』であり、『全能』である
ということを、忘れた」
『忘却』することによって、
『忘却』し切ることによって、
「自分(人間)は、
『できない』『分からない』『知らない』
『部分』『不完全』だ」
と、
思い込むことに、成功しました。
『神』から離れ、『人間』に成りました。
その、
『忘却』というプロセスにおいて、
わたしたちは、
『記憶』という手段を、採りました。
わたしたちは、
「あぁ、これが『できなかった』」
「あれは、『分からなかった』」
「そんなこと、『知らない』」
という、体験を、
『記憶』しました。
そんな『記憶』を、無数に、蓄積することによって、
ますます、
「自分は、
『できない』『分からない』『知らない』 ... 」
と、
確信を持って、思い込むことが、できるようになりました。
こうして、
『神』から離れ、『人間』に成りました。
ここでも、また、
『パラドックス』を、使っているのですね ^^ 。
そんな、
「蓄積してきた『記憶』」
こそが、
まさに、『おもり』なのです。
わたしたちは、
そんな、
「苟且(かりそめ)の『記憶』」を、
「一時的な、便宜上の『記憶』」を、
「偽りの『記憶』」を、
忘れてしまえさえすれば、いいのです。
手放してしまえば、いいのです。
忘れてしまえば、手放してしまえば、
勝手に、
本来の、元々の、
「『神』としての『記憶』」
が、
蘇ってきます。
「自分は、『個』ではない。
『彼』も、『あいつ』も、自分だ。
自分は、『全体』だ」
「自分は、あれも『できる』。
これも、『できる』」
「それも、『分かる』。
これも、『知っている』」 ...
そのためには、
どうしたら、いいのでしょうか?
そのためにこそ、
どうぞ、『浄化』を、利用なさってください。
もう、不要となった『おもり』を、
『人間』としての『記憶』を、
『人間』として体験した『感情』を、その残りを、
不要な『感覚』すべてを、
『浄化』によって、手放してください。
それから、
最後に、もうひとつ。
このように、
わたしたちは、『おもり』によって、
『人間』に、成ることが、できました。
したがって、
『人間』をしている以上、
この『おもり』は、無くなりません。
必要です。
無くなれば、
『人間』では、いられなくなってしまうのですから。
『人間』を、続けられなくなってしまうのですから。
ですから、
ご自分が、『おもり』を握っておられることを、
否定する必要は、ありません。
悲観する必要は、ありません。
この『おもり』を、
『錨(いかり)』『アンカー』
と、
表現されている方も、いらっしゃいます。
地上に、停(とど)まり続けるための、錨。
『人間』で、居続けるための、錨。
あるいは、
『魂』を、『肉体』に停め付けるための、アンカー ...
ですから、
そんな『おもり』を、
無下(むげ)に、否定することは、無いと思います。
2016年2月10日水曜日
『どちらも』ということ(『観自在』について)
いま、あなたは、
椅子に座っています
(座っている、とします ^^ )。
椅子に座って、じっとしています。
そのとき、
あなたは、動いていますか?
停止しています、よね。
止まっています、よね。
ところが、
あなたが停まっている、
その地面は、
(日本付近においては)
時速約1,400kmの速さで、
地軸に対して、回転しています。
また、その地球そのものが、
太陽に対して、時速約10万7,280kmの速さで、
回転して、動いています。
このとき、
あなたは、動いていますか?
それとも、
止まっていますか?
このブログでは、これまでにも、何度か、
津留さんが、
「この世界は、『どちらか』ではなく、『どちらも』だ」
と、言っていたことを、
お伝えしてきました
(たとえば、過去記事「バランス」をご覧ください)。
また、前回の記事では、
「『自分』が、している」
と同時に、
「『集合意識』が、している」
ということについて、
書きました
(よろしければ、前稿「『想い』の源」をご覧ください)。
そこで、
今回は、改めて、『どちらも』、ということについて、
書かせていただければと、思いますが、
それに当たって、まず、
そもそも、
『どちらも』
というのが、どういう意味なのか、について、
個人的に、とても分かりやすい、と、思っている事例を、
ご紹介いたしました。
で、
このように、具体的に、言われてみれば、
事例によっては、
『どちらも』ということの意味、意味そのものは、
さほど、難しいこと・分かりにくいこと、ではなく、
割に、シンプルで、イメージがつかみやすいこと、
なのではないかと、思います。
わたしたちは、
「止まって」いると同時に「動いて」
います。
どちらも、同時に、成立しています。
『どちらも』です。
『どちらも』というのは、
たとえば、こういうことなのです。
では、なぜ、
わたしたちは、ふだん、
『どちらも』ではなく、『どちらか』と、
認識・判断しがちなのでしょうか?
ひとつには、
先の記事にも書きましたが、
これまで、わたしたちの社会は、社会システムとして、
「正解は、1つ」
という認識に基づいて、活動してきたからです。
表現を換えれば、
これまで、わたしたちは、社会全体として、
「正解は、1つ」
という『体験』を、してきたからです。
なので、
わたしたちは、
『どちらか』であると、習慣づいています。
わたしたちの脳・思考は、
『どちらか』であると、考えがち・判断しがちです。
もうひとつには、
こう、言えるかもしれません。
わたしたちが、
『どちらか』
と、感じるときには、認識するときには、
わたしたちは、
その対象を、ある「基準」から、見ています。
わたしたちが、
「動いているか、いないか」
を、認識・判断するときには、
わたしたちは、
「対象物が、今いる位置から、周辺に対して、
位置移動しているか、いないか」
で、認識・判断しています。
つまり、
「周辺に対する、現在位置」
を、「基準点」とし、
「その基準点から、物理的に、位置移動しているか、いないか」
で、認識・判断しています。
「椅子に座っている自分が、動いているか?」
という例でいえば、
「周りに存在するモノに対する、いま居る位置」
を、基準点とすれば、
あるいは、
「地球表面に対する、いま居る位置」
を、基準点とすれば、
わたしは、動いていません。
ところが、
「地軸に対する、いま居る位置」
「太陽に対する、いま居る位置」
というものを、基準点をすれば、
わたしたちは、どの瞬間においても、
猛烈なスピードで、動き続けています。
つまり、
どのような認識も、判断も、
そのベースには、必ず、
前提となる「基準」が、存在しています。
それを、意識していようと、していなかろうと、
わたしたちの認識や、判断には、
必ず、
「基準」が、「ものさし」が、
前提として、存在しています。
ところが、
ほとんどの場合、
わたしたちは、
「基準」「ものさし」を基に、判断・認識している
ということを、意識できていないし、
また、わたしたちは、
ほとんどの事項に関して、
そのような「基準」「ものさし」を、
無意識のうちに、持っている・内包している・握りしめいている、
ということを、認識できていません。
気づけていません。
あるいは、
認識できていたとしても、
気づけていたとしても、
それを、外せません。
捨て去れません。
手放せません。
だから、
どうしても、
片方からしか、見ることができないのです。
だから、
どうしても、
『どちらか』としか、認識できないのです。
感じられないのです。
体感できないのです。
納得できないのです。
腑に落ちないのです。
ちなみに、ですが、
そのような「基準」「ものさし」を、
「価値観」「固定観念」「社会通念」を、
自ら、手放し、取り外していく行為が、
『浄化』
に、なります。
なので、
『浄化』を進めていただくと、
自然と、
『どちらも』ということが、どういう意味なのか、
分かってくるとともに、
『どちらも』と、
感じられるようになってきます。
さて、ここで、
もう一つ、事例を、出しましょう。
いま、あなたは、
椅子に座っています
(再び、座っているとします ^^; )。
いま、
あなたは、いますか?
もちろん、
あなたは、いますよね。
存在しています。
存在して、椅子に座っています。
ここで、視点を、
ぐ〜〜っと、高く高く、上げてみてください。
下の写真の位置にまで、
高く高く、上げてみてください。
ここに、
あなたは、いますか?
あなたは、いませんか?
あるいは、
そこにあるのは、地球そのもの
では、ありませんか?
NASA Earth Observatory
津留さんや、他の覚者が、
「『他人』は、居ない」
とか、
「すべては、一つ」
とか、
「『あなた』は、『神』である」
と、よく言うけれども、
その意味が、
どうしても、分からない。
そう、感じられない。
腑に落ちない。
という感想を、お悩みを、
よく、耳にします。
僕自身、ずっと、そうだったので
(いまだって、そうなのですが ^^; )、
そのお気持ち、おっしゃっている意味は、よく分かります。
で、
そう、思われていらっしゃる方は、
どうぞ、
たとえば、この写真のような視点から、眺めて、
『自分』とか、『他人』とか、『人類』とか、『地球』とか、
そのようものについて、考えてみてください。
そうしてみると、
この視点から、見てみると、
『自分』とか、『他人』とか、
その、区別も、違いも、分離も、無くありませんか?
そして、
この視点から、見てみると、
わたしたちは、
「わたし」であると同時に「地球そのもの」
では、ありませんか?
「個人・部分」であると同時に「全体そのもの」
では、ありませんか?
津留さんや、覚者たちは、
「この視点から、
『自分』や、『他人』『人類』を、見ている」
のです。
あるいは、
「この視点から『も』、見えている」
のです。
先ほどは、
ある特定の「基準」「ものさし」を持っているから、
『どちらか』、としか、認識できない
という話を、しました。
これを、今度の事例に即して、
別の表現で、こうも、表すことが、できるでしょう。
わたしたちは、
ある特定の「視点」からのみ、見ているから、
『どちらか』、としか、認識できない
と。
あるいは、
こう、表すことが、できましょう。
わたしたちは、
「視点」が、固定されているから、
『どちらか』、としか、認識できない
と。
「視点」が、一点に、固定されているので、
ある一つの「見方」しか、見られないのです。
ある一つの「見え方」にしか、見えないのです。
常に、「こう」としか、感じられないのです。
「視点」が、
「『自分』の目」の位置
に、固定されているのです。
「この肉体としての『自分』の目」
からしか、見られていないのです。
だから、
いつも、同じようにしか、見られないし、
同じようにしか、感じられないのです。
認識できないのです。
この「視点」を、
移動させることが、できていないのです。
ところが、
この「視点」を、
たとえば、まず、
「水平方向」に動かすことができれば、
たとえば、
「『自分』の目」の位置から、
「『彼』の目」の位置に、動かすことができれば、
そうすれば、
『彼』の見え方が、見えるようになってきます。
そうすれば、
『彼』の感じ方が、感じられるようになってきます。
そうすれば、
『彼』のことが、理解できるようになってきます。
『彼』に、共感することができるようになってきます。
そして、
『彼』のことを、許せるようになってきます。
これまで、
「どうして、いつも、そうなの?」
「こうしてくれないなんて、信じられない!」
「あんなことするなんて、許せない ... 」
そう、思っていた、『彼』のことが、
徐々に、理解できるように、なってきます。
共感できるように、なってきます。
許せるように、なってきます。
こうして、
「理解」し、「赦し」、「共感」できた、
『彼』のことは、
まるで、『自分』のように、
感じることができるように、なってきます。
『彼』と『自分』を合わせた、
それを、『自分』と、
新たに、感じられるように、なってきます。
『自分』が、広がります。
こうして、
「理解」し、「赦し」、「共感」できた部分を、
『自分』のように、感じられるように、なってきます。
「視点」を動かせる範囲が、広がれば広がるほど、
「理解」「赦し」「共感」できる部分が、増え、
『自分』と感じられる範囲が、広くなってきます。
『自分』が、広くなってきます。
『自分』が、大きくなってきます。
『他人』が、少なくなってきます。
『他人』が、小さくなってきます。
つづいて、
この「視点」を、
今度は、「垂直方向」に動かすことができれば、
さきほど、
「地球全体」を、目にしていたときのように、
これまでは、
『わたし』と、『彼』
『自分』と、『他人』
と、
分かれていた、分離していた、存在そのものが、
そもそも、存在として、
一つのものに、見えてきます、感じられてきます。
『分離』が、
「ある、限定された視点」からの、
ひとつの、見え方に過ぎなかったことが、
分かってきます。
『分離』が、
いわば、幻想であったことが、
分かるように、なってきます。
感じられるように、なってきます。
こうすると、
もともと、一つであった、すべてであった『神』そのものが、
分離して、分割して、『人間』となった、その果てに、
今度は、
再び、
結合し、融合し、統合して、
元の『一つ』に、戻っていきます。
『神』に、還って行きます。
このように、
自分の視点を、
水平方向、垂直方向に、
自在に、動かすことができれば、
あらゆる「立場」から、
物事を見ることが、できるようになり、
あらゆる「立場」から、
物事を理解することが、できるようになり、
あらゆる「立場」から、
物事を感じることが、できるようになってきます。
すべてが、自分になります。
対立が、無くなります。
すべてが、見えてきます。
すべてが、感じられてきます。
『自分』『個』『エゴ』からの、
離脱です。
そうなれば、
『苦しみ』『葛藤』『悩み』『恐れ』から、
離れることができます。
解脱です。
これが、
『観自在』
と、一般に、表現されていることだと、
僕自身は、理解しています。
このことを、逆に見れば、
わたしたちが、
『苦しみ』や『悲しみ』、『恐れ』『不安』に、
苛(さいな)まれているのは、
わたしたちが、
自在に観ることが、できていないからです。
視点を、
自在に、動かすことが、できていないからです。
「『自分』の目」の位置から、
動かすことが、できていないからです。
「『自分』の目」の位置に、
視点が、固定されてしまっているからです。
では、
なぜ、「『自分』の目」の位置に、固定されているのでしょう?
それは、
「『自分』の目」の位置から見える、画像が、
あまりに、リアリティーが、有り過ぎるのです。
そして、
そのリアリティーは、
「『自分』の肉体」が感じる『感覚』が、
あまりに、強く、大きく、激しいことに、
由来しています。
『自分』の感じる「痛み」が、
『怖さ』が、『不安』が、『悲しみ』が、『辛さ』が、
あまりにも、強く、激しく、くっきりとしているので、
「『自分』の肉体」の存在感が、
あまりに、「リアル」に、感じられてしまうのです。
だから、
その、「『自分』の肉体の目」の位置に、
吸引されてしまうのです。
「『自分』の肉体の目から見える、画像に、
引き寄せられ、捕らえられてしまうのです。
また、
その、「『自分』の肉体」が感じる『感覚』が、
途切れること無く、ひっきりなしに、
やって来ているから、
どうしても、
絶えず、「『自分』の肉体」に、引きつけられ続けて、
そこから、離れられないのです。
さらには、
それらの感覚の強さ、激しさ、故、
「『自分』の肉体を、守らなくては」
「これ以上、『自分』の肉体が、痛まないようにしたい」
との想いが、自然、湧き、
「『自分』の肉体の目」の位置に、
積極的に、居て、監視をして、
「『外の世界』から、『自分』を守ろう」
「『外』から、これ以上、傷つけられないように」
と、します。
『自分』と、『外』とを、
さらに、分離させていってしまいます。
ますます、
『外』から離れて、『自分』を守るために、
『外』を、『外』側へと、押し離し、押し退け、
『自分』と『外』とを、離していき、
その「反作用」で、
ますます、意識が、『自分』方向に、入り込んでいきます。
『自分』から、離れられなくなってしまいます。
『自分』に、固定されてしまいます。
『意識』は広がらず、拡大せず、
『意識』は、縮こまり、収縮していきます。
これが、
「肉体の『自分』」から、
「視点」が離れられない、理由です。
水平方向に、垂直方向に、
動かせない、理由です。
『観自在』に、近づくためには、
『観自在』の方向に、向かうためには、
したがって、
『自分』が感じる『感覚』、
『自分』が感じる「痛み」を、
『怖さ』を、『不安』を、『悲しみ』を、『辛さ』を、
無くしていくこと、少なくしていくこと、
それを、進めて行くことです。
そして、
これもまた、
『浄化』が、行っていることです。
『浄化』で、行うことです。
ご自分が、感じておられる、ネガティブな感覚、
『怖さ』を、『不安』を、『悲しみ』を、『辛さ』を、
その「痛み」を、
どうぞ、
ただ、そのまま、
手放してください。
解放してください。
M2で、
宇宙の源に、送り返してください。
行えば、行うほど、
『自分』が感じる、ネガティブな感覚が、
減っていくことでしょう。
それによって、
「これまでの『自分』」が、
揺らぎ、震え、崩れ、溶け、
「新たな自分」が、
浸み広がって行きます。
ご自分の『視点』の、活動域が、
これまでにはなかった、拡大をみせ、
ご自分の『視点』が、
これまでとは違って、
飛び跳ね回る体験を、なさることでしょう。
2016年2月9日火曜日
本「津留さんが、心から伝えたかったこと。」再販開始のお知らせ
みなさまに、
とっても嬉しい、お知らせがございます!
長らく、版元品切れで、販売ができませんでした、
本「津留さんが、心から伝えたかったこと。」が、
このたび、増刷によって、再販売可能となりました! ^^/
これまで、お待たせしました みなさん、
たいへん申し訳ありませんでした。
もう、数年間、品切れ状態が続き、
たいへんに、ご迷惑をおかけいたしました。
が、
このたび、出版元である、英光舎。さんが、
増刷をしてくださいまして、
めでたく、再販売できる運びとなりました。
本日より、こちら のページで、
販売を開始いたしております。
在庫が潤沢な、この機会に、
どうぞお求めください。
そして、
じっくり、たっぷりと、
津留さんを、お楽しみください ^^ 。
なお、
本「人間らしくて、いいじゃないですか」につきましても、
同様に、出版元の英光舎。さんに、
増刷をお願いしています。
いずれ、みなさまのお手元に、お届けできるものと、
前向きに、起きてくることを、観察しているところです。
ご購入をご希望のみなさまには、
ご迷惑をおかけいたしておりますが、
どうぞ、ひきつづき、ご理解を賜りますようお願い申し上げます。
集合人編集局 ゆうこ・ひで (2016年2月9日)
2016年2月6日土曜日
『想い』の源
「ああしてみたいなぁ」
「こんなだったら、いいのにな」
「あんなことになったら、どうしよう」
「もし、そんなことになったら、いやだ」
「あ、こうしてみようかな」
「そうか、そうしたらいいんだ」
日々、生活している中で、
わたしたちには、
さまざまな、
希望・願望や、恐れ、
あるいは、
アイデアや、考え、思考、想念など、
いろいろな「想い」が、
湧いて来たり、湧き上がって来たり、
こみ上げて来たり、
ひらめいたり、思いついたり、
していますよね。
わたしたちは、
「その事実」をもって、
自分『が』、
そう、感じたり、考えたりしている、
と、認識しています。
表現を変えると、
それらの、
願望や、恐れ、アイデアなどの、想いは、
『外側』から、
与えられた、わけではなく、
『外側』から、
渡され、聞かされ、思わされた、わけではなく、
自分の『内側』から、
自然と、
湧いて来た、こみ上げて来た、ひらめいた、ものなので、
わたしたちは、
「その事実」をもって、
それらは、
「『自分』から、出て来ている」
と、認識しています。
もちろん、
そのこと、そのものは、
そのとおりです。
それは、
『自分』から、出て来ています。
ですが、そのとき、
その、出て来ている「元」「根源」の部分は、
果たして、
ほんとうに、『自分』、なのでしょうか?
ここで使っている言葉を、
より、詳細に、厳密に、扱えば、
ここまでで、
『自分』
と、表現してきたものは、
ふだん、わたしたちが、
これまでの、わたしたちが、
無意識にうちに、当然のものとして、
認識している、
「いわゆる、『自分』」
の、ことであり、
それは、
「この、自分という一つの『肉体』そのもの」
のことであり、
あるいは、
「この、自分という一つの『肉体』に、付着し、
この、自分という一つの『肉体』だけを、知覚し、認識している、
意識部分」
のことです。
ここでは、
そのように、『自分』を、定義した上で、
で、
その、さまざまな想いが、出て来ている、「元」の部分は、
ほんとうに、その、
『自分』
なのでしょうか?
『自分』の内側にあるから、
無意識のうちに、当然のこととして、
疑うこと無く、検証することも無く、
それを、そこを、その部分・その領域を、
「『自分』である」
と、認識していますが、
それは、ほんとうに、
『自分』
なのでしょうか?
そう、「証明」することは、できますか?
そう、「立証」することは、できますか?
『エゴ』の観点からいえば、
それは、そこは、
疑いも無く、
『自分』です。
そのこと、そのものは、
そのとおりです。
わたしたちが、これまで、
認識してきたとおり、です。
それを、否定する必要は、ありません。
ですが、
別の観点からいえば、
別の見方からいえば、
別の立場からすれば、
それは、そこは、
「いわゆる、『自分』」
では、ありません。
別の立場、
たとえば、
「いわゆる『エゴ』」から離れた立場
からすれば、
それは、そこは、
「『自分』の中」
「『自分』の内側」
では、あるけれども、
しかし、それは、
『自分』
すなわち、
「個人としての自分」
「肉体としての自分」
「エゴとしての自分」
では、ありません。
そのような立場、見解、認識からすれば、
それは、
そのような『自分』を超えた、
「『大我』としての自分」
「『内なる神』としての自分」
「『集合意識』としての自分」
としての、「自分」、
なのです。
すなわち、
わたしたちは、
ふだん、これまで、
「自分の内側」から、湧き上がり、こみ上げ、
「自分の内側」で、ひらめき、思いついている、
から、
自分の感情や、意向、思考や、発想を、
「『自分』が、想っている」
「『自分』が、ひらめいている」
と、認識していますが、
このような見解からすれば、
それは、
「『自分』が、想っている」
のではなく、
「『自分』が、ひらめいている」
のでは、ありません。
「『自分』を超えた、『大我』としての自分」が、想っている
のであり、
「『自分』を超えた、『ハイヤーセルフ』としての自分」が、ひらめいている
のであり、
『自分』は、
「『自分』が、想っている」と、思わされている
だけであり、
「『自分』が、ひらめいている」と、思わされている
のです。
『自分』は、
ただ、そう、「想わされている」のであり、
ただ、そう、「ひらめかされている」のです。
『自分』が、しているわけではなく、
『自分』は、操作されているのです。
操られているのです。
あるいは、
『自分』は、
「発想している」
わけではなく、
「『大我』としての自分」
「『ハイヤーセルフ』としての自分」
「『集合意識』としての自分」
の想いを、
『自分』は、
「受け取っている、キャッチしている、受信している」
だけに、過ぎないのです。
以前、わたしたちのところに、来てくださった方が、
次のようなご体験を、教えてくださいました。
その方曰く、
その方は、完全に、ご自分の『大我』(ハイヤーセルフ)と、
繋がっていらっしゃる、のだそうです。
で、
ある日、道を歩いていると、
前から、知人が歩いて来るのが、目に入りました。
そして、知人が、目の前まで、近づいてきた時、
突然、その知人の『大我』(ハイヤーセルフ)が現れ、
「申し訳ないが、このセリフを、言ってくれませんか?」
と、
台本(シナリオ)を、見せてきたのだそうです。
どうやら、その知人は、
「誰かから、そのようなことを言われる」
という体験が、必要だったようです。
そこで、その知人のハイヤーセルフは、
彼女に、頼んだのでした。
ところが、その台本を見てみると、
その内容が、
それを言えば、確実に、相手(知人)が怒るもの、だったので、
彼女は、はじめ、逡巡(しゅんじゅん)したそうです。
でも、ハイヤーセルフからの頼みだったので、
「必要なことであろうから」と、渋々ながら、承諾し、
セリフを、そのとおりに、読み上げたのだそうです。
そうすると、
予想どおり、相手(知人)は、怒り、行ってしまったそうですが、
『大我』からは、「ありがとう」というように頷かれた、そうです。
彼女は、日ごろ、このような類いのことを、
多くされていらっしゃる、とのことでした。
そして、そのとき、彼女は、
「自分の役割は、果たすけれども、
人間としては、誤解されるので、辛い」
と、涙ながらに、わたしたちに、語ってくれました。
さて、
この、彼女の教えてくれた事例では、
彼女は、
「知人のハイヤーセルフから頼まれて、
そして、自ら承諾のもと、『自分』が言った」
ということを、
知覚・認識できていました。
「このアイデアの元は、彼女のハイヤーセルフである」
ということを、
知覚・認識していましたし、
「そのセリフを、言う」
ということを、
彼女自身が、(渋々とはいえ)自分の意思で、行った、
ということを、
自覚していました。
普段から、
『大我』(ハイヤーセルフ)と繋がっている、彼女には、
『大我』の意識レベルでの、意図や想いを、
感じ、知覚・理解できているので、
「『大我』の想いに従って、『自分』が行った」
ということが、
自覚・認識できていました。
ところが、
普段、そのような状態に無い、わたしたちは、
それが、
「『大我』の想い・意図である」
ということが、
知覚・認識できません。
なので、わたしたちは、
「『自分』の内側から、湧いてきた」
という事実を持って、
「『自分が』、発想した」
「『自分で』、そう思った」
「『自分が』、そう感じた」
と、思っています。
ですが、
それを知覚できる人からすれば、
あるいは、そのような見解の人からすれば、
実は、それは、
「『大我』の想い」
であり、
「『ハイヤーセルフ』の意図」
なのです。
実は、
わたしたちが感じている、想いの、
「元」は、「源」は、
『大我』『ハイヤーセルフ』
なのです。
『内なる神』『集合意識』の領域
なのです。
『自分』では、ない
のです。
わたしたちは、
「元々の『神』では、『体験』できないこと、を、
『体験』するために、『人間』をしている」
存在です。
そう、仮定してみてください。
そのとき、
「『体験』したいこと」を、体験するためには、
たとえば、
誰かに、何かを「される」体験、
そして、それによって、何かを感じる体験、をするためには、
「誰かに、何かを『される』」
必要が、あります。
誰かに、何かを、『してもらわ』なければ、なりません。
あるいは、
誰かに、何かを「してしまう」体験、
そして、それによって、何かを感じる体験、をするためには、
「誰かに、何かを『してしまう』」
必要が、あります。
誰かに、何かを、『し』なければ、なりません。
そのとき、
エゴとしての『自分』には、
「このような『体験』がしたい」
ということについて、
自覚や、認識が、無いかもしれません。
しかし、それでも、
『大我』としての自分、
『ハイヤーセルフ』としての自分、
『集合意識』としての自分が、望んでいる、
「このような『体験』をしたい」
という体験を、実体験するためのは、
エゴとしての『自分』は、
そのように、「動いてしまう」「動かされてしまう」
という必要が、あります。
そして、『ハイヤーセルフ』は、
『自分』が、そのように動くように、
『自分』に、仕向ける必要があります。
そのとき、
『自分』は、勝手に、動きますよね、
それを、
「『自分』が、想った」
と、感じることによって ...
わたしたちは、
「したい『体験』」をするために、
「感じてみたい感情を『体験』」するために、
みんなで、一緒になって、
一つの
「『人間』ドラマ」
を、繰り広げていて、
自分にとって必要な行動を、取ってみたり、
相手にとって必要な行動を、取ってみたり、
相手にとって必要な『役柄』を、演じてみたり、
ということを、
お互いに、し合っているのです。
「して『あげ合って』」いるのです。
『地球人間ゲーム』というのは、
(ある側面から見れば)
このような、ドラマなのです。
『筋書きのある』、舞台演劇なのです。
わたしたちは、
その『筋書き』に沿って、動いているのです。
『動かされている』のです。
いつでも、
『ハイヤーセルフ』『集合意識』の書いた、筋書きを、
読まされているのです、
その内容を、内側に、送り込まれることによって ...
それを、あたかも、まるで、
「『自分』が、想った」
かのように、感じることによって ...
「『自分』で、考え、思い、発想し、行動している」
それも、『事実』です。
「『自分』で、生きている」
それも、
実感を伴った、リアリティーのある、『事実』です。
一つの見方からすれば、
それは、そのとおり、『事実』です。
ですが、
同時に、
「『自分』は、思わされて、思いつかされ、行動させられている」
それも、また、『事実』です。
「『自分』は、『生かされている』」
それも、また、
同時に、同様に、『事実』です。
どちらも、
『事実』です。
どちらも、
同時に、成立しています。
前稿「『自分』に、責任は無い」では、
「『自分』は、『自分』の責任ではなく、
『自分』の周りに居る人(々)の、所為(せい)だ」
ということを、
書きました。
同じ文脈で言えば、
本稿は、
「『自分』は、『自分』の責任ではなく、
『ハイヤーセルフ』『集合意識』の、所為(せい)だ」
ということを、
お伝えしたいと思い、書きました。
わたしたちは、みな、
『自分』であり、『自分』そのものです。
ですが、
同時に、
わたしたちは、みな、
『集合意識』の一部であり、『集合意識』そのものです。
「何かを、してしまったこと」
「何かを、できなかったこと」
「何かで、あれなかったこと」
「何かで、あれないこと」...
それを、
「それは、『自分』の所為(せい)だ」
と思えば、
それは、そのとおり、ではありますが、
ですが、
同時に、まったく同様に、
それは、
「『集合意識』の所為(せい)だ」
「『宇宙』の所為(せい)だ」
と、いうことも、できます。
そう、認識することも、できます。
そう、みなすことも、できます。
『どちらも』、です。
そのとき、
「『自分』の所為だ」と、
『ご自分』を責めることも、できます。
それによって、辛く、苦しくなることも、できます。
それも、ご自由です。
それも、貴重な『体験』です。
おそらく、恋い焦がれて、したかった『体験』なのでしょう ^^ 。
ですが、
『どちらも』ですから、
『どちらでも、いい』のですから、
少なくとも、
『ご自分』を責める『必要性』は、
無いのでは、ないでしょうか?
『ご自分』が、『幸せ』に感じられる考え方を、
『ご自分』が、より『幸せ』になれる見解を、
採られても、いいのではないでしょうか?
2016年2月1日月曜日
『自分』に、責任は無い
みなさん、
『鏡の法則』を、
ご存知ですよね?
このブログでも、
以前、『鏡の法則』について、書きました
(よろしければ、ぜひ、過去記事「『鏡』の使い方」を、お読みください)。
「自分の周りにあるモノ、
自分の周りに居る人、
自分(の周り)に起きてくる出来事は、
自分の内面・内側を、映し、表している」
一般的には、
このように、理解されている、
スピリチュアルな法則、ですよね。
津留さんは、別の表現で、
「想っているとおりを、体験する」
と言ったり、
あるいは、
「自分が、現実の、『創造主』」
と言ったりも、
していましたが、
いずれにせよ、
「自分の外側は、
自分の内側の投影である」
と、
理解されている内容、ですね。
多くの人にとって、
スピリチュアルなことに、興味を持ち、
スピリチュアルなことを、学び始めると、
最初のうちに出会う、法則・ルール・仕組み、
ではないでしょうか。
そして、
この法則のことを、知ると、
「へぇ、そうなんだ。そういうものなのか」
とか、
「なるほど。確かに、そうかもしれない。
自分の人生を振り返ってみると、当てはまっているかもしれない」
と、
たいていの方は、
こんな、いままで、『普通の社会』で生活していたときには、
知ることの無かった仕組みの存在に、ウキウキ、ワクワクして、
「スピリチュアルなこと」への、興味を深めるきっかけとなったり、
さらには、
「よし。 それは、いいことを知った。
じゃあ、これを、活用してみよう」
と、思われて、
自分を取り巻く現実を、変えようとしたり、
自分にとって望ましい現実を、創造しようとされたり、
するのではないか、と、思います。
ところが、
多くの人にとって、この法則は、
スピリチュアルな道のりを、歩んでいく上で、
これまた、最初に、つまずき、立ち止まり、立ち尽くす、
壁・障壁・障害のような、存在かも、しれません。
「おかしいな。これだけ、内側に、言い聞かせているのに、
どうも、都合の良い現実が、現れてこない ... 」
とか、
「これだけ、潜在意識に、落とし込んでいるのに、
まったく、周りは、変わらないぞ」
とか、
「こんなに強く、良くなるように、望んでるのに、
なんで、反対のことが、起きて来ているんだろう」
とか、
鏡に映る『像』が、
どうも、望みどおりにならないことに、
戸惑い、憤り、絶望されたり、なさったかも、しれません。
あるいは、
変わらない現実、もしくは、悪化する『像』を目にして、
「いったい、自分は、何を内側に持っているのだろう?」
「こんな現実を生み出しているなんて、自分は、なんと、至らないのだ」
「私は、ダメな人間です。
だって、こんな現実を、生み出してしまっています ... 」
と、
この法則を、知ったことによって、
むしろ、自分を責め、自分を否定し、
かえって、辛く、悲しく、苦しまれておられる方が、いらっしゃいます。
美輪明宏さん、曰く、
「スピリチュアルを知ることは、人生を、カンニングしているようなもの」
と、言われるように、
スピリチュアルなことを知ること、そして、それを活用することは、
いままで(知る前)よりも、より、幸せになること、であったり、
いままでよりも、効率的に、幸せになること、であったり、
いままででは成り得なかったくらい、幸せになること、であったり、
が、その目的で、あるはずなのに、
その知識を、得たがために、
かえって、幸せとは、反対方向に、
ベクトルを向けてしまっておられる方が、いらっしゃいます。
「幸せ」になるための道具を、手にしたがために、
かえって、苦しまれることに、なっていらっしゃる方が、いらっしゃいます。
『鏡の法則』というは、このように、
知ったがために、かえって、苦しんでしまうケースが、多くあるようです。
スピリチュアルな道のりを歩むと、
その、比較的早い段階で、まず、出会うのが、
この、
「『鏡の法則』トラップ(『鏡の法則』の罠)」
と、言えるかもしれません。
そこで、もし、
過去に、そんな『トラップ』に、はまってしまったことが、あったり、
現に、いま、そんな『トラップ』に、はまってらっしゃる方が、いらっしゃったら、
ぜひ、以下のように、お考えになってみていただければ、と、思います。
では、ここで、
視点を、ぐるっと、180度、変えてみましょう。
「自分の外側は、
自分の内側が、投影されたもの。
だから、
あんな現象が存在するのは、私の所為(せい)。
あんな人が存在するのは、私がいけないから。私が至らないから」
そう、思っていらっしゃるとき、
視線を、ぐるっと、180度、反転してみましょう。
仮に、
「あんな彼」を、
「あんな妻」を、
「あんな上司」を、
「あんな姑(しゅうとめ)」を、
生み出しているのが、『自分』、だとしたら、
では、
「そんな『自分』」
を、生み出しているのは、
いったい、誰でしょうか?
「あんな『外側』」
を、生み出しているのが、『自分』なのなら、
では、
「そんな『自分』」
を、生み出しているのは、
いったい、誰でしょうか?
『鏡の法則』を、適用すれば、
「そんな『あなた』」
を、生み出しているのは、
「あんな彼」であり、「あんな妻」です。
「あんな上司」であり、「あんな姑」です。
『あなた』を、生み出しているのは、
『あなた』では、ありません。
『あなた』を、生み出しているのは、
「彼」です。
「妻」です。
「上司」です。
「姑」です。
『あなた』を、生み出しているのは、
『あなた』では、ありません。
ですから、
『あなた』が、「そんな」であるのは、
『あなた』の所為(せい)では、ありません。
『あなた』が、「そんな人間」であるのは、
『あなた』の所為(せい)では、ありません。
『あなた』が、「いつも、そんなことをしてしまう」のは、
『あなた』の所為(せい)では、ありません。
『あなた』が、「いつも、そうできない」のは、
『あなた』の所為(せい)では、ありません。
それは、
「彼」の所為(せい)です。
「妻」の所為(せい)です。
「上司」の所為(せい)です。
「姑」の所為(せい)です。
それは、
あなたの周りに居る、
「あんな人々」の所為(せい)です。
それは、
『あなた』の所為(せい)では、ありません。
『あなた』に、瑕疵(かし)は、ありません。
『あなた』に、責任は、ありません。
『あなた』に、問題は、ありません。
『あなた』は、悪く、ありません。
『あなた』は、まったく、悪く、ありません。
『あなた』は、
ただ、そのように、ならされているのです、
『あなた』は、
ただ、そのように、させられているのです、
あなたの、周りの、その人々の為に ...
もし、『鏡の法則』を知って、
そのために、かえって、苦しまれている部分が、
もしも、あるとすれば、
ぜひ、そのような認識は、
これを目にされた、いまを機会に、
どうぞ、お捨てになってください。
そして、スピリチュアルな情報は、
ぜひ、「自分を幸せにする」ためだけに、
使われてください。
「自分を、苦しめてしまう、辛くしてしまう」
ような情報であれば、
それは、あなたには、必要がありません。
どうぞ、
たとえ、それが、津留さんの言っていたことであったとしても、
勇気を持って、自信を持って、
捨て去ってしまってください。
そして、
どうぞ、
素敵な、素晴らしい、「カンニング・ライフ」を、
堂々と、楽しく、歩まれてください ^^ 。
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