2014年12月31日水曜日

この一年、ありがとうございました(2014年大晦日に)


服喪中につき、
年末年始のご挨拶を、ご遠慮させていただきます



2014年、この一年、
集合人編集局は、
多くのみなさまにご愛顧いただき、

おかげさまで、無事に、
年を越すことができそうです。

みなさま、まことにありがとうございました。


2014年、ほんとうに多くの方々に、
津留さんの書籍・冊子、CD/DVDをお求めいただきました。

また、
私たちの催した、津留さん交流会・浄化実践講習会・個人セッションには、
大阪・鹿児島・札幌でのイベントへのご参加を含めると、
のべ387名もの方々に、ご参加いただきました。

改めまして、みなさま、ありがとうございました。


多くの方々に、
直接、津留さんのメッセージをお手元に置いていただいたり、

あるいは、
私どもが、直接お会いして、その骨子をお伝えしたりと、

津留さんが遺してくれたメッセージを、
たくさんの方々にお届けすることができたことを、
とても嬉しく思っています。

また、
浄化の方法をお伝えしたり、
そのお手伝いしたりと、

津留さんの遺してくれた『実践方法』である、
『浄化』についても、
たくさんの方々にお伝えできたことを、
とても嬉しく感じます。

いずれにせよ、
津留さんを通して、
この一年だけでも、とてもたくさんの方々とご縁をいただけたことを、
こころから、喜ばしく思います。


来年も、また、
特に気負うことなく、
目標や想いを持つこともなく、
淡々と、
すべきことをし、起きてくることに対処していこうと思っています。

どうぞよろしくお願いいたします。


 集合人編集局 裕子・ひで





2014年12月26日金曜日

冬至出雲旅行記


12月21日から23日まで、
家族で、出雲へ行ってきました

(その間、ご注文をくださったみなさま、
 ご対応が遅くなりましたこと、
 まことに申し訳ありませんでした)。


今年の冬至は、12月22日でしたね。
そして、その日は、新月でも、ありました
(ちなみに、大安でも、ありました ^^ )。

「冬至」は、
一年で、一番、日の短い日。

そして、この日を境に、
日が長くなって行きます。

『陰』が極まり、
そして、『陽』となって行く日です。

また、「新月」は、
月が見えない日です。

「月明かり」についても、
『陰』が極まり、『陽』となって行く日ですね。

「新月」のときは、また、
地上の私たちの位置からは、太陽と月が、同方向にあり、
まるで、一緒に、移動しているかのようです。

 太陽と月が、手を携え、
 ともに、『陰』を極め、
 そして、『陽』へと反転して行く ...

しかも、
そんな、冬至と新月が重なるのは、
19年に1度、
なのだそうです。

 これまでの19年間を、一区切りし、見つめ・手放し、
 そして、これからの19年を、
 新たな、より調和したものとしていきたい ...

そんな想いを胸に、
このタイミングで、
山陰にある、出雲大社さまに、
お詣りさせていただくことができました。





これからの、新たな19年については、
いま現時点での、宇宙の流れ・地球の進展にそくして、
 「より『融合』『調和』した社会」
へと進んでいけるように、意図しました。

ここ数年、
さまざまなご神事が執り行われ、
 「『日向』と『出雲』の和合」
が、なされて来た、と聞いています。

この秋には、
「皇室」と「出雲大社」との間でのご婚儀も、ありましたね。

僕個人についても、
「『日向』の祖」ともいうべき地、
霧島神宮および高千穂峰に、
今年、すでに、伺うことができていました
(伺ったのは、そのご婚儀の、1週間前でした)。

ですので、今回、出雲の地にも、伺うことができ、
そこで、新たな19年の始まりを迎え、
そして、さらなる『和合』『融合』を、
こころに想い描くことができたことには、
とても感慨深いものがあります。

すべては、
『全体』・『宇宙』の計らいであり、
かつ、
3次元的には、すべて、妻の計らいであり、

人間意識の、僕としては、
ただ、感謝しかありません。

ありがとうございます。


妻にとっては、約20年ぶり、
僕にとっては、はじめての、
出雲詣では、

雪という、事前の予報からすると、好天に恵まれましたが、
それでも、気温も低く、陽射しも少なく、風も強く、
『老体』^^ には、少々、厳しい部分もありました。

ですが、
出雲大社さまは、
当然でしょうが、とても素晴らしいお宮でした。



また、出会う人、出会う人、みなさんが、とても温かでした
(息子曰く、「出雲の人は、みな、いい人だね」^^)。

それから、今回もまた、
飛行機から、素晴らしい景色を拝むことができました。

富士山

大山 


そして、なにより、
冬の日本海の恵みや、出雲の農産物が、素晴らしく、
味覚的にも、最高の体験をすることができました。





そんな中、
これからの、さらなる『和合』『融合』へと進んでいくために、
『唯一』、必要なこと ...

すなわち、
これまで、自ら、自らを『分離』させてきた、
数々の『思い込み』『価値観』『記憶』『想い』『感情』・・・
そういったものを、自ら、手放し、解放していくこと。

つまり、『浄化』をすること。

それを、僕自身が、しっかりと、進めて行くこと。

そして、みなさまが、それを進めていかれるにあたって、
しっかりと、お手伝いができるようにすること。

そんなことを、
改めて、こころに想いました。















2014年12月12日金曜日

感情認識のパラドックス


 「ブルーになるようなことを考えるから、
  気持ちがブルーになる」
 のではなくて、
 「ハートに、ブルーなエネルギーが来ているから、
  頭が、ブルーなことを考える」

すでに、このブログでも、ご紹介済みですが、
津留さんが、DVDの中で、言っていたことです。

通常、感覚的に認識していることと、
これまた、「順序が『逆』」ですよね。

この、「『パラドックス』な構造を採った宇宙」においては、
こんな事例が、無数に、あるのですね。


ところで、
私たちは、普段、

 「(誰それに)怒られた」
 「嫌みなことを言われた」
 「バカにされた」

と言っては、
不快感・ストレスを、感じています。

ですよね?

 「(誰それに)こう言われた。こう思われた。
  だから、不快だ。困った。どうしよう?」

そんなふうに、ストレスを感じていますよね?

さて、
まず、ここで、
一つ、ご質問です。

そのとき、
相手の人は、本当に、「怒っている」のでしょうか?
「嫌みなことを言っている」のでしょうか?
「バカにしている」のでしょうか?


話は変わりますが、
先週、2度ほど、立て続けに、
妻から、
 「パパ(僕のことです ^^; )が、○○って言った」
と、言われました。

簡単に言えば、
『言い間違え』のようなことです。

 「(『パジャマ』のことを)『ピャジャマ』って言った」
というような、たぐいのことです。

そのとき、
僕は、間違いなく、言い間違えはしていなかった、と、思うのですが ^^ 、
妻は、
 「そう、言った」
と、言っていました。

そのとき、
これからお伝えするようなことを、
改めて、認識しました。


さて、まず、
その、妻との話ですが、

たとえば、
 「人、それぞれ、住んでる『宇宙』が違う」
という観点からすれば、

確かに、
 「『妻の宇宙』においては、僕は、そう言った」
のかも、しれません。

確かに、
そうも、言えます。
そうも、考えられます。

ただ、
こうも、言えますよね。

つまり、
 「妻に分かるのは、どう『聞こえたか』だけであり、
  どう『言ったか』は、言った人、本人にしか、分からない」
ということです。

 「自分に分かるのは、自分の知覚できることだけ」
ですよね。

だとすれば、
 「自分には、こう、聞こえた」
ということは、言えたとしても、

でも、
 「『そう聞こえた』からといって、
  相手が『そう言った』ということの証拠・証明には、ならない」
ということにです。

そして、そうであれば、
たとえ、さきほどの『宇宙』のたとえのケースのように、
 「確かに、その人の宇宙では、相手は、『そう言った』」
としても、
 「その場合であっても、
  その人に分かることは、『どう聞こえたか』だけであり、
  『どう言った』かは、分からないし、証明しようがない」
ということです。

ところが、
私たちは、
 「相手が、どう言った。こう言った」
 「だって、君は、そう言ったじゃないか」
と言って、
喧嘩になり、口論になります。

そして、
 「こう言われたから」
と、
気を落としたり、
恐れおののいたり、
パニックになったりします。

それは、本当に、
残念ながら、
 「とても不毛なこと」
と、言えそうです。


そして、です。

さらにいえば、
相手が『どう言った』ということが、
仮に、何らかの手段によって、確認できたとしても、

だからと言って、
その人の『気持ち』や『想い』や『意図』は、
聞き手側には、本当のところは、分からないわけですよね。

相手の『こころの中』『想い』『意図』は、
見えていないし、聞こえていない、ですよね。

それなのに、
私たちは、それを、
 「あの人は、怒っている」
とか、
 「バカにしている」
とか、
そのように『決めつけて』、
そして、
不快感・ストレスを感じているわけです。


そして、そして、
さらに、さらに言えば、です ^^ 。

仮に、相手の『感情』を、
何らかの形で、確認できたとして、
そして、相手が、確かに、『怒っている』としても、

そうだとしても、
だからといって、
自分が、怖がったり、不快になったり、ストレスを感じる必要は、ない、
ですよね。

自分の感情・感覚・ストレスを、
他人に、影響される、コントロールされる必要は、ない、わけです。

そうしていると、
いつまでも、
 「自分の幸不幸が、他人に、外側の環境に、依存してしまう」
ことになります。

そうしていると、
どうしても、
 「自分が、自分の(人生の)、創造主」
には、なれない、わけです。

そして、
まさに、この点こそが、
津留さんに、『浄化』というものを、
理解・認識させて、構造を解明させて行った『きっかけ』だったわけです。


さて、
改めて、ここで、
話を、戻しましょう。

このように、
相手が『どう思っているか』、
相手が『何と言っているか』、は、
自分には、本来、分からないはずなのに、

でも、
普段、私たちは、
 「あの人に、怒られた」「からかわれた」「バカにされた」
と、認識しますよね。

で、ここで、
今回の記事の、一番はじめに戻りますが、

そう認識するのは、
それは、
 「相手が、『どう思っているか』」
とか、
 「相手が、『何と言ってたか』」
とか、
そういうことによって、ではなく、

 「相手の言った言葉が『聞こえた』際に、
  自分が、『そう感じる』から、
  相手が、そう言っているように・思っているように、認識する」
のです。

  「相手が、『どう思っている』」
  「相手が、『どう言った』」
という『事実』が先にあって、
そう、認識するのではなく、
  
  「自分が、そう感じる『から』、
   だから、そう言っているように・思っているように、認識する」
のです。

ここでも、「順序が『逆』」なのです。

そして、
 「自分に、そう『感じさせる』モノ」
それこそが、
 『エネルギーブロック』
なのです。

相手の言葉や、表情、態度などを、見聞きしたときに、
どうしても、自然に、自動反応的に、嫌な気持ちになってしまう、
自分を、そう、感じさせるモノ、
それこそが、『根本原因』であり、
それこそが、『エネルギーブロック』なのです。

そのような『エネルギーブロック』が、自分の中にあって、
それがゆえに、
それが作用したがゆえに、
相手が、そう、言っているように・思っているように、認識するのです。

ですので、
浄化によって、その『エネルギーブロック』が無くなれば、
その後、相手の、まったく同じ言葉を聞いても、
もう、相手がそう思っているとは、感じなくなります。

ただ、相手が言っている言葉が、音が、
ただ、聞こえてきます。

あるいは、
仮に、相手が、そう思っていると、頭が認識したとしても、
自分は、不快感・ストレスを、感じません。

なので、やはり、
ただ、聞いているだけです。

いずれにせよ、
自分は、不快感・ストレスを、感じませんし、
ただ、聞いているだけ、で、居られます。

自分の周りの世界を、
自分自身の体験を、
ただ、『観察』できます ...


いずれにせよ、
 「自分が、しあわせである」
 「自分が、ストレスを感じない。楽で居る」
ということこそが、重要なのであるとすれば、

 「自分が、どう感じるか」
 「自分が、どう認識するか」
ということだけが、問題なのであって、

 「相手が、どう言うか」
 「相手が、どう思っているか」
ということは、
問題ではないのです。

そして、
そのような状態を作ることができるのが、
そのような状態をもたらしてくれるのが、
『浄化』、なのです。









2014年12月11日木曜日

第2回 大阪イベント 開催のお知らせ

 
 2015年2月20日(金)、21日(土)、22日(日)、
 大阪市で、2回目となる、
 『浄化実践講習会』・『津留さん交流会』・『個人セッション』を行います。

 今回も、ひで 一人で伺います(井瀧裕子は参加いたしません)。

 大阪のみなさん、関西地区のみなさんに、
 ふたたび、お会いできることを、こころから楽しみにしています。
 どうぞ、よろしくお願いいたします。
 
 詳細・お申し込みは、『 第2回 大阪イベント 』 のページをご覧ください。
 

 2014年12月11日 集合人編集局 裕子・ひで








ちゃんと、浄化が、出来ているか?


 「浄化は、やってみたけど、ちゃんと出来てるか、分からない」
 「これでいいのか、自信がない」

浄化実践講習会や、個人セッションに、いらしてくださった方で、
そうおっしゃる方が、結構、いらっしゃいます。


 「浄化のやり方自体が、ちょっと、よく分からない」
という方や、
 「ポイントとなる部分が、いまひとつ、きちんとつかめない」
という方、

そのような方々は、
できるなら、
浄化実践講習会や、個人セッションにいらしてくだされば、と、思います。

もちろん、いろいろとご事情がおありで、
簡単には、お越しいただけない方も、いらっしゃることとは、思いますが、

もし、いらしていただければ、
やり方や、ポイントとなる点、などについて、
できるだけ、詳細に、ご説明させていただきますし、
ご質問にも、お答えさせていただきます。


さて、
以上のような方々とは別に、

 「浄化をやってみたけど、いまひとつ、『実感』がない」
 「『実感』が、つかめない」

そのような意味で、
 「浄化が出来ているか、分からない。自信がない」
そう、お思いの方々も、
いらっしゃることと思います。

そのようなお声も、
これまでに、よく、お聞きしてきました。

そこで、その点について、
ここで、すこし、お伝えさせていただきます。


さて、
浄化の、具体的な手続きは、

 身体に感じる、
 「不快感・ストレス」、「ネガティブな感情・想い」 ...
 そういったものを、
 『感じ』、とらえ、集めて、
 そして、それらを、
 『手放し』、『解放する』。

以上のようになりますが、

ところで、
 「やってみたけど、いまひとつ、『実感』がない」
と、お感じになられる場合、
それらは、大きく分ければ、
二通りのケースが、あると思います。


一つは、
 「やってみた『直後』に、変化が感じられない」
という、ケースです。

 「浄化の際に、身体に感じていた不快感などが、離れていった『実感』が、ない」
と、お感じゆえに、
うまく出来ているか自信がない、と、お思いの方は、
けっこう、いらっしゃることと、思います。

僕自身の場合で言うと、
一回一回の浄化に関して、
行った直後に、
その、エネルギーブロックから感じられる『感覚』が、
 「軽くなった」「少なくなった」「無くなった」
という実感があります。

そして、
『それゆえに』、
浄化が、しっかりと出来たかどうかを、確認することができます。

ただし、
では、「毎回、必ず、そのような実感があるのか」、というと、
必ずしも、そうではありません。

浄化対象が、大きなエネルギーのものであれば、
その存在感が大きく、身体で感じ取りやすいので、
浄化後、無くなって行った・少なくなった感覚を、
感じやすいですが、

浄化対象が、小さなものであれば、
そもそも、浄化をする前に感じられる感覚が、小さく、弱いので、
浄化後の変化は、微妙なもので、感じ取りにくいです。
ほぼまったく、感じられないこともあります。

では、
「そのような場合には、浄化は出来ていないのか」、というと、
そのようなことはありません。

たとえば、先の浄化が、
誰かに対する『怒り』であったとすると、
その対象者に会ったとき、
あるいは、
その対象者を思い出してみたとき、
そのときに感じる『怒り』が、
先の浄化によって、減っていたりするからです。

つまり、
ここでお伝えしたいことは、

 「浄化をしてみたけど、
  その『直後』に、変化を『実感』できない、『体感』できない」
 としても、
 それで、「浄化が出来ていない」というわけではない。

と、いうことです。

そして、

 「浄化が出来たかどうか」
 は、
 「実際に、浄化対象を見たり、
  あるいは、その対象を思い出したり、考えたりしてみて、
  その際に感じる不快感・ストレスが、軽減したかどうか」
 で、ご判断なさってください。

と、いうことです。

 「浄化『直後』に感じる、エネルギーの変化や、すっきり感」
は、
あくまでも、
浄化が出来たかどうか、に関する、
「便宜的な『目安』」です。

本来は、
 これまで、ストレス・不快感を感じて来たのと、同じ状況・環境下において、
 これまでより、感じるストレス・不快感を、減らす・無くす
ことを目的に、
浄化をするわけですから、

「浄化が出来たかどうか」は、
 そのような、これまで、ストレス・不快感を感じて来た状況・環境下において、
 感じるストレス・不快感が、軽減したかどうか
が、
本来の、判断の基準となるわけです。

どうぞ、そのように、判断なさってください。


さて、もう一つの、
 「浄化の『実感』がない」
と、お感じのケースは、

まさに、先のように、
 「これまで感じて来た不快感・ストレスが、軽減したかを、
  ちゃんと、チェックしてみたけれど、
  でも、浄化をしてみても、
  あいかわらず、軽減しない、無くならない」
と、お感じゆえに、

「浄化が、出来ていないのではないか」と、
お思いのケースです。

場合によっては、
 「浄化をすると、その『直後』に、
  身体に感じていた感覚が『軽くなった』実感があるけれど、
  それでも、浄化対象のことを見ると、考えると、
  あいかわらず、ストレスがある」
というケースさえ、
おありだと思います。

そのような場合には、
「浄化が出来ていない」とお考えになるのも、
無理はありません。

でも、
そのような場合でも、
ちゃんと浄化ができている可能性はあります。

というか、
そのような場合でも、
ほとんどの場合、
ちゃんと、浄化はできていると、
思います、僕、個人的には。

というのは、
『浄化』によって、
『エネルギーブロック』を、手放し、解放していくわけですが、

一回の、浄化作業によって、
手放せる、解放できるのは、
場合によっては、
その『エネルギーブロック』全部では、ありません。

いえ、むしろ、
一回で、手放せる、解放できるのは、
 「その『エネルギーブロック』のうちの、数%から数十%」
というケースが、ほとんどだと思います。

ですから、
一回、浄化作業をして、
その結果、まだ、ストレスがあったとしても、
それは、別に、おかしなことではありませんし、

ストレスが減った実感が、『まったく』無くても、
それでも、それは、おかしなことではないし、
そして同時に、
その場合でも、「浄化が出来ていない」というわけでもありません。

『浄化』は、
『エネルギーブロック』を、手放し、解放していく作業ですから、

 「浄化が出来たかどうか」
は、
 「『エネルギーブロック』を手放せたか、解放できたか」
 「身体から、その『エネルギー』が、出て行ったか」
で、判断できるものです。

ですので、
『一回』の、浄化作業によって、
たとえ『少しでも』、そのエネルギーが、出て行った、少なくなったのであれば、
ちゃんと、浄化は、出来ている、
ということになります。

あとは、
何度か、浄化をしていただくだけです。
浄化の回数を、増やしていただくだけです。

そうすれば、
あるとき、
ストレスを感じなくなるところまで、行かれることとと思います。

薬を、たとえば風邪薬を、
一回だけ飲んで、
でも「治らなかった・回復しなかった」からといって、
その薬が、効いていない・効果がない、とは、
判断なさらないはずです。

治るまで飲んで、
そして治れば、
「その薬は効いた・効果があった」と、
判断なさるはずです。

浄化に関しても、
まったく同じことです。

どうか、
 「一回やっても、あるいは、数回やっても、効果が感じられない」
としても、
さらに何回か、浄化をなさってみてください。

何度も、何度も、
なさってみてください。

ストレス・不快感や、怖さ、怒りなどが、
強ければ、強いほど、
その『エネルギーブロック』が、大きなものである、可能性が高いです。

そんなケースでは、
数%、数十%、解放出来たとしても、
『実感』としては、
 「あいかわらずだ。まだまだだ」
と、お感じなるケースが、ほとんどかもしれません。

でも、
たとえ、1%でも、一回で、解放できれば、
それを、100回もすれば、
それらが、すべて、無くなって行く可能性があります。

いえ、
いくら、大きくて強烈な『エネルギーブロック』でも、
すべてを手放す、その前に、
その大半を、手放せた段階で、
 「あぁ、楽になった」
という実感を、得られることと思います。

それで、十分だと思います、
僕、個人的には。

そして、
その時には、
もう、二度と、
そのストレスを、感じることは、ないはずです、
新たに、その『エネルギーブロック』を、取り入れない限りは。

それが、
津留さんが、
 「浄化は、『根本治療』だ」
と、言ったゆえんです。


以上、まとめます。

 「浄化をやってみたけど、うまく出来ていないかもしれない」

そう、お思いの方は、
ぜひ、

 ・浄化を、一回だけでなく、何回も、やってみてください。
 ・その上で、浄化対象を目にした、考えた状態で、
  前より楽になったか、軽くなったか、で、判断なさってください。

きっと、いままでのやり方で、
浄化は、ちゃんと、できているはずです。

大丈夫です ^^ 。









2014年12月7日日曜日

望みは、すでに、叶っている


 「あなたの望みは、すでに、叶っています」

そう、お聞きになって、どう、思われますか?

 「そんなはず、ないじゃないか!」
 「冗談じゃないよ!」

そう、思われた、その、強さ・度合いによって、
みなさん、それぞれの、
 「大我との、繋がり具合」
 「大我との、融合具合」
 「大我の、回復具合」
が分かる、
と、言えるかもしれません。


言葉を、変えましょう。

 「宇宙は、完璧である」

そう、お聞きになったとき、どう、感じられますか?

 「そんなはずは、ない!」
 「とてもじゃないが、そうは、思えない」

そう、思われた、その具合によって、
みなさん、それぞれの、
 「エゴの、強力さ」
 「小我の、堅牢(けんろう)さ」
そんなものが、
確かめられるのかもしれません。


ここでは、
結局のところ、

 「普段、無意識のうちに、認識している
   『私』『自分』
  というものが、
  どのようなものであるか?」

ということが、
問題・ポイントとなっています。

普段、『私』と認識しているものが、
 「『小我』としての『自分』そのもの」
 「100%、『エゴ』としての『自分』」
であれば、

もちろん、
この宇宙を、『完璧』だなんて、思えないでしょうし、
『自分』の望みが叶えられている、だなんて、思えませんよね。

でも、
 「『私』とは、『小我』としての自分と、『大我』としての自分の、総和」
 「『自分』とは、『エゴ』の自分そのもの、ではなく、
  『大我』としての自分をも、含んだもの」
と認識していれば、

そして、
その認識度合いが、大きければ大きいほど、

この世が、『自分』の望み通りにできていることが、納得できるでしょうし、
宇宙の完璧さを、体感されることでしょう。


『私』と言ったとき、
そこには、
 「『大我』としての自分」
 「『集合意識』としての自分」
 「『全体』としての自分」
 「『神』としての自分」
が、含まれています。
内在しています。

たとえば、
『私たち』の内側には、
 『大我』としての自分が、
 『集合意識』としての自分が、
 『神』としての自分が、
内在していて、

それが、
 「『外なる世界』『鏡としての世界』に、
  『空』『天空』『星の運行』『銀河』として、
  存在している、映し出されている」
ということについては、

過去記事「内なる神の、外なる投影」に、
書かせていただいている通りです。

また、
津留さんが、
 「『小我』と『大我』の、完全な二人三脚」
の状態を『集合人』と名付けて、
それを、当面の、目指すべき状態だと、言ってた、
ということについては、
過去記事「バランス」に、書かせていただいている通りです。

そして。

『大我』『全体』『神』は、
全能であり、
『自分』が体験したいことを体験できるように、
この宇宙を創造していますよね。

ですから、
 「それらが含まれた、それらが内在した、『私』」
にとってみれば、

望みは、100%、叶えられるものですし、
いえ、すでに、そして、常に、
望んだものは、望んだとおりに、叶えられています。

『私』たちは、
まさに、「『創造主』そのもの」なわけです。


そして、
そう、思えないのは、
そう、感じられないのは、

 「『自分』が、
  『自分というもの』のことを、
  そのように、認識していない」
というだけのこと、なのです。

そして、
そうであれば、

すなわち、
私たちが、
 「『私』の望みは、叶えられていない」
と、感じているのであれば、

そのときには、
その、感じている分だけ、

あるいは、
 「宇宙は、完璧でない」
と、感じているのであれば、
そのときには、
その、感じている分だけ、

 『私』が、
 『私』と認識しているものが、

 『真我』『大我』『集合意識』『神』たる自分から、
 乖離(かいり)している

ということを、示しています。

そして、
それは、
その分だけ、

自分の中に、
『小我』としての自分が、
『エゴ』としての自分が、
厳然と、存在していて、
強固に、自らを主張している、
ということであり、

そして、それは、
その分だけ、

 『自分』を、
 『小我』としての自分に、
 『エゴ』としての自分に、
 留まらせる・固執させる・吸着させる、
 『エネルギーブロック』が、存在している

ということを、示しています。


私たちが、
 「そんなはずは、ない」
 「信じられない」
 「冗談じゃない」
と思うとき、感じるとき、

『大我』『集合意識』『神』としての『自分』が、
その、自らが映し出された『外なる宇宙』『外なる世界』を通して、
そのことを、教えてくれているのです。
気づかせてくれているのです。

 「もう、その『エネルギーブロック』は、手放していい頃ではありませんか?」
 「もう、『こちらの私』との一体性を、もっと、取り戻していいのですよ」

そう、語りかけて来ているのです。

そして、そんなとき、
することは、ただ一つ。

 『ブロック』を、手放すこと

ただ、それだけです。








2014年12月4日木曜日

宇宙は、ただ、循環しているだけ


この1ヶ月、
記事をアップしませんでした。

 「何も、書けなかった」
といえば、
そんな感じですし、

 「何も、書かなかった」
といえば、
それもまた、そんな感じです。

その間、
僕のところには、
いまの僕にとって、とても重要で、深淵な、
『情報』と『理解・気づき』が、
いくつか、
やって来ていました。

ある方は、
とても意義深い『情報』を携え、
僕(ら)のところに、いらしてくださり、

また、
妻が、
とても納得のいく『情報』を入手して来て、
それを、僕に伝えてくれ、

そして、
ある朝には、
目覚めとともに、
ある、深い『理解』が、やって来ていました。


はじめに、
ある方が、個人セッションに来てくださいました。

その方は、
あるとき、突然に、
 「分かってしまった」
のだそうです。

そして、
津留さんが、メッセージで言っていたことが、
その、
 「『分かってしまった』内容」
と、
まったく同じであった、ということを、
私たちに伝えに来てくださったのでした。

 「分かってしまってみると、
  津留さんのメッセージが、より理解できるし、
  その『正しさ』に、とても驚きと親しみを感じた」
という趣旨のことを、おっしゃっていました。

その方がいらっしゃる前日の、10月の交流会で、
『わかちゃった人たち』という本のことが、
ちょうど、話題になっていたことも、
『偶然』というか、『必然』というか、
とても興味深いことでした。


その方が『分かってしまった』内容は、
お聞きする範囲では、
津留さんのメッセージと、ほぼまったく、同じでした。

 「私たちは、そもそも、『神』である」
 「その神は、全知全能であるがゆえに、とても退屈である」
 「そこで、このような宇宙を創り出し、遊んでいる」
 「人と人が演じているドラマは、同一人物の『指』と『指』がじゃれ合っているようなもの」
 ・・・

その方の、そんなご理解をお聞きしていて、
いままで、頭で理解できていた津留さんのメッセージが、
一段、下に、降りました。
一段、腑に、近づきました。

中でも、
 「『神』は、全知全能であるがゆえに、とても『退屈』なんだ」
という部分が、
とても、こころに響きました。

 「ほんとうに、そうなんだなぁ〜・・・」
と、
こころから、思いました。


つづいて、
妻が、ある方のワークショップに、参加してきました。

そこで聞いて来た内容を、
僕に、伝えてくれました。

その内容は、多岐に渡っていたのですが、
その中心は、
 「いま、地球が迎えている状況」
 「これから、進んで行くであろう状況」
を、

 『宇宙の創造の流れ』
という観点の中で、
把握し、認識していて、

そして、
他の銀河文明(シリウス、プレアデス、オリオンなど)を引用し、
そして、それらと比較しながら、
説明していました。


 「地球は、これまでは、『2極』『分離』を、体験して来た」
 「そして、これからは、『統合』に向かって行く」

単純に言えば、その骨子は、こんな感じです。

そして、
その『流れ』は、
 「それが、その方向が、『正しい』から、
  そう流れている、そう進んでいる」
というわけではなく、

 「ただ、そう、巡っている」
というものであり、

その中で、
 「いまは、2極の世界の終焉を迎えている
  かつ、
  これから、統合の世の中に向かっている」
だけのもので、

そして、
  「いまは、ただ、そういうポジションにある
   そういうタイミングにある」
とのことでした。

 「『分離』から、『統合』へ」
という流れについては、

 「約23,000年という、
  天の川銀河の歳差運動の中で、
  半分の約16,500年は、地球が、銀河の下側を通り、
  残りの半分は、銀河の上側を通り、

  下側を通っているときには、
  銀河の中心から流れ出ているエネルギーの影響が、
  『分離』の方向に働き、
  地球は、その影響を受け、

  上側を通っているときには、
  そのエネルギーが、『統合』の方向に働き、
  その影響を受けている。
 
  地球は、いま、
  その『下側』から『上側』への移行時期にある。」

という説明も、なされていました。


これらも、また、
津留さんの言っていたことと、
驚くほど、合致していますよね。

そして、
 「それが『正しい』から
  『統合』に向かっている、というわけではない」
 「『そうあるべき』だから
  『神に還る』、というわけではない」
という点、

 「ただ、そう、巡っているだけ」
 「いま、地球は、ただ、そういうタイミングなだけ」
という点が、
特に、強く深く、こころに残りました。

 「銀河の歳差運動の中における、いまの地球のポジション」
に関する説明には、
これまでの理解が、す〜っと、深まっていきました。


そして、ある朝。

かすかな、夢の記憶とともに、目覚めました。

そのとき、僕のもとには、
ある『理解』が、留まっていました。

強烈でもなく、強力でもなく、
漫然とした感じではあるのですが、

でも、
『納得』と『体感』をともなった、
ある『理解』が、
やって来ていて、そして、そこに留まっていました。

そのときの『理解』を、
あえて、言葉にすれば、

それは、
 「『過去』というものがあるわけでもなく、
  『未来』というものがあるわけでもなく、
  ただ、『いま』という瞬間に、『目の前の映像・現実』が存在し、
  そして、それが、ただ、『変化』しているだけ」
という、理解です。

その『理解』が、
これまでの、『頭』だけでの『理解』とは、すこし、異なり、
『体感的納得』とでも言うべきようなものをともなって、
やって来ていました。

たぶん、
夢で、何かを、見たのだと、思います。
あるいは、
夢の中で、何かを、教えられたのだと、思います。
何かを、伝えられたのだと、思います。

それが、『何』であったのかは、
そのときも、すでに、うっすらしていました。
いまでは、まったく、思い出せません。

ただ、
それによって、
目が覚めたときには、すでに、その『体感』のようなものが、
存在していました。

 「あぁ〜、ほんとうに、ただ、目の前が、変化しているだけなんだぁ〜」

その言葉が、
頭の中を、何度も、リフレインし、

その『理解』の持つ『振動』が、
何度も、身体の中を、響き巡っていました。



上記の、それら一連の、『情報』と『理解』は、
僕にとっては、
ある一つの『理解』に、収れんされて行きます。

 『宇宙は、ただ、循環しているだけ・・・』
 
津留さんが言っていた、
その言葉が、その内容が、その意味が、
ようやく、わずかながら、
理解でき、納得できた気がしました。

 「『宇宙は、ただ、循環しているだけ』
  それを、100%理解できたら、それで、すでに、悟っている」
という、津留さんの言葉があります。

それだけ、
とても本質的な概念であり、
それだけ、
本質的な理解である、
その内容 ...


宇宙は、ほんとうに、ただ、循環しているだけ、なんですねぇ。

そして、
私たちは、ただ、それを、体験しているだけなんですねぇ。

「何が正しい」とか、「どうなるべき」とか、
そういうことではなく、
ただ、
『神』では体験できないことを、体験するために、
それらを、ただ、体験しているんですねぇ。

しかも、
それら『体験』には、
『時間的な順序』というものは、存在しません。

ある『時代』を体験したら、
その次には、それ以降の時代しか、体験できないわけではありません。

また、
『レベルの高低という順序』があるわけでも、ありません。

たとえば、
いま、地球に来ている魂のほとんどは、
オリオンにおいて、何度もの転生を経験していて、

そこでは、
極限的な『分離』『2極』を体験し、
かつ、
それらを『統合』し、『融合』する、という体験も、
経験済みなのだそうです。


そのような、様々な、ありとあらゆる『体験』をするために、

「『神』たる私たち」は、
無数に分裂し、
体験のための『舞台』として、宇宙を創造し、

「ありとあらゆる『体験』」のために、
「ありとあらゆる」「無数に異なる」
体験のための『場』としての環境を創り、

その『体験』のための『器』として、
人間を含む、「ありとあらゆる」「無数に異なる」『生命体』を生み、

そして、それらが、
ただ、「無限に」『変化』している ...


そんな『理解』を、
これまでよりも、一段、深いところで、味わい、
それらを、
これまでよりも、一層、外側まで、浸透させる ...

そんなことを、
この約1ヶ月間、
していました。











2014年11月7日金曜日

第1回 名古屋イベント開催のお知らせ

 
 2015年1月9日(金)、10日(土)、11日(日)、12日(月・祝)、
 名古屋市で、
 『津留さん交流会』・『浄化実践講習会』・『個人セッション』を行います。

 2014年の大阪・鹿児島・札幌でのイベントに続き、
 2015年はじめのイベントを、尾張・名古屋で行います。

 今回も、ひで 一人で伺います(井瀧裕子は参加いたしません)。

 名古屋のみなさん、東海地区のみなさんに、お会いできることを楽しみにしています。
 よろしくお願いいたします。
 
 詳細・お申し込みは、『 第1回 名古屋イベント 』 のページをご覧ください。
 

 2014年11月7日 集合人編集局 裕子・ひで









2014年11月3日月曜日

『赦す』ということ


 「あいつのことだけは、赦(ゆる)せない」
 「それは、いいけど、でも、あれだけは、赦せない」

どなたでも、
そんな人が、そんなことが、
あるのではないでしょうか?

私たちは、
「意識的に」、であれ、
「無意識的に」、であれ、

それぞれが、
それぞれに、

 『赦せない』
ことを、
握り、抱えて、
生きていますよね。


ところで、
 『赦せない』
というものには、

通常、
2種類のものが、あると思います。


1つは、
 『赦そう』『赦したい』
そう、思っているけれど、

でも、
そんな想いとは裏腹に、
どうしても、
 『赦せない』。

そのようなものです。

そして、
そのようなものは、
先の言葉を使えば、
 「『無意識』的に、『赦せない』」もの
と、言えるかもしれません。

あくまでも、
 『赦そう』
と、思っています、
自分の『意識』『意思』としては。

でも、
 『赦せない』
のです。

自分の中の、『何か』が、
そう、させないのです。

自分の『意識』の想いとは、裏腹に、
どうしても、そう、できないのです。

それは、
哀しいほどに、
そう、できないのです。

そして、それは、
その、
 「自分の中の、『何か』」

すなわち、
 『エネルギーブロック』
が、
自分に、そうできないように、させているのであり、

ですから、その
 『エネルギーブロック』
を、
『浄化』すれば、
『浄化』できれば、

そう、できるようになります。

つまり、
 『赦せる』
ように、なります。

場合によっては、
それは、
簡単なことではない、かも、しれません。
平坦な道のりではない、かも、知れません。
短い道のりではない、かも、知れません。

しかし、
『浄化』さえ、できれば、
その『エネルギーブロック』を、手放すことさえ、できれば、

そのときには、
 『赦す』
ことが、できます。


一方、
もう1つ、
 『赦せない』
ケースが、あります。

それは、
先の言葉で言えば、
 「『意識』的に、『赦せない』」もの
と、言えると思います。

つまり、
 『赦さない』
と、決めているから、
 『赦せない』
と、いうものです。

つまり、
単純に、純粋に、
 「自分で、『赦さない』と決めている、決意している」
から、
 『赦せない』
と、いうものです。

なので、
この場合は、
 『赦せない』ではなく、『赦さない』
と、言い換えることができると思います。
 
 「あいつのことだけは、赦(ゆる)『さ』ない」
 「それは、いいけど、でも、あれだけは、赦『さ』ない」

そう、言い換えることができると思います。


 『赦さない』
理由は、
それぞれでしょう。

ですが、
それらは、
ほとんどのケースにおいて、
 「その理由は、『正当』である」
と、本人が思っている点で、
共通していることと、思います。

 「間違っているのは、あいつ」
 「おかしいのは、そっち」

 「だから、『赦さない』」

そんなケースが、
ほとんどだと、思います。

そして、

 「赦してほしければ、謝りなさい」
 「あっちが謝れば、赦してあげる」

そんな風に、お思いのことと、思います。


さて、
そのような場合に、
もし、その「『赦さない』こと」に関して、
『ストレス』が無いならば、いいのですが、

万が一、そのことに関して、
『ストレス』があった場合、

その場合、
その『ストレス』は、
どうやったら、解消されるでしょうか?

 「あぁ〜、頭に来る!
  でも、悪いのは、あっちだから、
  あっちが謝るまで、赦さない。
  あっちが謝ったら、赦してやる」

そんなとき、
どうやったら、この、
 「頭に来る」という『ストレス』
は、解消されるでしょうか?

それは、
おそらく、
 「相手が、謝ったとき」
でしょう。

 「相手が、謝れば、解消される」
でしょう。

ということは、
そのとき、もし、
 「相手が、謝らなければ、それは、解消されない」
と、いうことになります。

つまり、
 「自分の『ストレス』が、解消されるか、されないかは、
  相手が、謝るか、謝らないか、次第」
と、いうことになります。

つまり、
 「自分の『ストレス』は、相手次第」
と、いうことです。

 「あなたの、幸・不幸は、相手次第」
と、いうことです。

つまり、
そのとき、
あなたの幸せに関する『決定権』は、
『相手』にあります。

すなわち、
あなたは、
自分の、幸せに関する決定権を、
自分の意志で、
相手に、与えているのです。

 『赦さない』
ということによって、

あなたは、
相手に、
自分の、幸せに関する決定権を、
与えている、ということを意味します。

つまり、
あなたは、
自ら、
相手を、
 「自分の『神』にしている」
のです。

 『赦さない』
ということによって、

あなたは、
 「『自分が、自分の創造主である』ということを、放棄」
し、

そして、
自らの意思によって、
 「相手を、自分の『神』にしている」
のです。


他方、
 『赦す』
ということは、

それとは逆に、
 「自分の、幸・不幸は、自分次第」
という認識であり、
 「自分の、幸・不幸は、自分が決める」
という態度です。

 「自分が幸せであるかどうかに、相手は、関係ない」
のです。
 「自分が、自分が幸せであるかどうかを、決める」
のです。

そして、
実際、
『浄化』をすれば、
『エネルギーブロック』を手放せれば、

 「相手がどうであれ、
  自分は、『ストレス』を感じない」
という状態に、なります。

自分で、
自分の『不幸』を、
取り除くことができるのです。

そのとき、
あなたは、

あなたの人生における、パワーを、
自ら、手にしています。
自らの手に、取り戻しています。

そのとき、
あなたは、

 「自分が、自分の、『創造主』であり
  自分が、自分の、『救世主』である」
  
のです。


 『赦す』
というと、
なにか、
 「相手のために、してあげる行為」
のように、とらえがち、ですよね。

 「赦してあげなさい」
なんて、
親や教師や、社会から、
そう、言われ続けて来ましたもんね。

でも、
本当は、
それは、
 「自らが、自らのために、行う
  自分にとっての、『最高のギフト』」
なのです。










2014年11月2日日曜日

『片付け』の魔法


10月17日、
奥さんの、裕子さんから、
 「ブログを、アップしたよ」
という連絡を受けました。

その日は、
僕は、朝から、
札幌に向かっていて、

その日の、裕子さんの様子を、
知りませんでしたので、
連絡を、わざわざ、くれたのですが、

その連絡を聞いて、
ちょっと、ビックリしました。

というのは、
その前日に、奥さんは、
前の記事を、アップしたばかりだったので、
いつものペースからすると、
とっても、早いからです ^^ 。

そして、読んでみて、
さらに、ビックリしました。

というのは、
その内容が、
 「掃除」
について、だったからです。

 ( ご参照:ブログ「あむりたのしずく」『 家(内)のお掃除 』)

その連絡をもらう、数時間前に、
僕は、
 「次は、『片づけ』をモチーフに、記事を書こう」
と、思い、

その骨子を、
携帯に打ち込んだばかり、だったのです。

なんか、
つながってるというか、
結び付いてますねぇ ^o^

というわけで、
今回は、『片づけ』の話です。


先々月のことですが、
近藤麻理恵さん(以下、こんまりさん)の著書、
「人生がときめく 片づけの魔法」の、2冊目を、
遅ればせながら、読みました。

1冊目は、100万部を超えるベストセラーになったので、
ご存知の方も多いと思いますが、

こんまりさんの提唱する「片づけの方法」は、
 『片づけ』
という、
苦手な人が、とても多い、分野に、
ある種、革命的なコンセプトを持ち込んで、

しかも、
その、明快さと、
それと同時に、高い実践性と、で、
多くの方々に受け入れられ、
用いられている方法です。

その特徴は、
いくつかあると思うのですが、

特に、斬新で、特徴的なのは、
 「まずは、『捨てる』を、キッチリと、終わらせること」
と、
もう一つ、
 「その際の、取捨選択の基準が、『ときめく』かどうか」
という点である、と、思います。

 『ときめき』
という、
ある種、とても曖昧で、極めて主観的な『気持ち』を軸に、
片づけを行っていくという、

極めて斬新で、
しかし、ちゃんと理解してみれば、
実は、極めて合理的な基準を用いる、
その方法は、

僕の場合、
最初に目を通したときには、
正直、よく分かりませんでした。

魅きつけられるものはあるけれど
(なので、本を購入までしたのですが (*^_^*) )、
でも、
はじめは、よく、分かりませんでした。

ところが、
先月、2冊目を、読んでみたら、
その内容が、
驚くほど、よく分かりました。

こんまりさんが、言っていることは、
実は、極めて合理的で、優れたものであることが、
ようやく、はっきりと、理解できました。

しかも、それを、しっかりと、
みなさんが実践できるようにまで、落とし込んでいる、
彼女の凄さに、
正直、脱帽いたしました。


彼女の提唱する方法では、
 『ときめき』
という、『体感』が、ポイントで、

その体感よって、分別し、整理していけば、
まず、
手元には、自分が
 「『ときめく』モノ」
だけが、残ります。

まず、
  「自分の気持ちが『ときめく』モノ、だけに囲まれた状態」
に、なります。

で、その上で、
それらを、整頓していくのですが、

その段階では、
たいていの場合、
「モノ」の数は、相当に、減っているので、
あとは、
いくつかのテクニックも駆使しながら、
スッキリと、整われた状態を作り上げます。

で、
その段階になると、
もう、新たに購入したり、新たに手元に所持するモノは、
すべて、「『ときめく』モノ」だけに、
自然と、厳選するようになります。

その結果、
自分の周り(自分の家・部屋)は、
 「『ときめく』モノだけが存在」
し、
しかも、それらは、
 「スッキリと片付いている」
という状態になります。

その、
 「『ときめく』モノだけに、しかも、整然と、囲まれている生活」
状態を作り上げること、それをキープすることが、
彼女の提唱する『片付け』の、ゴールです。


ところで、
この、
 「『ときめく』という、『体感』を規準にした、『片付け』」
というコンセプトが、

実は、
 「『ストレス』という、『体感』に基づいた、『浄化』」
と、
とても似ている、と、感じてます。

その辺りが、
今回、彼女の本を、改めて読んでみて、
今回は、とてもよく理解できた理由であり、
それが、とても素晴らしい方法であると、納得できた理由である、
と、思っています。

『浄化』は、
自らの内側に、湧き上がってくる、
 「辛さ」「苦しさ」「悲しさ」「寂しさ」
 「怖さ」「恐れ」「不安」「怒り」「悔しさ」
といった感情、

それら感情によってもたらされる、
『ストレス』という、
ネガティブな『体感覚』を手がかりに、

それらの原因となっている
 『エネルギーブロック』『ミニ自我』『価値観』『想念』『観念』『記憶』
と呼ばれるものを、
手放し、解放していく、プロセスです。

『潜在意識』の中に、
漫然と、放置されて来た、され続けて来た、
それらの原因を、

一つずつ、見つけ出し、
そして、それらを、
一つずつ、捨て去っていく、プロセスです。

つまり、
『浄化』とは、
 「『ストレス』を感じさせる『エネルギーブロック』を、
  『片付ける』『掃除する』こと」
です。

そして、それによって、
 「『ストレス』を感じることの無い、スッキリとした生活・人生」
を実現することが、
『浄化』の、(『当面の』『第1段階の』)ゴールです。

このように見ていただけると、
両者が似通っていることが、
とても良くお分かりいただけるのではないかと思います。


さて、
こんまりさんの提唱する、片付けは、
 「『ときめく』モノだけに、しかも、整然と、囲まれている生活」
を作り上げ、キープするための、ノウハウですが、

その、もっとも根本的な「目標」とは、
何でしょうか?

何のために、
そのような『片付け』をするのでしょうか?

それは、
 「自分が『ときめく』、好きなものに、スッキリと囲まれた、住環境で、
  『幸せに暮らすこと』、『幸せな生活を送ること』」
では、ないでしょうか?

 「好きなものだけに、囲まれていること」
 「スッキリと、整理整頓されていること」
によって、
 「『幸せ』に暮らすこと」
が、目的では、ないでしょうか?

こんまりさんは、
 「『好きでない』モノ」
 「『使わない』モノ」
そういったモノが、家の中に存在していることにより、

エネルギー状態が低下することを、
あるいは、
自分の意識レベルが低下してしまう危険性を、
割に、はっきりと、認識・指摘し、

そして、
それらを避けることの重要性も、指摘しています。

その辺りは、
さすが、「『元』神職」の方ですし、

また、この辺りが、
ますます、
『浄化』との類似性を感じさせるのですが、

そのような点を、置いておいたとしても、
ともかく、
その目的は、
 「『幸せ』な生活」
に、あるはずです。

これは、つまり、
例えば、
「『片付け』の魔法」により、
理想的な住環境を手に入れたものの、

 「ゆったりとする時間」「のんびりとする時間」
 「『幸せ』を、しっかりと『実感』する時間」
などを、犠牲にして、

 「四六時中、手元にあるモノが、『ときめくかどうか』」
 「モノの量が、充分に少ないかどうか」「増えていないかどうか」
 「整頓が、きちんとできているか」
を、チェックしたり、
 「きちんと片付けをしない家族を、協力させよう!」
として、イライラ・ヤキモキしたり、

そんなことをしていたら、
 「本末転倒」
だ、
ということです。

それでは、
 「『手段』の『目的化』」が、起こってしまっている
と、いうことです。


そして、
このことは、『浄化』に関しても、
まったく同様に、当てはまります。

『浄化』の目的も、
 「『ストレス』を減らし、無くし、『幸せ』に暮らすこと」
に、あるはずです。

その目的は、
『片付け』とまったく同様に、あくまでも、
 「『幸せ』な生活」
に、あるはずです。

ところが、
『浄化』というものが、分かって来た結果、
上手くできるようになって来た結果、

 「『浄化』をすること」
 「『エネルギーブロック』を減らし・無くすこと」
に、主眼が置かれてしまって、

始終、
 「『エネルギーブロック』を探し出すこと」
 「それを、片付けること、『浄化』すること」
に、意識が行ってしまっていて、

その結果、
 「『ストレス』が減り、
  ゆったりと、のんびりと、人生を実感する」
ということが、できていなければ、
それは、本末転倒です。


これは、
逆にいえば、
『エネルギーブロック』が、
どれだけ、あろうが、
どれだけ、残っていようが、

 いま、ここで、『幸せ』を、『喜び』を、感じられる
のであれば、
 いま、ここで、『安らぎ』を、『くつろぎ』を、感じられる
のであれば、

あるいは、
 いま、ここに、『ストレス』が、存在していない
のであれば、
いえ、
 『ストレス』があったとしても、
 それが、さして気にならない程度に、充分に小さい
のであれば、

 それは、それで、十分だ
と、いうことです。

 それらの状態を『感じる』こと、『味わう』こと
それが、目的であり、

あくまでも、
 『浄化』は、手段に過ぎない
ということです。


『浄化』の効果を体感され、
『浄化』によって、楽になられた、軽くなられた方の中には、

その効果を、しっかりと認識されたがゆえに、
 「だからこそ、もっと『浄化』をして、もっと『楽』になりたい」
 「いや、自分は、まだまだだ。
  まだまだ、『ストレス』は感じる。『感情』は動く」
 「もっともっと『浄化』をして、
  そして、津留さんのようになるんだ。
  『覚醒』するんだ」
と、
現状を、許さず、肯定せず、
そして、
さらなる高みを、目指す方々がいらっしゃいます。

もちろん、
それはそれで、一つの在り方です。

それを「良くない」などと、申しているわけでは、
決して、ありません。

ただ、
その、
 「いまは、まだ」「自分は、まだ」
という想いや、
 「もっと、もっと」
という想いが、

この、『パラドックスな世界』においては、
法則通りに、
 「まだ」「まだ」な
 「もっと」「もっと」な
自分を、現状を、
創り出し、呼び寄せ、映し出し、

そして、
「まだまだ」なご自分を、現状を、認識されて、

 「なぜだ?」「どうしてだ?」
 「どうしたら、いいのだ?」
と、
悩まれ、苦しまれてらっしゃる、
そんな方々を、お見受けすることがあります。

ブロックだらけな、ストレスだらけな、
僕みたいな者から、拝見すると、

そのような方々は、
もう、十二分に、
 少ない『エネルギーブロック』
 少ない『ストレス』
の状態に、いらっしゃりながら、
悩まれ、苦しまれて、いらっしゃるように、
お見受けすることがあります。

それは、さながら、
 見渡す限りの、一面のお花畑に居ながら、
 その、花々の美しさには、目もくれず、
 懸命に、雑草を、ゴミを、探し歩いている
そのように、お見受けできて、しまいます ...


『浄化』をすれば、
確実に、楽になります。

それは、まさに、
 「『片付け』の魔法」
とも呼べるものなのです。

それは、
津留さんの時代から、
数多くの方々が、これまでに、実体験されて来た、
素晴らしき『魔法』なのです。

ただ、
それは、あくまでも『手段』です。

『手段』への執着が、固執が、
いえ、
『目的』への執着も、ですが、

そんなものが、
最後に、
最後の最後で、

『目的』『ゴール』と、自分とを、
隔ててしまっている、
 「一枚の薄皮」
であったり、
 「一段の段差」
だったり、
するようです、

「悟りたい」という気持ちが、
そんな気持ちこそが、

自らを、『悟り』から、遠ざけてしまっているように ...


ぜひ、
 いま、ここにある、『幸せ』『喜び』『安らぎ』『不安の少なさ』
といったものを、

それらをこそ、
感じ、味わっていただければ、
と、想います。








2014年10月31日金曜日

写真・北海道旅行記5 ー二風谷での祈り


摩周湖を後にして、
硫黄山、屈斜路湖を経て、
宿に戻りました。

宿では、
すぐに、荷物をまとめ、朝食。

そして、
夜にはムササビが舞った、露天風呂に身を浸け、
早朝の摩周湖鑑賞で、少々、冷えた身体を、
芯から、温めました。

そういえば、
その朝は、気温12℃。

その時期としては、異例なほど、暖かく、
そのおかげで、
薄着の僕でも、ゆっくりと、湖を眺めることができました。
とても、ありがたいことでした。

そして、宿を出た僕は、
一路、進路を西に取り、
『平取(びらとり)』に向かいました。


鹿児島で、霧島に伺ったとき、
当地でお世話になった方に、
 「次は、北海道へ行くのですが、おススメの場所はありますか?」
と、尋ねました。

妻の、裕子さんに、
そう、尋ねるように、言われていたのです。

 「義経神社」
その方は、ためらい無く、そう、おっしゃいました。

帰宅後、調べてみると、
ご祭神は、源義経で、
択捉探検で有名な、近藤重蔵が建造、とのこと。
場所は、「平取町」。

『源』義経の神社が、『平』取町に建てられているのは、
なんらかの、意図があることと思います。
「『源氏』と『平家』の和合」というテーマにも、
個人的に、少しですが、関心もあります。

そんなわけで、
道東からの帰り道には、
平取町を訪ねることは、決まりました。

 「でも、せっかくだから、もっと、他には、ないかな ... 」
と思い、
 「『アイヌ』、『聖地』」
のキーワードで、検索してみたとき、
トップで出てきたのが、
 『二風谷』
でした。

二風谷のことは、詳しくは、知りませんでした。
アイヌの方々の聖地ゆえに、彼らが反対したにも関わらず、
ダムが造られてしまった場所である、ということは、知っていました。
でも、それ以外のことは、何も知りませんでした。
どのような聖地であるのかも、知りませんでした。

そこで、検索で引っかかったサイトを見てみて、
驚きました。
二風谷があるのも、「平取町」だったからです!

二風谷ダム、それによってできた二風谷湖、
そのほとりにある、アイヌ文化博物館などからは、
義経神社まで、車で、10分ほどの距離だそうです。

そうなれば、二風谷にも、
伺わない理由は、ありません。

そして、
伺うのは、そちらの二カ所だけで、充分なように思いました。

こうして、
道東からは、平取町を経由して、新千歳空港に戻ることに確定しました。


さて、帰路。
道中は、小雨が舞うこともあったものの、
基本的には、安定した天候で、順調に、進みました。

飛行機や、レンタカー返却の時間から、
逆算して立てた、目安の時刻よりも、若干の余裕を持って、
車は、極めてスムーズに、晩秋の北の大地を、クルーズして行きました。

枯れ葉舞う道を、どこまでも、どこまでも、ドライブしていく感覚は、
とても、「非日常」感が強く、
旅行をしていることを、特別なことをしていることを、
強く実感することができました。




そして、午後2時。
突然、携帯電話が、音を立てました。

見ると、メッセージが入っています。
車を停め、読んでみると、妻からでした。

 「午後3時には、どこに居る予定ですか?」
そう、書いてありました。

 午後3時?
あと、1時間後です。
事情も、よく分からないので、
妻に、電話をしました。

すると、
少々、気持ちを高ぶらせた感じの妻が、
しかし冷静に、こう、説明してくれました。

 「さっき、たまたま、『シャンタン』さんの Facebook を見たら、
  今日、午後3時に、『カルキ・バガバン』さんも参加される、
  祈りのイベントが、行われるそうです。
  日本列島を『龍体』に見立てた場合の、尾っぽである『九州』から、
  新たなエネルギーを送り出し、
  それを、『不二阿祖山太神宮』まで送り、
  そこから、さらに、『北海道』にまで届け、
  日本全土に、新しいエネルギーを行き渡らせる、そのための祈りで、
  それによって、旧きエネルギーを崩し、旧き意識を揺り動かし、
  そして、新たな意識、新たな地球に進むよう、
  まず、雛形たる日本を、変えていく、ということを、意図しているそうです。
  シャンタンさんは、今、発信地である、九州に居て、
  そして、多くの方の参加を、呼びかけています。
  あなたは、午後3時には、どこに居て、そして、祈りに参加できそうですか?」

シャンタンさんは、
日本人として、最初に、Oshoのコミューンに入られた方の一人で、
これまでにも、さまざまなワークを、主催されている方です。

そして、普段は、
Oshoや、カルキ・バガバン、そして、津留さんのメッセージを、
Facebook を通じて、ご紹介なさっています。

津留さんのメッセージをご紹介くださるにあたり、
事前に、われわれの許可をとってくださり、
そして、これまでに、2度ほど、津留さん交流会にも、ご参加くださっています。

その、シャンタンさんが、
今、『九州』にいて、そのイベントを、主導されているとのこと。
カルキ・バガバンさんも、かの地から、ご参加なさるとのこと。

『九州』といえば、3週間前に、鹿児島を訪れ、
しかも、その際には、霧島神宮、高千穂峰を、ご訪問させていただいたばかりです。

『不二阿祖山太神宮』も、泰平さんのブログで、その存在を知り、
また、シャンタンさんにご紹介されて、
この夏、家族でご参拝させていただいたところです。

しかも、それらのエネルギーを、
今、僕が居る、『北海道』にまで、送り届けたい、とのこと。

そのイベントの存在を、
その、開始1時間前に、知りました。

しかも、
午後3時には、平取町に、着いている予定です!

 これは、何かありますよね?? ^^


そこで、妻には、こう、伝えました。

 「午後3時には、平取町に、着いてる予定です。
  その時間には、二風谷にも、義経神社にも、伺えます。
  どうするのが、良さそうか、シャンタンさんに、訊いてもらえる?」

妻は、メールで、シャンタンさんに、伝えてくれました。

  僕が、3週間前に、鹿児島・霧島に、伺ったこと。
  夏に、不二阿祖山太神宮にも、伺ったこと。
  そして、今は、ちょうど、北海道に居て、
  今朝は、日の出前から、摩周湖を訪ね、お祈りをささげたこと。
  そして、午後3時には、平取町に、着いていそうなこと、を。

しばらくすると、
シャンタンさんから、僕に、電話がかかってきました。

 「それは、ぜひ、二風谷で、お祈りに参加してください。
  そして、そこには、『レイラ』さんという、
  バガバンが、インドにご招待したことのある人がいるはずですから、
  訪ねてみてください」

これで、
どこで、何をするか、決まりました。

ただ、『レイラ』さんという方をご訪問するには、
どうしたらいいでしょう?
僕は、その方が、どんな方か、存じ上げません。

そこで、とりあえず、
シャンタンさんからの、電話の内容を、妻に、そのまま伝え、
その上で、妻から、アイデアをもらうことにしました。

すると、妻は、僕の話を聞きながら、
すぐさま、こう、言いました。

 「『レイラ』さん?
  『レラ』さん、ではなくて?」

妻には、心当たりがあるようです。
その件に関しては、後ほど、連絡をもらうことにして、
とりあえず、再び、車を走らせました。

そのとき、車を停めて、電話をかけていたところは、
橋のたもとの、空き地でした。
その橋を渡ってみると、その橋の名は、
 「竜門橋」
でした。

 「ここからは、聖域に、入って行くんだ」
そんな気が、しました。


妻からの、折り返しの電話を受ける前に、
「二風谷アイヌ文化博物館」に着きました。

そこで、妻に、電話をしました。
妻は、すでに、調べていてくれました。

 「『レイラ』さんという方は、分からないけど、
  二風谷在住の、『アシリ・レラ』さんという、
  アイヌのシャーマンの方は、知ってます。
  8月の、八ヶ岳のイベントに、出演されていたから」
 「ただ、『レラ』さんを訪ねるとしても、
  そのご訪問先は、分かりません」

妻のブログにあるとおり、
8月に、家族で、旅行をしたときに、
妻は、八ヶ岳で、イベントに参加したのでした。

そこに、出演者として、参加されていた方の一人が、
『アシリ・レラ』さんでした。

ちなみに、
そのイベント終了時に、会場で、
泰平さんに、再会していたので、
今回の、摩周湖といい、二風谷といい、
どちらも、そのときにイベントが、絡んでいるんですね ^^ 。

さて、
シャンタンさんに言われた、僕が訪ねるべき方は、
『レイラ』さんなのか、それとも、『レラ』さんなのか、
不明なまま、

しかし、とにかく、
他に、思い当たる手段も無いので、
二風谷アイヌ文化博物館の受付で、聞いてみることにしました。

 「『レイラ』さんという方は、こちらにはいらっしゃいませんか?」
 
 「『レラ』さんなら、向かいの○○の横の道を ・・・ 」

やはり、『レラ』さんでした。
そして、『レラ』さんのお宅を、お聞きすることができました。
そこからは、車で、数分の場所のようです。
その時点で、14:50でした。

そのとき、
すべてが、一筋の流れに乗っているように、感じられました。


『レラ』さんのお宅は、
すぐに、分かりました。

訪ねると、
ビックリするほど、あっさり、
お宅に通してくださいました。

ただ、
『レラ』さんご本人は、接客中でした。

そして、すぐに、
15:00のタイミングが、やってきました。

そこで、10分間ほど、
その場で、『レラ』さんのお宅で、
お祈りをさせていただきました。

その後、
しばらく、待たせていただきましたが、
そのご用件は、当分、終わりそうにない雰囲気でした。

レンタカーの返却時間、飛行機の時間があったので、
ご訪問趣旨を紙に書き、残し、
そして、その場を立ち去りました。

結局、
『レラ』さんには、お会いできずじまいでした。

流れに、乗っていたはず、ですが、
お祈りの依頼・お誘いをできないばかりか、
お会いすることすら、叶いませんでした。

ですが、
不思議と、
流れには乗ったまま、という感覚がしました。

 「これで、良かったはず」
と、
感じることができました。


その直後、
二風谷アイヌ文化博物館に戻り、車を停め、

二風谷湖のほとりへ向かい、
そこで、改めて、
お祈りをしました。



そこでは、
先ほどの、『レラ』さん宅でも、同じでしたが、

アイヌの方々の、
過去の、様々な『想い』・『記憶』・『エネルギー』に対して、

 『謝罪』『共感』『感謝』『赦し・赦され』『和合』
といった、
そんな想いを持って、
お祈りさせていただきました。

それと同時に、
アイヌの方々だけでなく、
日本の、そして、地球上の、すべての、
『被支配民族』『被差別民族』の方々の、
過去の『想い』・『記憶』に対しても、

それらへの、
 『謝罪』『共感』『感謝』『解放』
といったことを、意識し、
お祈りをしました。

 「旧き『エネルギー』の『解放』『浄化』」
をお祈りし、

そして、
 「新たな地球への移行」
を、
祈念いたしました。

『レラ』さんのお宅にお邪魔しているときに、
その、お宅の雰囲気や、
そこに集っている方々の雰囲気などから、

アイヌの方々と、
ニュージーランドの『マオリ族』との、
相似を、関連・連携のようなものを、
強く、深く、感じていました。

なので、
特に、『マオリ』の方々や、
あるいは、『ネイティブ・アメリカン』の方々、
『マヤ』『インカ』といった方々を意識して、
祈りをさせていただきました。


その後、
二風谷ダムの横をとおり、
義経神社にご参拝させていただきました。

美しく葉々の色づいた樹々をバックに、
義経神社は、ひっそりと、たたずんでいました。



そこでは、
 「『源氏』と『平家』」「血族」
 「『北海道』と『内地』」
 「『北海道』と『北米』」
といったことにまつわる、
 『対立』『執念』『和合』『解放』
といったことを意識して、
お祈りをさせていただきました。

 「新たな地球、新たな人類の文明」
それらの招来と、進展・発展における、
北海道の役割、ということについて、
そして、それらの順調な遂行について、
お祈りさせていただきました。

 広大な大地
 四方に広がる海洋
 深い森林
 各地に湧く温泉
 清純な水、空気
 約200%におよぶ食料自給率

「深い雪」とて、
上手く活用・運用することができれば、
夏場には、貴重なエネルギー源となります。

そんな、
 「これからの『日本』『地球』」
における、
『北海道』の役割と、その可能性について、

その道のりは、必ずしも平坦ではないかもしれないけれど、
でも、しかし、
それは、とても重要で、とても明るいものであると、
感じずには、いられませんでした。


こうして、
 鹿児島・『霧島』
からの、一連の流れによって、

 北海道・「『霧』の摩周湖」、「二風谷・義経神社」
へとつづいた旅は、
いったんの、終息を迎えました。

しかし、それも、
「完全な終息」ではなく、
「いったんの休息」
であることは、
なんとなく、分かっています。










2014年10月25日土曜日

写真・北海道旅行記4 ー「霧の摩周湖」後編


前の記事 の続きです)


あまりの、霧の量と、その深さに、
気持ちとしては、泣く泣くながら、
しかし、摩周湖には、お別れをして、
宿に帰ろうと、車に乗りました。

お別れは、急にやって来ました。
「襲って来た」という感じです。

しかし、一方で、
摩周湖を、充分に、眺めることは、できました。
それは、認めざるを得ません。

そこで、
 「泣く泣く」
ながら、
その場を発つことにしました。

ところが、
車を進めていると、
ものの30秒ほどで、
霧が、晴れて来ました!

そのまま、車を進め、
別の展望台、『摩周湖第3展望台』まで行ってみると、
その周辺には、霧はありません。

駐車場の位置からは、
湖の様子は、見られませんでしたが、
こころの半分は、もう、期待しています ^^ 。

駐車場に車を停め、
展望台まで、上がって行きました。

すると、
なんと、ありがたいことに、
期待通りに、湖上には、霧はなく、晴れてます!




陽光も、湖面に映り、
幻想的な美しさを、見せてくれています。




振り返り、
先ほどまで居た、『第1展望台』の方を見てみると、
霧があるのは、なんとなんと、その一角だけでした ^^; 。




こうして、
めでたく、摩周湖に、再会でき、
その後、その全容を、湖面を、
余すこと無く、心置きなく、
満喫できたのでした。

そのときには、
もう、どんな雲が見えようが、見えまいが、
どんなの存在に、会えようが、会えまいが、
どっちでも、良くなっていました。

もう、充分に、満喫できました。
こころの中で、奥さんに、
ひたすら、感謝していました。

さて、
とはいえ、
人間意識としては、まだ、
立ち去ることは、できずにいました。

「充分に満足した」想いとは裏腹に、
かといって、特にきっかけもなく、
立ち去ることは、できずにいました。

そして、そのまま、
ただ、眼下の湖面を、眺めていました。


そのときは、突然、来ました。
先ほどと同様、
何の前触れも無く、突然、襲ってきました。

湖の反対側、僕の背後が、
突然、気になりました。

記憶としては、曖昧ですが、
確か、風を感じたのだったと思います。

振り返ってみると、
霧が、やって来ていました、再び。

そちら側は、かなり低くなっていて、
硫黄山が、その先には屈斜路が、見下ろせます。

先ほど、『第3展望台』の駐車場に着いたときには、
それらは、見えていました。

ただ、
いま、改めて、そのときの写真を見返してみると、
その、駐車場に着いたときには、もうすでに、霧が、出ていたんですね。




そして、その霧は、
いまはもう、目の前まで、迫り上がって来ていました。




湖の方を見ると、
その霧は、もう、外輪まで、迫っていました。




見る間に、
それは、押し寄せ、




そして、それは決壊し、
ついに、湖側に、流れ込んできました。

そして、今回は、
先ほどと違い、
それらは、まとまりを保ったまま、
なだれ込んできました。




その、なだれ込む、霧の形状・様子に、
そのときの僕は、
 「龍だ!」
と、感じました。
 「龍神さまが、ご出勤だ!」
と、感じました。




でも、
いま、冷静に、その写真を見てみると、
それは、どう見ても、
 「ミミズ」
ですね ^^; 。

『第1展望台』にいるときに、
コンクリートの上を、もがき、身もだえていた、
ミミズを、1匹、土の上に、送り届けてあげていたので、

おそらく、
大親分さんが、ご挨拶に、来てくださったのでしょう ^^ 。

よく分かりませんし、
もう、どっちでも、どうでも、いいです *^^* 。


さて、その後も、
霧は、途切れること無く、湖上に流れ込んできて、
見る間に、視界一面、霧に包まれて行きました。











摩周湖は、ついに、
そのお姿を、一部残しただけで、
消えて行きました。

見ようによっては、
なにか、身体の長いものが、動いて行った跡のようなものが、
湖面に見える、とも、見えなくはないものが、見られましたが、



いずれにせよ、
最後に目にした湖面には、

まぶしい陽光が、
ある種、幻想的に、
ある種、アイロニックに、
輝いていました。




こうして、
大満足の、晩秋の、摩周湖ご訪問は、
「摩周湖」の、「『霧』の摩周湖」たる所以を、存分に味わわせていただき、
そして、あちらから、きっかけを与えてくださって、
終わりを告げたのでした。










写真・北海道旅行記3 ー「霧の摩周湖」前編


そもそも、
今回、『摩周湖』を、ぜひ、訪れたかった理由は、
大きく、2つ、あります。


まず、1つ目。

この夏、
両親と、子どもたちと、一緒に、
北海道に、旅行に来ていましたが
(過去記事「夏期休暇のおしらせ」も、お読みいただけると、嬉しいです)、

その際には、
子どもと、老人には、
日程的に、特に、車中での移動時間的に、
道東まで来ることは、難しく、

なので、
 「せっかくなので、とても、来たかった」
けれど、
 「泣く泣く、断念した」
のでした。


そして、もう一つ。

この、滝沢泰平さんの、この記事を、その中の写真を、
裕子さんに教えてもらって、見ていたからです。

 ブログ「天下泰平」
  記事『 “霧の摩周湖”に現れた統合時代の象徴の「龍と蛇」

 ( ご存知の方も、多いかも知れませんが、
   こちらの写真は、ぜひ、ご覧になってください! )

泰平さんとは、
その記事がアップされた、ちょうど翌日、
お会いしていましたので、

お会いしたのは、
その写真を撮られた、その雲を見られた、
まさに、直後。

 「だから、何?」
なのは、そのとおり、ごもっとも、ですが、

まず、そのタイミングから、
なにか、『縁』というか、関連を、
僅(わず)かばかりですが、感じなくもないですし、

なにより、
恥ずかしながら、正直に打ち明けると、
 「うぁ〜、すごい写真だ!」
という、気持ちと同時に、
 「自分だって、こんな場面に、遭遇できるはず!!」
という、

なんというか、
 『嫉妬』『ねたみ』
のような、
そんな気持ちが、結構強めに、湧いて来まして ^^; 、

なので、
 「摩周湖に、行きたい!」
 「自分も、そんな光景を、見たい!」
という想いを、
強く、持っていました。

また、
先ほど、お話ししたとおり、
 「その直前に、北海道に行っておきながら、
  摩周湖には、行けなかった」
という背景が、
その想いを、より、強めていたのも、確かで、

それ以降、そんな気持ちが、
ずっと、くすぶっていました、
浄化をしても、です ^^; 。

裕子さんは、
そんな、僕の気持ちを、知っていましたので、

なので、今回の、僕の道東行きを、
認めてくれたのだと、思います。

そんなわけで、このたび、
晴れて、摩周湖を訪れることが、できたのでした。


10月21日(火)、
前日、どうにか、ギリギリ、間に合って
(写真が、最初の数枚以降は、暗くて、撮れなくなるくらいでした)、
お姿を、拝むことができていましたので、

気持ちとしては、落ち着いていて、
でも、
わざわざ、このために、道東まで、来たのだから、
という、想いもあって、

この日は、
朝、4時に起きて、
朝一番の、摩周湖を、拝ませていただくことにしました。

 「早朝は、霧が出やすいのか、そうではないのか?」
も、分かりませんでしたが、

時間に余裕もありませんでしたし、
なにより、
逸(はや)る気持ちを、抑え切れず ^^; 、

4時半には、宿を発ち、
車で、湖に向かいました。

予定通り、早く起きられましたので、
はじめは、
湖の裏側にある、『裏摩周湖展望台』へ、向かうつもりでした。

そして、
その帰り道には、
青く、透明な水が有名な、『神の子池』に、
寄って帰るつもりでした。

ところが、
カーナビで、目的地に設定しようとしても、
どちらも、入力できません。
地名が、登録されていないみたいです。

そんなことって、あるでしょうか?

その日の宿は、
部屋数5室の、小さな旅館でしたが、
それでも、
電話番号を入力すると、出てきたのです。

それなのに、
『裏摩周湖展望台』と『神の子池』が、
目的地設定できないなんて ...

人間意識としては、諦め切れず、
数分間、格闘したのですが ^^; 、

カーナビ無しでは、
夜明け前の暗がりの中、
たどり着けそうにありませんでしたので、

しかたなく、
前日に訪れた、『摩周湖第1展望台』へと、向かいました。

ところが、
林の中の宿を出てみると、
空は、もう、一部が、白みはじめています。

 「あぁ、これじゃぁ、裏側へ行ってたら、
  日の出の頃には、間に合わないや」
と、
カーナビの『不具合』に、
この時点で、ようやく、諦めがついたのでした。



摩周湖に着くと、
とてもありがたいことに、
前日同様、霧はなく、湖面が見えています!




数分もすると、
空が、だいぶ、明るくなってきました。




直に、陽の光が、雲に映りはじめます。




その後、しばらくして、
もうすぐ、太陽が、姿を見せそうになったとき、




それは、突然、起こりました。
下の、街の方から、それは、現れました。




霧です!

そして、
みるみる、その流れは、増し、加速し、




ものの2〜3分で、
視界は、すべて、霧に覆われてしまいました。




これが、これこそが、
 「摩周湖」
が、
 「『霧』の摩周湖」
たる所以(ゆえん)なのですね。




霧の中では、
霧の中ゆえの、美しさにも、出会えましたが、




このまま、その場にいても、
状況は、変わりそうにありませんでしたし、

なにせ、
ものすごい、霧の量でしたので、
もう、摩周湖は、全体が、
霧に覆われてしまっただろうと、思いました。

そこで、その場を離れ、
宿へ帰ることにしました。


 (つづく)








2014年10月24日金曜日

写真・北海道旅行記2 ー道東へ


今回の、『札幌イベント』は、
正直、
赤字でした。

前回の、『鹿児島イベント』は、
ビックリするくらい、
ピッタリと、経費分は出たのですが
(食費を除いた分)、

今回は、
結構、しっかりとした、赤字でした ^^;

奥さんの、裕子さんには、
申し訳ない限り、なのですが、

そんな中、
 「せっかくの機会なので、『道東に』、
  特に、『摩周湖』を見に、行きたいんだけど ... 」
という、
僕の申し出を、

 「いいわよ。」
と、
快く、二つ返事で、承諾してくれました。

 「どうせ行くんだから、
  いろいろなところで、しっかりと、お祈りを捧げて来て!」
と、
むしろ、積極的に、勧めてくれるかのように、
送り出してくれました。

 裕子さん、ありがと〜〜お〜!



航空チケットの関係で、
はじめから、
10月21日(火)の夜まで、滞在時間がありましたので、

10月20日(月)の朝一番から、
21日(火)の夕方まで、
まる2日間、レンタカーを借り、

そして、
札幌から、道東に、行ってきました。

レンタカーの返却は、千歳(空港近く)。
なので、
時間と距離的には、結構、タイトですが、

ニュージーランドでも、そうでしたが、
自然豊かな場所を、ドライブすることが、
なによりも、大好きな『趣味』なので、

道中も含めて、
たっぷりと、
晩秋の北海道を、楽しんできました。



道中は、
不思議な、おもしろい『雲』に、
いっぱい、出会いました。

越えて来た、雪を冠った日高山脈を、振り返り、眺めてみると ... 
(@清水町美蔓)


まるで、亀が、うさぎを追っているように、僕には、見えました
(@士幌)


亀の雲を離れた直後、こんな雲が、行く手に現れ ... 
(同じく、@士幌)


阿寒湖に、ご挨拶をし、
そして、そこを離れたときには、
もうすでに、夕方の気配。

東側から見た、雄阿寒岳・雌阿寒岳は、
夕日の輝きを、
その背後に、携えていました。




そして、
目的の、摩周湖。

2日目の天候がどうなるか、読めなかったため、
その日の内に、
一度、お姿を、拝ませていただこうと、
まず、展望台に、向かいました。

たどり着いたときには、
すでに、夕闇迫る、薄暗がり ...

明るさは、足りるのか?
そもそも、霧は、どうか?

果たして、
湖面は、見えるのか?















2014年10月23日木曜日

写真・北海道旅行記1 ー北海道神宮


『札幌イベント』を行った、
10月18日(土)と19日(日)の両日は、

快晴で、風もなく、気温も高くて暖かい、
とても天候に恵まれた、2日間でした。

その一日目である、18日の土曜日は、
午後から、「津留さん交流会」が予定されていました。

会場は、僕が宿泊していた、札幌中心部からは、
北西に、少し外れたところで、

そして、その途中には、
「北海道神宮」さまが、ありました。

ちょうど良い流れでしたので、
その日の午前中、会場に向かう途中で、
ご挨拶に伺うことにしました。


動物園などがある、円山公園が隣接している、
その神宮さまは、

とても緑の多い、すばらしい場所で、
市民の憩いの場になっているようでした。

好天の、土曜日。
多くの市民で、賑わっていました。

鳥居をくぐり、境内に入ると、
その、好天ゆえか、
なんだか、とっても、素敵な雰囲気が漂っていました。

理由も、確たる根拠も、何もありませんが、
そして、おそらく、
単なる思い違い、勘違いだと思いますが、

ただ、
 「なぜだか、歓迎していただけている」
という、
そんな感覚が、
極めて曖昧で、漫然としたものだけれど、
でも、ありました。

神宮さま滞在中は、
ずっと、至福感に包まれていました。


北海道神宮さまには、
末社が、三社、ありました。

北海道開拓の功労者が祀(まつ)られた、
開拓神社。

鉱山殉職者の御霊(みたま)が祀られた、
鉱霊神社。

北海道拓殖銀行の物故者の御霊が祀られた、
穂多木神社。

どれも、お社(やしろ)は、大きくはないですが、
北海道の為に尽くされた方々の御霊は、
大きな敬意を持って、祀られていました。

それぞれに、ご挨拶申し上げると、
それぞれに、輝いていらっしゃる様子を、拝見できました。


開拓神社


鉱霊神社


鉱霊神社のお社の横の樹に、
まるでぬいぐるみのようにたたずむ、エゾリス


穂多木神社



そして、
本社、北海道神宮さま。

ちょうど、
七五三で、賑わっていました。

海外からの観光客も、
多数、参拝されていました。

その、賑わい、活気あふれる様子に、
なぜか、
この先の、北海道の望みあふれる行く末を、
感じていました。


北海道神宮




その場の、あまりの心地よさに、
時を忘れて、
ただ、そこに、浸かりきっていました。

気がついたときには、
予定していた、地下鉄の出発時間が、
過ぎ去っていました。

跳ねるように、走り下って行く足取りは、
駅のホームに着くまで、
ずっと、軽やかなままでした。










2014年10月22日水曜日

『第1回 札幌イベント』を終えて


おかげさまで、
2014年10月、
北海道札幌市において、
『第1回 札幌イベント』を、開催することができました。

計8名の方々にご参加いただきました。
ご参加くださったみなさま、
ご参加ありがとうございました。


10月17日(金)、
津留さんの命日に、
札幌へ伺いました。

その、往きの機内で、いきなり、
おもしろいことが『起こりました』。

これまでに、2度、
浄化実践講習会にご参加くださっている方が、
なんと、
その機の、CA(キャビン・アテンダント)さんとして、
搭乗されていたのです! ^~^

前回、お会いしたときには、
 「今度、鹿児島と札幌で、イベントをするので、
  そのときに、機内で、お会いするかも」
なんて、
僕は、言っていたのですが、
さっそく、現実となりました。

でも、
 「えぇ〜、便が、たくさんあるのに、
  お会いするなんてぇ〜!」
と、おっしゃっていたことからすると、
やはり、お会いすることは、珍しいことなんでしょうね。

でも、津留さんの命日ですし、
そのくらいのこと、起こりますよね ^^ 。

新千歳空港に到着後、
その出来事を、妻に、報告すると、
 「それは、幸先の良い、スタートだね!」
と、言ってもらい、
なんだか、急に、その先のことが、楽しみになりました。

その方からは、
その日の夜、
 「その日の帰路、空港に着陸するときに、
  大きな虹を見ました」
と、
写真付きのメールをいただきました。

そのメールを拝読したとき、
今回の札幌イベントが、北海道行きが、
僕にとって、
素晴らしいものになることを、
僕の中のどこかで、確信しました。




空港から、
電車に乗って、札幌に向かうと、
外は、紅葉真っ盛りでした。

札幌では、
葉まで赤く染まった、全身真っ赤なナナカマドを、
見ることができました。

緑の葉に、実を赤く染めたナナカマドは、
これまでにも、何度か、目にしたことがあって、
その美しさには、何度も、やられたのですが ^^; 、

今回は、念願の、
葉まで赤いナナカマドを目にして、
今回の訪問のタイミングが、紅葉の時季であったことに、
はじめて気づきました。





翌、10月18日(土)、
3名の方々にご参加いただいて、
津留さん交流会を、開催しました。

遠くは、旭川と、美瑛から、
ご参加くださいました。
遠路お越しくださり、ありがとうございました。

前回の、鹿児島では、
参加者無しで、開催しませんでしたので、
とても楽しみにしていました。

今回は、DVDの機材を準備できず、
CDの、「『新創世記』横浜編」を、みなさんで聴きました。

その後、シェアリング。
みなさん、
日ごろ、疑問に思っていらっしゃることや、
日ごろ、湧き起こってくる物事、それらに対しての考えや対処、
そして、それらから学び、気づいてことなどを、
とても熱心に、語ってくださり、
真剣に、お聴きになっておられました。
僕としても、気づきの多い、交流会となりました。


その翌日、10月19日(日)には、
こちらも、3名の方々にご参加いただいて、
浄化実践講習会を開催しました。

遠くは、釧路から、
ご参加くださった方々が、いらっしゃいました。
遠路お越しくださり、ありがとうございました。

内容は、いつもと同じ、「浄化実践講習会(初中級編)」の内容で、
浄化の仕組みや、その前提となる理論部分、
そして、実践方法や、浄化のポイントなどを、お伝えしました。

みなさん、とても熱心にお聞きくださり、
お伝えする側としても、熱が入りました。

また、少人数だったため、
フランクに、お話をしながら、質問をしながら、
進めて行くことができましたので、
とてもやり易く感じました。


そして、
個人セッションにも、
2名の方々が、ご参加くださいました。

「北海道らしい」とも言えるテーマがあったりして、
普段、千葉で行っている個人セッションとは、
少し、違ったところもありましたが、
もちろん、根本部分は同じですので、
いつも通りに、浄化のお手伝いをさせていただきました。

 「本を読んだだけだと ... 」
 「一人で、やっていると ... 」
と、
これまでは、浄化に対して、少し、自信を持てなかったそうですが、
今後は、しっかりと、自信を持って、
浄化を進めていっていただけるのではないか、と、思っています。


改めまして、
今回、ご参加くださいましたみなさま、
本当に、どうもありがとうございました。

またお目にかかれることを、楽しみにしています。
また、札幌・北海道で、開催できるように、
努めてまいります。


  集合人編集局
    ひで