2017年6月26日月曜日
他人の「イライラ」
僕の、現在の、浄化の対象は、
8割がた、「他人の『イライラ』」です。
はじめのうちは、
「お金のこと」「仕事のこと」
そして、「蚊のこと」^^ が、ほとんどでした
(「蚊のこと」については、よろしければ、こちら をご覧ください)。
そのうち、
それらの浄化が、
少しずつ、進むにつれて、
それらのことが、
少しずつ、気にならなくなり、
それほどには、重く感じられなくなり、
かわって、
現在、日々、とにかく、感じることは、
「他人の『イライラ』」を、嫌がる感情・感覚です。
他人が「イライラ」していると、
とにかく、不快です。
落ち着かず、
あるいは、怖く、
場合によっては、こちらがイラつきます。
「怒っている人」や、「イライラしている人」のことを、
好きな人、得意な人は、
そもそも、あまりいないと思います。
みなさん、総じて、
好きではないし、嫌いだと思います。
津留さんの場合も、そうで、
そして、それが、
『浄化』というものを理解し、生み出した、きっかけでした。
みなさん、総じて、
そういう人のことを、
嫌いで、苦手で、
なので、
「では、どうして、嫌なのか・嫌いなのか?」
については、
あまり、考えたことも無いかもしれませんが、
僕の場合、
その、おもな理由は、
他人が「イライラ」していると、
「その原因は、自分にある」
「自分が悪い」
と、
感じてしまうからです。
僕の場合、今回の人生で、
「イライラしている人」は、
幼少期においては、
主に、父でした。
前述 しましたが、
父は、周りの人々の犠牲で、
仕方なく、働きづめでした。
『犠牲者』でした。
おそらく、そんな理由から、
いつも、不満があり、
いつも、イライラしていました。
少なくとも、
僕からは、そう、見えていました。
その、父の不満の原因は、
ときに、僕でした。
なので、
「イライラしている人」が居るとき、
「その原因は、自分にある」
「自分が悪い」
と、
感じます。
また、多くの場合、
不満の矛先は、
母でした。
なので、
「イライラしている人」が居るとき、
「自分が悪い」
と、
感じます。
自分にとって、最も大切な母を、
僕が、救えていないからです。
僕が、守れていないからです。
だから、
「自分が悪い」
と、
感じます。
「自分はダメだ」
と、
感じます。
なので、
「イライラしている人」が居るとき、
その人を、
放っておけません。
そのままに、しておけません。
「イライラ」しているままに、
させてあげられません。
なぜなら、
「イライラしている人」が居る間中、
「お前が悪い」
と、
言われ続けているからです。
「自分はダメだ」
と、
言われ続けているからです。
実際には、
「イライラしている人」が、
そのようなことを、言わなくても、
そのようなことを、
思ってすら、いなかったとしても、
「実質的」には、
「心情的」には、
そう、言われているのと、同じだからです。
僕の場合、
主に、以上のような理由で、
「イライラしている人」が、
苦手なのですが、
ただ、そのことは、
これまでに、すでに、認識できていました。
なので、
認識した上での、浄化を、
これまでに、行ってきました。
加えて、先週、
新たに、
別の「理由」があることを、発見しました。
これまでの浄化の成果か、
別の「想い」に、気づけました。
自分の想いとしては、
「その原因は、自分にある」
「自分が悪い」
と、感じる
ということは、
これまでと、同様なのですが、
では、
どうして、
「その原因は、自分にある」
「自分が悪い」
と、感じるのか?
に関しては、
別の理由がありました。
それは、
気づいてみて、
「気づいた自分が、驚いてしまう」ような理由、
いえ、というよりも、
むしろ、『理屈』だったのですが、
それは、
「その原因は、自分には無い」
「自分は悪くない」
と、
認識してしまうと、
捉えてしまうと、
自分には、
その状況を、変えることができなくなってしまうから
というものでした。
「その原因は、自分には無い」「自分は悪くない」
と、認識してしまうと、
「自分は悪くな」くて、
「自分に原因が無い」ので、
自分には、
その状況を、変えることができなくなってしまいます。
「自分には、その状況を変えることができない」
と、
自ら、認めてしまうことになります。
自ら、宣言してしまうことになります。
よね?
だって、
「自分は悪くな」くて、
「自分に原因が無い」のですから。
なので、
実際のところは、
自分が悪くなかろうが、非が無かろうが、
「その状況を変えることができる」
という『可能性』を持つために、
「自分が悪い」
「自分に原因がある」
と、
自分で思い込んでしまう、
という行為を、
無意識のうちに、
自分の内側で、
行っていました。
その結果、
自分が、より、痛むことになろうと、
自分が、より、辛いことになろうと、
「もしかしたら、状況を変えることができるかもしれない」
という、
論理的に考えたならば、「有り得ない『可能性』」を持つために、
その可能性に縋(すが)るために、
自ら、
「自分が悪い」
「自分に原因がある」
と、
無意識に、思い込んでいました。
自ら、決め込んでいました。
いまであれば、
『浄化』というものを知っていて、
内側・自分の感覚を変えてしまう、
という、「対処方法」を、知っているので、
いまであれば、
そのように思い込むことなど、しないのではないか、
と、思いますが
(するかも、しれませんが ^^; )、
そう思い込みはじめたときには、
そうするしか、無かったんですね。
そして、その習慣が、
無意識のうちに、続いていたんですね。
「自分にはどうにもできない」という " 絶望 " に比べれば、
「自分が悪い」という " 痛み・辛さ " のほうが、まだまし
そんな表現が適切な、
そんな『理屈』によって、
「自分が悪い」
という決めつけ・思い込みを、
自ら、取り入れ、引き込み、
そして、
自ら、痛み、苦しんでいたことに、気づきました。
しかも、それは、
そもそも、見当違いな思い込みなので、
それが、外部から解消されることは、ありません。
なので、
その痛み、苦しみは、
際限なく、長続きします。
存続し続けます。
自分が、止めない限り ...
とても辛い、自己仕打ちでした。
でも、
「いや、『自分が悪い』のでは、なかったんだ。
そう、思い込んでいただけだったんだ。
自分は、悪くなかったんだ!」
そう、気づいたとき、
そう、こころから思えたとき、
「他人の『イライラ』」に対する感覚が、
少し、
いえ、ずいぶん、小さくなっていました。
そして、
なにより、
そう、気づいたとき、
そう、こころから思えたときに、
こころの底から、じわじわと、湧き上がった、
安堵感、開放感。
自己肯定感 ...
「そうかぁ、
これを、この感覚を、感じるために、
長い長い間、わざわざ、自ら、
自己否定をしていたんだな」
この週末は、
これまでとは、また、ひと味違った、
特別な感覚に、浸っていました。