2017年7月1日土曜日

「自分」の中の『闇・陰』を認める


 先月の、個人セッションの中で、
 こんな会話が、ありました。
 
  「津留さんが、
   『他人の中の光を見てください』
   って、おっしゃってましたけど、
   
   私、
   他人の中に、『光』が見られないんです。
   他人の中に、『光』が感じられないんです。
   
   どうしたら、
   他人の中に、『光』が見られるようになりますか?」
 
 その方は、
 少し、涙ぐみながら、
 
 そう、おっしゃってました。
 そう、訴えてらっしゃいました。
 
 こころ優しい方なので、
 他人を、『光』と、『愛そのもの』と、
 見ることができないことに、
 苦しんでいらっしゃいました。
 
 他人に対して、
 ネガティヴな感情が湧いてしまう、
 そんなご自分を、
 ひどく、責めていらっしゃいました。
 
 
 同じように、感じてらっしゃる方は、
 同じような疑問を、お持ちの方は、
 
 少なからず、いらっしゃることと、思います。
 
 今回は、
 これを、話題としましょう。
 
 
 そして、今回は、
 珍しく ^^ 、「結論」から行きましょう。
 
 
  「他人の中に、『光』が見られない」
 のは、
 なぜでしょう?
 どうしてでしょう?
 
 それは、
  「『自分』の中に、『光』が見られない」から
 です。
 
  「『自分』の中に、ちゃんとある、『光』たるものを、
   ちゃんと、認識できていない・認められていない」から
 です。
 
 「パラドックス」ですねぇ ^^
 
 
 では、
 
  「『自分』の中に、『光』が見られない」
 のは、
 なぜでしょう?
 どうしてでしょう?
 
 それは、
  「『自分』の中の、『闇』『陰』を、認めていない」から
 です。
 
  「『自分』の中に、やはり、存在してしまっている、『闇』『陰』を、
   ちゃんと、認めていない」から
 です。
 
 これまた、
 そして、さらに、
 「パラドックス」ですねぇ!
 
 
 もし、
 この部分をお読みになって、
 ピンと来られた方は、
 
 ぜひ、
 少し、時間を取って、
 
 「『自分』の中の、『闇』『陰』を、認めて」みてください。
 「『自分』の中の、『闇』『陰』を、感じて」あげてください。
 
 きっと、
 実り多い、素晴らしい時間を、
 過ごされることでしょう。
 
 実り多い、素晴らしい体験を、
 されることでしょう。
 
 
 先の、個人セッションでも、
 そう、お伝えすると、
 
  「『自分』の中の『闇』を、見つめます」
 とおっしゃって、
 
 しばらく、それを見つめ・意識を向けて、
 浄化をなさり、
 
 そして、その後、
  「見つめてあげたら、
   『闇』が、喜んでいるのが、感じられます!」
 と、
 
 こちらの、想定・想像を、はるかに上回る、
 驚くべき、素晴らしいご返答を、くださいました。
 
 驚くべき、素晴らしい『浄化』を、
 なさっておいででした。
 
 
 で、
 話を続けましょう。
 
 では、

  「『自分』の中の、『闇』『陰』を、認められない」
 のは、
 なぜでしょう?
 どうしてでしょう?
 
 それは、
 
  「『自分』の中の、『闇』『陰』を、
   良くないもの・いけないもの・あってはならないもの、
   と、認識している」から
 ですね。
 
 これは、
 かなり単純な構造なので、
 お分かりいただけやすいと思います。
 
 
 『闇』を、『陰』を、
 「ネガティヴなもの」を、
 
 「良くないもの」と、
 「いけないもの」と、
 「あってはならないもの」と、
 
 想っているから、
 認識しているから、
 
 それが、「『自分』の中に在る」ということを、
 認められないわけです。
 
 否定しているものが、
 「『他人』の中に在る」としても、
 なかなか、認められないものを、
 
 それが、
 「『自分』の中に在る」なんて、
 もっと、認められないわけです。
 
 そんなこと、
 許せないわけです。
 
 そんなこと、
 「あってはならない」わけです。
 
 「あってはならない」わけですから、
 そんなものが、「在る」なんて、
 認められないわけです。
 
 
 そして、
 さらに、話を続けましょう。
 
 では、
  「『自分』の中に在る」と認められない
 のは、
 なぜでしょう?
 どうしてでしょう?
 
 それは、
 僕が思うには、
 
  「 " 自分 " を、『自分』だと、思っている・認識している」から
 です。
 
 ちょっと、
 「禅問答」のように、なってしまいましたが、
 
 でも、こここそ、今回お伝えしたいポイントなので、
 ぜひ、このまま、お付き合いください。
 
 
 さきほど、
   「『他人』の中に在る」としても、
    なかなか、認められない
 と、言いました。
 
 それが、『他人』の中に在っても、
 それは嫌、なのですが、
 
 でも、嫌だけど、
 「『他人』の中」ならば、
 どうにか、こうにか、認められるわけです。
 
 なぜなら、
 それは、
  「『他人』の中」
 だから。
 
 つまり、
 『陰』が存在している場所が、
 『闇』を有している人が、
 『他人』だから。
 
 
 ですが、それが、
 「『自分』の中」ならば、
 それは、もう、認められません。
 
 それは、
 『陰』が存在している場所が、
 『闇』を有している人が、
 『自分』だから。
 
 ですよね。
 
 
 つまり、
 『他人』と『自分』が、
 ここでは、違っていますね。
 
 もし、
  「『他人』と『自分』は、違って、当然じゃないか」
 というご指摘が、ここであれば、
 ここでは、そのとおりですし、
 
 また、
  「『他人』は居ない。『自分』と『他人』は、同じ」
 ということが、
 ここで、言いたいこと、では、ありません。
 
 ここで言いたいことのポイントは、
  『他人』か、どうか
 ではなく、
 
   " 自分 " は、『自分』か?
 
 という点です。
 
 言いたいのは、
  「『陰』が存在している場所を、
   『闇』を有している人を、
   『自分』だと、思っているかもしれませんが、
   
   それは、そうですか?
   そうではないのでは、ありませんか? 」
 ということです。
 
 
 『陰』が存在している場所は、
 実は、
 " あなた " という存在の、『肉体』の部分です。
 
 『闇』を有しているのは、
 実は、
 『あなた』の『肉体』であり、
 あるいは、
 『あなた』が、今やっている、『人間』の部分です。
 
 つまり、
 いま、ここで、僕が言いたいのは、
 
 『あなた』というのは、
  表現をかえれば、
  「本当の『あなた』」は、
 
 『人間』の『肉体』の中に入って、
 「『人間』をしている存在」であり、
 
 決して、
 「『肉体』そのもの」では、ないし、
 「『人間』そのもの」でも、ない、
 ということです。
 
 そして、
 『闇』とよばれるもの、
 『陰』とよばれるもの、
 
 あるいは、それだけでなく、
 「性格」「思考」「自我」「ブロック」
 それら、すべて、は、
 
 いま、『あなた』が、
 「その『人間』」としての体験をするために、
 入り込んでいる、成っている、借りている、
 『肉体』部分に、『人間』部分に、存在しているもの、であり、
 
 それらは、
 決して、
  『あなたそのもの』では、ない
 ということです。
 
 
 わたしたちは、
 『人間』をするために、
 『人間』を体験するために、
 それらを、かりそめに、一時的に、身にまとっている、
 そんな存在です。
 
 津留さんが、
 『観察者』と言っていたり、
 『感じる自分』と言っていたのは、
 
 まさに、
 そんな『自分』です。
 
 
 これまで、普段、
 特段、意識しない場合に、
 私たちが、認識してきた " 自分 " は、
 
 「『人間』としての自分」や、
 「纏(まと)っている『肉体』としての自分」ですが、
 
 しかし、それは、
 本当の『自分』ではないし、
 本来の『自分』では、ありません。
 
 まず、そのことを、
 改めて、しっかりと、認識なさってみてください。
 
 そして、
 もし、「広い意味での自分」の中に、
 
 『闇』や『陰』や、
 「妬(ねた)み」や「嫉(そね)み」や、
 「怒り」や、「憤(いきどお)り」や、
 「『愛』とは感じられないもの」「『愛』とはほど遠いもの」が、
 あったとしても
 (それは、必ず、あるわけですが)、
 
 それは、
 『肉体』の部分に、『人間』の部分に、
 存在しているものであって、
 
 『本質としての自分』『そもそもの自分』『本来の自分』には、
 そのようなものは、存在していません。
 
 
 私たちは、
 『神さま』のままでは、体験できないことを、体験するために、
 『人間』になっている、存在です。
 
 『人間』として、
 『神さま』のままでは、体験できないことを、体験するためには、
 
 『闇』が、『陰』が、
 「妬み」が、「嫉み」が、
 「怒り」が、「憤り」が、
 「『愛』とは感じられないもの」が、
 「『愛』とはほど遠いもの」が、
 必要です。
 
 『神さま』のときの、私たちには、
 そのようなものが、ありませんでしたのでね。
 
 それらを有して、はじめて、
 私たちは、
 『神さま』のままでは、体験できない体験が、
 『人間』としての体験が、
 できるわけです。
 
 ですから、
 『人間』をしていれば、誰でも、
 それらは、有しているものであり、
 
 そして、それらは、
 『人間』としての部分に、『肉体』に、
 存在しているものです。
 
 そこを、
 『人間』部分・『肉体』を、
 「自分」と認識するのか、
 
 それとも、
 そこに入り込んでいる存在を、
 「自分」と認識するのか、
 
 いまいちど、
 検討してみてください。
 
 
 そして、
 もし、津留さんが言っているように、
 
 「そこに入り込んでいる存在」を、
 『自分』を、
 「自分」と認識するならば、
 
 『闇』も、『陰』も、
 「性格」も、「思考」も、「自我」も、「ブロック」も、
 それらは、すべて、
 
 自分 ではありません。
 
 
 例えるならば、
 それらは、すべて、
 あなたが着ている『服』に、付着しているものです。
 
 「人間世界」という、
 深い闇の世界を、覗き観るために、着込んだ、
 「潜水服」に装備されている、機能のようなものです。
 
 「人間世界」という、
 争い・分離に満ちた世界を、体験してみるために、搭乗した、
 『モビルスーツ(ガンダムの)』に装備されている、機能・武器のようなものです。
 
 「人間世界」という、
 『自分』のままでは体験できない世界を、体験するために、使用・操作している、
 『アバター』に組み込まれている、能力・性質のようなものです。
 
 
 ただ、
 これまでは、
 
 「それらを着込んでいる・搭乗している」と、
 認識していなかったし、
 
 それらの機能・武器・能力が、
 自動プログラムで、自分の意思とが関係なく、勝手に、稼働していたので、
 「自分でコントロールできるもの」という認識が、
 さらには、「自分で停止できるもの、取り除けるもの」という認識が、
 無かっただけです。
 
 それらは、
 必要があれば、停止できるし、
 望ましければ、取り除くことができます。
 
 そのことを、その事実を、
 いまいちど、ご認識なさってください。
 
 
 ただ、
 面白いもので、
 
 「使用したくて」「自ら望んで」装備したものなので、
 
 それを身に付けていることを、
 「肯定」した後のほうが、

 また、それらを、
 充分に使い込んであげた後のほうが、

 停止することも、取り除くことも、
 「『一般的には』、し易い」、という性質がありますけど ^^