2014年9月25日木曜日
『情報』の希求・活用と、『情報』の消去
津留さんは、
創造・浄化に関して、
「集合意識から、かけ離れたことをするのは、難しいですよ」
と、言っていました。
メッセージ集の2番目、
「人生はゲームである」にあるとおり、
私たちは、
『集合意識』として、『人類』として、
共通の『ルール』を、持っています。
「身長150から200㎝ぐらいの肉体をまといます。
脳細胞は数%だけ使用可能。
見える範囲は全振動領域の0、001%だけに制限する。
平均プレイ時間は80年、ただし最高は120年まで。」
そんな、
人類として、共通の、標準的な、
『ルール』『限定』『制約』『条件』
を、持っています。
『初期設定』
『初期ブログラム』
というような表現も、
使えるかもしれませんね。
あるいは、
『デフォルト設定』
というような表現も、
いいかも、しれません。
「特に操作や設定を行わなかった際に使用される、
あらかじめ組み込まれた設定値」
まさに、そんな感じだと思います。
「『地球』で、『人間』をする」
場合には、
その最前提のところで、
みな、共通して、
そのような、基本ルールを、
自らの内に、『内包』しています。
たとえば、
メッセージ集「変容」にあるように、
わたしたちは、みな、
共通して、
「火は、熱い」
「火に当たれば、やけどをする」
という、『基本ルール』を、
自らの内に、『内包』しています。
ですから、
何も知識も、経験も、無い、
あかちゃん であっても、
火に触ると、
やけどをし、痛みを感じ、
そして、水ぶくれになります。
ただ、
何らかの意図があって、
生まれてくる前に、
「火は、熱くない。やけども、しない」
と、
特別に、『設定』してくることもできます。
その場合には、
火は熱くないし、やけども、しないでしょう。
ですが、
特に、そのようなことをしていなければ、
みな、
その、共通ルール、基本ルールに沿って、
人間として、生きていくことになります。
あるいは、
そのようなことをしていない『項目』に関しては、
無条件に、
全体としての、共通ルールに従うことになります。
そして、
最初の、津留さんの言葉は、
僕なりに、事例を使って、解釈すると、
「『食べなければ、生きていけない』というのも、
人類全体としての、基本ルールに過ぎないので、
食べないで生きていくことも、可能」
「『人は、テレポーテーションできない』というのも、
人類全体としての、基本ルールに過ぎないので、
テレポーテーションすることも、可能」
「ただ、それらのルールから、大きく離れるのは、困難だし、
ルールが強固なものであるほど、そこから離れるのは、困難」
ということを、言っていたものと、思います。
さて、
そのような、
「『人類』としての、『ルール』『法則』」が、存在しているのだ
と、
認識できた段階で、
理解できた・納得できた段階で、
それらに対しては、
大別すると、
3通りの、対処の仕方があると思います。
一つは、
「何も、しない。」
何もせず、
ただ、翻弄(ほんろう)される。
あるいは、
何もせず、
ただ、受け入れる。
それらも、
確かに、
一つの方法です、
もし、
そうできるなら ...
二番目の方法は、
「それらの、『ルール』『法則』を、積極的に活用する。」
「そのような『ルール』があるのなら、
ぜひ、それらを『知って』、
そして、できるだけ、取り入れて、活用して、
そして、自分の人生を、豊かに、幸せにしよう」
そんな、スタンスです。
いわゆる、「スピリチュアル」なこと、「精神世界」のことに、
目覚めると、興味を持つと、
最初にやってくるのは、
最初に興味を持つのは、
そのような、
いわゆる「世間一般の『常識』」とはかけ離れた、
あるいは、
世間一般には『隠された』、
「人類としての『ルール』」
「地球物質界の『法則』」
に関する『情報』だと思います。
そして、
「そんな『ルール』を、できるだけ多く、知りたい」
「そして、できるだけ多く、活用したい」
「その結果、できるだけ、それらからのメリット・アドバンテージを受け取って、
自分の人生を、豊かにしたい。幸せになりたい」
「そして、『安心』したい」
そう、思われることと想います。
「こころに想ったことは、現実化するらしい。
だから、僕は、『金持ちになりたい』と、毎日、念じよう」
「『感謝』すると、パワーが増して、実現力が高まるらしい」
「この食べ物は、特別に、身体と魂に良いそうだ。毎日、食べよう」
「この飲み物は、波動を下げるそうよ。飲むのをやめましょう」
そして、
このような対応を、とられることと想います。
そのような対処の仕方を取られることは、
それは、それで、
とても自然な有り様だと、思います。
そうすれば、
これまで以上に、
物質世界的に、三次元的に、
たとえば、豊かに、
たとえば、よりパワフルに、なるのですから。
ただ、
そのような対処の仕方をとられた場合には、
まるで、あたかも、
『情報』は、『ルール』は、あるいは『答え』は、
「自分の外側にある」
かのように、認識するようになります、
自然と。
なぜなら、
そのような『情報』は、
「だれか『他人』」から、聞くからです。
「だれかの『本』」から、知るからです。
あるいは、
「外側に存在している『他人』を観察すること」によって、分かるからです。
「外側に存在している『物質界』を観察すること」によって、知るからです。
なので、
まるで、
「外側に存在している『他人』『物質界』の中に」、
それらの『ルール』『法則』が存在しているかのように、見えるのです。
こうして、
私たちの意識は、
「外側へ、外側へ」
向いて行きます。
「外側の『情報』へ」
「外側の『知識』へ」
意識は、向かっていきます。
「外側に向かって、『知ろう』『知ろう』」
と、します。
スピリチュアルなことに興味を持たれて、
「世間一般の『常識』ではないところに、『真実』がある」
ということに気づかれても、
なかなか『思考』が止まらず、
どうしても「『意識』が外へ、外へ」行かれる方が多いのは、
いえ、
むしろ、そんなことに気づかれたからこそ、
より、加速して、
「意識を外に向けて、
外で『情報』を、『知識』を、より多く、手に入れて、
そして、自分を幸せにしたい。安心したい」
という状況になられているのは、
そんな理由があるのだと想います。
「権力とは、情報である」
と、言われるように、
これまでの社会は、地球は、
そのような、
「『秘密』の『ルール』」
「『魔法』の『法則』」
を、
より多く握ったものが、
より多く知ったものが、
より多く活用したものが、
より多くの物質を、お金を、占有し、
より多くの能力を、手に入れ、
より強い力を、手にしてきました。
つい最近までは、
ほんの一握りの、一部の人々にだけ、
独占されていた、秘伝とされてきた、
そんな『情報』が、
いま、
すこしずつ、
私たちの、手の届くところに、『しみ出て来ている』状況では、
「魔法の魅力に取り憑かれてしまった」
かのように、
これまで以上に、
「外に外に、さらなる情報を求める」
ことは、
それは、それで、
一つ、とても自然な、当然の有り様だと、
思います。
ところで、
対処の仕方としては、
もう一つ、あります。
それが、
「そのような『ルール』そのものを、越えていく。」
「そのような『法則』そのものを、消去していく。」
そんな、方法です。
先の、メッセージ集の、火の例にあったように、
「火とは、必ずしも、熱いものではないのだ」
と、『信じてしまった』人が、
「火渡りの行」を行っても、やけどをしないように、
いままで、存在していた、自分を閉じ込めていた『ルール』そのものを、
越えてしまう
影響を受けなくなってしまう
卒業してしまう
あるいは、
無くしてしまう
という対処の仕方が、あります。
先の、2番目の対処が、
いわば、
「『地球人間ゲーム』の中で、
より上手く、より良く、より強く、より有利に、
対応し、プレーしていく」
方法である、
と言えるのに対し、
この、3番目の対処は、
「『地球人間ゲーム』そのものから、卒業していく」
方法であり、
あるいは、
「『地球人間ゲーム』そのものを、終わらせていく」
方法である、
と言えます。
そして、
『浄化をする』
とは、
まさに、
そんな、対処をする際の、
具体的な手段
であり、
最適な手段・方法の一つ
です。
私たちは、
楽しみたくて、楽しみとして、
自らの意思で、
『ゲーム』をしてる存在です。
そんな私たちにとっての、
ゲームを、ゲームたらしめるための、
『ルール』『制約』『条件』
が、
先の『法則』であり、『情報』です。
ゲームを楽しむためには、
それらのルールに、従う必要があります。
私たちは、
自ら、それらのルールを受け入れました。
そして、
ゲームをうまく『楽しむ』ためには、
それらのルールを、上手に使っていくことが、
条件の一つです。
あるいは、
そのルールを、うまく活用し、適用し、
場合のよっては、『裏技』活用しながら、
ゲームで『勝って』いきます。
ですが、
それは、
『ゲーム』です。
いくら、上手くプレーするための『コツ』を知ったところで、
裏技とも呼ぶべき、貴重な『情報』を手にしたところで、
そこは、
ゲームの世界です。
二極の、極限の世界です。
上手くいくこともあれば、
必ず、
上手くいかないこともあります。
勝つこともあれば、
必ず、
勝てないこともあります。
そして、
マイナスこそが、
プラスの楽しさを生み出している世界です。
ネガティブこそが、
ポジティブの良さを生み出している世界です。
そんな、
『二極の世界』
『比較の世界』
『相対の世界』
に関しては、
「もう、充分に体験しました」
「その楽しさは分かるが、もう、充分に楽しみました」
「苦しさ、哀しさ、辛さは、もう、必要ありません」
そんな風に想い、感じる方々は、
もう、
ゲームを続ける必要はありません。
もちろん、
そんなゲームを、楽しいと、お感じの方は、
そんなゲームを、引き続き、楽しみたい方は、
これまで通り、
ゲームを楽しんでいただければ、と思います。
ただ、
私たちは、
自らの意思で、
ゲームを始め、ゲームを続けているように、
自らの意思で、
ゲームをやめることができます。
ゲームから卒業することができます。
そして、
ゲームそのものを、終わらせることができます。
「こんなゲームは、もう、十分です」
と、お感じの方は、
どうぞ、
このゲームから、離れていただければ、と思います。
人間となり、
人間を極め、
充分に、十二分に、
このゲームを楽しんできた、私たちは、
いま、
全体としては、
神に還り始めたところです。
それは、
とりもなおさず、
「このゲームを、やめにする」
「このゲームを、終わらせていく」
ということです。
いま、
全体としての、私たちは、
その、入り口に、さしかかったところです。
これから、
私たちは、
これまで以上に、
一人、また、一人
と、
このゲームを、やめていき、
さらに、
一人、また、一人
と、
このゲームから、卒業していき、
そして、
その結果として、
その積み重ねとして、
全体として、
このゲームそのものを、終わらせていく、
ところです。
ゲームをやめ、
卒業し、
終わらせていくための方法は、
これまでの『ルール』に、従わず、
それらを、超越し、
そして、
それらを、消し去っていくことです。
そのためには、
ルールへの、
恐れを無くし、
そして、それらに影響されない状況になることです。
人類の一定数から、
それらに対する恐れが無くなり、
人類の一定数が、
それらのルールに従うことをやめれば、
それらのルールは、
自動的に、不要なものとなります。
結果、
自動的に、消滅します。
そして、
そのための、そうするための、
具体的な方法こそが、
そんな方法の一つが、
『浄化』になります。
2014年9月20日土曜日
『ドラマ』『カルマ』継続の源と、その終焉
M2は、
手や身体の動きをともなった、
浄化方法・テクニックです。
胸のところにやって来た、集まった、集めた、
エネルギー(ブロック)を、
手を前に出す動きによって、
身体から引き出してあげて、
そして、
それを、また、
自分の胸におさめます。
この、一連の動作によって、
「何をしているのか」
について、
津留さんは、
僕が知っているだけで、
3種類の、説明をしていました。
ここで、
はじめに、申し上げますが、
では、そこで、
「一体、何をしているのか?」
については、
特に興味がなければ、
理解なさる必要は、ありません。
理解していなければ、
M2が使えないわけでは、ありません。
これは、津留さんも言っていましたが、
「テレビの仕組み・構造を理解できなければ、
テレビが観られないわけではありません」
よね。
パソコンの中身が、どうなっているのか
どんな部品を使っていて、それらが、どういう機能を果たしていて
そして、それらが、どう繋ぎ合わされて ...
それが分からなければ、
パソコンを使って、ネットを見たり、メールを送ったり、
そういったことができないわけでは、ありませんよね。
ただ、
分かって、そして、納得すれば、
より、信頼して、納得して、
M2を使った浄化をしていただけるので、
普段、ご説明しています。
「なんだか、よく分からんことを、するんだなぁ」
「そんなことで、『浄化』できるのか?」
と思われてしまって、
M2を、お使いいただけないのは、
津留さんも言っているとおり、
せっかくの、便利で強力なツールなのに、
あまりにも、もったいないので、
ご説明しています。
それから、
「『3種類の説明』って、じゃあ、どれが、本当なの?」
「どの説明が、正しいの?」
「本には、こう書いてあるけど、どっちが正しいの?」
と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、
それは、
このブログでも、何度かお伝えしていますが、
「『どちらか』、ではなく、『どちらも』」
です。
津留さんにとっては、
「もし、説明するならば、こう、説明できる」
という、
説明の仕方が、
ただ、何通りもあった、というだけのことで、
それは、
「こちらから、こう見れば、こう説明できるし、
あちらから、こう見れば、こう説明できる」
ということです。
実際、
それら、何通りかの説明は、
みな、実のところは、
同じことを、言っています。
なので、
「どれが、どの説明が ... 」
ということについては、
こだわらず、とらわれず、
お願いします ^^ 。
さて、
そんな、
「M2で、何をしているのか」
についての説明で、
最近、僕が、気に入っていて、
実際に、M2をするときには、
そんなイメージでしてる、
という説明があります。
それは、
「『小我』としての自分が、エネルギーを取り出し、
『大我』としての自分が、それを納める」
という、説明・理解です。
「内杉式M2」では、
『小我』が、
胸から引き出したエネルギーを、
宇宙の果てに向かって、投げ放ち、
有限な宇宙の、外側にいる『大我』が、
手を伸ばして、それらを受け止め、
そして、それを、自らの中心に納めます。
「津留式M2」では、
『小我』が、
胸からエネルギーを
腕が伸びきるところまで引き出します。
そこで、
動きを止め、息を止めます。
そのとき、
『小我』と『大我』が、入れ替わります。
そして、
『大我』としての自分が、
やはり、それを、
自分の中心に、納めます。
内杉式、津留式、どちらでも、
そこでしているのは、
『小我』が、エネルギーを取り出し、
『大我』が、それを納めます。
『小我』が、
「もう、このエネルギーを、手放します」
「もう、このエネルギーから、卒業します」
と、
自らの決意のもと、
自分の中から、そのエネルギーを取り出し、
『大我』が、
それを受け取り、引き受け、
自らの中心に、納め入れます。
この説明・理解を、
最近、僕が気に入っている理由は、
一つには、
内杉式でも、津留式でも、
まったく同じことをしている
と、
しっかりと理解できる点です。
もう一つには、
『小我』が、決断し、手放したものを、
『大我』が受け取り、納め、そして、終わらせる
と、解釈している点です。
つまり、
そのエネルギーに関する、『カルマ』の連鎖・循環が、終わる
ということを、
しっかりと理解できる点です。
うまくお伝えできるように、
反対側から、話を進めることにします。
普段、私たちは、
地球上で、人間として、
『ドラマ』を演じ、
その中に、どっぷりと、浸かりきっています。
『ドラマ』 ...
人間ドラマ、感情ドラマ、感情のぶつけ合い、感情の応酬、など、
言葉としては、表現としては、いろいろとありますが、
そんな、
「人間として、感情を、出し合い、ぶつけ合う、やり取り」
「人間として、想いを、渡し合い、受け取り合う、やり取り」
に、
普段の、私たちは、無意識のまま、浸かりきっていて、
それらのことに、
その強さに、激しさに、辛さに、重さに、苦しさに、そして、しつこさに、
圧倒されてしまって、とらわれてしまって、埋没してしまっています。
また、
場合によっては、人によっては、
ぶつけられた感情を、
あるいは、
渡された価値観や規範、観念、想念を、
出すこと無く、一方的に受け止め、受け入れ、
それらを、自らの中に溜め込み、
それゆえに、それらから受ける影響に、
苦しみ、押しつぶされ、もがいておいでです。
いずれにせよ、
私たちは、これまで、
そのような『ドラマ』によって生じた感情や想いや、
それらにまつわる、様々な苦しみや悲しみといった想いを、
手放さず、いえ、手放せず、溜め込んできました。
私たちは、
もう、充分に、十二分に、
「どうしたらいいのか」
を、
『頭』で、理解しています。
「スピリチュアル」と呼ばれる分野には、
「どうしたら、いいのか」
「どうなったら、いいのか」
に関する情報が、満ちあふれていますので、
『頭』では、
もう哀しくなるくらいに、理解しています。
そして、
「感情に流されるのは、感情で反応するのは、止めよう」
「感情を投げ返すのは、止めよう」
「『愛』で居よう。『愛』で行動しよう」
「エゴではなく、『真我』で居よう。『大我』として行動しよう」
「思考に走らず、『意識的』で居よう」
そう、決意しています、
『頭』では。
強く、強く。
もう、何度も、何度も ...
でも、どうしても、
そうは、できません。
「そう、したい」
という、強い強い、切ないほどの、想いとは裏腹に、
「どうしても、そうできない。そうでは居られない」
自分が、居ます。
何かがあると、
『自動的』に、『反応』してしまう、自分が居ます。
怒りをぶつけられると、
怒りをぶつけ返さずにはいられない、自分が居ます。
何か指摘を受けると、
言い返さずにはいられない、自分が居ます。
不機嫌そうな人の顔を見ると、
「なんでそんな ... 」と、イライラせずにはいられない、自分が居ます。
幸せそうな人たちを見ると、
「それに比べて、私は ... 」と、落ち込まずにはいられない、自分が居ます。
それらの反応は、
すべて、『自動的』です。
そして、『強力』です。
その反応が起きることを、止められないし、
その反応が起きたことに、なかなか気づけないし、
気づいた後も、なかなか止められません。
そうやって、
私たちは、みな、行動してきました、
まるで、『自動反応ロボット』のように ...
その結果、
私たちは、『ドラマ』を演じてきたのです、
まるで、
『ロボット』と『ロボット』が、
地球という『舞台』で、『演劇』をしているかのように ...
そのとき、
そのロボットを『動かしていたもの』、
ロボットの中の、
『プログラム』と『動力源』こそが、
『エネルギーブロック』なのです。
『エネルギーブロック』こそが、
自分を自動反応させ、
自分を操り、
そして、自分を行動させていたのです。
そして、
その結果、
わたしたちは、
この『ドラマ』を、演じ続けてきたのです。
演じ合い続けてきたのです。
すなわち、
『エネルギーブロック』こそが、
この『ドラマ』を、『上演』させてきたのです。
あるいは、
その結果、
私たちは、『カルマ』を連鎖させてきたのです。
連鎖させ続けてきたのです。
循環させ続けてきたのです。
そのとき、
ロボットを『自動反応』させ、
カルマの連鎖を続けさせてきた『エネルギー源』こそが、
『エネルギーブロック』なのです。
すなわち、
『エネルギーブロック』こそが、
この『カルマ』を、連鎖・循環させてきたのです。
いま、
あなたが、
一つのエネルギーブロックを浄化すると、
そのエネルギーブロックは、
消滅していきます。
そのとき、
あなたは、
そのブロックに関することに、
自動反応しなくなります。
そして、行動しなくなります。
自動反応しなくなったあなたは、
状況を、ただ、冷静に、見ていられます。
何も感じることが無いので、
湧き上がる感情が無いので、
ただ、そのまま、見ていることができます。
何もやり返さず、何も行動せず、
ただ、見ていることができます。
相手に、状況に、
そのまま、やりたいことを、やらせてあげることができます。
やり返されず、
かつ、やりたいままにできた相手は、状況は、
そのことへのこだわり、とらわれが消え、
そして、立ち去ることでしょう。
過ぎ去っていくことでしょう。
こうして、
「やり取り」が、「応酬」が、
終わります。
『ドラマ』が、終演します。
つまり、
「浄化をする」
ということは、
「ロボットとしての自動反応を終わらせる」
ということです。
それは、すなわち、
あなたは、
ロボットとして、演じることを、止める、
ということ、
そのことに関して、
ロボットとして、上演し続けてきたドラマを、終演させる、
ということです。
これまで、
繰り返し、繰り返し、
上演されてきたドラマを、
代々、延々と、
ロングラン公演してきたドラマを、
一つ、一つ、終演させる、
ということです。
言葉を変えれば、
そのことに関して、
延々と繰り返してきた、
カルマの連鎖を、断ち切り、終わらせる、
ということです。
これまで、
「与え、受け取る」
を繰り返し、
延々と繰り返し、循環してきた、
それらの往来を、収束させる、
ということです。
カルマの循環を、終息させる、
ということです。
「神が、
神ならざるものを体験したくて、
人間となるため、人間らしらを極めるために、
ドラマを演じて、感情を感じ、感じさせる」
という体験を、してきました。
その結果、
ついに、『人間』を極めた、
私たち人類は、
「もういい。もう充分に、体験した」
「もう、十二分に、演じ切った」
と、
感じているところです。
そして、
これまで上演してきた、ドラマの公演を、
一つ、一つ、
終演させているところです。
そうして、
神に還っていくところです。
「浄化をする」
ということは、
「その、ドラマの台本を閉じ、舞台の幕を閉じる」
ということです。
こうして、
地球上のドラマは、
一つ、一つ、
終演していき、
カルマの連鎖は、
一つ、一つ、
終焉していきます。
「浄化をする」
ということは、
「その、終焉させる行為、まさにそのもの」
なのです。
それを、
あなたが、
あなたの決断によって、
行うのです。
あなたが、
浄化することによって、
あなたが、
これまで、人類として、延々と繰り返してきたストーリーを、
終了させるのです。
これまで、
地球上で、連綿と受け継がれてきた、繰り返されてきた、
『カルマ』の連鎖を、循環を、
あなたが、
終焉させるのです。
ドラマから離れ、
ドラマの苦しさから離れるには、
カルマを終わらせ、
カルマの連鎖を断ち切るには、
ただ、
その元となっているエネルギーを、
手放せばいいのです。
解放すればいいのです。
そのために、
M2では、
小我としての自分が、
そのように決意し、そして手放し、
大我としての自分が、
それを受け止め、納め、
そして、
終息させています。
2014年9月18日木曜日
大阪地区の方々へ、お知らせです
お知らせです。
2014年6月28日に、大阪で開催した、
「津留さん交流会 in 大阪」にご参加してくださった方々が、
集まって、お話会をされるそうです。
ご連絡をいただきましたので、
ここに、下記のとおり、ご紹介させていただきます。
ご興味がおありの方は、ご連絡なさってみてください。
なお、誤解の無いように、明記させていただきますが、
私ども、集合人編集局の主催イベントではございませんので、
ご了承ください。
ちなみに、
集合人編集局主催の、次回大阪イベントは、
「できれば、年明け過ぎには、開催したいなぁ」
と、思っています。
あくまでも、思っているだけで、まだ、未定ですが、
また、大阪・関西地区のみなさまにお会いできるよう、
努めます ^^ 。
では、下記、ご一読くださいませ。
よろしくお願い申し上げます。
集合人編集局
ひで
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
大阪の方、それから、大阪近郊の方で、
津留さん、感情浄化に興味がある方
浄化による変化や、実践方法の共有
その他、浄化に関する疑問等
みんなで共有し、お話しませんか。
こちらの会は以前
集合人編集局さんが、大阪で津留さん交流会を開いて下さった時に
集まったメンバーと
今回来てくださる方で創っていく交流会です。
初めての方、是非ご参加下さい。
(以前交流会はとても和やかな雰囲気でした。
初めてだと緊張するかもしれませんが、雰囲気に触れればその緊張はすぐ解消されると思われます。)
お茶でも飲みながら
楽しく、実のある時間を共有できたら
と思っています。
日時:11月2日(日)pm1:30―pm5:00
場所:クレオ北大阪
料金:部屋代1200円÷人数
参加希望の方は下記までご連絡下さい。
場所の詳細を送らせていただきます。
その他、ご質問等も
どうぞ遠慮なくメール下さい。
air_880@hotmail.com
皆様と交流できることを
心より、楽しみにしています。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
2014年9月13日土曜日
人それぞれの『現実』
千葉は、昨日、今日と、
ようやく晴れましたが、
ここ数日、
ずっと、
雨が降ったり、止んだりで、
降ると、
ずいぶんと、激しい雨でした。
錦織圭くんの、快進撃を、
決勝進出が決まってから、知るくらい、
「『都会の、情報浦島』ひで」
なので、
詳しいことは、存じ上げないのですが、
妻から、
札幌をはじめ、北海道で、
記録的な降雨によって、
被害が生じたと、聞きました。
影響を受けられた、全ての方々に、
こころより、お見舞い申し上げます。
その前、一昨日は、
千葉でも、
かなり激しい雨が降りました。
娘を、
幼稚園に迎えに行くときには、
各所に、水たまりができていました。
途中、交通量の多い道の、歩道を歩いているとき、
前方の信号が、赤に変わったため、
交差点手前で、ゆっくりと歩いていると、
曲がってきた車が、
スピードを、あまり、落とさなかったため、
大きくふくらんで、
僕の近くを、通って行きました。
そこには、
けっこうな水たまりが、ありました。
車は、
水をはねて、
通り過ぎて行きました。
その水は、
幸い、
僕には、かからなかったのですが、
でも、
水が、僕の方向に、飛んできました。
その瞬間、
「ハッ」
として、
避ける必要があるかどうか、
判断していました。
水は、かかりそうになかったため、
「避ける必要は、ない」
と、判断しました。
と、
その判断と、ほぼ同時に、
僕の中に、
3人の『人間』が、同時に、
スクッ と、
立ち上がるのが、分かりました。
一人は、
「あ。水が、飛んできた」
と、言いました。
もう一人は、
「おい、気をつけろ! 水を飛ばすな!
第一、道路交通法違反だぞ。」
と、言いました。
別の一人は、
「おい、なんで『俺』に、水をかけようとするんだよ?
なんだよ、わざと、飛ばしたのか?」
と、言いました。
最初の一人は、
「水が、飛んできた」
という、
『あるがままの現実』を、
あるがままに、
ただ、とらえていました。
より、正確に言うと、
そのときには、
「『車が飛ばした』水が、飛んできた」
と、つぶやいたのですが、
いずれにせよ、
そこでの、あるがままの現象を、
ただ、あるがままに、とらえていました。
そこには、
感情も、特定の想いも、特になく、
ただ、水が飛んできたことを認識し、
ただ、見ている人が、いました
(「避ける必要はなかった」ので、ただ、見ていました)。
次の一人は、
「おい、気をつけろ! ... 」
といいながら、
車の行動を、とがめていました。
理由は、よく分からないのですが、
「車の運転手を」、というよりは、
なぜか、「車を」、とがめていました。
でも、そのことは、
明らかに、重要では、ありません。
その、とがめている『人物』は、
『社会的ルール』や、『同義的』な観点から、
相手の行動を、とがめていました。
批判していました。
そして、
左手には、『正義』あるいは『ルールブック』を持ち、
そして、
右手には、『怒り』を持っていました。
その姿が、
見えた、というより、『感じ』られました。
ただし、
その『怒り』は、
割と、「サラッ」としていました。
その点、
3番目の『人物』は、
「車の『運転手』」に対する、
結構、激しい、強めの『怒り』を、
右手に、握りしめていました。
そして、
その右手を、高々と、掲げ、
そして、上方で、振り回していました。
「なんで、そんなことをするんだ!
しかも、それを、わざわざ、『俺』に、したんじゃないのか?」
強い批判と、強い怒りとともに、
その人物は、
同時に、そんな、『過剰な自意識』と、『被害者意識』『被害妄想』を、
持っていました。
高々と振り上げ、力強く揺り動かす、
そんな右手とは対照的に、
彼の左手は、
胸に当てられ、
こころの『悲しみ』、こころの『寂しさ』を、
それらがあふれ出ている胸を、
押さえていました。
激しく、強い、『怒り』と、
まったく同じだけの量の、
辛く、切ない、『悲しみ』を、
そこに、抱いていました。
さて、
今回のケースでは、
僕の中に、
3人の、別人が現れたため、
そして、
幸い、
その「3人」に、気づくことができたため、
僕は、瞬間、
3人の、別々の人生を、
それぞれ、体験することができました。
3人は、
まったく同じ出来事を、
まったく同じ位置、同じ視点から、
体験しているにもかかわらず、
まるで、
『別の出来事』であるかのように、
それらを、体験していました。
そして、それらは、
『視覚的』にも、
すこし、異なって見えたような、気がします。
それが、「瞬間の出来事」だったこともあるし、
自分の意識が、充分には、精妙でなかったために、
それは、
「気がする」
というくらいの、曖昧なものなのですが、
でも、
そんな、感じがします。
一人目のときは、
飛んでくる「水」の動きが、
視覚の・映像の、中心に、どアップで、
存在していました。
そして、
その動きは、
ずいぶんと、ゆっくりだった感じがします。
二人目の場合は、
車がはねた水の動きと、車の動きの、
その両方を、目が追っていました。
なんとなく、
「動きをとらえる」ことが中心で、
全体の景色も、
割にしっかり、見えていました。
対して、
三人目の場合には、
怒りに、視野・視角が狭められて、
しかも、すこし、ぼやけた感じだったように思います。
とにかく、
自分の『感情』と、
それをもたらす、自分の『考え』『思考』が中心で、
視界が狭く、周りがぼけてしまっていました。
今回、僕が体験した例からも、
お分かりいただけるように、
人はみな、
物事を、
『外なる世界』の現象を、
ただ、
『あるがままの現実』だけでなく、
自らの内側に存在する
『エネルギーブロック』が作り出す
『観念的現実』
と呼ばれる、
ある種、
膜のような、フィルターのような、
そんな『現実』をも、
それに被せ、重ね合わせて、
見ています。感じています。
『エネルギーブロック』が無い人は、
あるいは、
『エネルギーブロック』があっても、それが刺激されていない人は、
その『現実』を、
あるがままに、見ます。
あるがままに、感じます。
ところが、
その現象と条件づけられた『エネルギーブロック』を持つ人は、
その、『エネルギーブロック』が刺激された結果、
特定の『想い』『感情』『感覚』が、
『あるがままの現実』の前に、
被さって、重なって、存在し、
それらを含めた、全体を、
「自分にとっての『事実』」
として、認識します、
ときには、『視覚的』な独自性をも、ともなって ...
そして、
その人にとっては、
まさに、それこそが、『事実』であり、
しかも、
それを、
「『唯一』の事実」
として、認識します。
だれも、
「『事実』が、いくつもある」
とは、認識していませんよね。
これこそが、
津留さんが言っていた、
「人それぞれ、見えている宇宙が違う」
「人それぞれ、住んでいる宇宙が違う」
ということの、一つの、説明です。
みな、それぞれ、
認識している『事実』そのものが、違うのです。
『あるがままの現実』としては、
まったく同じものを見ていても、
そこに重ねられる『観念的現実』が、
人それぞれ、異なるため、
人が、それぞれ、
『現実だ』『事実だ』
と認識しているものが、
『本当に』、
違うのです。
そして、
だから、
「他人を、説き伏せよう」
「他人に、分からせよう」
「正しいのはこちらなのだと、分からせよう」
といった試みは、
すべて、不毛なのです。
そもそも、
無理なのです、
そもそも、
「同じもの」を、見ていないのですから。
「違うもの」を、見ているのですから ...
そして、
人はみな、
「自分の『事実』『現実』」で、手一杯なのです。
自分にとっての『事実』、
特に、自分の『観念的現実』に、
捕まり、とらわれ、圧倒されていて、
それに、手一杯なのです。
自分の『現実』が、自分にもたらす、
「苦しさ」「怖さ」「恐ろしさ」「重さ」
「怒り」「悲しさ」「寂しさ」「空しさ」 ...
そういったものに、
とらわれ、包みおおわれ、圧倒されていて、
それらに対処することに、
それを感じている『自分』を、どうにかすることに、
手一杯なのです。
「他の人にとっての『事実』」など、
慮(おもんぱか)る余裕など、無いのです。
いえ、
さきほど触れたように、
そもそも、「他の『事実』」が存在するなど、
思ってもみていないのですが ...
ところが、
『浄化』を進めて行くと、
自分の『観念的現実』という膜が、
徐々に徐々に、だと思いますが、
薄く、明るく、軽く、柔らかく、なっていきます。
そして、同時に、
それらに、捕まり、とらえられ、圧倒されていたのが、
すこしずつ、自由が効き、軽くなっていきます。
すると、
それが、
『膜』であったことに、気づいてきます。
『膜』に過ぎなかったことが、分かってきます。
そして、
だんだんと楽になり、
そして、
余裕が生まれてきます。
その余裕が、
『他人』の『事情』に、意識を向ける『余裕』を、生みます。
すると、
『他人』が、
『自分』の場合とは違った、
その人特有の『現実』を見ていることに、気づけます。
そして、
『自分』が見ていた『膜』を見抜いた経験から、
いま、その『他人』が見ている『膜』が、
いったいどのような『膜』なのか、
すこしづつ、分かるようになってきます。
理解できるようになってきます。
その人が、
「どんな『現実』にとらわれているのか」
「どんな『現実』に、もがき、苦しんでいるのか」
察することができるようになってきます。
そして、
そこから抜け出すためには、どうしたらいいのか、
自分の経験から、分かるようになります。
自分の経験から、
アドバイスできるようになります。
たとえ、そこまでは、行かないにしても、
でも、
『他人』が、
自分とは違った、
その人オリジナルの『事実』を見ていること、
その人オリジナルの『現実』を生きていることが、
しっかりと、理解できてきます。
それが、「腑に落ち」てきます。
そうすると、
とにかく、
自分が楽になります。
「説得しよう」「説き伏せよう」「分からせよう」
とか、
「なんで、そうなんだろう?」「それは、おかしいよ!」
とか、
「それは、わたしのせいじゃないわよ!」
とか、
そんなことを、
思わなくなります。しようとしなくなります。
そんな必要がないことを、
こころから、理解できてきます。
その人を、
自分から、すこし、距離を置いて、見てあげられます。
その人を、
その人に、任せてあげることができます。
そうすると、
なにより、自分が楽になります。
そうすると、
ますます『余裕』が生まれ、
『自分』のことに、『他人』のことに、
余裕を持って、接することができるようになってきます。
それが、また ...
そんな循環を、生み出していきます。
一人でも多くの方が、
「そうなりたい」と思われる、一人でも多くの方が、
そのような循環に、入っていくことができるように、
その、お手伝いができるように、
まずは、
「自らの『余裕』作り」
に、
妻ともども、
励んでいるところです。
2014年9月9日火曜日
『横型』のみなさんへ
(『縦型』『横型』というのは、津留さんが使っていた用語です。
「『縦型』の人」とは、自分が思ったこと、感じたことを、
ストレートに、外に向かって、表現する人。
「『横型』の人」とは、それとは反対に、
それらを表現できず、飲み込んでしまうタイプの人のことです。)
『横型』のみなさん
日々、
おつかれさまです。
みなさんにとっては、
おそらく、
「生きる」
ということ、
ただ、
それ自体が、
たいへんな、
ご苦労であり、
たいへんな、
『大仕事』
だと、思います。
「どうして、『生きる』というのは、こんなにも、辛いんだ」
「なぜ、こんなにも、生きていくのは、たいへんなんだ」
「この世界は、どうして、こうも、『生きづらい』んだ」
そんな想いを胸に、
日々、
ただ、懸命に、
生きておいでのことと、思います。
「生を送ること」
「人間として生きること」
そのものの意味すら、よく分からず、
悩み、苦しまれながら、
でも、
とにかく、
日々、
生を繋いでおいでのことと、思います。
こころより、
お見舞い申し上げます。
『縦型』の人々は、
自分の感じた「不快さ」を、
ただ、そのままに、
『外なる世界』にぶつけることによって、
自らを、保っています。
津留さんが、
「自分の中に湧き起こった、ネガティブなエネルギーを、
そのまま、外に出すことによって、
自らのバランスを取っている、保っている」
と言ったとおり、
『縦型』の人たちは、
自らの中の、ネガティブなエネルギーを、
ただ、そのままに、
自分の中から取り出し、
そして、
そのままに、
『外なる世界』に、排出します。
自らの感じた「不快さ」を、
他人に、物に、
そのまま、ぶつけます。
たとえば、
ある人に、
『怒り』を感じれば、
それを、そのまま、『怒り』として、
その人に、ぶつけ返します。
あるいは、
関係のない他人に、物に、
それを、ぶつけます。
「八つ当たり」
「憂さ晴らし」
などと呼ばれる行為です。
このような、
『縦型』の人々が、ばらまく、
ネガティブなエネルギーを、
懸命に、
己を犠牲にして、
収拾をつけていらっしゃるのが、
『横型』のみなさんです。
みなさんが、
いつも、
耐え、忍び、堪(こら)え、抑え、我慢し、
懸命に、
収め、バランスを取っておいでだからこそ、
そこで「ぶつけ出されてきた」ネガティブなエネルギーが、
人々の間を、
外なる世界の中を、
グルグルと循環し、
ぶつけ合いの応酬となるのを、
抑えて、止めているのです。
みなさんが、
そのエネルギーを飲み込み、
腹に収め、
懸命に押さえ込んでいるからこそ、
その場が、
「修羅場」とならずに済んでいるのです。
『感情のカオス』とならずに済んでいるのです。
『戦場』とならずに済んでいるのです。
みなさんの我慢があって、
はじめて、
みなさんの周りに、安定が生じているのです。
みなさんの辛抱によって、
はじめて、
この世界が、均衡を保てているのです。
その『任務』に、
その『激務』に、
こころからの賞賛と、感謝を、
ここに、贈ります。
『縦型』の人々も、
彼らは、彼らなりに、
とても辛い想いを、しています。
津留さんが、『唯一の法則』と言っていたとおり、
「与えたものを、受け取る」
のです。
「ネガティブなエネルギー」
を、『外なる世界』に投げ出せば、
その人は、
それを、また、受け取ります。
しかも、彼らは、
「ネガティブなエネルギーを、そのまま出す」
以外に、方法を知らないのです。
だから、
いつまでも、
「ネガティブなエネルギーを出し、ネガティブなエネルギーを受け取り、
そして、それをまた、外にぶつけ出し ... 」
という循環から、抜け出せません。
怒っている人は、
いつまでも、怒ったままです。
『怒り』から、離れられません。
非難する人は、
いつまでも、非難したままです。
それはそれで、
とても辛い、とても苦しい、そして、とても悲しい
ことです。
それに、
津留さんが、よく言っていたように、
彼らが居て、はじめて、
『横型』の人々が、
『横型』としての体験を、できるのです。
『大我』の視点に立てば、
彼らは、ただ、
その役柄を、演じてくれているだけです。
それを、担当しているだけです。
それを、選択しているだけです。
ただ、
もちろん、
だからといって、
そのようなことを、『頭』で理解して、
「ならば、しょうがない」
「であれば、我慢せねば」
などと思う必要はありません。
では、
どうしたらよいのでしょうか?
みなさんは、
今と、何一つ、変わる必要はありません。
今のまま、
そのまま、
『横型』で居てください。
これからも、
みなさんの周りの世界の『安定』『均衡』『平和』の、
『要』となっていてください。
これからも、
みなさんが、
陰の、縁の下の、
『平和の礎』で、居続けてください。
みなさんによって、
みなさんの周りの世界を、成り立たせてください。
そして、
みなさんの周りの『縦型』の人々を、
『縦型』のままで、
居させてあげてください。
それらの人々に、
そうできる自由を、機会を、
みなさんが、
与えてあげてください。
ただ、
みなさんは、
もう、これ以上、
『苦しむ』必要は、ありません。
苦しみながら、
『横型』を、
その役割を、
果たす必要は、ありません。
苦しまなければ、
そうできないわけでは、ないのです。
そのために、
なすべきことは、
ただ、一つ。
いままで、
『飲み込んできた』
『押さえ込んできた』
『腹に収めてきた』、
「辛かった想い」
「苦しかった想い」
「悲しかった想い」
を、
その『記憶』を、
そのエネルギーを、
ただ、
流してあげてください。
手放してあげてください。
解放してあげてください。
そして、
許してあげてください、
そのエネルギーを。
その『記憶』を。
そうせざるを得なかった、過去の自分を。
そうしなければ、生き延びることさえできなかった、
過去のご自分のことを ...
そうすれば、
いままでと同じことを、
ただ、
行うことができます。
淡々と、
することができます。
痛み無しに、
苦しさ無しに、
悲しさ無しに、
怖さ無しに、
ただ、
行うことができます。
そして、
そのときには、
「被害者だ」と、
「弱い者だ」と、
「だめなやつだ」と、
「情けない者だ」と、
そう、
見なしてきた、認識してきた、信じてきた、
ご自分が、
実は、
強くて、
優しくて、
愛にあふれ、
犠牲さえ、いとわない、
『真の勇者』であったことに、
気づかれるでしょう。
そのときには、
ご自分が、
地上にもたらされた、
『平和の天使』であったことを、
思い出されていることでしょう。
ときに、『他人』の力・助けを借りる
これまで、何度か、
僕が、
常に常に、ハートに、ストレスを感じている
ということについて、
書いてきました。
それは、
8月の、
浄化実践講習会でのことでした。
その中で、
参加者のみなさんに、
「ハートの状態を感じる」
ということを、
していただきました。
「自分のハート(こころ、ハートチャクラ)が、
どんな状態なのか?」
「スッキリしているか、あるいは、何か違和感があるか?」
「落ちついているか、あるいは、ざわついているか?」
「温かいか、あるいは、冷たいか?」
そんな、いま現在の、ハートの状態・様子を、
しっかりと感じていただく練習を、
いつも通りに、
参加者のみなさんに、していただきました。
その、説明のときに、
「僕の場合は、たいてい、いつも、
『ドキドキ』と、波打つように、
落ち着かないような、違和感・ストレスを感じています」
と、お話ししたのですが、
そこで、続けて、
「でも、これは、いったい、何なんだろう?」
と、
無意識に、ポロリと、
湧いた疑問を、口から出していました。
普段は、
その感覚を感じてみても、
それが何なのか、よく分かりませんでしたし、
それに、
それが何なのか、「知りたい・知ろう」という想いは、
特に、出てきていませんでした。
ところが、
そのときには、
自分の意思・意識とは関係なく、
無意識に、ポロリと、
そんな想いが、こぼれ出てきました。
それに対して、
横にいた妻が、
「『より効率的』に物事をこなさなきゃいけない、という『想い』じゃない?」
と、
普段から、僕に対して感じている、
僕が持っている『価値観』を、伝えてくれました。
それを聞いたとき、
「たしかに、そうだ」
と、思いました。
その価値観は、
間違いなく、持っています。
ただ、
それが、
その、
「常に常に、ハートに上がってきていて、
常に常に、ストレスをもたらしている、
『ドキドキ』したような、波打つ感覚」
の、
「主たる『正体』」であるとは、
感じられませんでした。
それが、
「その一部を構成している」
ということは、
おそらく、間違いないけれど、
でも、
「その『根幹』を構成している」
ということは、
どうも、違うような感じがしました。
そこで、
みなさんが、
「ハートの状態を感じる」ことをされている間、
僕も、一緒に、
改めて、
自分の「ハートの状態」を、
しっかりと、感じてみることにしました。
感じてみると、
やはり、
いつものように、
『ドキドキ』したような、波打つ「不快感」が、
そこにはありました。
その「不快感」そのものに、意識を合わせ、
そして、それを、
改めて、
しっかりと感じていました。
最初は、
ただ、感じているだけだったのですが、
しばらくして、
「ハッ」
と、なりました。
その正体が、
その『根幹』部分が、
分かりました。
感じられました。
それは、
「このままでは、いけない」
「もっと、良くならなければいけない」
という、『感覚』でした。
より細かく、より正確に言うと、
ちょっと、違うんですが、
そしてそれを、
ちょっと、うまく表現できないんですが、
でも、
そんな感覚でした。
そんな『価値観』『観念』でした。
それに気がついたとき、
正直、
とても、驚きました。
というのは、
普段、僕は、
顕在意識レベルでは、
そんなこと、まったく、認識いていなかったからです。
むしろ、逆に、
「こんなに、ダラっとしていて、いいかな?」
と、自分で、思うことがあるくらい、
ここ最近の、普段の僕は、
のんびりと、向上心無く、
ただ、すべきことをし、生活している、
と、自分のことを、認識していたからです。
これには、
この1年間で、
これまで、ずっとずっと、苦しめられてきた、
「『お金』や『仕事』といったものに関する、
強く、大きく、重いブロック」
が、
大幅に取れて来た、という認識や、
その結果、
とても楽になった、という実感、
そして、その結果、
「そのままでいいや」
「無理せず、そのまま、いまのままで、いいや」
という認識・感覚が、
大きく、やって来た、
と、
自覚していたからです。
そして、
最近の、普段の自分は、
その感覚に従って、生活している、
という、自己認識があったからです。
加えて、
それにともなって、
現象面でも、いろいろと、大きな変化が訪れて、
より、そのままで、生きていられる環境になりましたので、
もう、しばらくの間、
「こう変えたい」
「こう変えなきゃ」
という『想い』が、湧いてきていませんでした。
だから、
そんな『観念』を、自分が持っているとは、
顕在意識では、
思っていませんでしたので、
すくなからず、驚きました。
ただ、
気がついてみれば、
そんな『価値観』『固定観念』『想いグセ』は、
持っていて、当然だと、思います。
あるいは、
『残って』いて、当然だと、思います。
これまでの人生では、
さんざん、
そんな『想い』を胸に、頭に、
自分を苦しめながら、
生きて来たからです。
「もっと、こうなりたい」
「もっと、こうしなきゃ」
そんな想いを、つねに、持ち続けてきましたし、
また、
せっかく、何かを達成できても、手に入れられても、
「これで、満足するな」
「もっと、良くなろう」
「もっと、いいものを」
という想いを、つねに、持ってきました。
あるいは、
親から、教師から、上司から、社会からも、
そのようなことを、
さんざん、
言われて来たからです。
そのことは、
はっきりと『自覚』もありますし、
はっきりと『記憶』もあります。
なので、
つい最近、
ある程度の『浄化』を行い、
ある程度のブロックが外れたからといって、
そして、
それにともなって、
『現象』そのものも、変化したからといって、
それだけで、
長年、
自ら、あるいは、外部から、
さんざん、
言い続け・言われ続けてきた『観念』は、
すべて、消え去りは、しないのですね。
ただ、
気持ちとしては、ハートの状態としては、
もう、格段に、楽になりましたし、
加えて、
現象のほうも、変わってしまっているので、
顕在意識のほうでは、
もう、まったく、自覚がなかったのです。
でも、
潜在意識の中には、
しっかりと、その『観念』は、残っていて、
そして、
その『プログラム』は、
つねにつねに、
立ち上がった状態で、
そして、走り続けていたのです。
さて、
今回、
そのことに、気づけたのは、
一つには、
前に書きました、
『M2体操』を実践することで、
日ごろ、常に感じるストレスの原因を、
ずいぶんと、浄化できていたから、
だと、思っています。
おおい被さっていた、隠していた、
軽いけれど、薄いけれど、小さいけれども、
数多くの、いくつもの、
常に常に、不快感を感じさせる『ブロック』を、
ある程度、お掃除できていたから、だと思います。
だからこそ、
今回、このタイミングで、ではありますが、
『本丸』に、たどり着けたのだと思います。
そんな、
『実感』というか、『感覚』が、
あります。
そして、
もう一つには、
これは、
言葉では、上手く説明できないのですが、
でも、間違いなく、
『みなさんと一緒に』、
ハートを感じていたから、だし、
そして、
妻から、
「こうなのでは?」との指摘を受けたから、
そのヒントのようなものを、もらえていたから、
です。
自分一人で、ではなく、
誰か、他の方と一緒に、
内側を見たり、浄化をしたりすると、
集中力が増すからなのか、
「やらなきゃ」という決意が強まるのか、
あるいは、一人一人のエネルギーが集まって、強まるのか、
その理由は、
いまの僕には、
はっきりとは、よく分からないのですが、
でも、
とにかく、
内側が、いつも以上に、よく見えたり、感じられたり、
浄化が、上手くできたり、しっかりできたり、
といったことが、よくあります。
また、
自分一人では、
どうしても気づけない、気づきにくいところを、
他の人の『視点』からは、見えていて、気づけていて、
他の方からの意見や指摘・アドバイスは、
自分では、どうしても分からない、気づけないことを、
分からせてくれる、気づかせてくれる、
といったことが、やはり、よくあります。
今回のケースの、妻の指摘は、
「ビンゴ」でこそ、ありませんでしたが、
ほぼ、的を得た、適切なものであったため、
ヒントになり、参考になり、
そして、それゆえに、
『真犯人』を見つけ出すことができたのだと、思います。
そういったことが、今回も、手助けとなって、
あの場で、あのタイミングで、気づけたのだと、
僕は、感じています。
さて。
そのような、
「このままでは、いけない」
「もっと、良くならなければいけない」
といった『観念』が、
僕が、
常々、感じている不快感の『主原因』だと、
めでたく^^、気づけたのですが、
ところが、
それの浄化は、
何度か、してみたものの、
「スッキリした!」
という実感が得られるほどには、
どうしてか、
うまく、できていませんでした。
まだ、
なにか、
いつもいつも、ぞわチクキュッ とした、不快感が、
ハートに、やって来ていました。
そんな中、
迎えた、
先週の土曜日。
個人セッションでのこと。
クライアントさまは、
「生命保険の見直しをしたところ、
急に、自分や家族の将来のことが、不安になって、
それが、どうにも重くて、上手く浄化できない」
と、おっしゃって、
いらしてくださいました。
そのお話をうかがっている間、
僕は、
「クライアントさまの、この問題と、
僕の、常々感じる不快感の『主原因』とは、
何か、関連がある。結びつきがある」
と、感じていました。
「関連ある、『同種のエネルギー』だ」
と感じた、と、ご説明すれば、いいでしょうか。
「根拠のない、あるいは、感じる必要のない、
漠然とした『不安感』」
という、同質の、エネルギーですものね。
しかも、
それだけではなく、
それは、何か、よく分からないけれど、
「何か『個人的な』」というか、
「何か『直接的な』」というか、
とにかく、何か、「『特別な』つながり」がある、
というような、感覚も、ありました。
そんな感覚を、想いを、持って、
話をお聞きしていました。
そこで、
妻が誘導しながら、
クライアントさまの浄化を、お手伝いしている間、
僕は、
一緒に、
自分の、その『エネルギーブロック』を、
浄化することにしました。
クライアントさまの浄化のほうは、妻に任せて ^^; 、
僕は、僕で、僕の浄化を、
ご一緒に、させていただくことにしました。
そこでの浄化は、
おかげさまで、
とってもうまく行きました。
『ブロック』が、
かなり、はずれていった感覚・実感が、ありました。
ありがたいことに、
体感的に、
とてもスッキリしました。
とても楽になりました。
そして、
お聞きしてみると、
クライアントさまも、
浄化がうまくできて、
楽になられたご様子でした。
このことは、
その、個人セッションの席でも、
お話ししたのですが、
この、一連のことを、
一歩引いた感じで、俯瞰(ふかん)して、
しかも、僕側から見てみてると、
それは、まるで、
『僕のために』、
クライアントさまが、保険の見直しをしてくださって、
そして、将来のことが不安になって、
そして、そのタイミングで、個人セッションに来てくださった
かのように、思えました。
そして、
そのおかげで、
僕が、僕のブロックを、
ようやく、うまく、浄化できた
かのように、思えました。
ただ、
同時に、
俯瞰して、かつ、クライアントさま側から見てみれば、
もう、不要になった、
『将来に対する、根拠のない、漠然とした、不安』
というブロックを、
ここで、うまく、しっかりと、手放すために、
このタイミングで、
保険の見直しをするという、外側の現象を起こし、整え、
かつ、
その結果、ブロックが刺激され、大きな強い『不安』に見舞われ、
そして、
一人では、手に負えそうにないと、個人セッションに申し込み、
そして、
似たようなブロックを抱えた『僕』を、そこに、準備し、
そして、
一緒に、浄化を行うことで、うまく、すっきり、浄化ができた
というふうにも、思えました。
これは、そのときの、妻の言葉ですが、
「ほんとうに、全体は、一つ」
そんなことを、
しっかりと、感じることができました。
そして、
やはり、
「一人で」ではなく、
「複数人で」一緒に、浄化をすることが、
なぜか、浄化をスムーズに、効果的にする、
ということも、
強く、感じました。
今回の、この記事は、
基本的には、
以上のような、僕の体験のご報告と、
そして、
そこから感じたこと、気づいたことの、シェアリング、
です。
ですが、
もう一つ、
加えて、お伝えしたいことがあります。
個人セッションを始めさせていただいた当初は、
個人セッションでは、
実際に浄化をしていただく、そのお手伝いをしながら、
同時に、浄化の方法と、そして、浄化のポイントをお伝えして、
その後は、みなさまに、一人一人で、
浄化を進めていただけるようになっていただく
というつもりで、考えていました。
そんな意識で、
毎回の、個人セッションに、望んでいました。
ところが、
回を重ねるうちに、
個人セッションは、
個人セッションの場だからこそ、
とても有効なことがあるのだ
という認識を、持つに至りました。
そのことに、
徐々に、気づいていきました。
個人セッションの場で、
「一人で」ではなく、
私どもが「ご一緒して」、浄化をすることによって、
より、効果的に、うまく、浄化ができる
ということが、経験的に、分かってきました。
また、
普段、浄化をさなっておられる方でも、
自分一人では、気がつきづらい『ブロック』がある
ということも、
実際に、拝見してきました。
同様に、
浄化の『方法』に関してや、
浄化の『ポイント』について、
また、浄化に対しての『考え方』『関わり方』などについても、
一人では、気づけなかったり、偏ってしまったりすることがある
ということも、見せていただいてきました。
それは、何も、
とても難しいこと、高度なことであったりするから
ではなく、
また、
私どもが、とても深く理解できているから、アドバイスできる
というわけなんかでもなく、
ただ単に、
一人だけだと、どうしても、傾向とか、癖とか、
そういったものがあって、気づけづらいだけ
のことなのです。
ほんとうに、些細な、
『視点』の違い
『見る向き・方向』の違い
だったりします。
そんな体験から、経験から、
「浄化は、基本的には、
お一人お一人で、進めていただくものではあるけれども、
それでも、『個人セッション』を受けていただくことは、
それ特有の、メリット、アドバンテージがあるのだ」
ということを、
しっかりと、認識するに至りました。
実際、
これまでに、何名かの方々が、
定期的に、個人セッションを受けてくださっているのですが、
それらの方々を、拝見していていると、
あるいは、
それらの方々がおっしゃることを、お聞きしていると、
やはり、
個人セッションの場で、
一人ではなく、私どもと一緒に、浄化をすること、
あるいは、
他者の視点から、
自分の『観念』『価値観』を見てもらったり、
原因となっている『ブロック』も見つけてもらったり、
気づけていないことを、指摘してもらう、
ということが、
とても効果がある、
とても大切だったりする、
ようです。
これらの方々は、
ほんとうに、こちらが、ビックリしてしまうくらい、
短期間に、大きく、変わられていらっしゃいます。
もちろん、
日々、ご自身で、浄化に励んでいらっしゃることが、
一番の要因、ほとんどの要因、なのですが、
そのことは、間違いのないことなのですが、
でも、
ご本人方が口を揃えておっしゃることによると、
やはり、
『個人セッション』そのものが、
とてもポイントになっているようです。
なので、最近は、
個人セッションでは、
浄化のやり方を、そのポイントを、お伝えする
ということへの、意識やこだわりを、少し押さえて、
かといって、
とにかく、その場での『浄化』に、遮二無二(しゃにむに)なる
わけでもなく、
その場で必要なことを、していただき、
その場で必要なことを、お伝えする
ということに、
より、自然に、対応させていただいています。
少なくとも、
僕の意識としては、
そう、しています、
できているかは、
また、別の話ですが ...
それから、
そのようなことがありますので、
私たちの、個人セッションに限らず、
個人セッションや、ヒーリングなどで、
ピンと来るもの
興味惹かれるもの
がありましたら、
ぜひ、気軽に、受けていただければ、
意外に、考えていた以上に、期待していた以上に、
効果があった
というケースは、
あると思います。
ただ、もちろん、
それが、
すべてで、そうなる
とか、
では、具体的に、どれで、そうなるか
ということは、
事前には、分からないとは、思います。
それはそれで、
「『人間ゲーム』のおもしろさ」
と、
とらえていただければと、思います。
話がそれましたが、
そんな感じで、
もし、個人セッションなどに、
ご興味がおありなら、
どうぞ、ご遠慮なく、お気軽に、
お受けいただければ、
と、
より、思うようになりました。
2014年9月8日月曜日
続・パソコンの例え(「『アファメーション』と『浄化』」続き)
前回、
「『エネルギーブロック』というのは、
旧い、不要な『コンピューター・プログラム』のようなもので、
それを『アンインストール』する行為が、『浄化』だ」
ということを、書きました
(過去記事「 『アファメーション』と『浄化』 」)。
そこでは、
すでに、話が長くなっていましたし、
それに、
これから書くことは、
僕自身が、『体験的』に理解できたことではなくて、
津留さんが言っていたことを、
『頭』で、理解したことなので、
項を改めて、
ここに、
書かせていただきます。
さて、
さきに扱ったのは、
『エネルギーブロック』
という、
パソコンでいうところの
『プログラム』
の話だったのですが、
津留さんによれば、
『記憶』
も、
これ、
パソコンでいえば、
『データ』
に当たると思いますが、
それも、
実は、
「『保存』しておく必要はない」
のだそうです。
確か、
どこかの、講演会CDの中で、
言っていたことだと記憶しているのですが
( すみません、津留さんに言われるまでもなく、
「『記憶』を『保存』しない(できない?)」人間なので、
定かでないです ... ^^; )、
「ところで、なぜ、日記をつけるのですか?
思い出せるように、情報を保存するために、つけるのですか?
必要な情報は、必要なときに、思い出せます」
って、言っていました。
そして、
そこで津留さんが言っていたかは、
さらに、定かではないのですが、
そのように、
「思い出せるように、記録をつける」
という行為は、
「自分は、記録しないと、思い出せない」
という思考を、
行動によって、
さらに、強めいている・裏打ちしている、ことになるので、
「必要な情報を、ただ、思い出す」
ということが、
ますます、できなくなることになります。
情報は、記憶は、
すべて、
「『大我』としての自分」
が、
記録・保存しているんだそうです。
それは、
『大我』の、
『真我』『集合意識』『宇宙』の、
担当・役割、なんですね。
そして、
「『小我』が必要な情報・記憶」は、
必要なときに、
ちゃんと、『小我』に送られて、
『小我』としての自分は、
それを、思い出せるんだそうです。
これまでの、
『パソコン』の例にたとえれば、
『データ』は、
すべて、
『ホストコンピューター』
に、
自動的に、保存されます。
あるいは、
『データ』は、
すべて、
『インターネット』経由で、
『クラウド』に、
自動的に、保存されます。
なので、
手元の、『端末(クライアント)』には、
保存する必要が、ないのだそうです。
「『クラウド』に、ちゃんと、保存されているだろうか?」
「そのデータは、安全だろうか?」
「セキュリティーは、しっかりしているだろうか?」
そんな『心配』が、
手元のパソコンに、
データを、保存させます。
あるいは、
「必要なときに、ちゃんと、インターネットに、繋がれるだろうか?」
「この回線は、絶対、切断しないと、保証できるか?」
「そもそも、この回線は、まだ、ダイヤルアップ並みのスピードなのでは?」
そんな『心配』が、
手元の『ハードディスク』に、
データを、保存させます。
そして、
『心配』だからこそ、
すべての『データ』を、そのまま、保存しておき、
『心配』だからこそ、
場合によっては、
バックアップまでとって、
手元の『ハードディスク』を、
データで、いっぱいいっぱいに、します。
その結果、
余裕のなくなった『ハードディスク』は、
やはり、
動きが重くなり、
『パソコン』は、
必要な作業が、遅くなります。
場合によっては、
やはり、『フリーズ』してしまって、
必要な作業が、できなくなってしまいます。
すべきことは、
『ホストコンピューター』、あるいは『クラウド』を、
そして、『インターネット』を、
『信頼する』こと
そして、
手元の『ハードディスク』を、軽くすること
です。
この場合の、
「すべての情報を記録している『ホストコンピューター』『クラウド』」
というのは、
たとえば、
波動的には、
「発した波動は、すべて、宇宙に存在している」
とか、
あるいは、
スピリチュアル的には、
「アカシックに、すべての情報が、記録されている」
とか、
そのように、いわれていることに、
該当するのだと思いますが、
とにかく、
そのように、
『全ての情報』は、『記憶』は、
ちゃんと、すべて、
『大我』に、『宇宙』に、
存在しています。
保存されています。
ところが、
『心配』で、『信頼できない』から、
そのような『全ての情報』にアクセスできないのであり、
また、
それゆえに、手元に情報を保持する結果、
さらには、
その元となる、『心配』という『恐れ』を抱いていること、そのものの結果、
『パソコン(端末)』は、
きちんと機能できない状態になり、
あるいは、
まったくの、機能不全に落ち入ってしまうのです。
この場合でも、
不要なものを『保持』しないこと
あるいは、
『保持』してしまっていたなら、
それを、削除すること
が、ポイントです。
そして、
できるだけ、軽い状態であること
できるだけ、ゆったりした、余裕のある状態であること
できるだけ、静かな状態であること
が、
大切になります。
そのような状態であれば、
そのような状態を保持できれば、
『パソコン』は、
本来の、驚くべき性能を見せ、
驚くべきスピードで、処理を行い、
あるいは、
驚くべき解決策を見いだしたり、
あるいは、
あらゆるデータを、必要なときに、瞬時に、
取り出して来たりします。
ところで、
「必要な情報を、手に入れるためには、
手元に、情報を保持しないこと」
これもまた、
パラドックスですねぇ〜 ^^ 。
さて、
このように見てみると、
津留さんが、
『物理学』に興味を持って、
大学で『物理』を専攻にしたおかげで、
伝えてくれたメッセージが、
とても、科学的で、かつ、論理的であったように、
大学卒業後に、
『コンピューター』会社に就職し、
『プログラム』を扱い、
そして、独立後も、
『プログラム』会社を経営していたことも、
なにか、
当たり前の、当然の、
「必然であった」
と、
言えそうに、思われます。
そして、
そんなことを『知る』こと、
そんなことを『認識』することが、
さきの『心配』を手放し、
『自分』を、『全体』を、
『信頼する』ということに、
とてもつながっていくのだと、思います。
『アファメーション』と『浄化』
過去記事「自分に気づく訓練・儀式・アファメーション」
で引用しているとおり、
津留さんは、
『アファメーション』の有用性を認め、
そして、推奨していました。
例えば、
そこでは、
「どうしても、他人を、自分を、とがめてしまう」
という場合には、
「わたしは、もう、とがめません」
と、1日に、何度も、
自分で自分に、唱えることによって、
「とがめることを止められる」
と、言っていました。
僕も、
このアファメーションを、
しばらくの間、唱えていました。
「他人をとがめる」
と、
どうしても、
「外側に、原因がある」
という発想・認識から離れられず、
どうしても、
「自分の内側を観察する」
「自分の内側に、原因を見つける」
という流れ・展開に、入っていけません。
また、
「自分をとがめる」
と、
どうしても、
何かあったときに感じる『ストレス』『痛み』が、
強くなってしまいます。
津留さんは、
「自分をとがめると、
痛みが2倍になる」
と、言っていました。
何かがあって、
自分が痛みを感じていて、
さらに、
「それは、自分が悪いからだ」
と、自分をとがめると、
さらに、その分、
否定のエネルギーを、上乗せしてしまうからです。
だから、
自分が感じる痛みが、
その分、上乗せされてしまうのです。
そんな痛みは、
そもそも、
感じる必要が無いですし、
痛みが強いと、
どうしても、
そのことから、意識を離すことができません。
そこに、とらわれ続けてしまいます。
そんなわけで、
『浄化』に、本格的に取り組み始めた当初は、
そのアファメーションを、
繰り返し、唱えていました。
一応、そんな経験があるので、
アファメーションというものが、
どのように働くのか
ということについて、
ほんのすこしだけですが、
体験的に、理解できている部分があります。
そして、
その理解からすると、
アファメーションというのは、
まさに、
『プログラム』
だと、思います。
『プログラム』
これは、
いわゆる、
「コンピューターの『ソフトウエア』」
と呼ばれるもののことを、
イメージしていただければいいと思います。
コンピューターにおいて、
作業しているときに、
動いているもの、
働いているもの
あるいは、
その作業を、
行っているもの、
遂行しているもの
そんな感じにとらえていただければ、
と、思います。
ところで、
津留さんは、
エネルギーブロックのことを、
特に、そのうち、
『価値観』『固定観念』『想い癖』
といったもののことを、だと思いますが、
まさに、それは、
「『プログラム』だ」
と、
言っていました。
そして、
それが、
「自動的に立ち上がって、
自動的に走り出す」
んですね。
「自動作動『プログラム』」
なんですね。
例えば、
先の例、
「とがめる」
でいうと、
何か、
自分が『問題だ』と認識する出来事に出会ったとき、
それは、
「誰々が、あんなことをしたから、こうなったんだ!」
と、
まず、他人を責め、とがめ、
そして、その後、
その、他人をとがめてしまったことに気づき、
そして、
「あぁ、自分は、また、人を批判してしまった ...
そんな『想い』こそが、こんな現実を創っているんだ ... 」
と言って、
自分を責め、とがめてしまいます。
そんなこと、ありますよね?
そんなとき、
自分が、
「そのように『考える』『思う』『感じる』ようにする」
『プログラム』が、
自分の中で、
自動的に、
動き出しているんですね。
そのとき、
自分に、
「そのように『考えさせる』『思わせる』『感じさせる』」
『プログラム』が、
自動的に、
立ち上がって、
自動的に、
走り出しているんですね。
このように、
『エネルギーブロック』は、
自分の「考え」、「想い」、「頭での理解」、「意志」、
といったものとは関係なく、
『自動的に』『反射的に』、
スッ と立ち上がって、
サッ と動き出す・走り出すんですね。
だから、
普段、
「気がついたときには、もう、」
そのように思ったり、考えたり、感じたり、
ということを、
「すでに」
してしまっているんですね。
さて、
さきほど、
「アファメーションも、『プログラム』だ」
って、言いました。
先の例でいうと、
「もう、とがめない」
っていう、アファメーションは、
「他人を、自分を、『とがめる』」
プログラムが、
自動的に立ち上がり、走り出したときに、
それに、いち早く気づき、
そして、
そのプログラムを、止める
という、作業をする『プログラム』
です。
そして、
「アファメーションが、
しっかりと、自分のものになるまで、身に付くまで、
何度も、何度も、唱える」
というのは、
自分の中に、
そのアファメーションを、
『インストールする』
ということに、当たります。
何度も、何度も、唱えて、
自分の中に、インストールして、
そして、
自分の中の、あるプログラムが、立ち上がり、走り出したときに、
それに気づき、それを止める
ということを、
意図的に、
しているんですね。
なので、
アファメーションが、しっかりと、身に付けば、
つまり、
ちゃんと、インストールできれば、
「とがめる」
という行為は、
「止める」「ストップさせる」
ことができます。
つまり、
「とがめなくなる」
ことができます。
ところが、
これ、
たしかに、
「とがめなくなって『は』いる」
んですが、
厳密に見てみると、
はじめ、一瞬、
やはり
「とがめている」
んですね。
別の言い方でいうと、
「『とがめる』プログラム」
が、立ち上がって、走り出した、その瞬間に、
「『とがめない』プログラム(アファメーション)」
が、立ち上がって、
先の、「『とがめる』プログラム」を、止めてるんですね。
なので、
「とがめる」プログラム
は、存在したままで、
かつ、
それは、まだ、動いているんですね。
まだ存在し、かつ、動き出すプログラムを、
別のプログラムで、止めている
という、状態です。
いわば、
「応急処置」
「対処療法」
と言えます。
それに対して、
『浄化』
がすることは、
「根本治療」
です。
プログラムの例でいえば、
それは、
『アンインストール(デインストール)』
に、当たります。
浄化でするのは、
「プログラムそのものを、削除すること」
です。
なので、
浄化をすれば、
「『とがめる』プログラム」が動き出す
ということ、
そのものが、なくなります。
『アファメーション』による方法では、
プログラムが動いていますので、
ちゃんと、機能させるためには、
『意識』を、そこに向けてあげる必要があります。
この、
「意図的にインストールしたプログラム」
(この場合は、「『とがめない』プログラム」)は、
しっかりと身に付けば、
「『ほぼ』自動的」
に、立ち上がって、動き出しますが、
ただ、
自分の経験的には、
『完全に』、自動で動く状態にすることはできませんでしたので、
やはり、
自分の『意識』を向けて、
自分で、プログラムを動かす必要があると思います。
「『とがめない』プログラム」をインストールした後は、
「『とがめる』プログラム」が動き出したとき、
比較的すぐに、それに気づけますが、
でも、
毎回、確実に、気づけるわけではないし、
気づいた場合にも、
自分の意識を向けてあげて、
ちゃんと、
「『とがめない』プログラム」を作動させてあげる
必要があるように感じます、
僕の体験では。
対して、
『浄化』の場合には、
プログラムが、動いていませんので、
それに、意識を向けたりする必要が、ありません
(というか、プログラムそのものが、存在していないわけですが)。
では、
なぜ、
津留さんは、アファメーションを、推奨していたのでしょう?
これは、
僕の、個人的な見解であることを、
先にお断りしておきますが、
『浄化』によって、
「『とがめる』ことを、止める」
には、
結構、
いろいろな、多数の『ブロック』を、
浄化しないといけないと思いますし
(なので、僕も、まだまだ、「とがめ癖」が、
治まらないんですが ... ^^; )、
それに、
浄化をはじめたばかりでのケースだと、
そもそも、浄化そのものが、
まだ、上手くいかなかったりして、
どちらにせよ、
結構、時間がかかってしまうと思うんですね。
なので、
「とりあえず」、
「応急処置、対処療法であっても」、
まず、
「とがめる」ということを、収めるために、
アファメーションを活用することは、
とても有効だからだ、
だと、思います。
最初に言いましたとおり、
「とがめている」と、
何より、
『痛み』が激しいですし、
グルグル、グルグルとした、
「思考の、堂々巡り」
「思考の、無限循環」
が、なかなか、止まらないので、
「そこから、離れよう」
とか、
ましてや、
「浄化をしよう」
とか、
そういうところに、
なかなか、意識が向かわないと思います。
そういう意味で、
「まず、とにかく、『とがめ』を押さえる」
ということが、
とても有効で、とても大切なんだ、
と思います。
また、
これも、先に言いましたが、
こういう、
『エネルギーブロック』は、
まさに、
『プログラム』
で、
何か、条件づけられた事柄を、
見たり、聞いたり、あるいは、思い出すと、
そのプログラムは、
反射的に、自動的に、
立ち上がり、
そして、
走り出します。
動き出します。
そして、
そんなプログラムが、
いっぱい、
走っているんですね、
いつも、いつも ...
なので、
パソコンでいえば、
パソコンそのものが、
とっても重くなっていて、
いざ、
必要な作業をしようとしても、
重くて、重くて、
動作が、処理が、
とっても遅いんですね。
あるいは、
もう、パソコン自体が、
『フリーズ』してしまって、
作業そのものが、できないかもしれません。
なので、
それが『応急処置』であったとしても、
とにかく、まず、プログラムを止めることは、
やはり、大切ですよね。
ただ、
やはり、
そこで、
本当に、
必要なこと、というのは、
止められるプログラムを、
一つずつ、
停止し、
そして、
その、不要なプログラムを、
一つ一つ、
削除(アンインストール)していくことだと思います。
「新しい、
無用なプログラムが動いていないパソコンが、
どれだけ早く動くか」
パソコンの買い換えを、
なさったことのある方は、
よく、ご存知だと思います。
よく、実感されていることと思います。
「そんなパソコンが、
いま、ここで、
本当になすべき、大切な作業を、
どれだけ早く、正確に、
行えるか」
そんなことが、
容易に、
想像できることと思います。
『パソコン』そのものは、
はじめから、
もう、驚くべき、驚嘆すべき性能を、持っているのです。
問題は、
「パソコンという『ハードウェア』」
では、ないのです。
問題は、
ただ、
旧い、もう「不要」となった『プログラム』が、
いっぱい、いっぱい、
削除されないまま、残されていて、
それらが、
いまだに、自動作動してしまっているために、
パソコンが、重くなってしまっていて、
メモリが、そんなプログラムに占領されてしまっていて、
必要な、
いま、ここで、処理すべき『演算』を、
遂行できなくなってしまっている、
というだけのことなのです。
すべきことは、
ただ一つ。
不要な『プログラム』を見つけ出し、
そして、
それを『アンインストール(削除)』する
ただ、それだけなのです。
2014年9月4日木曜日
『第1回 札幌イベント』のお知らせ
2014年10月17日(金)、18日(土)、19日(日)、
札幌市で、
『津留さん交流会』・『浄化実践講習会』・『個人セッション』を行います。
2014年6月の、大阪でのイベント、
そして、9月に行う、鹿児島でのイベントに続き、
10月に、札幌でイベントを行います。
今回も、ひで 一人で伺います
(井瀧裕子は、参加いたしません)。
札幌のみなさん、北海道のみなさんに、
お会いできることを楽しみにしています。
詳細は、
サイト『 津留晃一の世界 』の『 イベント 』 のページをご覧ください。
よろしくお願いいたします。
集合人編集局 ひで
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