2014年6月25日水曜日

創造のパラドックス


津留さんが伝えていたことを、
津留さんが遺してくれたことを、
大別すれば、

それは、
 『創造』と『浄化』
に分けられると思います。

 「想っているとおりを、体験する」
 「外なる世界は、内なる世界の『3次元立体映像』『鏡』『ホログラム』」
 「与えたものを、受け取る」

いろいろな言葉、いろいろな表現で伝えてくれましたが、
そこで言っていることは、
 『創造』
であり、
 「私たちは、みな、自分の現実の『創造主』である」
ということですね。

一方、
 「私たちの外側で起きる出来事と、肉体内の反応とは、無関係」
 「ストレスの原因は、100%、自分の内側にある」
 「『エネルギーブロック』を手放せば、ストレスは感じなくなる」

これが、津留さんの
 『浄化』
であり、
そして、浄化によって、
 「外側の世界に影響を受けなくなる」
ようになることができます。

このように、
私たちは、
 「外の世界を創り出すことができる」存在
であり、
と同時に、
 「外の世界から影響を受けなくなる」存在
でもあります。

この、一見、対極的なメッセージを、
津留さんは、伝え、遺してくれました。


さて、
 「私たちは、現実の『創造主』だ」
そう言われて、こころ躍(おど)った方も、多いことでしょう。
僕も、その一人ですから、よく分かります。

そして、
 「そうか、それなら、好きな現実を創ろう!」
そう、思われたことでしょう。
そして、懸命に、自分の
 「意識の向き」に
 「意識の対象」に
気をつけ、
そして、自らの『望む』現実を創り現すことに、懸命になられたことでしょう。

ところが、『現実の創造』は、
なかなか、うまく行かなかったのではないでしょうか?

もちろん、うまく行ったこともお有りかと思います。
しかし、
 「おかしい。こんなはずではない」
 「ちゃんと、『望む現実』に意識を合わせているのに、どうして?」
そんな悩みを、疑問を、持たれたのではないでしょうか?


私たちが、『何か』を『創造したい』と思っているとき、
私たちは、その『何か』を、『より好ましい』と思っています。

たとえば、より『金銭的に豊か』な現実を『創造したい』と思っているときには、
『金銭的に豊か』であることを、『より好ましい』と思っています。

そして、
『金銭的に豊か』であることを『好ましく』思っているときには、
かならず、『金銭的に貧しい』ことを『好ましくなく』思っています。
『嫌だ』と思っています。
『恐れ』ています。

『望み』があるときには、
かならず、
その底に、根底に、『恐れ』があります。

そして、多くの場合、
その『恐れ』こそが、その『望み』を作り出しています。


さて、
この『望み』と『恐れ』ですが、
津留さんの説明を、そのまま用いれば、

『望み』の方は、
「叶うこともあれば、叶わないこともあった」という、過去の経験から、
「その『望み』が叶うこと」を、50%信じています。
なので、意識は、50%注がれます。

ところが、
『恐れ』のほうは、
もう、無条件に『恐れ』ているので、
「必ずそうなる」と、100%信じています。
なので、意識は、100%注がれます。

つまり、
『望み』があるときには、必ず『恐れ』があり、
しかも、『望み』よりも『恐れ』の方が、
創造される可能性が、常に、高いのです。

ここが、
単に『創造』に意識を向けても、なかなかうまく行かない理由です。

『望み』を持っているとき、
私たちは、常に、『恐れ』の現象を創り続けているのです。


では、どうすればいいのでしょうか?

そのときには、
自分が、その『恐れ』を握っていることを、しっかりと認識して、
それを『浄化』してください。

『恐れ』を取り除いてください。
『恐れ』を手放してください。
『恐れ』を解放してください。
『恐れ』から卒業してください。

そうすれば、
その『恐れ』を創造することはありません。

つまり、『創造』ではなく、
『浄化』していただきたいのです。

『創造』するためには、
いきなり『創造』するのではなく、
まず、『浄化』をしていただきたいのです。

一見、対極的な、『創造』と『浄化』は、
実は、このように、とても緊密な関係にあります。


さて、
『創造』のために、『浄化』を行いました。

その結果、
『恐れ』を取り除くことができました。
『恐れ』を手放すことができました。
もう、そのことは怖くありません。

さて、そのとき、
『望み』は、どうなっているでしょうか?

言葉を変えます。
そのとき、
『望み』は、残っているでしょうか?

『恐れ』をきっちりと『浄化』できたときには、
おそらく、『ニュートラル』になれていると思います。
もう、『どっちでもいい』状態になっていると思います。

たとえば、
『金銭的に貧しい』ことを『恐れる』想いを『浄化』できたとき。
おそらく、
もう『貧しくても』『貧しくなくても』『どっちでもいい』状態になっていることでしょう。

そのとき、
『金銭的に豊かになりたい』という『望み』は、あるでしょうか?

もちろん、
『どっちでもいい』のですから、
『豊か』でもいいのですが、
しかし、いわゆる『望み』として、『豊かになりたい』という想いは、あるでしょうか?

もう、『望み』は、消え去っていることでしょう。
もう、『創造』には、意識が向かなくなっていることでしょう。


『創造』するためには、
『浄化』が必要で、

『浄化』をすると、
『創造』が必要なくなる ...

これこそ、
『創造のパラドックス』です。


私たちが、
 『浄化』『浄化』
と言っているのは、
一つには、このような理由があるのです。

たしかに、
私たちは、みな、津留さんが言ったとおり、『創造主』です。

たしかに、
 「想ったとおりを、創造している」
のです、
ただし、
『恐れ』という『想ったこと』をも含めて。

ですから、
『創造』のことは、とりあえず、置いておいて、
『浄化』に意識を向けていただけたらと思います。

『外側』の世界にではなく、
『内側』に、意識を向け続けていただきたいと思います。


そうしていると、
自然と、
かつて『望んだ』以上のことが、『起きてくる』ことと思います。

内なる『大我』が、『集合意識』が、
想像もしていなかったようなことを、『創造』してくれることと思います。

結果として。
望んだわけでもなく。






『初めての浄化』新設のお知らせ


 「これから浄化をはじめよう」という方
および、
 「何度か浄化をしたけど、これでいいのか、ちょっと自信が無い」
 「何度かやってみたけど、動きやポイントを、しっかり知りたい」という方

そのような方々向けに、
新たに、「『初めての浄化』浄化実践講習会(入門編)」を、設けました。

浄化についての考え方や概念のご説明は、最小限にして、
また、浄化の具体的な方法についても、数を絞って、お伝えし、
浄化を実際に行っていただくこと、および、そのご指導・誘導に、
より、力点を置いた内容にします。

 「とにかく、一回、しっかりと浄化を体験したい」
と思われる方は、ぜひ、こちらを受けてください。


なお、
これまでの浄化実践講習会は、内容をそのままに、名称を
『浄化実践講習会(初中級編)』とさせていただきます。

これまでに、もう、浄化をされてこられている方、
および、まだあまりやっていないけど、浄化そのものの実感はある、という方は、
こちらをお受けください。

浄化の具体的方法だけでなく、
浄化の前提となる考え方・理論、浄化を行う際のポイント、浄化対象について、
今後さらに浄化を進めて行くにあたってのポイントなどを、お伝えいたします。


以上、今後とも、浄化実践講習会をよろしくお願いいたします。


 集合人編集局 裕子・ひで




2014年6月24日火曜日

興ざめなこと(明日のコロンビア戦を前にして)

 「これほど、つまらないことはない」
 「これほど、興ざめなことはない」
と思うことって、何ですか?
こう質問されたら、何を思い出しますか?

僕にとっては、
 「結果の分かっている、スポーツ」
 「楽しみにしているゲームの、結果を教えられてしまうこと」
です。

いま、ちょうど、サッカー・ワールドカップが開催されています。
日本代表を応援されてらっしゃる方も、多いと思います。
先日の試合、ギリシャ戦を、いろいろな想いを持ちながら、観戦されたことでしょう。

さて、ここで。

もし、結果が、「0-0の引き分け」であるということが、事前に分かっていたら、
 試合前に、ワクワク出来ましたか?
 選手がシュートを打つ時に、興奮できましたか?
 ドキドキしながら、観戦できましたか?

あるいは。

明日のコロンビア戦。
今から結果が分かっていたら、決勝トーナメントに進出できるかどうか分かっていたら、
 ワクワク、ドキドキしますか?
 試合を見るのが、楽しみですか?
 朝早く起きて、生中継を見ますか?


とても古い話で恐縮ですが ^^; 、
中嶋悟さんが、F1ドライバーをされていたころ、
鈴鹿で行われた日本でのレースを、僕はとっても楽しみにしていました。

もう、記憶も定かではないのですが、
 「日本人初の表彰台なるか?」(つまり、3位以内)
ということに、とても期待が集まっていたのだったと思います。

その日は、用事で出かけていました。
当時は、テレビでの放送が、夜で、
また、携帯電話でリアルタイムに情報を得る、ということもしていなかったので、
昼間に行われたレースの結果を知らずに、夜の放送を楽しみにして、夕方、帰宅しました。

帰りの電車の中でも、極力、人々の話し声に耳を傾けないようにして、
とにかく、結果を知ることがないように気をつけながら、家に着きました。

ところが、
 「ただいま」
と、僕が言うが早いか、母が言いました。
 「中嶋、4位だったのよ!!」

夕方のニュースで結果を知った母が、
親切にも ^^ 、教えたくれたのでした。

その夜、
それまでの人生で、もっともドキドキする、もっとも楽しいF1観戦をするはずが、
それまでの人生で、もっとも興ざめな、もっとも気持ちの乗らない、レース観戦をしました。
^^;


 「結果が分かっている」
 「未来を知っている」
ということが、いかにつまらないこと(になりうる)か、
ということは、
こんな例を出すまでもなく、すでにお分かりのことと思います、
『頭』では ...

 「いや、いや、それは、『ゲーム』の話、『遊び』の話だからだよ」
 「自分の人生は『遊び』じゃないから、未来を知ることができるなら、そのほうがいい」
それでも、そう、おっしゃるかもしれません。

そうですか?
「人生は、『遊び』だ」という可能性はないですか?
「人生は、『3次元地球人間ゲーム』だ」という可能性はないですか?
人生は、失敗の許されない『本番』ですか?
精進すべき『修行』でしょうか?

それでも、やはり、
 「『人生』と『ゲーム』は違うんだ」
 「同じだとは思えない」
と思われたとしたら、それはそれで、そのとおりですよね。
何を隠そう、僕も、100%の確信を持って、体感を持って、
 「この人生は、『体験ゲーム』だ」
と感じられているわけでも、思えているわけでもありません。

ただ、『ゲーム』ではなく、『人生』のこと、『人生の出来事』のことであったとしても、
このような話もあります。

ドランヴァロ・メルキゼデクさんの著書、
『フラワー・オブ・ライフ』には、
彼が、未来の出来事を『見る』能力を、一時的に手に入れたときの様子が、記述されています。

「予知能力が欲しい」という願いが叶えられたドランヴァロは、
はじめのうちこそ、これから起きることを『知っている』ことに興奮したものの、
徐々に、その興奮から醒(さ)めていき、
次第に、そのことを退屈にさえ感じるようになります。
そしてついには、ガイドに懇願(こんがん)して、その能力を取り上げてもらったそうです。


津留さん的説明によれば、
私たちは、もともと『神』であり、
『神』が『神ならざる者』を『体験』したくて、
『人間』になっているわけです。

ただ、「『神』が『神ならざる者』に成る」ことは、物理的には不可能なので、
そこで、『忘却』という手段をとりました。

 「自分が、『全知全能』であることを『忘れた』」

そして、私たちは、希望どおり、『全知』ではなくなりました、
何万年とかけて、何世代とかけて、
『人間』を極めていく過程を邁進(まいしん)することによって。

このように、
私たちは、私たちが望んだとおりに、
『分からない』『知らない』状態になり、

そして、
その状態になってはじめて体験できる
 「あぁ、『分からない』! 困った、苦しい ... 」
という『感情』『感覚』を、これまでに、たっぷりと味わってきました。

ただ、
これが『望みどおり』であること自体も、同様に、忘れてしまいましたが ...


もし、
 「この『感情』『気持ち』は、もう、十分に味わった。体験した。」
 「だから、もう、この『感覚』からは卒業する。」
と思われたなら、
そのときには、どうぞ、浄化をなさってください。

未来のこと、将来のことを『知りたい』のは、
あるいは、
『頭』では、未来のことを知ることが『つまらない』ことになるのは分かっていても、
『気持ち』としては、どうしてもその「知りたい」という『衝動』を押さえられないのは、

基本的には、
そこに、『安心』したい、という想いがあるからです。
「分からないと怖い」という『恐れ』の想いがあるからです。
『恐れ』の『エネルギーブロック』があるからです。

その、『恐れ』の『エネルギー』をしっかりと見つめ、
そして、そのエネルギーに、
 「あなたが居るのは、実は、私にとって、『本望』なのだ」
と、伝えてあげてください。

もし、しっかりと伝えられたそのときには、
その『恐れ』のエネルギーに対する『恐れ』は、
あなたの中から、消えてしまっていることでしょう。

そして、そうなれたときには、
ただ、その子に、そのエネルギーに、
ただ、素直に、
感謝の気持ちと、お別れの言葉を、告げることができるでしょう。





2014年6月19日木曜日

『エネルギーブロック』の生存本能


週末は、平日には走れない人たちが、多数、走るみたいで、
この前の土曜日のジョギング中には、普段とは違う顔ぶれの方々と、多く、すれ違いました。

そんな中の一人に、とても身体の大きな、太めな男性がいました。

その方は、視界に入った時から、ずいぶんなスピードで走っていて、
僕とすれ違うまでの、けっこうな時間、その速さを保っていました。

 「あの身体では、いくらなんでも、もう、スピードを落としただろう」
という、自我の声、思考の声を聞きつつ、
何度か振り返り、その後の彼の走りぶりを追っていました。

案の定、やがて、
その方の速度は落ちて、ゆっくりとしたジョギングになりました。

 「やっぱりね」

そう、ささやく自我の声を聞きつつ、
ハートには、安堵の感覚を感じていました。

そのとき、はじめて、気がつきました。

自分が、目の前で起きていることを、
これまでの『常識』『知識』『記憶』と照らし合わせて、
そして、それらに当てはまっているかどうかを、常にチェックしている、
ということに。

そして、その照合の結果、
これまでの『常識』『知識』どおりであれば、『安心』している、
ということに。

気づいてみて、ちょっと、ショックでした。


僕は、
これまで人類に引き継がれてきた、
さまざまな『常識』や『因習』、『価値観』などを一新して、
愛に基づいた、全体性を有した、
新たな地球文明が興(おこ)ることを望んでいます。

そして、微力ながら、その一翼を担えるようにと、
つまり、他人任せではなく、自ら参画して、行動して、
その流れを創り、後押しできるように、と、意識しています。

自分自身が、日頃から、そのような行動をこころがける、
ということだけでなく、

自分自身のブロックの浄化が、
そして、クライアントさまのブロックの浄化をお手伝いすることが、
直接に、間接に、
その流れを生み出し、加速させることになる、ということも、意識しながら、
日々、自らの浄化や、個人セッションに臨んでいます。

自分自身のことを、そのように認識していながら、
しかし、無意識のレベルでは、
これまでの『常識』が保持されることに『安心』しているのです。

いえ、そういう『ミニ自我』を、保持しているのです。
そして、保持し続けているのです。

そのことに気がつき、愕然(がくぜん)としました。


さて。

そのように気がついてみると、
つまり、そのように、僕自身の理念や意志に反する『ミニ自我』を、
「自らの意思」で「保持し続けていた」ことに気がついてみると、

実は、逆に、
その『ミニ自我』というものが、
実は、
まるで『生物』であるかのように、
自ら意思を持って、自ら存続しようと、生存し続けようと、しているのではないか。

そんな認識を持ちました。


『ミニ自我』『エネルギーブロック』は、
ちょうど、妻が、今日のブログ記事「 自我(エゴ)との対話 」(←必読!)に
書いているとおり、
『自我』とも、『エゴ』とも、あるいは『インナーチャイルド』とも呼べるものであり、
それは、まさしく『生き物』とも認識できる『エネルギー体』です。

ここのところの個人セッションでは、
まさに、そのように『エネルギーブロック』をとらえ、
そして、話しかけるように、話を聞いてあげるように、意識を向け、
それによって浄化することが、とても効果的なケースが、多々見受けられています。

そのような認識のもとに、『エネルギーブロック』に接してみると、
それは、まさしく『生物』のように、自らの『意思』を持っているかのように、
存在し、そして、存在し続けようとしているように、感じられます。


ところで、
もし、そのような認識を持てたならば、

これも、妻が書いているように、
そのような『エネルギーブロック』を、『ミニ自我』を、
 「恨むべきもの」「毛嫌いすべきもの」
 「一刻も早く、取り去るべきもの」
 「削除すべきもの」「消し去るべきもの」
というような感覚でとらえ、扱うのではなく、

きちんと、その『人格』を認めてあげ、『存在』を受け入れてあげ、
そのうえで、しっかりと意識を向けて、会話をし、話を聞いてあげ、
ときに理解し、ときに共感し、ときに同情してあげる、
ということが、とても有効です。

そしてそのうえで、
 「いままで、見て見ぬ振りをして、存在を認めてあげなくて、ごめんね」
 「いままで、ちゃんと意識を向けてあげなくて、ごめんね」
 「もう大丈夫だよ」
 「もう、光に還ろうね」
 「今まで、ありがとうね」
そんな言葉を、そんな意識を、送ってあげることが、効果的です。

その『エネルギーブロック』は、これまで、
否定されていたからこそ、拒絶されていたからこそ、無いものにされていたからこそ、
嫌われていたからこそ、認めてもらえなかったからこそ、
存在し続けたのです。
存在し続けようとして来たのです。

人間側の、
 「嫌だ」
 「怖い」
 「辛い」
という『恐れ』の想いが、
それらの『エネルギーブロック』を縛り付け、縛り付け続け、
そして、それらに、新たなエネルギーを注ぎ続けて来たのです。
栄養を与え続けて来たのです。
だから、存続し続けて来たのです。

でも、
今はもう、そんなエネルギーとも、和解の時です。
その存在を認め、受け入れ、謝罪し、
そして、感謝する時です。

彼らの存在のおかげで、体験できたことがあるということに、
感謝すべき時です。

そして、その体験も、十分にできたので、もう卒業しますと、
宣言すべき時です。

もう、任務は終了しましたから、どうぞ安心してお帰りくださいと、
伝えるべき時です。

そのとき、その存在は、
キラキラと光り輝きながら、大元へと還って行くことでしょう。





そのままの自分


 「自分が、自分自身でいる以上に、完璧なことなど、あるだろうか」

そんな感覚を、感じることが、あります。
そんなことを、ときおりですが、感じたりします。

今朝も、朝日を身体の正面に受けながら、
そんなことを、全身で感じていました。

ここでいう『自分自身』というのは、
 「今、そこの、そのままの、自分」
といった感じの意味です。

 まだ執着を握っている、まだ『ミニ自我』を抱えている、現状の自分
といった感じで、
かつ、
 今ある特徴、今までの経験、そんなものを持っている自分
そんな感じです。

 「自分が、そんな、今の、そのままの自分でいる以上に、完璧なことなど、あるだろうか」

そんな想いに、ときおり、包まれることがあります。
そんな温かさが、内側にしみ出ているときがあります。


それは、
たとえば、何もしていないときだったりします。
いえ、「ちゃんと」『何もしていない』からこそ、感じられるのでしょうね ^^ 。

あるいは、
家族と、おバカな話をして、笑い合っているときだったりします。
僕が言ったことで、みんなが笑ってくれているときだったりします。

あるいは、
今からお伝えするようなことが、起きたときだったりします。


少し前のことになりますが、
浄化実践講習会に参加してくださった方から、
会に対しての、ご意見・アドバイスをいただきました。

そのアドバイスの内の一つは、
とても的確で、自分でもそうだと感じるものでしたので、
実際に、次回から、採用させていただきます。

そのときには、それ以外にも、
 「もう少し、メリハリ・抑揚をつけると、いい」
 「もう少し、おもしろく伝えると、いい」
そんなアドバイスもちょうだいしました。

また、
同じく浄化実践講習会に関してでしたが、
妻から、二度、指摘を受けました。
その内容は、
 「言い方が、丁寧すぎる」
というものでした。

妻からの指摘を受けたときには、
正直に言えば、
 「いや、それじゃぁ ... 」
と、むくっと起き上がり、自動反応するエゴちゃんも居たのですが ^^ 、
でも、同時に、一つの意見・見解として、ただ、受け入れることもできたので、
ありがたく拝聴いたしました ^^ 。

ただ、変えはしませんでした。

でも、それでも、
 「そうか、そうなのかぁ」
 「真面目すぎるかなぁ」
 「丁寧すぎて、だめかなぁ」
そんな想いは、湧きました。


そんなことがあった後、
つい先日、
ある方が、個人セッションを受けてくださいました。

その方から、
 「ブログを読んでます。参考になるので、ありがたいです。」
と、おっしゃっていただきました。
そして、その方が、その後で、
 「○○さんのブログは、ちょっとオチャラケているので、読めないんです。」
と、ある方のブログについて、おっしゃっていました。

それをお聞きしたとき、
本当に
 「僕だから、受け入れてくれる人、合う人が、いるんだ」
 「自分は、自分のままでいいんだ」
 「この『自分』だからこそ、いいんだ」
ということを、しっかりと確認できました。

 「自分は、自分のままでいい」
 「いや、自分が、自分のままでいるからこそ、宇宙は完璧なのだ」
そんな想いを、強くしました。
そんなことを、強く体感しました。


私たちは、みな、ひとりひとり、ジグソーパズルのピースです。

みな、それぞれが、
それぞれの形で、
それぞれの模様で、
それぞれの向きで、
それぞれの場所に居て、

それで、
それでこそ、
全体が成立しています。
宇宙が成立しています。
宇宙が『完璧』なものとなっています。


そのままの、ピース、すべてに、幸あれ。






2014年6月18日水曜日

バランス

お釈迦様は、『中庸』とおっしゃいました。

津留さんは、『ニュートラル』と言いました。

このお二方に続いて申し上げるのは、
はなはだ僭越(せんえつ)なのは承知の上で、
僕は、
 『バランス』
と言いたいと思います。


 『バランス』
 
イメージとしては、
 「やじろべえ」
でしょうか。

普段は、バランスが取れていて、
中央に、中心点上に、あります。

その、
偏(かたよ)りなく、
中央に存在している状態、
それが、『バランス』の、基本的なイメージです。

加えて、
その時々の好みに応じて、
右に振れてみたり、
左に振れてみたり、
自在です。

バランスが取れているからこそ、
どちらかに偏ってしまっていないからこそ、
どちらかに傾いてしまっていないからこそ、

スイッ スイッ と、
楽に、軽やかに、
右に、左に、
思うがままに、
振れることができて、

そして、
それに飽きたら、
それらを充分に体験したら、
やがてまた、
スッ と、中心に戻ってくる。

そんな『バランス』の状態が、
 「還り着く場所」
 「いま、向かっている所」
 「私たちの目指している状態」。

そんなイメージです。

津留さんの言う『ニュートラル』と、
基本的には、ほぼ、同じだと思います。


ところで、
 『バランス』
という言葉の意味・イメージは、

ただ単に
 「真ん中」「中央」
だけではなく、

 右と左の両方に、それぞれ、存在するものがあって、
 そして、それらが「均衡」している
という意味・イメージもありますね。

英語の balance には、
「差」という意味がありますが、
それは、まさに、そんな、
「両方に存在している」ことを前提としての意味です。

 「真ん中に、中央に、
  一つ、
  存在がある」
 「右にあったものが、真ん中に移る
  左にあったものが、中央に移動する」

ということだけでなく、

 「右にも、左にも、
  それぞれ、存在があって、
  そして、その上で、
  両者が『均衡』している、『等しい』」

それも、『バランス』です。


 「両極を体験して、『ニュートラル』になる」
 「どちらかに偏らせるブロックを浄化して、『ニュートラル』になる」
 
という、津留さんの言う『ニュートラル』は、
先ほども言いましたが、
前者が、とても似通ったイメージで、

後者の場合は、
少し、違う意味、違う概念になると思います。

ですが、
その違う意味を、わざわざ、ここで出してきたのは、
そのような意味での『バランス』が、
とても重要な概念だと思うからです。


私たちは、これまでの『習い性』で、
すぐに、
 「正解は、一つ」
 「『正しい』のは、一つ」
 「ベストは、どちらか、一方」
と、発想してしまいがちです。

しかし、津留さんが言っているとおり、
「正解は、一つ」とは限りません。
「『正しい』のは、一つ」とは限りません。
「ベストは、どちらか、一方」とは限りません。

これまでは、社会に、
そのような発想をするように『訓練』されてきましたので、
そんな習慣がついてしまっていること自体は、しかたありません。

これまでは、常に、
「正解が一つ」の教育を受け、テストを受け、
その結果によって、評価されてきたのですから。

でも、
それは、一つの『考え方』であり、
ただ、これまでの『常識』であったにすぎません。
気がつけば、手放すことの出来るものです。

そして、
これまでの『分離』の社会から反転し、
これからの『統合』の世の中に向かっていく今の状況では、
こちらの考え方をしっかりと理解し、納得し、
身につけていくこと、体得していくことも、とても大切です。


たとえば、
津留さんは、人間をしている上での、とりあえずの目標は、
『集合人』だ、と言っていますが、

それは、
 「『小我』と『大我』の完全な二人三脚」ができている人
 「『小我』としての自分と、『大我』としての自分を、
  同時に矛盾なく認識し、その認識に従って生きている人」
という意味です。

それは、
もちろん、「『小我』だけ」ではないけれど、
だからといって、「『大我』だけ」なわけでもなく、

すなわち、
「どちらか一方」ではなく、
「どちらも」であり、
なおかつ、
両方を偏りなく使えている状態、
両者を『バランス』よく使える状態なのです。


また、
津留さんのメッセージを読み進めていくと、
そして、浄化をはじめていくと、

いえ、それに限らず、
世に言う「スピリチュアル」のことを学ぶと、
「精神世界」のことを理解すると、

とてもありがちな、
なってしまいがちなこと、握ってしまいがちなことの一つに、

 「『考えること』『思考』はダメで、『感じ』なさい」
とか、
 「『左脳』は使わずに、『右脳』だけで」
という状態があります。
という考え方があります。

ですが、これは、
一言で言えば、とても「極端」な認識の仕方です。


『思考』だって、とっても大切な機能です。
きちんと使いさえすれば、
『思考』も、『左脳』も、
とても便利な、有効な、貴重な手段です。

たしかに、これまでのように、
『エゴ』と一体化している状態で、
『ミニ自我』が騒いでいる状態で、
『思考』を使うと、
その機能は、十分に発揮されず、
むしろ、マイナスの効果を発揮してしまいがちなことは、事実です。

これまで、私たちは、
『思考』を、そんなふうに使ってきました。

ただ、それは、
使い方、あるいは、使う状況を誤っていたからであって、
『思考』という機能の能力そのものに問題・欠陥があるからではありません。

『思考』も大切な、有用な機能であり、
だからこそ、人間に備わっているのです。


また、
たしかに、津留さんが、
 「『考える』人から『感じる』人へ」
と言ったのは、
そして、
 「考えることを止めて、感じましょう」
 「左脳を止めて、右脳を使いましょう」
と言ったのは、事実です。

ただ、それは、
たとえば、これまで、
『考える』こと一辺倒(いっぺんとう)だった人に対しての言葉、
『左脳』一辺倒だった人に対しての言葉、
と捉えるべきものだと理解しています。

これまでの『分離』の世界、
これまでの『神ならざる者・人間』を極めていく過程においては、
『思考』によって何かを成し遂げること、作り上げることに、重きが置かれていました。

ほとんどの社会活動・産業活動が、『思考』によって行われていて、
人間も、その機能・能力の高い者が、より重用され、より高い地位を獲得してきました。

(芸術活動などは、極めて特殊な例外と言えると思います。
 そして、だからこそ、それらは、
 「そんなことして、世の中にどれだけ役に立つのだ?」とか、
 「そんなことして、食っていけるのか?」と、強く非難されてきたわけです。)

そんな環境では、
人が、『思考』一辺倒、『左脳』一辺倒になるのも、いたしかたありません。
これまでそうであったことを、否定する必要も、とがめる必要もありません。

ただ、これからは、もう必要ありません。
それらは、もう十分に、体験し尽くしました。

これからは、
『感じること』『右脳』を回復していく時期です。

そして、そのとき、
『思考』一辺倒だった人たちに対して、
 「考えることを止めて ... 」
 「左脳を止めて ... 」
という言葉が、必要なのです。

そういう人は、
 そのくらい言われて、初めて、思考が止まり、感じるということが働きだすから
であり、
 そのくらい言われて、ようやく、左脳がおさまり、右脳が活動しはじめるから
です。

実際のところは、
この程度の言葉だけでは、
『思考』一辺倒、『左脳』一辺倒だった人の思考は止まらないし、左脳はおさまらず、
『感じること』『右脳』を使うことは、始まらないケースがほとんどだと思いますが ...
(僕が、まさしくそうだったので、よ〜く分かります ^^; )。

そして、
『感じる』ことをはじめられた後には、
『右脳』を使いはじめられた後には、
『感じる』と『考える』が、
『左脳』と『右脳」が、
両方が、きちんと機能していることが理想です。
両方を、『バランス』よく使うことが重要になってきます。

繰り返しますが、
「どちらか一方」ではありません。
「どちらも」です。
そして、『バランス』よく、です。

これまで、
交流会でも、個人セッションでも、
『思考』や『左脳』を、「止めるべきもの」「否定すべきもの」
とお考えのご意見・ご理解をよくお聞きしてきたので、
ここで、あえて、長々と ^^ 、触れさせていただきました。


『バランス』

ぜひ、心に留めておいていただければと思います。





2014年6月11日水曜日

一人芝居

津留さん交流会と浄化実践講習会に参加してくださったことのある、ある方が、
次のような体験談を、教えてくださいました。

ご本人の許可を得て、以下、ご紹介させていただきます。


 「先月、3年間苦しんできた人間関係が、
  誤解だったとわかりました。
  とても心の重りが軽くなりました。ホッとしてます。」

 「要は、この3年間『存在しないこと』に焦点をあて、それを肥大化させ、
  現実であるかの如く苦しんでいたわけです」


以下は、僕の推測ですが、
おそらく、こういうことなのではないかと思います。

 苦しんでいる「人間関係」について、
 『浄化』をしたら、

 その『関係』が、その『対象者』が、
 それほど苦ではなくなって、嫌ではなくなって、

 そして、
 その人と、話しをする機会が『起きて来て』、

 話しをしてみたら、
 「嫌」な感じが少なくなったので、
 いろいろとフランクに話しが出来て、会話が進んで、

 で、
 そんな展開の中で、『真実』が明らかになって、
 分かってみたら、
 問題の原因は、自分の勝手な『思い込み』だった。

あらかた、このようなことを体験されたのではないかと思います。


過去記事「問題とは」で、
 問題とは、自分が、「これが問題だ!」と決めたことが、問題だ
と書きましたが、

場合によっては、
 「問題だ」という『認識』
だけでなく、
 問題の『素』、問題の『対象』そのもの
すらも、『創り上げてしまう』んですね。

そんな実例を、一つ、教えていただきました。


そして、
人は、それを原因として、苦しみます。

その『苦しみ』は、
本人にとっては『現実』であり、
現に、苦しい、辛い、体験をするわけですが
(3年間も!)、

だからといって、
 『問題』の存在が、『現実』なわけではない
ということを、
これほど顕著に、これほど如実に、
これほど分かりやすく示してくれている例はない、と思い、
ここに、ご紹介させていただきました。


−−−−−−−
Kさまへ

これまで、3年間も苦しんでこられたことに、こころからお見舞い申し上げます。
そして、今回、このように、その苦しみから解放されたこと、おめでとうございます。
しかも、大きな大きな『気づき』を、実体験から、得られたこと。
本当に、おめでとうございます。
これまでの苦しみも、無駄ではありませんでしたね。
むしろ、大きな、貴重な、『お土産』をくれましたね ^^

ご自身の体験談が、同じように
 「苦しんでらっしゃる誰かの心を照らせるかと思うと嬉しい限りです」
とおっしゃって、ご紹介することを快諾してくださったこと、ありがとうございます。
こころより、感謝申し上げます。
−−−−−−−


本当に、
人は、
 「自分で勝手に苦しんでいる」
んですね。

『幻影』に、『幻想』に、
人は、勝手に、苦しんでいるわけです。

 『一人芝居』
 
津留さんが、そう呼んだ、
その所以(ゆえん)を、
その典型例を、
見せていただいた気がします。


 「この『問題』は、『現実』のものだろうか?」
 「自分で、勝手に、苦しんでるだけではないだろうか?」
 「そもそも、この『問題』は、現に、存在しているのだろうか?」

今、何か問題に苦しんでいらっしゃる方は、
そんなことを、
頭で、左脳で、思考で、
一度、じっくりと、考えてみるのも、
いいかもしれませんね。

 「どうやったら、解決できるだろうか?」
 「どうしたら、うまく行くだろうか?」
と、考えるのではなく、

 「そもそも、これは『問題』なのだろうか?」
 「そもそも、これは『存在』しているのだろうか?」
ということに、頭を使われてみると、
いいかもしれません。




2014年6月10日火曜日

より純粋な感情へ


 「浄化をしていると、感情を感じなくなっちゃうんですか?」
 「なんか、無味乾燥な人間になっちゃうんじゃないですか?」

これまでに、何度かいただいた、ご質問です。

先週、
立て続けに、2度、この質問をお聞きしました。

そして、
それに対して、妻がご返答しているのを、横で聞いていて、
 「なるほど」
と思うことがあり、
自分なりの考えも、まとまりました。

そこで、ぜひ、お伝えできればと思い、
ここに書かせていただきます。

なので、
今日の内容は、
「ひでの想ったこと」半分、
「pure vision の想ったこと」半分です ^^

それから、
僕は、まだまだ「浄化途中」で、まだまだ「ブロックだらけ」なので、
今日の内容は、
一部、実体験の確認の取れていない情報をお伝えしています。
ご了承ください ^^ 。


まず、
 浄化をしていけば、感情を感じなくなる
ということですが、
そのことは、そのとおりです。

たとえば、
ある人に関する「怒り」の感情を(そのエネルギーブロックを)浄化すれば、
その人に対して、「怒り」の気持ちを感じなくなります。
そして、それに関連している「怒り」なども、感じなくなります。

僕も、長年にわたって憤(いきどお)りの対象だった人物について浄化したら、
もう、その人に会っても、その人のことを思い出しても、
「怒り」が沸いてこなくなりました。

このように、
浄化によって、感情を感じなくなることは、確かです。


では、
 感情を「一切」感じなくなるのか?
というと、
それは、そうではありません。

やはり、感情そのものは、残ります。

これは、津留さんが紹介していた例なのですが
(すみません、どこで言っていたか、思い出せません ... ^^; )、

ある覚者が、自分の母の死去を聞き、涙を流されたそうです。
それを見たお弟子さんが、
 「泣いていらっしゃるのですか?」
と聞いたところ、
その覚者は、
 「私だって、母が死ねば、悲しい」
とおっしゃって、ひとしきり、泣かれたそうです。

そのように、
たとえ覚者といえど、感情は感じるのですね。


このように、浄化を進めても、
 感情が「完全に」なくなる、というわけではない
ようなのですが、

だだ。
感情を感じるにしても、
浄化を進めた場合と、そうでない場合とでは、
大きな違いがあります。


まず、一つ。
先の覚者の例ですが、話に続きがあります。

母の死を聞き、涙を流された覚者ですが、
ひとしき泣かれた後、
サッと、何事もなかったかのように、前の状態に戻られたそうです
(確か、していたことの続きをされた、のだったと思います)。

このように、「尾を引く」ということがありません。

 ただ『感情とともにあり』、
 そして、
 ただ『感情から離れる』
そんな感じなんだと思います。

あるいは、
 『必要な』感情については、それを『感じ』『体感し』、
 それを『感じ終わった』ら、その感情から離れる
そんな感じかもしれません。


それから、
 『感情に飲み込まれてしまう』
 『感情に圧倒されてしまう』
というようなことが、なくなります。

『感情がやって来ている』ということに気づけるようになります。
『感情』が、『感情』という、自分そのものとは別のものだと、気づけます。

そして、
感情を『見ていられる』ようになってきます。
感情から『離れられる』ようになってきます。

そこで、
感情と『一体化』して、それに『飲み込まれてしまう』ということが、
感情に『翻弄(ほんろう)』されてしまうということが、
なくなってきます。

なので、
 「辛(つら)くて辛くて、どうしようもない」
というようなことが、なくなってきます。

このことは、
比較的顕著に、比較的早い段階で、感じられる変化だと思います。


そして、
これもまた、とても顕著に感じられることだと思いますが、

感情を感じているときに、
 「どうしよう」「なんとかしなきゃ」
 「はやく止めたい」
 「うわぁ、やだな」
などと騒ぎ立てる『自我ちゃん』が、いなくなってきます。

そうすると、
感情の発生に伴って、内側のエネルギーを
 『膨らませる』『大げさにする』『過剰にする』『混乱させる』
ということがなくなってきますから、

ただ、
「その」感情「だけ」を、感じられます。

必要以上に、その感情を強く・大きく感じることがなくなります。
他の感情が上乗せされてくることがなくなります。


つまり、
浄化を進めていけば、

 ただ、感情を感じられる
 より純粋に、その感情を感じられる
 
そんなふうになってきます。


また、
浄化を進めた場合、基本的には、
 『重たい感情』
 『強い感情』
 『荒い感情』
から、抜けていきますから、

感じられる感情は、
 より軽いもの
 より細かいもの
 より精妙なもの
に、なってきます。

そして、また、
浄化を進めていくと、
往々(おうおう)にして、

たとえば、これまで、『怒り』を感じていた相手の、
 その相手なりの事情を、理解できるようになってきます。
 その相手に対する『共感』が、できるようになってきます。
 その相手のことを気遣えるようになってきます。

いろいろなことに、気づけるようになってきます。
そういうことを、『感じられる』ようになってきます。

先に出した僕の例で言えば、
『怒り』を感じなくなった後、
僕は、その人に対して、いろいろなことを『同情』できるようなりました。

たとえば、
その人の『わがままさ』と見えていたことが、
その背後にある、その『わがままさ』をもたらしていた『弱さ』のほうが見えてきて、
自然と、同情できるようになりました。

さらには、
逆に、少し『愛おしい』ような感覚すら出てきて、
自然と、その人のことを配慮できるようになりました。

このことは、

 自分を守ることに使っていた、
 自分を保つことに使っていた、
 意識を・エネルギーを、
 もうそのことには使わなくて済むので、
 それを、相手に向けて使ってあげることができるようになるから
 
そんなふうにも、説明ができるかもしれません。


このように、
浄化を進めて行くと、
感情が(感覚が)、
こんな感じに、変わっていくと思います。

ですから、
ご心配な方は、心配などなさらず、
どうぞ、浄化を進められてください。

ご心配な方ほど、
率先して、浄化をなさってください。


そして、最後に。

こういう質問をされる方は、
そういう疑問が湧く方は、
かならず、

 「『無味乾燥』な人は嫌だ」
 「感情が希薄な人には、なりたくない」
 
そんな想いを、持っていますね。
そんな想いがあるから、恐れがあるから、
そんな質問・疑問が湧くわけですね。

ですから、
どうぞ、そんなブロックを、浄化なさってください ^^




価値観を握るきっかけ

今日、
僕がパソコンに向かっている後ろで、
幼稚園児の娘と、小学生の息子が、
一緒に遊んでいました。

そのとき、
娘が、本を読むふりをしながら、
自分で作ったお話を、話していました。

聞こえてくるその話を、聞くとなしに聞いていたら、
娘が、
 「・・・は、死んでしまいました。」
と言いました。

すると、息子が、間髪入れずに、
 「『死んだ』って言っちゃ、いけないんだよ!」
と、言いました。

娘の話の中では、その後も、次々に、
いろいろな人が亡くなったのですが ^^; 、
その度に、
 「・・・は、死にました。」
 「『死んだ』って言っちゃ、いけないんだよ!」
が、繰り返されました。


さすがに、気になったので、息子に尋ねました。

 「ママも、パパも、『死んだって、言っちゃいけない』って言ったことないと思うけど、
  誰から、そう言われたの?」

そうすると、息子は、
 「○○くんが、そう言ってた。 他の子も、『そうだ』って、言った」
と、答えました。


こんなふうに、
人は(子供は)、友人からも、
考え方や価値観を、受け取ることがあるんですね。

気づいてみれば、言われてみれば、
当然のことなのかもしれませんが、
気づいてみて、改めて、少々、ビックリしました。

そして、
友人から受け取ることもあるわけですから、

そのほかの、
先生(教師)や、近所の方などから、
あるいは、
テレビなどから、

あらゆるところから、
あらゆる考え方・価値観を、
受け取るんですね。

そのことに、
改めて、気づかされました。


過去記事「子育てに当たって、『このごろ思うこと』」の中で、
 子供に価値観を与えてしまうことを恐れないでください
と書いたのですが、

こんなふうに、
いくら自分が注意して、
いくら自分が与えないようにしていたところで、

自分ではどうにもできない所で、
自分ではコントロールできない所で、
子供は、
価値観を受け取ってくるんですね。

価値観は、
親からだけ、受け取るものではないんですね。
引き継がれるものではないんですね。

そんなことを、
改めて、認識しました。

そして、
こんなこともあるわけですから、
お子さんのことで、
ご自分を責めることを、どうぞお止めになってくださいね。


それから、
息子は、「言っちゃ、いけないんだよ!」と、
すこし強めに、すこし怒りながら、言っていたのですが、

このように、
考え方・価値観を一度握ると、
その後は、
それに反するものに対して、
簡単に、憤(いきどお)るようになります。
簡単に、それを、許さなくなります。
簡単に、それを、認めなくなります。

そして、
そのことで、自分が、ストレスを感じるようになります。
そして、その後、
自分が、苦しむようになります。
そして、場合によっては、
それゆえに、他人を、責めるようになります。

そんな仕組みに、
改めて、気づかせていただきました。
そんな仕組みを、
改めて、見せていただきました。




2014年6月8日日曜日

『エネルギーウォッチ』

『妖怪ウォッチ』って、ご存知ですか?

いま、小学生の息子が、とてもはまっていて、
文字通り、朝から晩まで、
そのテーマソングを歌ったり、
『妖怪』の話をしているのですが、

『妖怪ウォッチ』という、
「ゲーム」「TVアニメ番組」「雑誌連載漫画」があります。

『妖怪ウォッチ』という、腕時計型(懐中時計型もあり ^^ )の機械を使うと、
肉眼では見られない『妖怪』を見られたり、
『友達』になった『妖怪』を『召喚(しょうかん)』できます。

妖怪が出て来たら、
自分の妖怪を召還して、その妖怪と戦わせます。
勝つと、その妖怪を、自分の友達にすることができるので、
おそらく、そうやって、妖怪を集めることを目的にしているのだと思います
(すみません、よく分かりません ... ^^; )。


ところで、
その『妖怪』というのが、何をしているのかというと、
基本的には、
人間に取り憑いて、その人間を、『操作』するんですね。

なので、たとえば、
人を「怒りんぼ」にする妖怪に取り憑かれると、
その人は、怒りんぼになります。

人を「ネガティブ」にする妖怪に取り憑かれると、
その人は、ネガティブな、後ろ向きな人になります。

こんな風に、
人を「地味」にしたり、「引きこもり」にしたり、「不眠」にしたり、
あるいは、「惚れ」させたり ...
妖怪が、ありとあらゆる状態に、人を、するんですね。

逆にいうと、
人が、何らかの状態になっている時には、
何らかの妖怪に、取り憑かれています。

そんな内容の、アニメ番組を見て、
 「あぁ〜、本質を突いてるなぁ〜」
と、すっかり感心してしまいました ^^ 。


人は、みな、
『エネルギーブロック』という『妖怪』に取り憑かれています。
あるいは、『ミニ自我』という『妖怪』に取り憑かれています。

そして、
例えば、
 「お金が無いと生きていけない」
という『エネルギーブロック』に取り憑かれていると、
頭の中が、お金のことでいっぱいになり、
四六時中、
お金が無くなることを心配したり、
お金が少しでも多く入ってくることを考えたり、
お金が少しでも出て行かないようにと計算したりします。

何か行動を取る時にも、判断を下す時にも、
お金が、『基準』『規準』になります。
自分が得するように、
自分が損しないように、
行動します。決定します。

あるいは、
 「奉仕することが良いことだ」
という『エネルギーブロック』に取り憑かれていると、
いかにしたら、自分はより奉仕できるか、と考えたり、
自分はどれだけ奉仕できてるかをチェックしたり、
あるいは、
他人はどれだけ奉仕しているのかをチェックしたりします。

そして、
奉仕できている自分に満足したり、
奉仕できていない自分を嘆(なげ)いたり、
あるいは、
奉仕していない他人をとがめたりします。


そして、みな、
自分が『取り憑かれている』ことに気づいていません。

『取り憑かれている』から、「そんな自分である」ということに、
『取り憑かれている』から、「そんな行動を取ってしまう」ということに、
気づいていません。
意識できていません。

だから、
『そんな自分』が、「本来の自分」であると、
『そんな行動を取ってしまう』のが、「もともとの自分」であると、
思い込んでしまっているんですね。

そのことに、疑問を持ったり、疑いを持ったりすることなく、
 「それこそが、『自分』」
と、疑いもなく、思い込んでしまっているんですね。


でも、それは、
ただ、『取り憑かれている』だけです。

ただ、『エネルギーブロック』『ミニ自我』を抱え込んでいるだけです。

『エネルギーブロック』『ミニ自我』を手放せば、
「そんな自分」ではなくなりますし、
「そんな行動を取る」ことはなくなります。

ただ、
気づき、

そして、
ただ、
手放しさえすれば、
いいのです。


そして、
「本来の自分」は、「もともとの自分」は、
ただ、あるがままの自分であることに、気づきます。


どうぞ、
 『エネルギーウォッチ』
を手に入れて、
ご自分の中にある『エネルギーブロック』を見つけ出してください。

自分が溜め込んで、まだ、手放せていない『ミニ自我』を、
どうぞ、見つけ出してください。

そして、それらを見つけたら、
ただ、手放してください。
解放してあげてください。

どうぞ、それら『妖怪』を、
『成仏』させてください。
『昇天』させてあげてください。
天に返してあげてください。

きっと、
喜びながら、『光』に返り、
キラキラと輝きながら、
天に還って行くことでしょう。

 「ようやく見つけてくれた」
 「ようやく解放してくれた」
と、喜びながら、
宇宙の中心に、還って行くことでしょう。

そのときには、もう、『友達』には、しなくていいですよ ^^




観『光』

これまた、斉藤一人さんの本に書かれていたことです。

「観光」旅行という言葉があるように、
人は、『光』を観に(見に)、わざわざ遠方まで足を運びます。

一般に、「観光」という場合の「光」は、
「光景」という場合の「光」と同義で、
「景色」を意味しているそうで、
 (参)http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1213038967

「観光旅行」という言葉は、通常、
風光明媚な景色や、神社仏閣などの史跡、お祭りなどの風物などを見に行くことを意味していて、
人に会いにいくことは、「観光」とは言いません。

しかし、一人さんの説明によれば、
人に会いに行く場合でも、その人の『光』を見に行くのだそうです。

商人の心得(こころえ)を説く一人さんは、
 だから、商人たるもの、光り輝かなければいけない。
 光っていれば、お客様は、自然と集まって来る。
 つまり、商売は繁盛する。
 そのためには、具体的には、
 例えば、「和顔愛語(わげんあいご)」で、
 いつも笑顔で、愛のある言葉を話しなさい。
と、おっしゃっていました。

(今、気になって、ネットで調べてみたら、
 「観光」の語源は、『易経』の「国の光を観る、もって王に賓たるに利し」
 という一説が由来で、
 観光の本来の意味は、「国の威光を観察する」ということだそうです。
 (参)http://gogen-allguide.com/ka/kankou.html
 やっぱり、『光』ですね ^^ )


先日、妻の裕子さんといっしょに、
上江洲義秀先生の『光話会』に参加してきました
(子供の送り迎えという時間制約があることを配慮してくださった
 「たんぽぽの会」吉田様みなさま、ありがとうございました)。

『法玉明想』という瞑想のご指導を受け、
上江洲先生のヒーリングを受け、
そして、上江洲先生の『光話』という講話を拝聴して来ました。

そのどれもが、とても素晴らしい内容で、
こころから感銘を受けました。

上江洲先生のお名前や、ご活動内容については、
このブログですでに何度かお名前をお出している知花敏彦先生のお弟子さんということで、
以前から、存じていました。

そして、前回の津留さん交流会で、参加者の一名が、
その直前に、『光話会』に参加されて、ヒーリングを受けられた話をお聞かせくださって、
裕子さんともども、とても興味が湧き、今回の参加となりました。


上江洲先生がおっしゃってることは、僕の理解では、次のとおりです。

 『第三の目』から『白光』を放つイメージする瞑想(『法玉明想』)をしましょう。
 その『白光』によって、『偽我(ぎが)』『エゴ』を焼き消しましょう。
 それによって、意識レベルを上げ、『大我』『真我』に戻りましょう。
 その、『全体意識』を取り戻した自分として、世界平和実現に尽力しましょう。
 『日の本の国』に生まれた私たちが、率先して、邁進(まいしん)しましょう。

『瞑想』と『浄化』という、その「手段」こそ違いますが、
その他は、妻や僕が想っていること、活動の礎(いしずえ)にしていることと、
全く同じです。

なので、こころからの、深い感銘を受けるとともに、
とてもとても、嬉しくなりました。

ご興味おありの方は、ぜひ、ご参加を検討なさってみてください。

特に、「瞑想」に興味がおありの方や、
「瞑想」という手段が自分には向いていると認識されている方には、
とても意義のある、すばらしい体験が待っているものと思います。


ちなみにいうと、
僕は、どうも、瞑想がうまくできません。
それに、瞑想をしたい、という欲求のようなものも、
あまり湧いてきません。

そして、今回、瞑想のご指導を受けていて、
改めて、
 「自分には、津留さんの『浄化』が、とっても向いているんだなぁ」
と、強く感じました。
再認識できました。


僕は、
自分の内側に湧き起こる感情や、エネルギーの変化を、
認識することが、捉えることが、体感することが、
結構、得意です。

内側の感覚を把握することを、
そして、それを表現することを、
割に、得手としています。

何を隠そう、僕は、自他ともに認める、
 完全な『思考型タイプ』『左脳型タイプ』
なので ^^ 、
以前は、
 『感じる』ことは不得意なんだ
と、勝手に思っていたのですが、

あるいは、
裕子さんとの(表面的な)比較で、
そう、判断していたのですが、

きちんと浄化をはじめてみると、
内側をしっかり感じてみると、
自分は、それが、むしろ得意で、長けていることに、
気づきました。
思い出しました。

『浄化』は、
 「(特に、「感情」に伴う)内側のエネルギーを捉え、解放する」
プロセスですので、
基本的には、その、『内側のエネルギー』を感じることが必要です。

あるいは、
そのエネルギーをしっかりと捉え・感じられると、
よりスムーズな、しっかりとした、浄化が行えます。

なので、内側のエネルギーを感じることが苦手ではない僕には、
とても向いている方法です。
そして、それを言葉によって表現することが、結構、得意な僕は、
今の役割が、とても向いているのだと、最近、感じています。

そして、逆に、
 「内側のエネルギーを『感じる』っていうのが、どうも ... 」
とおっしゃる方は、
「瞑想」という手段が、
とても有効である、効果的である可能性があります。

そういう方には、
『浄化』よりも、「瞑想」のほうが、
効果的である可能性があります。

ですので、
もし、ピンと来た方は、
あるいは、何か『感じる』ものがあった方は ^^ 、
ぜひ、参加をご検討されてみてください。


さて。

上江洲先生にお会いして、お目にかかって、
一番に感じたこと。
それは、
その『愛』の深さと大きさです。

優しく、柔らかく、温かく、広く、深く深く、そして、少し子供のように『可愛く ^^ 』。
まさに、その『愛』に、その『光』に、惹きつけられました。

「激しく、強烈に、強力に、引き付けられる(惹きつけられる)」
というよりは、
「柔らかく、優しく、温かく、包み込まれるように、引き寄せられる」
という表現のほうが、ふさわしく感じました。

かけてくださる言葉の優しさ、声色の柔らかさ、温かさ、
笑顔の柔和(にゅうわ)さ、丸さ。
誰に対しても、変えることなく、本当に自然に、そうされているご様子。
もちろん、偉ぶるご様子は、まったくありません。
休憩を取られることなく、何人も、何時間も続くヒーリング。
その最中には、時に、楽とは言えない体勢を取られ続けておられました。
その後、また休みもなく、講話に入られ、
そして、そのまま、瞑想のご誘導 ...
それが、ほぼ毎日、途切れることなく続き、
場所も、日本各地、ときには諸外国でも。

抽象的な表現を使わなくても、
その日頃のご行為で、有り様(ありよう)で、
その『愛』が分かると思います。

いずれにせよ、上江洲先生の『愛』に、『輝き』に、『光』に、
惹き寄せられ、包み込まれ、
芯からの安らぎを感じました。

そして、
 「またお会いしたい」
と、思いました。


斉藤一人さんのおっしゃるとおり、
人は、人の『光』を見ているんですね。

上江洲先生にお会いして、
そう、確信しました。

そして、その『光』は、
過去記事「ハートの光源」にも書きましたとおり、
その人の内側から、放たれているのですね。

そんなことを、改めて、感じました。