「この世界は、パラドックスです」
津留さんが、よく言っていたことですね。
「パラドックス」
その意味を、そのままストレートに説明するのは、難しいですが、
ここでは、
「一見したことと逆の結果になる」
とか、
「常識的には矛盾した結果になる」
とか、
そんなふうにとらえていただければいいと思います。
たとえば、
「彼氏が欲しい、欲しい!」
と想っていると、なかなか彼ができなくて、
「まあ、いなくてもいいか」
と想えると、突然、彼氏ができる、とか。
あるいは、
「お金が無いと、困る」
と想っていると、お金が無くて困り続けて、
「お金なんて無くても、大丈夫だよ」
って想えると、急に、思いがけない大金が転がり込んできたり、とか。
あるいは、
「こうしてくれ。こうして欲しい」
と言っていると、どうしてもそうしてくれなくて、
「そのままのあなたでいいよ」
と想えると、ある時気がついてみると、そうしてくれていた、とか。
あるいは、
このブログの最初に書いた、あいだみつをさんの言葉、
「奪い合うと、足らないけれど、分け合うと、余る」
なんていうのも、そうですよね。
あるいは、
これも、このブログのはじめに書いた、
「すべての敵を打ち負かして、最強になろう」
と想っていると、どんどん際限なく強い『敵』がやって来て、無敵になれず、
「いや、みんな仲間だ。『敵』なんていない」
と想えると、その瞬間から、『無敵』になってしまう、とか。
そんなところが、
今、僕がパッと思いつく例です。
おおよその『パラドックス』の意味は、
つかんでいただけたことと思います。
そのように、「この世がパラドックス」な構造なのは、
たとえば、以前の記事「創造のパラドックス」に書かせていただいたこととか、
あるいは、「与えたものが、受け取るもの」という法則によって、
基本的には、説明することができるのではないか、と、思っています。
ただ、
今日は、とりあえず、その説明については、置いておいて、
ここでは、
そんな『パラドックス』の中で
「最大のもの」
と僕が思うもの、
あるいは、
「究極のもの」
と僕が認識しているもの、
あるいは、
「最も根源的な『パラドックス』」
とも言うべきものについて、
お伝えしたいと思います。
それは、
「私たちは、元々、神であった」
ということです。
そして、
「私たちは、神に『還っていく』のである」
「私たちは、神に『戻る』存在である」
ということ、です。
「私たちは、元々、神であった。」
津留さんのメッセージの、最前提にある、考え方ですね。
私たちは、元々、『全知全能』の神であった。
私たちは、『すべて』であり、『全体』であった。
その『神』が、
『神』であることに『飽き』てしまって、
『神』では『体験』できないことを『体験』したくて、
この物質界・この宇宙を創り、
そして、『全体』から分離して、『人間』となった(なっている) ...
そんな、考え方です。
ある人は、何の抵抗も無く、受け入れたかもしれません。
ある人は、ただ、信じたかもしれません。
また、ある人は、そうであったことを『思い出した』かもしれません。
そんな、考え方です。
津留さんの説明によれば、
『全体』であった私たちは、
『分離』され、『切り離された』その瞬間から、
『欠落感』『欠乏感』を抱きました。
『不完全さ』を感じました。
『全体』であり、『全知全能』であったのに、
突然、『分離』し、『欠片(かけら)』となり、『できなく』なり、『分からなく』なり、
それゆえに、
『魂』的に、そのもっとも深いところで、
『欠落感』『欠乏感』『不完全さ』を抱くようになりました。
あるいは、
妻がよくお伝えしているのですが(出典は、雲黒斎さんの本のようです)、
私たちは、みな、
母親の胎内にいるときには、
『包み込まれ』て『安全』で、『満たされて』いて、
しかも、母親には、テレパシーのように、「思ったことがそのまま伝わる」状態が、
産まれ出る瞬間から、
突然、『暗く』『狭く』『苦しい』産道を通らされ、
産み落とされると、目もくらむ眩しさに照らされ、
しかも、不安定で頼りない外の世界に投げ出され、
さらに、母親とも、まったく意思の疎通ができなくなっている ...
そんな体験から、
『人間』的・『肉体』的にも、その原初の体験として、
『欠乏感』『不安感』を抱くようになるそうです。
そんな『欠落感』『欠乏感』『不安感』から、
私たちは、みな、当然のように、
「完全になりたい」
「できるようになりたい」
「分かるようになりたい。知りたい」
「神のようになりたい」
と、強く、感じます。
強く、想います。
そして、
そのように、「できるようになりたい」と想ったとき、
その『欠乏感』ゆえに、
「できるようになるためには、あの能力を『手に入れ』なければ」
「分かるようになるためには、あの能力を『得』なければ」
と、
『得よう』『得よう』
とします。
「自分は『足りない』存在だから」
と、
「『得よう』『手に入れよう』」
とします。
ところが、
それこそが、実は、
「『最大の』『究極の』『最も根源的な』パラドックス」
なのですね。
私たちは、そもそも、『神』です。
私たちは、元々、『神』なのです。
そして、
『神』が、『神ならざる者』を体験するために、
『神ならざる』状態になっているだけなのです。
私たちは、今、この状態においても、『神』そのものなのです。
ただ、
『神』が、『神ならざる者』を体験するために、
自らが『神』であることを『忘れている』だけなのです。
自らが『全知全能』であることを『忘れている』だけなのです。
私たちは、
「自分は『不完全』である」
「自分には『分からない』『知らない』」
「自分には『できない』」
という考え方を受け入れ、
自らが『全知全能』であることを『忘れ』ました。
そして、身につけたそんな考え方を裏付けるような体験を重ね、
それゆえに、そんな考え方をより強固なものとし、握りしめ、
さらに、それゆえに、そんな体験をさらに重ねていく ...
そんな循環を、何万年、幾世代と重ね、
しっかりと『人間』に成って来ました。
そうやって、
『人間』を極めて来ました。
そんな私たち『人間』からすれば、
「『得る』こと『手に入れる』ことによって、
神に『成る』」
という発想は、至極当然なことでしょう。
ただ、
実際のところは、
私たちは、いろいろなものを
『持っている』から、
『握りしめている』から、
『手放さない』から、
『人間』なのです。
『人間』のままなのです。
「自分は『不完全』である」
という考え方が、自分を不完全にしているのです。
「自分には『分からない』『知らない』」
という思考が、自分を無知にしているのです。
「自分には『できない』」
という想念が、自分を無能にしているのです。
その考え方が、思考が、想念が、
価値観が、記憶が、
私たちを、『人間』に、縛り付けているのです。
それらを手放したとき、
私たちは、自然と、
『神』に『還っていく』のです。
『神』に『戻る』のです。
『神』に『成る』のではなく ...
それらの『想念』は、
あるいは、『エネルギーブロック』は、『ミニ自我』は、
たとえれば、
それは、重い『重り』のようなものです。
そんな『重り』を、自らの意思によって、
身にまとい、身体に縛り付け、手放さないから、
浮かび上がることができないのです。
驚異的な跳躍力を身につけることが、
あるいは、浮遊能力・飛行能力を身につけることが、
浮かび上がるために必要なことなのではないのです。
私たちは、いわば、『気球』なのです。
『重り』をつけたままだから、飛べないだけなのです。
飛ぶためにすべきことは、ただ一つ。
『重り』を捨てること。『重り』を手放すこと。
ただ、それだけなのです。
「『無い』から『神』に『成れない』」
のではなく、
「『有る』から『神』に『還れない』」
のです。
それこそが、
私たちにとっての「最大の誤解」であり、
「最大のパラドックス」なんですね。
私たちは、日々、
「これもない」「あれもない」
「あれができない」「これができない」
と、自分のいわゆる『欠点』に意識を向け、
そして、
「それらを『手に入れよう』」
と、もがいています。
「それらさえ手に入れば、幸せになれるのに」
「これさえできれば、『神』に近づけるのに」
そんなふうに、考えています。
しかし、実際には、
そんな考え方、想念こそが、
その状況を創り出しているのであり、
そんな考え方、想念を、手放すことだけが、
『神』に近づくために必要なことなのです。
それこそが、
『約束された道』を歩み進むために、唯一、必要なことなのです。