2015年1月20日火曜日

『片付け』の魔法2


もう、ずいぶんと前になってしまったのですが、
『片付け』の魔法」という記事を、書かせていただきました。

アップした直後に、読み返したときから、
一つ、とても重要なことを、書き忘れていることに、
気がついては、いたのですが、

なんとなく、筆が進まないまま、
2ヶ月以上も、経ってしまいました。

そんな中、昨日、個人セッションの最中に、
そのことそのものが、話題になり、
また、新たな情報も、そこで、お聞きしたので、

良い機会だと思い、
ここで、稿を改めて、書かせていただきます。


さて、
先の、こんまりさん(近藤麻理恵さん)の方法では、

「片付け」にあたっては、
「整頓」に入る前に、
まず、「捨てる」ということを、完全に、終わらせてしまいます。

そして、
その、「捨てる」という作業においては、
 「『ときめく』かどうか」
という、
 「『気持ち』を基準にして、モノを選別」
していきます。

そのことが、
こんまりさんの方法の、最大の特徴の一つ、だと思います。


ところで、
その方法を実践して行くに際しては、

「捨てる」という段階において、
当然ながら、先の基準に従い、

自分が所有しているモノを、
 「ときめくモノ」
 「ときめかないモノ」
の2種類に、選別していくわけですが、

ここで、
 「ときめくモノ」
というのは、分かりやすいですよね。

 「着ると、ときめく、服」
 「身につけると、ウキウキする、アクセサリー」
 「読むと、こころがワクワクする、本」
 「使うのが大好きな、鍋」

そんな、モノたち、ですよね。

それらは、言い換えれば、
 「自分に、プラスの気持ちを、もたらしてくれるモノ」
というように、言えるかもしれません。

そして、
それらが、自分の身の回りに存在することによって、
自分の気持ちは、ポジティブなものになります。
あるいは、
気持ちのポジティブさが、増えます。


では、
一方で、

 「ときめかないモノ」
って、
何でしょう?

それって、
どんなモノでしょう?

あるいは、
より詳細に言えば、
 「『ときめく』という理由が無いのに、所有していたモノ」
って、
いったい、何でしょう?

どうして、なぜ、
そのようなモノを、保持していたのでしょうか?


それには、
もちろん、様々な理由があるでしょうし、
言葉で表現すれば、
実に様々に、説明することができるでしょう。

ですが、
おそらく、ほとんどのケースでは、
たとえば、
 「捨ててしまうのは、もったいないから」
 「○○○○円もしたモノだから」
 「彼から貰ったものだから」
 「もしかしたら、もう手に入れられないかもしれないから」
 「今後、無いと困るかもしれないから」
そのような理由で、
これまで、捨てられず、そして、所持していたモノ、
ではないでしょうか。

もし、そうであれば、
それらは、
 「無くなってしまうのが、嫌だから。怖いから。恐ろしいから」
という理由で、所持していたモノ、

先の言い方で言えば、
 「無いと、マイナスの気持ちを、もたらしてしまうかもしれないモノ」
と、言えるかもしれません。

つまり、端的に言えば、
基本的には、
 「『恐れ』から、所持していた」
と、
言うことができる、と、思います。


で、
ここからは、昨日、お聞きした情報です
(なので、用語を含め、正確ではない可能性があります)。

これまた、「片付け」の方法である、
『断捨離』の、やましたひでこさん、によると、

片付けられない人、モノを捨てられない人は、
いくつかのタイプに分けられるそうで、

そして、それらのなかに、
 「未来不安型」
や、
 「過去執着型」
といったタイプが、あるそうです。

そして、
そういった人々は、
「未来への不安」や、あるいは、「過去へのとらわれ」といった、
まさに、『恐れ』が、原因で、
モノを捨てられない。

で、
モノが捨てられないので、モノがあふれていて、
そこで、整頓しようにも、整頓できない。

わたしたちは、そのようなプロセスで、
モノを過剰に持ち続け、
そして、片付けができないでいる、んですね。

 「まさに!」
という感じがします ^^ 。


このように、
わたしたちは、『恐れ』ゆえに、
無数のモノを、所持していて、

そんなモノたちが、
雑然と、しかし、厳然と、
存在し、存在感を放ちまくり、

そんなモノたちに囲まれ、それらに圧倒されているがゆえに、
寛(くつろ)げず、安らげず、
イライラとした状態で、生活し、

また、
必要なものが見つからず、不便をし、
さらに苛立(いらだ)ち、

そして、
せっかく持っている『ときめく』モノも、
自分の気持ちを、プラスにしてくれるモノも、

それが、
無数のモノの中に紛(まぎ)れてしまって、
それを、ちゃんと、見いだせなかったり、
あるいは、
その『ときめき』感を、ちゃんと感じられなかったり、
しています。

このように、
「片付けられない」状態によって、
ストレスを感じながら、
生きています。


そして。

それとまったく同じように、
わたしたちの内側には、こころの中には、
 『恐れ』
というものが、
多数、存在しています。

そして、それらが、
狡猾(こうかつ)と潜(ひそ)み、かつ、厳然と存在していて、

それらの存在が、
存在そのものが、存在感が、

ときに、静かながら苛立たしく、
ときに、騒々しく、騒がしく、
ときに、威圧的で、圧迫的で、圧迫感を持っていて、

それゆえに、
まず、そもそも、苛立たしかったり、
あるいは、そもそも、騒がしく、うるさく、
そして、落ち着かず、寛(くつろ)げず、
ゆったりとすることが、できません。

また、それゆえに、
そんな、マイナス(ネガティヴ)な感覚に、
自分の感覚器官・センサーを、支配されていて、
自分の感覚が、麻痺させられていて、

自分が、本当のところは実は、感じている、
『ときめく』感覚や、
穏やかな温かい感覚、安心感、
あるいは、「そのままの自分でいい」というような至福感、

そんな、プラス(ポジティヴ)の体感覚を、
しっかりとは、感じ取ることができずに、
それゆえに、
「そんな感覚は、自分には無い」とすら、思い込んで、
日常生活を送ってしまっているんですね。


ところが、
そのような『恐れ』を、
自ら、捨てて行く・無くして行く・手放して行くと、

自分を、苛立たせる感覚や、
自分の中で騒ぎ立てる『者』や、
自分を威圧してくる感覚、
そういったものが、だんだんと、無くなってきます。

日常が、日常感じる感覚が、
あるいは、自分の内側が、
静かに、落ち着いて、穏やかに、なってきます。

そうなると、
そうして、はじめて、
自分の中に存在している、
プラス(ポジティヴ)な感覚、
安心感・温かさ・自信・至福感を、
ちゃんと、感じられるようになるのです。


そして、
これは、また、
津留さんが言っていた、

 「エゴの声が、大きくて、うるさくて、
  『内なる神』の声が、想いが、
  聞こえない、分からない」
 「それが、聞こえるようになる・分かるようになる」

というのと、
まったく同じ状況なのです。

わたしたちは、誰でも、
『内なる神』の声を、受け取っていないわけでも、
『大我』としての自分の想いを、
あるいは、『本当の自分』の想いを、受け取っていないわけでも、
ないのです。

わたしたちは、それらを、しっかりと、受け取っていて、
それらは、わたしたちの内側に、確実に、存在しているのですが、

ただ、
わたしたちの内側が、
あまりにも、騒々し過ぎて、
あるいは、ものにあふれ過ぎて、散らかり過ぎて、雑然とし過ぎていて、

それらを、ちゃんと、
聞き取れていないだけ、
つかみ取れていないだけ、
なのです。

それらを、
しっかりと、聞き取り・受け取り、理解するためには、

それらを『受け取る』、
という努力をする必要があるわけではなく、

ただ、聞こえなくしている・分からなくしている『原因』である、
『雑音』を取り払い、『邪魔なもの』を捨てれば、いいのです。

これまた、いつもながら、
『パラドックス』なのです。

そして、
そのために必要な、具体的な作業(の一つ)が、

内側の、『雑音』や『邪魔なもの』を、
捨て去り、片付ける、具体的な方法(の一つ)が、
『浄化』なのです。


 「『本当にやりたいこと』が、分からない」
 「『真の自分の想い』に従って、生きたい」

そんなとき、そんな想いがおありのとき、
そんなときには、
あるいは、そんなときにこそ、
なぜ、『浄化』をしていただきたいか ...

ご理解いただけるものと、思います。