2017年5月26日金曜日

慣れる・飽きる



 以前、個人セッションに来てくださった方から、
 お聞きした話です。
 
 
 その方が、
 お仕事の後、美容院に行かれて、
 遅い時間に、電車に乗っていた時のことです。
 
 仕事で疲れていたし、夜も遅くなってしまい、
 電車の中では、
 うとうとと、眠ってしまっていたのだそうです。
 
 そして、ある瞬間、
 「違和感」に、
 ふと、目を覚まします。
 
 周りに、人の気配が、無くなっていました。
 
 東京の、夜の電車。
 「ぎゅうぎゅうの満員」では、なかったとしても、
 基本的には、混んでいます。
 
 その日、電車に乗った時も、
 車内は、かなり混雑していました。
 
 ところが、気がつくと、
 自分の周りには、人が居ません。
 
 不思議に思いながら、
 周りを見回すと、
 
 自分の車両には、
 乗客は、自分を含めて、3人ほど。
 
 ところが、
 両隣の車両は、混み合っていて、
 きっちりと、人々が、乗っています。
 
 その段階で、初めて、
 「自分の乗った車両」に、異常があると、認識し、
 
 そこで、
 自分の車両の異常を、探し始めます。
 
 そして、
 探すことによって、初めて、
 自分の車両の異常の原因に、気づきます。
 
 車内には、
 大きな、「大便」が、あったのでした!
 
 
 実は、その方は、
 「訪問介護のヘルパーさん」をされている方で、
 
 普段から、介護の場面で、
 他人の「大便」を扱うことに、慣れていらっしゃいます。
 
 なので、その時も、
  「そういえば、臭うな」
 といった感じで、
 
 「車内の、『大便の臭い』」よりも、
 「車内の、『人が居ない気配』」に、
 先に、違和感を感じ、
 
 「大便の存在」「大便の臭い」に関しては、
 探して初めて、気づいたのでした。
 
 その方曰く、
  「普段の仕事中なんかは、
   便を、顔に引っ掛けられてしまうことがあって、
   
   そんなときには、事務所に戻ってから、同僚と、
   『飛びウ○コ、引っ掛けられちゃった』
   『私もよ』って、
   笑いながら、話し合うのよ」
 なのだ、そうです。
 
 
 その日、その車内に、「便」があったのは、
 その方の、推測では、
 おそらく、酔っぱらいが、我慢できず、してしまったのだろう、
 との、ことでしたが、
 
 事の真相は、ともあれ、
 「大便のある車内で、平然と寝ていた」という、
 その逸話に、
 
 僕は、とても感心してしまいました。
 
 さらには、
  「他の車両は、人が一杯なのに、
   自分の居る車両は、がら空きで、
   ラッキー! って思って、
   結局、降りるまで、そのまま、そこで寝てました ^^ 」
 という、
 その後の対応に、
 
 僕は、純粋に、驚嘆してしまいました。
 
 
 いま、ご紹介したお話を、お読みになって、
 みなさんは、どのようなご感想を持たれましたか?
 
 僕は、
  「人(人間)は、
   大便にすら、
   『慣れる』ことができるんだなぁ」
 と、
 すごく、驚嘆・感激しました。
 
 僕の認識からすると、
 「(他人の)大便」は、
 生理的に嫌なものの、代表です。
 
 僕の感覚では、
 「大便の臭い」は、
 生理的・本能的に、耐えられないものの、代表です。
 
 家の中で、家族が付けた、
 便器の汚れを掃除するのも、嫌なのに
 (ただ、これは、「嫌」だけど、できます)、
 
 こどもの便の臭いで立ちこめている、
 家のトイレに入るのも、嫌なのに
 (こちらは、臭いが収まるまで、待ちます ^^; )、
 
 全くの他人の、便の臭いが立ちこめている『密室』^^ で、
 寝ていられること、
 仕事上とはいえ、他人の便を、しかも顔に付けられても、
 それを、笑い話にできること、
 
 そのことに、
 純粋に、感激しました。
 
 そう成れている方を、
 純粋に、尊敬しました。
 
 そして、
 人の能力・性質を、
 また一つ、具体的に、知ることができたことが、
 深い喜びとなりました。
 
 
  「美女は三日で飽きるが、ブスは三日で慣れる」
 
 という、慣用句、
 ご存知の方、お聞きになったことがある方も、
 多いことと思います。
 
 念のため、確認しておくと、
 これは、女性を卑下しているものでは、ありません。
 
 ネットで検索してみると、
  「ハンサムは三日で飽きる ... 」
 という文言も、出てきていて、
 
 これは、
 「『女性』だから」とか、
 「『男性』だから」とか、
 そういうことでは、ありません。
 
 そこに、
 この慣用句のポイントは、ありません。
 
 ここでも、この記事においても、
 そこには、ポイントは、ありません。
 
 ここで、言いたいのは、確認したいのは、
 
  「人は、
   ネガティヴなことにも、『慣れ』ていくものだし、
   ポジティヴなことでも、『飽き』ていくものだ」
 
 ということです。
 
 
 先にご紹介した、
 「電車の中の大便」の逸話は、
 
 「大便」という、
 ある種、「『ネガティヴ』の頂点」であっても、
 
 人は、慣れてしまうことが可能なことを、
 実例として、ご紹介したわけです。
 
 そして、
 それとは反対に、
 「『ポジティヴ』なこと」であっても、
 
 わたしたちは、
 飽きていきますよね。
 
 あれだけ欲しかった、
 おもちゃ・服・バッグ・宝石・車・家だって、
 
 あれだけ望んだ、
 仕事・会社・資格・学校だって、
 
 あれだけ好きだった、
 彼・彼女だって、
 
 手に入れられたときは、
 はじめは、
 嬉しかったけど、
 
 そのうちに、
 飽きてしまいましたよね。
 
 「普通」に、なりましたよね。
 
 『人間』というのは、
 そういう生き物であり、
 そういう、存在、なんですねぇ。

 
 嬉しい気持ちであれ、
 嫌な気持ちであれ、
 
 わたしたちは、
 それを、感じていると、味わっていると、
 
 だんだんと、
 その感覚を、感じなくなっていきます。
 
 「嬉しい・ポジティヴな感覚」を感じなくなっていくことを、
 わたしたちは、『飽きる』と言い、
 
 「嫌な・ネガティヴな感覚」を感じなくなっていくことを、
 わたしたちは、『慣れる』と言っていますが、
 
 どちらも、
 基本的には、同じことであり、
 同じ仕組みが働いた結果です。
 
 
 わたしたちは、
 感情・感覚を、
 しっかりと、意識を向けて、感じていると、
 
 最初は、瞬間、
 その感覚が、増大したようにも、感じられますが、
 
 そのまま、意識を向け続け、感じ続けていると、
 だんだんと、その感覚は、弱まり、細まり、軽くなり、
 そのうちに、ふっと、消えてなくなっていきます。
 
 これが、
 「感じる・感じ尽くす」ということであり、
 これが、
 浄化の、一番基本的な方法です。
 
 
 何かに『飽きる』とき、『慣れる』とき、
 わたしたちは、
 体験を通じて、
 「無意識」のうちに、
 そして、すこしずつ、時間をかけて、
 この、「感じる・感じ尽くす」という行為を、
 行っています。
 
 その結果、
 その気持ちに『飽き』、
 その感覚に『慣れ』ていきます。
 
 それらを、(あまり)感じなくなっていきます。
 
 『浄化』というのは、
 それを、
 体験を伴っていなくても、
 『意識的』に、『意図的』に、『積極的』に、
 「短い時間」で、
 行っていく行為です。
 
 それによって、
 その「気持ち」を、「感情」を、「感覚」を、
 感じること、体験することを、
 積極的に、終わらせていく行為です。
 
 
 自然に、流れに、『エゴ』に、任せていても、
 体験していれば、
 いずれ、どんな感覚も、
 『慣れ』『飽き』ていきます。
 
 感じなくなっていきます。
 終わっていきます。
 
 それも、一つの道です。
 
 ですが、
 放っておいても、
 無くなっていくもの、終わっていくものですから、
 
 それを、意識的に、積極的に、
 無くしていっても、終わらせていっても、
 
 もちろん、それは、
 消えていきます。
 
 それも、一つの道です。
 
 それらには、ただ単に、
 「遅いか、早いか」の違いしか、ありません。
 
 ただ、
 
 「いずれ、終わっていくもの」であれば、
 そして、
 それを、「充分に体験した」と思われるのであれば、
 
 自ら、積極的に、終わらせていっても、
 いいのではないでしょうか?
 
 それが、
 僕が、個人的に、
 『浄化』に対して、有しているスタンスです。
 
 
 何かに『慣れた』ご経験がおありなら、
 何かに『飽きた』ご経験がおありなら、
 
 きっと、『浄化』は、お出来になります。
 
 もし、ご自分も、
 「終わらせていこう」と、お思いならば、
 
 「これについては、終わらせてもいいのでは」と、
 お思いになることが、おありなら、
 
 ぜひ、
 『浄化』を、考慮なさってみてください。
 
 きっと、
 思いの外、すんなりと、
 楽になられたことに、驚かれることでしょう。
 
  
 『慣れる』『飽きる』という性質・能力は、
 『人間』にとっての本質なんだと、
 僕は、認識しています。