2014年4月28日月曜日

全体性の回復

浄化を進めていくと、
あるいは、
湧いてくる想念に気がついて、それらの想念との自動的な一体化がおさまってくると、

いくつかの変化を実感するようになると思います。

その感じられる変化の内容は、
まさに、人それぞれだと思いますが、

僕の場合は、
『全体性』と呼ばれるものを、
頭ではなく、
感覚として(体感として)、
感じる機会が増えてきました。

あるいは、感じる量が増えてきました。


個人セッションや、津留さん交流会で、
来てくださった方々のお話をお聞きしていて、

その方の今現在の、あるいはこれまでの、苦しみの体験が、
どのような意味があって、どのような意図のもとに、
その方にやって来ているのか、やって来たのか、
ということについて、
すっ と、認識できるようになって来た感覚があります。

そして、
全体を代表して、そのような体験をしてくださっていることに対して、
全体の一部として、その配役を演じてくださっていることに対して、
自然と、ありがたい気持ちが湧いてくるようになりました。


妻から聞いた話なのですが、
津留さんは、よく、
 「この3次元の人間ドラマは、人差し指と親指が、やりあっているようなもの」
という趣旨のことを言っていたそうです。

自分という『個人』と、
他人という『個人』が、
まったく別の、それぞれ独立の意思のもとに、
様々なことをやりあっているように見えていますが、

少し上の視点というか、
少しつながった観点から見れば、

それは、
ある一人の人の、指と指がぶつかり合っているようなもので、

まさに、「神が、体験したいことを体験するために」、
自ら、自らの指と指を、ぶつけ合っている、
という感じなのだと思います。


道で人とすれ違ったときに、
向こうから来たその人と、肩と肩がぶつかったとします。

大阪なら、
 「なにさらしてケツ噛んどんねん、ワレ!」
と言われそうなシチュエーションですが ^^ 、

そのとき、
ぶつかって来た「肩」に向かって文句を言う人はいないと思います。

でも、僕たちが普段していることって、
そういうことなわけですよね。


全体性の回復が進んでくるにつれて、
自分が「『大いなる全体』の一部」である感覚が戻って来て、

そして、それにつれて、
目の前の、自分をいらつかせる、困らせる、悲しませる存在に対して、

「その人は、その人なりに精一杯やっている・対応している結果として、
 そのような行動・存在になってしまっている」という、
同情心というか、共感性というようなものを、
自然と、感じられるようになって来ました。
感じられる量が増えて来ました。

そして、だからこそ、瞬時の感情との一体化が楽に、自然におさまって来て、
そしてさらに、
「自分にその感情を感じさせるために、そのような振る舞いをしているのだ」と、
「自分の中のブロックを刺激するために、気づかせるために、
 そのような振る舞いをしてくれているのだ」と、
そのような見方で、見られる・とらえられるように、自然と、なって来ました。
あるいは、そう感じられる頻度が高くなって来ました。

それが、僕にとって、ここ最近での一番大きな変化です。