浄化を進めていくと、
あるいは、
湧いてくる想念に気がついて、それらの想念との自動的な一体化がおさまってくると、
いくつかの変化を実感するようになると思います。
その感じられる変化の内容は、
まさに、人それぞれだと思いますが、
僕の場合は、
『全体性』と呼ばれるものを、
頭ではなく、
感覚として(体感として)、
感じる機会が増えてきました。
あるいは、感じる量が増えてきました。
個人セッションや、津留さん交流会で、
来てくださった方々のお話をお聞きしていて、
その方の今現在の、あるいはこれまでの、苦しみの体験が、
どのような意味があって、どのような意図のもとに、
その方にやって来ているのか、やって来たのか、
ということについて、
すっ と、認識できるようになって来た感覚があります。
そして、
全体を代表して、そのような体験をしてくださっていることに対して、
全体の一部として、その配役を演じてくださっていることに対して、
自然と、ありがたい気持ちが湧いてくるようになりました。
妻から聞いた話なのですが、
津留さんは、よく、
「この3次元の人間ドラマは、人差し指と親指が、やりあっているようなもの」
という趣旨のことを言っていたそうです。
自分という『個人』と、
他人という『個人』が、
まったく別の、それぞれ独立の意思のもとに、
様々なことをやりあっているように見えていますが、
少し上の視点というか、
少しつながった観点から見れば、
それは、
ある一人の人の、指と指がぶつかり合っているようなもので、
まさに、「神が、体験したいことを体験するために」、
自ら、自らの指と指を、ぶつけ合っている、
という感じなのだと思います。
道で人とすれ違ったときに、
向こうから来たその人と、肩と肩がぶつかったとします。
大阪なら、
「なにさらしてケツ噛んどんねん、ワレ!」
と言われそうなシチュエーションですが ^^ 、
そのとき、
ぶつかって来た「肩」に向かって文句を言う人はいないと思います。
でも、僕たちが普段していることって、
そういうことなわけですよね。
全体性の回復が進んでくるにつれて、
自分が「『大いなる全体』の一部」である感覚が戻って来て、
そして、それにつれて、
目の前の、自分をいらつかせる、困らせる、悲しませる存在に対して、
「その人は、その人なりに精一杯やっている・対応している結果として、
そのような行動・存在になってしまっている」という、
同情心というか、共感性というようなものを、
自然と、感じられるようになって来ました。
感じられる量が増えて来ました。
そして、だからこそ、瞬時の感情との一体化が楽に、自然におさまって来て、
そしてさらに、
「自分にその感情を感じさせるために、そのような振る舞いをしているのだ」と、
「自分の中のブロックを刺激するために、気づかせるために、
そのような振る舞いをしてくれているのだ」と、
そのような見方で、見られる・とらえられるように、自然と、なって来ました。
あるいは、そう感じられる頻度が高くなって来ました。
それが、僕にとって、ここ最近での一番大きな変化です。